風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2020年02月

2月29日(土) マルコ福音書5章

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」 マルコによる福音書5章34節

 5章には、悪霊につかれたゲラサ人の解放(1~20節)と、ヤイロの娘と長血の女の病と死の力からの救い(21~43節)が記されています。ゲラサ人の地方の(1節)「レギオン」(9節)という汚れた霊に取り憑かれた男が、解放されて(15節)、主イエスの御業をデカポリス地方に言い広めたことは(20節)、異邦人の地での伝道の始まりを示しています。

 21節以下の段落は、ヤイロの娘の病の癒しの話(21~24節、35~43節)に、長血の女の癒しの話(25~34節)が割り込むかたちになっています。長血の女性の癒しのために、ヤイロの家に向かう主イエスの足が留められることになって、娘は亡くなってしまいますが(35節)、主イエスは娘を生き返らせ(41節)、死に打ち勝つ神の力をお示しになりました。

 今日は、その話の間に挿入された長血の女の癒しの話で、その女性の信仰に注目します。主イエスの周りに大勢の群集が押し迫っていたとき(24節)、そこに紛れ込んで、後ろからそっとイエスの服に触れた女性がいました(27節)。それは、12年間も出血が止まらない女性でした。そ㋨出血は、婦人科の病気によるものだったようです。

 始終出血があるというだけでも気分の優れないものですが、この病気が辛かったのは、出血が宗教的に「汚れ」とされることです(レビ記15章19節以下、特に同25節以下)。その規定は、この女性を清潔な環境に隔離するためのものと考えることも出来るのですが、しかし「汚れ」と言われる以上、差別的な扱いを受けることになったのではないかと思われます。

 この女性は、何とかこの病気を治そうと手を尽くしましたが、財産を失っただけで何の役にも立たなかったばかりか、病気を悪化させてしまったということです(26節)。そういう状況でしたから、この女性が主イエスのことを聞いたとき、これが最後の望みという思いもあったのではないでしょうか。

 しかも、彼女は一途にそのことを思っていたようです。というのは、28節に「『この方の服にでも触れれば癒していただける』と思っていた」と記されていて、「思っていた」と訳されている言葉は、未完了形の動詞が使われているからです。これは、動作が継続していて完了していないこと、つまり、「思い続けている」ということになります。

 さらに、「思う」と訳されている「エレゲン」は「話す」(レゴー)という動詞です。とはいえ、「汚れ」と言われる病気の身の上で他者との接触がはばかられ、公にだれに対してもそのように語っていたと考えることは出来ず、主イエスの衣に触れれば癒して頂けると自分自身に対して繰り返し語っていたということで、それを「思う」と訳したわけです(岩波訳参照)。

 思い続けていたことを実行する日が来ました。うまい具合に大群衆が主イエスを取り巻いていて、誰が誰だか判別できないような状況です。こっそり近づき、こっそり触り、そしてこっそり抜け出すには、絶好の状態です。彼女はそのようにして、そっと主イエスの衣に触れたところ、たちどころに病気がよくなりました(29節)。思い続けていたとおりになったのです。

 ところが、その後の展開は彼女の思い通りではありませんでした。女性が触ったことに主イエスはお気づきになり、「わたしの服に触れたのはだれか」(30節)といってその人をお探しになります。

 弟子たちが、「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか」(31節)と主イエスに言います。つまり、誰もが主イエスの触れようとして押し迫っているのだから、衣に触れた「一人」を探し出すのはナンセンスだということでしょう。

 勿論 、主イエスは誰がどのように触れたのか、一人ひとりきちんと感じ取っておられたということではないでしょう。主イエスの内から力が出て行ったことに気づかれたということですから(30節)、主イエスから力を引き出す触れ方をした人がいたということです。だから、「わたしの服に触れたのはだれか」(30節)という問いに応答する人を、主イエスは探しておられるのです。

 「触れたのはだれか」と探されたとき、女性は一目散に逃げようとしませんでした。彼女は、自分の身に起こったことに驚き、そしてご自分に触れた者は誰かとお探しになる主イエスの言葉を聴いて、畏れを感じました(33節)。黙って逃げ出すことはできないと思ったのでしょう。否、逃げてはいけないと考えたのかも知れません。それは、女性が主イエスに「神」を感じているからです。

 彼女は主イエスの前に進み出て、ありのままをすべて話しました(33節)。そのとき、主イエスが女性に対して語られたのが、冒頭の言葉(34節)です。主イエスは女性に、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。

 ここに主イエスが「あなたの信仰」(へ・ピスティス・スー)と言われていますが、それは、どのようなものなのでしょうか。一つは、前述のとおり、主イエスの服に触れれば癒していただけると、繰り返し話していた、思い続けていたことです。その一途な思いが信仰と受け止められたと見ることが出来ます。

 しかしさらに大切なのは、主イエスの前に進み出て、「すべてをありのまま」申し上げたということです。その心は、神を畏れる心でした。主イエスはその心を「信仰」と言われたのではないでしょうか。つまり、病気がよくなりさえすればよいというのではないのです。主イエスとどのように向き合い、交わりを持つかということが大切だというのです。

 だから、「治った」(セラペウオー)というのではなく、「救った」(ソウゾー)という言い方になるのです。実は、女性が、「いやしていただける」(28節)と言っていたという箇所でも、原文には「救われる」(ソウゾー)という言葉が用いられていました。

 さらに、「安心して行きなさい」も、直訳は「平和の中へと帰りなさい」(フパゲ・エイス・エイレーネーン)という言葉で、神に救っていただいた者として、魂の平安と共に家族や隣人との平和な交わりの中にお帰りなさいという主イエスの思いを、そこに読み込んでもよいだろうと思います。

 そのようにして、主イエスは救いに与った私たちをも、平和の交わりへと招き入れておられるのです。主の御声に耳を傾け、信仰をもって主の導きに応答しましょう。

 天のお父様、主イエスを信じる信仰により、救いの恵みに与らせてくださり、心から感謝いたします。いつも、主への畏れの心をもって、その御衣に触れるほどに近くおらせてください。平和の源なる主の恵みにより、私たちの家族がいつも平和でありますように。絶えず平安な心で過ごせますように。 アーメン



2月28日(金) マルコ福音書4章

「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実が出来る。」 マルコによる福音書4章28節

 26~29節は、主イエスが語られたたとえ話の中で唯一、マルコ福音書だけにしか記されていないものです。マタイ福音書はこのたとえ話の場所に、「毒麦のたとえ」(マタイ福音書13章24~30節)と呼ばれるたとえ話を入れており、それは、マルコ福音書にあるたとえ話の発展というか、あるいはその解釈の方向性を示していると考えることが出来るかも知れません。

 いずれにせよ、冒頭の言葉(28節)で「土はひとりでに実を結ばせるのであり」というのは、種が実を結ぶのは大地の力によるのであって、人間の労作などというものではないということです。人が手を出して引っ張ってやる必要などありません。ここで、「ひとりでに」というのは、原語で「アウトマテー」といいます。これは、「人手によらず、自ずから、オートマティックに」という意味の言葉です。

 同じ言葉が、投獄されていたペトロを天使が起こし、鎖が外れ、衛兵のいる詰所の前を通過し、町に通じる鉄の門の所まで来ると、「門がひとりでに開いたので」(使徒言行録12章10節)と記されているところに用いられています。この時代に自動ドアがあるはずはありませんが、まるで自動ドアのようにオートマティックに鉄の扉が開いたということです。

 そのように、畑に蒔かれた種は、土の力で実を結んでいるのであって、ヒトが苦労したからといって、特別に早く収穫出来るようになったり、驚くほどたくさん結実したりということにはならない、そのような収穫を自分の手柄にすることは出来ないということではないでしょうか。

 これは勿論、農家の方々は何の苦労もなく、収穫の恵みを受けているということを言っているのではありません。何もせずに放っておいて、収穫を期待することはできません。肥えた土を作り、耕し、種をまき、水をやり、雑草を抜き、肥料をやりして、大切に育てます。

 そうしたからといって、豊作になるとは限りません。日照りもあれば、大風や大雨もあります。病虫害もありますし、すぐに雑草がはびこります。そして、人間の努力などひと吹きで破壊する、自然の驚異が襲って来ることがあります。台風が頻繁に襲ってくる秋になる前に収穫できるように改良をして、早生の品種を作り出しても、限度があります。工業製品を作るようなわけにはいかないのです。

 その意味でこのたとえ話は、自然の力の前に謙虚にならざるを得ない経験に基づいて語り出された言葉ではないでしょうか。自然の力を象徴的に「土」と言い、豊かな実が出来るのは土の力、自然の恵みだ。人が思い上がって自分の努力の結果だなどと言っていれば、そうでないということをいやというほど思い知らされるだろう。神の恵みをただ感謝するだけだと言っているようです。

 主イエスはこのたとえを、「神の国は次のようなものである」(26節)といって語り始められました。神の国とは、神が王として統治、支配しておられるところということです。ということは、種が成長して収穫に至るのは、すべて神の支配によると読むことが出来ます。

 「土」を「神」と読み替えて、考えてみればよいでしょう。どんな仕事が出来ても、どんなに成果が上がっても、それは、神がご自分の力をそこに働かせてくださったからであり、ゆえに、必要な協力者が与えられたり、不思議に条件が整えられたり、タイミングよく出来事が組み合わされたりして、そのプロジェクトが成功したのではないでしょうか。

 パウロが、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(第一コリント書3章6節)と語っているのは、このことを理解しているからと言えるのではないでしょうか。確かに、大事を一人の力で成し遂げることはできません。

 神は私たちを愛し、豊かな恵みを与えようとしておられるのです。今、私たちの目に苦労としか見えなくても、困難にふさがれているように思われても、そこを通ることによって、私たちが耕されるということがあるでしょう。あるいは、麦の根付きをよくするための麦踏みということもあるでしょう。困難も私たちを愛する神の御手のうち、と考えることが出来る人は幸いです。

 納得いかない人は、神に叫びましょう。訴えましょう。平安に導かれるまで、御言葉が示されるまで、祈りましょう。主なる神は、私たちの呻きをさえ受け止めてくださいます(ローマ書8章23節以下、26,27節)。そして、神が必ず豊かな収穫の恵みに与らせてくださると信じましょう。万事が益となるように共に働いてくださるからです。

 天のお父様、天地万物を創造され、独り子をお与えになったほどに私たちを愛していてくださる主を信じる信仰に導かれたことを、心より感謝します。様々なことですぐに思い煩って平安を失い、夜眠ることの出来なくなる私たちです。しかし、あなたは愛する者に眠りを与えると約束されました。あなたを信頼して休むことを学ばせてください。 アーメン

2月27日(木) マルコ福音書3章

「それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。」 マルコによる福音書3章19節

 主イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せ(13節)、そこから12人を任命して、彼らを使徒と名付けられました(14節)。主イエスの周りには、おびただしい群衆が従って来ていましたが(7節)、そのすべてが主イエスに召されて使徒とされたというわけではないわけです。

 ここで、「山」(ト・ホロス)には定冠詞がつけられています。「山」(the mountain)と言えば富士山というように、だれもがよく知っている山のことです。聖書にも様々な山が登場してきますが、なんと言ってもシナイ半島の南に位置するシナイ山、神の山ホレブでしょう。

 マルコは13節の「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た」という言葉を、出エジプト記19章20節の「主はシナイ山の頂に降り、モーセを山に呼び寄せられたので、モーセは登って行った」という出来事に重ね合わせて記しているように思われます。 

 使徒として選ばれた12人は、シモン・ペトロ、ヤコブとヨハネ、アンデレという漁師がいれば、ローマに仕える徴税人レビ(マタイ)、それとは逆に、ローマに抵抗する熱心党に属していたシモンもいます。

 最後のイスカリオテのユダですが、イスカリオテとは、カリオテの人(イシュ)という言葉が訛ったものだろうと考えられています。このカリオテが地名だとすると、その場所は分かっていませんが、ユダヤの地方だったと言われます。であれば、ペトロを初めガリラヤ出身の弟子たちの中で、唯一ユダヤ地方からの選出ということになります。

 また、ラテン語の「シカリウス」(短剣を隠し持つ男)が訛ったものではないかという考えもあります。だとすると、ユダは熱心党の中のもっとも過激なグループに属していたことになりますが、主イエスの時代にシカリウスが存在したという証拠は、まだ見つかっていません。シカリウスが登場したのは、もっと後の時代のことでした。

 「12」は完全数と言われ、12人はイスラエル12部族を象徴しています(マタイ19章28節参照)。「任命する」というのは、「作る」(ポイエオウ)という意味の言葉が用いられています。つまり、使徒として任命された12人は、神がご自分の民を新しく作られるしるしなのです。主イエスは彼らに、あらゆる人々に新しい神の民となるよう呼びかける使命を授けられたのです。

 ここに上げられた12人に共通の特徴を見つけることは困難です。上記のとおり、出身地も職業も、政治的な関心の持ち方も様々です。誰が一番偉いかと議論していたとされる彼らですが(9章33節以下)、彼らの背景を考えると、どの土俵で一番を競っていたのかと疑わざるを得ないような、つまり、かみ合う議論が出来ていたとは到底考えられないような状況です。

 冒頭の言葉(19節)のとおり、最後に名が記されているイスカリオテのユダに「このユダがイエスを裏切ったのである」という解説がついています。確かにユダは祭司長らに主イエスを引き渡す手引きをし、金をもらうことになります(14章10,11節、43節以下)。

 けれども、主イエスが捕らえられようとしたとき、弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げてしまいました(14章50節)。筆頭と目されていたペトロは、ひとり主イエスが裁きを受けられる大祭司の家の中庭まで入り込みましたが、そこで、自分はイエスの仲間ではないと、3度否定してしまいます(同66節以下)。

 結局、主イエスが十字架にかかられるとき、使徒とされた十二人のうち、主イエスに従っている者は一人もいなかったという不名誉な結果を共有することになってしまいました。彼らが特別な存在だから、「十二人」に選ばれたわけではありません。また、選ばれれば、特別な存在になれるということでもなかったわけです。

 もちろん彼らは、最初から裏切り者ではありませんでした。裏切ることになる直前まで、自分が裏切り者になろうとは考えてもいなかったでしょう。行けと言われれば行き、来いと言われれば来、せよと言われれば喜んでする、主イエスに従う人々でした。主イエスを信じ、主イエスに従うほかには、何の取り柄もない人々と申し上げてもよかったでしょう。

 だから、主イエスを見捨てて逃げてしまった後、彼らは自分自身をどれほど惨めに思ったことでしょう。裏切り者とされたユダは、ゲッセマネという所で主イエスを捕えさせた後(14章42節以下)、姿を消してしまいます。マルコ福音書には、その後彼がどうなったのか、全く記されていません。

 マタイは、彼の死を自害としています(マタイ27章5節)。ルカ福音書には、ユダの死などは記されていませんが、続編の使徒言行録で、不正を働いて得た土地にまっさかさまに落ちたという、神の罰を思わせる表現をしています(使徒1章18節)。ヨハネには、マルコやルカ同様、ユダの死の報告はありません。

 それぞれの視点で福音書は描いているので、多少の違いは当然あるところですが、しかし、マタイと使徒言行録は、自害か事故(神罰)かということで、全く違った死に方になっており、どちらを信用するということも出来ない状況です。

 さらに、第一コリント書15章5,6節に「ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました」と記されています。これは、主イエスが復活されて、姿を現された人々のリストです。

 もしも、ユダが自害にせよ、事故にせよ、主イエスが十字架につけられる際に死んでいたのであれば、ケファに現れた後、「十二人」に現れたというのは間違いで、「死んだユダを除く十一人に現れた」というはずです。パウロが正しければ、主イエスが復活して姿を現されたとき、ユダは存命だった、ユダにも復活された姿を現されたということになります。

 そして、「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」(ローマ書11章29節)という言葉があります。「招き」とは「クレーシス」という言葉で、口語訳、新改訳は「召し、召命」と訳しています。この言葉から、主イエスを裏切ったから、見捨てて逃げたからといって、神の賜物と任命が取り消されるわけではないと読めます。

 ユダ以外は、新しい神の国として建てられるキリストの教会で、主を証しする使徒としての使命を果たすよう、聖霊の力を受けました(使徒言行録1章5節、8節、16節以下、2章など)。11人と行動を共にしなかったユダについても、ローマ書の御言葉に照らして、神の憐れみが彼の上に注がれたと信じます。

 同じ主の深い愛と憐れみに与っている私たちです。神の慈しみにとどまり、聖霊の力をいただいて、委ねられている福音宣教の使命を全うすることが出来るように、御言葉に耳を傾け、熱心に祈りましょう。

 主よ、あなたの深いご愛を感謝致します。「十二人」は期待を裏切りました。しかし、主イエスの恵みは、彼らの裏切りの罪以上に力あるものです。死と罪の呪いを打ち破られたからです。新しい命に生かされた私たちが、主のものとして歩み続けることが出来ますように、その使命を全うすることが出来ますように。御心を地にもなさせたまえ。 アーメン



近況報告

IMG_7662先日見た光景です。
この季節、いつもはほぼ真っ白に見える富士山ですが、山頂部分を除いて黒い地肌が見えています。
といっても、この写真ではよく分からないかも知れませんね。



病院を受診してきました。
基本的に8週間おきに検査、診察が行われています。


その結果、持病の寛解状態が確認され、現在の治療を継続していこうと言われました。
皆様のお蔭です。


発症せず、この状態を維持していけるよう、注意深く歩んでいきたいと思います。
引き続きお祈りを宜しくお願いします。






2月26日(水) マルコ福音書2章

「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。」 マルコによる福音書2章15節

 2章には、中風の男の癒し(1~12節)、徴税人レビを弟子として、食事を共にしたこと(13~17節)、ファリサイ派の人々らと断食についての問答(18~22節)、安息日を巡る論争(23~28節)が記されています。

 福音書には、主イエスの食事の場面がよく登場します。それは、主イエスが食事の席を大事にしておられたということです。また、一緒に席に着いた弟子たちにとっても、印象深い出来事、また話がそこでなされたわけです。13節以下の段落も、そうした食事の場面で起こった出来事を記録したものです。

 主イエスが湖の畔に「出て行かれ」(エクセルコマイのアオリスト[不定過去]形)、そばに「集まって来た」(エルコマイの未完了形) 群衆を「教えられ」(ディダスコーの未完了形)ました(13節)。この言葉遣いは、湖の畔を歩いていると、人々が続々とやって来たので、彼らを繰り返し教えられたという状況を示しています。

 やがて、収税所の所に来ます(14節)。湖の畔を通る幹線道路に収税所がもうけられ、通行税を徴収していたのでしょう。そこに、アルファイの子レビという徴税人が座っていました。主イエスはレビに、「わたしに従いなさい」(14節)と声をかけると、レビは立ち上がって、主イエスに従う者、即ち弟子となりました。

 冒頭の言葉(15節)に、「食事の席に着いておられた」とありますが、「席に着く」と訳された言葉は「横たわる、臥す」(カタケイマイ)という意味で、非常にくつろいだ宴会での食事の表現に用いられます。およそ、形式ばった儀式的な会食などではなく、親しい者が集う、和やかな楽しげな食事の席を想像します。

 その席に、多くの徴税人や罪人が同席していると記されています。それは、レビが彼らを招いたということでしょう。レビ自身、徴税を生業としていたからです(14節)。徴税人は、当時、ローマの手先となって同胞から税金を取り立てるということで、異邦人といつも交わっていること、信仰なき異邦人に仕えていることにより、罪人とされていました。

 しかも、徴税人は入札制度で一番多く税を納めると請け負った者が指名されたので、不正な取立てが横行していました。そのため、ユダヤ人だけでなく、ローマ人からも軽蔑されるという有様だったようです。

 ユダヤ人にとって、およそ好んでなりたい職業などではない、むしろ、なりたくない職業ナンバーワンだったろうと思われます。ということは、そのような職業についている人々には、そうせざるを得ない事情というものがあったのではなかろうかと想像されます。

 レビが徴税人となった理由について、「レビ」という名前が神殿で祭司たちに仕えるレビ族を想像させるところから、宗教家の家に生まれた者ではないかと思われます。マタイ福音書はこの徴税人の名を、マタイと記しています(マタイ9章9節)。マタイ福音書だから、包み隠さずマタイと名乗っていますが、他の福音書は、むしろ家系を示すレビを、あだ名として採用したのではないでしょうか。

 ということは、徴税人レビの家は、イスラエルにおいて尊敬を集める宗教家だったわけです。しかし、レビは宗教に真実を見出せず、そのような宗教に対する反発、親に対する反発から、宗教的にも社会的にも、最も嫌われ、軽蔑される職業ともいうべき徴税人になったのではないかと、私は考えています。

 ですから、そのレビが「わたしに従いなさい」という主イエスの招きに応じたというのは(14節)、彼が主イエスに真理を見出したからではないでしょうか。なるべくしてなった務めではなかったので、レビ自身、徴税人の仕事に苦しいものを感じていたのではないかとも思われます。それゆえ、主イエスの招きは、彼にとって苦しみからの解放、真の救いだったのです。

 そして、仲間たちを主イエスとの食事に招待したのです。すると、その招きに大勢の仲間が集まりました。主イエスは彼らを軽蔑されませんでした。忌み嫌われませんでした。「レビ」とその仲間たちは、そこに安心して座っていることが出来たのです。

 主イエスが彼らの職業を認めて、周囲の偏見や差別などにへこたれずに、頑張りなさいと励まされたとは思いません。どうされたのか、はっきり分かるわけではありませんが、彼らに対する深い理解と同情をもっておられたのだと思います。

 ユダヤ人哲学者マルティン・ブーバーが、「人生は出会いで決まる」と言っています。人は、誰と出会い、交際するかによって、その生き方が変わることがあります。決定的な影響を受けることもあります。

 徴税人たちは主イエスから、その務めを辞めるようにと勧告されてはいません。しかしながら、たとえば、あのザアカイという徴税人のように、財産の半分は貧しい人に施し、不正に取り立てていたものは4倍にして返すという行動に導かれます(ルカ福音書19章1~10節)。それは、全財産を放出することになったのではないでしょうか。

 ザアカイがもし、それ以後も徴税人を続けるなら、不正な取立てをすることはなくなったでしょう。あるいは、お金が第一、人を見下すためという目的を失って、徴税人を続ける理由がなくなってしまったかもしれません。実際、レビは、徴税人をやめて主イエスに従う者となります(14節)。彼らは、主イエスとの交わりの中で、生き方を変えるように自分の内側から促しを受けたわけです。

 私たちも、罪人として主イエスの招きに与りました。主イエスのそばで親しい導きと交わりをいただいています。私のような者にも、主の御用をするようにという促しがありました。導きに従って今日まで歩いて来ました。色々なことを経験してきました。すべてが恵みです。

 主の恵みに応え、語りかけられる主の御言葉に耳を傾けましょう。み言葉を行う者となりましょう。

 主よ、私たちは御子キリストに招かれ、救いの恵みに与りました。導きを心から感謝しています。この恵みを無駄にせず、絶えず主と共に歩ませてください。御言葉に耳を傾け、御霊の助けと導きを受けつつ主の御旨を行い、主に喜ばれる者となることが出来ますように。 アーメン




静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に2月23日(日)主日礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。


御覧ください。



また、2月27日(木)10時から11時半、19時~20時、バプテスト静岡教会で聖書の学びと祈り会を行います。
聖書日課に基づいて、聖書を学んでいます。
27日は新約聖書・マルコ福音書3章を読み、学びます。


よろしかったら、おいでください。





2月25日(火) マルコ福音書1章

「荒れ野で叫ぶ声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」  マルコによる福音書1章3節

 今日からマルコ福音書です。マルコ福音書は、紀元66年頃、シリアあたりで著述されたものだろうと思われます。著者は、伝統的にエルサレム教会の集会所(家)の提供者マリアの子で、マルコと呼ばれていたヨハネのことだと考えられて来ました(使徒言行録12章12節)。しかし、パレスティナの地理に疎いような面が多々見られることなどから、マルコ=ヨハネが著者であるとは、考え難いところです。

 マルコ福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で始まります(1節)。ギリシャ語原文では、「初め」(アルケー)という言葉が一番初めに書かれており、これは、「初めに、神は天地を創造された」(創世記1章1節)という創世記の始まり方を意識したのではないかと思われます。

 「神の子イエス・キリストの福音」とは、イエス・キリストについての福音というだけでなく、イエス・キリストによってもたらされた、即ち、主イエスの存在と、あらゆる言辞と行為とによる福音ということです。

 マルコ福音書においてイエスに対する「神の子」という称号は、3章11節、5章7節で汚れた霊によって用いられ、そして15章39節では、主イエスの死を見届けた百人隊長が自身の信仰を表明するように「本当にこの人は神の子だった」と宣言しています。

 また、「福音」(エウアンゲリオン)とは、「よい知らせ」という意味ですが、元来、勝利を収めたという知らせを言い表すものでした。旧約聖書では「良い知らせを伝える」(メバッセール・トーブ、イザヤ書52章7節、61章1節、40章9節など)という動詞形の言葉でそれを表しています(70人訳=ギリシア語訳旧約聖書はその箇所に「エウアンゲリゾマイ」という動詞を用いています)。

 まず、旧約聖書の言葉が引用されます(2,3節)。それを「預言者イザヤの書」と言っていますが、「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」(2節)は、出エジプト記23章20節、マラキ書3章1節からの引用です。そして、冒頭の言葉(3節)がイザヤ書40章3節からの引用です。

 その引用された言葉のとおりに、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れたと、4節に記されています。ヨハネは、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。その活動は旧約聖書の預言を成就するためであり、ヨハネはメシアなる主の先駆けとして、主の道を整えるために荒れ野に登場したのです。

 勿論、荒れ野に人は住めません。生活を支えるものがなく、むしろ命を脅かす獣などが出現する場所だからです。なぜ、荒れ野なのでしょうか。それは、象徴的な意味があるようです。

 それはまず、生活の場から退き、神の御声に聴きなさいということでしょう。冒頭の「主の道を整え、道筋をまっすぐにせよ」(3節)という言葉は、御言葉を片手間で聴くことは出来ないということを示しているように思います。そのために、ヨハネは人々に悔い改めを迫るのです。悔い改めとは、思いを変えること(change of mind)であり、信仰において神の下に帰るということです。

 また、荒れ野は、神が新しいことを始められる場所です。イザヤ書43章19節に、「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる」と言われています。

 かつて、エジプトを脱出したイスラエルの民が、40年過ごしたのがシナイの荒れ野でした(申命記1章3節、2章7節、29章4節など)。確かに荒れ野は水も食料もなく、民は神の御前に不平を鳴らしましたが(出エジプト記16,17章、民数記11章など)、主なる神はその訴えに応えて、天からマナを降らせ、岩から水を出させ、うずらの肉をお与えになりました。

 荒れ野は、主が共におられて、その恵みを味わわせられる場所でした。エレミヤ書31章2節に「民の中で、剣を免れた者は、荒れ野で恵みを受ける」という言葉がありますが、まさに命を脅かされるような荒れ野を通らなければ、味わうことの出来ない恵みがあるということです。

 今や、神の御子イエス・キリストがこの世に来られ、神の救いの御業を始められます。かつてなかった新しいことが始まったのです。こうしてヨハネは、主イエスが始められる新しい業のために、人々を荒れ野に招き、主イエスのための道を整えるのです。

 主の御声に耳を傾けましょう。その導きを受けて、絶えず新しい主の恵みに与りましょう。恵みを無にしないよう、主の御業に励みましょう。 

 天のお父様、あなたの御声を聴くために、私たちも荒れ野に退きます。私たちにも、モーセのように、またエリヤのように、あなたの御声を聞かせてください。そこで開かれる主の恵みに与らせてください。御旨を弁え、主の御業に励む者としてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン


2月24日(月) マタイ福音書28章

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」 マタイによる福音書28章19,20節

 28章には、主イエスの復活を巡る出来事が記されています。最初の段落(1~10節)は墓が空で、主の天使が主イエスの復活を告げたこと、すると主イエスが現れたことを語ります。次の段落(11~15節)では、番兵たちの報告を、イエスの遺体が弟子たちに盗まれたと言い広めるよう唆します。そして最後の段落(16~20節)は、弟子たちへの顕現の様子が記されています。

 マタイは、復活された主イエスの顕現の弟子たちへの顕現を、ガリラヤの山での出来事として記します(16節)。マルコはガリラヤでの顕現をほのめかすだけで終わり(マルコ16章7,8節)、ルカとヨハネは、エルサレムとその周辺でそれが起こったように伝えていました。

 主イエスと出会った弟子たちは、そこで「ひれ伏し」(17節)ます。これは、「礼拝する」(プロスキュネオー)という言葉です。復活された主イエスは、弟子たちから礼拝される対象、即ち神として彼らの前に姿を現されたということが分かります。

 ところが、そこに「疑う者もいた」と言われます。復活の主とお会いすることは、疑いを許さない類いのものではないということであり、礼拝する者は、主を信じる中で疑いの心を持つことがあるということを示しているようです。その意味で「疑う者もいた」は、疑わずにいられる者はいないのでは?ということを暗に示しているように思われます。

 そういう弟子たちに対して、十字架の死という苦しみ、辱めを味わわれた主イエスが、天と地のすべての権能を授けられたお方として(18節)、使命を授けます。つまり、彼らが主に使命を授けられたのは、疑いなど一切持たない理想的な弟子だったからというのではなく、ご自分を裏切って逃げ出し、何度も関係を否定した弟子たちをご自分の権能で主の業のために用いられるためなのです。

 冒頭の言葉(19,20節)は、「大宣教命令」(Great Commission)と言われる、マタイの記す主イエスの遺言ともいうべきものですが、原文では一続きの文章です。主文は、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マセーテウサテ・パンタ・タ・エスネー:make disciples of all the nations)で、「弟子にする(マセーテウオウ)」という動詞が命令形で記されています。

 そして、三つの現在分詞形の動詞があります。最初に「行く」(ポレウセンテス)、次は「バプテスマを授ける」(バプティゾンテス)、そして「教える」(ディダスコンテス)という言葉が、それぞれ現在分詞形で記されています。これらは、日本語訳の聖書では命令形になっていますが、文法に即して訳せば、「行きながら」、「バプテスマを授けながら」、「教えながら」ということになります。

 つまり、すべての民を弟子にするというのは、①出て行くこと、②バプテスマを授けること、③教えることを通してなされるということです。ここで、「出て行く」とは、伝道するということでしょう。「バプテスマを授ける」とは、パンを裂くことと共に、礼拝の中心です。そして、「教える」とは文字通り、教育することです。

 一方、「弟子とする」という動詞は不定過去(アオリスト)時制で、これは一回的な出来事であることを示します。それに対して、三つの分詞は現在形ですから、これは継続的な働きかけということになります。つまり、弟子となるというのは生涯一度の出来事だけれども、そのためには、伝道と礼拝と教育は欠かすことが出来ない、これを継続しなければならないということになります。

 今日は特に、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」という言葉が迫って来ました。主イエスが、山上の説教を初め、この福音書を通して命じられたことはすべて守られなければならない、それを教えなさいと言われているわけです。

 「せよ」、「してはならない」と命じられていることは数々あります。主イエスが山上の説教を語られたとき、それを権威ある者としてお教えになったと記されていました(7章29節)。「権威ある者として」とは、それを実行、実現する力ある者としてということです。つまり、主イエスは、説教を語り、民をお教えになっただけではなく、自ら、それを実行、実現された方でした。

 であるならば、「命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と主が言われるとき、律法学者のようにではなく、権威ある者として、御言葉を実行するように教えなければなりません。そしてその権威は、自らそれを実行、実現するところに示されなければなりません。

 山上の説教の中に、「これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」とも言われています(5章19節)。

 しかしながら、いったい誰がこの務めをきちんと果たすことが出来るでしかょう。これを、自分の力でやり遂げよと言われるのであれば、みんなお手上げでしょう。それは、出来る相談ではありません。私たちが自分の力で神の御言葉を実行、実現できるはずがないからです。

 当然のことながら、主の助けが必要です。否、主がしてくださらなければ、私たちに何が出来るでしょう。だからこそ、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださっているのです。主が共にいて、私たちを慰め、励まし、助けてくださいます。私たちが主にまったく信頼し、委ねて歩むとき、主が御力をもってそれを成し遂げてくださるのです。

 まさに、天と地の一切の権能を授かった(18節)権威あるお方として、私たちと共に行かれ、すべての者を礼拝へと導き、かつてガリラヤで弟子たちを教えられたように、今も私たちの守るべきことを教えてくださるでしょう。

 主よ、今日も命の言葉に与らせてくださり、感謝いたします。すべての民を弟子とするため、私たちを用いてください。誰よりもまず私たちが、主イエスの弟子にふさわしい者となりますように。御言葉と御霊によって絶えず取り扱ってください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン



2月23日(日)主日礼拝説教

2月23日(日)の主日礼拝には、教会員16名、初来会者1名、子ども1名を含む9名の来賓がお見えになりました。



主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「祈りが妨げられないように」
聖書 第一ペトロ書3章1~7節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師



ご覧ください。






2月23日(日)主日礼拝案内

02
2月23日(日)は、教会学校小学科(小学生)、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科を9時45分から行います。

教会学校は、「聖書教育」誌に基づいてヨハネ福音書から、共に聖書の学びと交わりを行います。


主日礼拝を10時半から行います。

礼拝では、新約聖書・第一ペトロ書3章1~7節より、「祈りが妨げられないように」と題して、原田牧師より奨励をいただきます。



写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。



聖書に興味、関心のある方、キリスト教会は初めてという方も大歓迎です。
どなたもお気軽においでください。


礼拝後、信徒会を行います。


お昼の用意はありません。

 


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