「人の子よ、イスラエルの人々がわたしを聖所から遠ざけるために行っているはなはだ忌まわしいことを見るか。」 エゼキエル書8章6節
1節に「第6年の6月5日のこと」とあります。「第6年」は文脈から、ヨヤキン王が捕囚となってから(1章2節参照)、即ち第一次バビロン捕囚(紀元前597年)が起こってから6年目ということ、「6月」は、現在の9~10月ですから、紀元前592年の秋ごろに、エゼキエルが見た有様ということです。
エゼキエルの前に、ユダの長老たちが座っています(1節)。これは、エルサレムから長老たちがやって来たということではありません。彼らは、エゼキエルと一緒に捕囚となった長老たちです。彼らは、エルサレムの都とそこに建てられた神殿が、今どうなっているのかということを、預言者として立てられたエゼキエルに尋ねるためにやって来たのでしょう。
長老たちにとって、エルサレムの都は彼らが帰るべき故郷であり、神殿は主なる神がそこにおられるというしるしです。ゼデキヤ王の御世、エルサレムの都が安泰であるならば、捕囚の民は、イスラエルに帰る希望を持つことが出来ます。もし、都が破壊され、国が滅びてしまえば、彼らは戻る家を失うことになるわけです。
長老たちの求めに応じ、エゼキエルが主に託宣を求めたのでしょう。そのときエゼキエルに主なる神の御手が下り、エルサレム神殿の幻を見せられます(1,3節)。そこには、「激怒を起こさせる像」(3節)が収められていました。
「激怒を起こさせる像」とは、「ねたみを引き起こすねたみの偶像」(口語訳、岩波訳)という意味の、主に妬みを起こさせる異教の偶像のことです。それはアシェラの像であろうという学者がいます。岩波訳の脚注には、「シリアなどの神殿や宮殿の入り口から出土する神像や精霊像を思わせる」と記されています。
また、「北に面する内側の門」(3節)とは、王宮につながる門のことです。そこに偶像の祭壇が置かれているということは(5節参照)、この偶像をそこに設置したのは、ユダの王自身であるということを示しているのでしょう。
次に、庭の入り口に連れて行かれます(7節)。そこにある壁に穴をうがつと、入り口があります。その入り口から中に入ると、周りの壁一面にあらゆる地を這うものと獣の憎むべき像、およびイスラエルの家のあらゆる偶像が彫り込まれています(10節)。
本来の神殿のすべての壁面には、ケルビムとなつめやしと花模様の浮き彫りが施されていました(列王記上6章29節)。壁の穴をうがってその中にあらゆる偶像が彫り込まれた壁があるということは、主の神殿という外形をもってはいるけれども、その実、あらゆる偶像のための礼拝が、そこでなされているということでしょう。
そしてそこには、イスラエルの長老が70人います(11節)。「70」は完全数「7」と同じく完全数「10」とを掛け合わせた数であり、また、出エジプトの際に、民の指導者として集められ、モーセに授けられている霊の一部を授けられた長老の数です(民数記11章16節)。
その中心に、「シャファンの子ヤアザンヤ」が立っています(11節)。シャファンは、ヨシヤ王の書記官で(列王記下22章3節以下)、ヨシヤ王の右腕として神の律法に基づく宗教改革を推進しました。ところが、その子ヤアザンヤは、忌むべき偶像礼拝の中心人物になっているというのです。この強いコントラストによって、エルサレムがいかに堕落しているかということを際立たせています。
また、神殿の北に面した門の入り口では、「女たちがタンムズ神のために泣きながら座って」(14節)います。タンムズ神はバビロンの神です。また、聖所の入り口で太陽を拝んでいる25人ほどの人がいます(16節)。それは、主の聖所で働く祭司たちでしょう。彼らは「主の聖所を背にし、顔を東に向けていた」(16節)と記されています。
かくて、王や長老、女たち、そして主の祭司たちまでもが、まことの神に背いて異教の神々を拝んでいます。それも、主なる神を礼拝すべきエルサレムの主の神殿で、偶像礼拝が行われているというのです。
冒頭の言葉(6節)のとおり、主なる神はエゼキエルに、「人の子よ、イスラエルの人々がわたしを聖所から遠ざけるために行っている甚だ忌まわしいことを見るか」と言われました。
岩波訳は「イスラエルの家がここで行っていることは大それた忌まわしい行為であって、わが聖所からかけ離れたことだ」と記しています。また新改訳は「イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌みきらうべきことをしているではないか」と訳しています。
主なる神以外に神なるものはありません。イスラエルの民が異教の神々を拝むのは、まことの神を遠ざけ、あるいは、神の聖所から遠ざかる行為です。主を遠ざけ、主の聖所から遠ざかったということは、主の恵みと保護を受けることが出来ない、否、受けなくても良いといっていることになります。ゆえに、エルサレムは滅ぼされてしまうわけです。
これはしかし、昔話などではありません。私たちの礼拝の姿勢、その心が問われているのです。主なる神は、霊と真理をもって主を礼拝する者を求めておられるからです(ヨハネ福音書4章23節)。ゆえに、私たちは、霊と真理をもって主なる神を礼拝しなければなりません(同24節)。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(あなたがたに必要なもの)はみな加えて与えられる」(マタイ6章33節)と言われました。神の国とは主のご支配のこと、神の義とは主との義しい関係のことで、それをまず第一に求めるというのは、私たちにとって、主が最も大切なお方だということです。
主なる神は、私たちに必要なものが何であるかをよくよくご存じなので、主を第一に求める私たちに、その必要をお与えくださると約束されているわけです。つまり、私たちに希望を与えるのは、聖地エルサレムの町やそこに建てられている神殿などではなく、まことの神ご自身なのです。確かに、私たちの助けは、天と地を造られた主なる神のもとから来るのです(詩編121編1,2節)。
主なる神は私たちのために、御子キリストをこの世にお遣わしになりました。救いの恵みに与った者として、絶えず主イエスを仰ぎ、御言葉を豊かに心に宿らせましょう。そして、主に向かって心から賞め歌いましょう。
主よ、どうか私たちを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださいますように。すべての災いを遠ざけて、私たちを見守り、私たちの魂を守ってくださいますように。私たちの出で立つのも帰るのも、見守ってくださいますように。あなたなしに、しっかり立ち、正しく歩むことは出来ないからです。恵みの御手の下に留まり、主と共に歩ませてください。御名が崇められますように。 アーメン