風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2019年12月

12月31日(火) ナホム書1章

「主は恵み深く、苦しみの日には砦となり、主に身を寄せる者を御心に留められる。」 ナホム書1章7節

 ナホム書の著者、預言者ナホムについて、詳しいことはほとんど何も分かりません。1節に「エルコシュの人」とありますが、エルコシュがどこにあったのか、まだ確定されていません。エルサレムの南方、シメオン族に属する町の出身という説が有力とされているようですが、確かなことは不明です。

 本書の預言が語られた時期について、「ニネベについての託宣」(1節)という言葉、そして特に3章7節の「ニネベは破壊された、だれが彼女のために嘆くだろうか」という言葉などから、アッシリアの首都ニネベがバビロンによって陥落させられる紀元前612年の数年前、615年前後に預言されたものではないかと想定されています。

 「ナホム」とは「慰め」を意味する名前ですが、本書中に「慰め」と直結するような文言は見出せません。むしろ、ここに記されているのは、ニネベに対する厳しい裁きの言葉だけといってもよいほどです。

 アッシリアは、神に背いて罪を犯し、悪を行った北イスラエルを裁き、滅ぼすための神の器として用いられました(列王記下17章)。また、南ユダも、北イスラエルの風習に倣って歩んでいたため、エルサレムの都が陥落直前にまで追い込まれました(同18章)。

 しかしながら、今やニネベが、「主に対して悪事をたくらみ、よこしまな事を謀る者があなたの中から出た」(11節)と、主なる神に断罪される存在となりました。主がご自分の民を選ばれるのは、ご自身に仕えるものとするためです。イスラエルは徹底的に主に背いて、その怒りを買いました。

 主の裁きの器として選ばれたアッシリアが「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」(ミカ書6章8節)なら、主の慈しみは彼らに注がれ続けていたことでしょう(ヨナ書3,4章、ローマ書11章17節以下も参照)。

 けれども、彼らはイスラエルよりも悪を行う者だったわけです。ここに、アッシリアに対する裁きが語られることで、神が望んでおられるのは、やはり、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」であると言えます。

 2節から8節までのヘブライ語本文の各行の文頭に「アレフ」から「カウ」までのアルファベットが、順番に並べられるという形になっています。ただし、2節後半と3節前半の2行が、アルファベットによる詩のリズムを壊すかたちで挿入されています。

 2節から、ニネベに対する主の裁きが語られ始めます。そこでは、「主は報復を行われる方」(ノーケーム・アドナイ)という言葉が3度繰り返され、その対句が「熱情の神」(エル・カンノー)、「憤りの主」(バアル・ヘーマー)、「怒り(原文は「彼」)を保持される方」(ノーテール・フー)となっています。妬みを起こして激しく憤られ、その怒りをずっと保持しておられるという図です。

 3節の「忍耐強く」は「怒るに遅く」(エレフ・アパイム)という言葉です。ずっと忍耐して怒られなかったからこそ、その悪に報復される主の怒りは激しく、一層恐ろしいのです。「その道はつむじ風と嵐の中にあり、雲は御足の塵である。主は海を叱って乾かし、すべての川を干上がらせる」(3,4節)というのは、主の怒りが大自然の異変として現れるということです。

 2~10節の段落の中で、冒頭の言葉(7節)は、異なった光を放っています。ここで、主は恵み深いお方であると言われます。「恵み深い」(トーブ)とは、「よい=good」という意味の言葉です。

 「神」を意味する英語の「God」(ゴッド)は、「good」(グッド)の短縮形だと聞いたことがあります。「よい」(トーブ)が「恵み深い」と訳されているのは、「苦しみの日には砦となり、主に身を寄せる者を御心に留められる」という、助けを必要としている者に対する主の計らいは、それを受ける者にとって主の「恵み深さ」以外のないものでもないからです。

 「砦」(マーオーズ)は、「避難所、安全な場所」という意味の言葉です。この砦は、あらゆる敵の攻撃から安全に守ってくれることでしょう。

 「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも。海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」(詩編46編2~4節)と、詩編の作者も詠っています。

 また、「御心に留める」(ヤーダー)とは、「知る」という意味で、聖書がこの言葉を用いるとき、それは、知識の獲得という意味というよりも、体験的に理解すること、即ち、相手に対する関心を表わしており、それは、「愛する」ということと同義語といってもよいものです(創世記4章1節を参照)。

  神は、私たちの頭髪の数までも数えておられるほどに注意深く(マタイ福音書10章30節)、眠ることなく、まどろむことなく見守っていてくださいます(詩編121編3節以下)。詩編46編11節には、「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる」とあります。

 つまり、冒頭の言葉(7節)で主のよさが、主を信頼する者の保護として示されるのは、かつてイスラエルを裁くための主の道具として用いられたアッシリアが、今度は主の裁きの対象とされることで、あらためてイスラエルに対し、主の前に謙ること、主に信頼し、主に身を寄せることを求めているわけです。

 自分の力を誇り、その強さを頼みとするのではなく、私たちを恵み深く守り支えてくださる主を信頼し、主の下に謙りましょう。

 私たちに目を留め、絶えず見守っていてくださる神様、あなたの深い恵み憐れみに感謝します。日々私たちの砦となり、私たちに御心を留めていてくださる主に信頼し、御言葉に耳を傾け、御霊の導きに従って歩みます。絶えず、心から御名をほめたたえさせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン



12月30日(月) ミカ書7章

「あなたのような神がほかにあろうか。咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に、いつまでも怒りを保たれることはない、神は慈しみを喜ばれるゆえに。」 ミカ書7章18節

 これまで見て来たように、主なる神は私たちの犯す罪を、黙って見過ごしにされません。むしろ、厳しく断罪されます。けれども、主は罰を与えたくて、私たちを裁かれるわけではありません。誰が、愛する者を裁きたいでしょうか。可愛い子どもに厳しい鞭を当てるのは辛いこと、悲しいことです。

 ミカは、「悲しいかな、わたしは夏の果物を集める者のように、ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく、わたしの好む初なりのいちじくもない」(1節)と語ります。

 「夏の果物」(カイツ)は、アモス書8章1節にも登場します。それは、北イスラエルの「最後」(ケーツ)を示す、語呂合わせによる裁きの預言でした。ここでミカが告げているのは、ぶどう園に赴いたところが、摘むべき実がなかったということです。

 2節に「主の慈しみに生きる者はこの国から滅び、人々の中に正しい者はいなくなった。皆、密かに人の命を狙い、互いに網で捕らえようとする」とあります。つまり、摘むべきぶどうの実とは主の慈しみに生きる者、初なりのいちじくとは、正しい者ということで、公正と正義という実を実らせているべきエルサレムの町に、何ひとつその実を見ることが出来なかったということです。

 むしろ、都の人々は暴力をもって人の命を奪い、また隣人を陥れることばかり考えています(2節)。役人、裁判官が私利私欲のため、賄賂を取って公道を曲げています(3節)。「最善の者も茨のよう」(4節)とは、トゲばかりあって無益なものということでしょう。隣人、友人も信頼できず(5節)、家族の中にも信頼や尊敬を見ることができません(6節)。

 「悲しいかな」(1節)と歌い始めているとおり、ミカにとって、そのときのエルサレムの都は嘆くほかない状況であり、 「お前の見張りの者が告げる日、お前の刑罰の日が来た。今や、彼らに大混乱が起こる」(4節)と、主の裁きが目前に迫っていることを告げるのです。

 しかし、預言者はそのような悲しみの中で、ただ絶望しているわけではありません。「しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる」(7節)と、信仰の言葉を語ります。同胞には期待が持てなくても、むしろ失望せざるを得ない状況にあっても、そこでなお憐れみの主に頼り、救いを待ち望むのです。

 そうして、冒頭の言葉(18節)を語ります。ここで、主なる神は私たちの「咎を除き、罪を赦される」お方であると言います。確かに、主なる神は私たちの咎を除き、罪を赦すために、御子イエス・キリストを贖いの供え物として十字架にかからせなさいました。それによって私たちは、主イエスを信じる信仰を通して義とされるのです(ローマ書3章21節以下、24節)。

 義とは、神との正しい関係ということを表します。「義」という漢字は、「羊」の下に「我」と書きます。罪を取り除く神の小羊である主イエスのもとにひれ伏すとき、私たちは義とされるという文字になっているわけです。さらに、「我」という漢字を調べると、これは「手に持った刀を振り下ろす」という字で、「義」は羊を殺すことによって成立するということでした。

 つまり、羊を殺して主にささげ、それによって私たちの罪を赦していただき、主との関係が回復され、元通りの交わりが持てるようになるのです。かくて、5章1節が救い主の誕生を預言したものと受け止められたように、冒頭の言葉(18節)は、救い主による贖いの業を預言したものと受け取ることが出来ます。

 不義な私たちを義とするため、キリストを十字架の犠牲とされたのは、神の深い愛のゆえ、憐れみのゆえでした。主なる神は私たちを愛し、義とするために罪を裁かれるのです。そして、主との関係が正された私たちは、光に導かれます。9節に「主はわたしを光に導かれ、わたしは主の恵みの御業を見る」とあるとおりです。

 ヨハネ福音書8章12節で主イエスは、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。また第一ヨハネ1章7節に「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」とあります。

 この交わりは、何よりも素晴らしい主との交わりです。罪が清められ、神の子どもとされます。永遠の命を受け、永遠の関係に入れられます。これは、主が一方的に私たちに与えてくださったものです。決して私たちの行いによるのではありません。まさしく、「主の恵みの御業」です。主イエスを信じたとき、主はこの恵みを味わわせてくださいました。

 そして、キリストの光を頂いた私たちは、主イエスが語られたごとく、この地において、人々の前にその光を輝かす「世の光」とならなければなりません(マタイ福音書5章14~16節)。私たちの天の父なる神が崇められるようになるためです。そのために、神は私たちを約束の聖霊で満たし、主イエスの証人となる力をお与えくださいます(使徒言行録1章8節)。

 聖霊の満たしと導きを求め、主の愛の証し人、救いの証し人とならせて頂くことが出来るように祈りましょう。

 主よ、あなたの義と愛による恵みの御業に心から感謝致します。私たちもあなたの光に導かれました。どうか、私たちを用いて御業を行い、あなたの光をこの地に輝かせてください。そのために、私たちを絶えず聖霊に満たしてください。この地において御心が行われ、いよいよ御名が崇められますように。 アーメン




12月29日(日)主日礼拝説教

12月29日(日)の主日礼拝には、教会員14名、子ども2名を含む来賓10名がお見えになりました。
礼拝後、教会堂内外の清掃を皆で行いました。


主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。
 
説教 「万民に整えられた救い」
聖書 ルカ福音書2章22~40節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師



ご覧ください。




12月29日(日)主日礼拝案内

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12月29日(日)は教会学校小学科(小学生)、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科を9時45分から行います。

教会学校は、「聖書教育」誌に基づいて3福音書のイエス降誕物語から、共に聖書の学びと交わりを行います。


主日礼拝を10時半から行います。

礼拝では、新約聖書・ルカ福音書2章22~40節より、「万民に整えられた救い」と題して、原田牧師より説教をいただきます。


写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。


礼拝後、大掃除を行います。

お昼の用意はありません。



そして、新年1月1日(水)11時より、2020年の元旦礼拝を行います。

新年を歩み出すみ言葉として、第一ペトロ書1章13~25節より、「草は枯れ、花は散る」と題して原田牧師から説教をいただきます。



キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。

初詣も教会へ!


皆様に神様の恵みと慈しみが日々新たに、常に豊かにありますように。




12月29日(日) ミカ書6章

「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」 ミカ書6章8節

 6章には、裁判所での裁判の様子が描かれているようです。原告は主なる神、その代理人・弁護士は預言者ミカ、山々、峰々が裁判官・証人、そして被告はイスラエルです。

 3節に「わが民よ。わたしはお前に何をしたというのか。何をもってお前を疲れさせたのか」という主の訴えがあります。この言葉からイスラエルの民が、主にはついて行けない、もう疲れたと不平を言っているということが想像されます。この背景には、度重なるアッシリアの攻撃があり、主がアッシリアの脅威を取り除いてくださらないことに対する不信、不満があるのではないかと思われます。

 それに対して、「わたしはお前をエジプトの国から導き上り、奴隷の家から贖った。また、モーセとアロンとミリアムを、お前の前に遣わした」(4節)と、主なる神がモーセらを遣わし、イスラエルの民をエジプトの奴隷の苦しみから解放されたことを語ります(出エジプト記12章51節、20章2節、申命記7章8節、詩編77編21節など)。

 続いて、「思い起こすがよい。モアブの王バラクが何をたくらみ、ベオルの子バラムがそれに何と答えたかを。シティムからギルガルまでのことを思い起こし、主の恵みの御業をわきまえるがよい」(5節)と、バラクがイスラエルの民に呪いをかけようとしたこと(民数記22章1節以下)、そして、預言者バラムがそれを祝福に変えたこと同23章7節以下、18節以下、24章3節以下)を思い起こさせます。

 また、シティムからギルガルまでのことを思い起こせといいます。シティムは、出エジプトの民がヨルダン川を渡る直前に宿営したところです(民数記25章1節、33章49節、ヨシュア記2章1節など)。また、ギルガルはヨルダン川を渡った直後に宿営したところです(ヨシュア記4章19節、5章9節など)。つまり、ヨルダン川をどのように渡ったのか、思い起こせと告げているのです。

 6,7節は被告の反問で、ではどんな犠牲をささげればよいのかと問いかけます。当歳の子牛(今年生まれた子牛)をささげればよいのか(6節)と問うた後、幾千の雄羊、幾万の油の流れ(7節)と量を増やし、最後に、長子、胎の実をささげるべきかと言います。北イスラエルの滅亡直前、子どもを火で焼いて犠牲にすることが流行りました(列王記下16章3節、17章17節)。

 それは、最も高い犠牲を払って、国難を去らせようとしてのことと考えられます。しかしながら、それは主なる神の忌み嫌われる、モレクという異教の神に対して行う儀式でした(レビ記18章21節、20章2~5節、エレミヤ書7章31節など)。

 モレクとは、ヘブライ語の「王(メレク)」という言葉に「恥(ボシェト)」の母音をつけて発音したものです。それはアンモン人の神ミルコムのことで、ミルコムとは「王」という意味です(列王記上11章5,7節)。それを揶揄するように、「モレク(恥の王)」というように呼んでいるのでしょう。

 主の忌み嫌われる偶像礼拝、それも、子どもを火で焼いて犠牲にするというようなことで、どうして国難を去らせることが出来るでしょうか。「主は喜ばれるだろうか」と問われていますが、答えは「否」に決まっています。

 それに対して、冒頭の言葉(8節)が述べられました。主の求めは、いけにえをささげることではありません。「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」を、主なる神は求めておられるのです。

 「正義」は「ミシュパート(公義、公正、裁きの意)」、「慈しみ」は「ヘセド(慈しみ、善、誠実の意)」という言葉が用いられています。つまり、主が求めておられるのはいけにえではなく、主に聴き従って人々に謙虚に仕えることなのです。

 これは、申命記10章12,13節で「イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」と語られている言葉と同様です。

 また、預言者サムエルがサウル王に告げた、「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」(サムエル記上15章22節)という言葉を思い出します。

 9節以下は神による告発で、主が求めておられる「正義」と「慈しみ」と「へりくだり」がいかに欠如しているか、「不正」、「不法」、「偽り」に満ちているかが述べられ、それゆえに滅びを刈り取らなければならないと告げられます。

 こうしてみると、イスラエルがエジプトの奴隷の苦しみから解放されて以来、主は一貫して同じことを民に求めておられ、それに対してイスラエルの民は、主を畏れず、不正を行い、偽りを語り、異教の神に心迷わされ続けて来たわけです。

 これらの言葉を聞いて、私たちはどうしたらよいのでしょうか。それはまず、主の恵みを数え、感謝をささげることです。また、主を愛し、隣人を愛することです。そして、怠惰と不従順を悔い改めることです。思い上がらず、主に従って歩み、顔を上げ、胸を張り、誠心誠意働かせていただきたいと思います。

 主の御名が崇められますように。主を信じ、主に仕える者たちによって、御心が地の上に行われますように。御言葉が聖であること、御言葉の内に命があることを、たえず弁えさせてください。主と共に歩む喜びと平安を常に味わうことが出来ますように。 アーメン




12月28日(土) ミカ書5章

「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者、お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。」 ミカ書5章1節(口語訳・新改訳では2節)

 4章14節(口語訳・新改訳は5章1節)に「今、身を裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。敵はわれわれを包囲した」とあります。新改訳は「今、軍隊の娘よ。勢ぞろいせよ。とりでが私たちに対して設けられ」、岩波訳は「娘軍勢よ、今こそ集結せよ。敵はわれわれを包囲した」と訳しています。

 新共同訳の「シオン」は原文にない言葉で、敵に包囲されて、戦いを余儀なくされている「娘」を、同13節の「娘シオン」と同じ町エルサレムのことと考えて、「シオン」を書き加えたのでしょう。「身を裂いて悲しめ」は、新改訳、岩波訳が「集まれ」と訳した「ガーダド」の「切り込む」からの意訳なのでしょう。

 これは、アッシリアの大軍がエルサレムを取り囲んだ紀元前701年の出来事を指すのでしょうか。ヒゼキヤ王がエジプトなどと組んでアッシリアに反旗を翻し、一時期は功を奏してアッシリアからの独立を果たせたかに見えましたが(列王記下18章7,8節)、アッシリアが体勢を立て直して再び進軍してきたときには、それに対抗出来ず(同13節)、高い賠償金を払わされます(同14~16節)。

 その上、大軍でエルサレムを包囲してイスラエルの神を冒涜し、無条件降伏を求めました(同17節以下、27節以下、19章10節以下)。それは、再びアッシリアに背くことがないように、ヒゼキヤ王を退位させ、アッシリアの言いなりになる別の王を立てるためだったのでしょう。ただし、これからのことは、聖書外の資料で史実を確認できません。

 ヒゼキヤは、この苦境の中で預言者イザヤに託宣を求めました。イザヤは、アッシリアの王が都に入場することはおろか、戦いを仕掛けることもないと、主の言葉を告げました(同19章20節以下)。そして、主は一夜のうちにアッシリア軍を撃ち、アッシリア王センナケリブはひとり、ニネベに逃げ帰り、ニスロクの神殿で暗殺されました(同35節以下)。

 センナケリブは紀元前681年に亡くなり、その子エサルハドンが王位に就いています。であれば、列王記下18章16節と17節の間に、20年という時間の経過があったということになります。 

 ミカが4章14節に告げていることが、イザヤの告げた預言とその成就を見る前のことなのかどうか、よく分かりませんが、攻め寄せ、町を包囲する敵に対して、「頬を杖で打」たれても何もできない統治者に変えて、冒頭の言葉(1節)にあるように、イスラエルを治める新しい王がベツレヘムから登場することが語られます。

 ベツレヘムは、語られているようにイスラエルの中で小さな町ですが、ここはダビデ王の出身地です。ですから、ダビデのように、主なる神への堅い信仰をもって国を治める王の登場を期待したものと言えます(3節)。小さい町ですが、そうであればこそ、町を守るのに自分の力などではなく、主に信頼するほかはなかったでしょう。そして主は、その信頼に応えてくださるのです。

 クリスチャンにとって冒頭の言葉は、特別な意味を持つものとなりました。それは、救い主イエス・キリストの誕生を預言する言葉となったからです(マタイ福音書2章6節)。主イエスは、暗闇に閉ざされている人々に希望の光、愛の光、命の光を与えてくださいます。これが、クリスマスのメッセージです。

 ここで目を留めていただきたいのは、マタイがミカの預言を引用している中で、一箇所不正確なところがあることです。それは、「いと小さき者」というところが、「決して一番小さいものではない」と変えてあるのです。このような変更が加えられたのは、マタイ自身の体験に基づいているのかもしれません。

 彼は、占領国ローマのために税金を徴収する徴税人でした(マタイ9章9節)。その上、不当に取り立てて私腹を肥やしていたため、「罪人」と同列に置かれて人々に軽蔑され、差別されていたのです(同11節)。

 ところが、主イエスと出会ってその弟子となり、12使徒の一人に選ばれました。マタイにとって、自分は実際には小さい者ではあっても、キリストがこの世にお生まれになったということ、そのキリストと出会うことが出来たということは、決して小さいことなどではない、否むしろ、それは途方もなく大きなことだということでしょう。

 だから、主イエスの生まれたエフラタのベツレヘムは、かつては「いと小さき者」だったかもしれませんが、今や「決して一番小さいものではない」と言えるものに変えられた。誰でも、主イエスと出会うならば、同じように「決して小さい者ではない」といわれる恵みに与ることが出来るというわけです。

 マタイの書いた福音書が、今日も、全世界で読まれています。それこそ、決して小さいことではありません。神は私たちを、能力や知恵、財産などによって選ばれたのではありません。それらのものを持たない、無学で普通の人だからこそ選ばれました。それは、ただ神に信頼するためです。主に信頼するとき、決して小さくない働きが神によってなされていくのです。

 「ミカ」とは、「誰が主のようなお方か」という意味の名前です。この問いの答えは、主のようなお方は他にはいない、主なる神だけが私たちの信頼に足るただひとりのお方だということです。私たちのためにご自身を犠牲とされた主イエスを信頼し、御言葉に素直に耳を傾けましょう。 

 主よ、あなたはいと小さい者を選び、主の力、御名の威厳をもって平和を打ち立てられます。それが、主イエスの十字架と復活を通して明らかにされました。それは、決して小さなことではありません。どうか、世界中にキリストの平和を与えてください。すべての人々の心にキリストの平和がありますように。 アーメン



12月27日(金) ミカ書4章

「娘シオンよ、子を産む女のように、もだえて押し出せ。今、お前は町を出て、野に宿らねばならない。だが、バビロンにたどりつけば、そこで救われる。その地で、主がお前を敵の手から贖われる。」 ミカ書4章10節

 1~3節には、イザヤ書2章2~4節とほぼ同じ言葉が記されています。ミカとイザヤは、ヒゼキヤ王の代に活動が重なる部分もありますので、どちらかが相手の預言を引用したのではないかと考えられています。勿論、共通の預言が神から与えられたと考えることも出来ます。

 1節冒頭に「終わりの日に」とあります。はっきりといつと特定されてはいませんが、未来にこの世が終わりを迎えるときと考えたらよいでしょうか。そのとき、あらゆる国民が高くそびえる主の神殿のある山に来て、どのように生きるべきかを教える神の言葉を学ぶと言います(2節)。つまり、エルサレムが世界の中心になるということです。

 そして、彼らは戦争をやめ、剣や槍という武器を、鋤や鎌などの農具に打ち直します(3節)。争いは過去のものとなり、「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もない」(4節)平和を味わいます。人類はいつの日か、この預言が実現するのを見ることが出来るでしょう。しかしそれは、ぼんやり待っていれば、そうなるということではありません。

 主イエスが、「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と語られたように(マタイ福音書5章9節)、平和の実現に向けて行動することが求められており、そのための祝福がなされているのです。平和の実現のための行動とは、剣や槍などをを用いない、隣人を愛し、その祝福を祈ることです。それこそ、主イエスが十字架を通して、私たちに手本を示されたものです。

 このような預言がここに記されているのは、これからイスラエルの民の上に起こるであろう過酷な運命の中でも、希望を失わないように、主を信じるようにということではなかったかと思います。ミカは、冒頭の言葉(10節)で、「お前は町を出て、野に宿らねばならない。だが、バビロンにたどりつけば、そこで救われる」と語っています。

 アッシリアがサマリアを滅ぼし、いよいよエルサレムに迫ってくるという状況にあります。そのとき、ミカがこの預言を語ったわけです。バビロン捕囚というのは、これから100年以上も後のことで、バビロンはまだ国を形成していませんでした。

 ただ、サマリアが陥落したとき、アッシリアの王はイスラエルの民を捕囚として連行し、バビロンから人々を連れて来て、サマリアに住まわせました(列王記下17章24節)。ですから、エルサレムが陥落すれば、同じようにその民をバビロンに連れて行き、エルサレムに別の民を住まわせるというのは、十分想定されるところでしょう。

 そして、100年余り後の紀元前587年に、エルサレムがバビロン軍によって陥落させられ、民が捕囚とされる事態となり、ミカの預言が彼の想定を越えて実現したかたちです。  

 しかし、ここで見逃せないのは、「バビロンにたどりつけば、そこで救われる。その地で、主がお前を敵の手から贖われる」という言葉です。なぜ、バビロンに連行されることが救いなのでしょう。その地で、敵の手から贖われるとはどういうことでしょうか。

 イスラエルが滅亡し、バビロンで奴隷として働かされるのは、悲劇です。それが救いとなり、贖いとなるということは、この背後に神の御計画、神の御業があるわけです。つまり、単にイスラエルがアッシリアやバビロンとの戦いに敗れたから、亡国、捕囚という憂き目を見るのではないということです。

 そのことが11節以下で、イスラエルに対し、神の裁きを実行するために集結している諸外国、たとえばアッシリア、そして後のバビロン、イスラエルを取り巻いている国々が、イスラエルが裁かれたように裁かれて、イスラエルによって滅亡という苦難を味わうというところに示されます(13節)。そのことを通して、主なる神こそが究極的な主権者であることを表されるわけです(7,8節参照)。

 イスラエルは、その罪のゆえに神に裁かれなければなりませんでした。しかしながら、神はイスラエルを攻め滅ぼしてしまいたいのではありません。救いたいのです。その罪を贖う用意が、神にあるということでしょう。そこに神の愛があります。憐れみがあります。亡国・捕囚という苦しみを通らなければ学ぶことの出来ない恵みが、そこにあるのです。

 「娘シオンよ、子を産む女のように、もだえて押し出せ」(10節)と語られているように、その苦しみは、出産時の陣痛、産みの苦しみなのです。後にエレミヤがバビロン捕囚について、「それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」と記しています(エレミヤ書29章11節)。

 「今、身を裂いて悲しめ」(14節)と言われているように、主の御前に罪を告白し(第一ヨハネ書1章7,9節)、謙りましょう。万事を益としてくださる主を信じ(ローマ書8章28節)、その導きに従いましょう。

 主よ、あなたの恵みと憐れみのゆえに感謝します。私たちの国には様々な問題があります。およそ平和を実現しようとしての所業とは思われません。しかし、その問題のかなたにあなたの導きの御手があると信じます。私たちを主の器として整え、用いてください。御心がこの地に実現しますように。御国が来ますように。 アーメン



12月26日(木) ミカ書3章

「それゆえ、お前たちには夜が臨んでも、幻はなく、暗闇が臨んでも、託宣は与えられない。預言者たちには、太陽が沈んで昼も暗くなる。」 ミカ書3章6節

 イスラエルの不正を糾弾する預言者ミカの言葉は、次第に激しさを増して来ます。神に立てられて、正義を行うことが期待されている「ヤコブの頭たち、イスラエルの家の指導者たち」(1節)が、善を憎み、悪を愛する者となっているからです(2節)。

 1章ではヤコブ、イスラエルといえば、それは北イスラエル王国のことを指していましたが(同5節)、本章では10,12節との関連でエルサレムの指導者たちのことを意味しています。王や裁判官といった指導者がミカの批判の対象になっていると考えられます。

 1節の「正義」は「ミシュパート(公正、定め、裁きの意)」という言葉で、神の律法に基づく社会的な正義を示します。指導者たちは正義を知っているはずなのに、本当の意味で、それを知り、味わい、行使することがなかったことを糾弾しています。

 これは、ホセアが「この国には、誠実さも慈しみも、神を知ることもないからだ」(ホセア書4章1節)と言い、アモスが「悪を憎み、善を愛せよ」(アモス書5章15節)と語っていることに通じます。北王国でも南王国でも、その指導者たちに正義が見られないのです。

 「人々の皮をはぎ、骨から肉をそぎ取る者らよ。彼らはわが民の肉を食らい、皮をはぎ取り、骨を解体して、鍋の中身のように、釜の中の肉を砕く」(2,3節)というのは、彼らがおのが腹の満足のみを追い求め、その権力を笠に、いかに民を食い物にしているかということを、比喩的に表現したものでしょう。

 預言者ミカが求める「正義」とは、イザヤが「善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」(イザヤ1章17節)と告げているのと同様、弱く貧しい人々の訴えを聞き入れ、力のない人々に特別の注意を払うことです。しかし、エルサレムの指導者たちは、おのが役割をはき違えています。

 彼らが正義を憎み、悪を愛しているので(2節)、「今や、彼らが主に助けを叫び求めても、主は答えられない」(4節)と言われます。預言者たちについて、「歯で何かをかんでいる間は、平和を告げるが、その口に何も与えない人には、戦争を宣言する」(5節)と言います。「地獄の沙汰も金次第」ではありませんが、神の託宣を取り次ぐのに袖の下を要求しているわけです。

 11節にも「預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。『主が我らの中におられるではないか。災いが我々に及ぶことはない』と」と記されていて、ワイロで裁きを曲げ、貧しい者から搾取したものを神に献げながら、なお神の保護を確信するという、彼らの厚顔無恥ぶりを言い表しています。

 だから冒頭の言葉(6節)のとおり、「お前たちには夜が臨んでも、幻はなく、暗闇が臨んでも、託宣は与えられない」と言われるのです。災いに際して主に叫び求めても、主は何も答えてくださらないのです。「太陽が沈んで昼も暗くなる」とは、彼らの行う占いや呪いが意味をなさない空しいものとなるというのでしょう。

 そのことで、サムエル記上3章1節に「その頃、主の言葉が望むことは少なく、幻が示されることもまれであった」とあり、それはシロの祭司エリの息子たちがならず者で、主を知ろうとしなかったためでした(同2章12節以下)。

 また、同28章に、侵攻して来たペリシテに恐れをなしたサウルに対し、主が何もお答えにならなかったと言われます(同5,6節)。それは、サウルが主に背き、命じられたことを遂行しなかったからでした(同18節)。

 ただしかし、これは昔のイスラエルのことで、自分とは関係ないとは思えません。むしろ、これが私たちの現実なのではないでしょうか。善を憎み、悪を愛するという自覚はありませんが、生活の忙しさにかまけて、主の御言葉を聴くことが疎かになります。祈りの生活が疎かになります。

 なかなか、自分に向かって語りかけられている主なる神の御言葉として、聖書を真剣に読むことが出来ません。祈りを通して主の御前に進み、主と親しい交わりをするという静かな時間をとることが出来ません。私たちの事情が主の御言葉に耳を傾けることよりも優先するのです。そしてそれを、やむを得ないこととして来ました。

 故榎本保郎先生が、「壊れやすいのは、祈りの祭壇です。あなたの祈りの祭壇は壊れていませんか。あなたの祈りの祭壇から、芳しい香りが主の前に絶えず立ち上っていますか」と語っておられた言葉を思い出します。人の顔色を伺い、人の事情が優先するような聖書の読み方、祈り方をしていて、どうして、生ける神の御言葉を聴くことが出来るでしょうか。

 私たちに対して語りかけられる主の御言葉をはっきり聴くことなしに、その御心を悟ることは出来ません。どんなに教理的に正しく教えることが出来ても、それは、どこまでも人間の知恵、知識による言葉であって、それで人の魂を揺さぶり、真の悔い改めに導くことは出来ません。それで、まことの神の愛が伝わるはずがありません。

 信仰に入って以来、私たちはどれほど成長してきたでしょうか。いえ、むしろ後退しているのではないでしょうか。主から断罪されれば、言い逃れることは出来ません。ただ素直に、「あなたの仰るとおりです」と認めるほかありません。

 しかし今、この裁きの言葉を自分に語りかけられている主の御言葉として真剣に聴くならば、主は私たちの歩むべき道、私たちがなすべきことをも語り示してくださるでしょう。主の御前に謙りましょう。

 「皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです。だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」(第一ペトロ5章5,6節)と言われているとおりです。

 主よ、あなたこそ真の羊飼いです。あなたの他に良い羊飼いはいません。あなたは絶えず私たちのことを心にかけ、必要のすべてを豊かに満たしてくださるからです。主よ、私たちの耳を開いてください。あなたの御声に聴き従います。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなただけなのです。御言葉を聞いて行う者にならせてください。御国が来ますように。御心が行われますように。 アーメン



12月25日(水) ミカ書2章

「ヤコブよ、わたしはお前たちをすべて集め、イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に、群れのように、牧場に導いてひとつにする。彼らは人々と共にざわめく。」 ミカ書2章12節

 イスラエルに悪がはびこり、貪欲が国を支配しています(1,2節)。それを主なる神が裁かれます(3節)。それは、彼らが不正に手に入れた土地、畑が取り上げられて他者のものになり、嘆きの歌を歌う羽目になるということです(4節)。

 このミカの預言を、権力者、裕福な者たちは「たわごと」(6節)と決めつけ、「こんなことについてたわごとを言うな。そんな非難は当たらない。ヤコブの家は呪われているのか。主は気短な方だろうか。これが主のなされる業だろうか」(6,7節)と言って、真剣に耳を傾けようとはしません。

 「たわごとを言う」と訳されている原語は、「流れる、滴り落ちる」(ナータフ)という意味の言葉で、あまり意味のない言葉を口から溢れさせる、たわごとを言うという表現に用いられます。岩波訳は、「涎(よだれ)を流す」と訳しています。

 けれども、主なる神の霊的な導きを受けて語る預言者の言葉を「たわごと、涎」というのは、それこそ、主に向かってたわごとを語っていることになるでしょう。だから、滅びを刈り取らなければならないのです。

 主は、「立て、出て行くがよい。ここは安住の地ではない。この地は汚れのゆえに滅びる。その滅びは悲惨である」(10節)と言われました。神の都と言われ、主の神殿の置かれたエルサレムが、民の安住の地にならず、汚れのゆえに滅びるというのです。

 けれども、それによってすべての者が撃たれ、滅ぼし尽くされるというわけではありません。冒頭の言葉(12節)にあるように、「イスラエルの残りの者」がいます。主なる神は彼らを呼び寄せると言われます。

 「彼らを羊のように囲いの中に、群れのように、牧場に導いてひとつにする」は、口語訳では「これをおりの羊のように、牧場の中の群れのように共におく」、新改訳は「彼らを、おりの中の羊のように、牧場の中の群れのように一つに集める」、岩波訳は「牧草地にいる群れのように、人の群れでざわめく」と訳しています。

 いずれにせよ、「残りの者」とは、今は囲いの中にいない、群れとならず追い散らされている弱い羊のような存在、それは即ち、貪欲な権力者によって畑が奪われ、家を取り上げられ、虐げられてきた人々のことと考えられます。あるいはまた、神がイスラエルの家を打たれ、裁かれて、遠く散らされる人々のことを語っていると考えることも出来ます。

 主なる神は、「わたしはお前たちをすべて集め」、「わたしは彼らを羊のように囲いの中に、群れのように、牧場に導いてひとつにする」と言われます。エレミヤ書31章10節に「イスラエルを散らした方は彼を集め、羊飼いが群れを守るように彼を守られる」と記されていましたが、主ご自身がイスラエルの牧者となられ、もう一度彼らをご自身の宝の民とされるのです(申命記7章6節以下参照)。

 主イエスが「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10章11節)と言われ、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊を導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(同16節)と語られました。つまり、ミカが語っていた羊飼いとは、主イエスのことだったのです。

 囲いに入っている羊とはユダヤ人のこと、囲いに入っていない他の羊とは異邦人のことと言ってもよいでしょう。主イエスの前にはユダヤ人も異邦人もなく、皆をその救いの恵みに招いておられるのです。

 今日、主イエスの贖いにより、主イエスを信じる信仰を通して、誰でも神の民となることが出来るようになったのは、感謝この上もないことです。これは、まったく一方的な神の憐れみです。羊を奪い、追い散らす狼から(同10章12節)、主イエスが御自分の命をはって守ってくださるのです。

 主は、私たちが命を受けるため、しかも豊かに受けるために来られました(同10章11節)。その豊かさは、物質的なものではなく、私たちと神との交わりの豊かさであり、そしてまた、私たちと隣人との交わりの豊かさを示しています。「一人の羊飼いに導かれ、一つの群れとなる」という親密な交わりのことです。

 この神の深い愛と計画に従い、いつも、主イエスと共に歩ませて頂きましょう。

 主よ、あなたの恵みを感謝します。深い憐れみのゆえに、神に敵対し、たわごとを語っていたような私たちを、主の群れに加えてくださいました。主に選ばれ、名を呼ばれた者として、その声を聞き分け、ただ主にのみ従うものとしてください。御旨のままに出て行き、豊かな実を結ばせてください。御名が崇められますように。 アーメン




クリスマス礼拝の案内

01

12月1日(日)から24日(火)まで、イエス・キリストの降誕、そして再臨を待ち望むアドベント(待降節)です。

12月22日(日・アドベント第四主日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、新約聖書・マタイ福音書から、共に聖書の学びと交わりを行います。


クリスマス礼拝を10時半から行います。

礼拝は、ルカ福音書1章57~80節より、「主は恵み深い」と題して、原田牧師より説教をいただきます。


礼拝後、クリスマス祝会(愛餐会・プレゼント交換)を行います。

愛餐会は無料です。
どなたもお気軽にご参加ください。

プレゼント交換は、300円程度のプレゼントにクリスマスカードを添えて行います。
ご自分で用意できない方は、教会に備えがありますので、お申し出ください。

楽しく主イエスのご降誕をお祝いしましょう。


24日(火)19時より、クリスマスイブ・キャンドルサービス(燭火礼拝)を行います。

ローソクの火を灯し、厳かな雰囲気の中、讃美歌と聖書の言葉でキリストの誕生の次第を辿ります。

そして、ルカ福音書2章1~21節より、「今日救い主が」と題して牧師よりクリスマスの説教をいただきます。


「クリスマスは教会へ」

キリスト教の集会は初めてという方も、ぜひお気軽にご参加ください。


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