「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」 テサロニケの信徒への手紙一4章14節
4章から第二部に入り、現在の問題についての勧めが語られます。最初に、「主イエスに結ばれた者としてわたしたちはさらに願い、また勧めます」(1節)と言います。「主イエスに結ばれた者として」は「主イエスにおいて」(エン・キュリオー・イエスー:in the Lord Jesus)という言葉です。
「神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました」(1節)で「学びました」は「受け入れた」(パラランバノー:receive)という言葉です。パウロも、キリストの福音を使徒たちから受け取りました(第一コリント書15章3節参照)。それをテサロニケの人々に伝えました。キリストの福音が次々に手渡されていきます。
「その歩みを今後もさらに続けてください」(1節)は、原文では「あなたがたがもっと豊かになるためである」(ヒナ・ペリッセウエーテ・マーロン:so that you should abound more and more)です。主イエスにあって受け入れた福音に歩むのは、神に喜ばれる生活において豊かになるため、神に喜ばれる生活をさらに豊かに歩むためということです。
1節に2度語られる「歩む」(ペリパテオー)という言葉は、「振る舞う、生活する」とも訳されます。「生きる live」ことを「歩む walk」と表現しているわけです。同じ「歩む」という言葉が12節(「品位をもって歩み」)にもあります。同じ言葉で1~12節の段落を取り囲み、かくて「どのように歩むべきか」ということが、この段落の主題であることを明らかにしています。
神に喜ばれる生活とは、神の御心に従い、「聖なる者」(3節)として「聖なる生活」(8節)をすることであり、神に教えられているように「互いに愛し合う」(9節)こと、そして「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働く」(11節)ことです。
当時は、労働を悪のように考え、働かずに暮らせる豊かさを持つことが、名誉とされるところがありました。それに対して、ストア哲学の影響で、他人の労働をあてにせずに自ら働くことを高く評価する気風が、一般大衆の間に生まれてきていました。
パウロはしかし、そのような気風に倣うことなど、人の評判を考えてそのように語っているのではありません。主イエスは自ら、仕えられるためではなく仕えるために、愛されるためではなく愛するために、この世に来られました(マルコ10章45節)。キリストに従う者は、キリストに倣い、進んで奉仕すべきことを教えているのです(第一コリント書11章1節、フィリピ書3章17節参照)。
「落ち着いた生活」を語った後、13節で「既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」と言います。「眠りにつく」とは亡くなることです。亡くなった者のことで嘆き悲しんで、希望を持たないほかの人のようにならないようにとパウロが願っているわけです。
勿論、亡くなった者のために嘆き悲しんではならないということではありません。どんなに嘆き悲しんでも、悲しみ過ぎるということはありません。そういう感情を持ってはいけないと言っているわけではないのです。そうではなく、私たちには、死者のことで嘆き悲しみ、希望を失うことがないようにと語っているわけです。
1章3節に「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」と記されていました。
ここに、信仰、愛、希望という、永遠に続く神の賜物が登場してきます。そして、ここに「希望」という賜物が既にテサロニケの人々に与えられていることが明言されています。その希望は、私たちの願望などではありません。イエス・キリストに対する希望です。
イエス・キリストに対して希望を抱いているテサロニケの人々が、眠りについた人たちのことで、希望を失ってただ嘆き悲しむだけの者となるとは考えられないことです。冒頭の言葉(14節)は、その根拠を示すものです。
「イエスを信じて眠りについた人たち」のことを語っているのは、まさにここがテサロニケの人々の関心事だったからでしょう。パウロは15節で「主が来られる日まで生き残るわたしたちが」と記しています。主の再臨が間近くて、その日まで自分たちは生き残っていると考えていたわけです。ところが、主の再臨を待たずして召される信仰の友が出て来ました。
それは迫害による殉教でしょうか。あるいは病気で亡くなるということでしょうか。それ以外の死因もあり得ますけれども、いずれにせよ、信仰を持ちながら亡くなった者たちはどうなるのかということが問題になっているわけです。
その問いに答えるために、冒頭の言葉(14節)を告げているのです。ここで「イエスを信じて」は「イエスによって、イエスを通して」(ディア・トゥー・イエス―)という言葉ですから、「眠りについた」を形容するというより、むしろ、「導き出してくださいます」につけて、「イエスを通して、イエスと一緒に導き出してくださいます」と訳したほうがよいのではないかと思います。
死んで甦られた主イエスの働きで、共に死から導き出されるということです。「導き出してくださいます」(アクソー)は、「導く」(アゴー)の未来形です。導き出してくださるだろうと推論しているわけです。その根拠を15節に示します。それが、「主の言葉に基づいて」(エン・ロゴー・キュリウー:in word of the Lord=主の言葉において)と言われていることです。
「次のことを伝えます」以下に主の言葉の内容が告げられますが、主イエス再臨後の出来事について、主イエスご自身の言葉は新約聖書中に記録されていません。聖書外の主イエスの語録か、キリスト教預言者の言葉で主イエスによる啓示という可能性が考えられます。岩波訳では、後者の可能性が大としています。
この手紙には、キリストが再びおいでになることについての希望の言葉が、1章10節、2章19節、3章13節、5章23節など、あちこちにちりばめられています。そして4章13節以下の段落では、主の来臨そのものについて語られています。
再臨について、まず「合図の号令」、「大天使の声」、「神のラッパ」という、さながら凱旋将軍の到来を知らせるような現象が起こり、それから満を持したかの如く、「主御自身が天から降って来られます」(16節)。
すると、「キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し」(同節)ます。それから、「わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼ら(キリストに結ばれて死んだ人たち)と一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」(17節)。
パウロが語っているのは、単に私たちの体が復活することに対する希望ではありません。再臨の主と出会い、キリストに結ばれて死んだ人たちと共に天に引き上げられ、そこでいつまでも主と共に過ごすことが出来るという、主との交わりに与り続けることが出来るという希望です。
「イエスを信じて」(14節)、即ち、死んで甦られた主イエスを通して、主イエスと共に導き出されることが、主との交わりに与り続けることが出来るという尽きない希望となっているのです。
そのことを覚え、慰め合い、励まし合って、お互いの信仰の向上に心がけて参りましょう。
主よ、日々の生活で神を喜び、神に感謝する生活、主に信頼し、御言葉に従う生活が求められていること、その中で特に、死んで甦られた主イエスを通して、共に復活の恵みに与り、永遠に主と共にあることが出来る希望を与えられていることを学びました。どうか、落ち着いた生活のうちに、主に深く信頼し、御言葉に従う喜びをさらに深く味わうことが出来ますように。 アーメン