「バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、バビロンの王の軛を負おうとしない国や王国があれば、わたしは剣、飢饉、疫病をもってその国を罰する、と主は言われる。最後には彼の手をもって滅ぼす。」 エレミヤ書27章8節
1節に「ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の初め」とあります。ところが、ヘブライ語原典には、この箇所に「ゼデキヤ」ではなく「イェホヤキム」(26章1節の「ヨヤキム」のこと)と記されています。
ただ、3節、28章1節などとの関連やここに記されている出来事が、この箇所を「ゼデキヤ」と読むべきであると教えています。新改訳チェーン式聖書の脚注には、筆記者による誤記で、「ゼデキヤの第4年」とするべきであろうと記されています。
「ゼデキヤの治世の初め」とすると、それは紀元前597年、ヨヤキンが捕囚としてバビロンに連行された後、バビロンの王がその叔父マタンヤを王とし、名をゼデキヤと改めさせたときのことです(列王記下24章15節以下)。
そして、ゼデキヤのもとにエドム、モアブ、アンモン、ティルス、シドンの王の使者たちが遣わされて来たのは(3節)、バビロンの王ネブカドネツァルがシリアに遠征して来た紀元前594年頃のことだろうと考えられています。つまり、ゼデキヤの第4年ということになります。新改訳チェーン式の脚注は、このことを指していたわけです。
バビロンの王を「ネブカドネツァル」と呼ぶのは、本書中27~29章だけで、この箇所以外では、「ネブカドレツァル」と記されています。また、この箇所では、エレミヤを「イルメヤーフー」ではなく、短形の「イルメヤー」が用いられています。この箇所が、これ以外の箇所とは違う形で伝承されてきた証拠と言ってよいでしょう。
ただし、「ネブカドレツァル」は、この箇所以外ではエゼキエル書にそう記されるだけで、それ以外は「ネブカドネツァル」(列王記下24章1,10,11節、歴代誌上5章41節、エズラ記1章7節など)です。聖書辞典によれば、「ネブカドレツァル」が本来の名前に近いヘブライ語の音写で、「ネブカドネツァル」はアラム語に由来する呼び名ということだそうです。
話を元に戻して、ネブカドネツァルはそのころ、外敵だけでなく、国内にクーデターが起こり、双方に対処しなければならないという大変な状態でした。それを機に、バビロンの重税に苦しめられているパレスティナ諸国の使者たちがゼデキヤのもとに集まり、この事態にどう対処すべきかと協議していたのです。
そのときに主がエレミヤに臨み、冒頭の言葉(8節)の通り、「バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、バビロンの王の軛を首に負おうとしない国や王国があれば、わたしは剣、飢饉、疫病をもってその国を罰する、と主は言われる。最後には彼の手をもって滅ぼす」と告げさせました。
主は、バビロンの王ネブカドネツァルを「わたしの僕」と呼び(6節)、彼に服従せよというのです。勿論、25章でも見たとおり、ネブカドネツァル自身に「主の僕」という意識があるはずもありません。
これは5節で「わたしは、大いなる力を振るい、腕を伸ばして、大地を造り、また地上に人と動物を造って云々」と言われているように、すべてのものを主なる神が創造されたのであり、その偉大な力と意志によってすべてのものを支配しておられるわけで、主がその力と意志をもって、イスラエルと周辺諸国をネブカドネツァルの手に委ねたと言われるのです(6,7節)。
5節の「与える」(ナータン)という動詞には、3人称女性形単数の接尾辞が付属しています。「これを与える」という表現で、この動詞の前にある女性形名詞といえば、「大地」と「動物」です。単数形なので両方を指すはずはなく、ここでは文脈上「大地」を指していると解して、「大地を与える」と読むべきだと思われます。
それは、神が創造された地球全体ということになりそうですが、著者が考えているのは、25章19~27節で見たような、当時のイスラエルの民が考えていた、エジプトからバビロンに至る「全世界」のことでしょう。
その地がネブカドネツァルに与えられるということは、そこに住む人々を支配するということでしょう。だから、「これらの国を、すべてわたしの僕バビロンの王ネブカドネツァルの手に与え、野の獣までも彼に与えて仕えさせる」(6節)といい、さらに、「諸国民はすべて彼とその子と、その孫に仕える」(7節)というのです。
そして、このときに「バビロンの王に仕えるべきではない」、「バビロンの王に仕えるな」というのは、主なる神に背くことであり、そのように語るのは、偽りの預言者であり、占い師、夢占い、卜者、魔法使いたちという、主の忌み嫌う者たちだというわけです(9,14節)。
しかしながら、パレスティナ諸国は勿論、イスラエルの民も、このように語るエレミヤの預言に喜んで耳を傾けようとはしなかったでしょう。特に、バビロンの王ネブカドネツァルが「主の僕」であり、彼に服従せよと言われたとしても、彼自身が主に忠実に仕える僕であればまだしも、彼は全くの異教徒なのですから、ネブカドネツァルに従うべきだという結論には、到底達し得ません。
むしろ、「主なる神はイスラエルを愛し、異教徒ネブカドネツァルの手からこのエルサレムの都を必ず守ってくださる」という言葉を聞きたいと願い、「今こそ、一緒にバビロンから独立を勝ち取ろう!」と叫ぶ言葉に喝采を送りたいと思っているのです。
もしもこのとき、ゼデキヤがエレミヤの言葉に従って、バビロンに仕えることを決断していたら、どういう結果になったのでしょうか。歴史に「タラレバ」は無意味かもしれませんが、町が破壊されたり、神殿が焼かれたりすることなく、民が捕囚となることも回避出来たかも知れません。
そして、主なる神は、謙って御言葉に従うことを求められるのですから、そのように歩むイスラエルの民のためには、70年などと言わず、速やかにバビロンの軛を撃ち砕き、重い税負担などの支配から解放してださったのではないでしょうか。
偽りの預言者が語る耳触りのよい言葉と、エレミヤの語る受け入れ難い言葉、いずれが真実な神の言葉であるのか、常日頃から主の御心を尋ね求め、その御言葉に聞き従っていれば、きっと聞き分けることが出来たでしょう。
しかしながら、ゼデキヤをはじめイスラエルの民は、それを聞き分けることはできませんでした。ということは、彼らがずっと主の御言葉に聞き従ってこなかったということなのです。そのゆえに、その呪いを受けざるを得なかったわけです。
主イエスは、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ福音書11章29,30節)と招かれます。
ヘブライ書5章8節には、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」と記されていました。その主イエスから柔和と謙遜を学ぶのです。苦労が全くないはずはありません。しかし、「疲れた者、重荷を負う者」(同28節)に対する言葉で、その重荷の上にさらに苦労を重ねようというのは、どうしたことでしょう。
「軛」は重荷を担い易くするための道具です。そして、「わたしの軛」とは、主イエスが用意してくださるものであり、また、主イエスが共に担ってくださるものということです。だから、そこには、苦労が苦労でなく重荷が重荷ではなくなる、真の安らぎがあります。
移ろいゆくものに目を奪われないように、その状況に躍らされ、振り回されないように、絶えず御言葉に耳を傾けましょう。御心を弁え、聖霊の導きに従って、主に委ねられた使命を主と共に担い、備えられた主の道を共に歩ませて頂きましょう。
主よ、私たちはあなたに感謝します。あなたは私たちを救われる神。私たちはあなたに信頼して恐れません。主こそわが力、わが歌、わが救いとなられました。私たちの耳を開き、いつも御言葉を聞かせてください。私たちの目を開きて、絶えず御業を拝させてください。そうして、どんなときにも主を仰ぎ、その御心を行う者となりますように。 アーメン