風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2020年06月

静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に6月28日(日)主日礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」、「フォトギャラリー」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。


御覧ください。


定例集会(主日礼拝、教会学校、聖書の学びと祈り会)を再開しましたが、非常事態宣言の解除後、県境を越える移動制限も全面的に解除される中、関東圏で感染者数が再び増加し始めているため、その推移などを注視し、感染拡大を予防するために必要な措置をとらせていただこうと思っています。



今週2日(木)10時から、聖書の学びと祈り会を行います。
新約聖書・第二コリント書8章から学びます。


集会にお見えになられる方は、マスク着用(お持ちでない方は受付に用意があります)、水分補給のため水筒・ペットボトルなど持参、玄関受付で手指の消毒、前後左右1m以上空けて着席など、感染拡大の予防のためにご協力をよろしくお願いいたします。
発熱、咳のある方はもちろん、体調などに不安を覚えられる方は、出席をお控えください。


日々の生活においても、引き続き手洗い、うがい、手指などの消毒、部屋の換気、マスクの着用など自衛策を徹底され、3密を避け、不要不急の外出をお控えください。

主の守りと平安が皆様の上に豊かにあり、日々健やかに過ごされますように。


6月30日(火) 第二コリント書6章

「なぜなら、『恵みのときに、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ救いの日。」 コリントの信徒への手紙二6章2節

 冒頭の言葉(2節)の二重括弧は、旧約聖書・イザヤ書49章8節からの引用です。この箇所は、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放され、祖国に戻り、イスラエルを再興するという預言の言葉が記されているところです。

 引用句の直後に「わたしはあなたを形づくり、あなたを建てて民の契約とし、国を再興して荒廃した嗣業の地を継がせる」(同節)と言われており、また同11節には「わたしはすべての山に道を開き、広い道を高く通す」と記されています。

 ここで、「恵みのときに、わたしはあなたの願いを聞き入れた」というのは、イスラエルの願いが聞かれたのは、彼らが神に喜ばれる正しい歩みをしていたからではなく、神が彼らを憐れみ、恵みを与えようと思われたゆえだということです。「救いの日」という言葉で、捕囚からの解放とイスラエルの再興は、神の御業であることが明示されています。

 パウロは1節で「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」と語っていました。「無駄に」は「空っぽへ」(エイス・ケノン in vain)という言葉です。父親から生前贈与してもらった財産を、放蕩三昧に使い果たした弟息子のことを思い出す表現です。これは、神の恵みにふさわしい生活をするようにという勧めです。

 神からいただいた恵みを無駄にするということは、神の救いをいいことに、放縦な生活を続けて罪を重ね、その上、高慢な態度をとっているという、第一コリント書5章1,2節に記されている問題行動や、それを容認するようなことでしょうか。

 それとも、救いの完成のためには、キリストを信じるだけでなく、割礼を受けることや神の律法を忠実に守り行うことが必要だといって、パウロの告げ知らせたキリストの福音から他の福音に乗り換えるというようなことでしょうか(ガラテヤ書1章6,11節、2章21節参照)。

 パウロはこの勧めを、「(神の)協力者」(スネルグーンテス)として行います。これは、「共に(スン)」・「働く(エルゲオー)」という言葉の現在分詞です。「神」という言葉は、原文にはありません。誰と「共に働く」のかを明確にするため、前後の文脈から、「神」を付加したのでしょう(口語訳、新改訳も)。

 その意味で、神と対等の協力者、神のパートナーなどと言おうとしているわけではありません。5章19節にあるように、キリストを通して神と和解する恵みを受けた者が、和解のために奉仕する任務を神に授けられたということでしょう。それで、「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」と語っています(5章20節)。

 これは、未信者に語られている言葉ではありません。コリントの信徒に語られている言葉です。この文脈から、和解の恵みは、信仰を持たない者に与えられるばかりでなく、既に信仰を持っているコリント教会の人々が、絶えず与り続けなければならないものであり、そうであれば、私たちすべての者が聴くべき言葉であるということが分かります。

 「恵みの時、救いの日」は、人の意思や願いによって起こされるものではなく、神が御自分の意思でお与えになるものす。そして、イザヤがこの預言を語ったとき、この御言葉を信じた人々の信仰において、神の救いの御業が始まったのです。

 パウロはイザヤの預言を引用してすぐに、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と語ります。「こういうことがあったといって話するだけではすまないように感じられ、大声を上げて感謝し、その感動を伝えるほかはないと思ったのであるに違いない。だから、ほとんど絶叫するように、『今や、恵みの時、今こそ、救いの日』とパウロは叫んだ」と、ある説教者が語っていました。

 キリストと出会って神の恵みを味わい、和解の務めに任じられたパウロは、すべての人が、絶えず神の恵みを味わい、救いの喜びに溢れていることを願い、そのために働いているのです。

 私たちは、神と和解させていただいたこと、救いの恵みに与ったことをどれほど喜び、感謝しているでしょうか。私たちが味わっている神の恵みは、時に何とも貧弱で、困難に出会うとどこかに消え去ってしまいます。自分は神に愛されているのだろうかと疑うことさえあります。

 「天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。山々よ、歓声をあげよ。主はご自分の民を慰め、その貧しい人々を憐れんでくださった」(イザヤ書49章13節)とあるとおり、すべての被造物と共に、主の救いの御業をほめたたえ、感謝しましょう。今こそ、願いが聞き入れられ、神の助けを受ける恵みの時、救いの日なのです!

 主よ、あなたは私たちの弱さをご存じです。あらゆる困難から救ってください。苦しみを取り除いてください。あなたを信じます。御言葉を信じます。今を恵みの時、救いの日としてくださることを信じて、感謝します。恵みに相応しい生活、主に感謝し、御言葉に聴き従う歩みが出来ますように。 アーメン


6月29日(月) 第二コリント書5章

「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」 コリントの信徒への手紙二5章1節

 新共同訳聖書は、4章16節から5章10節までの段落に「信仰に生きる」という小見出しをつけています。

 この段落の最初に、「わたしたちは落胆しません」(4章16節)と記されています。実際には、パウロを失望落胆させる出来事、数々の問題が、コリント教会内部で起きていました。パウロが派遣したテトスの問題解決のための働きが不首尾で、教会が分裂するようなことになっていれば、また、パウロの指導に従わない事態になっていれば、「落胆しません」とは言えなかったかも知れません。

 その意味でここに「落胆しません」と記すことが出来たのは、パウロの精神力などではありません。それは、テトスを用い、テトスを通して働かれた神の御霊、聖霊の導きの賜物です(5節参照)。その聖霊がパウロの内に働いておられるので、それで「いつも心強い」(6節)、「わたしたちは心強い」(8節)と言うのです。

 7節の「目に見えるものによらず」という言葉は、4章18節にも「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」とありました。見えないものに目を注ぐというのは、少々不思議な、矛盾した表現です。どのようにすれば、見えないものに目を注ぐことが出来るのでしょうか。

 「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続する」(4章18節)という表現から、見えるものとはこの地上のこと、見えないものとは天上のこと、あるいは死後の永遠の世界を指していると考えられます。

 4章16節に「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」と言われています。同18節との関連から、「外なる人」を「見えるもの」、「内なる人」を「目に見えないもの」と言っていることになります。「外なる人」が衰えるというのは、高齢で体が弱ったとか病を患ったというようなことではないのです。

 同17節の「わたしたちの一時の軽い艱難」という言葉は、伝道を妨げる迫害などを想像させます。「衰える」(ディアフセイレオー)は、「破壊する、滅ぼす」という意味もあり、主を信じる信仰により、キリストに従うゆえに迫害を受けて外なる人が衰える、滅ぼされるということです。


 一方、「内なる人」が日々新たにされるというのは、精神はいつまでも元気とか、勇気が湧いて来るということでもありません。17節に「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とあり、キリストを信じる信仰によって新しくされること、再創造されること、甦りの命に与る、その力をいただくことと言ってよいでしょう。


 ということは、「見えるもの」とは、私たちの肉体を含むこの地上の命のこと、そして「見えないもの」とは、主イエスを信じる信仰によっていただいた永遠の命を指していることになります。

 創世記2章6節の記述によれば、人は、土で形作られたところに神が息を吹き込まれて生きる者となりました。即ち、神の霊が私たちの命、私たちを生かすものであるということになります。生きている者は、周囲の人と関係を持ちます。だから、「人が独りでいるのはよくない」(同2章18節)という表現が出てくるわけで、神は共に生きる、互いに助け合う仲間を創造されたのです。

 命ある者は、呼べば答えます。反応します。亡くなると、呼んでも答えなくなります。アダムとエバが善悪の知識の木の実をとって食べたとき(創世記3章6節)、それによって心臓が止まりはしませんでした(同2章17節参照)。それはしかし、神との関係が壊れたことを意味しました。

 背きの罪のゆえに二人はエデンの園を追放されてしまい(同3章23節)、神と顔と顔を合わせて親しく交わることが出来なくなったのです。そのことを、聖書は「死」と表現していたのです(創世記2章17節、3章23節、ローマ書6章23節参照)。

 永遠の命は、神との交わりに生きるために与えられた、神と関係を回復するための、神の子となる命です。神は霊ですから(ヨハネ福音書4章24節)、目には見えません。神は目には見えませんが、イエス・キリストを信じて御子イエスの命、永遠の命をいただいたときに、神がおられるということは確かなことであると知ることが出来るようになります。

 パウロが冒頭の言葉(1節)で説いているのは、私たちの家のこと、建物のことではなく、自分たちの体、そして命のことです。この地上における体と命を、「地上の住みかである幕屋」と表現しています。

 幕屋とはテントのこと、移動式住居のことです。それは一時的な、仮の宿です。ということは、この「幕屋」という表現は、私たちの地上の命は仮のものであるということを示していることになります。同じ考えが第二ペトロ書1章13節で「わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させるべきだと考えています」と表現されています。

 この体、そしてこの命が仮の宿であるとすれば、本当の住まいはどれか、どこにあるのかということになります。それは、神によって備えられた建物、人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかと記されています。神が私たちの本当の体、永遠の命を、天に準備しておられるということです。

 パウロは、この「住みかを上に着たい」(2節)と、今度は着物のイメージで語ります。新しい着物を着せていただくために、そのことに望みをかけて、今この地上で苦しみ悶えているというのです。しかし、天における永遠の住みかに行き、新しい体を上に着るというのは、単に早く死んで天国に行きたいということではありません。

 それは4節で「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません」と語っている言葉で分かります。パウロにとっては、死んだら新しい命をいただくことになるというものではないのです。

 そうではなくて、地上の幕屋を「脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません」(3節)と言い、また、「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たい」(4節)と語っている言葉から、彼にとっての「死」は、永遠の命に飲み込まれることなのです。

 ということは、地上の体を脱いだ裸の魂、裸の命というようなものはありません。今の苦しみは、命に飲み込まれるためのものであって、苦しみから逃れて新しい命を受け取るというのではないのです。

 そのことをパウロは、主イエスの十字架を通して学びました。主イエスは、十字架の苦しみから逃れるために死に、天に昇られたのではありません。そうではなく、十字架の苦しみを通して私たちを贖い、救う道を開かれました。十字架の死に至るまで従順であられた主イエスを、神は高く挙げ、主として、御自分の右に座らせられたのです(フィリピ書2章7~10節)。

 私たちが、「イエスは主なり」と告白出来るのは、イエスを信じる信仰が与えられたからであり、それは聖霊の導きによることでした(第一コリント書12章3節)。パウロは、私たちに聖霊の導きが与えられているということが、天から与えられる住みかを上に着る保証であると言いました(5節)。

 ですから、私たちのこの地上の命が終わる日、死ぬべきものが命に飲み込まれるその日まで、イエスこそ全人類の救い主、私たちの主であるということを、周りの人々に、そして地の果てまで、しっかりと証ししていきましょう。

 主よ、私たちは神の国の住民となる資格を持ってはいませんでした。私たちのためにキリストが死んで、真理であり、命である道を開いてくださいました。それにより、主のもとへ行くことができるようになりました。この福音のために命がけ働いたパウロに倣い、私たちも同胞に広く語り伝えることが出来ますように。 アーメン


6月28日(日)主日礼拝説教

6月28日(日)主日礼拝には、教会員16名、初来会者2名を含む来賓13名がお見えになりました。
感謝です。

礼拝後、第67回定期総会を行い、2019年活動報告、決算、2020年度活動計画、予算(案)を可決承認しました。


主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「造られた人間」
聖書 創世記2章
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師


ご覧ください。




*今月18日(木)より聖書の学びと祈り会、教会学校は先週21日(日)より再開しています。


*教会にお見えになる際には、マスクの着用(お持ちでない方のために教会に用意があります)、水分補給のための水筒・ペットボトルなど持参、礼拝堂玄関受付で手指の消毒、礼拝堂では前後左右1m以上空けて着席(ソーシャルディスタンス)など、感染防止を徹底してください。熱があったり咳が出る方、健康などに不安のある方は、集会出席をお控えください。


*集会をお休みされる方は、日々聖霊の導きを祈りながら聖書を開き、主のみ言葉に耳を傾けてください。主に託されているめいめいの命、健康を守ることを最優先に、いつでも何処でも主イエスのみ顔を仰ぎ、み言葉に耳を傾ける礼拝の生活をしましょう。


*皆様とご家族の上に主の守りがありますように。




6月28日(日)主日礼拝案内

02
6月28日(日)は、教会学校小学科(小学生)、青少年科(中学生~)を9時半から、成人科を9時40分から行います。

教会学校は、「聖書教育」誌に基づいて第一テサロニケ書から、共に聖書の学びと交わりを行います。


主日礼拝を10時半から行います。

礼拝では、創世記2章より、「造られた人間」と題して原田牧師より奨励をいただきます。


写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。


教会においでくださる方は、マスク着用(お持ちでない方のために教会に用意があります)、水分補給のための水筒・ペットボトルなど持参、礼拝堂玄関受付で手指の消毒、礼拝堂では前後左右1m以上空けて着席など、感染拡大防止のためにご協力をよろしくお願いします。
体調などに不安のある方は、集会出席をお控えください。


お昼の用意はありません。

礼拝後すぐに定期総会を開きます。


緊急事態宣言は解除され、県境の移動制限も全面的に解除になりましたが、再び感染拡大が起こる可能性を否定できません。国際的にも患者数は北南米を中心に増加の一途です。未だウイルスの感染を抑止できる仕組み、また治療に効果的な薬が完成し、利用できるようになったというわけでもありません。

感染拡大を予防するため、引き続き手洗い、うがい、消毒、外出時のマスク着用、部屋の換気などを徹底し、3密を避けて、不要不急の外出は避けましょう。熱中症の危険性も高まっているので、エアコンを使用しながらしっかり換気を行い、こまめに水分補給をしてください。


皆様の心身の健康・健全な生活が守られますように。


6月28日(日) 第二コリント書4章

「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」 コリントの信徒への手紙二4章7節

 新共同訳は1節以下の段落に「土の器に納めた宝」という小見出しを付けています。これは、冒頭の言葉(7節)の「このような宝を土の器に納めています」という言葉からつけられたものです。

 冒頭の言葉(7節)に、私たちは土の器の中に宝を納めていて、その宝には並外れて偉大な力があること、それは、その力が私たちから出たものでないことが明らかになるためだとあります。ここから学びます。

 先ず、「土の器」です。私たちは土の器であると読むことが出来ます。神は人を土で創られました(創世記2章6節)。人間は土で創られた神の被造物です。土から創られたものですから、やがて土に帰ります。決して永遠に生きることは出来ません。けれども、人間は、神が意味と目的を持って創り出したものです。何の目的もなく、意味もなく、偶然に出来たものではありません。

 しかし、器も色々です。貴いことに用いられる器もあれば、日常のことに用いられる器もあります(ローマ書9章21節、第二テモテ書2章20,21節)。高価な器もあれば、廉価な器もあるでしょう。いずれにしても、器として重要なのは、その器が使う人にとって、使い勝手がよいものかどうかということです。

 器が、私は価値が高い器だから、そんなことに使われるのはイヤだと言えばどうでしょうか。逆に、私は安価な器だから、人前に出るようなことはしたくありませんといえばどうでしょう。選んだ人を困らせ、恥じ入らせ、そして、二度と選ばれず、用いられなくなってしまうでしょう。器の価値は、器自身が決めるのではなく、器を用いる人が決めるのです。

 パウロは、上記・ローマ書9章21節で「焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」と言い、さらに「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」(同24節)と語っています。

 ここには、パウロ自身の経験がにじんでいます。パウロは、自分は母親の胎内に形作られる前から、異邦人に福音を伝える者として神に選ばれていたと語ったことがあります(ガラテヤ書1章15節以下)。主イエスの福音を異邦人に告げ知らせるように、神によって予め選ばれ、創られたのだというのです。

 しかし彼は、主イエスの福音を伝える者になるどころか、かえって主イエスの弟子たちを迫害し、福音宣教を妨げる者になりました。まさに、神の意に添わない、神の怒りが注がれる怒りの器になっていたのです。

 しかるに神は、そのような者を憐れみをかけてくださいました。「憐れみの器」とは、神の憐れみをいただいた器ということです。そうして、主イエスの福音を異邦世界に伝える使徒となったのです(同1章1節、11節以下、2章7,8節)。キリストによる、パウロという土の器の再創造と言ってよいでしょう。

 神がパウロを異邦人に福音を伝道する器として創られた。しかしパウロは、そのように創られた器を自らの手で壊してしまった。キリストはご自分と引き替えに、パウロをもう一度ご自分の福音を伝える者として再創造されたわけです。神は、キリストの十字架の血と聖霊の火を通して、清い霊、新しい心を創ってくださいます。

 確かに土の器は壊れやすい。8,9節に「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、うち倒されても滅ぼされない」とありますが、土の器は、圧力をかけると割れてしまいます。落とすと壊れてしまいます。途方に暮れて失望します。虐げられると、神は自分を見捨ててしまったのだと考えまるでしょう。うち倒されると、起き上がれません。

 実際、1章8節でパウロは「わたしたちは、耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした」と言っています。

 壊れやすい器、そして壊れたら、自分でもとに戻すことが出来ない土の器が、どうして「四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず」(8節)と言い得るのでしょうか。

 器は、ものを入れるものです。器のうちにあるものが重要なのです。パウロは、私たちは宝を納めていると言っています。宝が器の中にあるというのです。この宝に力があるのです。それは半端な力じゃない。「並外れて偉大な力」と書かれています。口語訳では「測り知れない力」と訳しています。

 測ることが出来ない。けた外れな、人間の想像を超えた力があるというのです。それは、「光あれ」と言われると、光が出来る(創世記1章3節)という力。一言で無から有を生み出す力。何もないところに、材料なしで、ものを作り出すことが出来る力です。科学で証明出来ない、超自然の力です。

 6節に「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました」とあります。かつて光を創られた神が、光を失った人間のために、キリストを通してその光を再創造される。その光がキリストの顔の輝き、神の栄光を悟らせると言います。

 信じられなかった主イエスが、信じられるようになります。イエス・キリストを信じた時、イエス・キリストは私たちの心の中に入ってこられました。私たちの内にキリストがおられる、それは永遠の希望を与えます。「あなたがたの内におられるキリスト、(それは)栄光の希望です」(コロサイ1章28節)とあるとおりです。

 また、聖霊の賜物を頂きました。聖霊を通して、わたしたちの心に神の愛が注がれてきます。神の愛は、神の憐れみは測ることが出来ません。神の愛が私たちを生かします。愛は恐れを取り除きます。希望が与えられます。その希望は失望に終わることがありません。また、聖霊は私たちに力を与えます。

 これは理屈ではありません。本当にそのような愛が、希望が必要です。それは、自分の家庭や職場、学校、そして地の果てまで、どこでも、誰に対しても、キリストの証人となるためです。

 そして、この力は、キリストを死者の中から甦らせました。復活の力、再創造の力です。14節に「主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」と記されています。蘇生ではありません。神の子どもとなる霊の体に生まれ変わるのです。

 これらは神の力です。「並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」というのですから、神に期待し、神を信頼して祈るのです。神がその並外れて偉大な力を働かせてくださるように。私たちの考えでは測り知ることが出来ない力を働かせてくださるように。いまだかつてなかったような恵みの御業が起こされるように。

 そのために、先ず何よりも、御言葉を読みましょう。信仰は聞くことから、聞くことは、キリストの言葉からです。そして祈りましょう。御言葉がこの身になりますように、お言葉ですからやってみましょうと。そして、結果を主に期待しましょう。

 主よ、欠けだらけの土の器である私たちに霊の賜物を与え、福音宣教の業を託されました。御言葉に立ち、信仰によって前進させてください。私たちの内に光が輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟ることが出来ますように。教会の宣教の御業を通して多くの人が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになりますように。御名が崇めさせてください。 アーメン


6月27日(土) 第二コリント書3章

「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」 コリントの信徒への手紙二3章18節

  新共同訳は、3章に「新しい契約の奉仕者」という小見出しをつけています。そのことについて、6節に「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました」といいます。この言葉で「新しい契約に仕える資格」を「霊に仕える資格」と言い換えることで、文字に仕える務めが古い契約に仕えるものであると仄めかしています。

 パウロはローマ書7章6節でも、「わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」と記しています。キリストに結ばれて、律法に対して死んだ者となった結果(同4節)、霊に従う新しい生き方で仕えるようになったのです。

 そして、「文字は殺しますが、霊は生かします」(6節)と言います。「文字」は、古い契約の記された「契約の書」(出エジプト記24章7節)を示しています。律法は法を遵守する力を与えてはくれないので、律法の下にある者はその裁きを免れません。

 パウロはそのことをガラテヤ書3章10節でも、「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべてのことを絶えず守らない者は皆、呪われている』」と、申命記27章26節を引用しながら語っています。

 「霊は生かす」という言葉について、「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(ヨハネ6章63節)と主イエスが仰った言葉を思い起こします。

 人は、土で形作られ、鼻から命の息を吹き入れられて、生きる者となりました(創世記2章7節)。それを詩編104編30節でも「あなたはご自分の息を送って彼らを創造し、地の面を新たにされる」と語っています。「ご自分の息」は「あなたの霊」(岩波訳)という言葉です(口語訳、新改訳も参照)。

 7節以下、モーセの顔の輝きと覆いが話題となります。これは、出エジプト記34章29節以下に記されている出来事です。それによれば、モーセがシナイ山で神と語っている間に、彼の顔が神の栄光を映して光を放っていました。それでモーセは神と語るとき以外は顔に覆いをかけたというのです。

 そのように、旧約の律法に仕える務めでも神の栄光を表すのなら、霊に仕える務め、新約の福音に仕える務めはなおさら栄光に満ち溢れているのだと説明します(8節)。

 このような説明が語られている背景として、ユダヤ教の影響を受けている者がコリントにやってきたか、あるいは教会にユダヤ人キリスト者がいて、神の祝福を得るために、律法を守るべきだと主張していることが考えられます。

 ただ、パウロがここでモーセの顔の輝きと覆いについて説明しているのは、旧約聖書の物語のとおりではありません。彼独特の解釈が施されています。まず、顔の覆いについて、輝きが消え去るのを見られまいとして覆いをかけたと言います(13節)。

 そして、14節で「今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです」というのは、旧約聖書を読み、律法に仕えているとき、そこに主イエスのことが記されていることが分からなかったという、パウロ自身の経験に基づいています。そして、今もキリスト教徒に対する迫害が続いていることが、その明確な証拠だというわけです。

 それに対して、霊によって新しい契約に仕える者は、顔に覆いをかけません(13節)。むしろ、キリストに向き直ることよって覆いが取り去られる(16節)と言います。これも、パウロの体験です。復活の主に出会ったとき、彼の目からうろこのようなものが落ち、はっきり見えるようになりました(使徒言行録9章18節)。それによって、キリストの伝道者、使徒と変えられたのです。

  同様に、コリントの信徒たちは、既に神の栄光を見る者とされているのです。キリストに心を向けるとき、栄光を拝することが出来ます。パウロは、十字架を負って歩まれる主の姿に、信仰によって、神の栄光をはっきりと見出すことが出来たのです。

 私たちも、キリストを信じたとき、心の覆いが取り除かれました。信仰によって主イエスの御顔を仰ぐ者となりました。勿論、主は霊ですから(17節)、肉眼で捉えることはできません。しかし、私たちは信仰によって、主イエスと顔と顔を合わせて語り合っています。御言葉に耳を傾け、思い巡らし、何度も口ずさみ、そして祈りをささげるのは、まことに素晴らしい神との交わりのひとときです。

 夫婦は似てくると言います。また、ペットも飼い主に似ると言います。そんな言い方は不遜かもしれませんが、いつも主を仰ぎ、その御言葉を聴き、交わりに生きる者は、主と似た者に変えられます。自分で変わる努力をするのではありません。努力すれば出来るというものでもありません。

 冒頭の言葉(18節)に言うとおり、主を仰ぐ私たちは、顔の覆いを除かれて主の栄光を映し出し、主の霊の働きで、栄光から栄光へと主と同じ姿に造りかえられるというのです。

 毎日少しずつ、段々にということでもないかもしれません。霊の働きは目に見えないからです。しかし、終わりの時、それは完成されます(第一コリント書15章49節、フィリピ書3章21節)。日々主を仰ぎ、御言葉を慕い求めて参りましょう。

 主よ、あなたは私たちに御言葉を通し、聖霊によって、主と親しく交わる恵みをお与えくださいました。主が常に共におられ、私たちを守り導いてくださること、そして、天に召される希望に生かしていてくださることを、感謝します。絶えず主を仰ぎます。御言葉通り、霊の働きによって栄光から栄光へと主と同じ姿に造り変えてください。 アーメン


6月26日(金) 第二コリント書2章

「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」 コリントの信徒への手紙二2章14節

 第三回伝道旅行の途中、パウロはトロアスに行きました(12節)。ここは、第二回伝道旅行のとき、マケドニアに渡って伝道するよう、幻によって導かれた場所です(使徒言行録16章8節以下)。そして、コリントに教会が作られたのです。

 パウロは、自分がテトスに持たせた「涙の手紙」の結果が知りたかったのですが(4節)、おとなしくトロアスで待っていることが出来ず、せっかく伝道の門戸も開かれていたのに(12節)、マケドニアに出発してしまいました。13節に「兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました」と記されているとおりです。

 その直後に冒頭の言葉(14節)で、「神に感謝します」と述べられています。このつながりがよく分かりません。「神に感謝します」は、直前のパウロの不安な思いとどうつながるのかということになりますが、具体的には、7章5節以下にその内容は述べられます。

 7章5節に「マケドニア州についたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです」とあり、続く6節に「しかし、気落ちした者を力づけて下さる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました」と記されていて、13節は直接そこにつなげると、大変分かり易くなります

 勿論、この手紙を記しているパウロは、よい結果になったことを知って感謝しているわけですから、不安な心を抱いていたけれども、それが神の導きによって感謝に変えられたというかたちです。

 この感謝の表明に続いて、パウロは「キリストの勝利の行進」ということを語り始めます。勝利の行進といえば、通常、戦いに勝った将軍が多くの戦利品と共に捕虜を引き連れて意気揚々と戻ってくる凱旋の行進を思わせます。そのときには、凱旋将軍を迎えるために香が振りまかれ、沿道は歓呼の声で包まれます。

 ところで、キリストの勝利の行進とはどのようなものでしょうか。馬にまたがり颯爽とという行進ではないでしょう。見栄えのしないロバに乗り、それもまだ力不足の子ロバに乗っての行進ではないでしょうか。あるいは、ローマ兵に引き立てられ、十字架を負ってよろよろと歩む主イエスの姿を思い浮かべます。見るところ、勝利の栄光はありません。

 しかし、それはまさに私たちの罪と死に勝利する行進でした。パウロが「わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ」というのは、自分たちは勝利した軍勢の一兵士として誇らしく行進していると言っているわけではないでしょう。むしろ、鎖につながれ、引き立てられて歩く捕虜として、その行進に連なっているのです。そして、パウロをつないでいるその鎖は、恵みという鎖なのです。

 キレネ人シモンが、主イエスに代わって十字架を担いで歩かされました(ルカ福音書23章26節など)。自ら進んでそうしたのではなく、無理に負わされたのです。人々は彼の不運を思ったでしょう。あるいは、主イエスと共に、忌まわしいものと考えられたかも知れません。

 しかし、この男もその家族も主イエスを信じ、キリストのために働く者となりました(マルコ福音書15章21節、ローマ書16章13節参照)。パウロは、あるいは自分をそのキレネ人に重ねているといっても良いのではないでしょうか。そしてそれは、パウロにとって、この上もない喜びと思われたのです。

 だから、この行進に連なる者となったことを、ここで感謝しているのです。その行進に加わることで被る苦しみ、それによる不安や恐れがあるでしょう。また、誤解も曲解もあるでしょう。それでも、彼から感謝を奪うことは出来ないのです。

  そしてパウロは、使徒の働きを「キリストを知るという知識の香りを漂わせ」ることと語り、続く15節でも、「わたしたちはキリストによって神にささげられる良い香りです」と言います。神へのいけにえには、香油が添えられました。その働きがよいものであり、神にささげられたものであることが示されます。

 しかしそれは、決してパウロ自身が良いものであるということではありません。それが良い香りとされるのは「キリストによって」、十字架につけられたキリストの手を通して、神にささげられたものだからです。

 こうして、パウロはここでも自分を、十字架につけられたキリストの福音を宣べ伝える使徒とされた者であると、明確に語っているのです。「キリストを知る」者とされたこと、キリストの迫害者からキリストの使徒へと変えていただいたことを思うとき、パウロの心はいつでも、感謝で溢れるのです。

 私たちも、主の恵みによってキリストを知る者とされました。心から感謝を込めて賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の実を絶えず神に献げましょう。 

 主よ、あなたは私たちを選ばれました。あなたは慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神であられ、その恵みによる選びから漏れる者は一人もいません。心から感謝し、御名を褒め称えます。御心がこの地に行われますように。そのために私たちを聖霊で満たし、あなたの用い易い器とならせてください。 アーメン


6月25日(木) 第二コリント書1章

「あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。」 コリントの信徒への手紙二1章11節

 今日から、コリントの信徒への手紙二を読み始めます。本書は、聖書学者の注解によれば、もともと一通の手紙ではなく、数通の手紙がパウロの死後、一つにまとめられたものと考えられています。岩波訳は、五つの手紙の集合体(A:2:14~7:4、B:10:1~13:13、C:1:1~2:13,7:5~16、D:8:1~24、E:9:1~15)として、その順番に並べ直して翻訳しています。

 五つの手紙の集合体ということであれば、誰が、いつ、何の目的でこのように組み合わせたのか、五つの手紙それぞれの執筆場所や時期など詳細は分からないということになりますが、一般的に、第三回伝道旅行の途中、エフェソから紀元55年に出した第一の手紙に続いて、その1年後の紀元56年頃にマケドニア地方、恐らくフィリピで執筆されたものと考えられています。

 私たちは、この手紙がいつどこで、どのようにして執筆されたか、はたまた編集、統一されたかということについて、十分に知り得なくても、それで、手紙の内容が理解出来なくなるわけではないので、現在、新約聖書において提供されているまま、読み学ぶことが出来ることを喜び、そのメッセージを受け止めていこうと思います。

 第一の手紙は、コリント教会の質問に答える形で、教会内の問題、危機に対処しようとしている内容でしたが、第二の手紙は、第一の手紙で問題とされていたことが解決を見ることが出来たので、そのことの喜びと感謝をもって、さらにコリント教会の信徒たちを整えるために、パウロが筆をとったものと考えられます。

 3節に、賛美の言葉があります。特に「慰めを豊かにくださる神」(セオス・パセース・パラクレーセオース the God of all comfort、新改訳:すべての慰めの神,岩波訳:あらゆる慰めの神)と言っています。これは、パウロが様々な苦難を味わい、神によって慰めが与えられたという彼自身の体験から語られた賛美の言葉でしょう。そしてこの表現で、1~9章の基調が規定されています。

 4節の「神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」という言葉から、パウロの苦難の体験、そして、神の慰めを受けた体験が、使徒としての働きにマイナスになるのではなく、むしろ、それが有益に用いられていることが示されます。

 8節で「アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい」と言っています。それは苦難の内容ではなく、彼が苦難に際してどのように考え、何を信頼したのかということです。11章23節以下にパウロが経験した苦難のリストがありますが、今ここでパウロが語る苦難がどのようなものなのかは、判然としません。

 恐らくそれは、パウロが熱心に福音を告げ知らせることによって生じたものでしょう。それは「耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました」(8節)ということですから、彼に対する厳しい迫害、宣教妨害がなされたことを想像します。

 「アジア州で被った苦難」について、具体的には何も知らされていません。あるいは、エフェソで投獄の難に遭ったのではないかと想像します。それは、生きる希望を失わせるほどの厳しさでした。9節に「死の宣告を受けた思いでした」とありますから、法廷で死刑を宣告されたわけではないでしょうけれども、そう表現せざるを得ない事態に至ったということでしょう。

 そのときに、パウロの内側には、自分を支えるものがありませんでした。「自分を頼りにすることなく」(9節)というのは、そのことです。つまり、「自分は信仰を持っているから、この状況から必ず救い出されると確信する」というような心境ではなかったのです。その意味では、まさに絶望的だったわけです。

 しかし、まったく絶望していたというのではありませんでした。彼には唯一のよりどころがありました。それは、「死者を復活させてくださる神を頼りにする」ことです。自分が生きていられるという希望は全くないけれども、死者をさえ生かしてくださる神に信頼する、すなわち、殉教しても永遠の命に生かされる希望を持っているというわけです。

 そして、ただ主だけを頼りとするというこの信仰に神が応えられ、パウロは、その絶体絶命の危機から脱出することが出来たのです。そうして、これからも神が救ってくださるに違いないという希望を持つようになったのです(10節)。

 かつて使徒ペトロがエルサレムで捕えられて獄に投じられたとき、やはり絶体絶命の状況でした(使徒言行録12章1節以下)。その背後では、ペトロの救出のために熱心な祈りがささげられていました。神は、その祈りに応えて天使を遣わし、厳重監視の下、拘束されていた牢の中から、ペトロを救い出されました(同6節以下)。

 パウロのためにも、フィリピの教会の人々やアンティオキアの教会の人々が熱心に祈っていたことでしょう。その祈りに応え、そして、先に記した「死者を復活させてくださる神を頼りにする」パウロの信仰に応えて、主なる神は、大きな死の危険からパウロを救い出してくださいました。

 パウロにとって、「慰め」(パラクレーシス)というのは、情緒や感情の問題ではなく、神によって与えられる救いの業と見ることが出来ます。そのような経験をする度に、これからも、使徒としての使命を全うするために、神が自分を慰め、励ましてくださるに違いないという信仰が確かなものとされたことでしょう。

 ちなみに、ヨハネ福音書では聖霊を「弁護者」(パラクレートス)と紹介します。口語訳は「助け主」としていました。「慰め」(パラクレーシス)との関連で「慰め主」とすることも出来ます。詳訳聖書は「慰め主、助言者、とりなす者、弁護者、激励者、援助者」と記しています。

 パウロは冒頭の言葉(11節)で「あなたがたも祈りで援助してください」と、祈りの要請を致します。パウロがコリントの人々にこのように要請するということは、これからも福音宣教に伴う苦難を受けると、彼が考えている現われです。また、神の慰めなくして、福音宣教の使命を果たすことは出来ないと考えている証拠です(エフェソ書6章19,20節、コロサイ書4章3,4節も)

 神の慰めは、教会の祈りを通して与えられるものであることを、パウロは繰り返し教えられ、体験していました。だからこそ、祈りの援助を願い、それによって彼らがパウロの福音宣教に参加協力することを願うのです。

 そして、パウロが苦難の中で慰めを得たこと、苦難から救い出されたことが多くの人々の感謝となり、賛美となります。ここに、キリスト・イエスを信じる信仰による執り成しの祈りの力が示されています。祈りを聞いてくださる神がおられるのです。

 私たちも、キリストの身体なる教会を通して神の栄光を現すために、各自に委ねられている使命を全うすることが出来るよう、互いに神の慰めを祈り合いましょう。

 主よ、どのような苦難のときにも、私たちを教会の祈りによって慰め、強め、励ましてくださることを感謝します。あなたこそ、慈愛に満ち、慰めを豊かにくださる神であられるからです。主の御声を聞き、その導きに絶えず与らせてください。 アーメン


6月24日(水) 第一コリント書16章

「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。愛をもって行いなさい。」 コリントの信徒への手紙一16章13~14節

 16章は、「エルサレム教会の信徒のための募金」についての指示(1~4節)、コリントへの「旅行の計画」(5~12節)、そして最後に「結びの言葉」(13節以下)が記されています。

 冒頭の言葉(13,14節)は勧告で、13節に四つ、14節に一つの命令形の動詞があります。

 まず、「目を覚ましていなさい」(グレーゴレーテ be alert)というのは、実際に睡眠をとらない生活をすることではありません。信仰の目を覚ましていること、今がどのようなときであるかをわきまえ、特に、終わりの日が近いことを考え、再臨の主を待望して、その希望にふさわしい生活をすることです。

 「信仰に基づいてしっかり立ちなさい」(ステーケテ・エン・テー・ピステー stand fast in the faith)というのは、自分の主義信条によるのではなく、神の国の福音を土台として、主イエスを信じる信仰に基づいて生活することです。

 ヘブライ書11章6節に「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」とあり、また、ローマ書10章17節に「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」と記されております。この時代に、何ものにも動かされないでしっかりと信仰に立つことが出来るように、キリストの言葉を聴いていきましょう。

 「雄々しく、強く生きなさい」というのは、「雄々しくあれ」(アンドゥリゼスセ be brave)と「強く生きよ」(クラタイウースセ be strong)という二つの動詞が連なって語られているものです。「雄々しく」は、ここ以外に新約聖書には用いられていません。「アンドゥリゾマイ」は「アネール:男(複数形アンドレス)」に関係し、口語訳、新改訳は「男らしく」と訳しています。

 「強く生きなさい」も、用例は僅かです(他にルカ1章80節、2章40節、エフェソ3章16節のみ)。「クラタイオオー」は「クラトス」(「力 power」の意:エフェソ1章19節、6章10節、コロサイ1章11節など参照)と関係する言葉です。

 この二つの言葉が同時に用いられているのは、詩編31編25節(七十人訳)が反映しているものと考えられます。24節から読んでみましょう。「主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り、傲慢な者には厳しく報いられる。雄々しくあれ(アンドゥリゼスセ)。心を強くせよ(クラタイウースソー)。主を待ち望む者はすべて」。

 ここで、強さや雄々しさは、主なる神への愛に根ざし、主を信頼して待ち望むところに根拠を置いています。「主に望みを置く人は新たなる力を得、鷲のように翼を張って上る」(イザヤ書40章31節)のです。ですから、真の強さというものは、驕りや高ぶりとは無縁のものなのです。

 14節には「何事も愛をもって行いなさい」(パンタ・フモーン・エン・アガペー・ギネスソー let all your things be done with charity)という命令があります。「愛をもって行え」というのは、この手紙の主題ともいうべき言葉です。

 愛については、8章1節で「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と語られておりました。また13章は「愛の賛歌」と呼ばれるところであり、霊的な賜物、神のプレゼントについて語っている12章から14章において、最も大いなる賜物、最高の道は、愛であると教えている箇所です。

 13章4節から7節において、神の愛が15の動詞で説明されています。即ち、神の愛は行動によって表されるということです。特に「忍耐強い」(4節)、「すべてを忍び」、「すべてに耐える」(7節)と、忍耐する愛が語られます。

 私たちの堪忍袋の尾は、簡単に切れてしまいます。もう限界だ、そのような愛には生きられない。そんなことをやっていたら身が持たない、やっていけないということになってしまいます。だからこそ、賜物として与えられる神の愛を祈り求め、すべてのことを愛もって行えと、ここで命じているのです。

 結びの言葉の最後に祝福の祈りが記されます。それは、「主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」(23節)という祈りです。礼拝の最後に「主イエスの恵みと、父なる神の愛と、聖霊の交わりがあなたがたの上に豊かにあるように」と、三位一体なる神からの祝福が祈られます。ここは、「神の愛」と「聖霊の交わり」も、「主イエスの恵み」という言葉に込めて祈られているのでしょう。

 通常は祝祷で終わりですが、この手紙では祝祷にさらに祈りが続きます。それは、「わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように」(24節)という祈りです。キリスト・イエスこそ、パウロとコリントの信徒を結ぶ絆です。そして、キリスト・イエスのゆえに、パウロは、コリントの信徒たちを愛すると語ることができるのです。

 私たちも互いに祈り合いましょう。自分たちの愛が、キリスト・イエスにおいて、キリストの体なる教会に連なる神の家族一同と共にあるように祈るのです。お互いの思いが主イエスによって執り成され、キリストの愛によってお互いが愛の絆で結ばれるように祈りましょう。

 主よ、あなたの恵みと導きに感謝します。私たちが何事も愛をもって行うことが出来ますように。主イエスの恵みが、常に私たちと共にありますように。私たちの愛が、キリスト・イエスにおいて神の家族一同と共にありますように。お互いの思いが主イエスによって執り成され、神の愛の絆で結ばれますように。 アーメン


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