「主はアブラハムに言われた。『なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻って来る。その頃、サラには必ず男の子が生まれている。』」 創世記18章13,14節
18章では、アブラハムの妻サラの信仰が問題になっています。順を追って見てみましょう。1節に「主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた」と告げられています。暑い真昼というのですから、アブラハムは天幕で日差しを避けて、休息を取っていたのでしょう。その天幕は、道路から少し離れたところに張られていたと思います。
主なる神が現われたということですが(1節)、目を上げたアブラハムが見たのは「三人の人」(2節)でした。主なる神が三人の男たちの姿を借りて現れたということでしょう。なぜ三人なのか、正確なところは分かりません。
この後、16節以下に「ソドムのための執り成し」の物語が続き、そして、アブラハムと別れた主がソドムに向かわれるのですが、19章1節には、「二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき」と記されているので、三人のうち一人が主なる神で、残りの二人は主の御使いと解釈してもよいのかも知れません。
三人の男たちは、アブラハムに向かって立っていました。アブラハムは、男たちの歩いて来る姿を見てはいないようです。突然、アブラハムの前に彼らが登場して来たのです。そして、彼らがそこに立っていたということは、アブラハムの所に立ち寄ろうとしていることを示しています。アブラハムは、男たちを見て走り出し、彼らの前にひれ伏しました。
そして、「お客様、よろしければ、どうか僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから」(3~5節)と告げます。
ここで「お客様」というのは「アドーナイ=ご主人様」という言葉遣いです。それに対して、自分のことを「エベド=僕」と言います。アブラハムは極めて丁重に、そして熱心に、彼らを招待しました。「よろしければ」というのは「あなたの目に恵みを得ますなら」という言葉です。
「古代中近東の世界では、客を持て成すことはひとつの大きな美徳であり、充分に客を持て成すことができるかどうかは人徳にかかわることだったと思われる」と、註解書に記されていました。アブラハムは当時の習慣に倣い、最大のおもてなしをしようと考えたのでしょう。
「少々の水」と共に「何か召し上がるものを」と言いますが、これは「ファト・レヘム=ひとかけらのパン」という言葉です。ところが、実際にアブラムが用意させたのは、随分豪華な食事です。
まず、「上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい」とサラに言います。3セアは1エファにあたり、およそ23リットルという量です。どれだけのパンが作られることでしょう。
次に、「アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させ」(7節)ます。そうして「凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べ」(8節)ました。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をしたのです。
そのとき、三人がアブラハムに語りかけ、「あなたの妻のサラはどこにいますか」(9節)と、妻サラの所在を確認します。「天幕の中におります」(同節)とアブラムが答えると、彼らは「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」(10節)と告げました。
これは、17章16節で既に、神がアブラハムに告げておられたことです。それを聞いたアブラハムは笑ってしまいました(同17節)。アブラハムの妻のサラもそれを耳にして「ひそかに笑った」(12節)と記されています。彼女は、「自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに」(同節)と思ったのです。
「ひそかに」は「ベ・キルバーハ=彼女の中で」という言葉で、口語訳、新改訳はこれを「心の中で」と訳しています。「年をとり」は「バーラー=すり減る、すり切れる」という言葉、「楽しみ」と訳されている「エドゥナー」は、性的な意味を持っています。夫婦共に年老いて性的な交わりもなくなっているので、妊娠なんてことはありっこないと、心の中で笑ったということです。
そのとき妻サラは89歳、夫アブラハムは99歳になっていました(17章1,17節参照)。それまでも、不妊と言われていたサラです。どう考えても妊娠・出産は不可能でしょう。現実の厳しさを知る者として、その絶望的な状況から、祝福の言葉を語る彼らを、自嘲気味に愚かと笑うしかなかったわけです。
それに対して主がアブラハムに告げたのが、冒頭の言葉(13,14節)です。主が「なぜサラは笑ったのか」(13節)と問い、「主に不可能なことがあろうか」(14節)と質します。ということは、ここで祝福を告げておられるのは、主なる神だということです。サラはそのとき、誰が祝福の言葉を語っておられるのか、知らなかったのです。
「主に不可能なことがあろうか」というのは、サラを初め、私たちに対する信仰のテストです。この問いかけに、どのように答えましょうか。一般論として、「神には不可能なことなどない」と答えることは、やぶさかでないというところでしょう。しかし、大きな問題を抱えているときに、主は必ず解決なさる、主に不可能なことはないと答えるのは、容易いものではありません。
神の祝福の約束は、この世の知恵や常識で判断すると、ときには愚かなものに見えるかもしれません。あり得ないことと思われるかもしれません。けれども、信ずる者には、救いを得させる確かな力なのです(第一コリント1章18節)。
サラは不信仰を指摘されて、恐れました。約束の言葉を語られたのが、主なる神であることを悟ったのです。自分の不信仰が示されて、恐れを覚えたのです。それはしかし、主への真の信仰に目覚めることでした。
主なる神は、サラを裁くつもりで、「なぜサラは笑ったのか」(13節)と問い、そして「主に不可能なことがあろうか」(14節)と質されたわけではありません。このとき、主が語られた言葉は必ず実現するという信仰に、サラを招かれたのです。
主イエスの母マリアも、天使ガブリエルの受胎告知に対して「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(ルカ福音書1章34節)と答えましたが、「神にできないことは何一つない」(同37節)との言葉に「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(同38節)と応じることができました。
信じないものにならないで、信じるものになりましょう。
主よ、あなたの愛と導きを感謝します。現実の厳しさの前に笑うしかないようなときにも、祝福をお与えくださる主を仰ぎ、その御言葉に耳を傾けます。弱い私たちを憐れみ、助けてください。キリストの言葉を受けて、信仰に立つことが出来ますように。信じない者にならないで、信じる者とならせてください。 アーメン