「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。」 ゼカリヤ書13章1節
冒頭の言葉(1節)のとおり、「ダビデの家とエルサレムの民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれ」ます。「その日」というのは、12章2節の「エルサレムを、周囲のすべての民を酔わせる杯とする」日のことであり、同9節の「ダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ」日のことです。
「泉が開かれる」ということですから、井戸が掘られたというのではありません。また、雨水を貯めておく池を造るということでもありません。罪、汚れを洗い清める水が泉となって湧き上るのです。この水の源は主なる神ご自身です。主が、あらゆる罪と汚れを洗い清める泉を開いてくださるのです。
その清い水の流れは、この地から「数々の偶像」(2節)、即ち異教の神々を取り除き、また、異教の神々に仕える偽の預言者たちを追い払います(同節)。それでもなお預言をする者があれば、両親から「主の御名において偽りを告げたのだから、お前は生きていてはならない」(3節)と言われ、処刑されます。それは、申命記13章2節以下に規定されているとおりです。
ゆえに、彼らは預言者のユニホームである毛皮の外套をまとわなくなり(4節)、「わたしは預言者ではない、土を耕す者だ」(5節)と言って、処刑を免れようとするのです。そうして、偶像と偽りの預言者が排除されることにより、主の支配が確立するその日が到来するのです。
因みに、アモスが「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を買い、いちじく桑を栽培する者だ」(アモス書7章14節)と言いましたが、それは、職業的預言者ではないという宣言であり、にもかかわらず、「主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた」(同15節)と、預言者としての使命を託されたことを明らかにしていました。
また、「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ、わたしの同僚であった男に立ち向かえと、万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい」(7節)と主が言われます。これは、主の民を養い、正しく導くべき指導者たちが、その使命を果たさないばかりか、異教の神々を礼拝して神を怒らせたゆえ、退けられたということです。
それは、11章15節の「愚かな羊飼い」、同17節の「無用な羊飼い」と呼ばれる人たちのことです。そして8節に「この地の何処でもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る」とあります。民の三分の二は、この悪しき指導者たちと共に裁かれるということです。つまり、指導者たちだけでなく、民も自ら、神に背いていたわけです。
しかし、民の三分の一は残され、神と民との間で、「彼こそわたしの民」、「主こそわたしの神」(9節)と呼び合う新しい契約が結ばれます(エレミヤ書31章31,33節)。「銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す」(同節)と言われていますから、民は火のような試練を通って清められ、神の民とされるわけです。
あらためてゼカリヤに与えられた本章の託宣は、エゼキエル書47章の「命の水」の預言を思い出させます。神殿の敷居の下から湧き上った水が川となり、アラバの海に注いで水を清め、すべての生き物が生き返り、魚も非常に多くなるというものでした。清い水の働きが神殿から始まり、すべてのものを清めると考えてもよいでしょう。
ゼカリヤ書でも、この清める泉が開かれたのは、異教の神々を祀り、偽の礼拝を行わせる預言者や悪の指導者たちのいたエルサレムの都を清めるためで、その神殿から神の清めの働きが始まると示されているわけです。
またこの託宣は、主イエスとサマリアの女性の対話を思い出させます(ヨハネ福音書4章参照)。主イエスは、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われました(同14節)。
もちろんこれは、飲み水のことではありません。彼女に永遠の命を与える水であり、そしてそれは、まことの礼拝をするために与えられる真理の御霊のことです(同23,24節)。
さらに、ヨハネ福音書7章37,38節にも「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と語られ、そして、「イエスは、ご自分を信じる人が受けようとしている霊について言われたのである」(同39節)と解説されています。
主イエスによってもたらされた永遠の命の水たる真理の御霊は、今や私たちのところにまで流れてきています。誰でも、その水を飲むことが出来ます。そして、イエス・キリストを信じる者は、罪が赦されます。神の子とされます。永遠の命が与えられます。聖霊の賜物を受けます。神の愛と計画を知り、その使命に生きる者となります。神との間に親しい交わりが開かれます。
主は私たちの祈りを聞いてくださり、「彼こそわたしの民」と言われます。すべてが主の恵みです。私たちも喜んで、「主こそわたしたちの神」と主をほめたたえ、「わたしの民」と呼んでくださる主の御声に耳を傾けながら、日々歩ませていただきましょう。
主よ、今日も御言葉をくださってありがとうございます。主イエスを信じる信仰を通して、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれました。主よ、私たちの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御霊の働きにより、私たちをあなたが望まれるようなものに造り変えてください。 アーメン