風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2019年11月

11月23日(土) ホセア書2章

「そのところで、わたしはぶどう園を与え、アコルの谷を希望の門として与える。そこで、彼女はわたしにこたえる。おとめであったとき、エジプトの地から上ってきた日のように。」 ホセア書2章17節

 2章では、イスラエルの背信の裁き(4~15節)が、回復の言葉(1~3節)と救いの言葉(16節以下)に挟まれて語られています。回復されたのにまた背き、もう一度救いが与えられると読むことが出来ます。

 また、現実には背信の罪を犯し続けているのだけれども、主はイスラエルを愛して、繰り返し回復と救いを与えようと招いていると読むことも出来ます。ここで示されるのは、回復と救いは、イスラエルの努力や懺悔によってなされるのではなく、一方的な主なる神の愛と憐れみによってなされているということです。

 ゴメルは、自ら愛人たちのあとを追いました(7節)。愛人たちが自分を豊かにすると誤解していました(7,10,14節)。本当に自分を愛し、必要のすべてを豊かに与えてくれる夫の存在を忘れているのです。

 15節で、妻の愛人が「バアル」であると明示されています。つまり、イスラエルが真の神を忘れてバアルを礼拝しているということです。「バアル」とは「主人、所有者」を意味する名前です。淫行の妻が、夫である真の神を忘れて、神ならぬ異教の偶像バアルを「わたしの主人」と呼ぶというのは、全く笑えない駄洒落です(18節参照)。

 主なる神は、背信のイスラエルを再び取り戻すため、愛人のあとを追う道をふさがれます(8節)。また、イスラエルの持ち物を取り上げ、裸にされます(12節)。そして、祭りの喜びを取り去られます(13節)。これは、アッシリアによって北イスラエル王国が滅ぼされるということを預言しているのです。

 しかし、それは完全な滅亡ではありません。「初めの夫のもとに帰ろう」(9節)というときが来ると言われます。もう一度、主なる神を「わが夫」と呼ぶ日が来るのです(18節)。主はイスラエルの裁きについて、16節で「わたしは彼女を誘って、荒れ野に導き、その心に語りかけよう」と言われ、続く冒頭の言葉(17節)で「アコルの谷を希望の門として与える」と言われました。

 アカンという人物が石打ちの刑を受け、その石塚が築かれた場所が、アコルです(ヨシュア記7章24~26節)。アカンは、滅ぼし尽くして主にささげるべきものの一部を、自分のものとして盗み取りました(同7章1節)。それがイスラエルにとっての災いとなりました(同1,10節以下)。

 主なる神は、「滅ぼしつくすべきものが残っている。それを除き去るまでは敵に立ち向かうことはできない」(同13節)と言われました。そして、アカンが主に打たれ、イスラエルの民の中から除き去られた後、その怒りはやみ(同26節)、敵に立ち向かうことが出来るようになりました(同8章1節以下)。

 アコルとは「悩み、苦悩」という意味の言葉です。アコルの谷を希望の門として与えるというのは、悩みこそが希望だということではありません。悩みを希望に変えてくださるお方がおられるのです。

 アッシリアに滅ぼされることは、イスラエルにとってアコルの谷に赴くことです。しかし、それが希望の門になるのです。なぜでしょうか。それは、アコルの谷で、自分の夫は誰か、夫が自分に何をしてくれていたのかを思い出すからです。そして、夫の助けを叫び求めるからです。

 親不孝で放蕩の限りを尽くした息子が、どん底で「我に返って」(口語訳「本心に立ちかえって」)、父の家を思い出したように(ルカ福音書15章17節)、悩みの谷でそのお方を思い出すことが、苦悩を希望に変える大切な鍵です。

 主は、かつてイスラエルをエジプトの苦悩から解放してくださったように、私たちをその苦しみから解放してくださると約束しておられます。アコルの谷が希望の門となるのは、神の憐れみが私たちに注がれているからです。

 「悔い改めるとは、懺悔するという意味もありますが、方向を転換することです。「罪を犯す」(ヘブライ語:ハーター、ギリシア語:ハマルタノー)という言葉は「的を外す、迷う、誤る」という言葉です。だから、迷い出たところに戻る、向きを正すのです。何よりもしっかりと神の方を向き、主の慈愛に満ちた御顔を仰ぐこと、その恵みの御言葉に耳を傾けることです。

 日々勇気をお与えくださる主の御言葉に耳を傾け、信仰をもって勝利の人生を歩ませて頂きましょう(ヨハネ福音書16章33節参照)。ハレルヤ!

 主よ、御言葉を感謝します。私たちの人生には、様々なアコルの谷があります。自分では、這い上がれないような深い淵を通ることがあります。御言葉どおり、私たちのアコルの谷を、希望の門にしてください。希望の門をくぐり、主イエスの道を歩んで、真理と命に与らせてください。 アーメン


11月22日(金) ホセア書1章

「行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」 ホセア書1章2節

 本日から、ホセア書を読み始めます。ホセア書からマラキ書までを「小預言者」と言います。「大預言者」とは、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書のことです。大預言者は、それぞれが一つの巻物に記されましたが、小預言者は、12の預言書をまとめて一つの巻物に記されています。それで、ユダヤ教の正典の中では「12預言者」と呼ばれています。

 ホセアは北イスラエル王国で活動した預言者ですが、その人物について、具体的なことはよく分かっていません。ホセアという名前は、「ヨシュア」の変形で、「主は救う」という意味があります。ヌンの子ヨシュアはもとはホシェアという名であり(民数記13章8,16節)、モーセが彼をヨシュアと呼びました。原語では、ホセアとホシェアは同じ綴りです。

 1節に列挙されている王のリストで、南ユダの王ウジヤの治世は紀元前783~742年、ヨタムは742~735年、アハズは735~715年、ヒゼキヤは715~687年です。そして、北イスラエルの王ヤロブアム2世の治世は786~746年です。

 ホセアは、ヤロブアムの治世の終わりの紀元前750年ごろから、北イスラエルがアッシリアに滅ぼされた722年ごろにかけて活動したと考えられます。王のリストで、南ユダの王の名が4人記されているのに対し、北イスラエルの王がヤロブアム以外取り上げられていないのは、そうするに価しないということなのでしょう。

 一方、南ユダの王に、ホセアの活動が終了したと考えられる時期の後に王位に就いたヒゼキヤの名まで記されているのは、アッシリアにより首都サマリアが陥落して北イスラエルが滅んだ後、ホセア書が南ユダで編集されたためだろうと考えられます。

 冒頭の言葉(2節)で主なる神がホセアに、「淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ」と命じました。淫行の女とは、カナンのバアル神に仕えていた神殿娼婦、つまりバアルの神を拝む礼拝儀式の中で男性に体を提供していた女性だったのではないかと思われます。

 イスラエルの律法に従えば、通常、そのような女性は生かしておくべきではないということになります。とすると、冒頭の言葉の主の命令は異常です。なぜ、主に従う預言者が、バアル神に仕えていた神殿娼婦を妻にめとらなければならないのでしょうか。

 その理由を、「この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ」(2節)と言います。全く理解に苦しむようなことですが、これがホセアに対する主の命令なのです。そして、ホセアはこの命令に従い、淫行の女性、ディブライムの娘ゴメルを妻としてめとりました(3節)。この女性のことも、名前以外のことはまったく分かりません。

 この夫婦の関係は、当時おかれていた北イスラエル王国とまことの神、主との関係を象徴しています。淫行の女が北イスラエルで、そのイスラエルを妻として迎えるホセアは、イスラエルを愛して恵みを与えようとしている主なのです。この関係はしかし、好ましいものではありませんでした。

 二人の間に三人の子どもが生まれて来ますが、最初の子は「イズレエル」と名付けられます。この地名は、将軍イエフがアハブ王の家族とその支持者たちを皆殺しにしたところとして、イスラエルの人々の心に刻み込まれています(列王記下9章30節以下、10章1節以下)。ですから、その地の名がつけられたということは、イスラエルの最後が迫っていることを意味します。

 二番目の子は「ロ・ルハマ」と名付けられました。それは、憐れまれないという意味だと説明されています(6節)。三番目は「ロ・アンミ」です。それは、わたしの民ではないという意味です(9節)。つまり、終わりのときが迫って来ているけれども、神はイスラエルを憐れまず、むしろ彼らはわたしの民ではないといって、見捨ててしまうということが、ここに示されているわけです。

 ホセアは、淫行の女性と結婚することや、産まれてきた三人の子どもにこのような名前をつけることで、イスラエルに対する主の裁きを預言しています。そうするように彼は召されたのであり、そして彼はその召しに忠実に歩んでいるわけです。

 イスラエルの民、特にホセアと親しい人々は、彼のこの奇異にも見える結婚、そしてその名づけを喜びはしなかったでしょう。しかしながら、これが主なる神の裁きの預言であるということを、人々は知らなければならなかったのです。

 もしも、異教の神との淫行を繰り返しているイスラエルの民が、この主の裁きの言葉に耳を貸さないなら、告げられているとおりの裁きをその身に引き受けることになってしまいます。しかし、主はこの民が裁きの言葉に耳を傾け、主を畏れて御前に謙り、「悔い改めに相応しい実を結」(マタイ福音書3章8節)ぶことを期待しているからこそ、ホセアを預言者として召したのです。

 「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを憂いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」(ヤコブ書5章8~10節)。

 憐れみ深く(イザヤ書54章7節など)、忍耐と慰めの源である主なる神(ローマ書15章5節)に信頼し、日々主の御言葉に耳を傾けましょう。聖霊の導きに与り、御言葉を行う者となりましょう。

 主よ、私たちはこの国の同胞に対して、何をどのように語っていけばよいのでしょうか。どのようにあなたの愛と恵みを伝えればよいのでしょうか。御言葉をください。従う知恵と力、勇気を与えてください。私たちを御霊に満たし、愛と平和の道具として用いてください。 アーメン




11月21日(木) ダニエル書12章

「そのとき、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。そのときまで苦難が続く。国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、そのときには救われるであろう、お前の民、あの書に記された人々は。」 ダニエル書12章1節

 11章45節に「ついに彼の終わりのときが来る」と記されていました。それは、セレウコス朝シリアの王アンティオコスⅣ・エピファネスに苦しめられていたイスラエルの民が待ち望んでいた瞬間でした。

 アンティオコスⅣの反ユダヤ主義に反発して反乱が起こり、紀元前164年12月にシリア軍を撃破、ゼウス神殿とされていたエルサレムの神殿を清め、再奉献しました。この出来事を記念して、今日も「ハヌカー」というユダヤ教の祭りが行われています。

 その後、自軍の撃破の知らせを受けて、アンティオコスⅣが自ら軍を率いてユダヤに侵攻しようとしましたが、道半ばで急死しました。紀元前163年のことです。それから20年後の紀元前143年にシリア軍が完全に撤退、この独立戦争を率いてきたハスモン家による統治を記念する貨幣を発行し、ローマと外交関係を結ぶなどして、イスラエルの独立が達成されました。

 しかしそれは、永遠の御国の到来などではありませんでした。紀元前63年当時、王権を巡ってヒルカノス(兄)とアリストブロス(弟)の間で内紛があり、そこにつけ込んだローマが、優秀なアリストブロスよりもヒルカノスの方が懐柔しやすいと考えて支援し、アリストブロスは死に追い込まれます。かくてイスラエルは、自治を認められながら、ローマの属州シリアの一部となりました。

 ダニエルが預言した、大天使長が立ち上がってイスラエルを守護し(1節)、多くの者が塵の中の眠りから目覚め(2節)、そして、目覚めた人は大空の光のように輝く(3節)という出来事は、いまだ実現してはいません。

 それはいつ、どのようにして起こるのか、まだ分かりません。ダニエルが「これらのことの終わりはどうなるのでしょうか」(8節)と尋ねたとき、「終わりのときまでこれらのことは秘められ、封じられている」(9節)という答えが返ってきて、人には明かされないことが示されます。

 冒頭の言葉(1節)に、「そのときまで、苦難が続く」という言葉があります。聖書が終りのときを描くとき、そこには常に苦難が起こることが語られます(マタイ福音書24章、マルコ福音書13章など)。

 しかし、最後には必ず神が勝利すること、信仰を守った者には栄光の冠が与えられることが約束されます(第二テモテ書2章8節以下、10節、ヤコブ書1章12節など)。主イエスも、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ福音書16章33節)と言われました。

 これはしかし、単なる苦難というよりも、信仰を持っているからこその苦難と考えられます。そして、その苦難に打ち勝ってこその栄光であると言われているわけです。古い英語の諺で、「No Cross, No Crown(ノークロス、ノークラウン=十字架なしに栄冠なし、苦しまずして栄光を得ることは出来ない)」というとおりです。

 ただ、ギリシアの属領となったことも、ローマの属領となったことも、深い意味があったと思います。ギリシア帝国時代、エジプト・アレクサンドリアにいたユダヤ人たちが、ギリシア語の旧約聖書を作りました。

 セプチュアジンタ(70人訳)と呼ばれるものですが、初代のクリスチャンたちは、このギリシア語訳旧約聖書を用いて、ヨーロッパをはじめ広く世界の福音宣教に赴きました。ヘレニズム文化が広く行き渡っていたからこそ、そのような宣教が出来たと考えられます。

 そして、ローマの支配下で主イエスの誕生、十字架と復活の出来事は起こりました。もし、ローマの支配下でなければ、ナザレにいたヨセフとマリアが、住民登録のためにベツレヘムに向かうということはなかったでしょう。そうなれば、主イエスがベツレヘムでお生まれになることもなかったわけです。

 そしてまた、ローマの支配下でなければ、キリストが十字架の死を遂げることもありませんでした。イスラエルでは、神を冒涜したとされる者は石を投げられて処刑される石打ちと呼ばれる死刑の方法がとられていました。十字架刑は、ローマの死刑の方法だったのです。

 つまり、旧約の預言成就のために、ローマの支配が欠かせなかったことになります。そして、広い地域の交通の安全がある程度保証されていたので、安心して伝道旅行をすることが出来たということも、ローマ帝国の支配の賜物と言ってよいでしょう。

 神は確かにすべてのことを益として下さいます。どんなマイナスもプラスに変えられるのです。今日も全知全能の主を見上げ、主に信頼して歩みましょう。

 主よ、あなたの勝利を信じます。常に、主の愛と平和が全世界に、私たちの住む町に、それぞれの家庭にありますように。特に、災害に見舞われた地域には、慰めと平安、助けが豊かにありますように。そのマイナスがプラスになりますように。 アーメン

11月20日(水) ダニエル書11章

「これらの指導者の何人かが倒されるのは、終わりの時に備えて練り清められ、純白にされるためである。まだ時は来ていない。」 ダニエル書11章35節

 「さて、お前に真理を告げよう」(2節)と言われ、10章1節でダニエルに啓示されていた「一つの言葉」の内容が、ここで明らかにされます。それは、ペルシアに4人の王が出た後、ギリシアに勇壮な王が立って世界を治めるようになること(3節)、けれども、帝国が四つに分裂すること(4節)、その後、南と北二つが覇権を争い、離合集散を繰り返すことです(5節以下)。

 これは、固有名詞こそあげられていないものの、ペルシアからギリシア時代の歴史的事実とつき合わせることが出来ます。3節の勇壮な王はアレキサンダーのことで、彼の後、ギリシア帝国は分裂し、シリアを中心とする「北の国」と、エジプトを中心とする「南の国」の間に、様々な画策、戦いがなされます。17節の「娘」はクレオパトラです。

 そして、21節に出てくる「卑しむべき者」は、これまでも繰り返し述べられているアンティオコス4世(アンティオコスⅣ・エピファネス)のことです。彼はエジプト軍を撃破してパレスティナの覇権を握り、その勢いを駆ってエジプトに攻め込みますが(29節)、すんでのところで勝利することが出来ませんでした。

 「キティムの船隊」と呼ばれているローマ軍の介入により、追い返されます(30節)。エジプトからの帰還途中、イスラエルの反乱軍の存在を知り、それを武力で制圧します。30節の「聖なる契約に対し、怒りを燃やして行動し」というのが、そのことです。そして、反乱の芽を摘むにはイスラエルの宗教を破壊してしまうことだと、徹底的な弾圧を行いました(31節以下)。

 32,33節に「自分の神を知る民は確固として行動する。民の目覚めた人々は多くの者を導くが、ある期間、剣にかかり、火刑に処せられ、捕らわれ、略奪されて倒される」と記されています。圧倒的な権力者の弾圧によって処刑され、倒されるけれども、それにも怯まず、おのが信仰を守り通した人々がいるというのは、私たちに希望と勇気を与えます。

 しかし、「こうして倒れるこの人々を助ける者は少なく、多くの者は彼らにくみするが、実は不誠実である」(34節)と言われ、著者はこのような表現を通して、本当の救いは、人から、人の力によってではなく、主なるまことの神から来る、と語りたいのではないでしょうか。

 冒頭の言葉(35節)に「まだ時は来ていない」とあります。それは、「終わりの時」と言われる、真の主なる神を礼拝する神の民イスラエルが回復されるときのことです。その「時」は、武力で獲得されるのではなく、歴史を導かれる神によってもたらされるのです。そのときまで、なおイスラエルの苦難は続きます。指導者の多くが殉教します(33,35節)。

 そのような苦しみの目的をここでは、「終わりの時に備えて練り清められ、純白にされるためである」と示しています。誰も苦難を望みはしません。しかし、苦難を通して信仰が試され、確かめられ、鍛えられることも確かです(イザヤ書48章10節、ヘブライ書12章5節以下)。そうして、ますます強く神を待ち望むようになります(詩編42編6,12節、119編147節、130編5節など)。

 パウロも、「苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ書5章3,4節)と言いました。また、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ書1章29節)と語ります。

 さらに、弱い私たちのために、神の御霊も切なる呻きをもって執り成し、助けてくださいます(ローマ書8章26節)。それによって神は、必ずすべてのことを益に変えてくださるという恵みを味わわせて下さるのです(同8章28節)。

 主を信じ、御言葉を待ち望みましょう。主を待ち望む者のために、主は新たな力をお与えくださり、それによって鷲のように翼を張って上ることが出来るからです(イザヤ書40章31節)。

 主よ、私たちを「自分の神を知る者」となし、「確固として行動」させてください。「目覚めた者」として多くの者を導かせてください。主を信じます。弱い私たちを助けてください。主の御心がこの地になされますように。 アーメン



静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に11月17日(日)主日礼拝プログラムと礼拝説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」「フォトギャラリー」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。


御覧ください。



また、11月21日(木)①10時から11時半、②19時~20時、バプテスト静岡教会で聖書の学びと祈り会を行います。
聖書日課に基づいて、聖書を学んでいます。
21日は旧約聖書・ダニエル書12章を読み、学びます。

よろしかったらお出かけください。



11月19日(火) ダニエル書10章

「ダニエルよ、恐れることはない。神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めたその最初の日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た。」 ダニエル書10章12節

 「キュロス王の治世第三年」(1節)すなわち紀元前536年ごろ、ダニエルに一つの言葉が示されました。それは真実の言葉と言われますが、理解が困難な言葉だったので、幻による説明が与えられました。

 それは、ダニエルが3週間の嘆きの祈りをしていたときのことでした(2節)。ダニエルが何を嘆いて祈っていたのか、何も記されてはいませんが、彼がこれまでに見せられたイスラエルの将来にわたる苦難について、嘆きながら執り成し祈っていたのではないかと思われます。

 その幻の中で、麻の衣を着、純金の帯を腰に締めていて(5節)、体は宝石、顔は稲妻、目はたいまつの炎、腕と足は磨かれた青銅のように見え、話す声は大群衆の声のように聞こえる(6節)一人の人が立っていました。ダニエルと共にいた人々は強い恐怖に襲われて逃げ出し(7節)、一人残されたダニエルも気力を失い(8節)、地に倒れました(9節)。

 その人がダニエルに冒頭の言葉(12節)のとおり、「ダニエルよ、恐れることはない。神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めたその最初の日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た」と言いました。「苦行」とは断食のことです(3節)。

 そして、ダニエルが嘆きの祈りをしていた三週間、ペルシア王国の天使長が神の使いを妨げたけれども、大天使長ミカエルが助けてくれたので、ペルシアの王たちのところにいる必要がなくなり(13節)、ダニエルのところに将来起こるであろうことを知らせるメッセージを届けに来たと続けました(14節)。

 「主のようなお方」と話すのは、とても畏れ多いことだったので、力は失せ、息も止まりそうなことでしたが(17節)、その人がダニエルに触れて力づけ(18節,16節も)、「恐れることはない。愛されている者よ。平和を取り戻し、しっかりしなさい」(19節)と言われて、力を取り戻しました。

 彼は、「今、わたしはペルシアの天使長と闘うために帰る。わたしが去るとすぐギリシアの天使長が現れるであろう。しかし、真理の書に記されていることをお前に教えよう。お前の天使長ミカエルのほかに、これらに対してわたしを助ける者はないのだ」(20,21節)と言いました。

 ここに、各国にその国を守る守護天使がいるという考えが言い表わされています。そして、ペルシアの守護天使が、ダニエルに神の御旨を告げようとしてやってくる神の使いを妨害していたというわけです。

 それは、ペルシアにとって都合の悪いこと、つまり、やがてペルシアは滅亡する、神の民が勝利するというメッセージだったと思われます。それで、ダニエルのもとに遣わされた神の使いに対して、ペルシアの守護天使が神の御旨に反して抵抗したわけです。ただ、いかに抵抗しても、神の御旨に背く者に勝ち目はありません。

 改めて心に留めておきたいのは、「神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めた最初の日から、お前(ダニエル)の言葉は聞き入れられて」(12節)いたと言われていたことです。それは、初めの日に聞き入れられていたので、三週間も嘆き祈ることは必要がなく、無駄だった、意味のないことだったということではありません。

 むしろ、彼の祈りがあったからこそ、「主のようなお方」がダニエルのもとに遣わされたのであり、それがペルシアの天使長の抵抗によって妨げられていると、大天使長ミカエルが助けに来たという結果を生み出したわけです。

 それは、執り成しの祈りがなければ天使たちが働けないということではないでしょう。しかし、ダニエルは嘆きの祈りによって、このような目に見えない天の戦いに参加していたわけです。そして、祈っていたからこそ、民の将来に関するメッセージをもたらしていただくことが出来たのであり、それで、「平和を取り戻し、しっかりする」(19節)ことが出来るのです。

 これは、エジプトを脱出したイスラエルの民とアマレク人との闘いに、勝利をもたらしたモーセの祈りを思い起こします(出エジプト記17章8節以下)。神の力を持ってすれば、アマレクを一撃で打ち倒すことは容易いことですが、モーセが祈りの手を上げ、アロンとフルがその手が下がらないよう両側から支えることで(同12節)、イスラエルがアマレクに勝利するようにされたのです(同13節)。

 ペルシアの次にはギリシアがやって来ます(20節)。イスラエルはギリシアの支配の下で苦しめられます。主を礼拝することもままならないような状況に陥ります。しかし、祈る者のために、神は助けを用意してくださいます。

 「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう」(エレミヤ書29章12~14節)と主は言われているのです。

 主イエスも、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ福音書7章7,8節)と言われました。

 祈りましょう。主を求めましょう。主の御言葉を聴きましょう。聖霊の導きに与り、御言葉を聴いて行う者にしていただきましょう。

 主よ、絶えず私たちを守り導いてくださり、有難うございます。どうか、私たちの国を憐れみ、この国の民に目を留めてください。皆が平和を取り戻し、しっかりと立つことが出来ますように。そのために、私たちの耳を開き、主の御声を聴かせてください。目を開き、主の御業を拝させてください。心を開き、主の御旨を悟らせてください。 アーメン





11月18日(月) ダニエル書9章

「憐れみと赦しは主である神のもの。わたしたちは神に背きました。」 ダニエル書9章9節

 1節の始めに「ダレイオスの治世第一年」とあり、「ダレイオスはメディア出身で、クセルクセスの子であり、カルデア人の国を治めていた」と記されていますが、この「ダレイオス」なる人物のことが特定出来ません。エズラ記6章1節以下に出て来る「ダレイオス」はペルシアの王で、しかもキュロス王の後継者の一人です。

 そこで、ダレイオスがエズラ記に記されているペルシアの王と同一人物であると考えれば、ダニエルが「キュロス王の元年まで仕えた」(1章21節)という言葉と符号しないことになります。

 ここでは、6章1節の「(ベルシャツァルから)王国を継いだのは、メディア人ダレイオスであった」という言葉や10章1節の「ペルシアの王キュロスの治世第三年」との関連で、ここにいう「メディア出身のダレイオス」とは、ペルシアのキュロス王のことではないかと考えられます。そうであれば、「ダレイオスの治世第一年」とは、紀元前538年ということになります。

 そのとき、ダニエルは聖書を通して一つの啓示を受けました。それは、「エルサレムの荒廃の時が終わるまでには、主が預言者エレミヤに告げられたように七十年という年数」(2節)がある、ということでした(エレミヤ書25章11,12節、29章10節参照参照)。

 ダニエルはこの言葉について、あらためて天使による説明を受けます。それは、「お前の民と聖なる都に対して70週が定められている」というものでした(24節)。そして、この70週が7週と62週と1週に分けられます(25,27節)。

 これは、文字通りの週ではなく、1日を1年と読み替えて考えてみるとよいでしょう。つまり、1週間は7日ですから、それを7年と読み替えるわけです。そうすると、最初の7週は49年ということになります。これはバビロン捕囚の期間(紀元前587年~538年)とちょうど符合します。

 続く62週(62×7=434日)、即ち434年(紀元前105年ごろ)に適合する歴史的な出来事というのははありません。バビロンからの帰還を果たした紀元前587年から200年間、イスラエルはペルシアの属領でした。それからおよそ190年にわたってギリシア・ヘレニズム国家の支配を受けました。ペルシアとギリシア・ヘレニズム国家の390年にわたる支配を62週と見なせばよいのでしょう。

 残りの1週は、ヘレニズム国家のパレスティナ支配の最後に登場して来たアンティオコス4世・エピファネスのことを指しています。ヘレニズム国家はそれまで自由政策で、自治と宗教の自由を認めていましたが、前175年に即位したアンティオコスⅣはユダヤの習俗や文化、宗教を否定して強力にギリシア化を推し進め、そのためにイスラエルの民は苦汁をなめました(27節)。

 ここで告げられているのは、歴史を支配しておられるのは神であり、目に見える現実がいかようであっても、主なる神こそ、私たちの祈りを聞き、救ってくださるお方であるという信仰に、私たちを導こうとしているのです。そして何より、イスラエルが苦難を味わっているのは、この信仰を見失って神に背いた罪のゆえなのだと告げているのです。

 ダニエルは、罪の赦しを乞い願いました(5節以下)。実際にダニエルは、自分の命を危険にさらしても主なる神に祈りをささげ、礼拝することをやめなかった人物です(6章11節)。そして、神は獅子の口を閉ざしてダニエルを守られました(同23節)。

 そのように神に従い続けてきたダニエルが、5節で「わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから離れ去りました」(5節)と言い、冒頭の言葉(9節)のとおり、「憐れみと赦しは主である神のもの。わたしたちは神に背きました」と言って、民の背きの罪を自分のこととして悔い改めています。ここに、執り成しの祈りの真理があるように思います。

 そして、そこに主イエスの贖いが見えてきます。主は、私たちの罪をご自身のものとしてその身に引き受け、罪の呪いから私たちを解放してくださいました。ダニエルが語っているとおり、まさに私たちは背く者ですが、しかし、主なる神は憐れみと赦しの主です。

 この主の深い憐れみのゆえに私たちの罪は赦され、神の子となる特権が与えられ、永遠の命に生きる者とされました。聖霊に満たされ、霊と真をもって主を礼拝しましょう。聖霊の力を頂き、主の恵みを証しする者とならせていただきましょう。

 主よ、私たち日本の民を憐れんでください。主の御名により、私たちを清めてください。癒してください。み救いに与らせてください。憐れみと赦しは主のものだからです。聖霊の力を受けて、主の恵みを証しする者とならせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン



11月17日(日)主日礼拝説教

11月17日(日)の主日礼拝は、子ども祝福礼拝として守りました。主日礼拝には、教会員16名、来賓20名(子ども5名、初来会者1名を含む)がお見えになりました。
礼拝後の昼食会には19名参加されました。
感謝です。



主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「強いられた恵み」
聖書 ルカ福音書23章26~31節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師



ご覧ください。






11月17日(日) 主日礼拝案内

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11月17日(日)は、教会学校小学科(小学生)、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
教会学校は、「聖書教育」誌に基づいて旧約聖書・マラキ書から、共に聖書の学びと交わりを行います。


主日礼拝を10時半から行います。

礼拝では、新約聖書・ルカ福音書23章26~31節より、「強いられた恵み」と題して、原田牧師より説教をいただきます。


礼拝の中で、小学生以下の子どもたちの健やかな成長を願い祈る子ども祝福式を行います。


写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。


キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


礼拝後、昼食会(有料/自由参加)があります。

昼食会の後、各会例会を行います。




11月17日(日) ダニエル書8章

「日が暮れ、夜の明けること二千三百回に及んで、聖所はあるべき状態に戻る。」 ダニエル書8章14節

 ベルシャツァル王の治世第3年、即ち紀元前551年ごろに、ダニエルは再び幻を見ました(1節)。初めの幻が「ベルシャツァル王の治世元年」(7章1節)で、その2年後に次の幻を見たということで、8章を7章につなげているわけですが、日本語の読者には分からない違いがあります。それは、7章までアラム語で記されていましたが、8章からヘブライ語になることです。

 このときにダニエルが見たのは、エラム州の都スサのウライ川の畔で(2節)、一頭の雄羊が川岸に立っているという幻です(3節)。スサは、ペルシア帝国の冬の首都で、歴代の王が住んでいたところです(ネヘミヤ記1章1節、エステル記1章2節も参照)。

 雄羊は二本の長い角を持っており(3節)、それは20節でメディアとペルシアの王のことであると説明されています。つまり、ベルシャツァル王が殺され(5章30節参照)、バビロン帝国がメディアとペルシアにとって代わられることを示しています。

 ただし、メディア王国は、バビロンが滅びる前の紀元前550年に、ペルシア王キュロスによって滅ぼされています。ということから、このメディアとペルシアの王とは、ペルシア帝国の王ということになります。

 その後、雄山羊が雄羊を打ち倒します(5~7節)。雄山羊は21節でギリシアの王のことと説明されており、マケドニア王国の大王アレキサンダーを指していると思われます。その後に、非常に強大な王が現れます。「一本の小さな角が生え出て、非常に強大になり」(9節)とは、そのことです。それは、セレウコス朝シリアの王アンティオコス・エピファネスを指していると考えられます。

 ダニエルは、その角が「麗しの地」へと力を伸ばすのを見ました(9節)。「麗しの地」とはイスラエル、就中エルサレムを指しています。「天の万軍に及ぶまで力を伸ばし、その万軍、つまり星のうちの幾つかを地に投げ落とし、踏みにじった」(10節)とは、帝国内の諸宗教とその祭儀にアンティオコスがなした攻撃を指していると考えられます。

 アンティオコスは日ごとの供え物、即ちモーセの律法に規定されている朝夕の供え物(出エジプト記29章38節以下)を廃し、その聖所を倒しました(11節)。エルサレム神殿の祭壇を破壊し、そこに異教の神の祭壇を立てて冒涜したのです。

 エピファネスとは、神が現れるという意味ですから、彼は傲慢にも自らを神の座に置く称号をつけていたわけです。そして、エルサレムの神殿で異教の神々を礼拝することを強要されたために、イスラエルの民は苦しめられました。

 それはそうと、アンティオコスが王位についたのは紀元前175年ですから、ダニエルはずいぶん先のことを幻で見ていることになります。これは、知者として名高いダニエルの名を借り、バビロンやペルシアの王になぞらえて、シリアの王アンティオコスに苦しめられているイスラエルの民に向かい、神の言葉を伝えようとしているわけです。

 しかしそれは、捕囚の憂き目を見たイスラエルは、捕囚からの解放後もずっと苦難の道を歩んで来たということを示しています。一難去ってまた一難と言わんばかりです。古くはエジプト、アッシリア、バビロン、次いでペルシア、それからギリシア、そしてシリア、その後にローマがパレスティナを支配します。

 ですから、イスラエルの民は、自らの手で完全な独立自治を勝ち取りたいと願い続けます。主イエスが登場してきて、その奇跡を目の当たりにした群衆が、主イエスを王に推し立てようとしたのも、その現れです(ルカ福音書19章38節、ヨハネ福音書6章15節など)。

 しかし、そのような願いはなかなか実現されません。紀元70年にローマ軍によってヘロデの神殿を破壊されてからは、今日に至るまで、自らの神殿さえ持つことも出来ないままでいます。現在、エルサレムはイスラム教の聖地とされ、ヘロデの神殿跡にイスラム教の神殿(金のドームと岩のドーム)が建てられています。

 ただ、もうひとつ大切なメッセージがあります。それは、苦難は永遠のものではないということです。「いつまで続くのか」という問いに対して(13節)、冒頭の言葉(14節)のとおり、「日が暮れ、夜が明けること二千三百回に及んで、聖所はあるべき状態に戻る」という答えがありました。

 「日が暮れ、夜が明けること」で2回とカウントすると2300回は1150日、つまり三年余ということになり、7章25節の「一時期、二時期、半時期」、すなわち3年半と符合することになります。「7」が完全数で、その半分ということですから、文字通り三年半というよりも、苦難はいつまでも続かないという意味と考えればよいでしょう。

 イスラエルの民はこのメッセージを受け止め、今でも神による国と神殿の再建を堅く信じているわけです。どんな状況であっても主に信頼し、御言葉の成就を待ち望む信仰を、私たちも学びたいと思います。

 パウロは、「だから(復活の信仰のゆえに)わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(第二コリント書4章16,17節)と言いました。

 パウロが同11章23節以下に彼が味わった苦難がリストアップされていますが、それは、「軽い艱難」とはおよそ思われません。けれども、それを「軽い」と言わしめるほどに、彼の心には復活の命に与る希望が満ち、そのときに受ける永遠の栄光に比べれば、艱難は「一時」のことと言い得たのです。

 どんなときでも、主に信頼し、御言葉の成就を待ちつつ、主を仰ぎ、賛美と祈りを御前にささげて参りましょう。

 主よ、どうか私たちの悩みに目を留め、苦しみから解放してください。暗闇に真実と愛の光を灯してください。私たちの主こそ、真実であり、また希望と慰めの源だからです。どんなときにも主を信頼し、御言葉は必ず実現することを信じ待ち望む者としてください。御業のために用いてください。御名があがめられますように。 アーメン



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