風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2020年05月

5月31日(日)ペンテコステ主日礼拝説教

5月31日(日)は、天に昇られた主イエスに代わって聖霊が天から降り、その力を受けた弟子たちの力強い伝道によって3千人もの人が救われ、エルサレムにキリスト教会が誕生したことを記念するペンテコステ(五旬節・七週祭)です。
主日礼拝には、教会員14名、初来会者1名、子ども1名を含む来賓9名がお見えになりました。
感謝です。


主日礼拝のバイオリンによる賛美と説教動画をYouTubeにアップしました。

賛美 「燃え立つ言葉も」(新生讃美歌536番)
バイオリン 竹之内理香姉

説教 「神の力強い御手の下に」
聖書 第一ペトロ書5章1~14節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師


ご覧ください。


*先週25日(月)に全国で緊急事態宣言が解除され、休業要請が取り下げられました。
静岡市の公立学校も同日、臨時休業を終了し、授業を始めました。給食も実施されています。
しかしながら、再び感染が拡大する可能性は、決して小さくありません。
新たな感染者の数が、ここ数日多くなっているところがあります。 
引き続き、手洗いやうがい、消毒、室内の換気、外出時のマスク着用などを徹底し、3密を避け、不要不急の外出は控えましょう。

*先週21日に関西2府1県の緊急事態宣言が解除され、明日にも残り1都1道3県も解除が発表される運びとなりそうです。

*当教会では、先週5月17日(日)より主日礼拝を再開しました。主の晩餐式や礼拝後のプログラム、教会学校や聖書の学びと祈り会などは、実施を見合わせていましたが、6月初旬に再開時期について判断し、発表させていただく予定です。

*礼拝にお見えになる際には、マスクの着用(お持ちでない方のために教会に用意があります)、水分補給のための水筒・ペットボトルなど持参、礼拝堂玄関受付で手指の消毒、礼拝堂では前後左右1m以上空けて着席(ソーシャルディスタンス)など、感染防止を徹底してください。

*集会がお休みの間も、日々聖霊の導きを祈りながら、各自で聖書を開き、主のみ言葉に耳を傾けてください。主に託されているめいめいの命、健康を守ることを最優先に、いつでも何処でも主イエスのみ顔を仰ぎ、み言葉に耳を傾ける礼拝の生活をしましょう。

*皆様とご家族の上に主の守りがありますように。


5月31日(日)ペンテコステ主日礼拝案内

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5月25日(月)に日本政府が全国に緊急事態解除宣言を出しました。


静岡教会では、14日(木)に静岡県の緊急事態宣言が解除されたこと、それ以前の5日(火)に静岡市が、市内の商業施設などに出していた休業要請を期限延長せず6日(水)までで解除すると発表したことを受けて、17日(日)より主日礼拝を再開しました。

5月31日(日)はペンテコステの主日礼拝を行います。

礼拝では、第一ペトロ書5章1~14節より「神の力強い御手の下で」と題して原田牧師より説教をいただきます。

写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。


礼拝においでくださる方は、マスク着用、水分補給のための水筒・ペットボトル持参、玄関受付で手指の消毒、前後左右1m以上空けて着席など、感染防止のためにご協力をよろしくお願いします。
体調などに不安のある方は、集会出席をお控えください。


礼拝後、短時間で園庭の草取り(竹切り)を行います。
ご協力いただければ幸いです。


お昼の用意はありません。


我が国では、新たに感染される方が減少し、病院を退院される方の数が新たに感染された方の数を上回るようになって、入院加療中の方の数は減少し続けています。それを受けての休業要請・緊急事態宣言の解除となったわけですが、国際的に患者数は増加の一途ですし、ウイルスの感染を抑止できる仕組み、また治療に効果的な薬が完成したというわけでもありません。

再び感染の拡大が起こらないよう、引き続き手洗い、うがい、消毒、外出時のマスク着用、部屋の換気などを徹底し、3密を避け、不要不急の外出は避けましょう。



主日礼拝以外の集い、教会学校や聖書の学びと祈り会などは、6月初旬に再開時期について競技・決定することにしています。
決まれば、ここで報告します。


今しばらくの間、聖書を読み、み言葉を瞑想し、祈るという礼拝を、日々主のみ前に各自でささげるようにしましょう。

皆様の心身の健康が守られますように。


5月31日(日) ローマ書8章

「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもってとりなしてくださるからです」 ローマの信徒への手紙8章26節

 今日は、ローマ書8章からの学びです。ここでは、主イエス・キリストによる救いの恵みを、四つの視点から語り、そして、最後に頌栄をもって結んでいます。

 キリストの救いの四つの恵みとは、第一に罪からの解放(1~4節)、第二は罪の結果である死からの解放(5~11節)、第三は神の子とされる恵み(12~17節)、そして第四が共同の相続人としての恵み(18~30節)です。そして、頌栄(31~39節)において、神の愛を喜びをもって賛美しています。

 18節に「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」とあります。パウロはここに、「現在の苦しみ」と「将来わたしたちに現されるはずの栄光」を対比して、栄光の大きさから、現在の苦しみは取るに足りないと言い表しています。

 パウロにとって、「現在の苦しみ」はその重い栄光に与るために通らなければならない道なのです。17節に「キリストと共に苦しむなら」という言葉があります。これは、私たちを救ってくださるキリストご自身が苦しまれていることを示していますし、キリストと苦しみを共にすることで、キリストが受けられた栄光に与るのだと言っているのです。

 であれば、そのキリストと共なる苦しみは、「早く逃れたい、早く解放されたい」と願う種類のものではありません。フィリピ書1章29節にも、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」と記されています。

 「苦しむこと」が「恵みとして与えられている」とは、神様が苦しみをプレゼントしてくださったということでしょう。そしてパウロはこの賜物を喜び、フィリピにいる信徒たちにも、同じプレゼントが与えられていることを喜んでいます。キリストと共に、その苦しみに与ることで、将来の思い栄光にも共に与ることになるからです。

 コロサイ書1章24節で「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」と言い、続く25節に「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました」と記しています。

 主イエスを信じる者は誰でも、罪が赦され、神の子とされ、永遠の命が与えられ、救いの喜びを味わうことが出来ます。しかしながら、福音を聞いた者がすべて、すぐに主イエスを信じるというわけではありません。キリスト教に反対する人もいます。また、まだ福音を聞いたことのないという人が、世界中にたくさんいます。そのための苦労を「あなたがたのための苦しみ」というのでしょう。

 また、福音宣教の務めをもって「教会に仕える者となった」ということは、教会の責任者、牧師のような務めについたということであり、そこにも様々な苦労があるということです。人それぞれ、様々な悩み、苦しみをお持ちです。様々な悩み苦しみ、課題を持っておられる方々と出会い、交わり、神の御言葉を伝える務めを果たすのは、苦労なしに出来るものではありません。

 パウロはそうしたことを思いながら、しかし、その苦労をすることは、自分にとって喜びなのだというのです。というのは、その苦労を通して、苦しみを通して、主イエスがそこに働いておられるということを知るようになるのです。

 フィリピ書3章10,11節に、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」とあります。

 ここに「その苦しみにあずかって」とありますが、「あずかる」という言葉は、その原語は、「コイノニア(交わり fellowship)」という言葉です。キリストの苦しみの交わり、苦しみによる、苦しみを通しての交わり、苦しみを共に味わう、苦しみによって互いに共感し合う交わりです。

 福音を宣べ伝える苦労、他者に仕え、教会に仕える苦労を通して、イエス・キリストの十字架の苦しみを知る、その苦しみに連なる、つながる、参与するというのです。そして、この苦しみを通して、十字架の救いや、主がお与えくださる命とはどういうものかを知った。もし自分が苦しまなければ、イエス・キリストを知ることが出来なかった、救いが分からなかったというのです。

 主イエスが、罪と死の力を打ち破り、輝く栄光のお姿となって、パウロの前に姿を表してくださいました。その主の栄光のお姿を思うとき、あの主の栄光の姿にあやかることが出来るのであれば、確かに今の苦労は取るに足りないと、パウロは思ったのです。そう思った根拠、それを保証するのは、神の霊、御霊です。

 14~16節に「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子どもであることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」と記されています。

 私たちには聖霊、神の霊が与えられています。御霊は、神の子として栄光を受けることが出来る保証なのです。今、神様に向かって、「主」と呼び、また「父」と呼ぶことが出来るのは、御霊の働きですが、それはどんなに大きな恵みであり、喜びでしょうか。

 私たちが神に祈りをささげ、神様と通じ合う喜び、神が私たちの祈りを聞いてくださる、その感動を味わうことが出来た喜び、それを私たちにお与えくださるのが、神の御霊なのです。その霊が、私たちが神の子であることを保証してくださるのです(ガラテヤ書4章6,7節、エフェソ書1章13,14節)。

 冒頭の言葉(26節)に、「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもってとりなしてくださるからです」とあります。

 ここで、「助けてくださいます」(シュナンティランバノー)という言葉は、三つの言葉が組み合わされた合成語です。一つ目は「共に、一緒に」(シュン)、二つ目は「に代わって、のために」(アンティ)、そして三つ目は「取る、持つ」(ランバノウ)、それが一つになって、「助ける」(ルカ10章40節では「手伝う」)と訳される言葉になっているのです。

 「共に」と、「代わって」と、「持つ」。「共に持つ」、「代わって持つ」。神様が私たちの重荷を共に持ってくださる、代わって担ってくださる。それは、大きな助けです。そしてそれは、とても大きな慰め、励ましです。

 小さな子どもに荷を持たせます。持つ力がまだ十分ではないので、片方を親が持っています。いえ、実際には殆ど親が持ってやっています。そうして運び終わったときに「偉かったね、重い荷物をよく持てたね、助かったよ」といって褒めてやると、子どもはそれで自信がついて、「今度は一人で持つ」というようなことになりますね。

 聖霊が私たちに寄り添い、弱い私たちのために呻きつつ、一緒に重荷を担ってくださいます。28節に「万事が益となるように共に働く」という表現があり、続く29節で「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」と言って、聖霊が私たちの苦しみを、神の子の栄光に変えてくださると教えているのです。

 つまり、御霊が私たちの苦しみを引き受け、共に呻き、苦しんでくださることで、それが「産みの苦しみ」(22節)となり、聖霊の思いが何であるかを知っておられる方が(27節)、神を愛する者たちのために、「万事が益となるように共に働く」ようにしてくださるというわけです。

 常に私たちと共におられ、私たちの内におられる主イエスを頭として仰ぎ、日々主の御言葉に従い、聖霊の導きを祈り、賛美の生け贄、主の御名をたたえる唇の実を、絶えず神にささげましょう。

 主よ、今日もあなたが私たちの前を歩み、しんがりを守り、上から恵みを注ぎ、御手をもって下から支えてくださること、私たちと共に、私たちに代わってその重荷を担ってくださり、その打ち傷によって私たちを癒してくださった主が、私たちを慰め、私たちを励まし、私たちを助け、導き、祝福してくださっていることを覚えて、感謝致します。いつもあなたの御言葉に聞き、あなたの御言葉に従って歩みます。私たちの歩みを祝してください。御名が崇められますように。 アーメン


5月30日(土) ローマ書7章

「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」 ローマの信徒への手紙7章25節

 1節以下の段落で、律法は人を生きている間だけ支配するものであることを(1節)、「結婚の比喩」をもって説明します(2節以下)。キリストへとバプテスマされたキリスト者は(6章3節)、その死に与りました(同4節)。だから、「キリストの体に結ばれて」(through the body of Christ)、「律法に対しては死んだ者となっています」(4節)というのです。

 律法に対して死んだパウロは、その死によって律法から解放されました。それは、死者の中から復活させられた方、即ちキリストのものとなり、神に対して実を結ぶようになるためでした(同節)。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、霊に従う新しい生き方で主に仕えるようになっています(6節)。

 7節以下、パウロは律法に内在する罪の問題に論を進め、自分の中に、聖なるものであり、また霊的なものである神の律法を喜ぶ心の法則と、それに反し、それと戦ってパウロを虜にする罪の法則が働いているのを見出しました(22,23節)。というのは、自分の望む善は行わず、望まない悪を行っているからです(19節)。

 パウロはここで、善を行う意思はあるけれども、実行力がないと言っているわけではないと思います。というのは、「律法の義については非のうちどころのない者でした」とフィリピ書3章6節に記しており、それはファリサイ派の一員として歩んでいた当時のパウロの自負であったと思います。

 ですから、望む善は行わずというのは、自分では善を行っているつもりだったが、実際は悪を行っていたことを知らされたということではないでしょうか。パウロは、イエス・キリストが神を冒涜しているとして、キリスト教徒を迫害していました。それは、神に対する熱心からとった行動でした。しかし、それこそが神に敵対する悪であったわけです。

 人は自ら罪を行いたいとは思わないものでしょう。エデンの園でアダムとエバが罪を犯したのは、彼らがそうしたかったからではありません。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」(創世記2章17節)という戒めが与えられていましたが、それに背きたいと考えてはいませんでした。

 ところが、その実を食べても決して死ぬことはない、神のように善悪を知るものとなると蛇に唆されました。木の実を見るとおいしそうで、確かに賢くなれそうだと思われて、とうとう木の実に手を伸ばし、取って食べてしまいました(同3章1節以下、6節)。「罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました」とパウロが8節で語っているのは、そのことでしょう。

 パウロにとって、「あらゆる種類のむさぼり」とは、どのようなものでしょうか。パウロはフィリピ書3章5,6節に「生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした」と語っています。

 それはパウロの誇りであり、肉の頼りとするところでした。人が羨むような経歴を持ち、誰よりもその道に精進していたのです。けれども、それは神に栄光を帰すためではなく、栄光を我が物とする誘惑から自由ではありませんでした。信仰に熱心であるということさえ、パウロにとって「むさぼり」の対象だと気づかされたわけです。

 キリストを信じる信仰に導かれたパウロは、それまで誇りとしていたものを塵あくたと見なすようになりました(フィリピ書3章8節)。キリストを知ることを妨げ、ゆえになすべき善をなし得なかったからです。キリストを信じた今、神の霊によって礼拝し、主イエスを誇りとする者となりました。

 「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(24節)とその深い嘆きを吐露したパウロは、一転、冒頭の言葉(25節)で、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と、感謝を口にしています。罪の法則の内に虜にされていたパウロを、イエス・キリストがその救いの御業を通して解放してくださったからです。 

 私たちも絶えず罪の誘惑にさらされています。サタンは、主イエスさえも誘惑しようとしました。しかし、主イエスはサタンに打ち勝たれました。御言葉によってあらゆる誘惑を退けられたのです。

 私たちと共におられ、内にいて下さる主イエスを信じ、その御言葉に耳を傾けましょう。心のうちに御言葉を豊かに宿らせましょう(コロサイ書3章16節)。御言葉に絶えずとどまりましょう(ヨハネ伝8章31節)。そのとき、私たちは真理を知り、真理は私たちを自由にします(同32節)。

 真理とは、主イエスご自身であり(同14章6節)、その贖いの御業によって罪の呪いから解放していただいたのです(同8章34,36節)。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(ガラテヤ書5章13節)。

 主よ、日々御言葉をくださって有難うございます。御言葉によって御旨を悟り、聖霊に満たされ、私たちの体をとおして主の栄光を表すことが出来ますように。世界中に立てられているキリストの教会を、その教会を形作りキリスト者一人一人を豊かに祝福してください。御名が崇められますように。御心がこの地になされますように。 アーメン


5月29日(金) ローマ書6章

「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」 ローマの信徒への手紙6章23節

 6章には、罪に対して死に、新しい命に生きること、即ち、キリストに結ばれて神に生きることが、バプテスマ(1~14節)と奴隷制の比喩(15~23節)をもって語られています。

 バプテスマは、死んで葬られるという姿を表すと同時に、新しい命に生きる者となったことを表しています。「キリスト・イエスに結ばれるためにバプテスマを受けた」という言葉が3節にあります。

 「キリスト・イエスに結ばれる」とは、原文では「キリスト・イエスの中へと(エイス・クリストン・イエスーン into Christ Jesus)」という言葉で、キリストの中へとバプテスマされる(浸される)ということから、「キリストに結ばれる」という訳が出て来たのでしょう。

 キリストに結ばれた者は、キリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなると言われます(3,4節)。「その死にあずかる」(エイス・トン・サナトン・アウトゥー into death of him)とは、キリストの死へと浸される者となるということです。

 キリストの死にあずかったものは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、「新しい命に」(4節:エン・カイノテーティ・ゾーエース in newness of life)生きることになります。新共同訳が「生きる」と訳したのは「歩く」(ペリパテオー)という言葉で、この箇所を直訳すると、「命の新しさにおいて歩くため」(岩波訳参照)となります。

 そのことを8節でもう一度、「わたしたちは、キリストと共に死んだなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」と語っています。そして、「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです」(10節)と言います。

 死んだ者は、もはや罪を犯すことがありません。ゆえに「罪に対して死んだ」という表現がなされます。罪との関係が永遠に切れたということです。一方、「神に対して生きる」というのは、キリストに結ばれて新しい命に与った者は、神との関係が永遠に切れないということになります。

 このようにずいぶん細かい説明がなされているのは、パウロの福音を誤解する人、パウロの宣教を敵視する人がいたからです。1節に「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」という疑問文があります。これは、5章20節の「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」というパウロの言葉への反応です。

 行いによらず、信仰によって義とされるのなら、好き勝手してもいいじゃないか。そのほうがもっと恵みが分かるんじゃないかというような誤解に陥った人、あるいは敢えて曲解して、自分の欲にまかせて放縦に生きようとした人がいたのではないでしょうか。しかしながら、それは間違いです。愚かなことです。

 また、恵みが増すのなら、ますます罪を犯そうかと考えるのはおかしいだろう。そのような誤解を人に与えるような教えは間違っているといって、パウロに対して詰め寄った人がいた、あるいは、パウロ自身がそのように反論する人が少なからずいるのではないかと想定していたのではないでしょうか。

 「私には劇的な変化を伴う入信体験がない、そういう体験をする人が羨ましい」といった言葉を耳にすることがあります。それは、放蕩息子の兄のように真面目に生きるよりも、弟息子のように親不孝をするほうが、親のありがたみが深く分かるというような考え方ではないでしょうか(ルカ福音書15章11節以下参照)。

 確かに、親のありがたみがよく分かったほうがよいに決まっています。だからと言って、罪を犯したほうがよいのでしょうか。放蕩息子の兄は、真面目だったから親のありがたみが分からなかったのではありません。彼が、親のありがたみが分からない罪人だったということで、その意味では、兄と弟は同罪です。

 にも拘らず、兄は父親と一緒にいて、弟のように食べ物に困ること、飢えることはありませんでした。それこそ、親のありがたみではありませんか。親を失ってからそれに気づいても、恩返しが出来ません。あのたとえ話で、放蕩息子たちの父親が、親子の思いが通わず、なくしてしまった兄息子を、弟息子同様にもう一度見つけて、皆で喜び祝いたいという思いが語られているのです。

 「恵みが増すように罪の中にとどまる」というのは、利己主義です。それは、信仰ではありません。神は、私たちを罪の中に留まらせるために、独り子を贖いの供え物としたのではありません。キリストと共に新しい生活をさせるためです。

 罪人の私たちに恵みを与えるために、父なる神はどれほどの犠牲を支払われたことでしょうか。神の独り子が私たちの罪の呪いを身に受けて十字架に死なれ、それによって私たちはその呪いから解放され、神の子として生きることが出来るようにされたのです。それを思えば、どうして「罪の中にとどまるべきだろうか」という質問が出て来るでしょうか。

 16節に「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」と言います。

 神の愛を受け入れ、神の子として神の前に立つことが「義」とすれば、「罪」とは、欲に引きずられて神の愛に背を向け、自分勝手に行動して神を悲しませることです。それを罪の虜、罪に仕える奴隷と言っています。

 20節に「罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした」とあります。「自由の身」は良さそうな表現ですが、「自由」を公言しながら、清く正しく生きる人がどれほどあるでしょうか。

 実際には、「義に対して自由」、つまり義と結ばれていない、義のない生活をしているということです。むしろ、義に生きようとしても、罪に縛られてそれができない状態であるといってよいでしょう。その状態にあることを、「義に対しては自由の身」というのです。岩波訳は「義とは無縁な者」と意訳しています。

 冒頭の言葉(23節)で「罪の支払う報酬は死」と言いますが、それは、肉体の死とは別のものです。人が死ぬと、呼びかけに応えなくなります。神からの呼びかけに応えない魂、その愛の招きに背を向けるのは、神から切り離された、霊的に死んでいるというのです。

 罪は私たちに「死」という「報酬」(オプソーニオン:給料の意)を支払います。しかしながら、そこに神が介入され、「永遠の命」を「賜物」(カリスマ)としてお与えくださいました。 「わたしたちの主キリスト・イエスによる」は、「キリスト・イエスの中にある」(エン・クリストー・イエスー・トー・キュリオー・ヘモーン in Christ Jesus our Lord)です。

 イエス・キリストがご自身の命をかけて開いてくださった「永遠の命」の道を、主に従う僕として、主と共に歩ませていただきましょう。 

 主よ、あなたは私たちに、永遠の命という、はかり知ることの出来ない尊い価値のある賜物を与えてくださいました。それは、主キリスト・イエスの命という代価で買い取られたものだからです。キリストの死によって罪と死の呪いから解放された者として、主に従い、聖なる生活の実を結ぶことが出来ますように。 アーメン


5月28日(木) ローマ書5章

「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」 ローマの信徒への手紙5章5節

 3,4章で「信仰義認」という主題を展開したパウロは、ここから、神に義とされたキリスト者として生きる生活について語り始めます。つまり、「神の義」は神による救い、神にある新しい生命を意味するものであり、福音は「救いをもたらす神の力」(1章16節)であるということを展開していくのです。

 1節で「信仰によって義とされた」ことを「神との間に平和を得た」と言い、2節でパウロは「キリストのおかげで、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と語った後、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」(3節)と語ります。「誇る」(カウカオマイ)は「喜ぶ」とも訳されます(口語訳、新改訳。欽定訳:glory)。

 通常の心理であれば、苦難はいやです。避けたいものです。神の栄光に与るためには、苦難を避けられないということも考えられますが、それならば、苦難を誇るというよりも、苦難を切り抜け、乗り越えた経験や知恵などを誇りとすると言った方が分かり易いです。苦難を誇るというのは、どういうことなのでしょうか。

 ここに、「神の栄光に与る希望」と「苦難」が誇りの対象とされているようですが、原文を直訳すると、神の栄光への希望の「上で」(エピ)誇る、苦難の「中で」(エン)誇るという表現になっています。つまり、神の栄光への希望が誇りの土台、その根拠で、苦難はパウロたちキリスト者が置かれている環境、状況を示しています。

 パウロは3,4節で「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」と語っています。聖書で「知る」というのは、一般的な知識ではなく、体験的に味わった知識です。つまり、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むことを体験したということです。

 主イエスに従うキリスト者たちは、様々な苦難を経験していました。忍耐は、苦難をじっと我慢したというのではなく、どんなに苦しめられても福音の証しをやめないことを指します。そして、練達とは、信仰が本物であると証明されるということを表します。そして希望は、神の栄光に与ることを望む心です。

 神の栄光に与る希望を土台として誇りに生きるパウロらキリスト者は、苦難が神の栄光に与る希望をより確かなもの、強固なものとするゆえに、苦難という状況でも誇ると語り得ました。苦難の重圧が増せば耐える力も増し、耐える力が増せば練達が底光りするほどのものとなる、そして、練達が増すことよって、それだけ希望が確固たる基礎の上に置かれることになるというのです。

 パウロはなぜ、苦難が栄光に向かって人を導く道であると信じる信仰に堅く立つことが出来たのでしょうか。その根拠について冒頭の言葉(5節)で「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」と言っています。

 「注がれている」というのは、「注ぐ」という動詞の完了時制・受身形です。つまり、今注がれているというのではなく、既に注ぎ込まれて私たちの心は神の愛で満たされている、その状態が続いているということになります。

 私たちがキリストを信じてその信仰を表明することが出来たのは、聖霊の働きです(第一コリント書12章3節)。私たちの体はキリストによって贖われ、聖霊が宿られる神殿とされています(同6章19節)。私たちの内におられる聖霊との交わりが開かれたとき、自分は神に愛されているという確信が与えられます。

 パウロは、神の愛によって救いを体験しました。パウロが「まだ弱かったころ」、「不信心な者」(6節)であったとき、また「まだ罪人であったとき」(8節)、さらには「敵であったとき」(10節)に、キリストが死んでくださったことによって神の愛が示され(8節)、神と和解させていただいたのです(10節)。

 その愛に押し出されて、キリストを証しする者、その福音を語り伝える伝道者となりました。そして、苦難にあうとき、その愛に支えられました。ゆえに、キリストの証人として、いつでもどこでも堅く立つことが出来たのです。

 以前、「放蕩息子のたとえ」(ルカ15章11節以下)から、「我に返るとは、神が私を愛しておられる、私は神に愛されているという原点に返ること」と学び、「土のチリという価値なきもので、私という人間が神のかたちに創り出された。それは神の愛である。この愛を知った者は、命を粗末に扱うことは出来ない。それは罪だ」と教えられました。

 被造物である私たちは、この神の愛を、様々な人や出来事との出会いを通して経験的に学びます。「この人と出会わせてくださったのは、神の愛だ」、「こういう出来事に遭遇したのは、私が神に愛されている証拠だ」というようなことです。

 そして、その出会いは、私たちにとって嬉しいこと、楽しいことばかりではありません。放蕩息子は、手持ちの財産を使い果たし、その上で飢饉に遭遇するという最悪とも思われる事態の中で、「我に返って」(同17節)、親の愛、神の愛のうちに自分を回復することが出来ました。

 主なる神は、その愛を知らせるために独り子イエスをこの世に送られました(ヨハネ3章16節、第一ヨハネ4章9節)。神のみ子が人となり(フィリピ書2章6,7節)、私たちをその罪の呪いから贖い出すために、十字架に死なれたのです(ガラテヤ書3章13節)。主イエスを信じる信仰に導く出会いを与えてくださった神に心から感謝します。

 家族、知人友人、周辺にいる人々に、キリストとの出会いを提供する伝道の業に、皆で心を合わせ、祈りを会わせ、共に励んでまいりましょう。

 主よ、聖霊のお働きを通して、私たちに主イエスを信じる信仰の導きと、神に愛されているという確信をお与えくださり、有難う感謝致します。周りの人々に神の愛と恵みを証しすることが出来ますように。そうして、いつも聖霊に満たされ、心から御名を賛美させてください。 アーメン


5月28日(木) ローマ書5章

「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」 ローマの信徒への手紙5章5節

 3,4章で「信仰義認」という主題を展開したパウロは、ここから、神に義とされたキリスト者として生きる生活について語り始めます。つまり、「神の義」は神による救い、神にある新しい生命を意味するものであり、福音は「救いをもたらす神の力」(1章16節)であるということを展開していくのです。

 1節で「信仰によって義とされた」ことを「神との間に平和を得た」と言い、2節でパウロは「キリストのおかげで、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と語った後、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」(3節)と語ります。「誇る」(カウカオマイ)は「喜ぶ」とも訳されます(口語訳、新改訳。欽定訳:glory)。

 通常の心理であれば、苦難はいやです。避けたいものです。神の栄光に与るためには、苦難を避けられないということも考えられますが、それならば、苦難を誇るというよりも、苦難を切り抜け、乗り越えた経験や知恵などを誇りとすると言った方が分かり易いです。苦難を誇るというのは、どういうことなのでしょうか。

 ここに、「神の栄光に与る希望」と「苦難」が誇りの対象とされているようですが、原文を直訳すると、神の栄光への希望の「上で」(エピ)誇る、苦難の「中で」(エン)誇るという表現になっています。つまり、神の栄光への希望が誇りの土台、その根拠で、苦難はパウロたちキリスト者が置かれている環境、状況を示しています。

 パウロは3,4節で「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」と語っています。聖書で「知る」というのは、一般的な知識ではなく、体験的に味わった知識です。つまり、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むことを体験したということです。

 主イエスに従うキリスト者たちは、様々な苦難を経験していました。忍耐は、苦難をじっと我慢したというのではなく、どんなに苦しめられても福音の証しをやめないことを指します。そして、練達とは、信仰が本物であると証明されるということを表します。そして希望は、神の栄光に与ることを望む心です。

 神の栄光に与る希望を土台として誇りに生きるパウロらキリスト者は、苦難が神の栄光に与る希望をより確かなもの、強固なものとするゆえに、苦難という状況でも誇ると語り得ました。苦難の重圧が増せば耐える力も増し、耐える力が増せば練達が底光りするほどのものとなる、そして、練達が増すことよって、それだけ希望が確固たる基礎の上に置かれることになるというのです。

 パウロはなぜ、苦難が栄光に向かって人を導く道であると信じる信仰に堅く立つことが出来たのでしょうか。その根拠について冒頭の言葉(5節)で「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」と言っています。

 「注がれている」というのは、「注ぐ」という動詞の完了時制・受身形です。つまり、今注がれているというのではなく、既に注ぎ込まれて私たちの心は神の愛で満たされている、その状態が続いているということになります。

 私たちがキリストを信じてその信仰を表明することが出来たのは、聖霊の働きです(第一コリント書12章3節)。私たちの体はキリストによって贖われ、聖霊が宿られる神殿とされています(同6章19節)。私たちの内におられる聖霊との交わりが開かれたとき、自分は神に愛されているという確信が与えられます。

 パウロは、神の愛によって救いを体験しました。パウロが「まだ弱かったころ」、「不信心な者」(6節)であったとき、また「まだ罪人であったとき」(8節)、さらには「敵であったとき」(10節)に、キリストが死んでくださったことによって神の愛が示され(8節)、神と和解させていただいたのです(10節)。

 その愛に押し出されて、キリストを証しする者、その福音を語り伝える伝道者となりました。そして、苦難にあうとき、その愛に支えられました。ゆえに、キリストの証人として、いつでもどこでも堅く立つことが出来たのです。

 以前、「放蕩息子のたとえ」(ルカ15章11節以下)から、「我に返るとは、神が私を愛しておられる、私は神に愛されているという原点に返ること」と学び、「土のチリという価値なきもので、私という人間が神のかたちに創り出された。それは神の愛である。この愛を知った者は、命を粗末に扱うことは出来ない。それは罪だ」と教えられました。

 被造物である私たちは、この神の愛を、様々な人や出来事との出会いを通して経験的に学びます。「この人と出会わせてくださったのは、神の愛だ」、「こういう出来事に遭遇したのは、私が神に愛されている証拠だ」というようなことです。

 そして、その出会いは、私たちにとって嬉しいこと、楽しいことばかりではありません。放蕩息子は、手持ちの財産を使い果たし、その上で飢饉に遭遇するという最悪とも思われる事態の中で、「我に返って」(同17節)、親の愛、神の愛のうちに自分を回復することが出来ました。

 主なる神は、その愛を知らせるために独り子イエスをこの世に送られました(ヨハネ3章16節、第一ヨハネ4章9節)。神のみ子が人となり(フィリピ書2章6,7節)、私たちをその罪の呪いから贖い出すために、十字架に死なれたのです(ガラテヤ書3章13節)。主イエスを信じる信仰に導く出会いを与えてくださった神に心から感謝します。

 家族、知人友人、周辺にいる人々に、キリストとの出会いを提供する伝道の業に、皆で心を合わせ、祈りを会わせ、共に励んでまいりましょう。

 主よ、聖霊のお働きを通して、私たちに主イエスを信じる信仰の導きと、神に愛されているという確信をお与えくださり、有難う感謝致します。周りの人々に神の愛と恵みを証しすることが出来ますように。そうして、いつも聖霊に満たされ、心から御名を賛美させてください。 アーメン


静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に5月24日(日)主日礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」、「定例集会案内」を更新しました。
③「お知らせ」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。



御覧ください。



25日(月)、非常事態解除宣言が出され、全国で非常事態宣言、休業要請が解除されました。
現在、主日礼拝のみ実施していますが、教会学校、聖書の学びと祈り会などの再開について、感染者数の推移などを見て6月初旬にもその時期を判断、決定したいと思います。

引き続き感染拡大を予防するために、礼拝にお見えになられる方は、マスク着用(用意できない方は受付に、水分補給のため水筒・ペットボトルなど持参、玄関受付で手指の消毒、前後左右1m以上空けて着席など、ご協力をよろしくお願いいたします。
体調などに不安を覚えられる方は、出席をお控えください。


日々の生活においても、引き続き手洗い、うがい、手指などの消毒、部屋の換気、マスクの着用など自衛策を徹底され、不要不急の外出をお控えください。

主の守りと平安が皆様の上に豊かにあり、日々健やかに過ごされますように。



5月27日(水) ローマ書4章

「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」 ローマの信徒への手紙4章5節

 3章21節以下で、信仰によって神に義とされることを力強く語ったパウロは、その根拠を聖書に求めます。3節に「聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、神の義と認められた』とあります」と語られているのは、そのためです。

 ここに引用されているのは、創世記15章6節の言葉がです(ガラテヤ書3章6節も)。パウロはイスラエルの父祖アブラハムに焦点を当て、アブラハムが義と認められたのは、神を信じたその信仰のゆえであることを、この御言葉を引用することによって示しています。

 信仰によって義とされるというのは、律法の行いという働きの報酬ではなく、神から与えられる恵みです(4節、3章21,24節参照)。行いによらず、働きなしに神の恵みを受けた人の幸いを、ダビデの詩を引用して示します。7~8節は、詩編32編1,2節からの引用です。

 どうしてダビデは、不法が赦され、罪を覆い隠された人、主から罪があると見なされない人の幸いを語ることが出来たのでしょうか。それは、ダビデ自身が、その幸いを味わったからに他なりません。ダビデの不法が赦され、罪が覆い隠され、主から罪なしと見なされたのは、彼が律法を熱心に行っていたからではありませんでした。

 ダビデが律法を熱心に、そして完全に行うことが出来ていれば、罪の赦しは不要でした。罪があるということは、神に背き、律法に従い得なかったということです。にも拘らず、罪が赦されたのは、神が彼を深く憐れみ、恵みを与えたからです。ダビデはその恵み、不法が赦され、罪が覆い隠される幸いを味わったので、このように詠っているわけです。

 さらに、神に義とされることが恵みであるということについて、アブラハムの信仰が義と認められたのは、割礼を受けてからか、それとも割礼を受ける前かと問いかけます(9節以下)。アブラハムが割礼を受けたという記事は、創世記17章に記されています(特に23節)。対して、信仰が義と認められたのは、同15章6節に記してあると前に述べました。

 これで明らかなように、アブラハムの信仰が義と認められたのは、割礼を受ける前のことでした(10節)。ですから、アブラハムが割礼を受けたのは、義と認められ、救いを完成させるためではありません。そうではなく、義と認められ、救われたしるしとして、割礼を受けたのです(11節)。

 「認められる」(ロギゾマイ)は、「数える、計算する、考慮する、見なす、もくろむ」という言葉です。これはパウロがよく用いる言葉で、新約聖書に40回用いられている内、34回をパウロが用いています。ローマ書に19回あり、しかも4章に11回用いられています。

 ここでは、商取引の勘定書きに由来する比喩的表現として、「(貸し方に)書き入れる」という意味を含み持つと、ニューセンチュリー聖書注解に記されていました。即ち、「アブラハムの信仰が、義を受けることを見込んで、貸し方に書き込まれた」と解するべきだというのです。「義と」(エイス・ディカイオシュネーン)の「エイス(into:~へと)」は、目標を表す前置詞です。

 パウロは、自分の信じる神を冒頭の言葉(5節)で「不信心な者を義とする神」と呼んでいます。これは、驚くべき言葉です。「不信心」(アセベース)とは、文字通り信仰心がないこと、不敬虔なことです。不信心な者、信仰心なき者は神に裁かれるという御言葉があります(第二ペトロ書3章7節、ヨハネ福音書3章18節)。

 「わたしは悪人を、正しいとすることはない」(出エジプト記23章7節)という言葉を70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)で見ると、「悪人」は「アセベース」で「不信心な者を義とすることはない」と読めます。その人が義とされるとすれば、それは善い行いによって救いを獲得するのではなく、不信心な者をお救いくださる恵みの神に信頼する以外にありません。

 この関連で、アブラハムが信仰によって神に義と認められたということは、自分の子孫が星の数ほどに多くなる言われた主なる神の言葉を信じる以前は(創世記15章5,6節)、アブラハムは「不信心な者」だったということになるでしょう。 

 パウロ自身は、不信心な者ではありませんでした。むしろ、神を信じ、熱心に律法を行う者でした。その熱心のゆえに、キリスト教徒を迫害しました(フィリピ書3章5,6節)。キリスト教徒が安息日を厳格に守らないなど、律法を守らず、神に背くように人々を唆していると考えたからです。

 ところが、パウロは主の声を聞きました。それは「なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒言行録9章4節)という声でした。パウロは、キリスト教徒を迫害することが、まことの神に敵対し、主を迫害する行為であると知ったとき、どんなにショックだったでしょうか。信仰熱心と考えていたことが、全くの勘違いだったわけです。

 かくてパウロは、自分の律法の行いによっては、神に義とされ得ない者だったのです。ということは、主イエスを信じないで教会を迫害する者であったパウロは、先のアブラハムと同様、「不信心な者」ということになります。しかるに神は、不信心なパウロをキリストの福音を異邦人に語り伝える伝道者として任命されたのです。

 だから、「不信心な者を義とする神」とは、神に敵対している者を信仰に導き、義とされる神ということです。であれば、神に義とされない人がいるのでしょうか。パウロは、一人もいない、誰もが神の恵みによって義とされ、救いに与ることが出来ると信じているからこそ、この福音をユダヤ人ばかりでなく、異邦人にも宣べ伝えたのです。

 迫害者を伝道者に造り替えられた主の恵みが、私たちにも注がれています。不信心な者を義とされる主の恵みに感謝し、その恵みに応えて、それぞれに語りかけられる主の御声に聴き従いましょう。 

 主よ、あなたから正しい関係へと招かれているのに、なおも背を向けてその恵みを味わおうとせず、永遠の命を粗末にしている人々に、主の福音を熱心に伝えることが出来ますように。恵みに与っている者たちが、感謝を忘れず、いつも喜んで歩むことが出来ますように。 アーメン



5月26日(火) ローマ書3章

「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」 ローマの信徒への手紙3章24節

 21~31節の段落は、ローマ書全体の主題を表していると言われます。ここまでパウロは、すべての人が罪のもとにあること(1章18節以下、3章9節以下)、律法を授かったユダヤ人も、律法の行いによっては神に義とされ得なかったとこと(2章1節以下、3章1節以下、20節)を語って来ました。

 けれどもここからは、そのような状況に終止符を打つ出来事について語り始めます。それで、「ところが今や」(ヌニ・デ but now:21節)と語り始められているのです。パウロはここに、「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」と記します。

 「律法とは関係なく」、即ち一切の法的行為の実行とは無関係に、「神の義」、即ち神と正しい関係にあるということ、言い換えれば神の救いが示されたということです。「律法と預言者」とは、「トーラーとネビーム」つまり旧約聖書ということで、パウロは、旧約聖書の中に神の救いが告げ示されていると言うのです。

 旧約聖書で予め告示されてきた神の救いを、22節で「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」と説明します。新たに示された神の義=救いの根拠をなすのは、イエス・キリストに対する信仰です。

 冒頭の言葉(24節)のとおり、主イエスが贖いの業を成し遂げられました。ここで「贖い」(アポルトゥローシス)とは元来、奴隷や戦争捕虜の「釈放、解放」を意味し、それは一般に「身代金、贖い代」(ルトゥロン)によって成立します。「無償で義とされる」ことを「神の恵み」というのは、私たちに替わって主イエスが身代金を支払ってくださったからです。

 主なる神は、主イエス・キリストを信じる者を義とするため、キリストをこの世に遣わされ、罪を償う供え物とされました(25節)。「罪を償う供え物」(ヒラステーリオン)はとても珍しい言葉で、新約聖書中にはあと一回、ヘブライ書9章5節に用いられています。そこでは「償いの座」と訳されています。「償いの座」とは契約の箱の蓋のことで、この蓋の上にケルビムが設置されています。

 「償いの座」を旧約聖書では「贖いの座」(カポーレト:出エジプト記25章17節)と呼んでいます。「カポーレト」は「覆い隠す」という意味で、神の愛が人の罪を覆い、神の裁きから罪人を隠すということを表します。70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)では「贖いの座」を「ヒラステーリオン」とギリシア語訳しています。新約聖書は70人訳の用語を用いているわけです。

 イスラエルにおいては、大祭司が一年に一度、民の罪の償いのために至聖所に入り、そこに贖罪の血を注ぎます(ヘブライ書9章7節)。パウロがここで「ヒラステーリオン」を用いているということは、キリストの十字架こそ「償いの座」であるという信仰を表しているのです。それは、律法によっては成し遂げられなかった救いの御業を、キリストが十字架によって完成されたということです。

 神による救いを「義」と表現しているのですが、それは、神との関係が正しくなるということです。義という漢字は、「羊」の下に「我」と書きます。罪を取り除く神の子羊なるキリストの下に自分を置く、即ちキリストに従うときに、神との関係が正しくなると読むことが出来ます。

 漢字の成り立ちを調べると、「我」というのは、刀を振り下ろすという字で、羊に刀を振り下ろす、つまり羊を殺して相手に差し出すことで、関係を回復する、相手との関係が正しくなるというのが、「義」の意味なのです。中国で「義」という字が作られるとき、聖書の福音の影響があったのではないかと思わざるを得ません。

 私たちが義とされるのは、私たちにその資格があるとか、権利を持っているというわけではありません。23節に「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが」と記されているとおりです。

 「受けられない」(フステレオー)というのは、「欠けている、不足している」という意味の言葉です。義の業を行おうとしても、罪を犯すために、神の栄光が欠けている、不足している。そこで、「神の栄光を受けられない」と訳されているのです。いったい誰が、神の独り子イエス・キリストの命の代価を支払うことが出来るでしょうか。だれにも出来はしません。

 だから、冒頭の言葉どおり、「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」道を、神が開いてくださったのです。信じるだけで、誰でも無償でその恵みに与ることが出来るようにしてくださいました(22節)。ここに、神の愛が表されています。私たちの罪の贖いのために、独り子を犠牲とされたからです。実に考えられない恵み(アメージング・グレイス)です。

 「信じるだけで」と申しましたが、この信仰も、私たちが神を信じようと思って、自分の内側から出て来たようなものではありません。信仰も、神から頂いたのです。もしも、「私たち自身の信仰」が義とされる拠り所であれば、こんな不確かなことはありません。なぜなら、私の信仰心は、状況に振り回され、時には不信仰にさえなるからです。

  22節に「イエス・キリストを信じることにより」という言葉がありますが、原文を直訳すると、「イエス・キリストの信仰によって」となります。「信仰」(ピスティス)は、相手に対する真心、誠実という意味ですから、「イエス・キリストの真実によって」という意味になります。

 つまり、私たちが神の救いに与ることが出来るのは、キリストの真実に支えられてのこと、即ち、すべてが神の恵みであるということです。そのことを喜び、感動するからこそ、今こうして主イエスを信じ、神を礼拝する恵みに与っているわけです。

 いつでも神の恵みに対する感謝を忘れず、主の十字架に目を向け、その御顔を仰いで行きましょう。

 主よ、あなたは私たちが御子イエスを信じるだけで義とされる、神の救いに与る恵みの道を開いてくださいました。心から感謝します。その恩を忘れず、絶えず恵みの道、命の光のうちを主と共に歩み、委ねられた御業に励む者とならせてください。 アーメン


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