「主は恵み深く、苦しみの日には砦となり、主に身を寄せる者を御心に留められる。」 ナホム書1章7節
ナホム書の著者、預言者ナホムについて、詳しいことはほとんど何も分かりません。1節に「エルコシュの人」とありますが、エルコシュがどこにあったのか、まだ確定されていません。エルサレムの南方、シメオン族に属する町の出身という説が有力とされているようですが、確かなことは不明です。
本書の預言が語られた時期について、「ニネベについての託宣」(1節)という言葉、そして特に3章7節の「ニネベは破壊された、だれが彼女のために嘆くだろうか」という言葉などから、アッシリアの首都ニネベがバビロンによって陥落させられる紀元前612年の数年前、615年前後に預言されたものではないかと想定されています。
「ナホム」とは「慰め」を意味する名前ですが、本書中に「慰め」と直結するような文言は見出せません。むしろ、ここに記されているのは、ニネベに対する厳しい裁きの言葉だけといってもよいほどです。
アッシリアは、神に背いて罪を犯し、悪を行った北イスラエルを裁き、滅ぼすための神の器として用いられました(列王記下17章)。また、南ユダも、北イスラエルの風習に倣って歩んでいたため、エルサレムの都が陥落直前にまで追い込まれました(同18章)。
しかしながら、今やニネベが、「主に対して悪事をたくらみ、よこしまな事を謀る者があなたの中から出た」(11節)と、主なる神に断罪される存在となりました。主がご自分の民を選ばれるのは、ご自身に仕えるものとするためです。イスラエルは徹底的に主に背いて、その怒りを買いました。
主の裁きの器として選ばれたアッシリアが「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」(ミカ書6章8節)なら、主の慈しみは彼らに注がれ続けていたことでしょう(ヨナ書3,4章、ローマ書11章17節以下も参照)。
けれども、彼らはイスラエルよりも悪を行う者だったわけです。ここに、アッシリアに対する裁きが語られることで、神が望んでおられるのは、やはり、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」であると言えます。
2節から8節までのヘブライ語本文の各行の文頭に「アレフ」から「カウ」までのアルファベットが、順番に並べられるという形になっています。ただし、2節後半と3節前半の2行が、アルファベットによる詩のリズムを壊すかたちで挿入されています。
2節から、ニネベに対する主の裁きが語られ始めます。そこでは、「主は報復を行われる方」(ノーケーム・アドナイ)という言葉が3度繰り返され、その対句が「熱情の神」(エル・カンノー)、「憤りの主」(バアル・ヘーマー)、「怒り(原文は「彼」)を保持される方」(ノーテール・フー)となっています。妬みを起こして激しく憤られ、その怒りをずっと保持しておられるという図です。
3節の「忍耐強く」は「怒るに遅く」(エレフ・アパイム)という言葉です。ずっと忍耐して怒られなかったからこそ、その悪に報復される主の怒りは激しく、一層恐ろしいのです。「その道はつむじ風と嵐の中にあり、雲は御足の塵である。主は海を叱って乾かし、すべての川を干上がらせる」(3,4節)というのは、主の怒りが大自然の異変として現れるということです。
2~10節の段落の中で、冒頭の言葉(7節)は、異なった光を放っています。ここで、主は恵み深いお方であると言われます。「恵み深い」(トーブ)とは、「よい=good」という意味の言葉です。
「神」を意味する英語の「God」(ゴッド)は、「good」(グッド)の短縮形だと聞いたことがあります。「よい」(トーブ)が「恵み深い」と訳されているのは、「苦しみの日には砦となり、主に身を寄せる者を御心に留められる」という、助けを必要としている者に対する主の計らいは、それを受ける者にとって主の「恵み深さ」以外のないものでもないからです。
「砦」(マーオーズ)は、「避難所、安全な場所」という意味の言葉です。この砦は、あらゆる敵の攻撃から安全に守ってくれることでしょう。
「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも。海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」(詩編46編2~4節)と、詩編の作者も詠っています。
また、「御心に留める」(ヤーダー)とは、「知る」という意味で、聖書がこの言葉を用いるとき、それは、知識の獲得という意味というよりも、体験的に理解すること、即ち、相手に対する関心を表わしており、それは、「愛する」ということと同義語といってもよいものです(創世記4章1節を参照)。
神は、私たちの頭髪の数までも数えておられるほどに注意深く(マタイ福音書10章30節)、眠ることなく、まどろむことなく見守っていてくださいます(詩編121編3節以下)。詩編46編11節には、「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる」とあります。
つまり、冒頭の言葉(7節)で主のよさが、主を信頼する者の保護として示されるのは、かつてイスラエルを裁くための主の道具として用いられたアッシリアが、今度は主の裁きの対象とされることで、あらためてイスラエルに対し、主の前に謙ること、主に信頼し、主に身を寄せることを求めているわけです。
自分の力を誇り、その強さを頼みとするのではなく、私たちを恵み深く守り支えてくださる主を信頼し、主の下に謙りましょう。
私たちに目を留め、絶えず見守っていてくださる神様、あなたの深い恵み憐れみに感謝します。日々私たちの砦となり、私たちに御心を留めていてくださる主に信頼し、御言葉に耳を傾け、御霊の導きに従って歩みます。絶えず、心から御名をほめたたえさせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン