風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2020年03月

静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に3月29日(日)主日礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」、「フォトギャラリー」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。



御覧ください。



また、4月2日(木)①10時から11時半、②19時~20時、バプテスト静岡教会で聖書の学びと祈り会を行います。
聖書日課に基づいて、聖書を学んでいます。
2日は新約聖書・ルカ福音書22章を読み、学びます。


よろしかったら、おいでください。

ご承知のように、コロナウイルスの感染が少しずつ広がってきています。
マスクではウイルス予防にならないと言われていますが、手洗い、うがい、消毒など、自衛策を徹底され、熱や咳がある方は勿論、体調に不安のある方などは、集会にお出かけになるのをお控えください。

主の守りが皆様の上にありますように。




3月31日(火) ルカ福音書20章

「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」 ルカによる福音書20章44節

 20章はすべて、マルコに基づいて記述されています。この箇所には、ユダヤの宗教指導者たちとの問答や彼らに当てつけたたとえ話など、主イエスと宗教指導者たちとがいかに対立していたかということを示す記事が集められています。

 それは、19章47節に「祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが」とありましたが、彼らがどのように謀っていたのかということを、説明するかたちになっているわけです。 

  最初は、祭司長、律法学者たちによる「権威についての問答」(1~8節)、次いで、彼らの回し者による「皇帝への税金」への対応(20~26節)、そして、サドカイ派の人々による「復活についての問答」(27~40節)と続き、その後41節以下で、主イエスが彼らに「ダビデの子」についての質問をされました。

 41節に「イエスは彼らに言われた。『どうして人々は、「メシアはダビデの子だ」と言うのか』」と記されています。「ダビデの子」というのは、ダビデの子孫、ダビデの家系という表現と考えればよいでしょうし、また、「ダビデのような」能力、性質を帯びた、特に政治的、軍事的な能力を期待する表現でもあります。

 人々が、「メシアはダビデの子だ」と考えたというのは、たとえば、サムエル記下7章5節以下に記されている主なる神の言葉の中に、「あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」(同12節)とあります。

 また、詩篇132編11,12節に「あなたのもうけた子らの中から王座を継ぐ者を定める。あなたの子らがわたしの契約とわたしが教える定めを守るなら、彼らの子らも、永遠にあなたの王座につく者となる」と詠われています。

 このような御言葉に基づいて、ユダヤの人々は、ダビデの子孫の中からメシアが誕生することを待望して来ました。ダビデという人物は、イスラエルを400年間治めたダビデ王朝の創始者です。バビロン帝国によってダビデ王朝が倒され、列強諸国によるパレスティナ支配が続いている中で、独立と自由を勝ち取るメシアの到来を強く望んでいたのです。

 エルサレムに入城される主イエスに向かって、「ダビデの子にホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように」(マタイ21章9節)と歓呼の声を上げたということは、主イエスをダビデの子、メシアであると人々が考えている、そう宣言しているということですね。

 主イエスは、御自身のことを「神からのメシアである」(9章20節)とペトロが語ったとき、その言葉を喜ばれました。また、エリコのそばで盲人が「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(18章38節)と呼び求めたとき、その声に応えておられます。

 ですから、ここで主イエスに向かって「ダビデの子」、「メシア」と呼ぶのは、決して間違っているとは考えられません。ですが、主イエスの方から、「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と問いかけられて、そのことを問題にしておられるわけです。

 主イエスはここでご自分が「ダビデの子」と呼ばれることを反対なさっているというわけではありません。「メシアがダビデの子だ」と言われることを全面的に否定されているのでもないでしょう。

 問題になさっているのは、「メシアはダビデの子だ」という言葉の意味、その内容です。少なくとも、ダビデの子孫からメシアが生まれるということは、聖書が新旧約問わず告げていることであり、先に記したとおり、主イエス御自身が否定されず、受け入れておられるところです。

 主イエスが問題にしているのは、「メシアはダビデのような、政治的、軍事的指導者だ。ダビデは、私たちの国で最も偉大な王、指導者であった。理想的な国家を築いてくれた。だから、ダビデの子孫として登場して来るメシアは、必ずローマの支配を排除し、理想的な国を建て上げ、民族の誇りを取り戻してくれるはずだ」という人々の考え方、期待の仕方なのです。

 当時、メシアと呼ばれる人が何人も現れました。有名なのは、バル・コクバという人物です。紀元130年に第3次ユダヤ・ローマ戦争が起こりました。当時、ユダヤ教最大の指導者で律法学者のラビ・アキバという人物が、バル・コクバを指して、彼こそ真のメシアだと、民に紹介しました。

 バル・コクバはダビデ家の出身でも何でもありませんでしたが、彼は、イスラエルの尊厳を回復するため、ローマに対して反乱を起こしたのです。この人物こそメシアだと、ラビ・アキバは考えたわけです。そして彼を支援しました。結果はどうなったかというと、反乱は鎮圧され、バル・コクバも彼を支援したラビ・アキバも、同じように処刑されました。

 この事件をとおして、イスラエルの民にとって、「ダビデの子」という尊称、「メシア」という称号がどういう意味を持っているものであるかということが、よく分かります。そのような期待、そのような考え方に対して主イエスは、聖書の言葉をとって問われるのです。

 42節に「ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主はわたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」と』」とあります。これは、詩篇110編1節(「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」)を引用されたものです。

 この言葉で、ダビデはメシアのことを「わが主」と呼び、神を「主」と呼んでいます。つまり、ダビデの主メシアに対して主なる神が、「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座っていなさい」とお告げになっているというのです。

 そうして、冒頭の言葉(44節)のとおり、「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と、改めて問われます。

 余談ですが、「主」という字は、非常に興味深いものです。第一画は、炎、火を表しています。第2画以下「王」という形は、ランプ台をかたどっているのです。つまり、「主」という字は「ランプ」を表していると考えれば良いわけです。

 ランブが家の真ん中にあって家全体を照らしているところから、「主」は「中心」という意味を持ち、一家の中心人物として、「主人」という言葉が生まれて来るわけです。だから、主人、指導者と呼ばれる人は、家全体、組織全体を照らす明るい人でなければいけない。ネクラではいけないというところがあるわけです。

 扇谷正造著『トップの条件』という書物には、トップになるには、花がなければならないという項目がありました。人に喜びを与え、光を与える、そういう器でなければならない、その人が入ってくれば、暗雲漂う、皆の顔が曇る、それでは駄目なのです。

 また、器、度量が大きいということも、トップに立つための大切な条件の一つですね。どんなものもどんと受け止め、安心を与え、勇気を与える器。そういう器になりたいものだと思います。しかしながら、そう思えばなれるというものではありません。

 主イエスこそ、この世に来てすべての人を照らすまことの光です(ヨハネ福音書1章9節)。主なる神はメシアに対して、「わたしの右の座に着きなさい」と言われました。「あなたの敵をあなたの足台にする」ということは、すべてのものの上に君臨する主だということです。

 つまり、ダビデのようなイスラエルの支配者ではなくて、イスラエルのみならず、ローマもエジプトも、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるようになるということです(フィリピ2章10,11節)。

 そのように、ダビデがメシアを主と呼んでいるのに、なぜメシアをダビデのようなイスラエルの支配者、王として期待しているのかというわけですね。

 主イエスはダビデの子孫としてこの世にお生まれになりましたが、しかし、大工の息子として(マタイ福音書13章55節)、貧しい生涯を歩まれました(第二コリント8章9節、フィリピ2章6,7節)。

 王として崇められることなど一度もなく、むしろ、「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マタイ福音書20章28節)と言われたとおり、すべての者の僕として、人々の命を生かすために来られたのです。

 主イエス様にとって「メシア=キリスト」という称号は、自分を天よりも高く上げて人から誉めてもらおうというようなことではなくて、本当の救い主メシアは、自らを低くして人々にお仕えをする。下僕として、奴隷として人々に仕えるということだったわけです。そのことを多くの人々は理解出来ませんでした。

 今、私たちも、神の御子イエスを主と呼んで、その信仰を言い表しています。私たちのために最も低くなって私たちに仕えてくださったイエスを主と呼ぶということは、主イエスがその生き様を通して私たちに生きる道、命の道を示してくださった、私たちもそのように歩むと言っていることなのです。

 信仰により、神の御言葉を通して主イエスと出会い、私たちのために贖いの供え物となってくださったということの意味をしっかりと受け止めさせて頂きましょう。初めからおられ、神と共におられ、ご自身神であられる「言(ことば:ロゴス)」なる主イエスの力ある主の御言葉に耳を傾け、心を留めましょう。

 主よ、今日も御言葉に与ることができて感謝します。御言葉を通して主イエスを知ることが出来ることは、パウロが、それまで持っていた一切のものを無価値な、糞土のようにさえ思っているというほどに、価値のある豊かな恵みです。常に主イエスを仰ぎ、その御言葉に耳を傾け、さらに主に近づかせて頂くことが出来ますように。聖霊が私たちのうちに住まわれ、私たちに御言葉の真理を悟らせてくださることを感謝します。祈りと御言葉により、さらに深く聖書と神の力を味わわせてください。 アーメン



3月30日(月) ルカ福音書19章

「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。」 ルカによる福音書19章22節

 18章31節以下に三度目の受難予告、同35節以下にエリコの門外で盲人を癒やされた記事と、エルサレム入城直前の出来事が記されます。19章1節からマルコを離れて、1~10節はルカの独自資料、11~27節はマタイとの共通資料に基づいて語られています。

 そして、28節以下20章44節まで、マルコに基づくエルサレムでの主イエスの宣教が物語られます。そのうち、28~44節はエルサレム入城、45節以下は「神殿から商人たちを追い出す」という宮清めの記事になっています。

 今日は、11節以下、「『ムナ』のたとえ」という小見出しがつけられた段落を学びます。ムナはギリシアの銀貨で、1ムナはローマのデナリオン銀貨100枚分、つまり100デナリオンに相当します。1デナリオンは労務者一人一日の賃金と言われますから、1ムナ=100デナリオンは100日分、およそ4か月分の賃金ということになります。

 主イエスのエルサレムへの旅は、エルサレムの北東約27㎞、ヨルダン河畔のエリコに達しました(1,11節)。このたとえ話は、エリコで語られました。「人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたから」(11節)というのが、このたとえ話が語られた理由でした。

 立派な家柄の人が王位を受けるために遠くに旅立つことになり(12節)、10人の僕に1ムナずつ渡して、「わたしが帰ってくるまで、これで商売をしなさい」(13節)と言います。その後、彼は王位を受けて家に戻り、僕たちを呼んで清算させるという展開です(15節)。

 この話は、当時あった実際の出来事にヒントを得たものでしょう。ヘロデ大王の息子アルケラオが父の遺言に従って紀元4年にユダヤの君主になりましたが、その承認を受けるためにローマに赴きました。

 その時、ユダヤ人たちは、イドマヤ人であるヘロデ家の支配を排して、ローマの直轄地にしてくれるように嘆願しました(14節)。そのためなのか、アルケラオは王にはなれず、領主の地位を与えられましたが、事実上それは王と同じ権力でした。ところが、アルケラオの圧政に対する度重なる苦情で、10年後、ローマ皇帝により地位と領土を取り上げられ、追放されてしまいます。

 その出来事を利用して、このたとえ話では主イエスが、彼を嫌う宗教指導者たちによって十字架の刑に処せられるけれども、天に昇られ、父なる神の全権をもってこの世に再びおいでになり、主イエスを排斥した者たちを裁かれる話として語られていると解釈できそうです。

 15節以下、金を預けた者たちを呼び集めて清算をするという段になると(15節)、最初の者は10ムナ儲けたと言い(16節)、二人目は5ムナ儲けたと言って(18節)、主人を喜ばせ、「十の町の支配権」(17節)、「五つの町の統治」(19節)という褒美、新たな使命が与えられました。

 これは、すべての僕が主イエスから同等の責任をもって福音宣教の働きが委ねられたこと、しかしながら、すべての者に同じ業績、同じ収益が要求されてはいないことを示しています。それぞれ、自分の力に応じて、委ねられたものを用いて精一杯働くことが求められ、それに真実と完全な献身をもって応えた者たちを、主は喜び評価されているのです。 

 ところが、三番目の者が「これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました」(20節)と、預けられていた銀貨を差し出しました。彼がそうしたのは、主人が厳しい人だと知っていたので、失敗を恐れたのだというのです(21節)。それを聞いた主人は、彼らからそれを取り上げて、10ムナを持っている者に与えます(24節)。

 冒頭の言葉(22節)は、このたとえ話の鍵になる言葉です。ここに、「その言葉のゆえにお前を裁こう」(エク・トゥー・ストマトス・スー・クリノー・セ:out of your mouth I judge you)と言われています。

 一つは、文字通りの言葉遣いで裁かれるということが考えられます。同じ事態を表現するのに、「1ムナしかない」というのと、「1ムナもある」というのでは、ずいぶん違った印象になり、そこから生まれる行動も、全く違ったものになるでしょう。

 積極的な言葉を使えば、積極的な行動が生まれ、そしてよい評価を受けることが出来る。一方、消極的な言葉を使えば、行動も消極的になり、よい評価を受けることが出来ないということになります。

 また、その言葉遣いを聞けば、その人の思いが分かるというものです。主人が厳しい人だと知っていたので、恐ろしかったという僕は、「商売をしなさい」という主人の命令を無視してしまいました。彼は主人の命令に従うことよりも、それによって蒙るかもしれない処罰のほうが気になったのです。

 彼は、主人の意図を誤解しました。主人が僕たちを信頼してその管理を委ねた1ムナというお金を、主人の処罰が恐ろしいという理由で使わなかったのです。あるいは、主人は初めから自分たちを懲らしめるために、こんな無理難題を押しつけていると、その僕は考えていたのかもしれません。

 一方、商売で利益を上げた二人の僕は、主人についてどう考えていたのでしょうか。そのことは何も記されてはいませんが、このたとえ話は、徴税人ザアカイの物語に続けて語られています(7,11節)。

 そのことから、ザアカイが、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)と主イエスに向かって語ったことを受けていると考えられます。

 ザアカイが自ら語ったとおりにすれば、彼はかなり貧しくなってしまうでしょう。そればかりか、財産を全部失ってしまうかもしれません。けれども、そんなことは主イエスを自宅に迎えて救いに与ったザアカイには、もはや問題ではありませんでした。

 ここでザアカイは、財産を使い果たして救われたというのではありません。救いに与ったとき、彼は財産よりも大切なものを知ったのです。そして、そのように財産を使うことが、主イエスに喜ばれることであり、主なる神に従うアブラハムの子としての使命であると考えることができたわけです(16章9節、18章22節参照)。

 徴税人ザアカイはその言葉によって、彼が主イエスを信頼する者であること、主イエスに従うことを喜びとするものであることを示し、そして、主イエスは彼の言葉によって、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」と喜びの言葉、祝福の言葉を語られたのです(9節)。

 主イエスを信じる者として、御言葉に従って歩むことを喜びとし、肯定的積極的にその思いを表現しましょう。最適な表現が賛美です。「イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神にささげましょう。善い行いと施しを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです」(ヘブライ書13章15,16節)と言われるとおりです。 

 主よ、今日の御言葉を通して、どのような境遇にあっても主を信頼し、その御言葉に従うことが出来るかどうかが問われていると示されました。私たちはすぐに不平や愚痴を口にします。どうか憐れんでください。助けてください。信仰の心を授け、導いてください。そうして、主イエスの再臨の日まで、委ねられた賜物を用いて主に委ねられた業に励むことが出来ますように。 アーメン



3月29日(日)主日礼拝説教

3月29日(日)は2019年度最後の主日(日曜日)でした。今年度最後の主日礼拝には、教会員12名、来賓8名がお見えになりました。感謝です。
礼拝後、皆で協力して会堂清掃を行いました。



主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「イエスの証人」
聖書 ルカ福音書23章44~56節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師



ご覧ください。









3月29日(日)主日礼拝案内

02
3月29日(日)は、教会学校小学科(小学生)、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科を9時45分から行います。

教会学校は、「聖書教育」誌に基づいてヨハネ福音書から、共に聖書の学びと交わりを行います。


主日礼拝を10時半から行います。

礼拝では、新約聖書・ルカ福音書23章44~56節より、「イエスの証人」と題して、原田牧師より奨励をいただきます。



写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。


礼拝後、会堂清掃を行います。

お昼の用意はありません。。



世界規模で、新型コロナウイルスによる肺炎の患者が増えてきています。
健康に不安のある方は、集会出席をお控えください。

皆様の心身の健康が守られますように。




3月29日(日) ルカ福音書18章

「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」 ルカによる福音書18章8節

 ルカは、17章11節に「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」と記して、9章51節から始まったエルサレムへの旅路にあることを読者に確認させました。

 そして、それが十字架への道行きであることを、18章31節以下、「イエス、三度死と復活を予告する」という小見出しの段落で明示するのです。そのようにして、弟子たちをはじめ福音書の読者たちにも、主イエスに従う姿勢、心構えを教え、その意志、覚悟を問うているわけです。

 あらためて、18章はルカの独自資料に基づいて二つのたとえ話(1~8節、9~14節)を記した後、15節以下はマルコ福音書に従う記事になっています。そこに、上述の「イエス、三度死と復活を予告する」の段落があり、「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く」(31節)と、いよいよエルサレムが近づいたことを告げます。

 今日は、最初の「やもめと裁判官」のたとえが語られている段落から学びます。最初に、「イエスは、気を落とさず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」(1節)と言います。信仰を持つということは、神に祈るということといってもよいでしょう。

 キリスト教の祈りの特徴のひとつは、皆で祈るというものです。マルコ福音書11章17節に「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と記されています。ここで語られている「家」(オイコス)とは、神の宮、神殿のことといってよいでしょう。そしてそこは「祈りの家」であって、そこで共に祈り、また、お互いのために祈り合うのです。

 祈りはときに、直ぐには答えられないことがあります。祈っても、事態が思うように動かなかった、むしろ、悪くなってしまったという経験をすることもあります。だからこそ、気落ちせず、絶えず祈るべきことを、主イエスが教えてくださっているのです。

 そのたとえ話とは、神を畏れず人を人と思わない悪徳裁判官の下に、一人のやもめがしつこく訴え出て裁判を開いてくれるように頼むと、そのあまりのうるささに、裁判官がやもめの訴えを取り上げてやるというものです。一文の得にもならないやもめの裁判を引き受けるような人物ではないのに、それをするようにしたのは、やもめのうるささ、しつこさということでしょう。

 5節に「ひっきりなしにやってきて、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」と言われていますが、ここで「さんざんな目に遭わす」というのは、「目の下を打ってあざを作る」(フポウピアゾウ)という意味の言葉が用いられています。 そうなれば、仕事にも差し支えるようになるというのを恐れて、女性の望む裁判をしてやろうというのです。

 主イエスは、私たちの祈りを聞かれる神がこの悪徳裁判官のような方であると仰っておられるのではありません。また、どんな願い事でも、しつこく願いさえすれば、泣く子と地頭には勝てないといって、主なる神が私たちの言うことを聞いてくださると教えておられるわけでもないでしょう。

 7節に「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」と言われています。選ばれた人たちが昼も夜も叫び求めているのは、神が公正な裁きを行ってくださることです。つまりそれは、神が義を行われることです。

 「昼も夜も叫び求めている」ということは、地上に神の義が行われていない、神の義の支配を見ることが出来ないということでしょう。それは、裁判が公正に行われていない、裁判にすら、神の義を見ることができないということを示しているのかもしれません。

 主イエスは、大祭司カイアファの家で(22章54節、66節以下)、そしてローマ総督ピラトの官邸で裁判を受けられましたが(23章1節以下)、その裁判に正義はありませんでした。ピラトは主イエスの無罪を確信しながら(同4,14,15,22節)、十字架で処刑することを要求する声(同5,18,21,23節)に負けて、処刑に同意してしまいました(同24,25節)。

 話を戻して、「選ばれた人たち」(7節)とは、主イエスを信じる人々ということです。主イエスを信じた人々は、自分が主イエスを選び信じたのではなく、主イエスから選ばれたのだと教えられています(ヨハネ福音書15章16節)。主イエスを信じる人々が昼も夜も叫び求めているもう一つの理由は、神が必ず祈りに応えてくださると信じているからです。

 このたとえ話の最後に、冒頭の言葉(8節)のとおり「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と主イエスが言われました。これは、疑いの表現です。神の裁きをもたらすために再臨してみたら、忍耐強く信じて待っている者が一人もいないのではないかと、主イエスが疑っておられる言葉と読めます。

 その質問に対して、「私なら大丈夫です。他の皆が信仰を失っても、自分は決して信仰を失いません」と応えることができる人がいるでしょうか。そのように応えてはいけないとは申しませんし、それは嘘だと申しませんが、主イエスは私たちの心をご存知です。それで、そのまま素直に「信仰を見いだすだろうか」と問うておられるのだと思います。

 そして、主イエスが来られるのは、選ばれた人々が叫び求めている神の義を実現するためなのですから、その時まで、信じて祈り続けてほしいと仰っておられるのです。そのことのために、義の神に信頼しつつ、どのようなときにも気を落とさずに絶えず祈るようにと願っておられるのです。

  落胆せず、主を信じて祈るべきことについて、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(第一テサロニケ5章16~18節)とパウロも教えています。自分の祈りの姿勢を正すために、先ずここに語られている主の御言葉を心に留め、主の御心、神の義が実現されることを祈り求めましょう。

 主よ、地上に神の義をもたらすために、御子をお遣わしくださるり感謝いたします。ところが、私たち人間は愚かにも御子を十字架につけて殺してしまいました。しかるに主は、ご自分の命をもって私たちの罪を贖い、私たちに救いの道、命の道を開いてくださいました。そして、救いの完成のために、神の義の到来のために祈りを要請されました。どうか私たちを祈りにも忠実な者とならせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン



3月28日(土) ルカ福音書17章

「主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう。』」 ルカによる福音書17章6節

 1節以下の段落には、主イエスと弟子たちとの会話が記されています。そのテーマは、罪と信仰というものでしょう。聖書が語っている「罪」とは、刑法に触れる犯罪とイコールではありません。勿論、犯罪は罪です。しかし、自分は犯罪を犯したことがないといって、それで罪人でないわけではありません。聖書がいう罪とは、関係を壊し、背くことを言います。

 詩編14編1節に「神を知らぬ者は心に言う、『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない」という言葉があります。「神などない」と心で考えただけで、その人は腐敗している、善を行っていないというわけで、神を否定することは、聖書で神に背く「罪」とされているのです。

 1節に「つまずきは避けられない」とありますが、これは、誰もが罪を犯す、犯さない者はいないということです。私たちが誰かに腹を立て、悪口を言うとき、自分も同じ罪人だと考えてはいないでしょう。悪口を言う私自身はその時、正しい人です。自分のことは正しい人だと考えています。だから、間違ったことをする者に腹を立て、馬鹿だ、愚かだというのです。

 けれども、本当にあなたは正しい人か、賢い人かと突っ込まれると、答えに窮します。他人を非難し、罵っているとき、自分自身のことは棚に上げているだけだからです。

 勿論、罪を犯すことは非難されるべきことです。罪を無視することをよしとはしません。だからといって、私たちに罪を裁く権限はありません。神が私たちに求めておられるのは、罪の裁き、人を罪に定めることではなく、罪の悔い改め、方向転換です。関係を損ねる行為、その行為を産み出す考えを変えることです。

 3節に「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」と記されているとおりです。人に忠告を与えるというのは、なかなか難しいものです。一所懸命に言葉を選び、相手のことを考えて話しても、かえって逆恨みされることもあります。そうなるくらいなら黙っておこうと思ってしまいます。けれども、それでは相手との関係を真に良くすることは出来ません。

 難しいといえば、罪を赦すことほど難しいことはないのかも知れません。3節に「悔い改めれば、赦してやりなさい」とあり、続く4節には「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と記されています。

 確かに、本当に悔い改めて来れば、赦してやれるかも知れません。けれども、一日に七回罪を犯し、七回「悔い改めます」と言って来るというと、それは、本当に悔い改めていることにはならないだろう、本当は悔い改める気などないんじゃないか、それなら、到底赦してやることは出来ないと思ってしまいます。

 イエス様は、そのような私たちのことをよくよくご存じです。つまり、赦してやりなさいという主イエスのご命令を、私たちはなかなか守れないのです。一日に何度、主イエスの言いつけに背くことでしょうか。そして何度、「悔い改めます」と赦しを請うでしょうか。

 否、「悔い改めます」と言わないことも多々あります。赦せないのは相手が悪いからで、それは仕方のないこと、頭で赦さなければと思っても、心が絶対無理、絶対赦せないというのです。しかしながら、もし神が、それなら私もお前たちを赦してやることなど出来ないと言われれば、どうしましょう。

 そのような赦しを実行するには、より強い信仰、大きな信仰が必要だと弟子たちは考えたのでしょう。5節に「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言った」と記されています。信仰の巨人になれば、そして、心に神の愛が充満していれば、他者を戒め、あるいは彼の罪を赦してやることが出来るようになるだろうと思っていたわけです。

 それに対して主イエスは、冒頭の言葉(6節)のとおり、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と言われました。

 「からし種」は、人が栽培する野菜などの中で最も小さい種といわれます。「からし種一粒ほどの信仰」とは、これ以上小さくは出来ない、最小の信仰といった表現です。つまり、信仰の量、大きさは問題ではなく、信仰があるかないかが問われるということです。

 あらためて言うまでもないことですが、桑の木が動き出して海の中に根を下ろすことなど、あり得ないことです。誰が桑の木にそのように命じることが出来るでしょうか。特別な能力を授けられた人ならば、あるいは出来るかも知れませんが、私のような凡人には、到底不可能という話です。

 桑の木が言うことを聞くとすれば、神が木に命じられるときです。主イエスはここで、信仰とは、全知全能の神を信頼することであると教えておられるのではないでしょうか。人には出来ないことでも、神に出来ないことはないのです。

 18章27節に「人間にはできないことも、神にはできる」と記されています。私たちは、不可能を可能とし、死者に命を与え、存在していない者を呼び出して存在させるお方を主と呼び、私たちの神として信頼しているのです(ローマ書4章17節)。

 神は、私たちの罪を赦すため、独り子イエスをこの世に送り、贖いの供え物となさいました(第一ヨハネ4章10節)。それは、私たちが悔い改めたからではありません。私たちがまだ罪人であったとき、神に敵対していたときに、御子の死によって、和解の道を開かれたのです(ローマ書5章6節以下)。

 主なる神が罪人の私たちと和解することを望まれ、その道を切り開いてくださいました。全くもってあり得ないことを、神が自ら行ってくださったのです(同10,11節)。

 神は、動くはずのない桑の木に命じて、抜け出して海の中に根を下ろすという奇跡を行うことが出来ます。桑の木が神の言葉に聴き従うのです。そうであれば、私たち主イエスを信じる者が「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」(3節)と言われる主イエスの御言葉に聴き従うのは当然です。

 桑の木が自分で動けたのではありません。神の御言葉が桑の木を動かしたのです。神は私たちに、兄弟の罪を赦せるような寛大さ、包容力を求めておられるのではありません。神の御言葉に聴き従うことを求めておられるのです。

 だから10節で、「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」と言われているのです。

 私たちが神の御言葉に聴き従うのは、私たちが立派だからではありませんし、そうすれば褒めてもらえるということでもありません。それは、神の僕として、しなければならないことをするだけのことなのです。つまり、御言葉に従おうとして、出来ないことはないのです。

 かくて、「からし種一粒ほどの信仰があれば」というのは、私たちが主を信じ、御言葉に従うのが、信仰の第一歩だということです。そして、私たちが主イエスの御言葉に耳を傾け、導きに従ってそれを実行していくならば、私たちの信仰は大きく成長することになるのです。主は、少事に忠実な者に、より多くのものを委ねられるお方だからです(マタイ25章21節など)。

 そして、主が開いてくださる恵みの世界、赦しの道、和解の道、平和の道を歩むことがどんなに豊かなものであるかということを、主の御言葉に従って歩む者は、味わうことが出来ると教えてくださっているのです。

 それでも、主の御前に悔い改めようとせず、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」という御言葉に従うことが出来ないならば、それを不信仰というのです。信じない者にならないで、信じる者になりましょう。人間には出来ないことも、神には出来るのです。

 永遠の御国へと到る主の道、真理の道、命の道を、主の御言葉に聴き従いながら、歩ませて頂きましょう。御言葉に従う者に与えられる恵みは無限大なのです。

 主よ、信仰の醍醐味を味わうために日々主の御言葉を正しく聴き、その導きに素直に従うことが出来ますように。「御言葉ですからやってみましょう」と語らせて頂きながら、主が私たちに与えられた救いの恵み、永遠の御国の喜びを真に味わい知る者となることが出来ますように。まことに主を畏れ、謙って、霊と真実をもって主を礼拝する者とならせてください。主の恵みが私たちの上に常に豊かでありますように。 アーメン




3月27日(金) ルカ福音書16章

「そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」 ルカによる福音書16章26節

 16章には、富の所有、管理に関するたとえ話が、「律法と神の国」というマタイとの共通資料に基づく記事を挟んで二つ(「不正な管理人」のたとえ:1~13節、「金持ちとラザロ」:19~31節)、ルカの独自資料によって物語られています。

 その中で、16~18節には「律法と預言者」即ち旧約聖書のこと、また離縁についての文言が取り上げられていて、前後の文脈にそぐわないように見えます。ただ、申命記24章には、離縁についての規定と、経済的な問題を含む人道的な規定が並べられており、そこで、律法なる神の教えをどう読むかが問われているのです。

 その点から、14,15節は19節以下のたとえ話の前半(19~26節)の導入、16~18節は、たとえ話の後半(27~31節)の導入として語られているものと考えられます。ということもあって、今回は主イエスが語られた「金持ちとラザロ」(19~31節)というたとえ話について考えたいと思います。

 このたとえ話の特徴は、主イエスが語られたたとえ話の中で、唯一、固有名詞が登場することです。即ち、ラザロとアブラハムです。ただし、金持ちと言われる人物の名は記されていません。金持ちは贅沢に遊び暮らし(19節)、一方、ラザロは金持ちの家の門前に横たわり、食卓の残り物で腹を満たしたいと思っていました(21節)。

 ある写本では、満たそうと思ったけれども、「何も与えてくれなかった」となっているものがあり、ヴルガタ訳と呼ばれるラテン語聖書はそれを採用しています。そうすると、金持ちはラザロに対して全く無慈悲だったということになります。けれども、日本語の聖書はそれを採用しませんでした。別のことを考えるようにと示されているように思います。

 やがて、ラザロは亡くなって、天使たちによりアブラハムのもとへ連れて行かれました。また、金持ちも死んで葬られました(22節)。そして、金持ちは陰府でさいなまれており、ラザロは宴席でアブラハムの傍らにいます(23節)。

 金持ちはアブラハムに、「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください」(24節)と大声で呼びかけました。ここで、ラザロも金持ちもユダヤ人として物語られているようです。というのは、金持ちが「父アブラハム」と呼びかけていますし、ラザロは、アブラハムの傍らにいるからです。

 金持ちは、神の憐れみのしるしとしてラザロを遣わし、指先を水に浸し、その水で自分の舌を冷やさせてくださいと願いました(24節)。生前、ラザロは全身できもので覆われ、それを犬がなめるという悲惨な有様でした(21節)。金持ちは、ラザロの手が触れたものを、どれほど汚らわしく思っていたことでしょう。しかし今、陰府の炎で苦しめられ、ラザロの指先の水で舌を冷やしたいと願うのです。

 その願いに対してアブラハムは、「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」(25節)と言いました。

 即ち、生前と現在とで、ラザロと金持ちの立場が全く入れ替わったというわけです。さらに、冒頭の言葉(26節)が語られます。願いをかなえてやりたくても、陰府、即ち地獄と、アブラハムのいる宴席、即ち天国との間には、大きな淵が横たわっていて、渡って行くことができないというのです。

 単純に考えれば、天国と地獄を往来出来るはずがないということになりますが、「大きな淵」は、生前の金持ちとラザロの間に横たわっていた深い溝を示しています。最初に記したように、金持ちがラザロのために何もしてやらなかったということではないと思います。残り物を与えることもあったと思われます。

 そうでなくても、水を恵むほどのことはしたでしょう。ラザロの指先の水をねだるとき、生前自分のしてやったことを思えば、その程度のことはしてもらえるのではないかという考えがあるようにも思われます。

 けれども、アブラハムからきっぱりと断られました。渡れない大きな淵にしたのは、あなたなのだ、そしてそのことを、まだ理解していないのかと言われているかのようです。どういうことでしょうか。

 それは、金持ちが生前、その深い溝を渡ってラザロの傍らに座すこと、彼を理解し、友となろうとすることがなかったと言っているのです。彼に何を上げたか、どれだけ上げたかということが問われているのではなく、彼を憐れみ、彼を理解しようとしたかと問われているのです。その溝が天と陰府とを隔てる淵のようになってしまったわけです。

 そうなってなお、真に悔い改めることができないまま、ラザロを召使のようにして、その指先の水を届けるため、陰府にまで遣わして欲しいと願っているので、なおさら、金持ちとラザロの溝が深くなってしまいました。金持ちはラザロを、「アブラハムの子」、即ち自分と共に神の祝福を受けるべき者と見ることができなかったのです。

 私たちの目も、この金持ちと同じです。自分の思いで周りの者を裁き、こんな人を神が祝福するはずがないと、勝手に決めつけてしまいます。そうです。自分と違う者を受け入れることが出来ません。優しくなれません。私たちは自分の行い、態度、心持ちで神の国に入ることが出来るような立派な者ではないのです。

 その意味では、神の目から見て、私たちは神の前に何ら功績を差し出すことの出来ない貧しく乏しい者ラザロなのです。どうすればよいでしょうか。ただ赦していただくしかありません。憐れんでいただくほかないのです。そして、主なる神は、ラザロにされたとおり、ご自身の豊かな恵みと愛によって私たちを深く憐れみ、赦してくださることでしょう。

 神の憐れみを受け、豊かな恵みに与って、隣人に対して互いに優しい者にならせていただきましょう。

 主よ、私たちを憐れんでください。その弱さ、愚かさ、罪を赦してください。信仰の目をもって主を仰ぎ、また隣人を見ることが出来ますように。理解することが出来ますように。自分のように隣人を愛する者とならせていただくために、私たちの心に、生活の中においでください。主の恵み、憐れみが私たちの上に常に豊かにありますように。 アーメン




3月26日(木) ルカ福音書15章

「ここを立ち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。』」 ルカによる福音書15章19節

 15章は、1節以下の段落にマタイ福音書との共通資料、8節以下の段落と11節以下の段落にはルカの独自資料という構成になっています。

 ここには、三つのたとえ話が記されています。一つ目は「見失った羊」のたとえ(1~7節)、二つ目は「無くした銀貨」のたとえ(8~14節)、三つ目は「放蕩息子」のたとえ(15節以下)です。これらはいずれも、なくしたものを見出した喜びについて語っています。

 この観点から言えば、「見失った羊」は、羊を見つけた羊飼いの話、「無くした銀貨」は銀貨を見出した女性の話、「放蕩息子」はいなくなっていた息子を見出した父親の話ということになります。

 7節の「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」という言葉と、14節の「このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」という言葉は、「放蕩息子」のたとえを語る備えを与えていて、三つのたとえ話で一つの話になっています。

 以前、一人の壮年男性と出会いました。彼は町でクリスチャン女性と会い、教会に連れて来られました。以後、毎週のように礼拝に出席し、やがて祈祷会にも出席するようになりました。秋の伝道集会でクリスチャンになる決心をし、クリスマスにバプテスマを受けられました。

 彼は、親の財産を食いつぶして、家に帰ることが出来なくなり、ホームレス生活をしていました。彼がクリスチャンになる決心に導かれたのは、熱心なクリスチャン女性の励ましがあったからですが、秋の伝道集会において語られた「放蕩息子」の話を聞いて、それに自分を重ね合わせたということでした。

 自分のしたことは、この放蕩息子以上の大きな罪だと彼は言いました。そして、罪を告白するといって、それまでに自分が犯した罪・過ちについて、ノート1ページにびっしりと書いて持って来られました。

 聖書に「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(第一ヨハネ書1章9節)とありますから、好み言葉どおり、神はその男性の罪を赦してくださったと信じます。

 彼がバプテスマ(洗礼)を受けるとき、「今はホームレスをしているけれども、バプテスマを受けて生まれ変わり、一日も早くもとの生活に戻りたい。それが私の本当の悔い改めだと思っている。できれば、仕事をして蓄えを作り、住まいを確保して、他のホームレスを助けられるようになりたい」と語ってくれました。

 バプテスマを受けて数ヵ月後には、導かれて仕事が与えられ、それに伴って住まいも備えられました。この男性と同じような境遇の人が、すべて同じように導かれるわけではありません。むしろ、人々の善意に甘えて寸借を繰り返し、返済しないままおいでにならなくなるといったケースのほうが多いのではないかと思います。

 言うまでもなく、教会が彼らに提供できるのは、お金や仕事などではなく、信仰と祈りです。それ以外のものを与えはしないということでもありませんが、しかし、信仰と祈りが彼らにとっても、最も重要な助けではないかと思います。

 かの男性が、「元の生活の戻ること、それが自分の真の悔い改めだ」と語り得たのは、私たちが何かを与えたからではありません。むしろ、何も差し上げませんでした。ただ一緒に聖書を学び、祈っただけでした。そして、御言葉を通して放蕩の罪を赦し、新しい生き方、歩むべき道を与えてくださる神と出会ったのです。

 聖書の中の放蕩息子は、危機的状況の中で家を思い出し、帰る決断をします。そこにしか、自分の生きる道を見つけることが出来なかったのです。17節に「彼は我に返って」とありますが、それこそ、しばらく我を忘れていた放蕩息子が、すべてを失い、危機に直面することで、もう一度我を取り戻したのです。

 しかし、財産の生前分与を受けて家を出るという親不孝をしたこの息子には(12,13節)、もはや帰る「家」はありません。自分の罪を自覚した息子は、父親にその罪を侘び、そして、息子としてではなく、雇い人の一人にしてくれるように頼もうと考えました。それが冒頭の言葉(18,19節)です。その願いが聞かれるという自信もなかったでしょう。けれども、前述の通り、彼にはそれしか考えられなかったのです。

 ところが、家に帰った彼を待っていたのは、そんな彼の思いをはるかに超える父親の愛でした。雇い人にしてもらえれば恩の字だったのに、父親は息子にその言葉を言わせないで、すぐに最上の着物を着せ、靴を履かせ、家族のしるしの指輪を与え(22節)、肥えた子牛を屠らせ、祝宴の準備をさせました(23節)。そこに、父親の息子に対する深い愛が示されています。

 私たちの天の神は、この父親のようなお方なのだと、主イエスが教えてくださっています。そして、だれもが、天における大きな喜びの中に、この父なる神との交わりへと、絶えず招かれています。外で見物している必要はありません。招きに応じて、喜びの輪に加わればよいのです。

 御言葉と祈りを通して、その恵みの世界に共に進ませていただきましょう。

 主よ、あなたのご愛を忘れ、見失って右往左往している愚かな僕を赦してください。いつもあなたの慈愛の御手のもとに留まらせてください。絶えずその恵みを豊かに味わわせてください。今、悩み苦しみの内におられる方々に主の恵み、喜び、平安が開き与えられますように。 アーメン



3月25日(水) ルカ福音書14章

「主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。』」 ルカによる福音書14章23節

 14章の記事は、1~14節がルカの独自資料、15~33節がマタイとの共通資料、そして34,35節はマルコ福音書に基づく記述で構成されています。

 15節に「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」という言葉があります。「神の国」とは、「Kingdom(キングダム) of(オブ) God(ゴツド)」、神が王として支配している国、神の支配が及んでいる場所のことです。普通は、天の御国のことを指していると考えられます。

 この言葉を語ったのは、ファリサイ派の議員の家の食事に招待された客の一人だということですが(1,7,15節)、その人は、天の御国の宴会に招かれるのは、大変光栄なことだと言っているわけです。この世の王様に招待を受けることも勿論名誉なことですが、なんといっても、「King of Kings,Lord of Lords、王の王、主の主」なるお方の招きです。

 その席に招かれたとなれば、それこそ、天にも昇る思いになるのでしょうね。そこにどんなご馳走が並ぶでしょうか。そのお方のテーブルで食事をご一緒するというのは、どんなに幸い、光栄に感じることでしょうか。

 恐らくその人は、自分がファリサイ派の議員の宴会に招かれているように、天の御国にも招かれて宴会に臨んでいる様子を思い浮かべていることでしょう。そして、「俺は、神の宴会に招待されて、一緒に食事する栄誉に与った男なんだぞ」と、それをとても誇らしく思っていることでしょう。その気持ちは分らないでもありません。

 主イエスはその言葉を聞いて、大宴会のたとえ話(16節以下)をなさいました。それは少々不思議な話です。そこに「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った」(16~18a節)と記されて、続けて断りの理由が述べられています。

 まず第一の不思議は、招かれていた人々が次々と断りを言って、だれも宴会に来ようとしないことです。それは、招いた家の主人を軽んずることです。招待に答えるよりも、自分の用件の方が重要なのです。それで、当然のことながら、家の主人は立腹します。宴会の出席をドタキャンした人々は、もう二度と招かれないでしょう。

 第二の不思議は、立腹した主人が僕に指示する言葉です。「僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい』」(21節)と記されています。

 その指示に従って宴会の客が招かれますが、それでもまだ席があると聞くと(22節)、冒頭の言葉(23節)のとおり、「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言います。

 いかに、招待を土壇場で断られて腹を立てたからとはいえ、自分が主催する宴会に「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」といった、当時差別の対象とされていたような人々を招くでしょうか。誰でもいいから無理矢理にでも人々を連れて来て、空席を満たせというような、そんな主人がいるでしょうか。

 通常ではあり得ないところが、この話の味噌です。この話の中で、宴会を開く主人は父なる神様、招待客を迎えに行く僕は、主イエスご自身です。主イエスは、貧しい人、体の不自由な人、罪人と呼ばれた人など、当時のユダヤ社会では、神の選びから漏れていると考えられて社会の片隅に追いやられていた人々を招き、食事を共にされていました。

 ユダヤの指導者たちは、主イエスが罪人の仲間になられたということで、主イエスを軽んじます。およそ、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」と一緒に食卓に着こうなどとは考えません。そういう人々の仲間と言われるのは、彼らにとってはこの上もなく不名誉なことだったわけです。だから、宴会に出席するのを、口実を設けて断るわけです。

 一方、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」は、自分たちは神の宴会に招かれる資格があるなどとは、思ってもみなかったことでしょう。ただ、招かれたので来たということです。さらには、「無理にでも連れて来い」と言われる人々がいます。ここに、この家の主人の強い意思が示されます。つまり、神はご自分の家、天の御国の宴席を、人々で満たしたいのです。

 自分には招かれる資格があると思っていた人々は、神の恵みを軽んじました。資格があると思わなかった人々、元来招かれていなかった人々がその恵みに与ることになりました。勿論、無理矢理に連れて来られた人々の中には、宴会に出席することをよしとせず、家に帰ってしまい、その恵みを受け損ねてしまった人がいたかも知れませんね。

 「ふうけもん」という映画があります。中村雅俊が主演で、浅野ゆう子、中村玉緒、哀川翔なども出演します。監督は、釣りバカ日誌を撮っている栗山富雄監督。「ふうけもん」は、便利屋さんの元祖でクリスチャンの右近勝吉さんをモデルにした映画です。「ふうけもん」とは、佐賀弁で「馬鹿者、怠け者」といった意味の言葉です。

 当初、全国東映系の映画館で上映予定でしたが、制作元の資金面の問題で公開中止となり、その後、2014年に制作元の自主上映のかたちで全国の映画館、ホールで上映され、宣べ3万人を超える観客動員を達成しました。

 この映画のモデルとなった右近さんは、高校生時分、やくざの鉄砲玉をしていましたが、マカルパイン宣教師と出会って生活が変わります。1956年の冬、マカルパイン宣教師に誘われて出席した集会の講師ダビデ・マーチン先生が、説教中に千円札を取り出して、「これを欲しい人にあげましょう」と言いました。

 右近さんは、マーチン先生の余りの気前の良さにびっくりしてしまいました。それは、当時の一般サラリーマンの月給が1万5千円程度ですから、当時の千円は今なら2万円にもなるものだったからです。

 皆があっけにとられている中、一人の女子学生が「はい」と手を上げ、千円札を講師から貰いました。そのときマーチン先生は、「信仰とは、差し出されたものを素直に受け取ることなのです」と言われました。

 それを聞いて右近さんは、「差し出されたものを有り難く頂戴する、それが信仰ってヤツなら、俺にだってできるじゃねぇか」と、その晩マカルパイン宣教師が信じているイエス・キリストを受け入れたのです。というのも、マカルパイン宣教師が、自分のようなヤサグレ者を分け隔てせずに、笑顔で受け入れてくれていたからというのです。

 私たちが救われて神の国の民となることが出来るのは、実にこの神の恵みなのです。私たちが何者なのかが問題ではなく、天の御国の宴会の席に座る恵みに与るためには、父なる神が遣わされた神の御子、主イエスに「はい」と従順について行き、差し出されたものを素直に受け取ることだけなのです。

 子どものように素直に神の国を受け取ろうとする皆様に、神様の恵みと導きが常に豊かにありますよう、祝福をお祈りします。ご一緒にお祈りしましょう。

 天の父なる神様、御名を崇め、感謝と賛美をおささげします。私たちを御国の宴会にお招きくださり、感謝します。あなたのくださる恵みをそのまま素直に受け取ります。絶えず、主の御声に聴き従わせてください。私たちの上に、主の恵みと慈しみが常に豊かにありますように、そして、いよいよ主の御名が崇められますように。 アーメン



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