風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2020年10月

10月31日(土) 創世記18章

「主はアブラハムに言われた。『なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻って来る。その頃、サラには必ず男の子が生まれている。』」 創世記18章13,14節

 18章では、アブラハムの妻サラの信仰が問題になっています。順を追って見てみましょう。1節に「主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた」と告げられています。暑い真昼というのですから、アブラハムは天幕で日差しを避けて、休息を取っていたのでしょう。その天幕は、道路から少し離れたところに張られていたと思います。

 主なる神が現われたということですが(1節)、目を上げたアブラハムが見たのは「三人の人」(2節)でした。主なる神が三人の男たちの姿を借りて現れたということでしょう。なぜ三人なのか、正確なところは分かりません。

 この後、16節以下に「ソドムのための執り成し」の物語が続き、そして、アブラハムと別れた主がソドムに向かわれるのですが、19章1節には、「二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき」と記されているので、三人のうち一人が主なる神で、残りの二人は主の御使いと解釈してもよいのかも知れません。

 三人の男たちは、アブラハムに向かって立っていました。アブラハムは、男たちの歩いて来る姿を見てはいないようです。突然、アブラハムの前に彼らが登場して来たのです。そして、彼らがそこに立っていたということは、アブラハムの所に立ち寄ろうとしていることを示しています。アブラハムは、男たちを見て走り出し、彼らの前にひれ伏しました。

 そして、「お客様、よろしければ、どうか僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから」(3~5節)と告げます。

 ここで「お客様」というのは「アドーナイ=ご主人様」という言葉遣いです。それに対して、自分のことを「エベド=僕」と言います。アブラハムは極めて丁重に、そして熱心に、彼らを招待しました。「よろしければ」というのは「あなたの目に恵みを得ますなら」という言葉です。

 「古代中近東の世界では、客を持て成すことはひとつの大きな美徳であり、充分に客を持て成すことができるかどうかは人徳にかかわることだったと思われる」と、註解書に記されていました。アブラハムは当時の習慣に倣い、最大のおもてなしをしようと考えたのでしょう。

 「少々の水」と共に「何か召し上がるものを」と言いますが、これは「ファト・レヘム=ひとかけらのパン」という言葉です。ところが、実際にアブラムが用意させたのは、随分豪華な食事です。

 まず、「上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい」とサラに言います。3セアは1エファにあたり、およそ23リットルという量です。どれだけのパンが作られることでしょう。

 次に、「アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させ」(7節)ます。そうして「凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べ」(8節)ました。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をしたのです。

 そのとき、三人がアブラハムに語りかけ、「あなたの妻のサラはどこにいますか」(9節)と、妻サラの所在を確認します。「天幕の中におります」(同節)とアブラムが答えると、彼らは「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」(10節)と告げました。

 これは、17章16節で既に、神がアブラハムに告げておられたことです。それを聞いたアブラハムは笑ってしまいました(同17節)。アブラハムの妻のサラもそれを耳にして「ひそかに笑った」(12節)と記されています。彼女は、「自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに」(同節)と思ったのです。

 「ひそかに」は「ベ・キルバーハ=彼女の中で」という言葉で、口語訳、新改訳はこれを「心の中で」と訳しています。「年をとり」は「バーラー=すり減る、すり切れる」という言葉、「楽しみ」と訳されている「エドゥナー」は、性的な意味を持っています。夫婦共に年老いて性的な交わりもなくなっているので、妊娠なんてことはありっこないと、心の中で笑ったということです。

 そのとき妻サラは89歳、夫アブラハムは99歳になっていました(17章1,17節参照)。それまでも、不妊と言われていたサラです。どう考えても妊娠・出産は不可能でしょう。現実の厳しさを知る者として、その絶望的な状況から、祝福の言葉を語る彼らを、自嘲気味に愚かと笑うしかなかったわけです。

 それに対して主がアブラハムに告げたのが、冒頭の言葉(13,14節)です。主が「なぜサラは笑ったのか」(13節)と問い、「主に不可能なことがあろうか」(14節)と質します。ということは、ここで祝福を告げておられるのは、主なる神だということです。サラはそのとき、誰が祝福の言葉を語っておられるのか、知らなかったのです。

 「主に不可能なことがあろうか」というのは、サラを初め、私たちに対する信仰のテストです。この問いかけに、どのように答えましょうか。一般論として、「神には不可能なことなどない」と答えることは、やぶさかでないというところでしょう。しかし、大きな問題を抱えているときに、主は必ず解決なさる、主に不可能なことはないと答えるのは、容易いものではありません。

 神の祝福の約束は、この世の知恵や常識で判断すると、ときには愚かなものに見えるかもしれません。あり得ないことと思われるかもしれません。けれども、信ずる者には、救いを得させる確かな力なのです(第一コリント1章18節)。

 サラは不信仰を指摘されて、恐れました。約束の言葉を語られたのが、主なる神であることを悟ったのです。自分の不信仰が示されて、恐れを覚えたのです。それはしかし、主への真の信仰に目覚めることでした。

 主なる神は、サラを裁くつもりで、「なぜサラは笑ったのか」(13節)と問い、そして「主に不可能なことがあろうか」(14節)と質されたわけではありません。このとき、主が語られた言葉は必ず実現するという信仰に、サラを招かれたのです。

 主イエスの母マリアも、天使ガブリエルの受胎告知に対して「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(ルカ福音書1章34節)と答えましたが、「神にできないことは何一つない」(同37節)との言葉に「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(同38節)と応じることができました。

 信じないものにならないで、信じるものになりましょう。

 主よ、あなたの愛と導きを感謝します。現実の厳しさの前に笑うしかないようなときにも、祝福をお与えくださる主を仰ぎ、その御言葉に耳を傾けます。弱い私たちを憐れみ、助けてください。キリストの言葉を受けて、信仰に立つことが出来ますように。信じない者にならないで、信じる者とならせてください。 アーメン


10月30日(金) 創世記17章

「アブラムが99歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。』」 創世記17章1節

 17章には「契約と割礼」という小見出しがつけられています。「契約」は、神とイスラエルの始祖アブラムとの間に結ばれる約束ですが、それは、15章に続いて2度目のことになります。

 冒頭の言葉(1節)に「アブラムが99歳になったとき」と記されています。直前の16章16節に「ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは86歳であった」と記されておりました。章立てが新たになったとはいえ、1行進む間に13年の月日が経過したことになります。

 その間、アブラムと妻サライ、側女ハガルとその子イシュマエルは、それぞれどのような生活をしていたのでしょうか。残念ながら、聖書はそのことについて全く沈黙しています。もしかすると、アブラムは側女ハガルによってイシュマエルを与えられたことに、満足していたのかも知れません。

 その上、牛や羊などの家畜や多くの奴隷を所有していたのですから(12章16節、13章1節以下)、これ以上、何を望むことがあろうかと考えていたのではないでしょうか。そのためか、特に記録しなければならないような出来事が、何も起こらなかったというわけです。

 86歳で女奴隷ハガルとの間にもうけたイシュマエルは、13歳になりました。13歳といえば、ユダヤでは「バル・ミツバ」と呼ばれる、成人式を迎える歳です。律法の命令、戒めを守る責任を負う年齢に達したことを意味します。アブラムにとって、立派な若者になったイシュマエルが自分の跡を継いでくれることで、ますます安泰という状況を迎えていたわけです。

 ところが、主なる神がここに13年の沈黙を破って「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」とアブラムに語られました。「全き者」はヘブライ語で「ターミーム」と言います。これは、「正しい、公平な、健全」という意味の言葉です。ルターは「敬虔」と訳しています。

 つまり、これは道徳的に完璧という意味ではなく、神との関係において、完全に聴き従う者、神に全き献身をした者ということを意味しています。ここで、「全き者となりなさい」と言われたということは、主がアブラムに完全な献身を求められたわけで、そうなることが主の御心だということです。

 どうすれば完全な者となることが出来るのでしょうか。そしてこれは、一人アブラムのことではありません。レビ人及び祭司に対して、「あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない」(申命記18章13節)と命じられています。

 そしてまた、主イエスが山上の説教で、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と語られました(マタイ福音書5章48節)。つまり、私たちに対して、「完全な者となりなさい」と言われているわけです。私たちは、どのようにすれば、完全な者となれるのでしょうか。本当に完全な者になど、実際になれるものなのでしょうか。

 勿論、自力で完全になれる人はいません。だからといって、「神様、無理です、出来ません」と言えば、それですむわけでもありません。主は確かに「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」と言われたのです。

 私たちが全き者となれるのは、私たちの努力などによるのではありません。そのように命じられる全能の神の力です。神が「光あれ」と言われると、闇に光ができました(1章3節)。闇が努力して光輝いたわけではありません。主なる神はここに御自分を「全能の神」(エル・シャダイ)と自己紹介しておられます。「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカ福音書18章27節)のです。

 アブラムはこのとき99歳ですが、思いも新たに百歳に向けて歩み始めるのです。さながら、アブラムの全き者としての人生が、ようやく百歳にして始まると言われているかのようです。あなたは何時、この「全き者であれ」という主の御言葉に耳を傾け、そのようにあろうとして歩み出すでしょうか。

 御前にひれ伏したアブラムに(3節)「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう」(4~6節)と神が語られました。

 主なる神はこれまで、彼の子孫が増えること、約束の地が子孫に与えられることを、何度も約束して来られましたが、今回、新しいことを告げられました。それは、「アブラム」と呼ばれている彼の名前を、「アブラハム」と変えることです。

 言語学的には、「アブラム」と「アブラハム」に、意味上の違いはありません。註解者は、意味を強めるために長い形にしたのだろうと言っています。「アブラム」と、「わが父は高くいます、わが父は尊い」という意味です。「わが父」とは、神のことです。ですから、高くいます、尊いと言われるのは、アブラムではなく、父なる神です。アブラムはその名によって神に栄光を帰しているのです。

 神は、その名の意味を強めるように「アブラハム」の名を与え、そして彼に「あなたは多くの国民の父となる」と言われました(4節、5節)。6節には「あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする」と言われました。高い父、と言われ、尊い父と言われる父なる神が「アブラム」あらため「アブラハム」を、「多くの国民の父」、「諸国民の父」と呼ばれるのです。

 即ち、イシュマエルが一つの国を形成する民族になるでしょう。そして、未だ名の知られていない初子から、決して少なくない数の、否、「多くの国民」が誕生し、子孫の中から王となる者が出るというのです(6節)。アブラムはこの約束の言葉を受けて、アブラハムとして歩み始めます。

 同様に、アブラハムの妻サライも「サラ」と、こちらは縮めた名前にするように、告げられます(15節)。こちらも、その名前の意味に違いはありませんが、言語学的に見て、「サライ」よりも「サラ」の方が新しい形なのだそうです。神は妻サラにも、新たな献身を求められたということでしょう。

 それは、アブラハムとサラに「男の子」を初子として授けるからです。未だ一人の子も産んだことのない「サラ」が祝福を受けて、「諸国民の母」となるというのです(16節)。

 アブラハムは、そのように告げられる神の御前にひれ伏しておりますが、心の中では、「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」といって笑っています(17節)。それは、あり得ないことだからです。

 けれども、あり得ないことが起こります。主が彼らに「イサク」即ち、「笑い」を授けられるのです(19節)。「イサク」とは、「彼は笑う」という意味の名前なのです。神の驚くべき恵みは、「笑う」ほかはないほどのものなのです。

 そうです。笑えなかった者に笑いをお与えくださる、それは、Amazing Grace、奇跡というほかないような、言葉にできない神様からのプレゼントなのです。主なる神が奇跡を行い、アブラハムとサラを全き者として歩ませられる、そして、彼らは多くの国民の父、諸国民の母となるのです。

 それは、「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」と出エジプト記33章19節で告げられているとおり、神が恵みをお与えになる者の初穂となることでした。

 12章2節に「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」と既に告げられていたことを、今ここであらためて、アブラハムとサラという名前の変更と共に、御旨を示されたのです。

 それは、「救い」とも呼ぶべき神の恵みです。アブラハムとサラが主に従う献身の道を歩むことで、神の救いが、アブラハムの血を分けた子孫たるイスラエルの民のみならず、すべての異邦の民にまで及ぶこととなったのです。

 主が共にいてくださるからこそ、主の方が私たちから離れず、私たちを共に歩ませてくださるからこそ、その恵みを見させて頂いているのです。今日も、そしてこれからも、共に信仰の創始者であり、完成に導いてくださる主を仰ぎ、聖霊の風を受けながら、その御言葉に従って一歩踏み出して参りましょう。

 主よ、あなたは確かに全能の神であられます。あなたに出来ないことはありません。あなたが語られたことは必ず実現すると信じます。不信仰な私を助けてください。絶えず主の御言葉に聞き、信仰に堅く立つことが出来ますように。常に主に従い、主と共に歩ませてください。 アーメン


10月29日(木) 創世記16章

「ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、『あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神です)』と言った。それは、彼女が、『神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか』と言ったからである。」 創世記16章13節

 16章には「ハガルの逃亡と出産」という小見出しがつけられています。「ハガル」というのは、アブラムの妻サライに仕えるエジプトの女奴隷と、1節に紹介されています。エジプトの女性ということなら、アブラム一家がエジプトに滞在していたときに与えられたのでしょうか(12章10節以下)。ファラオの宮廷にサライが召し出されたときに、サライに仕えるようになったのかも知れません。

 「ハガルの逃亡と出産」について、その発端は2節に「サライはアブラムに言った。『主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません』」と記されています。

 サライに子が授からないというのは(1節)、11章30節から続く、アブラム、サライ夫妻の大問題でした。詩編127編3節に「見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い」と言われています。子らが神の賜物だということは、神が授けられる恵みなのです。アブラムとサライに子がないという状態も神の支配のもとにあるわけで、それもまた、神の導きというべきでしょう。

 サライはあらためてここに、自分たちの間にある問題を口にしました。「主はわたしに子供を授けてくださいません」(2節)。それは、確かに事実です。しかし、それは真実かと言えば、そうではない部分もあります。というのは15章5節で、アブラムの子孫は星の数のように多くなると、神が約束しておられるからです。

 神はこの約束を確かなものとするために、アブラムと契約を結ばれました(15章9節以下参照)。そのことをサライも知っていたはずです。それでも、「主は私に子どもを授けてくださいません」と告げているということは、主なる神の口約束は信用できない、約束の実現をこのまま待っていても、子どもを抱くことはできないだろうと、不信仰を言葉にしているわけです。

 そこで、これまで不妊で(11章20節)お互いに年齢も進んだ今、子を授かる可能性が皆無に近いとなれば、「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」という祝福の実現のため、サライに仕える女奴隷をアブラムの側室とし、側室が出産した子どもを女主人サライの子どもとすることによって、跡継ぎをもうけようと進言するのです。

 それが2節後半の「どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」という言葉です。即ち、サライは、自分の女奴隷ハガルによる代理出産を提案したわけです。そして、生まれた子供は、女主人のものとされます。これは当時、子どもがない場合に採られる原則的解決方法で、一般に合法とされていたものでした。

 アブラムは、サライの提案を受け入れました(2節)。そして、それは直ぐに実行に移されました(3節)。その結果、サライの女奴隷ハガルは、見事に身ごもりました(4節)。主の導きに従い、約束の地カナンにやって来て、これまで10年かかっても与えられなかった子どもが、サライの知恵でようやく授かったのです。

 しかし、それでバンザイと叫ぶわけには行きませんでした。かえって、直ぐにアブラムの家に波風が立ち始めます。それまでなかったことですが、ハガルは、自分が身ごもったことが分かると、女主人に対して高慢な態度を取るようになります(4節)。あるいは、不妊の女主人を辱めるに留まらず、アブラムの子の母として、正妻の座を要求するような真似をしたのかもしれません。

 当然のことながら、サライはそれが気に入りません。正妻としての地位を脅かされるようになったサライは、夫アブラムに身分の保全を求めて「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように」(5節)と訴えます。

 自分の女奴隷をアブラムの側室として差し出したのだから、しっかり管理、指導して欲しいということでしょうか。そして、あらためてハガルはサライの女奴隷であることが確認され、「好きなようにするがよい」(6節)とサライに答えます。それで、サライはハガルに辛く当たりました。

 たまらず、ハガルは女主人のもとから逃げ出しました。それにより、サライは自分の正妻の座を守ることは出来たわけです。けれども、女奴隷ハガルによって子をもうけ、アブラムの跡継ぎを得るという彼女の計画は、水の泡となってしまいました。

 一方、女主人のもとを逃げ出したハガルは、故郷のエジプトに帰ろうとしていたのでしょう。7節の「シュル街道に沿う泉のほとり」というのは、イスラエルとエジプトの国境付近です。「シュル」について、岩波訳の脚注に「ネゲブ地方の一要塞地の名か。『隔壁』の意」とあります。注解書には、エジプトが国境に設けた城壁の名前かも知れないと記されていました。

 「ハガル」という名前は、エジプト名ではなくセム語系の名で「離脱」とか「移住」を意味するものと言われます。とすると、サライの仕え女となってエジプトを離れることになったハガルに、サライかアブラムがその名を与えたのでしょう。

 そして今、サライのいびりを受けて、ハガルは女主人のもとを逃げ出しました。彼女は、南に下る道を進む間、ずっとうしろを気にしていたことでしょう。というのは、逃亡奴隷が捕らえられたときには、重い刑罰が待っているからです。

 この逃避行は、ハガルにとっても災難でした。もしも子を孕まなければ、今も女主人サライのもとにいて、平穏に過ごすことが出来たでしょう。女主人から側室として推挙されるほど、女主人の覚えもよかったのです。奴隷生活も悪いことばかりではなかったのに、今となっては、もう女主人のもとには戻れません。ともかく、故郷に帰ろう、何かよいことがあるかも知れないといったところでしょう。

 そこに主の御使いが登場し(7節)、「サライの女奴隷ハガルよ」(8節)と呼びかけました。そして、「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」(9節)と言います。それは、彼女を厳しく叱責する言葉などではありませんでした。むしろ、慈愛に満ちた勧告であり、また、その言葉で不安や恐れを抱くに違いない彼女を励ます、激励の言葉だったでしょう。

 御使いは「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす」(10節)と約束し、さらに「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたから」(11節)と言います。この「イシュマエル」とは、「神は聞かれる」という意味の名前なのです。

 それを聞いたハガルは、冒頭の言葉(13節)のとおり、主の名を呼んで「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神です)」と言い、そして、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と告げました。主なる神が、自分を顧みていてくださる、子孫が数え切れないほどになると祝福してくださったことに感動したのです。

 詩編139編8~10節に「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる」とあります。まさに、アブラムの神は、ハガルと共におられ、御手をもって導き、捉えていてくださるお方なのです。

 ハガルがシュル街道に沿う泉のほとり、そのオアシスに来たのは、水を求めてのことだったでしょう。けれども、彼女はそこで、水以上のものを見つけました。自分を見ていてくださる神を見出したのです。彼女はその場所を、「ベエル・ラハイ・ロイ」と呼びました。それは、「生きて見ておられる方の井戸」という意味です。

 これはまるで、サマリアの女が主イエスと出会い、永遠の命に至る水をいただいて、「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」(ヨハネ福音書4章1節以下、14,29節)と証しした言葉のようです。

 ハガルは、御使いの言葉に励まされ、自分を絶えず顧みていてくださる、エル・ロイなる主のまなざしに背中を押されて、女主人サライのもとに帰ります。そして、男児を出産し、御使いに示されたとおり、その子をイシュマエルと名付けました(15節)。これから、どのような辛いことがあっても、主が聞いていてくださると、わが子の名を呼ぶ度に確認したことでしょう。

 「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(第一コリント10章13節)という御言葉があります。ハガルはここに、主のもとに逃れることを学んだのです。

 主よ、その生涯で、苦しみに遭わずにすむ人など、一人もありません。しかし、あなたは真実なお方で、試練と共に、それを乗り越える道を備え、それに目を開かせ、乗り越える力をお与えくださいます。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということも知らされています。絶えず主に聞き、その導きに従うことが出来ますように。 アーメン


10月28日(水) 創世記15章

「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」 創世記15章6節

 新共同訳は15章に「神の約束」という小見出しをつけています。冒頭の言葉(6節)に「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と記されています。この言葉が、パウロの心を強く捉えました。ガラテヤ書3章6節にこの言葉を引用して、ガラテヤ地方にいるキリスト者たちに信仰の恵みを説いていますし、ローマ書の基礎にこの言葉を据えています(4章参照)。

 「アブラムは主を信じた」。もしも、アブラハムを記念するモニュメントが大理石か御影石で作られていて、そこに何か刻まれているとすれば、それはきっとこの「アブラムは主を信じた」という言葉でしょう。それほどに大切な言葉だと思いますが、アブラムは、主をどのように信じたのでしょうか。主を信じるために、アブラムは何をしたのでしょうか。

 残念ながら、そのことについては、聖書に何も記されていません。おそらく、アブラムは主を信じるために、何かをしたわけではありません。むしろ、何もしてはいません。主をどのように信じたのかと問われても、正確なところはよく分からないのです。強いて言えば、神の語りかけに対して四の五の言わず、一切をそのままに受け入れた姿勢を、信仰と呼んでいるのでしょう。

 そして、主はそれを「義と認められ」ました。「義」とは神との正しい関係、神との関係において正しく振る舞うことです。「認める」と訳されているのは、「思う、計算する、計画する、見做す」(ハーシャブ)という経済用語です。神の御言葉の前に沈黙してそれを受け止めるアブラムの態度が、神の御前での正しい振る舞いであり、神との正しい関係を示すものと見做されたというわけです。

 このことについて、出エジプト記33章19節に「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」と言われています。神が恵みを与える者、憐れみをかける者を選び、それらをお与えになるというのです。

 つまり、主が一方的にアブラムを選ばれ、彼に目を留めて恵みと憐みを注ぎ、アブラムが主に信頼して、その言葉を受けいれることが出来るように、アブラムをご自身との正しい関係に導き入れられたということです。

 そして、それと同じ恵みをパウロも味わいました。ローマ書3章23,24節で「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」と言っています。その根拠として、前述のとおり同4章で冒頭の言葉を引用しながら、アブラムは主を信じる者の模範だと言っているのです。

 パウロがそのように言うのは、彼自身の経験によるのです。パウロは、キリスト教会を弾圧し、信者たちを捕えて獄に投じました。執事に選ばれ、優れた説教者でもあったステファノを殉教の死に追いやったのもパウロです。そのパウロが、復活の主イエスと出会って救われ、しかも、キリストの福音を宣べ伝える伝道者、使徒とされたのです。それを恵みと言わずしてなんというのでしょうか。

 パウロが救われたこと、主イエスを信じる信仰に導かれたのは、神の奇跡だということです。そして、そんな自分が救いに与ったのだから、救われない者は一人もいない。すべての人は神の恵みにより、無償で義とされるのだと、パウロは言うのです。確かに、それは私たちの上にも実現した神の恵み、神の奇跡です。

 1節に「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。『恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう』」と記されています。これは、アブラムの神に依り頼む信仰とその献げ物に対する祝福の言葉といってよいでしょう。

 「(主の)言葉」(ダーバール)と記されていますが、これはアブラムにとって、単なる言葉ではありません。それは「主の言葉」だからです。「主の言葉」であれば、それは既に「事件、大いなる出来事」(ドゥバリーム:ダーバールの複数形)です。

 アダムが罪を犯してから、神の登場、神の言葉が臨むとき、それを受ける人々には、恐れが伴いました。新約聖書においても、主イエスの誕生を知らされた人々、また、復活の知らせを受けた人々も、そして、主イエスに御業とその言葉に神の権威、神の力を感じ取った時、人々は、一様に恐れ戦いています。それで神は、「恐れるな、アブラムよ」と呼びかけられたのです。

 しかしながら、アブラムはこの言葉を素直に喜べませんでした。それは、神がくださる非常に大きな報い、それが12章2節で語られた「大いなる国民とする」ことや、同7節の「あなたの子孫にこの土地を与える」という約束を指しているなら、未だその恵みを受け継ぐべき「子」が与えられていないからです(2節)。

 「家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」ということについて、それは、ダマスコで得た奴隷のエリエゼルのことで、彼を養子として、家督を継がせるしかないという意味であると、3節で説明しています。つまり、神の祝福の言葉が今は信じられないと、アブラムは語っているわけです。

 主は、「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(4節)と言われます。そして、アブラムを外に連れ出して、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」、「あなたの子孫はこのようになる」(5節)と言われました。

 子がないという現実は、未だ何も変わっていません。ハランを出て、どれだけの年月が経過して来たのでしょうか。しかし、神に促されてアブラムは夜空を見上げます。そこには無数の星が輝いています。

 アブラムの心はそのとき、希望のない暗闇だったでしょう。けれども、主に促されて夜空を見上げた時、闇の夜に輝く星が見えます。神は、何もない暗闇に「光あれ」と語って光を造られました(1章3節)。天の大空に無数の星をちりばめることの出来るお方が、あなたの子孫を星の数のようにしようと語られました。

 星の数は数え切れません。それは、子孫の数が無数に増えるという意味でしょう。けれども、どのようにしてアブラムに子が授けられるのか、人間には理解出来ないという意味でもあるのではないでしょうか。

 神の約束は必ず実現します。それは、真実なる主の言葉だからです。言葉が肉となって、私たちの間に宿られました。それが、私たちの主イエス・キリストです。アブラムの子孫として、すべての星を集めても足りない栄光に輝く、恵みと真理に満ちた主イエスが、私たちの住むこの世へおいでくださったのです(ヨハネ福音書1章14節)。

 被造物としての星を仰ぐのではなく、星を創造し、暗い空に配置された主イエスを絶えず仰ぎながら、主がお語りくださった約束の言葉をしっかり受け止め、力強く前を向いて進みましょう。

 主よ、私たちは恵みにより、イエスを主と信じる信仰に導かれました。そして今、その信仰によって義とされています。測り知れない恵みのゆえに、心から感謝と賛美をささげます。絶えず主を仰ぎ、主を信じる信仰に堅く立つことが出来ますように。日々主の御言葉に耳を傾けることが出来ますように。 アーメン


10月27日(火) 静岡教会公式サイト更新

教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に10月25日(日)主日礼拝プログラムと奏楽、特別賛美、説教の動画を掲載しました。
②「今週の報告」、「フォトギャラリー」、「教会堂内外」を更新しました。
③「お知らせ」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。


御覧ください。



*今週10月29日(木)①10時~、②19時~、聖書の学びと祈り会を行います。聖書日課に従い、旧約聖書・創世記16章から学びます。



*新型コロナウイルスに感染される方が増加しています。世界的に感染拡大が続いており、今後も推移などを注視しながら、感染拡大防止のために必要な措置をとらせていただこうと思っています。

*集会にお見えになられる方は、マスク着用(お持ちでない方は受付に用意があります)、水分補給のための水筒・ペットボトルなど持参、玄関受付で手指の消毒、前後左右1m以上空けて着席など、感染拡大防止のためにご協力をよろしくお願いいたします。

*発熱、咳のある方、気だるさ、味覚異常などの症状がある方はもちろん、体調などに不安を覚えられる方は、出席をお控えください。

*日々の生活においても、引き続き手洗い、うがい、手指などの消毒、部屋の換気、マスクの着用など自衛策を徹底され、3密を避け、不要不急の外出をお控えください。

*日本全国、ウイルス感染や自然災害と全く無縁なところなど、どこにもありません。


*皆様の上に主の守り、助け、平安が豊かにあり、日々健やかに過ごされますように。


10月27日(火) 創世記14章

「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。」 創世記14章18節

 14章最初の段落には「王たちの戦い」という小見出しがつけられています。聖書に記されている最初の戦争です。そして、残念なことにこれ以後、戦争がなくなることがありません。今日も、世界のどこかでテロやその報復の戦闘などが繰り広げられています。

 我が国は大東亜戦争終了後、平和憲法を制定・発布し、戦後70年余り、戦争に加担しないで平和の裡に歩んで来ることが出来ました。ところが今、自公政権は憲法を改正しようとしています。秘密保護法、戦争法、共謀罪など、戦前回帰の法律を次々と強行成立させ、集団的自衛権をさえ合憲とする憲法解釈の変更を閣議決定してしまいました。

 1節以下、戦争を起こしている王や国の名前については不明な点が多く、これがどのような戦争だったのか、明確な説明をすることは出来ません。その意味では、何の関心も持たないまま、アラブやシリア、アフリカ諸国などで起こっている内戦や紛争のニュースを聞いているような気分かも知れません。何のための戦いか、なぜ戦争になったのか、実態がよく分からないのです。

 かつての大東亜戦争、それはアジアを欧米列強による支配から解放し、平和で共に栄えるところとするという大義を持った戦いだったはずです。ところが、ロシアや中国と戦い、米国と戦争状態になってから、インドシナを戦場とし、太平洋南方にまで戦地を拡大させるに至って、何のための戦いなのか、分からなくなってしまったのではないでしょうか。

 1節に記されている4人の王は、その国名からメソポタミアを支配する王たち、2節に記されている5人の王は、ヨルダン一帯を支配する王たちのようです。それら9か国は、エラムの王ケドルラオメルの支配下に置かれていました(4節)。エラム主導による共和制を敷いていたのでしょう。

 その体制が12年続いていたのですが、13年目にヨルダンの王たちが同盟を結んで、ケドルラオメルに背きます(4節)。翌年、ヨルダンの5王を討つため、メソポタミアのほかの3王がケドルラオメルに従い、パレスティナにやって来ます。 

 5節以下に戦場が記されています。それは、ガリラヤ湖、ヨルダン川の東側を南下して、死海の南東に広がるセイルの山地、荒れ野に至るものです(6節)。5人の王は、最終決戦地としてシディムの谷、現在の死海にあたるところに集結し、メソポタミア連合軍に戦いを挑みますが(9節)、打ち破られてしまい、ソドムとゴモラの王は敗走中にアスファルトの穴に落ち、ほかの王たちは山へ逃れました(10節)。

 メソポタミア連合軍は、征服した五つの国から財産や食料をすべて没収し、生き残っている者たちを捕虜として連行します。その捕虜の中に、アブラムの甥ロトも含まれていたと、12節に報告されています。その情報が、戦場から逃げ延びた一人の人物によって、アブラムのもとにも届けられました(13節)。

 13節に「ヘブライ人アブラム」と記されています。「ヘブライ人」の名が登場するのは、ここが初めてです。「ヘブライ人」とは「渡って来た者」という言葉です。ヨセフ物語では、エジプトの宮廷の役人ポティファルの妻がヨセフを「ヘブライ人」(39章14節)といって、差別的な意味を込めて訴えていますが、ここでは「異邦人」といった意味で用いられていると考えてよいでしょう。

 つまり、アブラムは異邦人として、ヘブロンにあるマムレの樫の木の傍らに寄留していたのです。アブラムが、その戦争について聞いた時、それは単なる外国ニュースだったでしょう。あるいは、13章13節に「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた」と記されているので、アブラムは敗戦のニュースを神の裁きとして歓迎する思いだったのかもしれません。

 ところが、その知らせをもたらした男は、ロトとその家族がメソポタミア連合軍の捕虜になったことを告げました。14節に「アブラムは、親族のものが捕虜になったと聞いて」と記されているからです。なんとその男は、どのようにしてか知る由もありませんが、ロトとアブラムの関係を知っていたのです。

 ロトが捕虜になったと聞いた時、アブラムは単なる異邦人ではいられませんでした。ロトが年長者を立てず、先によく潤ったヨルダンの低地を選んだから、そんな目に遭ったんだ、いい気味だ、打ち捨てておこうなどと考えなかったかどうか、それは分かりません。

 ただ、アブラムは、自分の家族が窮地に陥っているのを見過ごしにはできないと考えて、すぐに行動を起こしました。かつて、エジプトで自分を守るために妻サライを犠牲にしようとしたアブラムが、今回は、甥のロトのために一肌脱ごうと考えたわけです。

 アブラムは、訓練を授けた家の奴隷318人を引き連れて、敵を追います(14節)。敵は、ヨルダン地方5か国の同盟軍を撃破する力のある、ケドルラオメルと3人の王の連合軍です。アブラムが連れて行った318人の僕たちが勇敢で、その上いかによく訓練されていたとしても、全く勝負にならないというところだと思われましたが、結果は違いました。

 ダンからダマスコの北のホバまで追跡して(14,15節)、「アブラムはすべての財産を取り返し、親族のロトとその財産、女たちやそのほかの人々も取り戻」(16節)すことが出来たのです。それは、神の導きというほかありません。

 兵力、所持する武器の数と威力において、戦術や戦略の巧みさなどで何とかなるというレベルの戦いではありません。神の助けなしに、強大な敵に勝利し、ロトやその家族、財産を取り戻せるとは考えられませんでした。このとき、神がアブラムに味方されたわけです。

 アブラムがすべてのものを取り戻して凱旋した時、ソドムの王が彼を出迎えました。それは、戦利品を分け合うためでした(21節以下)。ところが、そこにもう一人の人がいました。それが、冒頭の言葉(18節)に登場する「サレムの王メルキゼデク」です。王メルキゼデクが、アブラムの前にパンとぶどう酒を持ってやって来たというのです。

 続く19,20節に「彼はアブラムを祝福して言った。『天地の造り主、いと高き神に、アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された、いと高き神が讃えられますように』。アブラムはすべてのものの十分の一を贈った」と記されています。

 メルキゼデクは、アブラムを祝福しました。そして、メルキゼデクの祝福の言葉を聞いたアブラムは、自分の持ち物の十分の一をメルキゼデクに贈りました。ここにアブラムの信仰が示されます。即ちアブラムは、この戦いは神の戦いで、神ご自身が勝利をとられたのだと言おうとしているのです。こうしてアブラムは、エジプトで失った家族の関係を取り戻すことが出来たわけです。

 メルキゼデクについて、出自など詳しいことは何も分かりません。「メルキ」は「王」、「ゼデク」は「義(ツェデク)」という言葉ですから、「義の王」という意味の名前です(ヘブライ書7章2節参照)。

 そして彼は「サレムの王」と紹介されています。「サレム」とは、エルサレムを指すものと考えられていますが、「サレム」は「救い」や「平和」を意味する「シャローム」と関係の深い言葉です。即ち、サレムの王とは、平和の王ということになります(同上節参照)。

 さらに、その肩書きに「いと高き神の祭司」と記されています。義の王にして平和の王である人物が、いと高き神の祭司だというのです。そのような人物が突然登場して来て、凱旋して来たアブラムを祝福したのです。

 旧約聖書でメルキゼデクについて記しているのは、この箇所のほかには、詩編110編4節があります。そこに、「わたしの言葉に従って、あなたはとこしえの祭司メルキゼデク」と記されています。これは、ダビデの子孫として生まれるメシアのことを語っています。

 そして、この詩の言葉が、ヘブライ書5章6節、7章17,21節に引用されています。ヘブライ書の記者は、アブラムを祝福し、彼から十分の一の献げ物を受け取ったメルキゼデクとは、イエス・キリストだと考えています。だから、メルキゼデクはアブラムを、パンとぶどう酒をもって出迎えました(18節)。それはまるで、主の晩餐式を開こうとしているかのようです。

 アブラムは、過越祭を知りません。だから勿論、主の晩餐式も知りません。けれども、御自分の命をもって罪の代価を払い、祝福を与えて下さる主イエスのご愛を、メルキゼデクの出迎えに感じ取ったのです。だから、誰から教えられたわけでもないのに、持ち物の十分の一を主に献げて、その御愛に応えようと考えたわけです。ここに、まさにアブラムの信仰を見ることができ来るでしょう。

 私たちも、主の御愛に与りました。日々心から感謝と喜びをもって主の御愛に応え、委ねられている賜物を用いて主の御業に励む者にならせて頂きたいと思います。

 主よ、あなたはメルキゼデクを通して、出来事を生み出す生きた力ある言葉でアブラムを祝福されました。アブラムはそれを信じ、受け入れました。あなたの御言葉が必ず成ると信じることの出来る者は幸いです。私たちに、御言葉を聞く耳とそれを信じ受け入れる心を授け、その祝福に与らせてください。主に従う働きを通して主のご栄光が表されますように。 アーメン


10月26日(月) 創世記13章

「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。」 創世記13章14,15節

 新共同訳聖書は13章に「ロトとの別れ」という小見出しをつけています。ロトは、アブラムの末弟ハランの子、つまりアブラムの甥にあたります。これから、叔父アブラムと甥のロトが別れ別れになるということです。

 1節に「アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った。ロトも一緒であった」と記されています。12章10節以下、イスラエル南部のネゲブ地方にいたアブラムは、ひどい飢饉にあってエジプトに逃れました(同10節)。

 そのときアブラムは、妻サライが美しいので(同11節)、殺されてしまうかもしれないと考え(同12節)、「妻」という代わりに「妹」と言います(同13節)。すると、エジプトの王が彼女を王宮に召し入れ(同15節)、アブラムにたくさんの贈り物をしました(同16節)。アブラムは自分の命を守るため、妻サライをエジプトの王に差し出し、引き換えに贈り物を受け取ったのです。

 このままでは、「あなたの子孫にこの土地を与える」(同7節)と言われた主の約束は、台無しになってしまいます。サライがエジプトの皇后になってしまえば、アブラムの子孫が生まれる可能性は消滅してしまうからです。そこに主なる神が介入され、王と宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせました(同17節)。それで、王はサライをアブラムに返し、エジプトを去らせました(同19節)。

 神がアブラムとサライを守ってくださったので、何の害を受けることもありませんでした。それだけでなく、アブラムはエジプト王から妻サライを返してもらいましたが、贈り物として与えられた羊や牛の群れ、ロバ、雌ロバ、ラクダに男女の奴隷などを王に返す必要はなかったので、資産を増やしてネゲブに戻って来ることが出来たのです。

 3,4節に「ネゲブ地方から更に、べテルに向かって旅を続け、べテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」と記されています。これは、12章8節から10節までの箇所に書かれていた旅路の逆コースです。

 そして、飢饉を逃れるためにエジプトに下って以来、しばらく忘れたかのようになっていた、主の御名を呼ぶ、神を礼拝する生活を回復する道でした。それはまた、アブラムがサライとの仲を回復するための道でもあったでしょう。神の御許に戻って来る以外になかった、神の恵みを受けずして、自分たちを取り戻すことは出来なかったのです。

 それはしかし、元通りということではありません。1~4節には「戻る、帰る」(シューブ)という言葉は用いられていません。ここにあるのは、「上る(アーラー)」、「行く、歩く(ハーラク)」という、足を踏み出して前進する姿勢を表す言葉が使われています。

 つまり、過去を懐かしむ道、思い出の場所に逃げ込むための道ではなく、目を将来に向け、約束の土地を目指して新しい思いを抱きながら、エジプトを出立し、ネゲブからべテルまでやって来たということになるのではないでしょうか。

 ところが、アブラムとロトの家畜が多くなって、問題が発生します。7節に「アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいた」とあるとおりです。カナン人、ペリジ人の住む地に寄留している二人にとって、現在の牧草地や水場だけでは、各々の群れを維持することが出来なくなってしまったのです。

 かつて、「わたしが示す地に行きなさい」と主から示されたとき、主はアブラムに「生まれ故郷、父の家を離れて」(12章1節)と言われていました。それは、目に見える形で守り支えるものから、アブラムを引き離すことでした。そのとき、アブラムは甥のロトを連れて出発しました(同4節)。それは、自分たちに子が授からなかったときの保険にしようということだったでしょう。

 財産が増えたことは神の祝福と言ってもよいと思いますし、ロトを保険とすることで、アブラムの将来はいよいよ安泰ということになるはずでしたが、それが親族間に争いをもたらすことになりました。人間関係はなかなか一筋縄ではいかず、思うに任せません。エジプトで資産を増やして戻って来たことが、仇になったかたちです。

 そこで、家長として身内の争いを避けるために、アブラムは一つの決断をします。それは9節で「あなたの前にはいくらでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう」というものです。

 ここでアブラムは、土地の選択権を甥のロトに譲っています。ロトは周りを見渡して、よく潤っているヨルダンの低地を選び、さっさと荷物をまとめ、東へ移って行きました(11節)。ロトには、年長者を立てて、先によいところをとってもらおうという考えは無かったようです。

 あるいは、牧者間の争いの背後に、ロト自身が、叔父アブラムとは一緒にやって行けないという思いを持っていたのかも知れません。エジプト滞在時の、妻サライよりも自分の命の保全を優先したアブラムの身の処し方に、その原因があるのではないかとも思われます。

 「ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡す限りよく潤っていた」と10節後半に記されています。ソドム、ゴモラの位置は不明ですが、死海の南岸にあったのではないかと考えられています。

 19章にソドムとゴモラ、低地一帯の滅亡が記録されています。その原因が13節に「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた」と記されているのです。豊かに繁栄することが罪を犯すことに直結しているわけではありませんが、神に依り頼むよりも富に信頼を置くという、私たちには、目に見えるもので安心しようとする傾向があることを否むことが出来ません。

 一方、ロトに選択権を譲ったアブラムは、西へ移って行きます。18節に、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに住んだと記されています。ヘブロンは、死海(塩の海)の西方、ユダの山地南部、海抜930メートルの高さにある町です。

 かくてアブラムは、「父の家」の残りの者、ロトと分かれ、また、良い地を離れて、南方の山地に住むことになりました。その時、アブラムに主なる神が声をかけられました。それが、冒頭の言葉(14,15節)です。

 ここで「目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」と言われているのは、アブラムがこの時、項垂れていたということでしょう。それは、甥のロトと別れた結果、将来の保険を失うということになったからです。また、よく潤ったヨルダンの低地を離れて、ユダの山地に移ることで、増えた家畜の群れを維持していくことに不安を覚えていたかも知れません。

 10節に「ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡す限りよく潤っていた」と記されていて、希望に満ちていた甥ロトの有様とは全く好対照です。

 しかしながら、詩編145編14節に「主は倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださいます」と詠われているように、主は項垂れているアブラムに「目を上げよ」と呼びかけ、立ち上がる勇気を与え、子がなく、今ロトと別れて保険を失ったばかりのアブラムに、見える限りの土地をアブラムと子孫に与えるという祝福を告げられます。

 しかも、「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数え切れないように、あなたの子孫も数え切れないであろう」(16節)と言われました。先には、自分の命を守るために詭弁を用い、妻をファラオに差し出しました。それが、ロトと袂を分かつ原因となりました。ここでアブラムは、自ら考えて行動するのではなく、「わたしが与える」と告げられる神の言葉に従うのです。

 何よりの祝福は「見渡す限りの土地すべて」(15節)というより、「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」(16節)という言葉でしょう。子孫がいなければ、広大な嗣業の地が与えられたとしても、アブラムの死後、また他人のものになってしまいます。

 今はまだ、畳一枚分の土地も持っていません。それを受け継ぐ子もいません。しかし、アブラムは主の言葉に従って目を上げました。彼が見たのは、他人の土地ではなく、主が自分にくださると言われた土地です。そして何よりも、それをくださると約束された主を仰いだのです(18節)。

 アブラムは「信仰の父」と言われますが、それは主の恵みによるものでした。ローマ書8章30節に「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」というとおりです。アブラムは、罪深い自分を義とし、さらに栄光をお与えくださる主を仰ぎ、問題のただなかで、神は万事を益とされるお方だと信じたのです。

 私たちも、御言葉に従って目を上げましょう。示されるところを見渡しましょう。縦横に歩き回りましょう。主が語られた御言葉の力、その恵みに与らせて頂きましょう。

 主よ、アブラムは人間的な希望を失ったとき、御言葉に促されてあなたを仰ぎました。そうしてアブラムは、再び立ち上がる力を得、希望をもって出発することが出来ました。私たちも主の御言葉に信頼し、導きに従って歩みます。耳を開いて御言葉を聞き、目を開いて主の御姿を拝することが出来ますように。 アーメン


10月25日(日)秋の特別礼拝説教

10月25日(日)は、バプテスト静岡教会が宣教の働きを開始して69周年を記念する秋の特別礼拝を行いました。
礼拝には、教会員16名、初来会者1名、子ども1名を含む来賓16名がお見えになりました。
感謝です。


特別礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「全能の神」
聖書 創世記18章1~15節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師


ご覧ください。



*新型コロナウイルスの感染防止のため、ご協力をお願いします。

*教会にお見えになる際には、マスクの着用(お持ちでない方のために教会に用意があります)、水分補給のための水筒・ペットボトルなど持参、礼拝堂玄関受付で手指の消毒、礼拝堂では前後左右1m以上空けて着席(ソーシャルディスタンス)など、感染防止策を徹底してください。

*発熱や空咳、倦怠感、味覚異常など、コロナ感染症の主な症状のある方はもちろん、健康などに不安のある方は、集会出席をお控えください。


*日常生活においても、3密(1.密閉空間:換気の悪い密閉した空間、2.密集場所:多くの人が密集している場所、3.密接場面:互いに手を伸ばしたら届く距離での会話や発声が行われる場面)を避け、不要不急の外出を控えるなど、感染拡大防止に努めましょう。


*日々聖霊の導きを祈りながら聖書を開き、主のみ言葉に耳を傾けましょう。主に託されているめいめいの命、健康を守ることを最優先に、いつでも何処でも主イエスのみ顔を仰ぎ、み言葉に耳を傾ける礼拝の生活をしましょう。

*皆様とご家族の上に主の守りがありますように。


10月25日(日)主日礼拝案内

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10月25日(日)は、教会学校小学科(小学生)、青少年科(中学生~)を9時半から、成人科を9時40分から行います。

教会学校は、「聖書教育」誌に基づいて旧約聖書・「コヘレトの言葉」(口語訳:伝道の書、新改訳:伝道者の書)から、共に聖書の学びと交わりを行います。



25日(日)の主日礼拝は10時半から、「秋の特別礼拝」として行います。
礼拝では、創世記18章から「全能の神」と題して、原田牧師より奨励をいただきます。

礼拝の中で、竹之内理香姉(独唱、バイオリン独奏)の特別賛美があります。


写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。

3密を避けるため、主日礼拝は通常のプログラムを短縮しています。



教会においでくださる方は、マスク着用(お持ちでない方のために教会に用意があります。熱中症予防のため、周囲2m以上離れていれば、マスクを外すことも可)、水分補給のための水筒・ペットボトルなど持参、礼拝堂玄関受付で手指の消毒、礼拝堂では前後左右1m以上空けて着席など、感染拡大防止のためにご協力をよろしくお願いします。

熱、空咳、倦怠感、味覚異常など新型コロナウイルス感染症の主な症状のある方は勿論、体調などに不安のある方は、出席をお控えください。



礼拝後、ミニバザー・教会カフェを行います。


お昼の用意はありません。


日常生活においても新型コロナウイルスの感染拡大を防止するため、引き続き手洗い、うがい、消毒、外出時のマスク着用、部屋の換気などを徹底し、3密を避けて不要不急の外出は控えましょう。

皆様の心身の健康・健全な生活が守られますように。



10月25日(日) 創世記12章

「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。』」 創世記12章1節

 11章10節以下にノアの子セムの系図が記されていますが、セムから数えて9代目に、テラがカルデアのウルで生まれ(11章24節)、テラにはアブラム、ナホル、ハランが生まれました(同26節)。末息子のハランは、ロトをもうけた後、亡くなりました(同28節)。一方、長男と思われるアブラムには、子どもが出来ませんでした。

 同29節に、アブラムの妻はサライ、ナホルの妻はミルカで、ミルカはハランの娘と紹介されています。ナホル・ミルカ夫妻は、アブラムの子イサクの妻となるリベカの祖父・祖母となります。サライの父の名が記されていませんが、20章12節によれば、サライはアブラムの異母妹と言われているので、サライの父は、アブラムの父のテラということになります。

 ハランの死後、テラは息子アブラムとその妻サライ、ハランの息子ロトを連れてカルデヤのウルを出発し、ハランまでやって来ました。このとき、ナホルを連れていませんが、後にイサクの嫁取りの際、「一族のいる故郷」(24章4節)から嫁を連れて来るようにと僕に命じているので、一緒に行かなかったかも知れませんが、そのときまでにハランにやって来ていたようです。

 ウルはチグリス、ユーフラテス川の河口付近に位置し、ハランはその源流付近に位置する町です。ウルからハランまで、約900㎞の距離です。東京~広島、静岡~大牟田といったところでしょうか。

 なぜ、テラがウルからハランまで移動することにしたのか、理由は聖書に記されておりませんが、アブラムが誕生した紀元前2000年頃、東のエラムがウルに侵攻し、ウル第三王朝を滅ぼすという事件がありました。もしかすると、その難を逃れるための移動だったのかも知れません。

 テラは、205年の生涯をハランで閉じることになりました(同32節)。アブラムが生まれたのは、テラ70歳の時ですから(同26節)、テラが天に召されたのは、アブラムが135歳のときということになります。

 冒頭の言葉(1節)で、主なる神がアブラムに「生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と命じられました。アブラムの「生まれ故郷」は「カルデアのウル」(11章28,31節)ですが、「父の家」は、主の呼びかけを受けた時、アブラムは父テラに連れられて、ハランの地に来ていました(同31節)。

 アブラムがハランを出発したのは75歳のときと、4節に記されています。父テラはアブラムが135歳の時に召されたというのですから、主がアブラムに語りかけられたとき、父テラはまだ存命だったのです(同26,32節,12章4節参照)。

 ということで、「生まれ故郷、父の家」とは、「ハランの地」ということになるようですが、しかし、「生まれ故郷、父の家」は、アブラムを愛し、養い育て、守り支えてくれるものの総称と考えたらよいでしょう。主なる神は、アブラムがそれなしに生きることは出来ないと考えているものから、彼を引き離そうとされたのです。

 アブラムがハランに何年ほど住んでいたのかは不明ですが、慣れ親しんだ場所、愛され、養い育てられたところを離れ、守り支えてくれた家族、親族から別れて旅立つというのは、大変なことだったのではないでしょうか。

 その上、「わたしが示す地に行きなさい」と言われていますが、それがどのようなところなのか、明示されてはいないのです。75歳という年齢に達して、見知らぬ地に出て行くことを選び取るというのは、決して容易いことではありません。簡単にやり直しの聞く年齢とは考えられないからです。思えば、とても勇気のいる決断だったでしょう。

 しかし、アブラムはその命令に従って旅立ちます。ここに信仰の基本があります。信仰とは、神の語りかけ、その御言葉を聞いて、それに応答することです。アブラムは主の御言葉に従いました。即ち、アブラムは自分の親族や竹馬の友、家、財産などではなく、主なる神に信頼し、その導きに従うことにしたのです。

 「わたしが示す地に行きなさい」という命令には、祝福の言葉がつけられていました。それは、2,3節の「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」という言葉です。

 ここに、「祝福する」(バーラフ)という言葉が4回、「祝福(の源)」(ベラカー)が1回用いられています。アブラムが家を出るのは、「大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う人をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(2,3節)と言われる主の祝福に与るためです。

 12章1節以前の状況であれば、アブラムの家は、彼の死をもって途絶えてしまいます。しかし、その状況を変える祝福の言葉が、主なる神によって語られたのです。そのまま故郷にいれば、アブラムたちは安全に守られるかもしれませんが、妻サライの不妊という状況を変えることは出来なかったでしょう。

 神に従って旅立てば、旅の危険、そして見知らぬ土地、見知らぬ人々の間での新しい生活の不安はあるものの、「大いなる国民とする、あなたの名を高める」という、将来の希望を手にすることが出来るかもしれないのです。アブラムは、それに懸けてみることにしたわけです。

 旧約学者の浅見定雄先生がこの箇所を註解して、「信仰は、服従としての冒険を回避しない。しかし、信仰の決断は、『やけくそ』や『当てずっぽう』の別名ではない!」と記しておられます。上述のとおり、確かにアブラムは、ここで主の言葉に従う信仰の決断をしたのです。

 「あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」(2節)というのは、バベルの人々が、高い塔のある町を建てて獲得しようと考えていたものでした(11章4節)。バベルの人々が獲得に失敗したものを、主なる神はアブラムに祝福としてお与えくださるというのです。

 しかも、アブラムに与えられる祝福は、彼一人のものではありません。アブラムの祝福は、地上のすべての氏族に及びます。「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(3節)と言われているからです。一人の祝福がすべての民の祝福となるのです。

 何故アブラムが、地上のすべての氏族の祝福の源とされるのでしょうか。その理由は誰にも分かりません。アブラム自身にすら、分からないでしょう。ただ、アブラムを祝福の源とし、アブラムによって地上の氏族をすべて祝福に入らせたいという主なる神の御意志、憐れみ深い主の御心によって、アブラムが選ばれたのです。

 アブラムは、特別な存在ではありません。アブラムが自分で主なる神の祝福を造って人々に配れるわけではありません。ただ、「あなたを祝福の源とする」と言われる主を信じたのです。アブラムは、そのように主を信じる者の代表として、私たちの前に立っています。私たちも、祝福をお与えくださる主を信じる信仰において、その祝福に与っているのです。

 ただ、4節に「ロトも共に言った」と言われています。主から、「父の家を離れて」と言われていたのに、アブラムは甥のロトを連れて行ったのです(4節)。アブラムは、自分に子が出来なかった場合の保険と考えて、甥ロトが同行させたのではないかと思われます。

 やがて、カナンの地、「シケムの聖所、モレの樫の木まで来た」(6節)ところ、主がアブラムに現れて、「あなたの子孫にこの土地を与える」(7節)と言われました。「わたしが示す地に行け」という御言葉に従ったアブラムに、「これがその土地だ、これをあなたに与える」と言われているわけです。

 主とその御言葉に信頼して行動するとき、主は御言葉に伴うしるしをもって、御言葉の真実を示してくださいます(マルコ福音書16章20節参照)。アブラムは、そこに祭壇を築きました(7節)。また、そこからベテルの東の山に移った時も、主のために祭壇を築き、主の御名を呼びました(8節)。即ち、アブラムはカナンの地で主なる神に礼拝をささげ、主の御名を呼んで祈ったのです。

 主の示された地に到着して、「あなたの子孫にこの土地を与える」(7節)と言われた主に、感謝と喜びをもって2,3節で語られた祝福の実現を祈り願ったのでしょう。

 私たちも信仰によって救いに与ったアブラハムの子として(ルカ福音書19章9節参照)、主の御言葉にしっかりと耳を傾け、御言葉を信じて立ち上がり、前進させて頂きましょう。地上のすべての人が主の祝福に入るため、主の恵みを力強く証ししましょう。

 主よ、アブラムは御言葉を信じて行動しました。主はその信仰を確かなものとしてくださいました。今、私たちもあなたの御言葉を聞いています。私たちの耳を開いてください。ただ聞くだけの者でなく、聞いて行う者とならせてください。御言葉の真実を見ることが出来ますように。聖霊に満たされて、主の証人として用いられますように。 アーメン


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