風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2019年09月

9月30日(月) エゼキエル書8章

「人の子よ、イスラエルの人々がわたしを聖所から遠ざけるために行っているはなはだ忌まわしいことを見るか。」 エゼキエル書8章6節

 1節に「第6年の6月5日のこと」とあります。「第6年」は文脈から、ヨヤキン王が捕囚となってから(1章2節参照)、即ち第一次バビロン捕囚(紀元前597年)が起こってから6年目ということ、「6月」は、現在の9~10月ですから、紀元前592年の秋ごろに、エゼキエルが見た有様ということです。

 エゼキエルの前に、ユダの長老たちが座っています(1節)。これは、エルサレムから長老たちがやって来たということではありません。彼らは、エゼキエルと一緒に捕囚となった長老たちです。彼らは、エルサレムの都とそこに建てられた神殿が、今どうなっているのかということを、預言者として立てられたエゼキエルに尋ねるためにやって来たのでしょう。

 長老たちにとって、エルサレムの都は彼らが帰るべき故郷であり、神殿は主なる神がそこにおられるというしるしです。ゼデキヤ王の御世、エルサレムの都が安泰であるならば、捕囚の民は、イスラエルに帰る希望を持つことが出来ます。もし、都が破壊され、国が滅びてしまえば、彼らは戻る家を失うことになるわけです。

 長老たちの求めに応じ、エゼキエルが主に託宣を求めたのでしょう。そのときエゼキエルに主なる神の御手が下り、エルサレム神殿の幻を見せられます(1,3節)。そこには、「激怒を起こさせる像」(3節)が収められていました。

 「激怒を起こさせる像」とは、「ねたみを引き起こすねたみの偶像」(口語訳、岩波訳)という意味の、主に妬みを起こさせる異教の偶像のことです。それはアシェラの像であろうという学者がいます。岩波訳の脚注には、「シリアなどの神殿や宮殿の入り口から出土する神像や精霊像を思わせる」と記されています。

 また、「北に面する内側の門」(3節)とは、王宮につながる門のことです。そこに偶像の祭壇が置かれているということは(5節参照)、この偶像をそこに設置したのは、ユダの王自身であるということを示しているのでしょう。

 次に、庭の入り口に連れて行かれます(7節)。そこにある壁に穴をうがつと、入り口があります。その入り口から中に入ると、周りの壁一面にあらゆる地を這うものと獣の憎むべき像、およびイスラエルの家のあらゆる偶像が彫り込まれています(10節)。

 本来の神殿のすべての壁面には、ケルビムとなつめやしと花模様の浮き彫りが施されていました(列王記上6章29節)。壁の穴をうがってその中にあらゆる偶像が彫り込まれた壁があるということは、主の神殿という外形をもってはいるけれども、その実、あらゆる偶像のための礼拝が、そこでなされているということでしょう。

 そしてそこには、イスラエルの長老が70人います(11節)。「70」は完全数「7」と同じく完全数「10」とを掛け合わせた数であり、また、出エジプトの際に、民の指導者として集められ、モーセに授けられている霊の一部を授けられた長老の数です(民数記11章16節)。

 その中心に、「シャファンの子ヤアザンヤ」が立っています(11節)。シャファンは、ヨシヤ王の書記官で(列王記下22章3節以下)、ヨシヤ王の右腕として神の律法に基づく宗教改革を推進しました。ところが、その子ヤアザンヤは、忌むべき偶像礼拝の中心人物になっているというのです。この強いコントラストによって、エルサレムがいかに堕落しているかということを際立たせています。

 また、神殿の北に面した門の入り口では、「女たちがタンムズ神のために泣きながら座って」(14節)います。タンムズ神はバビロンの神です。また、聖所の入り口で太陽を拝んでいる25人ほどの人がいます(16節)。それは、主の聖所で働く祭司たちでしょう。彼らは「主の聖所を背にし、顔を東に向けていた」(16節)と記されています。

 かくて、王や長老、女たち、そして主の祭司たちまでもが、まことの神に背いて異教の神々を拝んでいます。それも、主なる神を礼拝すべきエルサレムの主の神殿で、偶像礼拝が行われているというのです。

 冒頭の言葉(6節)のとおり、主なる神はエゼキエルに、「人の子よ、イスラエルの人々がわたしを聖所から遠ざけるために行っている甚だ忌まわしいことを見るか」と言われました。

 岩波訳は「イスラエルの家がここで行っていることは大それた忌まわしい行為であって、わが聖所からかけ離れたことだ」と記しています。また新改訳は「イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌みきらうべきことをしているではないか」と訳しています。

 主なる神以外に神なるものはありません。イスラエルの民が異教の神々を拝むのは、まことの神を遠ざけ、あるいは、神の聖所から遠ざかる行為です。主を遠ざけ、主の聖所から遠ざかったということは、主の恵みと保護を受けることが出来ない、否、受けなくても良いといっていることになります。ゆえに、エルサレムは滅ぼされてしまうわけです。

 これはしかし、昔話などではありません。私たちの礼拝の姿勢、その心が問われているのです。主なる神は、霊と真理をもって主を礼拝する者を求めておられるからです(ヨハネ福音書4章23節)。ゆえに、私たちは、霊と真理をもって主なる神を礼拝しなければなりません(同24節)。

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(あなたがたに必要なもの)はみな加えて与えられる」(マタイ6章33節)と言われました。神の国とは主のご支配のこと、神の義とは主との義しい関係のことで、それをまず第一に求めるというのは、私たちにとって、主が最も大切なお方だということです。

 主なる神は、私たちに必要なものが何であるかをよくよくご存じなので、主を第一に求める私たちに、その必要をお与えくださると約束されているわけです。つまり、私たちに希望を与えるのは、聖地エルサレムの町やそこに建てられている神殿などではなく、まことの神ご自身なのです。確かに、私たちの助けは、天と地を造られた主なる神のもとから来るのです(詩編121編1,2節)。

 主なる神は私たちのために、御子キリストをこの世にお遣わしになりました。救いの恵みに与った者として、絶えず主イエスを仰ぎ、御言葉を豊かに心に宿らせましょう。そして、主に向かって心から賞め歌いましょう。

 主よ、どうか私たちを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださいますように。すべての災いを遠ざけて、私たちを見守り、私たちの魂を守ってくださいますように。私たちの出で立つのも帰るのも、見守ってくださいますように。あなたなしに、しっかり立ち、正しく歩むことは出来ないからです。恵みの御手の下に留まり、主と共に歩ませてください。御名が崇められますように。 アーメン


9月29日(日)主日礼拝説教

9月29日(日)の主日礼拝には、教会員15名、来賓10名(子ども1名を含む)がお見えになりました。礼拝後の昼食会にも10名参加されました。感謝です。



主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「闇の支配の中で」
聖書 ルカ福音書22章47~53節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師


ご覧ください。






9月29日(日)主日礼拝案内

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9月29日(日)は、教会学校小学科(小学生)、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
教会学校は、「聖書教育」誌にもとづいて、旧約聖書・ルツ記から、共に聖書の学びと交わりを行います。


主日礼拝を10時半から行います。

礼拝では、新約聖書・ルカ福音書22章47~55節より、「闇の支配の中で」と題して、原田牧師より説教をいただきます。


写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。


キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


9月は日本バプテスト連盟教会学校月間で、CS小学科のアピールが行われます。


礼拝後、報告の中で敬老感謝行事(ロイス会)を行います。


その後は、昼食会(有料・自由参加)があります。

昼食会後、信徒会、各会例会を行います。




9月29日(日) エゼキエル書7章

「わたしは彼らから顔をそむける。彼らはわたしの宝を汚し、乱暴な者が襲いかかって汚す。」 エゼキエル書7章22節

 7章には、「終わりが来る」(2,3,6節)、「怒りを送る」(3,8,12,14節)、「災いが来る」(5,26節)、「時は来た」(7,12節)、「その日が来る」(7,10,12節)などという、神の裁きの言葉、イスラエルの終末が今にも到来することを示す言葉が、繰り返し語られています。

 冒頭の言葉(22節)の中に、「宝」(ツァーファン)という言葉があります。これは、「隠す、蓄える、保護する」などという意味の言葉です。口語訳や新改訳は、これを「聖所」と訳しています。24節に「彼らの聖所は汚される」という言葉があり、「汚す」という言葉との関連で「ツァーファン」がエルサレムの聖所(ミクダシュ)、神殿のことを指していると考えての翻訳でしょう。

 一方、岩波訳は「ツァーファン」を「宝物」と訳し、それに「イスラエルの民のこと」という注釈をつけています。出エジプト記19章5節に「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる」とあり、神がイスラエルの民を「わたしの宝」と呼んでおられます(申命記7章6節、14章2節、詩編135編4節参照)。

 紀元前597年にバビロンに連れて来られた捕囚の民にとって、主なる神がエルサレムの都におられ、かつてエジプトの奴隷の苦しみから解放するためにモーセをお立てになったように(出エジプト記3章7節以下)、バビロンの縄目から解放してくれる強力な王をダビデの子孫から立ててくれるということが、最後の望みでした。

 しかしながら主なる神は、「外には剣があり、内には疫病と飢饉がある。野にいる者は、剣にかけられて死に、町にいる者は飢えと疫病が滅ぼす」(15節)と言われます。即ち、剣や疫病、飢饉によって、彼らが一縷の望みとしていた神の都エルサレムの民が滅ぼされるというわけです。これは、エレミヤ書15章2節にも預言されていたことです。

 宝を「聖所」と解釈した口語訳、新改訳に従えば、エルサレムの神殿、聖所が主なる神によって汚され(22,24節)、神殿の聖なるものが諸国の悪者どもに奪い取られてしまいます(24節)。主にとって、既にエルサレムが「神の都」ではなく、神殿が主を礼拝するための「聖所」でなくなっている証拠です。

 イスラエルの民は、諸外国の圧力や、飢饉、疫病といった災害が起こると、自分の力で何とか解決しようとしますが、なんともなりません。かつては、苦しみの中から呼ばわると、主なる神が助けてくださいました(列王記下19章14節以下、詩編34編7節、50編15節など)。けれども、今は、主ご自身が敵となられ、彼らは主によって苦しめられているのです(エレミヤ書21章5節、哀歌2章4,5節)。

 彼らは、このような事態を何とかしてもらおうと、憎むべき忌まわしい偶像を造り(20節)、礼拝をささげます。まことの神に背き、主のもとを離れて異教の神々を慕う偶像礼拝を行っていることが、この苦しみの原因であるのに、その原因に目を向けようとせず、対処療法的に「溺れる者は藁をもつかむ」と言わんばかり、手当たり次第あらゆるものに手を伸ばします。

 けれども、それでは何の解決にもなりません。むしろ、問題をますます深刻にするだけです。イスラエルの民の背きの罪のために汚されたエルサレムの都を主なる神は見放され、主の加護を失った都は荒れるにまかされることになるのです。

 けれどもそれは、イスラエルを滅ぼし尽くすことを目的としているのではありません。むしろ、彼らの背きの原因を取り除き、彼らが真に目覚めて主なる神のもとに立ち帰ることを期待しておられるのではないでしょうか(6章8節)。

 主の祈りのはじめに、「御名が崇められますように」という言葉があります。原文を直訳すると、「あなたの名前が聖とされますように」となります。「聖とされるように」と祈るということは、御名が汚されているということです。誰が汚したのかと言えば、それは、この祈りを祈る私自身です。

 御名が汚されたとは、神が冒涜されたということです。ですから、御名を聖とするということは、御名を汚した者を裁くということになります。そこで、私が冒涜の罪を犯して主の御名を汚しましたので、私を裁いて御名を聖別してくださいと祈るのです。

 主の祈りの最初の言葉でそのように祈れと教えられた主は、私に罪を覚えさせ、その裁きを私に祈らせて、私を滅ぼしておしまいになりたいというわけではなかったでしょう。むしろ、そのように主の御前に跪いて祈りをささげる私に、「子よ、安かれ、汝の罪赦されたり」(ルカ5章20節、7章48節参照)と仰せくださるのです。

 そしてその赦しのために、神の御子が私の身代わりに裁かれ、死なれました。一切の高ぶりを捨て、主の御前に謙りましょう。日々主の御言葉に耳を傾け、絶えず御霊の導きに従いましょう。 

 主よ、私たちを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。私たちの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前から私たちを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再び私たちに味わわせ、自由の霊によって支えてください。主にある喜びと平和が、常に豊かにありますように。 アーメン




9月28日(土) エゼキエル書6章

「そして彼らは、わたしが主であり、理由もなくこの災いを彼らにくだすと告げたのではなかったことを知るようになる。」 エゼキエル書6章10節

 主の言葉がエゼキエルに臨み(1節)、「人の子よ、顔をイスラエルの山々に向け、それに向かって預言して、言え」(2,3節)と命じられ、続けて「イスラエルの山々よ、主なる神の言葉を聞け。主なる神は、山と丘、川と谷に向かって、こう言われる。わたしは剣をお前たちに臨ませ、聖なる高台を破壊する」(3節)と語られます。

 イスラエルの山と丘、川と谷には、聖なる高台、祭壇、香炉台、偶像など、主なる神に背く異教の礼拝を営むための施設、設備が置かれていました(3,4節)。主はそのような異教の礼拝所を荒らして廃墟とされ(3~6節)、異教の神を拝んでいた人々を剣と飢饉と疫病で死に至らせると告げられます(7節以下、11節、5章12節、7章15節も参照)。

 偶像とは、人が彫刻し、あるいは鋳造した神の像のことです。しかし、まことの神、主は人が神の像を造ることを厭われます(出エジプト記20章3~7節、34章17節、レビ記26章1節など)。それは、創造主なる神と被造物なる人間の立場を逆転させ、神を自分の思い通りにしようとすることだからです。

 まことの神を離れて異教の神を礼拝することを、姦淫と呼ばれます(9節、出エジプト記34章15節、申命記31章16節など)。主なる神はイスラエルの民に愛されること、礼拝されることを求めておられるのであり(出エジプト記23章25節、申命記6章4,5節など)、その御心は、イスラエルの民が主に信頼し、御言葉に従って歩み、恵みを得、平安で豊かな生活を送ることにあるのです。

 剣と飢饉と疫病によって多くの民が死に至る中で(11,12節)、諸国に散らされる人々がいます(8節)。そのとき、「剣を逃れた者を諸国民の間に残しておく」(8節)と言われます。

 エレミヤ書52章30節に、バビロンに捕囚として連れ去られた人の総数が4600人と記されています。列王記下24章14節には「すべての高官とすべての勇士1万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚として連れ去った」と記されており、数字が合いませんが、いずれにせよ、剣や飢饉、疫病で命を落とした者たちの方が圧倒的に多く、残された者は一握りということになります。

 かつて、出エジプトの民は、兵役に就くことの出来る男性だけで、60万人余いました(民数記1章46節、26章51節)。さらに、ダビデのときには、イスラエルに80万、ユダに50万、合わせて130万もの戦士がいたのです(サムエル記下24章9節)。

 その一握りの者たちが、捕囚として連れ去られた地で、まことの神を思い起こします(9節)。そして、冒頭の言葉(10節)によれば、何故自分たちが亡国の憂き目に遭い、捕囚とされたのか、その理由を悟るようになるということです。

 6章に、「わたしが主であることを知るようになる」という言葉が4度出て来ます(7,10,13,14節)。主なる神は、イスラエルの民がこのまことの知識に到達することを願っておられ、そのために主の民の生き残る道を造られたとも言えそうです。

 それはしかし、苦難を伴う道でした。国を失い、多くの同胞を失い、異国で異教の民に奴隷として仕えなければならなかったのです。あるいは、死んでしまったほうがよかったとも思えるような苦しみを味わい、屈辱的な経験をしたことでしょう。

 しかるに主は、深い愛のゆえに、民を滅ぼし尽くそうとはなさらず、救いの道を備えられます。それは、イスラエルの民が捕囚として連れ去られたバビロンの地で、主を離れ去る姦淫の心、偶像に惹かれる姦淫の目を打ち砕かれるということです(9節)。

 それによって、イスラエルが亡国と捕囚という苦しみを味わわなければならなくなったのは、この偶像礼拝の罪の故であったと知るようになるのです(10節)。そうして、イスラエルの民が主なる神に立ち帰り、霊とまことによる礼拝が始まるならば、彼らの苦しみは、いわば産みの苦しみということになり、その苦しみはやがて、大きな喜びに変えられます(ヨハネ福音書16章21節)。

 前章でも学んだように、イスラエルの民の味わった苦しみは、彼らを愛してやまなかった主なる神ご自身の苦しみでもあります。即ち、愛する者に背かれる苦しみであり、そして、愛する者をその罪のゆえに罰しなければならない苦しみです。

 そして、主なる神は、独り子の主イエスに全人類の罪を背負わせ、十字架につけてしまわれました。その死により、私たちは贖われ、命に与ったのです。主を知るとは、主なる神についての知識を得ることではなく、まさに主がお与えくださった永遠の命に与ること、その恵みを味わうことなのです(同17章2,3節)。

 絶えず主を仰ぎましょう。御言葉に聴き従いましょう。 

 主よ、あなたから離れる姦淫の心、異教の偶像に惹かれる姦淫の目を打ち砕いてください。絶えず主に目を注ぎ、心から主を礼拝させてください。御霊の導きにより、新しい歌をもって主をほめたたえさせてください。御子キリストが私たちを罪から贖い出し、神の子とする信仰の道を開いてくださったからです。永遠の命の恵みに与り、ますます主の御名を崇めさせてください。 アーメン




9月27日(金) エゼキエル書5章

「人の子よ、あなたは鋭い剣を取って理髪師のかみそりのようにそれを手に持ち、あなたの髪の毛とひげを剃り、その毛を秤にかけて分けなさい。」 エゼキエル書5章1節

 4章に続いて、主なる神によるイスラエルの民の裁きが語られます。それは、民の三分の一が疫病、三分の一は剣で殺され、残りは諸国に離散させられるというものです(12節、エレミヤ書15章2節など)。捕囚を免れた者たちは皆、大変過酷な運命を味わわされたのです。

 13節で主は、「わたしは彼らに向かって怒れるだけ怒り、憤りに身をまかせて、恨みを晴らす」と言われています。それは、エルサレムの民が主に背き、その裁きを拒んで主に聴き従おうとしなかったからです(6節)。「お前はあらゆる憎むべきものと忌まわしいものをもってわたしの聖所を汚した」(11節)と言われるとおりです。

 そこで、親がわが子を食べ、子がその親を食べるという極めておぞましいことが起こります(10節)。それは、エルサレムの都が厳しい飢餓に襲われるということでしょう。具体的には、バビロン軍に包囲され、籠城を続けている民や兵士たちの食糧が底をついてしまうということです。それが主の裁きなので、「わたしは憐れみの目をかけず、同情もしない」(11節)と言われます。

 それをイスラエルの民に告げるのに、主はエゼキエルに奇妙なことをさせます。それは冒頭の言葉(1節)のとおり、髪の毛とひげをそり落とすことでした。そして、その毛を秤にかけて三分の一づつに分け、一つは都の中で火で燃やし、一つは剣で打ち、残りは風に乗せて散らさせます(2節)。エゼキエルの髪の毛とひげが、イスラエルの民に降りかかる運命を象徴していたわけです。

 しかし、髪の毛とひげをそることは、ユダヤ人にとっては屈辱的なことです。特に祭司の家に生まれたエゼキエルにとって、それは律法で禁じられている、身を汚すことだったのです(レビ記21章5節)。5節に「これはエルサレムのことである」と告げられています。主の選びの民イスラエル、神の都エルサレムが、主の御前に惨めな恥ずべき姿になっていることを、剃毛によって示すのです。

 また、イスラエルには死者を悼み、嘆きを表すために、剃髪する習慣がありました。ですから、イスラエルの民が神に裁かれることを悼み、嘆くように主が命じられているとも考えられます。これは、二者択一というより、様々な意味がそこに込められているということだろうと思います。

 もしかすると、エゼキエルに剃髪の恥を負わせ、おのが民の裁きを示すように命じられた神ご自身が、民の死を悼み、苦しんでおられることも、そこに表わされているのかも知れません。イスラエルはご自分が憐れみによって選び分け、愛を注いで守り導いて来た民ですから、それを裁いて滅ぼしてしまうことを何とも思わないという神ではありません。

 神に聴き従わない背きの罪、神ならぬ者を神として拝み、頼りにならないものに依り頼もうとするのは、自ら滅びを招く愚かなことです。危機に際し、「溺れる者は藁をもつかむ」ものですが、しかし、藁では何の役にも立ちません。

 神は、民を裁きたくて裁くのではなく、裁かざるを得なくてそうしている、つまり、民を愛すればこその裁きであり、それゆえに、愛すればこそ苦しむのです。それは、イスラエルの民を裁き滅ぼしてしまうためではなく、悔い改めて真に信頼に足るお方のもとに立ち帰らせるためです。

 放蕩息子は(ルカ15章11節以下)、生前贈与された父親の財産を好き勝手に使い果たしてしまい、ひどい飢饉にも見舞われて(同14節)、豚飼いに身を落とし、その餌で腹を満たしたいと思うほどになります(同16節)。そこで我に返り、父親の元に戻る決心をしました(同17節以下)。父親が財産の生前贈与を認めたのは、それこそ裁きでしょう。

 父親の庇護を離れるとどうなるか、息子は身をもって味わったのです。そして、父親は息子の帰りを、自分のはらわたが痛むような思いで待ち続けていました。息子の苦しみは父親の痛みでもあったのです。ゆえに、帰って来た息子を喜び迎え(同20節)、持てるすべてのものを彼に与えます(同22,23節)。

 この例え話が示しているのは、主イエスの十字架です。神は、放蕩息子のごとき私たちを愛して、その罪を赦し、神の子として受け入れてくださいました。そして、その罪の呪いを独り子のキリストに負わせられたのです。主イエスの十字架の苦しみは、神ご自身の苦しみです。そしてそれは、罪人の私を愛するがゆえの苦しみなのです。

 エフェソ書5章8節に「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光の子として歩みなさい」とあります。それをリビングバイブルは「あなたがたの心は以前は暗やみにおおわれていましたが、今は主からの光にあふれています。そのことを態度で示しなさい」と意訳しています。

 主の愛を受けた者として、それを態度で示すというかたちで周囲の人々に主の愛と恵みを証ししましょう。

 主よ、十字架の主を仰ぎます。キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。キリストの死は、神が私たちを愛してくださったからこそであり、神の愛に生きる者になるようにと、強く促されます。今日も、あなたの御言葉に耳を傾けます。御心をわきまえさせてください。御言葉を行う者とならせてください。聖霊に満たされ、主の愛の証人となることが出来ますように。 アーメン






9月26日(木) エゼキエル書4章

「左脇を下にして横たわり、イスラエルの家の罪を負いなさい。あなたは横たわっている日の数だけ、彼らの罪を負わなければならない。」 エゼキエル書4章4節

 ケバル川の河畔にいるエゼキエルに、神の言葉が臨みました。それは、煉瓦を一つ取り、そこにエルサレムを刻むこと(1節)、それを包囲して周囲に堡塁を築き、陣営を敷き、破城槌を配備することで(2節)、エルサレムが軍に包囲された様子を描かせます。それは、紀元前588年に起こった2回目のエルサレム包囲のことでしょう。

 エゼキエルは鉄板を用意して、自分とエルサレムの都を刻んだレンガとの間に置き、鉄の壁の外から都に顔を向けます。これは、3章8節の「今やわたしは、あなたの顔を彼らの顔のように硬くし、あなたの額を彼らの額のように硬くする」というエゼキエル召命の言葉と響き合っています。

 エゼキエルがエルサレムを包囲するバビロン軍の一部を演じるわけですが、このように語ることで、バビロン軍がエルサレムを裁く神の代行だということを示しています。また、鉄の壁によって、エルサレムの都が神の臨在と栄光から切り離されてしまったことを表わしています。

 続いて神は、冒頭の言葉(4節)のとおり、「イスラエルの家の罪を負わねばならない」と言われ、左脇を下にして390日(5節)、右脇を下にして40日(6節)、横たわるようにと言われます。

 イスラエルの家の罪のために390日、ユダの家の罪のために40日と言われていますが、なぜそのような日数になるのか、ここに説明されてはいません。ギリシア語訳旧約聖書(70人訳)は、390日を190日としています。

 イスラエルの家の罪ということで、390日は、ソロモンによるエルサレムの神殿奉献(紀元前960年頃)からバビロンによる神殿破壊(紀元前587年)までの年数を表わしているものでしょう。

 そして、390日と40日を加えた430日は、イスラエルの民がかつてエジプトの奴隷として苦しみを受けた年数であり(出エジプト記12章40節)、それとの関連で、40日は、イスラエルの民が荒れ野を彷徨った年数にもあたります(民数記14章34節)。

 イスラエルの家の罪を背負って430日も横たわるということは、かつてイスラエルの民がエジプトで430年の奴隷生活を送ったように、今イスラエルの民は、バビロンで奴隷生活を送らねばならないこと、そしてそれは、イスラエルの家の罪の故であるということが、このようなかたちで明確に示されているわけです。

 ただ、390日の間、縄がかけられて、「寝返りを打つことができなくなる」(8節)と言われているので、これはどんなに大変なことでしょう。全く身動き出来ないように縛り上げられたならば、それは、想像を超えた苦しみを味わわねばならないでしょう。

 実際、その姿勢のまま1年以上も過ごすのは、不可能なのではないでしょうか。また、一日20シェケル(約230グラム)の食糧と(10節)、水六分の一ヒン(約0.64リットル)で(11節)、一年余を健康的に過ごすことも不可能なことでしょう。

 エゼキエルは、パンを人糞で焼けと命じられたときには(12節)、「わたしは我が身を汚したことがありません」(13節)と、その命令に従うことについて、拒否します。祭司の家に育った者として、『仰せの通りにいたします』ということが出来なかったのです。 それに対して、「牛糞を用いることをわたしは許す」(15節)と主は言われました。それが当時の燃料だったのです。

 あらためて、エゼキエルが身を横たえていたのは、昼間など一定の時間だけ、また、そのような少量の食事は、人々の前に姿を現している際の公務上のもので、それとは別に私的な食事を摂っていただろうと思われます。とはいえ、それでも大きな苦痛を伴うものだったことは明らかです。

 左脇を下にして390日、右脇を下にして40日という期間、来る日も来る日も同じ姿勢を続け、そうしている間は少量の食糧で過ごすエゼキエルは、身をもってイスラエルとユダの家の罪の重さを体験させられたわけですし、それを見た人々は、自分たちが神に犯した罪の大きさ、そして神の裁きの厳しさを思い知らされることになったのではないでしょうか。

 ただ、かつてエジプトで奴隷生活をしていたイスラエルの民は、430年の後、エジプトの軛から解放され、約束の地に入ることが出来ました。とすれば、ここに言われる390日と40日、合わせて430日が経過した後には、第二の出エジプトを経験するということになるようです。

 主は既にエレミヤによって、「バビロンに70年のときが満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す」(エレミヤ書29章10節)と語っておられました。

 「左脇を下にして横たわり、イスラエルの家の罪を負わねばならない」(4節)、「彼らの罪の年数を、日の数にして、390日と定める」(5節)と言われて、エゼキエルはそれに従順に聞き従うことが求められています。それは、イスラエルが神の御言葉に聞き従えば、バビロンの奴隷生活から解放されることになるという神のメッセージなのです。

 その意味では、従順を学び、解放の恵みに与るための産みの苦しみの期間を、主に信頼し、主に期待して待ち望めということにもなるでしょう。神は、闇に光を灯し、憂いを笑いに変えられるお方です。罪が赦され、すべてが一新されるときが来るのです。憐れみの主を仰ぎましょう。

 主よ、闇が地を覆い、先が全く見えない状況では、私たちは倦み疲れ、躓き倒れてしまいます。けれども、あなたは、疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられるお方です。私たちはあなたに望みを置きます。鷲のように翼を張って上ることができるよう、新しい力に与らせてください。聖霊の風に乗せて舞い上がらせてください。御名が崇められますように。 アーメン




9月25日(水) エゼキエル書3章

「主なる神はこう言われる。聞き入れようとする者は聞き入れよ。拒もうとする者は拒むがよい。」 エゼキエル書3章27節

 主なる神がエゼキエルに「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい」(1節)と言って、巻物を食べさせます。巻物には、「表にも裏にも文字が記されて」(2章10節)いました。

 通常、巻物を開いた面の裏側に文字が記されていることはありません。両面に記されているということは、エゼキエルに与えられた、民に告げるべき預言の言葉、民に伝えたい神の御言葉が、非常に多いということでしょう。

 また、巻物は食べることが出来るものとも思われませんが、エゼキエルは主が命じられたとおりに口を開き、それを食べました。2章3,4節で捕囚のイスラエルの民を、神に反逆した、恥知らずで強情な人々と言われていわれましたが(同4節)、エゼキエルは神に従う者であるということを示すためのパフォーマンスでしょう。

 エゼキエルが食べると、「それは蜜のように口に甘かった」(3節)と言われます。巻物に記されていたのは、「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」(2章10節)でした。神に従うのは、苦労を避けて通れるということを意味しません。けれども、苦いと思われる主の言葉を記した巻物が、口に甘かったということは、主に従う者に与えられる恵みがあるということでしょう。

 申命記8章3節に「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」と言われます。

 私たちが生きるために、食べ物が必要です。マナを初め、必要なものはすべて、主の口から出るすべての言葉によって民に与えられたのです。主なる神は、ここでエゼキエルに御言葉を記した巻物を食べさせ、それによって主の預言者としての必要な力を得させたということでしょう。

 エゼキエルは、主に遣わされてケバル川河畔のテル・アビブに住む捕囚民のもとに行きます(15節)。「テル・アビブ」とは、「洪水の丘」という意味のアッカド語のヘブライ語音写です(岩波訳脚注参照)。それは、洪水の跡を残す荒れ地だったのではないでしょうか。そのような場所が捕囚民に居住地として提供されたわけです。

 因みに、1948年5月にイスラエル国家樹立が宣言された「テル・アビブ」は、イスラエル西部地中海沿岸の町で、エルサレムに次ぐ人口第二位の都市です。ヘブライ語で「アビブ」は穀物の穂という意味で「春」を表します。イスラエルの正月にあたるニサンの月は、別名アビブの月といい、大麦の収穫の始まりを祝う月です。

 話をもとに戻して、エゼキエルはケバル川河畔のテル・アビブで、七日間を呆然として過ごします(15節)。これは、ヨブの友人が彼の災難を聞いて慰めに来て、あまりの苦しみの激しさに七日間、話しかけることも出来なかったという記事を思い出させます(ヨブ記2章11節以下)。

 御言葉を受け、聖霊の力で引き上げられた(12節)エゼキエルの目に、捕囚民の姿が映ります。彼らに何を語ったらよいのか、何をしたらよいのかという思いになったのかも知れません。それは特に、彼らは主なる神に反逆して頑なになっているので、エゼキエルの言葉を聞こうとはしないと主ご自身が仰っているからです(7節)。

 14節でエゼキエルが「苦々しく、怒りの燃える心をもって出て行った」というのは、捕囚の苦しみを味わっている同胞が、主に心閉ざし、頑なになって御言葉を聞こうとしないということについて、捕囚の苦しみの中にいる同胞への同情と、しかし、彼らに厳しい裁きの言葉を告げなければならない責任など、様々な思いに板挟みになっている様子が窺えます。

 エゼキエルが主に聴き従うのは、彼が特別に従順だったからでしょうか。真剣に主を求める者だったからでしょうか。はっきりとは言い切れませんが、彼も五十歩百歩、特別に他のイスラエル人と特別に違うという存在ではなかったのではないかと思います。

 ただ、特別な主の憐れみによって主の幻を見(1章1節)、聖霊の力を受けました(2章2節)。それによって、苦しみの中から、また、希望を持てず無気力になってうずくまっていたところから、立ち上がることが出来たのです。もしも、エゼキエルと他のイスラエル人とを分けるとすれば、差し出された主の御手、主の憐れみを、彼は確かに受け取ったという点です。 

 七日の後、主の言葉がエゼキエルに臨み(16節)、「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの家の見張りとする。わたしの口から言葉を聞くなら、あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない」(17節)と告げられます。彼は、イスラエルの民に危機が臨むのを警告する見張り人としての責任を、主から与えられました。

 民に臨む危機とは、主が民を裁き、罰を与えるということです(18節)。そのためにエゼキエルが見張りとされ、民に警告を与える務めが与えられたということは、主は民を裁きたいのではなく、悔い改めに導きたい、滅びではなく、むしろ救いを与えたいと思っておられるということです。つまり、エゼキエルを預言者として立てられたのは、主の深い愛によるということです。

 エゼキエルは主に、「人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉を心に納め、耳に入れておきなさい。そして捕囚となっている同胞のもとに行き、たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、『主なる神はこう言われる』と言いなさい」(10節)と命じられていました。

 イスラエルの背きの罪とは、主の語られる御言葉を聞こうとしないで、神ならぬものの声に耳を傾けていたということでしょう。だから、エゼキエルに対して、繰り返し主の言葉を聞くように命じられ、従うことが求められるわけです。

 主なる神が冒頭の言葉(27節)で、「聞き入れようとする者は聞き入れよ。拒もうとする者は拒むがよい」と言われました。主の御心は、私たちが主の御言葉を聞き入れて、その導きと恵みに与ることであるのは、明白です。

 主なる神は、エゼキエルの舌を上顎につかせ、物が言えないようにし(26節)、また、口を開いて主の御言葉を告げ知らせられます(27節)。エゼキエル自身がまず、どんな時にも神に従って歩み、預言者として神が語らせるまま、ただそれだけを語るように、徹底的に訓練され、整えられているのです。

 主はそのようなエゼキエルの信仰の姿勢、預言者として徹底的に主に仕え、徹底的に主に従う生き方、歩む姿を通して、イスラエルの民に御自身の御心を明らかにしようとしておられるのです。

 共に主の御言葉に心から耳を傾け、共に御旨に従って歩ませていただきたいと願います。

 主よ、どうぞ私たちの耳を開いてください。主の御声を聞くことが出来ますように。困難の中でも、素直に従う信仰を与えてください。御心を行う者となることが出来ますように。キリストにある恵みと平和が、日本全土に拡げられますように。ここを神の御国としてください。 アーメン




静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教/9月21日音楽の集い」に「音楽と福音の集い」第一日・音楽の集いのプログラム、賛美と説教の動画を掲載しました。
②「礼拝説教/9月22日福音の集い」に「音楽と福音の集い」第二日・福音の集い(礼拝)のプログラムと説教動画を掲載しました。
③「今週の報告」、「フォトギャラリー」を更新しました。
④「お知らせ」は随時更新しています。
⑤「今日の御言葉」は毎日更新しています。


御覧ください。



なお、9月26日(木)①10時から11時半、②19時から20時、バプテスト静岡教会で聖書の学びと祈り会を行います。
聖書日課に基づいて、聖書を学んでいます。
26日は旧約聖書・エゼキエル書4章を読み、学びます。


よろしかったらお出かけください。



9月24日(火) エゼキエル書2章

「人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない。またその言葉を恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。」 エゼキエル書2章6節

 神の顕現に接して御前にひれ伏しているエゼキエルに、神が語りかけられました。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる」(1節)。ここで、エゼキエルは「人の子」(ベン・アーダーム)と呼ばれています。この表現は、人、人間一般を指して用いられますが、エゼキエル書ではエゼキエルの呼び名として用いられていて、神の御前にある人の小ささ、弱さを示すものと考えられます。

 「自分の足で立て」と命じられますが、霊がエゼキエルの中に入って立たせたと報告されます(2節)。それは、実際に立ち上がったというよりも、神のために働く預言者として召されたということを表しています。立候補すれば預言者になれるわけではありません。人が推薦したり、選挙したりしてなるものでもありません。神ご自身が預言者として選ばれ、神の霊によって立てられるのです。

 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけていって実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ福音書15章16節)というのは、そのことを言っています。

 主なる神はエゼキエルに「わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす」(3節)、「恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす」(4節)と言われます。エゼキエルが遣わされるのは、「主なる神はこう言われる」(4節)と告げさせるためです。

 「主なる神はこう言われる」というその内容は、まだ明らかにされてはいません。全くの白紙といってよいでしょう。何を語るのか、今はまだ分かりません。預言者が口を開くのは、自分が語りたいかどうかではありません。神の言葉に同意したとか、それに得心がいったとかいうものでもありません。まさに、神の語られた言葉を、ただそのまま告げ知らせるだけなのです。

 そして、この務めは、決して楽なものではありません。なぜなら、エゼキエルが神の言葉を告げ知らせるのは、「わたし(主なる神)に逆らった反逆の民」(3節)と言われる、「恥知らずで、強情な人々」(4節)なのです。

 ゆえに主は、冒頭の言葉(6節)のとおり、「あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない」と言われます。これは、恥知らずの民を恐れることなどない、強情な人々など恐れるに足りないということではありません。

 アザミと茨に押しつけられるのです。サソリの上に座らされるのです。即ち、酷いことをされるということでしょう。痛い目に遭わされるということでしょう。誰が怖がらないでいられましょうか。誰が進んでそんなところに行きたいと思うでしょうか。

 「主がこう言われる」と、神に命じられる言葉をそのまま告げ知らせるとき、エゼキエルにはそのような苦痛や危険が待ち受けているというわけです。恐れに満たされることでしょう。逃げ出したい思いに駆られることでしょう。

 しかしながら、エゼキエルには、この使命を拒むことは許されません。「あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」(8節)と言われるのです。彼には、主の御言葉に従うほか、進むべき道はありません。たとえ口に苦くても、それを呑み込むしかないのです。ここに、預言者として務めを果たす厳しさを思います。

 「口を開いて食べなさい」と言われて差し出されたのは、巻物でした(9節)。その巻物を開くと、表だけでなく裏にも文字が記されています。「それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」(10節)でした。巻物といえば、エレミヤがバルクに書き記させた預言のことを思い出します(エレミヤ書36章2節以下)。

 エレミヤはその巻物を、神殿で人々に読んで聞かせるようにさせました(同5節以下、8節)。それを聞いた役人たちがヨヤキム王に読み聞かせました(同20節以下)。ヨヤキム王は、その巻物をすべて暖炉で燃やしてしまいました(同23節)。

 エレミヤが巻物に書かせた言葉は、「哀歌」などではなかったと思いますが、ヨヤキムはそれを悲しい思いで聞いたのではないでしょうか。それは、ユダの背きの罪を糾弾し、バビロンがユダを滅ぼすと告げるものだったからです(同29節)。 

 エゼキエルに与えられた巻物も、そこに書かれている言葉が嘆きの言葉、悲しみの言葉というよりも、それを語り聞かせられた人々に嘆きや悲しみを与えるということでしょう。しかし、それが神への悔い改めにつながるというのではなく、かえって彼らをいよいよ頑なにして、エゼキエルにアザミと茨を押しつけ、サソリの上に座るようにさせるというのです。

 主イエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ福音書8章20節)と言われ、また、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ福音書9章23節)と命じられます。

 私たちは、主イエスの深い愛によって救われました。使徒パウロは、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ書1章29節)と語っています。

 「私ならば出来ます」という勇気も力もありませんが、主がせよと言われるのでしたら、「お言葉ですから、やってみましょう」と従わせて頂きたいと思います(ルカ福音書5章5節参照)。知恵も力もないことは、主なる神のほうが先刻承知なのですから。

 主が私たちに「せよ」と言われるということは、そう命じられる主ご自身の権威、権能、権勢をもってそれを成し遂げてくださるということだと信じます。そのために、霊が私たちの中に入り、自分の足で立てるようにしてくださると信じます。信仰をもって主の御言葉を聴きましょう。

 主よ、信じます。信仰のない弱いわたしをお助けください。聖霊の満たしと導きに与り、力を頂いて主の証人としての使命を全うすることが出来ますように。聖霊によって語るべき言葉を示してください。なすべき務めに遣わしてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。キリストの平和と喜びが、日本全土にありますように。 アーメン





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