風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2019年11月

11月30日(土) ホセア書9章

「彼らの悪はすべてギルガルにある。まさにそこで、わたしは彼らを憎む。その悪行のゆえに、彼らをわたしの家から追い出し、わたしは、もはや彼らを愛さない。」 ホセア書9章15節

 1節に「イスラエルよ、喜び祝うな」とあります。5節の「祝いの日、主の祭りの日に、お前たちはどうするつもりか」という言葉で、イスラエル建国を祝う三大祭に、ホセアが「喜び祝うな」と叫んでいるということが分かります。それは、イスラエルの民が自分の神を離れて姦淫しているからです(1節)。

 それで、「彼らは主の土地にとどまりえず、エフライムはエジプトに帰り、アッシリアで汚れたものを食べる」(3節)と告げられます。かつて、イスラエルはエジプトの奴隷状態から解放され、約束の地に来ました。エフライムがエジプトに帰るとは、再び奴隷とされるということ、アッシリアで汚れたものを食べるとは、アッシリアの奴隷とされて屈辱のパンを食べさせられるということです。

 ホセアのこのような宣告が、イスラエルの民に受け入れられることはなかったようです。むしろ、「預言者は愚か者とされ、霊の人は狂う」(7節)と言われるように、彼は愚か者と言われ、はたまた狂人扱いをされたのです。それゆえ、裁きを刈り取ることになってしまいます。

 冒頭の言葉(15節)に「彼らの悪はすべてギルガルにある」とあります。「ギルガル」という地名が出て来たのは、本書中これが2回目です。初出の4章15節では「お前が遊女であっても―ユダは罪を犯すな―ギルガルに赴くな、ベト・アベンに上るな」と言われていました。

 「ベト・アベン」とは「不義、邪悪の家」という意味で、そこに異教の神が祀られていることを示しています。あるいは、ヤロブアムが「ベテル(「神の家」の意)」に金の子牛像を置いて拝むようにさせ、歴代の王がその罪を離れなかったということから、ホセアはベテルのことを「ベト・アベン」といっているのかも知れません(10章5節も参照)。

 その関連で、「遊女」というのは、神殿娼婦のことでしょう。ギルガルとベト・アベンが並べられているということは、ギルガルにも異教の神が祀られ、神殿娼婦による淫行が行われていたものと考えられます。実際、12章12節(口語訳、新改訳は11節)に「ギルガルでは雄牛に犠牲をささげている」と記されています。

 また、ギルガルはイスラエル初代の王サウルが、アマレクを滅ぼし尽くせとの命令に背いて上等のものを惜しんでとっておき、主への供え物としようとした場所(サムエル記上15章9,12節など)、それゆえ王位から退けられることになった場所です(同11,23節)。

 主の命令に背くことについて同23節に「反逆は占いの罪に、高慢は偶像崇拝に等しい」と言われています。占いや偶像礼拝は主なる神の忌み嫌われることですから(申命記16章21節以下、18章9節以下など)、冒頭の言葉のとおり、「まさにそこで、わたしは彼らを憎む」と言われるのです。

 ギルガルは、かつてエジプトを脱出したイスラエルの民が、モーセの後継者のヨシュアに率いられ(ヨシュア記3章1節以下)、祭司らの担ぐ契約の箱に先導されて(同6,11,14節)ヨルダン川を渡り(同16,17節)、約束の地カナンに入って最初に宿営した場所です(同4章19節)。

 主なる神はヨシュアにヨルダン川で12の石を拾わせ、宿営した場所に据えさせました(同3,8節)。それは、「ヨルダン川の乾いたところを渡った」(同22節)と子供らに教えるためであり、「地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためで」(同24節)です。

 そして同5章9節に「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた」と主は言われていました。ここで、「取り除く」と訳されているのが「ガーラル」という言葉で、そこから「ギルガル」という地名が生まれたということになっています。

 そのような主の御業を記念する大切な場所に、イスラエルの民は異教の神々の祭壇を築いていけにえをささげ、神殿娼婦たちによる淫行を行っていたのです。「まさにそこで、わたしは彼らを憎む」(15節)というのは、このことを言っているのです。イスラエルの恥辱が取り除かれた場所、救いの御業が実現した場所が、主の憎まれる場所、民が主に捨てられる場所となったのです。

 10節に「荒れ野でぶどうを見いだすように、わたしはイスラエルを見出した。いちじくが初めてつけた実のように、お前たちの先祖をわたしは見た。ところが、彼らはバアル・ペオルに行った」とあります。バアル・ペオルは、モアブの地にある町です。ペオルは、モアブで礼拝されている神で、民数記25章3,5節に「ペオルのバアル」と記されています。

 エジプトを脱出した民が、モアブの娘たちと異教の神の儀式に加わり、主の怒りを招きました(同1節以下)。つまり、イスラエルの民は、エジプトを脱出し、約束の地に到着する以前から、主に背く者たちだったわけで、その意味で「彼らの悪はすべてギルガルにある」ということは、約束の地に入ったとき、その初めから彼らは偶像礼拝の罪を犯していたということでしょう。

 上述のとおり、ギルガルはイスラエルの初代の王サウルが即位したところです。そのこと自体に問題があるというわけではありませんが、イスラエルの民が王を立てるように求めたことについて、サムエルの目には悪と映ったと告げられておりました(同8章6節)。

 さらに、サムエルの祈りに主が、「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった」(同7,8節)と言われています。

 8章4節で「彼らは王を立てた。しかし、それはわたしから出たことではない」と言われていましたが、それは、サムエル記上8章の出来事を指しているということも出来ます。

 私たちはどなたを王としているのでしょうか。どなたの言葉に耳を傾け、どなたの言葉に従って歩んでいるのでしょうか。絶えず心の王座を主イエスに明け渡して、王の王、主の主として拝し、その御言葉に聴き従って参りたいと思います。

 主よ、私たちは常にあなたの助けと導きを必要としています。あなたなしに生きることは、到底出来ません。あなたこそ私たちの神、あなたこそ私たちの王です。どうぞ私たちの心の真ん中においでくださり、瞬間瞬間、私たちの人生を導いてください。そうして、あなたの望まれるとおりの者とならせてください。 アーメン



11月29日(金) ホセア書8章

「彼らは風の中で蒔き、嵐の中で刈り取る。芽が伸びても、穂が出ず、麦粉を作ることができない。作ったとしても、他国の人々が食い尽くす。」 ホセア書8章7節

 1節で「角笛を口に当てよ」と言われます。角笛は、町に危険が迫っていることを警告する警笛として、城壁の上で吹き鳴らすものです。5章8節に「ギブアで角笛を、ラマでラッパを吹き鳴らせ」と預言されていたので、ここに再度警告されたということでしょう。ということは、5章8節以下の預言からほど遠くない時期に語られたものと思われます。

 預言者ホセアはこのとき、櫓の上にいる見張り役として、「鷲のように主の家を襲うものがある」ので、警笛を吹き鳴せと主なる神から命じられているのです。申命記28章47~57節によれば、外敵の来襲を「鷲」に準えています。つまり、イスラエルに外敵来襲の危機が迫って来ているわけです。

 それは、彼らが主なる神の契約を破り、律法に背いているからでした(1節)。それにも拘わらず、「わが神よ、我々はあなたに従っています」(2節)というのは、主の恵みを自ら退ける偽善の罪です(3節)。「恵み」と訳されているのは、「善」(トーブ)という言葉です。だから、「敵に追われるがよい」と言われるわけです。

 また、主なる神によらず王を立て、高官たちを立てました(4節)。それは、主の指導には従わないということでした。そして、金銀で偶像を造りました。それは、主に禁じられた偶像礼拝を行っているということです(4~6節、出エジプト記20章3~5節)。

 「お前の子牛を捨てよ」(5節)とは、ヤロブアムがベテルとダンに金の子牛像を置いてそれを拝ませたことを思わせます(列王記上12章28節以下)。その後、アハブが北イスラエルの首都サマリアにさえバアルの神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築きました(同16章31,32節)。ホセアはサマリアに子牛像が置かれていたことを明らかにしているのです(5,6節)。

 冒頭の言葉(7節)に「彼らは風の中で蒔き、嵐の中で刈り取る」と記されています。イスラエルにおける種蒔きは、わが国のそれとはかなり違っています。畑を耕し、畝を起こして、一粒でも無駄にならないように丁寧に蒔くというのではありません。

 種の入った袋を振り回して一帯に種を蒔き散らした後、そこを耕すというやり方をするのだそうです。遠くまで種を蒔くためには、少々風が吹いていたほうが都合がよかったでしょう。「風の中で種を蒔き」とは、そのことです。

 そういう蒔き方をすれば、主イエスが種まきのたとえで語られたように(マルコ福音書4章1節以下)、あるものは道端に落ち、あるものは石地に落ち、またあるものは茨の中に落ちたというのは、さもありなんということになります。多くの種が蒔かれたところが耕されて、そこがよい畑となるわけです。よい地に落ちた種は、30倍、60倍、100倍の実を結びます。

 しかし、「嵐の中で刈り取る」ということは、せっかく種が芽を出し実っても、収穫前に嵐が来れば、すべてが無駄になってしまう、すべての労苦が水の泡となってしまうということでしょう。これは、イスラエルの人々は国際情勢の風を読みながら、うまく舵取りが出来ているように思っているかもしれないこと、しかしながら、それが一切無駄になってしまうということを示しているようです。

 ただし、原文を直訳すると、「彼らは風を蒔いて、嵐を刈り取る」という言葉になります(口語訳、新改訳、岩波訳も参照)。コヘレトの言葉1章14節に「わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった」という言葉があり、風を追うことは空しいことと言っています。

 「風」を蒔くことは、風を追うことと同様、何の助けにならない空しいことだということです。だから、「嵐」に象徴される「滅び」を刈り取ることになるのです。たとえ、「(麦粉を)作ったとしても、他国の人々が食い尽くす」ということで、自分たちの努力が無駄になるというより、他国に奪い去られることを明示しています。

 7章11節に「エフライムは鳩のようだ。愚かで、悟りがない。エジプトに助けを求め、あるいは、アッシリアに頼って行く」と記されていました。それは、真の造り主を忘れ、その保護をあてにしないことです(14節)。エジプトに助けを求め、アッシリアに頼ることは、まさに風を追っているようなもので何の力にもならず、最後は時代の嵐に飲み込まれてしまいます。

 かつて栄えたエジプトやアッシリア、バビロン、ペルシア、ギリシア、ローマ、また、蒙古、大英帝国など、どの国が人類の希望となれるでしょうか。どの国が究極的な救いを保障してくれるでしょうか。

 人の力に頼るのは空しいことです。人は誰も、自分ひとりを救うことさえ出来ません。あなたを、私を救ってくれるのは、主イエス・キリストだけです。真の主を信じ、真の主に依り頼みましょう。日々の生活の中で、主を仰ぎ、主に従う道を歩み、確かな実を収穫することが出来るようにしていただきましょう。

 主よ、導きを感謝します。私たちにはもはや、罪の償いの祭壇は必要ありません。主イエスの十字架という確かな祭壇が、主ご自身によって打ち立てられたからです。私たちは十字架の主を仰ぎます。御言葉に耳を傾けます。どうぞ、御霊に満たしてください。あなたの御言葉がこの身になりますように。 アーメン



11月28日(木) ホセア書7章

「なんと災いなことか。彼らはわたしから離れ去った。わたしに背いたから、彼らは滅びる。どんなに彼らを救おうとしても、彼らはわたしに偽って語る。」 ホセア書7章13節

 預言者ホセアは、淫行の女性を妻としてめとり(1章2節)、夫に愛されていながら姦淫を犯す妻を愛せよと、再び主に命じられました(3章1節)。そのようにして、神に背いて偶像礼拝の罪を犯し続けるイスラエルを愛し続けてくださる主なる神の、深い愛と憐れみを知ったのです。

 ホセアの目には、淫行を続ける妻と主に背き続けるイスラエルが、二重写しになっているのでしょう。そして今ホセアは、自分と主とを重ね合わせながら、1人称の「わたし」という言葉で、主のメッセージを語っています(6章11節以下)。主は繰り返し、イスラエルを御自分に立ち帰らせ、神の民を回復しようと働きかけておられます(6章11節、7章1,13,15節)。

 しかし、冒頭の言葉(13節)のとおり、イスラエルは主から遠く離れ去り、主の招きに応えようとはしません。応えても、それは偽りでした(6章1節以下、4節参照)。異教の神々の儀式を行い、主には背を向けています(14節)。悪事を企みます(15節)。ねじれた弓のように空しいものに向かいます(16節)。

 この預言がホセアによって語り出されたのは、紀元前733年頃、アッシリアの支配に対抗するため、北イスラエルはアラム(=シリア)と同盟し、親アッシリア政策をとる南ユダに侵略するという状況です(列王記下16章5節以下)。

 その危機にユダの王アハズはアッシリアに援軍を求め(同7節)、アッシリアの王ティグラト・ピレセルはすぐに援軍を送ってアラムの首都ダマスコを占領し(同9節)、北イスラエルにも攻め入って、イヨン、アベル・ベト・マアカ、ヤノア、ケデシュ、ハツォル、ギレアド、ガリラヤ、およびナフタリの全地方を占領し、住民を捕囚としました(同15章29節)。

 このようにイスラエルを取り巻く事態は確実に悪くなって来ているのに、民は主を尋ね求めようともしません。それは、高慢だからと言われます(10節)。また、鳩のように愚かで悟りがないからだと言われます(11節)。

 「鳩」(ヨナ)について、岩波訳の脚注に「鳩は愛の女神イシュタルの聖なる鳥で、その鳴き声が愛のささやきとも嘆きの声とも解釈されていたという」と記されています。異教の神や異国の力に頼ることの愚かさを言っているわけです。

 「悟り」は「心」(レーブ)という言葉ですが、口語訳は「知恵」、新改訳、岩波訳などは「思慮」と訳しています。鳩が思慮、知恵を持たない鳥かどうかは分かりませんが、あるイスラエルの王はアッシリアに頼って自国を強くしようとし(列王記下15章19節)、またある王はエジプトを後ろ盾にするといったように、一貫性を持ちません。

 そうして、結局、自ら滅びを招いてしまうのです。冒頭の「なんと災いなことか」という言葉からは、諦めにも似た主なる神の悲しい思いが伝わって来ます。

 確かに神は、イスラエルの民が自ら方向転換してご自分のもとに返ってくることは、諦められたのかもしれません。しかし、それで人を救うことを諦められることはありませんでした。神は、人が心に思うことは、幼いときから悪いということを承知の上で、ゆえに人を大地から消し去ろうというのではなく、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」(創世記8章21節)と決心されるお方なのです。

 それはしかし、人の悪い行いには目をつぶり、人の悪を見ても見ないことにするということではありません。罪には裁きがあります。主は聖なる方、義なるお方です。罪を見過ごしにはなさいません。

 しかしながら、主なる神は、その裁きを私たち罪人に対してではなく、ご自分の独り子キリストの上に下し、十字架にかかられた主イエスの命の代価によって私たちを贖い、その罪を赦そうとお決めになったのです。贖いの血が流されることなしには罪の赦しはあり得ないからです(ヘブライ書9章22節)。

 ローマ書3章23,24節に「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただ、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」とあり、ガラテヤ書3章23節で「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は、皆呪われている』と書いてあるからです」と語られます。

 これは、まったく一方的に与えられた神の恵みです(エフェソ書2章8節)。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(第一テモテ書2章4節)。ここに、神の愛があります(第一ヨハネ書4章10節)。

 キリストを信じる信仰とは、この神の愛を受け止めることです。そして、神に感謝することです。そして、神を愛することです。主が「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」(6章6節)と告げられるとおりです。

 今日も、神は私たちを助け導いてくださいます。その神の御言葉を聞いたときに、心を頑なにせず、「はい」と答えて従いたいと思います。心の真ん中に主イエスを迎え、主の御心を絶えず中心に受け止めたいと思います。「愛」という漢字は、「心」を真ん中に「受ける」と書きます。神の愛を頂き、神を愛する者とならせて頂くのです。

 前からも後ろからも私たちを囲み、御手を私たちの上に置いていてくださる主に、いつも感謝しましょう。御手をもって私たちを導き、右の御手をもって私たちを捕らえてくださる主に従って歩みましょう。  

 主よ、絶えず御顔を慕い求め、主の御言葉に耳を傾けることが出来ますように。その深い御旨を悟ることが出来ますように。御言葉と御霊の御導きに従うことが出来ますように。そうして、主の御心がこの地になされるために用いられますように。 アーメン




11月27日(水) ホセア書6章

「二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。」 ホセア書6章2節

 1節に「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる」という悔い改めの言葉が記され、3節で「我々は知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる」(3節)と、信仰を表わす言葉を告げます。

 何がイスラエルの民に、悔い改めの言葉を口にさせたのでしょうか。これまで語られて来たイスラエルに対する裁きの言葉(4,5章参照)に恐れをなしたのでしょうか。それとも、「わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め、苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで」(5章15節)という御言葉に応答したということなのでしょうか。

 しかしながら、4,5節に「お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ。それゆえ、わたしは彼らを、預言者たちによって切り倒し、わたしの口の言葉をもって滅ぼす。わたしの行う裁きは光のように現れる」(4,5節)と告げられます。

 新共同訳は、1節から6節までの段落に「偽りの悔い改め」という小見出しをつけています。3節までの悔い改めの言葉を真実と認めず、その場しのぎの口先だけの言葉だと断じ、その不実のゆえに滅ぼすと主なる神がつげでおられる言葉だと解釈するのです。

 ホセアが預言者として働いた時代、ヤロブアム2世を筆頭に、ゼカルヤ、シャルム、メナヘム、ペカフヤ、ペカ、ホシェア、計7人の王たちの生涯が、列王記下14章27節以下に短く紹介されています。

 その治世が1ヶ月と短かったシャルムを除き、ほかの6人の王たちは「彼は主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪を離れなかった」と評されています(同14章24節、15章9,18,24,23節、17章2節)。

 主イエスが弟子たちに、「あなたがたは皆わたしにつまずく」と話されたとき(マルコ福音書14章27節)、ペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(同29,31節)と答えました。

 それは、本心であったと思います。けれども、弟子たちは、ゲッセマネで捕らえられた主イエスを見捨てて逃げてしまい(同50節)、ペトロも翌朝を迎えるまでに、「そんな人は知らない」と三度も、最後には呪いの言葉さえ口にしながら、主イエスとの関係を否定してしまい(同68,70,71節)、結果的に、ペトロの答えがその場しのぎの口先の言葉ということになってしまいました。

 そしてそれは、他人事ではありません。実際に口でそのように言うことはなくても、私たちの行動や態度で、およそ「イエスなど知らない」と語り続けているのではないでしょうか。そのような私たちのために主イエスが十字架に死に、私たちの信仰がなくならないように祈ったと仰せくださいます。その祈りと深い愛の御業によって守り、支えられている私たちです。

 イスラエルの人々は冒頭の言葉(2節)のとおり、「二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる」と語りました。なぜ二日の後に生かされると語り得たのでしょう。「三日目に立ち上がらせてくださる」とは、何を根拠にしたものでしょう。「苦しみの短からんことを」という期待を込めた言葉なのでしょうか。

 4節以下を見ると、主はこの言葉を民の真実な悔い改めと信仰の言葉として聞かれたとは思われません。にも拘らず、この言葉は重要な意味を持っています。パウロが、この言葉を念頭において、「聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(第一コリント15章4節)と記しています。つまり、この言葉を主イエスの復活の預言と解釈したわけです。

 主イエスの復活、それは主の贖いの業の完成であり、それにより、救いの道が開かれたということです。イスラエルの民の願い、偽りの悔い改めと断じられたその言葉が、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して成就したことになります。まさに、すべてのことは益となるということを明示している出来事です。そして、ここに主なる神の深い憐れみ、真実な愛があります。

 私たちに思いを起させ、実現に至らせてくださる主の御言葉に耳を傾け、その御心に従って歩む者とならせて頂きましょう。

 主よ、深い愛と憐れみをもって私たちを守り導いてくださることを感謝します。絶えず、「我々は知ろう、主を知ることを追い求めよう」と語らせ、全身全霊をもって真実に神を愛することを学び、実行させてください。弱い私たちを助け、常に信仰に立つことが出来ますように。 アーメン



静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に11月24日(日)主日礼拝プログラムと礼拝説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」「フォトギャラリー」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。


御覧ください。



また、11月28日(木)①10時から11時半、②19時~20時、バプテスト静岡教会で聖書の学びと祈り会を行います。
聖書日課に基づいて、聖書を学んでいます。
28日は旧約聖書・ホセア書7章を読み、学びます。

よろしかったらお出かけください。



11月26日(火) ホセア書5章

「彼らは羊と牛を携えて主を尋ね求めるが、見いだすことはできない。主は彼らを離れ去られた。」 ホセア書5章6節

 5章の前半(1~7節)には、北イスラエルに対する審判が語られています。後半(8節以下)には、南ユダと北イスラエル、両王国の罪を裁く言葉が記されています。ホセアは、北イスラエルの預言者として、主の言葉を語っているわけですが、南ユダも神の裁きから無縁でいられないのです。

 1,2節に、ミツパ、タボルの山、シッテムという地名が挙げられています。ミツパは「見張り所」という意味で、イスラエルに何箇所か、その名で呼ばれる場所がありますが、この箇所では、ベニヤミン族に割り当てられ(ヨシュア記18章26節)、サムエルが断食と祈りのために民を招集した(サムエル記上7章3節以下)、南ユダとの国境近くにある町のことでしょう。

 タボル山はガリラヤ湖の西方約20km、イズレエル平原の北東端にある標高588mの山です。周囲にこれに並ぶ山はなく、ヘルモン山などと並び称されることもあります。後に、主イエスの姿代わりのした山であるという伝説が生まれました。その伝説に基づいて、コンスタンティヌス帝の母ヘレナが教会堂を建てました。

 シッテムは死海の北東部、エリコの対岸に位置する町で、出エジプトの民がヨルダン川を渡って約束の地に入る前、最後に宿営したところです。宿営中、彼らがモアブの娘たちに従ってペオルのバアルを慕ったので、主が憤られて、背信の者たちを撃たせるという出来事がありました(民数記25章1節以下)。

 「シッテム」には「反逆者、反抗者」という意味があり、新改訳はこれを「曲がった者たち」、岩波訳は「反逆する者たち」と訳しています。神に従うように指導すべき者が、道を曲げ、主に逆らって異教の偶像礼拝に誘っていると解釈しているわけです。

 このように三つの地は、北イスラエルの南と北と東の場所を示しています。そして、罠、網、深く掘った穴という言葉で表現されているように、そこに異教の神々を祀る礼拝場所が設けられ、民を惑わし、陥れていたのです。そして、異教の礼拝がその三箇所だけでなく、東に南に北に広がり、北イスラエルの全地で行われていたことを示していると考えられます。

 冒頭の言葉(6節)に、「彼らは羊と牛を携えて主を尋ね求めるが」とあります。異教の礼拝を行いつつ、主への礼拝も続けられていたのです。それは、国の安全を求め、家庭の平和を求め、生活の豊かさを得るため、手当たり次第、何でも拝むということです。イスラエルの主なる神を信じ頼リ切ることが出来ず、より確かな安全保障を得ようと、カナンの神々をも礼拝しているのです。

 主なる神は、「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」(出エジプト記20章3~5節)と告げておられます。

 それは、主なる神がエジプトで奴隷とされているイスラエルの民を憐れみ、そこから導き出され(同2節)、彼らをすべての民の中で主の宝とされたからであり、彼らが主の熱情(愛)に応えて、主の声に聴き従い、契約を守って、主にとって祭司の王国、聖なる国民となることが期待されているわけです(同19章5,6節、同20章5,6節)。

 けれども、イスラエルの民はその命令に背いて異教の神々の像を造り、神殿に祀り、拝んでいたのです。祭司たちや王の家の者たちも、それを止めさせるどころか、神に逆らって、自ら落とし穴を大きくするという役割を果たしていたわけです(1,2節)。

 そうしながら、羊と牛を携えて主を尋ね求めたということは、いけにえを献げれば、偶像礼拝の罪を赦してもらえるとでも思っていたということでしょうか。むしろ、そのように主なる神に頼りつつ、前述のとおり他の神々の御利益にも期待していた、あれもこれもに保険をかけたつもりなのではないでしょうか。

 主なる神を信じ、仕えるとは、羊と牛を携えて来ることではありません。主の御言葉を聴いて行うこと、主に従うことです(エレミヤ書7章23節)。ですから、主なる神は彼らの生け贄を喜ばれず、彼らから離れ去ってしまわれたのです(6節)。

 そのことが、8節以下「戦争の罪と罰」の段落において、「懲らしめの日が来れば、エフライムは廃墟と化す」(9節)、「エフライムは蹂躙され、裁きによって踏み砕かれる」と、具体的に告げられています。

 「ギブアで角笛を、ラマでラッパを吹き鳴らせ。ベト・アベンで鬨の声をあげよ」(8節)とは、南ユダ王国との国境線から侵入してくる者たちのために警戒警報をならせということです。侵入してくるのは南ユダの軍隊で、10節の「ユダの将軍たちは国境を移す者となった」もそれを示しています。

 ホセアの活動中、南ユダと戦争を構える事態というのは、北イスラエルの王ペカがアラムの王レツィンと連合してユダを攻めようとしたときのことです(列王記下16章5節以下)。そのとき、ユダの王アハズはアッシリアの王ティグラト・ピレセルに援軍を求め、アッシリアの王はそれに応じてダマスコを占領し、イスラエルとアラムの連合軍は瓦解しました。

 ホセアの預言は、北イスラエル王国が北からアッシリアに、南からはユダに脅かされ、やがて滅ぼされることを告げていますが、その原因が北イスラエルの背信にあること、それゆえ、主なる神が真の敵となられたということを示しているのです。 

 しかし、主なる神は彼らを断罪し、滅ぼし尽くそうとしておられるわけではありません。16節に「わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め、苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで」と言われます。主は、彼らが悔い改めること、真実に主を尋ね求めることを願っておられるのです。

 私たちも、「論語読みの論語知らず」ならぬ「聖書読みの聖書知らず」という者にならないように、御言葉を聞いても行わない者とならないように、日々御言葉に耳を傾け、主の御心に従って歩んで参りましょう。

 主よ、日毎にあなたを畏れることを学び、御言葉に耳を傾け、御心に従って忠実に歩ませてください。御霊の力を受け、その導きにしたがって御名の栄光を常に賛め称えつつ、周囲の人々に主イエスの恵み、神の愛を証しすることができますように。 アーメン



11月25日(月) ホセア書4章

「わが民は知ることを拒んだので沈黙させられる。お前が知識を退けたので、わたしもお前を退けて、もはや、わたしの祭司とはしない。お前が神の律法を忘れたので、わたしもお前の子らを忘れる。」 ホセア書4章6節

 4章以降は、3章までとはうって変わって、イスラエルを裁かれる主の言葉が記されています。1節に「主の言葉を聞け」と記されていますが、「主の言葉」というのは、この箇所と、1章1節の2箇所に出て来るだけです。即ち、「主の言葉」が、3章までの第一部と、4章以下の第二部を始める合図、鍵言葉になっているわけです。

 第一部では、預言者ホセアの結婚生活に関係する言葉で、イスラエルの回復と救いを告げていたのに対し、第二部は、イスラエルの罪を法廷で告発するような言葉になっています。これは、回復と救いの言葉を告げたけれども、思い返して、やはり裁くことにしたということではありません。

 第一部で回復と救いの言葉が告げられていますが、イスラエルはいかなる罪を犯して神に裁かれたのか、そして、どんな罪の呪いから解放され、回復と救いが与えられるのかを明らかにするために、第一部を補足する目的で、第二部が記されていると考えるべきでしょう。

 主がイスラエルの罪を告発して、「この国には、誠実さも慈しみも、神を知ることもない」(1節)と言われます。誠実さと慈しみは、主と民との関係、民同士の関係の真実さ、愛情の深さを示すものです。「呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり、流血に流血が続いている」(2節)というのは、誠実さも慈しみもないことの明白な証拠です。

 冒頭の言葉(6節)でホセアは、「お前が知識を退けたので、わたしもお前を退けて、もはや、わたしの祭司とはしない」と語っています。ここに言われている「知識」とは、1節で「神を知ることもない」と言われているように、主を知る知識のことです。そしてそれは、主を畏れる知恵のことと言ってよいでしょう(箴言1章7節参照)。

 「わが民は知ることを拒んだので」と言われていますから、祭司には、主の御言葉を人々に教える務めがありましたが、民はそれを聞こうとしなかったということです。それだけでなく、「お前が知識を退けたので」と言われていますので、祭司自ら、主の御言葉を聞こうとしなかった、神への畏れを失ってしまっていると断罪されているのです。

 「知識を退けた」ということについて、8節に「彼らはわが民の贖罪の献げ物をむさぼり、民が罪を犯すのを当てにしている」と記されています。これは、サムエル記上2章12節以下で、シロの祭司エリの息子たちが犯していた罪と同様です。おのが腹を満たすため主への供え物を軽んじ、神を侮ったので(同2章17,30節)、エリの家に裁きが下りました。

 特に、「淫行にふける」(10節)という表現で、異教の神々を祀る偶像礼拝に民を巻き込む罪が告発されています。ネバトの子ヤロブアムの罪(列王記上12章28節以下、13章33節)が、彼に続く王たちから祭司、民に至るまで浸透していて、神が遣わされる預言者の声に耳を貸そうとしなかったということです(同17章7節以下)。

 それを「ぶどう酒と新しい酒は心を奪う」(11節)、「淫行の霊に惑わされ、神のもとを離れて淫行にふけり」(12節)、「彼らは酔いしれたまま、淫行を重ね」(18節)、「欲望の霊は翼の中に彼らを巻き込み、彼らはいけにえのゆえに恥を受ける」(19節)という言葉で言い表しています。

 「沈黙させられる」(ダーマー:6節))と訳されている言葉は、「止める、止めさせる、破壊される、荒廃する」という意味の言葉で、口語訳は「わたしの民は知識がないために滅ぼされる」、岩波訳も「あなたが知識を捨てたので、わたしの民は無知のために滅ぼされる」と訳しています。イスラエルが滅ぼされるのは、彼らが主の知識を退け、主の教えを拒んだからだというのです。

 それを「沈黙させる」(5節)、「沈黙させられる」(6節)と訳すのは、詩編の「国々の偶像は金銀に過ぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない」(詩編115編4,5節)、「偶像を造り、それに依り頼む者は皆、偶像と同じようになる」(同8節)という言葉から、神の裁きを受けて、口のきけない偶像と同じようにされたと考えたらよいのでしょう。

 私たちは、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」(第一ペトロ2章9節)。私たちには、主を知ること、すなわち神の子として主と深く交わることの出来る恵みと特権が与えられており(ヨハネ福音書1章12節参照)、そして、主の愛と恵みを証しする務めに立てられています。

 知識がないために滅ぼされるということがないように、知識を捨てたので退けられるということがないように、知ることを拒んで沈黙させられることがないように、御言葉を忘れて主に忘れられるということがないように、日々主の御言葉に耳を傾け、導きに従って歩みましょう。

 主よ、私たちの歩みの上に、主の恵みと慈しみが絶えず豊かにありますように。御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩むことが出来ますように。御霊に満たされ、主の証人として御業に励むことが出来ますように。御心がこの地に行われ、いよいよ御名が崇められますように。 アーメン




11月24日(日)主日礼拝説教

11月24日(日)の主日礼拝は、日本バプテスト世界祈祷週間のアピールなどを行う特別な礼拝でした。
礼拝には、教会員15名、来賓9名(子ども1名)がお見えになりました。
感謝です。



主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「時が来れば実現する」
聖書 ルカ福音書1章1~25節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師


ご覧ください。








11月24日(日)主日礼拝案内

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11月24日(日)は、教会学校小学科(小学生)、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
教会学校は、「聖書教育」誌に基づいて旧約聖書・マラキ書から、共に聖書の学びと交わりを行います。


主日礼拝を10時半から行います。

礼拝では、新約聖書・ルカ福音書1章1~25節より、「時が来れば実現する」と題して、原田牧師より説教をいただきます。


礼拝の中で、世界祈祷週間のアピール、国外伝道の報告を行います。


写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。


キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


礼拝後、信徒会を行います。

昼食の用意はありません。




 

11月24日(日) ホセア書3章

「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」 ホセア書3章1節

 冒頭の言葉(1節)のとおり、主の言葉が再び預言者ホセアに臨みました。同じような言葉が1章2節にもあり、そこで「淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ」と命じられていましたが、ここでは「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ」と言われています。

 1章と3章の間に15~20年という時間を想定し、離婚した妻をもう一度愛し受け入れよという命令だと解釈している学者があります。あるいはまた、1章の妻と離婚した後、別の姦淫している女性を愛せよとの命令だとする解釈もあります。

 いずれにせよ、ホセアがそう命じられるのは、「イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛される」(1節)からです。ここで「干しぶどうの菓子」は、エレミヤ書7章18節にある天の女王のために献げられた菓子のように、異教の神々の礼拝と結び付いたものです。

 1章に言われた淫行の女、「ディブライムの娘ゴメル」の「ディブライム」について、岩波訳の脚注に「『二つの干し無花果の菓子』の意。干し無花果は干し葡萄と並ぶ菓子であった(サム上25・18,30・12,代上12・41参照)。売春婦の価が二つの干し無花果菓子の値であったという理解もあり、しばしば豊穣儀礼で使われたとされる」とあります。

 ホセアは、銀15シェケルと、大麦1ホメルと1レテクを払って、その女性を買い取りました(2節)。シェケルは銀貨のことで、15シェケルは銀貨15枚です。また、1レテクは0.5ホメルですから、1ホメルと1レテクは1.5ホメルということになります。1ホメルは約230リットルと言われますので、1.5ホメルは345リットルとなります。かなりの分量です。

 列王記下7章1節に「明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが1シェケル、大麦2セアが1シェケルで売られるようになる」という言葉あります。1セアは7.7リットルですから、1.5ホメルは44セア、2セアが1シェケルで売られるのですから、1,5ホメルは22シェケルになります。

 女性が請願をかけて聖所に身をささげるときには、銀貨30枚を払いました(レビ記27章4節)。奉納した人がそれを買い戻すとき、その相当額に五分の一を加えて支払えという規定があります(同27章13節など)。

 銀15シェケルと大麦1.5ホメル=22シェケル相当で、合わせて37シェケル(銀貨37枚)になります。少々こじつけじみているかもしれませんが、これは、神殿にささげられた女性の買戻しの額に相当すると考えることが出来ます。

 2章18,19節との関連で、この女性は、バアル神殿に仕える神殿娼婦として、礼拝儀式の中で姦淫を行っていたと考えられます。バアル信仰では、神殿娼婦と交わることで、五穀豊穣が約束されると信じられていたのです。その女性は、異教の偶像に仕える誤った信仰と、それにまつわる淫行から、ホセアによって贖い出されたというわけです。

 ホセアが同じ女性のために2度、贖い代を払ったとすれば、それは単に主の命令に従っただけというのではなく、ホセアがその女性をいかに大切に思っていたかという確かな証しではないでしょうか。ホセアは彼女に「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる」(3節)と告げました。

 自分を愛してくれる者のために犠牲を払うことは難しいことではありませんが、自分を愛さないで姦淫を重ねる者のために犠牲を払うというのは、一度でもノーサンキュー No,thank youでしょう。ところが、ホセアはそれを二度したわけです。そんなことが実際に出来るのでしょうか。ホセアは本当にそれをすることが出来たのでしょうか。

 ホセアという名は、「ヨシュア」の変形(短縮形)です。「ヨシュア」の正式な発音は「イェホシュア」とです。民数記13章16節に「モーセは、ヌンの子ホシェアをヨシュアと呼んだ」とあります。いずれも「主は救いたもう」という意味ですが、ヨシュアと発音する方が、「主(ヤハ)」という意味が鮮明なのです。そして、ヨシュアをギリシア語で表記すると「イエス」となります。

 そして、私たちの主イエスというお方は、繰り返し罪を犯し、神に背き続ける私たちのために、本当にご自身を犠牲としてささげてくださったお方です。この主が私たちに、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられました(ヨハネ13章34節、15章12節など参照)。

 私自信にはそのような力はなく、そのような愛も持ち合わせておりませんが、主イエスの愛を頂きながら、主イエスの愛に支えられ励まされて、互いに愛し合う者にならせていただきたいと思います。

 主よ、心を尽くして神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する者にならせてください。私たちの内にお住まいくださっている聖霊を通して、神の愛を心に注いでください。隣人と互いに愛し合うことを通して、主の僕とされている恵みを周囲の人々に証しすることができますように。 アーメン





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