風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2019年10月

10月31日(木) エゼキエル書39章

「今やわたしはヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ。」 エゼキエル書39章25節

 38章に続いて39章にも、「メシェクとトバルの総首長ゴグ」(1節)に対する預言が語られています。「メシェクとトバル」はキリキア地方の町であり、総首長ゴグとは、キリキア地方を支配下に治めていたバビロンの王ネブカドレツァルを指していると思われるが、城壁もかんぬきも門もないことに目をつけて、イスラエルを襲って来る敵の総称だろうと、前章で学びました。

 主なる神は、ゴグを徹底的に裁かれます(3節以下)。イスラエルに攻め寄せた軍隊は、山や野で倒れ、猛禽や野の獣の餌食となります(4,5節)。彼らの国マゴグと海岸地方には、火を送ると言われます(6節)。

 民は、廃棄された武器を薪として7年間燃やし続けます(9,10節)。そして、侵入者たちの埋葬には7ヶ月を要し、谷が死者で埋め尽くされると言います(11節以下)。戦いに動員された人の多さ、そこで使用された武器の多さを知らされます。

 通常、武器は次の戦いのためにとっておかれるものでしょう。武器を燃やすということは、戦いが終結したということであり、ここに敵の勢力は完全に敗北し、滅んでしまいました。燃やされた武器には、イスラエルの民が持っていたものも含まれているでしょう。

 武器を火で燃やすので、「野から木を取ってくることも、森から薪を集めることもない」(10節)と言われているということは、武器が戦いのためでなく、日々の生活に必要なものとして使用されるということです。かくて、イスラエルに終末的な平和が訪れるのです。

 冒頭の言葉(25節)に、「ヤコブの繁栄を回復する」という言葉があります。これは、象徴的な意味を持つ言葉です。イサクの子ヤコブは、かつて長子の権と父の祝福を、双子の兄エサウから奪い取り(創世記25章27節以下、27章1節以下)、その怒りを買っため(同27章41節)、叔父ラバン(母リベカの兄)の住む、遠くパダン・アラムのハランの地に逃れます(同43節、28章2,5節)。

 ベエルシェバからハランまで約800㎞、故郷を離れて一人、徒歩で北の国への逃避行です。それは、どんなに心細いものだったでしょう。「後悔先に立たず」とはまさにこのことか、と思い知らされたことでしょう。

 ところが、ヤコブは一日歩いて野宿したルズ(エルサレムの北20㎞、アイの西にある町、ヘブライ語で「アーモンド」の意)で夢を見(28章10節以下)、自分の傍らに立つ主の御声を聴きました。それは、「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行ってもわたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る」(同15節)という約束でした。

 ヤコブはその場所に記念碑を立てて油を注ぎ、そこをベテル(「神の家」という意味)と名付けました(同16節以下、19節)。主なる神が、孤独と不安の闇に包まれていた荒れ野を、主のお住まいになる祝福の家に変えてくださったということ、更にいえば、孤独だと思っていたけれども、主がいつも一緒にいてくださったということに気づかされたということです。

 そして、約束どおり主なる神がヤコブを祝福されたので、旅に出たときには無一物でしたが、やがて二人の妻に二人の側女、12人の息子、多くの家畜や男女の奴隷、それにらくだやロバなどを持つ者となったのです(同29,30章、32章15,16,23節)。それは、神がヤコブに一方的にお与えになった恵みの賜物です。

 ヤコブに、それを受け取る資格や権利があったわけではありません。むしろ、ヤコブのしたことは、主から裁かれるようなことでした。だから、ヤコブは故郷のベエルシェバを離れ、ハランで苦しい経験をしなければなりませんでしたし、母リベカの死に目には立ち会えませんでした。しかし、主はその苦しみを顧みて、ヤコブに恵みをお与えになったのです。

 今ここで預言者エゼキエルが、「ヤコブの繁栄を回復する」と告げているのは、バビロンに捕囚となっているイスラエルの民の苦しみを神が顧み、ヤコブに約束されたとおり、神が民と共にいて、守り、そして、イスラエルの地に連れ帰ってくださるという、希望に満ちた約束なのです。

 ここであらためて教えられるのは、その恵みをお与えになる主なる神との交わりです。私たちに必要なのは、国土や財産ではなくて、共にいてお守りくださる主ご自身です。

 主なる神は、「わたしは彼らを国々に捕囚として送ったが、自分の土地に集めて、もはや、かの地には残さない。そのとき、彼らはわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ」(28,29節)と言われます。

 主の御顔を仰ぐことを楽しみとし、私たちのうちにお住まいくださる御霊なる神との祈りと御言葉による交わりが何よりも嬉しいこととなるように、信仰の道に精進したいと思います。

 インマヌエルなる主よ、御名のとおり、常に私たちと共にいて、私たちを守り、御国に連れて行ってくださるという御約束を感謝します。どうぞ御言葉どおりこの身になりますように。そうして、主こそ神であることをすべての民が知るようにしてください。 アーメン



10月30日(水) エゼキエル書38章

「主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの総首長ゴグよ、わたしはお前に立ち向かう。」 エゼキエル書38章3節

 38,39章には、マゴグのゴグに対する預言が記されています。マゴグについて、創世記10章2節、歴代誌上1章5節に、ヤフェトの子孫と記されています。カスピ海と黒海の間のコーカサス地方のどこかにあったと考えられています。

 2,3節でゴグのことを「メシェクとトバルの総首長」と言っています。メシェク、トバルは小アジア南東部の地域、あるいはそこに出来た国家のことです(新共同訳聖書巻末付録地図1「聖書の古代世界」参照)。エゼキエルの時代、メシェク、トバルのある地域を支配していたのはバビロンのネブカドレツァルです。だから、マゴグがバビロン、ゴグはネブカドレツァルということになります。

 これまで何度もバビロンとネブカドレツァルに言及してきたエゼキエルが、ここでそれをマゴグとゴグと言い換える理由はよく分かりませんが、エゼキエル書中にバビロンの裁きについては全く触れられていないので、あるいは、バビロンの捕囚であるエゼキエルが、バビロンの裁きをその名前で記すことはできなかったということなのかも知れません。

 37章において、「枯れた骨の復活」の幻を通して神の民イスラエルの回復が語られました。そしてこの預言のとおり、ペルシアのキュロス王により、捕囚の民はバビロンから解放されてエルサレムに戻り、神殿を建て直し、国を復興することが出来ます(歴代誌下36章22節以下、エズラ記1章1節以下)。

 そのとき、バビロンを滅ぼして新しい盟主となったペルシアの他、イスラエルの脅威となる国々が周囲に存在しています。そうした脅威に対して、イスラエルは「囲いのない国」、「城壁もかんぬきも門もない」、つまり、自分で自分を守る術を持たない国です(11節、ネヘミヤ記1章3節参照)。

 エルサレムの都はバビロンによって攻め落とされ、町は一度破壊され、焼かれて廃虚とされました(列王記下15章8節以下)。けれども、再び人が住むようになり(エズラ記1章5節以下、、神殿が再建され(同3章1節以下、6章14,15節)、城壁も築き直されていくようになるのです(ネヘミヤ記3章1節以下)。

 周囲の脅威が取り除かれたのではありません。攻めて来る国がなくなったからでもありません。城壁もかんぬきも門もないことに目をつけて、襲ってくる敵があります。それが、マゴグです。

 それが上述のようにバビロンを示すものであるとすれば、それは実現不可能です。というのも、捕囚の民が解放されてバビロンからエルサレムに戻ることができたのは、ペルシアによってバビロンが滅ぼされたからです。だから、バビロンがまだ「城壁もかんぬきも門も」ないエルサレムに攻め上って来ることはあり得ないのです。

 ということは、どこと名指ししているのではなく、無防備に見えるエルサレムを襲い、戦利品を奪って欲しいままに略奪しようとしてやって来るものの総称をマゴグと呼び、その指導者・王をゴグと呼んでいると考えたらよいでしょう。

 黙示録20章8,9節に「(サタンが)地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ」と記されています。エゼキエルの預言が、ここに黙示として提示されているようです。

 マゴグとゴグが併記されるのは、エゼキエル書38章2節と黙示録20章8節の2箇所だけです。こう見ると、歴史的事実を指すというよりも、両者とも終末的黙示的な預言と言ってもよいのかも知れません。 

 ところで、襲って来る者がいるけれども、今自分で自分を守る術がないとしたら、そのようなとき、あなたはどうしますか。とりあえず、頑丈な城壁を築きたいと思うでしょう。より強力な軍備を持ちたいと考えるかもしれません。

 かつて、北朝鮮が核で武装するなら、その対抗上、韓国に核兵器の配備をと、非核三原則の国是に反することを日本の国務大臣が言って、物議を醸したというニュースが流れたことがあります。今はむしろ、日本も核を保有すべきだという考え方をする政治家も、決して少なくないと思われます。そう考えるのが当然なのでしょうか。そうすべきなのでしょうか。

 北朝鮮による拉致被害というのは、まさに、囲いのない国で安らかに生活していた日本人に目をつけた、非道な行為です。それについて、国として、毅然とした対応を求めるのは当然と言わざるを得ません。ただ、80年前、アメリカの経済封鎖により、我が国は太平洋戦争へと突き進みました。それと同じ愚を繰り返さないよう、慎重に対応して欲しいと思います。

 聖書は、そこに主なる神がおられるというのです。マゴグの王ゴグに対して、冒頭の言葉(3節)で「わたしはお前に立ち向かう」と言われました。

 主は、イスラエルが囲いのない国、城壁やかんぬきや門がない国であることをご存知です。そして、そのような中で安らかに生活している民に目をつけて、略奪をほしいままにしようと目論む者がいることもご存知です。そこで主がゴグに立ち向かい、イスラエルを守ってくださるというのです。

 神様が味方してくだされば、それ以上に心強いことはありません。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(ローマ書8章31節)と、パウロが語っているとおりです。

 主イエスは、「わたしは羊の門である」(ヨハネ10章7節)と言われ、また、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(同11節)と言われました。主イエスが私たちの囲い、閂のある門となり、私たちを守るために命を捨ててくださるというのです。

 どんなときにも主に信頼し、御言葉に聴き従いましょう。軍事力によらず対話と協調で国政平和に貢献する国であり続けるよう、為政者たちのために祈りましょう。

 私たちの羊飼いとして、囲いとなり、門となってくださる主なる神様、心から感謝し、御名を褒め称えます。今日も私たちを御名のゆえに正しい道に導いてくださることを感謝します。私たちが道を外れないよう、絶えずお守りください。為政者たちが真理の道、平和の道を歩む舵取りをすることができるよう、お導きください。全世界にキリストの平和がありますように。 アーメン





静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に10月27日(日)主日礼拝プログラムとバイオリン演奏動画、礼拝説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」「フォトギャラリー」を更新しました。
③「お知らせ」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。


御覧ください。



また、10月31日(木)①10時から11時半、②19時から20時、バプテスト静岡教会で聖書の学びと祈り会を行います。
聖書日課に基づいて、聖書を学んでいます。
31日は旧約聖書・エゼキエル書39章を読み、学びます。


よろしかったらお出かけください。




10月29日(火) エゼキエル書37章

「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」 エゼキエル書37章4,5節

 37章には、預言者エゼキエルが主の霊に導かれて見た幻が記されています。

 そのときエゼキエルが見たのは、無数の骨でいっぱいになっている谷でした(1節)。その骨は、「甚だしく枯れていた」(2節)と言われます。触っただけで壊れてしまうような状況ということです。主なる神はこれを、「これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『われわれの骨は枯れた。われわれの望みはうせ、われわれは滅びる』と」(11節)と解説しておられます。

 この言葉から、エゼキエルがこの幻を見たのは、エルサレムが陥落したという報告が届いた第12年10月5日(紀元前585年1月ごろ、33章21節以下参照)以降だと思われます。つまり、バビロンで奴隷生活を送っている捕囚民にとって、エルサレムが陥落したという報せは、すべての希望が断たれたことを意味していたのです。

 彼らは、エルサレムには壮麗な神殿があり、そこに主なる神がおられて、最後にはイスラエルを救ってくださるに違いないと考えていました。そしてまた、エジプトや周辺諸国の支援を受けて、バビロンを滅ぼしてくれるものと期待していたのではないでしょうか。

 しかし、エジプトの援軍はエルサレムに届かず、イスラエルのために神風は吹かないまま、ついに命運つきたかたちで都が陥落し、ゼデキヤ王は捕虜となってしまったのです(列王記下25章1節以下)。その報せを受けた捕囚の民は、まさに生ける屍というような精神状態になっているわけです。

 主なる神は預言者エゼキエルに、その骨に向かって冒頭の言葉(4節)のとおり「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」と語らせます。主の御言葉こそ、私たちの道の光であり、その歩みを照らす灯です(詩編119編105節)。御言葉は私たちに命を得させます(同119編25,107節)。

 私たちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされません(第二コリント4章8,9節)。主が前からも後ろからも私たちを囲み、御手を私たちの上に置いて恵みを与えてくださるからです(詩編139編5節)。

 主はさらに続けて、「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。するとお前たちは生き返る」(5節)と語らせられました。初めに神が人間をお創りになるとき、土の塵で人を形づくられた後、その鼻に命の息を吹き入れられると、人は生きる者となりました(創世記2章7節)。枯れた骨に霊を吹き込むというのは、もう一度神の息を吹き込んで、枯れた骨を生き返らせようとされることです。

 エゼキエルが主の命じられたとおり預言すると、骨が組み合わされ、筋と肉が生じ、皮膚が覆いました(7,8節)。さらに霊に預言すると、霊が彼らの中に入り、生き返りました(9,10節)。この幻は、希望を失い、落胆していた民が、新たな希望を与えられ、御言葉に聴き従う真の神の民が再創造されるということを示しています。

 主イエスがお甦りになって弟子たちにそのお姿をお見せになったとき、彼らに息を吹きかけながら、「聖霊を受けなさい」、と言われました(ヨハネ福音書20章22節)。これは、神の息を吹き込まれて人が生きる者となったことになぞらえ、主の弟子たちが聖霊の息吹を受けて、世界宣教の使命に生きる者とされたことを示しているのです(同21節、使徒言行録1章8節参照)。

 私たちの真の希望は、まさしく主なる神にあります。主が御言葉を通して、私たちに信仰を与えてくださいます(ローマ書10章17節)。希望を与えてくださいます。それにより、苦難をさえ喜びとすることが出来ます。それは、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです(同5章1~5節)。

 聖霊は、私たちの救いの保証であり(第二コリント書1章22節、私たちが神の子とされていることを、証明してくださいます(ガラテヤ書4章6節)。また、弱い私たちのために呻きをもって執り成し(ローマ書8章26節)、それによって万事が益となるようにされます(同8章28節)。

 主の御言葉を聞きましょう。心を聖霊に満たして頂きましょう。

 主よ、日々私たちに御言葉を与えてください。私たちの心を常に聖霊で満たしてください。主は、求める者によいものを、特に聖霊をお与えくださると約束してくださいました。約束通り、求めたものは既に与えられたことを信じて感謝します。 アーメン




10月28日(月) エゼキエル書36章

「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」 エゼキエル書36章26節

 36章では、イスラエルの山々の繁栄の回復が語られます。これは、35章でセイル山に対して裁きの預言が語られていたことに対応しています。それは、セイル山と表現されたエドムが、イスラエルに対して悪をなしたことに対する主の裁きでした。

 また、前に6章でイスラエルの山々に対する裁きの預言を読みました。6章と36章をあわせて読むと、神の御心が伝わってきます。

 イスラエルの民は、主の宝の民、祭司の王国、聖なる国民として選ばれました(出エジプト記19章5,6節)。彼らは、イスラエルを選ばれた主なる神こそ、唯一、真の神であることを全世界に示さなければなりませんでした。その方法とは、主の御声に聴き従うということです。

 イスラエルが裁かれたのは、この使命を疎かにし、かえって異教の神々を祀るという背きの罪を犯し、派閥争いで流血の事態を生じていたからです。そのことを17節で「イスラエルの家は自分の土地に住んでいたとき、それを自分の歩みと行いによって汚した」と記しています。それゆえ、神の憤りが彼らの上に注がれたのです(18節)。

 その結果、イスラエルの民は国々の中に散らされ、諸国に追いやられました(19節)。即ち、北イスラエルはアッシリアに、南ユダはバビロンに滅ぼされ、それぞれ捕囚とされてしまいました。エルサレムに残された者も、その後、エジプトなどへ四散させられてしまったのです。

 そういう経験をしたから、イスラエルが主なる神の御前に悔い改めたというわけではありません。「彼らはその行く先の国々に行って、わが聖なる名を汚した」(20節)と言われるとおりです。

 ところが、ここから思いがけない展開を迎えます。主の裁きを受けて四散させられてなお悔い改めず、御名を汚しているイスラエルを、さらに厳しく裁いて滅ぼしてしまおうとはなさらないのです。その時主なる神は、「わたしは、イスラエルの家がその行った先の国々で汚したわが聖なる名を惜しんだ」(21節)と言われました。

 そこで、「わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる」(22,23節)と、イスラエルの家に告げさせられます。

 即ち、主に背き続け、繰り返し罪を行ったイスラエルの民を、もう一度主なる神の選びの民としてたてることで、ご自身の名を聖とされるというわけです。それは、主なる神が聖なる方であることを示すことができるようになったからというのではなく、主ご自身がイニシアティブをとって、イスラエルの民に主の御名が聖であることを表させるというのです。

 それは、イスラエルの民の内側からの変革です。そのためにまず、清い水が振り掛けられます(25節)。それは、イスラエルの罪を清める水です。そして、冒頭の言葉(26節)のとおり、心が変えられるように、新しい霊、即ち、新しい命が授けられます。頑なで真理を悟ることも信仰を保つこともできなかったイスラエルの民が、主なる神に聴き従う柔らかな心を持つようになるのです。

 主は彼らを先祖に与えた地に住まわせ、イスラエルの家が主の民となり、主がイスラエルの神となられます(28節、11章19節参照)。それは、イスラエルと主なる神との間に新しい契約が結ばれるということです。それが、イスラエルの家を主の民とされる神の御業ですが、そのためには、イスラエルの家は亡国と捕囚という苦難を通らなければならなかったのです。

 主イエスが、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ福音書3章3節)と言われ、さらに、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(同5節)と言われました。これは、エゼキエルが語った言葉が、主イエスによって確認されているようです。

 今、捕囚の苦しみの中にいるユダの民にとって、この預言は彼らに大きな希望を与えたことでしょう。辛いことがあっても、希望があれば乗り越えることが出来ます。辛いとき、私たちは十字架の主イエスを仰ぎます。主イエスが私たちを癒し、慰め、助けてくださいます。

 「辛い」という字と「幸せ」という字をよく見てください。よく似ています。「辛い」という字の上に十字架を置くと「幸せ」という字になるのです。辛い人が主の十字架を仰ぐと幸せになるという、偶然などという言葉では済ませられない、キリストの福音が示される文字ですね。

 私たちに新しい心を与え、新しい霊を授けてくださる主を信頼し、絶えずその御声を聴きましょう。

 主よ、私たちに新しい心を授けてください。石のように冷たく固い心ではなく、柔らかなみずみずしい心、人の痛みの分かる心を授けてください。キリストの愛が人々の心を満たしますように。全世界に、キリストによる平和がありますように。 アーメン



10月27日(日)秋期特別礼拝説教

10月27日(日)の主日礼拝は、秋期特別礼拝として開かれました。

秋期特別礼拝には、教会員16名、来賓23名(初来会者2名、子ども4名を含む)がお見えになりました。
礼拝後の愛餐会にも18名参加されました。
感謝です。


礼拝の前奏(バイオリン演奏・オルガン伴奏)の動画をYouTubeにアップしました。

「Ave Verum Corpus」


特別賛美(バイオリン演奏)の動画をYouTubeにアップしました。

「主われを愛す」「Ave Maria」
「キリスト 教会の主よ」「You Raise Me Up」



説教の動画をYouTubeにアップしました。

説教 「神様の恵みを知る」
聖書 マタイ福音書13章44~46節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師



ご覧ください。




10月27日(日)秋の特別礼拝案内

02

10月27日(日)は、教会学校小学科(小学生)、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
教会学校は、「聖書教育」誌に基づいて共に聖書の学びと交わりを行います。10月は、旧約・詩編を学んでいます。


10時半より、主日礼拝を秋の特別礼拝として行います。

礼拝では、竹之内理香によるバイオリンの特別賛美が行われます。曲目は、前奏として「Ave verum corpus」、賛美のときに「主われを愛す」「Ave Maria」「キリスト 教会の主よ」「You raise me up」です。

また、新約・マタイ福音書13章44~46節より、「神様の恵みを知る」と題して、原田牧師より説教をいただきます。


写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。


キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


礼拝後は、愛餐会(無料/自由参加)です。皆で楽しく食卓を囲みましょう。



 

秋の特別礼拝ご案内

01
10月27日(日)10時半から、秋の特別礼拝を行います。

特別賛美として、竹之内理香さんによるバイオリン独奏があります。

新約聖書・マタイ福音書13章44~46節より「神様の恵みを知る」と題して、原田牧師に説教を語っていただきます。

礼拝の中で席上献金を行います。
これは入場料、会費の徴収などではありませんから、ご無理なさらなくて結構です。


礼拝後、愛餐会(昼食/無料)を行います。


どなたもお気軽にご参加ください。









 

10月27日(日) エゼキエル書35章

「お前が彼らを憎んで行った怒りとねたみに応じて、わたしもお前に行う。わたしがお前を裁くとき、わたしは彼らに知られるようになる。」 エゼキエル書35章11節

 35章には、セイル山に対する託宣が記されています。セイル山とはエドムのことを指しています(創世記36章8節)。セイルの山地にエサウの子孫エドム人が住んでいました。エサウは、イサクの息子ヤコブと双子の兄です(同25章24節以下)。

 「先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた」’同25節)とあります。「赤くて」(アデモニ)はエサウの別名エドム、「毛皮」(セアル)はエサウとその子孫が住み着いたセイルと結び付いていますが、「エサウ」と名付けた理由は、この文章からは判然としません。

 エサウがエドムと呼ばれた所以について、ヤコブのレンズ豆を、その「赤いもの(アドム)」を食べさせて欲しいと願ったからと、創世記25章30節に説明されています。エドム人は、イスラエルと国境を接する死海の南東部、セイルの山地に住んでいました。

 エドムに対する裁きについて、25章12~14節に既に語られていましたが、ここでは、36章でイスラエルの回復が語られるのに対比する目的で、エドム全地が裁かれ、廃墟となると告げられます。

 エドムが裁かれるのは、彼らがバビロン軍の尻馬に乗ってエルサレムを滅ぼすことに加担したからです(5節、オバデヤ書10,14節参照)。さらに、イスラエルをおのが領土にしようと狙って、「『この二つの国、二つの土地はわたしのものとなる。我々はそれを占領する』と言ったからである」(10節、36章2,5節)と説明されています。

 イスラエルを裁くために、主はバビロンを御自分の器として用いられますが、その意味で、エドムは主に選ばれた器ではなかったということが示されます。主は冒頭の言葉(11節)のとおり、彼らの憎しみと妬みによる悪行に応じ、エドムに対して同じように行うと言われます(オバデヤ書15節参照)。

 エドムがイスラエルに対して敵意、憎しみを持っていることは理解出来ます。もともとはイサクの双子の兄弟エサウとヤコブの問題でした。兄エサウ(=エドム)は弟ヤコブ(=イスラエル)によって長子の権を奪われ(創世記25章27節以下)、次いで神の祝福を奪われました(27章)。エサウは、父の死後、ヤコブを必ず殺すと決意する事態になりました(同27章41節以下)。

 その後、兄弟は和解したようですが(同33章)、しかし、ヤコブはエサウと同じ道を行かず、エサウはセイルへ帰り(同16節)、ヤコブは後でゆっくりセイルのエサウのもとに行くと言いながら(同14節)、スコトへ行き(同17節)、そしてシケムの町に着いて、町の傍に宿営しました(同18節)。

 ダビデ時代、イスラエルは銅山と紅海(アカバ湾)に出る港を手に入れるためにエドムを侵略し、支配しました(サムエル記下8章13,14節)。列王記上9章26節にエツヨン・ゲベルという地名が出て来ますが、ここには銅の精錬所がありました。ここで青銅を作り、神殿や宮殿の建築に用いたのです。また、ソロモンはここに良い港を作りました。

 かつて、出エジプトの民が、エジプトから約束の地カナンに入るために、ここを通ったことがあり、陸路でも重要な宿営の町でした(民数記33章35節)。つまり、ここは陸と海の要となる町だったわけです。

 このようなイスラエルによる侵略と支配に対して、エドムの憎悪が深まったことでしょう。ですから、バビロンがイスラエルに攻めてきたとき、エドムはバビロンの側についてエルサレム攻略の軍に加わったわけです。それによって、積年の恨みを晴らしたかったことでしょう。

 けれども、そのような憎しみや妬みは、良いものを産み出しません。絶えず争いを産み出します。報復の連鎖から容易に抜け出すことが出来ず、それは結局、自らの滅びとなってしまうのです。

 9.11同時多発テロ以降のアメリカとアフガン、イラクの戦争、現在にも続く紛争状態が、それを雄弁に物語っています。イスラエルとパレスティナの争いにシリアの内戦、そしてそれらにISという組織も絡んで、世界各地でテロが勃発するようになり、国際社会は混迷を深めています。

 やられたらやり返せという論理は分かりやすいけれども、そこに真理はありません。報復に報復が繰り返されるだけです。しかもそれは、拡大していくばかりです。勿論、主なる神がそれを喜ばれるはずがありません。戦争によって主の祝福を勝ち取ることは出来ないのです。

 近年の北朝鮮の振舞いは常軌を逸していますが、近隣諸国を敵視して、自国の繁栄を勝ち取ることはできません。実際、経済的にかなり厳しいものがあるでしょう。現在の国内情勢が分かりませんが、国民生活よりも軍事を最優先するというのは、かつての日本が一億玉砕と言っていたのと同じ状況ではないでしょうか。

 中国も、米国との貿易摩擦の問題、香港や台湾の問題、東シナ海の油田開発や尖閣列島を巡る領土・領海の問題、ASESN諸国との領土の問題など、様々な摩擦を抱えています。背景に国内事情があるのかも知れませんが、他国に対して力をもって対峙しようとすれば、不慮の事態を招きかねません。

 我が国政府は、アメリカの要求に応え、東南アジアのそのような情勢を利用して、戦争する国作りを加速しようとしています。積年の重要課題である拉致被害者の救出をどうしようとしているのでしょうか。政府関係者の言動を見ていると、およそ、そのようなことは念頭にないと言わざるを得ない状況です。

 歴史に学ばずして、どうして平和な国際社会を作ることができるでしょうか。現在、日本には歴史的に類を見ない素晴らしい憲法が与えられています。すべての国が同様の憲法を持てば、世界中から戦争をなくすことができます。

 「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ書2章4節)とイザヤは預言しました。主の御言葉が実現するよう、祈りましょう。

 主よ、どうかキリストにある平和が、全世界に実現しますように。キリスト教会が全世界の平和の道具として、主に用いられますように。私たちの心の中から、憎しみや妬みなどが追い出され、キリストの愛と平和が心を満たしますように。 アーメン




10月26日(土) エゼキエル書34章

「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。」 エゼキエル書34章23節

 34章には、イスラエルの牧者たちに対する裁きが預言されています。2節で「イスラエルの牧者」と呼ばれているのは、王をはじめとする、イスラエルの民を守り養う役割、責任を主なる神から委ねられている政治的、宗教的な指導者たちのことです。

 エレミヤ書23章1節以下にも同様の預言があります。もしかすると、エゼキエルがまだエルサレムにいた頃に実際に耳にしたかも知れませんし、バルクが書き記したエレミヤの預言を目にしたかも知れません。そして、同様の預言が再びエゼキエルに示されたわけです。

 詩編23編には、羊と牧者との素晴らしい信頼関係を見出します。それは、牧者が絶えず羊と共にいて、体をはって羊を守り、鞭と杖で羊を正しい道に導くからです。そこに詠われている牧者とは、主なる神ご自身のことです。そして主なる神は、王や祭司たち指導者を、ご自分の代務者、いわば副牧者として立て、ご自分の群れを彼らの手に託されたわけです。

 けれども、彼らがその務めを果たさないどころか、自分自身を養うために群れを利用したと言われます(2,3節)。それは、羊の乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた羊を屠って食べながら(3節)、自分自身を養ったということです(8節)。

 それなのに、「弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを捜し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した」(4節)と言われるごとく、牧者としての務めをまったく果たさないので、群れは野の獣の餌食となり、野に山に、散り散りになってしまいました(5節)。

 つまり、イスラエルの指導者たちがその地位を利用して私腹を肥やし、利益をむさぼりながら、指導者としての役割を全く果たしていなかったということになります。それは、羊の毛についた寄生虫のようなもので、民の指導者でも保護者でもなかったわけです。 

 そこで、主なる神は群れを牧者たちから取り上げ、もはや牧者たちの餌食とはさせない(10節)、主自ら牧者となって群れを探し(11節)、散らされた場所から救い出し(12節)、よい牧草地に導き、養うと言われるのです(13~16節)。即ち、主はもう一度、詩編23編に詠われているような、羊と牧者との間に素晴らしい信頼関係を回復したいと考えておられるのです。

 また、主なる神は肥えた、強い羊をも裁かれます。彼らが小さいもの、弱いものを押しのけ、突き飛ばし、外へ追いやったからです(16節以下、21節)。指導者たちが主に裁かれていましたが、羊たち自身にも非難されるべき問題があったのです。

 主は「失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」(16節)ために、冒頭の言葉(23節)のとおり、「一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」と言われました。これは、ダビデのように主の御心にかなう牧者が立てられ、その群れを牧するようになるという預言です。

 そして、主なる神はご自身の独り子、主イエス・キリストをダビデの子孫としてこの世に送り、牧者としてお立てになりました。主イエスは「わたしは良い羊飼いである」と言われました(ヨハネ福音書10章11節)。

 そして、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(同10節)、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(同11節)と仰っておられます。ここに、エゼキエルの語った預言が実現しています。

 そしてまた、主なる神は、御自分の羊の群れのために悪い獣をその土地から断ち(25節)、季節に従って雨を降らせます(26節)。野の木は実を結び、地は産物を生じるので、群れはそこで安んじていることが出来ます(27節)。

 これは、主なる神がその群れの神となり、彼らがその民となるという、主とイスラエルの群れとの契約があらためて結ばれたことを示しています(24,25節)。捕囚の民となったイスラエルに向かい、エゼキエルをとおして、ここに新しい契約についての主の言葉が語られています(エレミヤ書31章31節以下参照)。

 私たちの主は、一匹の迷い出た羊を見つけるまで探し、見つけると肩に担いで連れ戻してくださる方であり(ルカ福音書15章)、傷ついたものを宿に運び介抱される主(ルカ10章30節以下)です。今日も真の主を仰ぎ、主の御声に従って参りましょう。そこに癒しがあります。そこに平安があります。そこに力があります。

 主よ、御言葉を感謝します。今日も私たちの先に立ち、また私たちのしんがりを守って共に歩んでくださることを感謝します。私たちを上から恵みで覆い、下から強く支えてくださることを感謝します。いよいよ主の御名を崇めさせてください。主のご栄光を褒め称えさせてください。 アーメン



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