2019年07月
「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めなくても、主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』、これは永遠の昔からあなたの御名です。」 イザヤ書63章16節
イスラエルの民は、第二イザヤが預言していたとおり(40~55章)、紀元前538年に捕囚から解放され、帰国を果たすことが出来ました。けれども、民のエルサレムでの生活は貧しく厳しいものだったので、次第に明るい希望を見失っていきました。
11節で「そのとき、主の民は思い起こした、昔の日々を、モーセを。どこにおられるのか、その群れを飼う者を海から導き出された方は。どこにおられるのか、聖なる霊を彼のうちにおかれた方は」というのは、エジプトを脱出して約束の地へと導いてくれたモーセのような指導者を、自分たちの上にもう一度立てて欲しいという願いが語られているのです。
というのも、帰国後直ぐに神殿再建に取りかかりましたが、神殿再建を妨害する内外の敵の存在に加え(エズラ記4章参照)、干魃による飢饉などで生活自体がままならず(ハガイ書1章参照)、再建工事中断のやむなきに至ったからです。
ネヘミヤ記1章3節に「城壁は破れ果て、城門は焼き払われたまま」という言葉があります。これは、ペルシア王アルタシャスタの治世第20年、即ち紀元前444年頃のことですが、バビロンによって破壊されたままというより(列王記下25章10節)、エズラ時代の神殿再建妨害時に再び破壊されたとする解釈もあります(エズラ記4章23節参照)。
いずれにせよ、城壁、城門の破れを修復することが出来ずにいたわけです。そこで、「どうか、天から見下ろし、輝かしく聖なる宮からご覧ください」(15節)と求めます。「輝かしく聖なる宮」とは、天の王宮のことです。
エルサレムの神殿は未だ再建中で、完成を見ることが出来ていません。「間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名で呼ばれない者となってから、わたしたちは久しい時を過ごしています」(18,19節)と語られているからです。
「天から見下ろし」、「聖なる宮からご覧ください」と求めているのは、神に見捨てられているように、さらに、忘れ去られてしまったとさえ感じているからではないでしょうか。だから、「どこにあるのですか。あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは抑えられていて、わたしに示されません」(15節)というのです。
そのように求める根拠が、冒頭の言葉(16節)に示されます。預言者は、神を「父」と呼びます。「アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めなくても」とは、イスラエルの父祖アブラハムに与えられた祝福の約束が忘れられ、見捨てられたように思えるということです。しかし、そこでなお、父なる神の憐れみを求めて祈るのです。
また、「贖い主」(ゴーエール)とは、レビ記25章などで「買い戻す義務を持つ親戚」と訳されている言葉です。貧しくなって身売りした者を買い戻すのは、兄弟や叔父、従姉妹など、近親者の務めです(ルツ記2章20節、4章3節以下参照)。預言者は、神が近親者、特に父祖アブラハムに優る「父」として、イスラエルの民を苦しい生活から贖い出してくださるように求めているわけです。
それにしても、「なにゆえ主よ、あなたはわたしたちをあなたの道から迷い出させ、わたしたちの心をかたくなにして、あなたを畏れないようにさせるのですか」(17節)とは、よく言ったものです。天地万物の創造者であられる神は、彼らが罪を犯すのも、そうしないように守るのも、神の神の御業だというわけです。
そして、自分たちから目を離し、その存在を忘れたかのような扱いをしたからこうなったと、自分たちの罪を神になすりつけ、苦しみを味わっている責任を、神に転嫁しているとしか思えない言いようですね。勿論、それだから、自分たちがその罪の報いを受けることはないと考えているわけではありませんでした。
そもそも、7節で「わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を」と言っていました。「慈しみ」(ヘセド)も「栄誉」(テヒラー:「賛美」の意)も複数形で、何度も何度も神の恵みを受けたことを心に留めるということです。
ということは、これまで、恩知らずにも、それを忘れていたということでしょう。そのことが、10節の「彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた」というところに明示されています。
そこで、「立ち帰ってください、あなたの僕たちのために、あなたの嗣業である部族のために」(17節)と求め、「どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」(19節)と願っています。
そして、主は「贖い主」として、自分たちの苦しみに目を留め、そこから贖い出してくれるように、そのために、天を裂いてくだっておいでくださるようにという祈りに応えてくださいました。神の独り子が私たちの罪を背負い、十字架に死んで、贖いの御業を完成せいてくださったのです。それゆえ、私たちは罪赦され、神の子として生きる恵みに与りました。
主イエスが十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ福音書15章34節)と叫ばれ、息を引き取られたのは(同37節)、罪のない神の御子が私たち全人類のすべての罪を御自分の身に引き受けて、贖いの死を遂げてくださったしるしです(2コリント5章21節、1ペトロ2章22節以下)。
常に贖い主なる主イエスを仰ぎ、その恵みに感謝しましょう。御言葉に耳を傾け、信仰に固く立たせていただきましょう。
主よ、あなたの豊かな愛と憐れみのゆえに感謝します。これまで受けてきた数々の恵みの御業を心に留め、常に主を喜び、主に喜ばれる歩みが出来ますように。絶えず御言葉に耳を傾け、感謝をもって御心を行うものとなることが出来ますように。 アーメン
「シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず、エルサレムのために、わたしは決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で、彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。」 イザヤ書62章1節
62章も、エルサレムの回復がうたわれています。シオン、神の都エルサレムは、「捨てられた女」と呼ばれました。神の都としての栄光を失い、長い間「荒廃」したままだったからです(4節、60章14,15節)。しかし主は、失意落胆の中にいるイスラエルの民に呼びかけ、救いを約束されます。
かつて、イスラエルの民はバビロンにおいて、捕囚として大変な苦難を味わいました。エルサレムの都から遠く離され、神殿は破壊されてしまいました。この苦しみから誰が解放してくれるのか。そもそも、バビロンの神マルドゥク(エレミヤ書50章2節)やネボ(イザヤ46章1節)は、イスラエルの神、主=ヤハウェに優っているのではないか。民はそのような嘆き、呻きの中にいました。
そのような民に神の慰めの言葉を告げたのが、第二イザヤです(40章1節以下)。預言者は、バビロンの神々は人間が造ったもので、語ることも動くことも出来ず、薪として燃やしたとき、暖かさを与えてくれるだけのものと皮肉ります(44章9節以下)。そう語る背景に、バビロンの人々が捕囚の民を嘲り、おのが神を誇るということがあったのでしょう。
その後、ペルシアがバビロンを倒し、イスラエルの民は帰国を果たします。それは彼らにとって、夢を見ているのではないかという出来事でした(詩編126編1節)。キュロス王が救い主、メシアに見えました(45章1節など)。けれども、帰国を果たすことが出来たものの、未だ約束の地は彼らに祝福をもたらしてはいません。むしろ、みすぼらしく貧しい生活を余儀なくされ、苦闘しています。
かつて主は第二イザヤの召命記事で、「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」(42章2節)といい、また、捕囚の民の苦しみに寄り添い、癒すお方として御自分のことを、「わたしは決して声を立てず、黙して、自分を抑えてきた。今、わたしは子を産む女のように喘ぎ、激しく息を吸い、また息を吐く」(同14節)と言われていました。
主なる神は、黙して語らない中に救いの業を進められるお方であることを示していたのです。しかし、帰還したイスラエルの民は、その沈黙を救いの徴とは見ることが出来ませんでした。むしろ、救いを求める民の声に神が応えられない、神は私たちを見捨てたのではないかという疑いが広がって来ました(64章9節以下、11節参照)。
その声に応えるように語られているのが、冒頭の言葉(1節)です。預言者が、「彼女の正しさが光と輝き出で、彼女の救いが松明のように燃え上がるまで」、つまり、神とイスラエルとの関係が正され、その救いが実現し、それを、諸国の人々が見るようになるまで、語り続けると言います。そこに、神の御言葉に対する預言者の確信があります。
そのときシオン・エルサレムにあるイスラエルの民は、「捨てられた女」(アズバ:60章15節、54章6節参照。ヨシャファト王の母の名[列王記上22章42節])とは呼ばれず、「夫を持つもの」(ベウラー)と呼ばれます(4節)。イスラエルにとって、主なる神が、花嫁を守る花婿となってくださるのです。
「荒廃」(シェマーマー)は、54章1節のように「不妊」を意味するものと解釈されます。また「望まれる者」(ヘフツィ・バハ)は、「わたしの喜びは彼女にある」という言葉で(口語訳、新改訳、岩波訳「わが望みは彼女に」。マナセ王の母の名[列王記下21章1節])、主がエルサレムとの関係を回復するのを喜びとされるということでしょう。
さらに12節で「彼らは聖なる民、主に贖われた者、と呼ばれ、あなたは尋ね求められる女、捨てられることのない都と呼ばれる」と言われています。「聖なる民」は申命記7章6節、「贖われた者」は出エジプト記15章13節と、古い契約を思わせる用語で新しい関係が始まることを伺わせます。
2節に「主の口が定めた新しい名をもって、あなたは呼ばれる」とあったとおり、それは、主なる神の一方的な恵みであることを示しています。
黙示録21章2節に「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整え、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」とあります。同9節でも「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せて上げよう」と言い、それが、聖なる都エルサレムのことと、同10節に記されています。
ヨハネ3章29節の洗礼者ヨハネの言葉と併せ、教会は聖なる都、新しいエルサレムのひな形といってよいでしょう。主なる神は私たちに救いの衣を着せ、恵みの晴れ着をまとわせ、輝きの冠をかぶらせ、宝石で飾ってくださいます(61章10節)。
見えるところでは、未だ困難の中かも知れません。神が沈黙しているとしか思えないかも知れません。あるいは眠っておられるように見えるかも知れません(マルコ4章38節参照)。けれども、常に共にいてくださる主に平安を見出し、希望と喜びをお与えくださる主の恵みを、「口を閉ざさず」、人々に告げ知らせていきたいと思います。
主よ、御言葉と祈りを通して、常に主との親しい交わりにお導きくださり、有り難うございます。主の深い御心に触れ、心が主の平安で包まれます。聖霊に満たされ、力を受けて、その恵みを喜びと感謝をもって、人々に告げ知らせることが出来ますように。 アーメン
「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人によい知らせを伝えるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれた人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」 イザヤ書61章1節
1~3節に、預言者の召命について記されています。それは、神殿の再建に着手したものの、すぐに行き詰まってしまい、意気消沈していたエルサレムの人々に希望を与えるためです。神殿再建が行き詰まったのは、エルサレムの状況が余りにも悪かったからです。その状況は、ハガイ書1章1~11節からうかがい知ることが出来ます。
ハガイの預言から、エルサレムの人々の生活はあまりに貧しく、衣食住という基本的生活の確立に忙しくて、神殿建設にまでは、とても手が回らなくなっていたのです。その上、干ばつに襲われて不作となれば、神殿建築の事業はすぐにも頓挫してしまったことでしょう。
そこで、冒頭の言葉(1節)のとおり、「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしを捕えた」と告げて、自分は、主から油が注がれて預言者として立てられ、主なる神の霊が自分を通して語っておられるというのです。
ここで、原文を直訳すると、「主なるヤハウェの霊がわたしの上にある。というのは、主はわたしに油を注いだからだ」となります。前にも学んだように、「ヤハウェ(YHWH)」は通常「主(アドナイ)」と訳されますが、「主なる主」では日本語として可笑しいとして、「主なる神」という訳出されたようです。
油注ぎについて、具体的には、先輩預言者から油を注がれて、預言者に任命されたというところでしょうか(列王記上19章16,19節、列王記下2章13,15節参照)。それを、主の霊が自分の上に降ったことによってオーソライズされたので、自分の油注ぎ、即ち預言者への任命は、主からのものだというのです。
油注ぎについて、具体的には、先輩預言者から油を注がれて、預言者に任命されたというところでしょうか(列王記上19章16,19節、列王記下2章13,15節参照)。それを、主の霊が自分の上に降ったことによってオーソライズされたので、自分の油注ぎ、即ち預言者への任命は、主からのものだというのです。
バプテスト教会では、ある人を牧師として任命するとき、先ず、その人を牧師として招聘するかどうか、総会を開いて協議します。その際、その人が神によって選び立てられた教職者であるのか、その人がその教会の牧師としてふさわしいかどうかを判断し、協議して結論を得るのです。
その人が神に召されていること、また当該教会の牧師となることが神の御心、ご計画であることという、ある意味で証明不可能な個人的事柄を、教会の総会決議をもって承認しようというわけです。
その際、その人物の人柄、教養、知識経験がいかに素晴らしいものであったとしも、それで、当該教会の牧師の職務が全うできるというものではありません。そして聖書は、神はあえて無学な者、無力な者、無に等しい者を選ばれると語ります(第一コリント書1章26節以下)。
神がその人を召されたということは、その働きが神のためのものだということです。そしてそれは、神の導き、神の助けなしに、完遂することは出来ないということです。だから、その牧師の職務が主にあって全うされていくように、神の祝福と聖霊の導きを祈るのです。
そのための儀式が按手礼です。そしてそれは、牧師個人のための儀式ではありません。牧師の職務が全うされるということは、当該教会の宣教活動と信徒相互交わりが豊かにされるということであり、それによって主なる神の栄光が表されるということです。その祝福と導きを祈るのは、教会の務めであり、責任です。それが、総会をもって牧師招聘を決議する意味です。
10節に「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。云々」と記されています。これは、預言者がイスラエル全体を代表して、感謝の賛美を歌っているのです。ということは、イスラエル全体に主の霊の働きがあり、預言者が代表して油注ぎを受けたといってもよいでしょう。
預言者が召されたのは、「貧しい人によい知らせを伝えさせるため」です。「貧しい人」(アナウィーム:複数形)は、単に経済的な貧しさだけでなく、惨めな状態に置かれている人、抑圧されている人をも意味するものでしょう。「打ち砕かれた心」、「捕らわれ人」、「つながれている人」など、負債を返せないために投獄され、奴隷のような状態にある者の労苦を示す言葉が、それを示します。
冒頭の言葉(1節)の最後の行にある「解放」(ペカ・コーハ)という言葉は、「目を開くこと」という意味の言葉で、この箇所以外には出て来ません。その意味で、この「解放」は、暗闇に光が射すというような、精神的な苦痛から解き放たれることを暗示しています。
ここに、当時のイスラエルの民が置かれていた状況を見ることが出来るようです。預言者は、失望落胆している民に、主の救いの計画が示し、希望を与えようとしているのです。
主イエスがナザレの会堂でこの箇所(1~3節)を朗読され、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4章17節以下、21節)と語られました。これにより、主イエスが神から遣わされたメシアであり、主イエスの到来により、預言が実現したのだと告げておられるのです。
主イエスの贖いの業によって救いの恵みに与った者として、私たちも、「主は救いの衣を着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花嫁の表に輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる」と賛美させて頂きましょう。
主よ、罪の闇の中にいた私たちを救いに導き、聖霊をあたえて賛美の心をまとわせてくださり、心から感謝します。日々主の御言葉に与り、その恵みを多くの人々に語り伝えるために立ち上がり、光を放つことが出来ますように。いつも全力を注いで、主の業に励む者としてください。御国が来ますように。御心がなされますように。 アーメン
7月21日(日)の主日礼拝には、教会員14名、来賓10名がお見えになりました。
礼拝後の昼食会に12名の参加がありました。
感謝です。
主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。
アップするYouTubeのアカウントを変更しました。
ご面倒をおかけしますが、チャンネル登録しておられる方は、登録し直してください。
よろしくお願いします。
説教 「過越の準備」
聖書 ルカ福音書22章7~13節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師
ご覧ください。
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説教 「過越の準備」
聖書 ルカ福音書22章7~13節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師
ご覧ください。
7月21日(日)は、教会学校小学科(小学生)、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
教会学校は、「聖書教育」誌にもとづいて、旧約聖書・創世記(ヨセフ物語)から、共に聖書の学びと交わりを行います。
主日礼拝を10時半から行います。
礼拝では、新約聖書・ルカ福音書22章章7~13節より、「過越の準備」と題して、原田牧師より説教をいただきます。
写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。
キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。
礼拝後、昼食会(有料・自由参加)があります。
昼食会後、各会例会を行います。
「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。」 イザヤ書60章1節
60~62章は、第三イザヤと呼ばれる預言(56~66章)の中心的な部分を構成していると言われます。60章は59章20節の「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると、主は言われる」という言葉に導かれるかたちで、語り出されています。
捕囚からエルサレムに帰還を果たしたイスラエルの民は、ペルシア王キュロスによる捕囚からの解放が、第二イザヤが告げていた預言を直ちに完成するものではないということを、思い知らされていました。それは、帰国の一年後に始められた神殿再建の働きが(エズラ記3章8節以下)、妨害に遭って中断を余儀なくされてしまうからです(同4章)。
神殿再建もままならず、経済的にも大変厳しい状況の中で、私たちの断食は顧みられない(58章3節)、主の手は短い、主の耳は鈍い(59章1節参照)といった不満な思いが、イスラエルの民の間に蔓延していたのです。
それに対して60章は、第二イザヤのメッセージを語り直し、強調するものとなっています。たとえば、4節の「目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る」は、49章18節で「目を上げて、見渡すがよい。彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る」と告げられていました。
また、16節後半の「こうして、あなたは知るようになる。主なるわたしはあなたを救い、あなたを贖う者、ヤコブの力ある者であることを」も、49章26節で「すべて肉なる者は知るようになる。わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う、ヤコブの力ある者であることを」と語られていたものです。
その救いの到来を、闇の中に現われる光として語っているのが、冒頭の言葉(1節)と、続く2節の言葉です。「闇」(ホーシェク)、「暗黒」(アラーフェル)は、無知や罪、不幸、破壊、死などを象徴する言葉です。
闇の中に現われる光というイメージは、9章1節の「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」、42章16節の「行く手の闇を光に変え、曲がった道をまっすぐにする」にもあります。イザヤが一貫して語り継いでいるメッセージということが出来るでしょう。
ただ、9章1節に告げられる「大いなる光」は、直前の8章23節に「ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」と告げられているところから、アッシリアに滅ぼされた北イスラエルで輝くと言われているようです。
冒頭の言葉で「起きよ」(クーミー)は、打ちひしがれ、うずくまっている人々が栄光の主に向かって目を上げ、立ち上がるよう促し、「光を放て」(オーリー)は、栄光に包まれている姿を人々に見せなさいということでしょう。ここに用いられている動詞は女性形であることから、「エルサレム」に向かって告げられています。
これは、主イエスが、「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか(マルコ4章21節)と語られた言葉を思い起こさせる表現です。しかし、どうしてうずくまっている人が立ち上がり、栄光を現すことが出来るのでしょうか。そういう希望も喜びもないので、うずくまっているのではないでしょうか。
起き上がり、光を放つ力が、彼らの内にあるはずもありません。原典には、「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」の前に、「キー」という単語があります。「キー」は、「なぜならば(because)」と訳される、理由や根拠を示す接続語です(聖書協会共同訳当該箇所参照)。
「昇る」と訳されている言葉(ボー:「来る、行く」の意)も「輝く」という言葉(ザーラー:「太陽が昇る、照り輝く」の意)も、完了形動詞が用いられています。つまり、既にあなたの光はやって来た、既に主の栄光があなたを照らしているということです。それだから、立ち上がって、その輝かしい栄光に包まれたあなたの姿を、私たちに見せなさいというのです。
光と栄光の組み合わせは、58章8節にもありました。闇に輝く光、主が闇の中にあるエルサレムに栄光を表されるというモティーフは、第三イザヤの主要なテーマといってよいでしょう。
ただ、この預言は、直ちに実現したとは言い難いものです。イスラエルは、この後もペルシアの支配下に置かれ、次はギリシア、続いてシリア、それからローマの支配を受けることになります。1947年の国連決議(パレスティナ分割統治)に基づき、翌年、イスラエル国家が独立、誕生しますが、主の栄光とはほど遠い有様です。
しかし、確かに主の栄光がエルサレムに訪れました。神の御子イエス・キリストの到来です。6節に「ミディアンとエファの若いらくだが、あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る」とありますが、黄金、乳香、没薬を携えた占星術の学者たちが東の方かららくだに乗って、乳飲み子の主イエスのもとにやって来ました(マタイ2章1節以下、11節)。
ヨハネ福音書1章のロゴス賛歌の中で、「言(ことば:ロゴス)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1章14節)と歌われています。
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(同4節)と告げられるとおり、ロゴスなる主イエスが人間を照らす光としてこの世に来られました。主イエスを通して、主の栄光が私たちの上に輝いているのです。私たちはその栄光を見ました(同14節)。
パウロも「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(第二コリント書4章6節)と語っています。
ということは、「起きよ、光を放て」と私たちにも命じられているのです。信仰によって聖霊に満たされ(エフェソ5章18節)、その力を受けて主の証人として用いていただきましょう(使徒言行録1章8節)。
主よ、あなたの豊かな憐れみによって、私たちはあなたの栄光に包まれています。聖霊の力を受けて立ち上がらせてください。世の光として、主の栄光を輝かせてください。多くの人々が主イエスへと集まり、その恵みと真理に与りますように。 アーメン
「主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕、主を支えるのは主の恵みの御業。」 イザヤ書59章16節
ペルシア王キュロスによって捕囚から解放され、意気揚々と帰国した民は、神殿再建や独立運動が遅々として進まないことに業を煮やし、「主の救いの手は短くて、自分たちには届かない」、「神の耳は遠くて、私たちの祈りが聞かれない」と嘆いていたのでしょう。
58章3節の「何故あなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのか」という不満にも、それが表われていました。
けれども、そのような嘆きに対して預言者は、「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(1,2節)と語り、民の苦難の原因が、イスラエルの民の罪にあること、それによって救いが妨げられていることを示しています。
これは、50章1節の「お前たちの罪によってお前たちは売り渡され、お前たちの背きのために母親は追い出されたのだ」と、同2節の「わたしの手は短すぎて贖うことができず、わたしには救い出す力がないというのか」という言葉を再解釈し、自分たちの罪を棚に上げて、苦難の原因を主なる神の所為にしようとする責任転嫁こそ、民の罪を如実に示すものだということです。
預言者は、イスラエルの民を「お前たち」(2節以下)、「彼ら」(5節以下)と呼んで、その罪を指摘してきましたが、9節以下では「わたしたち」になります。これは、預言者がイスラエルの民の罪を自分自身のこととして言い表しているのです。
預言者は、民と共に神の御前に立ち、「主に対して偽り背き、わたしたちの神から離れ去り、虐げと裏切りを謀り、偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく」(13節)とその罪を告白して、ここに神の憐れみと赦しを請うているのです。
主イエスが十字架の上で語られた最初の言葉は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ福音書23章34節)でした。自分を殺そうとしている者のために赦しを父に請う祈りで、感動を禁じえません。とはいえ、ここで主イエスは私たち罪人のことを「彼ら」と呼び、ご自身とは区別しておられます。
ところが、主イエスが息を引き取られる前に叫ばれたのは、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、すなわち、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉でした(マルコ福音書15章34,37節)。つまり、民の罪をご自身の身に負われ、見捨てられたのは「彼ら」ではなく、「わたし」であると言い表しておられるのです。
この主イエスの執り成しと贖いのゆえに、私たちは罪赦され、永遠の命が授けられ、神の子として天の御国に受け入れられる者としていただいたのです。
このことが冒頭の言葉(16節)で、「主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により、主を支えるのは主の恵みの御業」と語られています。いかに預言者といえども、神の御前に自らを義とすることは出来ません。程度の差はあれ、預言者もイスラエルの民も、罪ある存在であることに変わりはありません。
ですから、主なる神は独り子キリストをこの世に送り、人の子として生まれさせ、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(第二コリント書5章21節)。即ち、この世に救いをもたらすのは、まさに「主の御腕の力であり、主の恵みの御業」以外の何ものでもないということです。
使徒ペトロが議会で宗教指導者たちの取り調べを受けていたとき(使徒言行録4章1節以下)、ペトロが聖霊に満たされて「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの(主イエスの)名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12節)と語っています。
私たちも聖霊の力に満たされ、主イエスの証人として、キリストの福音を告げ知らせて参りましょう(同1章8節参照)。主イエスを信じる信仰以外に、私たちを救い得るものはありませんし、また、「主(イエス)を信じる者は、だれも失望することがない」(ローマ書10章11節)と信じるからです。
罪を悔い改め、主なる神と新しい契約を結んだ者に、主の霊が上から注がれ、語るべき福音の言葉がは、私たちの口に授けられます(20,21節、ローマ書10章8節)。主を仰ぎ、主の細き御声に絶えず耳を傾けましょう。
主よ、あなたは憐れみと慈しみに富み、私たちを贖う者として、御子イエスをこの世にお遣わしになられました。その偉大な救いの御業のゆえに御名を崇め、感謝と賛美をささげます。私たちを聖霊で満たし、主の福音を大胆に伝え、その恵みを感謝とともに証しすることが出来ますように。主の僕、その恵みの通りよき管として用いてください。 アーメン
「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を立ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。」 イザヤ書58章6,7節
1節に「喉をからして叫べ、黙すな、声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きを、ヤコブの家に、その罪を告げよ」と言われます。「喉をからして叫べ」と言われるのは、国中にその声を響かせよということと、民が神に立ち帰るよう繰り返し叫ぶことが要求されているわけです。それは、民が預言者の声に素直に耳を傾ける状況ではないということではないでしょうか。
イスラエルの民の「背き」とは、3節で民が神に向かって「何故あなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのか」と不満を述べたことで明らかにされたものです。自分の振る舞いを自ら義とし、神がそれを認めるようにと要求しているわけです。
断食は一年に一度、7月10日の贖罪日、神の裁きを心に留め、悔い改める日に行うよう定められました(レビ記16章、23章27節以下参照、ここに「苦行」と記されているのが、断食のことです)。やがてこれに、エルサレムの陥落を悲しむ日や神殿の破壊を憶える日、総督ゲダルヤの死を悼む日などが加わって、年に4回、断食日が設けられることになりました(列王記下25章参照)。
ゼカリヤ書7章5節に「五月にも、七月にも、あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが、果たして、真にわたしのために断食してきたか」という主の嘆きの言葉があります。繰り返される苦行、断食が、真に神を礼拝するためではなく、人々が自分の考え、自分たちのやり方で儀式を行い、願い事をして、それで神を礼拝し、断食したつもりになっているというのです。
バビロン捕囚からの解放後、終末の到来への期待が起こり、苦難から解放される終末を熱望する気運が高まりました。それなのに、自分たちの期待する終末が訪れません。神はどうして期待に応えてくださらないのかという深刻な問いがそこにあったと思われます。エルサレムに戻って来た民の生活は以前苦しく、都の再建もままならないという状況が続いていたのです。
それで、断食して主の到来を求めているのに、その労苦に目を留められないのは何故なのかというわけです。その答えを求めて苦行する機会が増え、なかなか答えが与えられないので、ますます熱心に断食が行われるようになったといってもよいのでしょう。
それに対して、冒頭の言葉(6,7節)が語られています。神の喜ばれる断食を行うなら、8節以下の祝福に与ります。そうでなければ、1節以下にいわれる罪の宣告を受けます。冒頭の言葉に対する対応が、祝福と呪いの分水嶺ということです。
冒頭の言葉(6,7節)に告げられていることが神の選ばれる断食だということは、「ヤコブの家」(1節)、イスラエルの民が正義と公正の実現を切望し、かく尽力することが、主なる神のたっての望みだと示されます。
これはマタイ25章31節以下の、主イエスが最後の審判者としておいでになり、すべての民を、祝福に与る人と、呪いを受ける人に分けられるという記事を思い起こさせます。主イエスは、弱い人、助けを必要としている人への対応が、御自分に対する対応であり、それによってその人が裁かれると言われるのです(40,45節)。
その上、主から祝福される者は、主に対してよい対応をしたとは考えておらず(同37節以下)、一方、主に呪われる者は、よい対応をしたつもりでいる(同41節以下)と語られました。
神の喜ばれる断食を行うなら、8節以下の祝福に与ります。そのことについて、8節には「そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る」と記されていました。
また11節では「主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる」と約束されています。
光と水は、人が生きていく上で、欠かすことの出来ないものです。そして、ただその必要なものが与えられるというだけではなく、「あなたの光は曙のように射し出で」(8節)、「あなたは潤された園、水の涸れない泉」(11節)といわれるように、どの人から溢れ出て、隣人にその恵みを広げる祝福の源となるのです(創世記12章2,3節参照)。
日々主を尋ね求め、主の道を知ろうと望みましょう。恵みの業(正義:ツェダカー)を行い、神の裁き(公正:ミシュパート)を捨てない民として、主の正しい裁きを尋ね、神に近くあることを望みましょう(2節)。
主よ、私たちの内を御言葉の光で照らしてください。御言葉に癒しがあり、命があるからです。私たちに語りかけれらる御言葉を通して御心をわきまえ、神の望まれる業を行うものとならせてください。キリストを心の中心にお迎えします。聖霊の力を受け、主の福音を語り伝えさせてください。命の水が私たちの腹から川となって流れ出ますように。 アーメン
「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」 イザヤ書57章15節
57章は、前半13節までに、まじないや異教の偶像により頼む者に対する裁きの言葉が記され、後半14節以下には、へりくだり、心の砕かれた者への祝福の言葉が記されています。このように記されているということは、裁きか祝福か、どちらかを選びなさいということですし、当然のことながら、裁きではなく、祝福を受けなさいと勧めているわけです。
こう語られる背景を考えると、少々暗澹たる思いになります。というのは、イスラエルがバビロン捕囚の憂き目を見たのは、神の命に背いて異教の偶像を祀り、呪いや口寄せに頼って、その怒りを買ったためだったからです。
50年の奴隷の苦しみから解放され、帰国が許された民が、またもや、異教の偶像に依り頼み、占いや呪いを行っているのであれば、イスラエルを憐れみ、ペルシア王キュロスをたてて彼らを解放してくださった神の恵みが無駄になってしまいます。
1節に「神に従ったあの人は失われたが、だれひとり心にかけなかった。神の慈しみに生きる人々が取り去られても、気づく者はない」とあります。ここで「神に従ったあの人」とは、「義人」(ハ・ツァッディーク:the righteous man)という言葉です。新共同訳は、第二イザヤのような預言者を指していると考えて、「神に従ったあの人」という訳語にしているのでしょう。
また、「神の慈しみに生きる人」は、「愛の人々」(アヌシェイ・ヘセド:岩波訳「愛の人」)になります。これは、第二イザヤの指導に従っていた人々のことかも知れません。新改訳は「誠実な人々」と訳しています。
義人と呼ばれる預言者や、その指導に従う慈しみ深い誠実な人々がいなくなっても、誰も心にかけない、気づかない状況というのは、決してよいものであるはずがありません。だから、もう一度裁かれなければならないようなことになるのです。
けれども、神に従い、神の慈しみに生きる人々には「平和が訪れる」、「真実に歩む人は横たわって憩う」(2節)と言われます。つまりそれは、悲惨な死を迎えながら、地が裁かれる前に神の平和の内に迎えられ、安らかに憩うことが出来るということでしょう。
一方、神に従う者に聞かず、むしろ神の慈しみに生きる人々を苦しませた人々、異教の偶像に迷った人々に対して、主なる神は「わたしがとこしえに沈黙していると思って、わたしを畏れないのか」(11節)と言われ、「助けを求めて叫んでも、お前の偶像の一群はお前を救いはしない。風がそれらすべてを巻き上げ、一息でそれらを吹き去るであろう」(13節)と語られました。
しかしそれは、イスラエルの民が神の前に罪を悔いて謙り、砕かれた心で神の前にひれ伏すことを、主が願っておられるということなのです。冒頭の言葉(15節)のとおり、主はこの世の罪から離れて、ひとり高く聖なる所に住んでおられますが、しかし、永遠のかなたにおられるというのではありません。「打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり」(15節)と言われています。
「(聖なる所に)住む」、「(共に)ある」は、いずれも「腰を下ろす、落ち着く、住む」(シャーカン)という言葉で、ここから「幕屋」(ミシュカン)という言葉が出来、また、後のユダヤ教にとって重要な用語となる「神の臨在」(シェキーナー)という言葉も生まれました。
「高く聖なる所」に住まわれる主が、「打ち砕かれて、へりくだる霊の人」のいるこの地に低く降って共に住まわれ、そこにご自身の臨在を現されるのです。パウロが、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました」(フィリピ書2章6,7節)と記しています。
ペトロは、「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」(第一ペトロ書5章6節)と言います。「自分を低くする」(タペイノオー)は、正確には「低くされなさい」(タペイノーセーテ:受動態、2人称複数形)という言葉です。神の力強い御手で押さえつけられなさいと言えばよいでしょうか。
つまり、理不尽と思えるほどに低くされ、あるいは辱められ、苦しめられたとき、それを神の御手によるものと考えて身を任せなさいということです。続けて、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(同7節)と語っているのは、そのことでしょう。
イスラエルが捕囚の辱め、苦しみを受けたのは、そのことによって謙り、心砕かれ手心の悔い改めに導かれるため、そして、主が彼らと共に住まわれ、彼らを高く引き上げ、神の栄光を見せてくださるためだということです。
主は、「わたしは彼をいやし、休ませ、慰めをもって彼を回復させよう。民の内の嘆く人々のために、わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす」(18,19節)と言われます。
主の招きに応え、謙って御前に進みましょう。御言葉に耳を傾け、その恵みに与りましょう。御霊の導きに従い、御心を行うものとならせていただきましょう。
主よ、私たちは驕り高ぶる者であり、また神に背き、従わない者でした。それゆえに苦しみ、悲しみを味わうことがありました。然るに神は、私たちを憐れみ、恵みを味わわせてくださいました。今、あなたが私たちと共に住み、私たちの内にいてくださることを感謝します。絶えず御前に謙り、御言葉に耳の開かれた者としてください。目が開かれて、あなたの御業を拝させてください。私たちの体、生活、教会の交わりをとおして、主の栄光を現すことが出来ますように。 アーメン
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