風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2020年07月

7月31日(金) 第一テサロニケ書4章

「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」 テサロニケの信徒への手紙一4章14節

 4章から第二部に入り、現在の問題についての勧めが語られます。最初に、「主イエスに結ばれた者としてわたしたちはさらに願い、また勧めます」(1節)と言います。「主イエスに結ばれた者として」は「主イエスにおいて」(エン・キュリオー・イエスー:in the Lord Jesus)という言葉です。

 「神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました」(1節)で「学びました」は「受け入れた」(パラランバノー:receive)という言葉です。パウロも、キリストの福音を使徒たちから受け取りました(第一コリント書15章3節参照)。それをテサロニケの人々に伝えました。キリストの福音が次々に手渡されていきます。

 「その歩みを今後もさらに続けてください」(1節)は、原文では「あなたがたがもっと豊かになるためである」(ヒナ・ペリッセウエーテ・マーロン:so that you should abound more and more)です。主イエスにあって受け入れた福音に歩むのは、神に喜ばれる生活において豊かになるため、神に喜ばれる生活をさらに豊かに歩むためということです。

 1節に2度語られる「歩む」(ペリパテオー)という言葉は、「振る舞う、生活する」とも訳されます。「生きる live」ことを「歩む walk」と表現しているわけです。同じ「歩む」という言葉が12節(「品位をもって歩み」)にもあります。同じ言葉で1~12節の段落を取り囲み、かくて「どのように歩むべきか」ということが、この段落の主題であることを明らかにしています。

 神に喜ばれる生活とは、神の御心に従い、「聖なる者」(3節)として「聖なる生活」(8節)をすることであり、神に教えられているように「互いに愛し合う」(9節)こと、そして「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働く」(11節)ことです。

 当時は、労働を悪のように考え、働かずに暮らせる豊かさを持つことが、名誉とされるところがありました。それに対して、ストア哲学の影響で、他人の労働をあてにせずに自ら働くことを高く評価する気風が、一般大衆の間に生まれてきていました。

 パウロはしかし、そのような気風に倣うことなど、人の評判を考えてそのように語っているのではありません。主イエスは自ら、仕えられるためではなく仕えるために、愛されるためではなく愛するために、この世に来られました(マルコ10章45節)。キリストに従う者は、キリストに倣い、進んで奉仕すべきことを教えているのです(第一コリント書11章1節、フィリピ書3章17節参照)。

 「落ち着いた生活」を語った後、13節で「既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」と言います。「眠りにつく」とは亡くなることです。亡くなった者のことで嘆き悲しんで、希望を持たないほかの人のようにならないようにとパウロが願っているわけです。

 勿論、亡くなった者のために嘆き悲しんではならないということではありません。どんなに嘆き悲しんでも、悲しみ過ぎるということはありません。そういう感情を持ってはいけないと言っているわけではないのです。そうではなく、私たちには、死者のことで嘆き悲しみ、希望を失うことがないようにと語っているわけです。

 1章3節に「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」と記されていました。

 ここに、信仰、愛、希望という、永遠に続く神の賜物が登場してきます。そして、ここに「希望」という賜物が既にテサロニケの人々に与えられていることが明言されています。その希望は、私たちの願望などではありません。イエス・キリストに対する希望です。

 イエス・キリストに対して希望を抱いているテサロニケの人々が、眠りについた人たちのことで、希望を失ってただ嘆き悲しむだけの者となるとは考えられないことです。冒頭の言葉(14節)は、その根拠を示すものです。

 「イエスを信じて眠りについた人たち」のことを語っているのは、まさにここがテサロニケの人々の関心事だったからでしょう。パウロは15節で「主が来られる日まで生き残るわたしたちが」と記しています。主の再臨が間近くて、その日まで自分たちは生き残っていると考えていたわけです。ところが、主の再臨を待たずして召される信仰の友が出て来ました。

 それは迫害による殉教でしょうか。あるいは病気で亡くなるということでしょうか。それ以外の死因もあり得ますけれども、いずれにせよ、信仰を持ちながら亡くなった者たちはどうなるのかということが問題になっているわけです。

 その問いに答えるために、冒頭の言葉(14節)を告げているのです。ここで「イエスを信じて」は「イエスによって、イエスを通して」(ディア・トゥー・イエス―)という言葉ですから、「眠りについた」を形容するというより、むしろ、「導き出してくださいます」につけて、「イエスを通して、イエスと一緒に導き出してくださいます」と訳したほうがよいのではないかと思います。

 死んで甦られた主イエスの働きで、共に死から導き出されるということです。「導き出してくださいます」(アクソー)は、「導く」(アゴー)の未来形です。導き出してくださるだろうと推論しているわけです。その根拠を15節に示します。それが、「主の言葉に基づいて」(エン・ロゴー・キュリウー:in word of the Lord=主の言葉において)と言われていることです。

 「次のことを伝えます」以下に主の言葉の内容が告げられますが、主イエス再臨後の出来事について、主イエスご自身の言葉は新約聖書中に記録されていません。聖書外の主イエスの語録か、キリスト教預言者の言葉で主イエスによる啓示という可能性が考えられます。岩波訳では、後者の可能性が大としています。

 この手紙には、キリストが再びおいでになることについての希望の言葉が、1章10節、2章19節、3章13節、5章23節など、あちこちにちりばめられています。そして4章13節以下の段落では、主の来臨そのものについて語られています。

 再臨について、まず「合図の号令」、「大天使の声」、「神のラッパ」という、さながら凱旋将軍の到来を知らせるような現象が起こり、それから満を持したかの如く、「主御自身が天から降って来られます」(16節)。

 すると、「キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し」(同節)ます。それから、「わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼ら(キリストに結ばれて死んだ人たち)と一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」(17節)。

 パウロが語っているのは、単に私たちの体が復活することに対する希望ではありません。再臨の主と出会い、キリストに結ばれて死んだ人たちと共に天に引き上げられ、そこでいつまでも主と共に過ごすことが出来るという、主との交わりに与り続けることが出来るという希望です。

 「イエスを信じて」(14節)、即ち、死んで甦られた主イエスを通して、主イエスと共に導き出されることが、主との交わりに与り続けることが出来るという尽きない希望となっているのです。

 そのことを覚え、慰め合い、励まし合って、お互いの信仰の向上に心がけて参りましょう。

 主よ、日々の生活で神を喜び、神に感謝する生活、主に信頼し、御言葉に従う生活が求められていること、その中で特に、死んで甦られた主イエスを通して、共に復活の恵みに与り、永遠に主と共にあることが出来る希望を与えられていることを学びました。どうか、落ち着いた生活のうちに、主に深く信頼し、御言葉に従う喜びをさらに深く味わうことが出来ますように。 アーメン


7月30日(木) 第一テサロニケ書3章

「わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。」 テサロニケの信徒への手紙一3章9節

 迫害のゆえにテサロニケを去ったパウロは(使徒言行録17章5節以下、10節)、後に残した教会が心配で、若い伝道者のテモテを派遣しました。使徒言行録では、パウロはシラスとテモテをベレアに残したことになっていますが(同14節)、テモテはそのとき、パウロの命を受けてテサロニケに戻ったのでしょう。

 それは、「あなたがた(テサロニケの信徒たち)を励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするため」(1節)です。テサロニケからコリントまで、当時の交通事情で数週間かかったということですから、往復の時間、そしてテサロニケ滞在期間を考えると、旅は2ヶ月以上になったでしょう。

 当初、パウロはアテネで二人が戻って来るのを待っていましたが(使徒言行録17章16節)、二人が戻って来たのは、パウロがアテネを去ってコリントで伝道を始めてからでした(同18章5節)。だから、パウロは鶴のように、キリンのように首を長くして、テモテたちが戻って来るのを待っていたことでしょう。迫害下のテサロニケ教会の様子を早く知りたかったからです。

 そうした事情がここに記されていることを、少々意地悪な注解者は、テモテの働きはあまりうまくいかなかったのではないかと言います。この手紙は、テモテがもたらしたニュースを聞いて喜んだパウロが、さらに教会を励ますために記したものです。テモテが派遣された理由を、わざわざここに書く必要はないのに、それがなされているのは、不首尾だったからだというわけです。

 確かに、人の苦労を慰め、励ますというのは、若者にとって易しいことではないかも知れません。お前に何が分かると言われると、口を閉ざさざるを得ません。神様の慰めがありますようにと語り、祈るというのが精一杯です。それは年をとってもそうですが、苦労を経験している分、同情が出来るというか共感が出来るというものですね。

 パウロがテモテを「わたしの兄弟、キリストのために働く神の協力者」とあらためて紹介しながら、苦難に遭っても誰一人動揺することのないように、彼を派遣したんだと執り成しつつ語っています。

 3節に「わたしたちが苦難を受けるように定められている」という言葉があります。パウロはなぜこのように語っているのでしょうか。クリスチャンは苦しむことになっているという、一般論的な表現でしょうか。確かに、主イエスが苦しまれたから、弟子も苦しみを受けるということはあります。しかし、それ以上のことがあると思います。

 パウロは主イエスに、苦しみの伴う使命を受けました。使徒言行録9章16節に「わたし(イエス)の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼(パウロ)に示そう」とあります。パウロが使徒として選ばれたときの、主がパウロへの使者として遣わすアナニアに告げられた言葉です。パウロが使徒として任命を受けたとき、それゆえに苦しむことも受け入れたわけです。

 しかしながら、パウロは受ける苦しみをじっと我慢しているというわけではありません。そこには深い喜びがあります。その苦しみが主イエスの十字架とつながっていると感じられること、そして、その苦しみを通って復活の恵みに直結されていると信じられることです。

 「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(第二コリント書4章10,11節)とパウロが語っています。

 さらに続けて、「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(同16,17節)と言います。

 神は確かに、万事を益としてくださいます(ローマ書8章28節)。ゆえにパウロは、苦難をも誇りとすると語ることが出来ました(同5章3節)。

 主イエスも「山上の説教」(マタイ福音書5~7章)の冒頭で、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」(同5章11,12節)という祝福を語ってくださいました。

 やがて、パウロのもとへテサロニケからテモテが戻って来て、嬉しい知らせを伝えました(6節)。それは、テサロニケの人々が信仰に立ち、しっかりと主に結ばれていたからです(7,8節)。パウロはそのとき、アテネからコリントに伝道の場所を移していました。

 パウロがコリントで伝道を始めたとき、「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(第一コリント書2章3節)。なぜそんな状態になっているのか、具体的な理由は分かりませんが、テサロニケの人々のことを心配していたことでしょう。そして、テサロニケに遣わしたテモテや、ベレアに残してきたシラスの働きの成果が気になっていたのでしょう。

 また、マケドニアに渡って以来ずっと、ユダヤ人たちによる妨害に会い、その宣教地を去るということが続いていて、弱らせられていたのかも知れません。あるいはまた、パウロの身にある「一つのとげ」(第二コリント書12章7節)が原因だったのかも知れません。

 しかし、シラスとテモテがマケドニア州から到着すると、「パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証し」(使徒言行録18章5節)しました。それは、テモテが「うれしい知らせ」(原文では「福音を告げ知らせる」という言葉が用いられています)がパウロを大いに喜ばせ、励ましたからです。

 アラビアのことわざに、「日光ばかりは砂漠を作る」という言葉があるそうです。私たちは皆、太陽の光を喜びます。晴れていることをよい天気と言い、雨が降ることを天気が悪いという言い方をします。けれども、雨が降らなければ、生命を育むことが出来ません。

 困難が身に及ぶことを好む人はいないでしょう。しかし、私たちの人格、品性は、困難によって練り鍛えられます。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ書5章3,4節)と言われるとおりです。それは、困難にあうとき、人は謙遜にされ、忍耐を学ぶからです。そして、神に助けを求め、傍近くに共におられる主イエスを見出し、御手の業に与るのです。

 パウロはこのとき、自分自身よりもむしろ、テサロニケの信徒たちの困難な状況に心痛めていたのでしょう。しかし、彼らの信仰によってかえって励まされるという恵みを味わいました(7節)。彼らに信仰を与えたのは自分だという自負心がなかったとは思いませんが、しかし、彼らが信仰に堅く立っているのは、神の恵みであることを、誰よりもパウロ自身が知っていることです。

 それがどれほどの喜びであったかが、冒頭の言葉(9節)に窺えます。「感謝」(エウカリスティア)は、「恵み」(カリス)に対する応答に他なりません。「ささげる」の原語は「アンタポディドーミ」で、これは、「アンティ」と「アポ」「ディドーミ」の合成語です。

 「アポ」は「~から」という前置詞、「ディドーミ」が「与える」という動詞で、この二つが組み合わさると、「返す、支払う」という意味になります。そして、「アンティ」は「~の代わりに」という前置詞です。合わせると、「代わりに返す、返礼する」という意味になります。恵みを与えられた者として、喜びあふれて感謝の返礼をせずにはおれないということです。

 パウロはテモテの報告を受けて、コリントの伝道に専念し、キリストを力強く証ししました(使徒言行録18章5節)。そこにも神の恵みが働いていることを、あらためて知らされたからでしょう。そして、そうすることこそ、恵みを無駄にしないというパウロの(第一コリント書15章10節)、神への感謝の返礼ということなのです。

 私たちも主の恵みに与っている者として、主イエスを通して賛美のいけにえ、即ち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう(ヘブライ書13章15節)。それを神がお喜びになるからです(同16節)。

 主よ、どうか私たちをお互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように。そして、私たちの主イエスが御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、私たちの心を強め、私たちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように。 アーメン


7月29日(水) 第一テサロニケ書2章

「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」 テサロニケの信徒への手紙一2章13節

 冒頭の言葉(13節)の「このようなわけで、わたしたちは絶えず」という言葉の原文を正確に訳すと、「このようなわけで、わたしたちもまた、絶えず」となります。「わたしたちもまた」とは、テサロニケの人々が神に感謝しているということが言外に言い表されていると考えられますが、1章2節で語った感謝に続いて、もう一度感謝を語っているということもあるでしょう。

 1章3節では、テサロニケの人々が信仰によって働き、愛のために労苦し、希望を持って忍耐していることを感謝すると言っていました。そこに「信仰」と「愛」と「希望」という三つの言葉が出て来ます。これは、第一コリント書13章13節の大変大事な言葉を思い出させます。

 それは、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」という言葉です。信仰と希望と愛は、聖霊なる神が与える賜物です(12章1節以下、31節)。そして、その中で最も大いなる賜物は愛であると、教えられているのです。

 この信仰と希望と愛という賜物が、設立されたばかりでまだ基礎が固まったとも思えないテサロニケの教会に既に与えられています。彼らは、その信仰によって働き、愛のために労苦し、そして与えられた希望のゆえに迫害を忍耐しているのです。その様子をテモテから聞かされて、パウロは感謝しているのです。

 その感謝をささげた後、パウロはまた新たな感謝をささげます。その感謝の理由は、テサロニケの人々がパウロの語った福音のメッセージを、神の言葉として受け入れたことです。これは、1章6節でも「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」と記しているとおりです。

 テサロニケの人々が御言葉を受け入れたのは、パウロの説教が分かりやすかったとか、上手だったというのではなくて、聖霊なる神の働きです。人々が神の言葉を受け入れ、その御言葉に従って信仰に生きるように導くことが、使徒パウロの使命です。そのために命がけで働いているのです。

 しかし、真剣に働きさえすれば、伝道できる、人々が信仰に導かれるというものでもありません。そもそも、第二回伝道旅行でテサロニケに来る予定はありませんでした。パウロはアジア州、ビティニア州を回るつもりだったのです。

 ところが、そこでの伝道を聖霊に禁じられたと、使徒言行録16章6,7節に記してあります。それは、アジア州とビティニア州で伝道の成果を見ることが出来なかった、それは、彼の伝道を妨害するユダヤ人らの動きがあったということだろうと想像しています。

 それで、これからどうしようかと神の導きを祈っていたら、マケドニアに渡って行けと幻で示されたのです(同9節)。それでテサロニケまでやって来たわけですが、そんなパウロの説教をテサロニケの人々が神の言葉として聞き、主イエスを信じる信仰の道に入ったということ自体が、聖霊の導きです。ですから、神に感謝せずにはおれないのです。

 これは、説教者ならば、誰もが経験するところです。イエス様を信じてほしいと思って、一所懸命説教の準備をします。けれども、願いに反して人々の反応は芳しくない、自分でも、自分の説教がうまく語れたとは思えず、落胆して講壇を降りることがあります。そして、そういうことが少なくありません。

 それなのに、主イエスを信じたいという人々が出て来ます。そのたびに、これは神の導きだ、神が働かれたのだと思います。そして、そのような拙い説教を神様が用いてくださったと思うと、ただ感謝するほかありません。

 パウロはここで、感謝の理由として、驚くべき表現を用いています。それは、彼らがパウロの説教を、「人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」と語った後、「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」と記していることです。

 それは、パウロが語る言葉が、すべて神の言葉であるということではありません。だいいち、パウロは人間です。人間が神の言葉を語るのは、不可能なことです。けれども、テサロニケの人々は、パウロの説教を神の言葉として聞いたのです。

 ここには、パウロ自身の喜びと申しますか、驚きが表現されているのではないかと思います。自分の語る言葉を神の言葉として聴いてくれる、そして、その言葉が彼らの内にあって神の力となって働いていることが分かったというわけです。

 パウロが語っているのは、彼自身が聞いて受け入れた福音です(第一コリント書15章3~5節「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」)。

 パウロが受け入れた福音が彼のうちに働き、彼を使徒として立たせました。つまり、パウロ自身にとっても、聞いたのは人間の言葉ではなく、神の言葉だったのです。それで、パウロはテサロニケで神の福音を宣べ伝えました。そしてテサロニケの人々は、その説教を神の言葉として聞いたというわけです。

 神の言葉には力があります(ヘブライ書4章12節)。暗闇に光を生じさせ(創世記1章3節)、病を癒し(マルコ1章41節など)、悪霊を追放し(同5章1節以下、9章25節など)、嵐を凪に(同4章39節など)、死者に命を与え(同5章41節、ルカ7章14節など)、存在していないものを呼び出すことが出来ます(ローマ書4章17節)。

 テサロニケの人々は、主イエスを見たことがありません。主イエスから教えを受けたこともありません。お会いして教えを聞くことはおろか、見たこともないお方を、彼らは喜びをもって受け入れたのです(第一ペトロ書1章8節参照)。

 そして彼らは、パウロたち一行がベレアへ去ってから後も、迫害の中で信仰を保ち、福音を広めようとしていたのです(14節)。彼らが聞いたパウロの説教が、神の言葉として現に彼らの中に働いているとパウロが語っているのは、そのことでしょう。

 パウロの聞いた福音が神の言葉だから、パウロを迫害者から伝道者に作り変えました。そして、パウロの語る福音が神の言葉だから、テサロニケの人々がそれを受け入れ、彼らもパウロに倣い、そして主イエスに倣う者となったのです。

 神の御言葉が語られ、それを神の御言葉として聞かれるところで、福音宣教の連鎖が起きるのです。それは、語られている福音が、事実、力ある神の御言葉だからです。聖霊の導きによって語られる福音のメッセージを、神が、神の言葉として人々の心に届けてくださり、御言葉を通して神の力が働くようにされるというわけです。

 ローマの信徒への手紙10章17節に「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」という言葉があります。キリストの言葉が、私たちに信仰を与えるということです。すべてを主に委ね、御言葉に従って参りましょう。

 日毎、主なる神のみ顔を慕い求め、御言葉を聴かせてくださいと求めましょう。主を信じ、御言葉を信じましょう。そして、パウロのごとく、テサロニケの教会の人々のごとく、主に従って歩みましょう。福音を宣べ伝えましょう。神の愛を喜びをもって証ししましょう。

 主よ、御言葉を受け入れ、神の力を頂いて御言葉を語るようになった人々の働きにより、私たちも神の御言葉を聞くようになりました。その言葉を神の言葉と信じて受け入れることが出来ました。私たちの中でも御言葉が神の言葉として働いています。聖霊に満たされ、その力を受けてキリストの福音を語り伝える者となることが出来ますように。御名を崇めさせ給え。御国を来たらせ給え。 アーメン


静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に7月26日(日)主日礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。


御覧ください。



*定例集会(主日礼拝、教会学校、聖書の学びと祈り会)を再開しましたが、感染者数が再び増加し始めていて、今後も推移などを注視し、感染拡大を予防するために必要な措置をとらせていただこうと思っています。


*今週30日(木)①10時~、②19時~、聖書の学びと祈り会を行います。新約聖書・第一テサロニケ書3章から学びます。


*集会にお見えになられる方は、マスク着用(お持ちでない方は受付に用意があります)、水分補給のため水筒・ペットボトルなど持参、玄関受付で手指の消毒、前後左右1m以上空けて着席など、感染拡大の予防のためにご協力をよろしくお願いいたします。発熱、咳のある方はもちろん、体調などに不安を覚えられる方は、出席をお控えください。


*日々の生活においても、引き続き手洗い、うがい、手指などの消毒、部屋の換気、マスクの着用など自衛策を徹底され、3密を避け、不要不急の外出をお控えください。


*7月豪雨で、各地に大きな被害が出ています。日本全国、ウイルス感染や自然災害と全く無縁なところなどないと言わざるを得ない昨今です。皆様の上に主の守り、助け、平安が豊かにあり、日々健やかに過ごされますように。


7月28日(火) 第一テサロニケ書1章

「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。」 テサロニケの信徒への手紙一1章6,7節

 今日から第一テサロニケ書を読みます。本書は、パウロによって第2回伝道旅行でコリント滞在中(紀元50年頃)に記されました。1章1節には、共同執筆者としてシルワノ、テモテの名も記されています。本書は、福音書(紀元70年前後)などよりも早く、新約聖書の中で、最も早く執筆されたものと考えられています。

 テサロニケの教会は、フィリピ教会と同様、パウロの第二回伝道旅行のときに、その伝道の働きによって紀元49年頃築かれました(使徒言行録17章)。テサロニケは当時、人口12万を数え、マケドニア州の州都として隆盛期を迎えていました。現在は、40万ほどの人口があるそうです。マケドニアがあれば、カチドニアがあるのかと尋ねるのは、単なるダジャレの世界です。

 使徒言行録17章2節によれば、パウロのテサロニケ伝道は数週間という短期間のようですが、2章9節の「だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした」という言葉や、フィリピ4章16節の「テサロニケにいたときにも・・・何度も物を送ってくれました」という言葉は、パウロの滞在が決して短期間ではなかったことを示しています。

 パウロとシルワノ、テモテの働きで、教会の基礎が築かれたようですが、そうなると、パウロたちの働きを妨害する動きもあらわになります。パウロたちの活躍を妬んで暴動が起こり、町が混乱に陥りました。パウロたちの身に危険が及んだので、やむなくテサロニケを後にして、次の宣教地ベレアに向かいました。

 しかしながら、テサロニケには生まれたばかりの教会があります。迫害の中に残された信徒たちが心配です。そこで、パウロはアテネからテモテを遣わします(3章1節以下)。テモテのテサロニケ派遣のことは、使徒言行録では全く触れられていません。テモテを遣わすのは、テサロニケの人々が苦難の中でも動揺せず、信仰を守るように励ますためでした。

 アテネとテサロニケは、徒歩で数週間という距離です。テサロニケで活動する時間を考えれば、テモテがアテネからテサロニケに行き、パウロのもとに戻ってくるまでには、最低でも2ヶ月以上かかったことでしょう。テモテが戻ってくるときには、パウロはアテネを去って、コリントに移動していました(使徒言行録18章1,5節参照)。

 パウロのもとに戻ってきたテモテの報告を聞いて、パウロは飛び上がるほど嬉しかったことでしょう。それは、彼らの信仰と愛について「うれしい知らせ」(エウアンゲリゾマイ)がもたらされたからです(3章6節以下)。それは、テサロニケの人々があらゆる困難と苦難に直面しながらも、しっかりと主を信じて歩んでいるというものでした。

 それで嬉しくなって記したのが、この手紙なのです。ですから、この手紙を読むと、パウロの喜びと感謝が伝わってきます。その感謝に基づいて、生まれたての教会がしっかりと建て上げられるよう、彼らの信仰を強めて確固たるものにしようとしているわけです。

 5章11節の「向上に心がける」は、「建て上げる」(オイコドメオー build up)という言葉です。この言葉は、ローマ書14章19節、15章2節、第一コリント書10章23節、14章4,17節などにも用いられ、信仰が強められることを、教会を建て上げるという言葉で表現しているわけです。

 2節に「神に感謝しています」という言葉が出て来ます。このところを原文で読むと、2節から5節までは一つの文章です。そして「わたしたちは感謝しています」(エウカリステオー)が、長い文章の主文(主語、述語)なのです。そして、6節以下も、パウロの感謝の内容が記されていると言ってよく、1章全体が「感謝する」という言葉の内容説明になっているわけです。

 そればかりか、3章9節までこの感謝が続いていると見ることも出来ます。そして、5章18節では、「どんなことにも感謝しなさい」という勧めの言葉が記されています。この手紙が「感謝」という二文字に基づいて、テサロニケの人々の信仰を強めようとしているというのは、そうした内容だからです。

 パウロは、「祈りの度に、あなたがた」(2節)、即ちテサロニケの人々のことを思い起こしてと記しています。つまり、パウロは祈りのときに、一人で神の前に立っているわけではないということです。祈りの時に、一緒に立っている信仰の仲間がいたわけです。

 一緒にいる仲間のことをいつも思う、祈りの度に、一人で神の前に立ち、一人で訴えているというのではなくて、テサロニケの人々が信仰の仲間としてパウロと共に立っている、そういう彼らのことを思うと、感謝の思いが溢れて来るというのです。このパウロの祈りの心を、しっかり学びたいと思います。

 祈りの時に、誰と一緒に神の御前に立っているのでしょうか。一人で神の前に立ち、一人で祈っていると考えているのは、まだまだ信仰が序の口なのではないかと考えさせられました。信仰の初歩を後にして、成長していくために、祈りについても大切なことを学び、身につけなければならない、それは、祈るとき、私たちは決して一人ではないということです。

 そのような感謝の思いのうちに冒頭の言葉(6,7節)が記されています。「あなたがたは、ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」(6節)というのは、とても不思議な言葉です。ひどい苦しみを受けているのに、喜びをもって御言葉を受け入れているというのです。

 苦しみに遭うのはいやです。信仰に入ったために苦しみを味わうという事態に追い込まれたテサロニケの信徒たちは、そこで信仰を捨てるどころか、むしろ「聖霊による喜び」に満たされました。どういう心境なのでしょうか。よく分かりませんが、それが神が彼らの中で働いているという証拠です。

 4節に「神に愛されている兄弟たち」と言い、そして、「あなたがたが神に選ばれたことを、わたしたちは知っています」と語っています。テサロニケの人々、即ち異邦人を「神に選ばれている」と言っているのです。

 それは、ユダヤ人たちが拒絶したキリストの福音を、ひどい苦しみを受けながらも、聖霊による喜びをもって受け入れたからです。それこそ、神に愛され、選ばれた者であるしるしだと語っているわけです。ということは、ここにいる私たちも、キリストの福音を受け入れることが出来たということは、神に愛され、神に選ばれた者であるということになります。

 テサロニケの人々は、御言葉を受け入れて喜んだでおしまいではありません。彼らは、「パウロに倣う者となり、そして主に倣う者となった」(6節)というのです。「倣う」というのは「ミメーテース」という言葉ですが、ここから、ラテン語の「イミタチオ」、英語で「イミテーション」という言葉が出来ました。

 イミテーションと言えば、偽物、まがい物という意味に用いられるところがあります。けれども、なぜイミテーションが造られたのかと考えると、それは、本物は素晴らしい価値をもっているからです。それを何とか再現したい、近づけたいと考えて、造られたわけです。

 パウロが語った福音、イエス・キリストの福音が素晴らしいので、テサロニケの人々はパウロの真似をしようとしたわけです。つまり、彼らはパウロが自分たちに伝えてくれた神の御言葉、キリストの福音をしっかりと覚え、身につけて、今度はそれを、他の人々に対して宣べ伝えるようになっていったのです。

 パウロは第一コリント書11章1節にも、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と記しています。パウロがキリストに倣う者だから、パウロを手本にすることは、キリストに倣うことなのです。

 それは、完全無欠の立派な生活をするということではありません。立派な生活をしているから、「倣いなさい」と言っているわけではありません。むしろ、欠点だらけの自分をキリストが愛してくださり、使徒として選んでくださった。その神の恵みに感謝して生きている、そのところで自分に倣う者になってほしいと思っています。

 どうすれば、神の恵みに感謝する生活をすることが出来るか、その恵みを回りにいる多くの人々に伝えることが出来るかということをいつも考え、キリストに従って生きようと努力している、そういう生活を真似てほしいとパウロは考えているわけです。ということなら、私たちも同じように、「私に倣いなさい」と言うことが出来ますし、そう言える生活をしなければならないと思います。

 テサロニケの人々は、パウロが語る御言葉を受け入れ、さらに、パウロを真似て神の御言葉を語るようになりました(7,8節参照)。それは、言葉だけによらず、生活を通して、そのような生き方で伝えたのです(8~10節、5節も参照)。

 それで、「主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡った」(8節)と言われているわけです。「響き渡る」とは、山彦、エコーという言葉です。彼らがどのように神を信じるようになったのか、至るところで証ししたのです。そして、その言葉が信徒たちだけでなく、他の人々の口に上るほどの噂になって行ったということです。

 日本の至るところで、神の恵みに感謝する声が響き渡るように祈ります。神を賛美する声が響き渡るようにと願います。私たちが日々、御言葉の恵みに与りながら、神の御前に信仰の輩と一緒に祈れる恵みに感謝しながら生活することを通して、信仰が至るところに宣べ伝えられ、主の御言葉が響き渡るように、そのような信仰の生活の模範になることが出来るようにと、祈りつつ励んでまいりましょう。

 主よ、神に愛され、選ばれたテサロニケの人々がパウロに倣い、主に倣う者となって、主の言葉がマケドニア州とアカイア州、ギリシアの国中に響き渡り、彼らの信仰が至るところで語り伝えられたように、私たちも神に愛され、選ばれた者としてパウロに倣い、主に倣うものとしてください。この地域に、そして日本中に福音が響き渡りますように。 アーメン


7月27日(月) コロサイ書4章

「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」 コロサイの信徒への手紙4章2節

 この手紙は、用語法や文法の特徴から、パウロが語った内容を聞き取ったテモテがこの手紙の執筆し(1章1節)、最後にパウロが署名をして(18節)、それをティキコに届けさせたものでしょう(7節)。ティキコはアジア州出身で(使徒言行録20章4節)、エフェソはアジア州の中心都市でした。ここでパウロと出会い、同労者となったわけです。

 ティキコにオネシモが同行します(9節)。オネシモは、フィレモン書で知られる人物で、フィレモンのもとから逃げ出してパウロのもとに身を寄せ、信仰の道に入り、コロサイのフィレモンのもとに送り返されました(フィレモン書12節)。そこから再びパウロのもとに遣わされ、今度はパウロの使者として、ティキコを連れてコロサイに戻るのです。

 10節に「バルナバのいとこマルコ」の名があります。第2回伝道旅行の際に、マルコのことでパウロとバルナバが衝突したという、いわく付きの人物でしたが(使徒言行録15章38節、13章13節参照)、長い年月を経て、このマルコがパウロにとって有用な協力者になったことを示しています(フィレモン書24節参照)。

 そしてアルキポに、「主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように」(17節)と書き送ります。フィレモン書1,2節の宛名から、このアルキポはフィレモンの子なのではないかということと、コロサイ教会で伝道者として重要な役割を担っていたのではないかということが窺えます。

 「ゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように」と語るということは、アルキポが意気阻喪しているか、あるいは、その務めを軽んじているという様子を想像させます。それに対して、「主に結ばれた者として」それを行うようにと諭しているのです。

 ティキコを7節で「彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕」と紹介し、アルキポのことを17節でに「主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い」と語っています。かくて7節以下の段落は、最初と最後に「主に結ばれた」(エン・キュリオー)という言葉が出て来て、括弧で括ったような形になっています。

 これは、ティキコとアルキポだけのことでなく、「主を信じる者」(3章18節:エン・キュリオー)すべてが主に結ばれた者であり、各自が「主に結ばれた者として、ゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように」と語られているということを表しています。

 私たちが十字架につけられた主イエスを、私たちの救い主、神の御子であると信じることが出来たのは、聖霊の導きです。聖霊が私たちの内に満たされるというのは、キリストが私たちの内に宿られるということであり、それは、イエスこそ私たちの主であるという信仰に堅く立つことです。

 冒頭の言葉(2節)で「目を覚まして」というのは、聖書では通常、終末との関連で用いられます。「世の終わりが近づいているから気をつけて」という意味になります。「十人のおとめ」のたとえ(マタイ福音書25章1節以下)が、「目を覚ましていなさい」(同13節)という警告で締め括られていました。

 朝が来て陽が上り、明るくなると目が覚めます。私たちの心の目、信仰の目を覚まさせるのは、神の御言葉です。御言葉が開かれ、命の光に照らされると、心の目が開かれて来ます。詩篇119編130節に「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます」と詠われています。

 そして、今がどのようなときなのか、何をすべきなのかを教えてくれるのです。御言葉に耳を傾けず、祈りもしないというのは、それは信仰的に「とき」を弁えていない、霊的に眠り込んでいるということになります。目を覚ますことが祈ること共に語られているのは、ひたすら祈ることが、目を覚まして主を待つ正しい姿勢だからです。

 「ひたすら祈りなさい」というのは、「祈りに専念しなさい、絶えず祈り続けなさい」ということです。「絶えず祈りなさい」(第一テサロニケ書5章17節)という言葉もあります。どうすれば、ひたすら祈れるようになるのでしょうか。24時間365日、不断の祈りが出来るでしょうか。それは、人間には無理なことのように思われます。

 けれども、もしそれが不可能なことであるならば、どうして「ひたすら祈れ」、「絶えず祈れ」と命じているのでしょうか。少なくとも、手紙の著者はそれが出来ると考えているのです。どうすればよいのでしょう。

 一つは、私たち弱い者のために、私たちの内におられる聖霊が、私たちのために執り成しの祈りをしておられることを覚えましょう(ローマ書8章26,27節)。私たちを守る神は「まどろむことなく、眠ることもない」(詩編121編4節)お方ですから、不断の呻きの祈りをささげて、万事が益となるように働いておられるのです。

 さらに、もう一つ。不断の祈りを一人の人間が行うのは、現実的には上記の通り無理かもしれませんが、他の人に祈りの応援を頼んだらどうでしょう。一方が眠っている間、他の人が目を覚ましているというかたちで、お互いのために祈るのです。

 パウロも「ひたすら祈りなさい」と言った後に、「わたしたちのためにも祈ってください」(3節)と祈りを要請しています。お互いに祈り合うことを通して、そのような祈りの交流を通して、不断の祈りが神の前にささげられることになるのです。

 神に心を向けて祈ろうとするとき、私たちのために不断に執り成し、万事を益としてくださる聖霊の働きを思い、また、お互いのために祈る信仰の仲間のあることを思うと、心に感謝と賛美が湧き出して来るでしょう。パウロがここに「感謝を込め、ひたすら祈りなさい」というのは、そのことではないでしょうか。

 絶えず主を仰ぎ、御言葉を求めて祈りましょう。そうして感謝と喜びに満たされましょう。主は、求める者に必ず良いものをくださいます(マタイ福音書7章11節)。そう信じるからこそ、目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈るのです。

 主よ、毎日の慌しい生活の中で祈りはしますが、いつの間にかその祈りから、神を慕い求め、喜びをもって御言葉に聴き従う思いが失われています。やがて、祈らずに忙しく走り回っている自分を見出します。御言葉と祈りを通して、いつも目覚めさせてください。主の御心を心とすることが出来ますように。 アーメン


7月26日(日)主日礼拝説教

7月26日(日)の主日礼拝には、教会員14名、来賓10名がお見えになりました。感謝です。


主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「ノアの箱舟」
聖書 創世記6章
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師


アドレスをクリックして、ご覧ください。



*新型コロナウイルスの感染が増大してきています。教会にお見えになる際には、マスクの着用(お持ちでない方のために教会に用意があります)、水分補給のための水筒・ペットボトルなど持参、礼拝堂玄関受付で手指の消毒、礼拝堂では前後左右1m以上空けて着席(ソーシャルディスタンス)など、感染防止策を徹底してください。熱があったり咳が出る方、健康などに不安のある方は、集会出席をお控えください。

*日常生活においても、3密を避け、不要不急の外出を控えるなど、感染拡大防止に努めましょう。

*日々聖霊の導きを祈りながら聖書を開き、主のみ言葉に耳を傾けましょう。主に託されているめいめいの命、健康を守ることを最優先に、いつでも何処でも主イエスのみ顔を仰ぎ、み言葉に耳を傾ける礼拝の生活をしましょう。

*皆様とご家族の上に主の守りがありますように。



7月26日(日)主日礼拝案内

02
7月26日(日)は、教会学校小学科(小学生)、青少年科(中学生~)を9時半から、成人科を9時40分から行います。

教会学校は、「聖書教育」誌に基づいて第二テサロニケ書から、共に聖書の学びと交わりを行います。


主日礼拝を10時半から行います。

礼拝では、創世記6章より「ノアの箱舟」と題して原田牧師より奨励をいただきます。


写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。


3密を避けるため、主日礼拝は通常のプログラムを短縮しています。


教会においでくださる方は、マスク着用(お持ちでない方のために教会に用意があります)、水分補給のための水筒・ペットボトルなど持参、礼拝堂玄関受付で手指の消毒、礼拝堂では前後左右1m以上空けて着席など、感染拡大防止のためにご協力をよろしくお願いします。

熱、空咳、倦怠感など新型コロナウイルス感染症の主な症状のある方は勿論、体調などに不安のある方は、出席をお控えください。


お昼の用意はありません。

礼拝後すぐに信徒会を開きます。



日常生活においても感染拡大を防止するため、引き続き手洗い、うがい、消毒、外出時のマスク着用、部屋の換気などを徹底し、3密を避けて不要不急の外出は避けましょう。熱中症の危険性も高まっているので、エアコンなどを適宜使用しながらしっかり換気を行い、こまめに水分補給をしてください。


皆様の心身の健康・健全な生活が守られますように。



7月26日(日) コロサイ書3章

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」 コロサイの信徒への手紙3章16節

 パウロの手紙には、前半に教理的な事柄、そして、後半は実践的なことが記されるという特徴があります。本章にも、私たちのすべきこと、あるいは、すべきでないことが具体的に出て来ます。たとえば9節に「互いにうそをついてはなりません」とあります。これは、特別な言葉ではありません。ごく一般的な勧めといっても良いでしょう。つまり、言葉の真実が求められているのです。

 自分の子どもに嘘のつき方を教える親などいません。むしろ、正直、素直であることを願うでしょう。そおれなのに、嘘をついたことがないという人はいません。勿論、今日は上手に嘘をつこうと思って一日を始める人もいないでしょう。それなのに、思わず知らず、真実でないものが口をついて出て来ます。

 主イエスが、「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」(マタイ12章34節)と言われました。心に真実があれば、心から溢れて来る言葉は、真実なものであるはずです。真実でいられない何かが、私たちに偽りを語らせるのです。

 心を真実で満たすこと、そこから真実を語ることは、私たちの努力や精進によっては到達し得るものではありません。8節で「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい」と言われています。これらは、真実な交わりを阻害するもの、壊してしまうものですが、捨てなさいと言われて、そう簡単に捨て去ることが出来ないのです。むしろ、不可能でしょう。

 ただ、「無理、そんなこと出来ない」ということは簡単ですが、そういえばすむという話でもありません。そして勿論、パウロはここに、無理なことを要求しているわけではないでしょう。

 そのことで、私たちに心の姿勢の基本を教えているのが、1~4節です。1節に「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」とあり、続く2節に「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と言われています。上にあるものを求め、それを心に留める生活をせよというわけです。

 ここで、上とは、単純に真上というようなことではありません。私たちの真上は、裏側のブラジルの人々には真下ということになってしまいます。1節後半に「そこでは、キリストが神の右の座についておられます」と記されています。つまり、上とはキリストが座しておられるところという意味です。

 そこで、「上にあるものを求める」とは、玉座に着いておられるキリストの支配、キリストによる統治を追い求めるということになります。それは、一度キリストに従うと言えば、それでよいということではありません。瞬間瞬間、キリストを私の主、私の神とするということです。

 主イエスが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ福音書6章33節)と言われました。「神の国」とは「神の支配」を、「神の義」は「神の救い」を表わします。常にキリストを私の主とするということは、祈りなしには出来ません。だから、神の国と神の義を求めよ、求め続けよ、と命じているのです。

 「心に留める」(フロネオー)という言葉には、「注目する、関心を払う、愛情をもって心に抱く」という意味があります。神の右に座しておられる主イエスを、私たちの心の中心にお迎えする、私たちの心を主イエスに明け渡し、支配して頂くと言えばよいでしょうか。そうすれば、地上のものに心引かれることはないでしょう。

 冒頭の言葉(16節)で「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」と命じられています。キリストの言葉が豊かに宿るとは、キリストの言葉をたくさん憶えるということではありません。勿論、御言葉を憶えることも大切なことですが。

 ここで、「言葉」(ホ・ロゴス the word)は単数形で、定冠詞がついています。ヨハネ福音書1章1節以下の「言(ことば)」が「ホ・ロゴス」です。つまり、「キリストの言葉」とは、キリストのご人格そのもの、キリストご自身のことであるということです。

 「豊かに宿るようにしなさい」と言われていますが、キリストは私たちの内にあって、豊かに宿っておられるのでしょうか。それとも、貧しく宿っておられるのでしょうか。それは、主ご自身が豊かなのか、貧しいのかということではありません。私たちが主の働き、臨在を豊かに期待し、信頼し、味わおうとしているのか、否かということです。

 それは、感覚の問題ではなく、信仰の問題です。私たちの心がどちらを向いているのかということです。キリストの御顔を仰ぎ、御言葉を慕い求めているのでしょうか、それとも、キリストから離れ、「巧みな議論にだまされ」(2章4節)て、自分勝手に「何の価値もなく、肉の要望を満足させるだけ」(同23節)の道を歩んでいるのでしょうか。

 私たちが、キリストに顔を向け、その御顔を拝し、御言葉に耳を傾けることに集中しているならば、私たちの心には、聖霊を通して神の愛が注がれて来るでしょう(ローマ書5章5節)。その愛によって、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け」(12~14節)ることが出来るでしょう。それは、キリストが私たちの内にあって、豊かにお働きくださるからです。

 エフェソ書5章18、19節にもよく似た言葉が記されています。そこでは、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」というところを、「霊に満たされ」るようにしなさいと言っています。キリストの言葉、キリストのご人格が私たちの間で豊かに働かれることを、エフェソ書では「聖霊に満たされ」ることと言い換えているわけです。

 キリストが豊かに働かれると、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合」うことになります。そこに、キリストの平和があり、忍耐や赦し合いがなされています(13,15節)。また、「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえ」ることになります。

 「感謝して」は、「恵み」(カリス)という言葉です。冠詞がついていれば、神の恵みという意味になります。写本では、冠詞のついたものとついていないものがあります。現代の日本語訳(口語訳、新改訳、新共同訳)は、冠詞がついていないものを選んだかのように、「感謝して、感謝にあふれて」と訳しています。

 ただ、賛美は神の祝福に対する応答ですし、キリストが豊かに働かれるとは、神の恵みの内を歩ませていただくことであると考えて、「神の恵みにおいて、心から神をほめたたえなさい」と読むことも、とても意味深いことでしょう。岩波訳は「〔神の〕恵みにあって、あなたがたの心でもって神に向かい歌いなさい」と訳していました。

 主が私たちの内に共にいてくださる恵みを絶えず覚えながら、心から感謝して主を賛美しましょう。

 主よ、私たちの内にあなたの御言葉が生きて働きますように。いつもあなたの御顔を求めます。あなたを賛美する心で、兄弟姉妹が互いに教え、諭し合い、愛し合い、助け合い、祈り合うことが出来ますように。私たちの内に働かれるキリストを通して心から賛美のいけにえ、主の御名をたたえる唇の実を献げさせてください。 アーメン


7月25日(土) コロサイ書2章

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」 コロサイの信徒への手紙2章3節

 1~5節は、1章24~29節で語っていた使徒としての務めを、コロサイの人々に対するものとして描写しています。1章27節で「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内にいるキリスト、栄光の希望です」と、異邦人一般に対するものとして語っています。

 それを「わたしがあなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して戦っているか、分かって欲しい」(1節)と言い、続けて「それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです」(2節)と告げます。

 使徒として世界に福音を宣べ伝えるというのは、様々な人々と実際に出会い、そこで多くの困難や苦労、苦痛、苦悩を味わいながらも、しかし喜び多き務めです。ここに「あなたがた」というコロサイの信徒たちに並んで「ラオディキアにいる人々」に対しても語られているということは、二つの教会が距離的に近いこともあり、同じような問題に直面しているということなのでしょう。

 パウロは冒頭の言葉(3節)のとおり「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」と語ります。ということは、知恵と知識の宝が欲しい人は、キリストに注目し、キリストに関心を寄せ、その御言葉に耳を傾けなければならないということです。

 「キリストの内に隠れている」ということは、人間が自分でそれを獲得しようと思っても、それで自分のものにすることは出来ないということです。一方、キリストは、ご自身が内にもっておられるこの宝を、自由に与えることが出来るのです。そして、キリストを信じる信仰によって、その宝をいただくことが出来ます。キリストが私たちの内に住まわれるからです(1章27節)。

 パウロがこのことをここに書き記したのは、コロサイ教会の信徒たちが、「巧みな議論にだまされないようにするため」(4節)です。「巧みな議論」(ピサノロギア)とは、「説得力がある」(ペイソス)と「言葉」(ロゴス)との合成語です。

 コロサイ教会の指導者エパフラスは、危険な異端の教えが教会に侵入してきたとき、それに脅威を感じて、獄に囚われている使徒パウロに指導を仰ぎました。ということは、教会内に「巧みな議論」の罠に落ちた人が少なくなかったものと考えられます。それによって、彼らはキリストの言葉から離れ、説得力のある魅力的な指導者の言葉に耳を傾けるようになったのでしょう。

 しかし、いかに説得力があり、魅力的であっても、そこに命がなければ、それが真実でなければ、結果は空しいものになります。「巧みな議論」を8節では「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまりむなしいだまし事」と言います。それは人の言い伝えにすぎず、また人が思索を重ねた「哲学」であって、キリストに根ざした真理では有り得ないのです。

 かつて、神の造られた野の生き物のうちで最も賢い蛇が、人を惑わしました(創世記3章1節以下)。女は蛇の語った「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」(同4,5節)という言葉を真に受けて、取って食べるなと命じられていた善悪の知識の木の実を食べ、男にも渡して食べさせました(同6節)。

 その結果、彼らは裸であることを知り、腰を覆うためにイチジクの葉を綴り合わせました(同7節)。そして、主なる神の足音を聞いて、神を恐れて身を隠しました(同8節)。そのことを神に問われて、「恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」(同10節)と答えます。それが、「目が開け、神のように善悪を知るものとなること」なのでしょうか。

 パウロは、異端の「巧みな議論」によって神の顔を避け、キリストの御言葉に背いて信仰から離れるような空しい結果にならないように、むしろ、キリストの内に隠されている知恵と知識の宝を、キリストを信じる信仰により、恵みとしてしっかりと受け取るように、教え諭しているのです。

 そもそも、異邦人であったコロサイの教会の信徒たちが主イエスの福音を信じることが出来たのは、神の愛、キリストの恵み、聖霊の導きの賜物でした。神が私たちにお与えくださるものが、私たちにとって最善の宝物であると信じ、受け止めることの出来る人は、本当に幸いです。

 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ福音書4章4節、申命記8章3節)と言われます。神の御言葉こそ、私たちに命を与え、力を与える生きたパンなのです。御言葉によって、私たちの必要の一切が創造され、豊かに注ぎ与えられるのです。

 御前に謙り、日ごとに主の御言葉の恵みに与らせていただきましょう。御言葉を通して、主イエスを信じる信仰に、さらに深く進ませていただきましょう。私たちの内におられるキリストこそ、栄光の希望だからです。

 主よ、弱い私たちを憐れんでください。御言葉と霊の恵みをもて、日々養ってください。主イエスに堅く結ばれ、御言葉を信じて前進させてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。御心を行うことが出来ますように。 アーメン


プロフィール

pastabco

記事検索
最新コメント
月別アーカイブ
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ギャラリー
  • 8月2日(日)主日礼拝説教
  • 8月2日(日)主日礼拝案内
  • 7月26日(日)主日礼拝説教
  • 7月26日(日)主日礼拝案内
  • 7月19日(日)主日礼拝説教
  • 7月19日(日)主日礼拝案内
  • 7月12日(日)主日礼拝説教
  • 7月12日(日)主日礼拝案内
  • 7月5日(日)主日礼拝説教
  • 7月5日(日)主日礼拝案内
  • 6月28日(日)主日礼拝説教
  • 6月28日(日)主日礼拝案内
  • 6月21日(日)主日礼拝案内
  • 6月14日(日)主日礼拝説教
  • 6月14日(日)主日礼拝案内
livedoor 天気
「livedoor 天気」は提供を終了しました。
「J-CASTニュース」は提供を終了しました。
楽天市場
「Amazonライブリンク」は提供を終了しました。
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ