風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2019年07月

7月31日(水) エレミヤ書4章

「まことに、主はこう言われる。『大地はすべて荒れ果てる。しかし、わたしは滅ぼし尽くしはしない』。」 エレミヤ書4章27節

 5節以下には、「北から災い」(6節)がもたらされることが語られます。これは、1章13節の「煮えたぎる鍋」の幻、続く14節で「北から災いが襲いかかる」と告げられていたものです。この災いをもたらす敵について、7節で「獅子」、「諸国の民を滅ぼす者」と言われています。

 エレミヤが預言者としての働きを始めた頃、バビロンはまだ新興勢力でしたが、イスラエルを圧迫するアッシリアを滅ぼす希望の星として期待していたようです。岩波訳の注には、「好戦的な騎馬民族のキンメリア人やスキタイ人を指すものと解される」とあります。

 アッシリアは、バビロン軍に首都ニネベを落とされ、失地回復のためエジプトの助力を受けてカルケミシュでの戦いに臨みますが、この戦いに敗れて、歴史の表舞台から姿を消すことになりました。バビロン軍はその後、ヨヤキムの代にエルサレムに攻め上ってきました(列王記下24章1節)。以来、北の脅威はバビロンになりました。

 ヨヤキムはネブカドネツァルに降伏し、三年間服従していましたが、その後反逆しました(同1節)。ヨヤキムの死後、代わったヨヤキン王のとき、バビロン軍に都を包囲されて、王族のほか家臣、高官たちを捕虜としてバビロンに連れて行かれました。これが、第一次バビロン捕囚と言われます(同12節以下15節、紀元前597年)。

 ネブカドネツァルはヨヤキンに代わり、叔父マタンヤをゼデキヤと改名し、傀儡の王として立てました(同17節)。後にゼデキヤがバビロンに反旗を翻したので(同20節)、再びエルサレムがバビロン軍に包囲され、壊滅的打撃を受けることになりました(同25章1節以下)。それをさせられたのは、主なる神です(同24章20節、20章16節以下)。

 エレミヤが語った北からの脅威は、岩波訳のようにキンメリアやスキタイだったのか、それともバビロンのことを預言したのか、確かなことは分かりません。いずれにせよ、預言の通り北から押し寄せてイスラエルを滅ぼしたのは、バビロンだったのです。

 8節に「主の激しい怒りは我々を去らない」とあります。「去ら(ない)」は、シューブという動詞です。何度呼びかけて立ち帰らない民に臨んだ激しい怒りが、彼らから立ち帰らないようにされたという言葉遣いです。つまり、北からの災いとして繰り返し攻め上って来たバビロン軍は、主の激しい怒りの表れだったということです(列王記下24章20節参照)。

 23節以下で、「わたしは見た」(ラーイーティー)が4回繰り返されます。ここに、イスラエルが徹底的に荒らされ、滅ぼされることが語られています。

 預言者が最初に見たのは、「大地は混沌とし、空には光がなかった」(23節)という光景です。「混沌」という言葉は、聖書中ここと創世記1章2節の二箇所だけです。創世記では、混沌とした地に光が造られたと記されていますが、ここでは、全地の秩序が失われて混沌とした世界に戻り、光もないと語られて、ちょうど創世記の天地創造の動画を逆回ししているようです。

 次に見たのは、「山は揺れ動き、すべての丘は震えていた」(24節)という光景です。「国破れて山河あり」(杜甫「春望」)という詩のごとく、山や丘は不動のものの象徴ですが、安定と秩序が失われるということです。

 3番目は、「人はうせ、空の鳥はことごとく逃げ去っていた」(25節)という光景です。神はご自分と交わりの出来る存在として人を創られましたが、人は神に従うことをよしとしませんでした。再三「立ち帰れ」(1節、3章14節以下)と呼びかけられても、それに応じなかったので、北からの災いによって、人も空の鳥も住まないような廃墟になってしまいます。

 最後に「実り豊かな地は荒れ野に変わり、町はことごとく、主の御前に、主の激しい怒りによって打ち倒されていた」(26節)という光景を見ました。地を耕して産物を得るように、主なる神はアダムに使命を与えました(創世記2章15節)。アダムが神に背いてエデンの園を追い出されたように、イスラエルは裁かれて砂漠の向こうに追放され、乳と蜜の流れる実り豊かな地は、荒れ果ててしまうのです。

 しかしながら、かく語りつつも、神はイスラエルを、また全世界に住むすべての者を滅ぼし尽くそうと考えておられるわけではありません。27節に「大地はすべて荒れ果てる。しかし、わたしは滅ぼし尽くしはしない」と語られているからです。滅ぼし尽くさないと言われるのは、ひとえに神の憐れみです。厳正に罪が裁かれれば、神の怒りを免れることは不可能です。

 19節に「わたしのはらわたよ、はらわたよ。わたしはもだえる。心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く」と記されています。「はらわた」は、感情の宿る場所と考えられていました。「断腸の思い」に通じるような表現です。また、心臓は呻く」も、心臓が破裂するような思いということでしょう。

 これは、御自分が選ばれたイスラエルの民を裁かねばならない神の呻きであり、そして、同胞が蒙る災いの預言を語るエレミヤ自身の呻きです。それはまた、神に裁かれて苦しむイスラエルの民の呻きに連なるものでもあります。

 神は、おのが罪の裁きのために呻き苦しむ民のために、永遠の救いの計画を実行に移されました。それは、独り子のイエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪を贖うという計画です。

 主イエスは、私たちが「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」(マタイ福音書9章36節)ました。ここで、「深く憐れむ」(スプランクニゾマイ)という言葉が、はらわたが痛むという言葉なのです。

 主イエスは、私たちの罪をご自分の身に背負い、十字架に命を献げられたのです。その贖いにより、私たちは罪赦され、永遠の命が授けられ、神の子として生きる恵みに与っているのです。

 常に主に立ち帰りましょう。主は生きておられます。「真実(エメト)と公平(ミシュパート)と正義(ツェダカー)」(2節)、それは、主イエスによって実現される神の国の世界です。その恵みに与り、主の祝福の源なるアブラハムの子としての使命を全うさせていただきましょう。

 主よ、あなたが選ばれたイスラエルの民があなたに背きました。繰り返し憐れみをもって呼びかけられましたが、彼らは頑なに悔い改めを拒みました。それゆえ、救いが異邦人の私たちに広げられることになりました。救いの恵みに与らせてくださり、心から感謝致します。今、私たちを憐れまれたその憐れみをもって、イスラエルの民も救いに導いてくださると信じます。皆で神の子としての恵みと使命に生きることが出来ますように。そうして、いよいよ御名が崇められますように。 アーメン



静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に7月28日(日)主日礼拝のプログラム、説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。


御覧ください。




7月30日(火) エレミヤ書3章

「行け、これらの言葉をもって北に呼びかけよ。背信の女イスラエルよ、立ち帰れと、主は言われる。わたしはお前に怒りの顔を向けない。わたしは慈しみ深く、とこしえに怒り続ける者ではないと、主は言われる。」 エレミヤ書3章12節

 3章には「立ち帰れ」と呼びかける言葉が4度出て来ます(7,12,14,22節)。このように繰り返し呼びかけられるということは、主なる神がユダの民が立ち帰るのを、諦めず憐れみをもって待ち続けていてくださるということです。しかしながら、イスラエルはこのような再三の呼びかけにも拘らず、主に立ち帰ろうとしていないということです。

 1節に「もし人がその妻を出し、彼女が彼のもとを去って他の男のものとなれば、前の夫は彼女のもとに戻るだろうか。その地は汚れてしまうではないか。お前は多くの男と淫行にふけったのに、わたしに戻ろうと言うのかと、主は言われる」とあります。

 ユダヤの律法では、妻が離縁されて他の男と再婚すれば、死別や離縁などになっても、前の夫ともう一度ヨリを戻すことは出来ません。申命記24章1節以下に「再婚について」の規定があり、「彼女は汚されているのだから、彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻にすることはできない。これは主の御前にいとうべきことである」(同4節)と記されています。

 因みに「戻るだろうか」、「戻ろう(というのか)」は、「立ち帰る」と同じシューブという動詞が用いられています。他に19節の「離れる」もシューブです。12節の「背信」 はメシューバーという名詞、14,22節の「背信の」はショーバーという形容詞です。

 エレミヤ書全体でこれらの言葉が128回用いられており、南ユダ王国の民が主なる神に「立ち帰る」ことが、本章のみならず、預言者エレミヤに告げられた主の託宣の最重要テーマであることが示されます。

 1節で、夫とは主なる神のこと、妻は南ユダ王国の民を指しています。彼らは神を離れ、自分の思いのまま欲に引かれて淫行にふけって来たと言われます。であれば、再び主に立ち帰ることは不可能ということになります。

 そう語られるのは、主の「立ち帰れ」という呼びかけに応えるのではなく、今日はこちら、明日はあちらと自分の好きなように相手を変え、それに飽きたら元に戻ろうかなどというような振る舞いは許されるものではないということです。

 6節以下に、南ユダの裁きが記されます。それは、「ヨシヤ王の時代」(6節)に主がエレミヤに告げられたことです。

 北イスラエルは、紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされました(列王記下17章)。南ユダはそのとき、ヒゼキヤがイザヤに執り成しを願い、その結果、難を逃れました(同19章)。苦しいときの神頼みという状況でしたが、それでも、憐れみ深い主はヒゼキヤの祈りを聞き届けてくださったのです。

 ところが主は、「背信の女イスラエルが姦淫したのを見て、わたしは彼女を離別し、離縁状を渡した。しかし、裏切りの女であるその姉妹ユダは恐れるどころか、その淫行を続けた。彼女は軽薄にも淫行を繰り返して地を汚し、また石や木と姦淫している。そればかりでなく、その姉妹である裏切りの女ユダは真心からわたしに立ち帰ろうとせず、偽っているだけだ」(8~10節)と言われます。

 さらに、「裏切りの女ユダに比べれば、背信の女イスラエルは正しかった」(11節)とさえ語られます。即ち、ヒゼキヤ王やヨシヤ王による南ユダの宗教改革は、外面的なものであって、それは真心からなされているものではなかった。ここまで好き勝手して、結婚生活を維持することは出来ないと、厳しく非難しておられるのです。

 それは、ヒゼキヤやヨシヤの改革が、彼らの王位を継いだ者によって元の木阿弥にされることを見れば分かります。列王記下21章3節に「彼(マナセ)は父ヒゼキヤが廃した聖なる高台を再建し、イスラエルの王アハブが行ったようにバアルの祭壇を築き、アシェラ像を造った。さらに彼は天の万象の前にひれ伏し、これに仕えた」とあります。

 また、列王記下23章32節に「彼(ヨシヤの子ヨアハズ)は先祖たちが行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行った」と、ヒゼキヤの子マナセと同様に記され、ヨアハズがエジプトのファラオ・ネコに退位させられ、代わってヨシヤの子エルヤキムあらためヨヤキムが王位につけられました(同34節)が、ヨヤキムもマナセやヨアハズと同様に評されています(同37節)。

 冒頭の言葉(12節)で「背信の女イスラエルよ、立ち帰れ」と招かれるというのは、どういうことでしょうか。北イスラエルは南ユダの人々よりもましだから、そのように招かれたということではないでしょう。続く13節に「お前の犯した罪を認めよ」と言われているからです。

 彼らが招かれるのは、彼らの内にその資格があるからではありません。ユダヤの律法では不可能と言わざるを得ない復縁を、主がその深い慈しみをもって許されるということです。「わたしは慈しみ深く、とこしえに怒り続ける者ではない」と言われます。

 ここで「慈しみ深い」という言葉は、2章2節で「真心」と訳されている「ヘセド(慈しみ、不変の愛)」の形容詞形(ハシード)です。イスラエルの民は不実であっても、神は常に真実、変わらない愛をもって対応しようとしておられるということです。

 そして、北イスラエルが神の憐れみによって招かれたということは、もちろん南ユダをも憐れまれるということです。この言葉は、北イスラエルに向けられているようで、南ユダに悔い改めを求めておられるのです。エレミヤは、北イスラエルに立ち帰るように告げつつ、南ユダの悔い改めを求め、南北分裂前の統一イスラエルに戻り、真実に主を仰ぐ群れとなることを願っているわけです。

 ただ、聖なる神の御前に、血の贖いなしの赦しはありません(ヘブライ書9章12,22節)。神は、神に背いてはなはだしい罪を犯したイスラエルの贖いの供え物として、苦難の僕を遣わされました(イザヤ書53章参照)。

 苦難の僕とは、主なる神ご自身の独り子イエス・キリストのことです。私たちがまだ罪人であり、敵でさえあったときに、御子の死によって私たちの罪を贖い、神と和解させてくださったのです(ローマ書5章8節以下)。

 この想像を絶する神の深い慈しみ、不変の愛と憐れみのゆえに、心から御名を崇めます。この慈しみ、愛と憐れみに応えておのが罪を悔い改め、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ、主の器として、主の使命のために用いて頂きましょう。

 主よ、御名を崇め、感謝と賛美をささげます。瞬間瞬間、あなたの深い慈しみ、憐れみによって支えられ、生かされているからです。その恵みをいたずらに受けるのではなく、十字架にかかられた主イエスの僕として、神の愛に心一杯満たされて、その恵みを証しし、主の福音を宣べ伝える者とならせてください。 アーメン





7月29日(月) エレミヤ書2章

「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜を掘った。水をためることのできないこわれた水溜を。」 エレミヤ書2章13節

 新共同訳聖書は2章に「イスラエルの罪」という小見出しをつけています。

 イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しみを味わっていたとき、神の憐れみを受け、モーセに率いられてエジプトを脱出しました(出エジプト記2章23節以下、3章7節以下、10,12節、12章37節以下など)。葦の海を渡った後(同14章)、イスラエルの民はシナイの荒れ野を旅しました(同15章以下)。

 そのときのイスラエルのことを、「若いときの真心、花嫁のときの愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順」(2節)と言われます。ナイル川によって育まれた肥沃な耕地を持つエジプトを脱出し、ただ神にのみ信頼して荒れ野を旅するイスラエルの民を、主はそのように表現されたのです。

 イスラエルの真心と愛と従順の対象は、主なる神です。即ち、イスラエルと主なる神との関係を、結婚を表わす言葉で表現しているのです。ただしかし、実際には、荒れ野の旅において、彼らの真心、愛、従順が絶えず試されました。

 荒れ野はまさに「種蒔かれぬ地」、水がなく、その地を耕して種を蒔くこともない、そこで食糧を確保することなど極めて困難な場所です。あるいはまた、野獣や盗賊といった、旅人の持ち物だけでなく、命を脅かす存在がいる場所です。

 イスラエルの民は、食べるに窮したときや飲み水がなくて困ったとき、この荒れ野で死ぬくらいなら、エジプトの苦役の方がまだましだ、エジプトに戻ろうと神に不平を言いました(出エジプト記16,17章、民数記14章1節以下など)。モーセの執り成しがなければ、彼らは神の怒りを買って、荒れ野で完全に滅びていたかも知れません。

 それだから、真心と信仰と従順を学ぶために、2週間もあればエジプトからカナンの地に入ることが出来そうなところを、40年もの間シナイ半島の荒れ野をあちらこちら行き巡ったのです。その間、毎朝マナと呼ばれるパンが天から降り(出エジプト記16章)、また岩から飲み水が出ました(同17章1節以下)。彼らの服は古びず、靴も擦り切れることがありませんでした(申命記29章4節)。

 神の力強い御手がイスラエルの上に延べられ、絶えず守り、助け、導きが与えられて、約束の地カナンにはいることが出来ました。けれども、カナンの地に定着し、王国を建設することが出来たとき、彼らの真心、愛、従順が揺らぎ、やがてイスラエルの民は、恵みをお与えくださる神から遠く離れて行ってしまいました(5節以下)。

 ダビデの子ソロモンは、その豊かさの絶頂において神に背き、妻たちのために異教の神々を祀る施設を築き、自らも偶像礼拝にふけるようになります(列王記上11章1節以下)。その結果、ソロモンの死後、国は南北に分裂してしまいました(同12章)。その後、北イスラエルはアッシリアに(列王記下17章)、南ユダはバビロンに滅ぼされることになります(同25章)。

 そのような国家存亡の危機にあって、王をはじめイスラエルの民は、主なる神に依り頼むのではなく、神ならぬ異教の偶像に依り頼み、あるいはまたエジプトやアッシリア、バビロンの力に頼ったのです。それが、冒頭の言葉(13節)で言われていることです。

 ヨシヤ王の治世第18年(紀元前622年頃)に、宗教改革が開始されました(列王記下22章3節以下)。それは、エレミヤが預言者としての活動を始めて5年後のことです。ヨシヤ王は8歳で王となりましたから(同1節)、治世第18年は26歳のときです。この改革が功を奏し、イスラエルは国力を回復します。

 ところが、よいことばかりは続きません。いつしかヨシヤは心高ぶり、神に尋ねることをしなくなったのです。アッシリアに助力してバビロニア軍と戦うためカルケミシュに向けて進軍するエジプトに対し、ヨシヤは国内通過を許さず、メギドで迎え撃とうとして返り討ちに遭い、戦死してしまいます(列王記下23章29節)。紀元前609年のことです。

 歴代誌下35章22節には「(ヨシヤは)神の口から出たネコの言葉を聞かなかった」と記されています。つまり、エジプトを迎え撃つというのが、神にその是否を尋ねての行動でなかったので、否むしろ、エジプトの王ネコの口を通して語られる神の言葉に耳を傾けようとしなかったので、神の助力を得られず、むしろ、戦死することになったというわけです。

 ヨシヤの死後、後を継いだ王たちはことごとく主に背き、ついに御前から捨てられることになりました(列王記下24章20節)。それが、8節で「指導者たちはわたしに背き」と告げられていることです。8節では、祭司たちや預言者たちの不従順も糾弾されています。

 エレミヤが預言を書き記させたのは紀元前604年のことですから、冒頭の言葉を警告として、生ける水の源なる神に依り頼み、その御言葉に聴き従っていれば、別の歴史が用意されたことでしょう。そうしなかったので、神の裁きが彼らに臨んだのです。

 主の御顔を尋ね求め、絶えず主の御声に聞き従いましょう。主こそまことの神であられ、生ける水の源であられるからです(12,13節)。

 主よ、あなたの恵みと導きを感謝致します。常に主の慈しみの御手の下に留まらせてください。私たちの心の耳を開いてください。絶えず御言葉に聴き従うことが出来ますように。私たちの心の目を開いてください。いつもその御業を見て、感謝と喜びの生活を送ることが出来ますように。 アーメン



7月28日(日)主日礼拝説教

7月28日(日)の主日礼拝には、教会員15名、来賓12名(子ども1名を含む)がお見えになりました。


主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「最後の晩餐」
聖書 ルカ福音書22章14~23節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師


ご覧ください。



7月28日(日)主日礼拝案内

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7月28日(日)は、教会学校小学科(小学生)、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
教会学校は、「聖書教育」誌にもとづいて、旧約聖書・創世記(ヨセフ物語)から、共に聖書の学びと交わりを行います。


主日礼拝を10時半から行います。

礼拝では、新約聖書・ルカ福音書22章章14~23節より、「最後の晩餐」と題して、原田牧師より説教をいただきます。


写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。

キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


礼拝後、信徒会があります。

信徒会後、伝道委員会を行います。


お昼の用意はありません。


 

7月28日(日) エレミヤ書1章

「主はわたしに言われた。『あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと、見張っている』。」 エレミヤ書1章12節

 本日から、エレミヤ書を読み始めます。エレミヤは、「ベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子」(1節)です。「アナトトの祭司」というのは、ダビデに重く用いられた祭司アビアタルの子孫のことかもしれません(サムエル記上22章20節以下、サム下15章24節以下、17章15節な)。

 アビアタルは王位継承を巡って行動を誤り、その結果、ソロモンによって退位させられ、アナトトに追放されたからです(列王記上2章26節)。エレミヤ書には、祭司や預言者に対して厳しい裁きの言葉が多く記されていますが、それは、エレミヤが祭司の家系に生まれ育ったからこその視点であると言ってもよいでしょう。

 エレミヤは、「アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第13年」(2節)、つまり紀元前627年ごろから、「ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第11年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで」(3節)、つまり紀元前587年ごろまでのおよそ40年間、エルサレムで預言者として活動しました。

 ヨシヤ王は治世18年(前622年頃)にエルサレムで宗教改革を断行しました(列王記下22章3節以下、23章3節)。その5年前から活動を始めた預言者エレミヤの働きが、ヨシヤの治世に大きな影響を及ぼしていたのではないでしょうか。

 また、アッシュルバニパル王の死後(紀元前627年)強大だったアッシリア帝国の支配が不安定化し、 前612年に首都ニネベがメディア・カルデア、バビロニアなどの連合軍によって陥落、捲土重来を期したカルケミシュの戦い(紀元前605年)でも大敗を喫して、アッシリアは歴史の表舞台から姿を消しました。アッシリア帝国が弱体化したことも、改革断行の要因でした。

 4節以下に、エレミヤが預言者として召し出された出来事が記されています。主は「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」(5節)と告げられました。それに対してエレミヤは「わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」(6節)と答えています。

 「若者」(ナアル)という言葉は一般に、幼子から結婚前までの範囲の人について用いられるので、エレミヤが活動を始めたのは20歳に満たない、ティーンエイジャーであろうと想定されるのですが、ここでは年齢よりも経験不足、未熟さを言い表しているものだろうと思われます。

 使徒パウロが、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」(ガラテヤ書1章15節)と記しています。

 それは、キリスト教徒の迫害者であったパウロが、甦られたキリストと出会い、目からうろこのようなものが落ちるという出来事を経験したときに(使徒言行録9章1節以下)神から示されたものでしょう。 

 パウロはそこで、主が私たちをそれぞれ目的を持って母の胎においてかたち造られること、仮にそれを自覚せず、むしろ神の御心に逆行するようなことをしていても、深い憐れみによって正しい道に導いてくださるということを教えてくれます。 

 エレミヤが、弟子のバルクを書記として、彼が語ってきた預言を巻物に書き留めさせました。つまり、このエレミヤ書を書かせたわけですが、それは、「ヨシヤの子ヨヤキムの第4年」(36章1節)、即ち紀元前604年のことでした。エレミヤはここに、自分の召された時のことを物語りつつ、今なお自分は未熟者だと考えていたのではないでしょうか。

 それは謙遜というよりも、職務に対する畏れであり、主なる神に対する畏れの表れです。つまり、預言者という職務は、経験や知識などによって出来るものではなく、常に神の御前に謙り、全身を耳として、語るべき言葉を神に聴き、それを畏れの心をもって忠実に民に告げるという務めなのです。

 「わたしは若者に過ぎない」というエレミヤに、主は「若者に過ぎないといってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ」(7節)と命じ、手を伸ばされてエレミヤの口に触れ、「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける」(9節)と言われました。耳で聞き、目で見、手で触れるように、主なる神の召命を受け止めたのです。 

 エレミヤは、幻を見ました。それは「アーモンドの枝」です(11節)。アーモンドは春に桜に似た花を付けます。芽を膨らませた枝は春の訪れを示し、それを見る者に希望や喜びを抱かせるかも知れません。しかるに主は、冒頭の言葉(12節)の通り、「わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている」と語られます。

 ヘブライ語原典で「アーモンド」と「見張っている」は、「シャーケード(:アーモンド)」、「ショーケード(:見張っている)」という語呂合わせになっています。エレミヤは、アーモンドの枝を見せられて、そこから、主がイスラエルに語られた言葉を実現するために見張っていると、主の霊の導きを受けて推察したということかも知れません。

 エレミヤはさらに、もう一つの幻を見ます。それは、煮えたぎる鍋で、北からイスラエルに傾いているというものでした(13節)。主がその実現のために見張っておられるという言葉とは、春を迎えて花が咲くというような希望や喜びを告げるものではなく、たぎっている鍋が傾いている状況から、北から恐るべき災いがエルサレムに襲いかかろうとしていることでした(14節)。

 そしてそれは、民が主を捨て、他の神々に香をたき、手で造ったものの前にひれ伏すという甚だしい悪に対して告げられたものでした(16節)。ここで主が見張っておられるのは、この災いが望もうとしているという言葉を、どのように受け止めるか、どう対処しようとするかというイスラエルの民の姿勢、態度でしょう。

 民が主を畏れ、悪を悔い改めて主に従うなら、この災いが下されるのを主は思い返されるでしょう。しかし、民が主を畏れず、その振る舞いを改めなければ、告げられたように、その煮えたぎっている鍋が倒れて中身をぶちまけ、イスラエルに恐るべき災いが臨むでしょう。

 ヘブライ書4章2節に「彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結びつかなかったためです」とあります。それは、モーセによって率いられて約束の地を目指したイスラエルの民が、不信仰のゆえに荒れ野で命を落としたことを示しており、そのことで、初代キリスト者たちに、告げられている神の御言葉に対して心を頑なにしないよう教えているのです。

 天使ガブリエルの知らせが信じられなかった祭司ザカリアに、「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」(ルカ1章20節)と告げられました。ザカリアは、神の御言葉がいかにして実現するのか、無言でじっと注目させられました。まさに、御言葉の実現を見張られる主のお働きに注目させられたわけです。

 私たちも、かならず実現すると言われた主の御言葉に日々耳を傾け、いかに実現するか、信仰をもって待ち望んでまいりましょう。信仰がなければ、神に喜ばれることはできないからです(ヘブライ書11章6節)。

 主よ、私たちはあなたの僕です。どうかお言葉どおり、この身に実現しますように。正しく御言葉を聴き、信仰をもって忠実に実行させてください。あなたの御言葉は真実だからです。御国が来ますように。御心が行われますように。不安と恐れの内にある人々に安息を与えてください。 アーメン




7月27日(土) イザヤ書66章

「これらはすべて、わたしの手が造り、これらはすべて、それゆえに存在すると、主は言われる。わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。」 イザヤ書66章2節

 第三イザヤ(56~66章)が活動したのは、捕囚から戻ったイスラエルの民がエルサレムに第二神殿を建設したころだと言われます。ペルシア王キュロスによって解放され、意気揚々戻ってきた民を待ち受けていたのは、バビロンによって破壊され、荒れるにまかされていた、変わり果てた都の姿でした。つまり、国に戻れば、以前と同じ生活が出来るようになるというわけにはいかなかったのです。

 板張りのきちんとした家に住めたのは、ごくごく一部の者たちで、殆どは着の身着のままでとりあえず雨露を凌ぐといった貧しい生活環境でした。その上、外敵の侵入はある、旱魃による飢饉が襲うとなれば、神殿再建どころではない、城壁が築かれるのもいつになることやら、全く見当もつかなかったことでしょう。

 1節に「主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに、わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか」と記されています。これは、神殿建設を促し、推し進めるための激励の言葉などではありません。人間が、神のお住まいになる神殿を建てることが出来るのか、いや、出来はしないと読めます。

 ソロモンが贅を尽くし、7年の歳月をかけてエルサレムに建てた神殿を神に奉献する儀式の中で、「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」(列王記上8章27節)という祈りをささげています。

 この言葉にしたがうとすれば、神殿を建てる必要などはないという結論になるでしょう。何しろ、「天が王座、地は足台」です。人が建てるどんな大きな建物も、天地万物を創られた神をお入れし、そこを安息の場として頂くというのは、全く不可能なことなのです。そうであれば、何のために神殿を建てたのでしょうか。神殿を建てたのは無駄なことだったというのでしょうか。

 ダビデが神殿を建てたいと願ったとき、主は、ダビデの子がわたしの名のための家を建てると言われました(サムエル記下7章10節、列王記上8章17節以下)。そして、ダビデの子ソロモンが神殿を建築し、祭具を神殿に納め、主の契約の箱を至聖所に安置したとき、主の栄光が神殿に満ちました(王上7章51節、8章1節以下、10,11節)。神がその神殿に現臨されたわけです。

 神殿は、主なる神に祈りをささげ、賛美を捧げて、神を礼拝する場所です。神が見られるのは、何をどれだけ捧げるかということよりも、どのような心で捧げるかということです。

 主イエスが、レプトン銅貨2枚を捧げた貧しいやもめの献金を、ほめられたことがあります(ルカ福音書21章1節以下)。1レプトンは1デナリオンの128分の1です。どんなに高く見積もっても100円に届きません。あるいは2レプトンで100円程度でしょうか。

 しかしながら、その女性にとって、それがその日の生活費の全部でした。それを献げてしまったあとの生活は、どうなったのでしょうか。そんな心配をすることもないほどに神に信頼し、あるいは神の恵みに感謝する思いが、その女性の心を満たしていたのです。

 神は冒頭の言葉(2節)の通り、「わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人」と、イザヤを通して語られました。「苦しむ人」は「貧しい、弱い、悩む」という言葉です。また、「霊の砕かれた人」は、「霊、心」が「悔いる、打ちひしがれる、踏みにじられる」という言葉です。

 これは、謙遜な人という意味ではないでしょう。神殿を再建したくても、城壁を築き直したくてもなし得ない、その力がない、日々の生活に追われ、苦しんでいる人々、敵に苦しめられ、自然災害に脅かされている人ということでしょう。だから、神が彼らを顧み、守ってくださらなければ、生きてはいけません。

 「わたしの言葉の前におののく」というのは、御言葉の真実、御言葉の力を知るということではないでしょうか。「お言葉ですからやってみましょう」と網を投げて大漁を目の当たりにしたペトロが、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ福音書5章8節)と主イエスを畏れて、その御前にひれ伏したという出来事に、それを見ることが出来ます。

 ペトロは、神の御前に恵みを受けるに値しない罪深い者であることを思い知らされたのです。そのように主イエスの前に恐れ戦いたペトロに主イエスは、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(同10節)と言われました。真の畏れを抱いたペトロに、新たな使命をお与えになったのです。

 ペトロが主イエスを主、神と畏れてひれ伏した姿勢こそ、神の喜ばれる真の礼拝だったということでしょう。そのような思いで主とその御言葉に信頼し、自分の持てる2レプトンを精一杯捧げるとき、ソロモンも及ぶことのできない、神ご自身の建ててくださる神殿、神を礼拝するすべての民の祈りの家が、固く打ち建てられるのではないでしょうか。

 主の御言葉に日々耳を傾け、恐れ戦いてその実現を祈り求め、主の栄光を洗わす器として用いていただきましょう。

 主よ、あなたは恵みと慈しみに富み、私たちの必要を豊かに満たしてくださいます。感謝と喜びをもって、私たちのレプトン2枚を精一杯ささげます。御心のままにお用いください。そして、栄光を現してください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン





7月26日(金) イザヤ書65章

「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にものぼることはない。」 イザヤ書65章17節

 第二イザヤ(40~55章)は、「見よ、わたしは新しいことを行う」(43章19節、42章9節、48章6節参照)と語り、イスラエルの民の解放と帰還、繁栄の回復の希望を示しました。そして預言どおり、ペルシア王キュロスによって解放と帰還は果たされました。

 けれども、繁栄の回復や独立などは適いません。むしろ、貧しく苦しい生活の中で、イスラエルの民の間には、失望落胆が広がります。そこで、2節に「反逆の民、思いのままによくない道を歩く民」とあるように、再び異教の神々を頼ろうとする者が現れたのでしょう。

 3節の「屋根の上」は、「煉瓦の上」(アル・ハ・レベニーム)という言葉ですが(新改訳、岩波訳参照)、イスラエルの祭壇は石造りのときには自然石を用い(出エジプト記20章25節)、ソロモンの神殿は青銅製(列王記上8章64節、歴代誌下4章1節)ですから、レンガの祭壇はバビロンの宗教を思わせます(創世記11章3節参照)。

 4節の「墓場に座り、隠れた所で夜を過ごし」は、死者の霊を呼び出し、霊媒を行うことであり(岩波訳脚注参照)、「豚の肉を食べ」は禁じられている食習慣ですから、イスラエルの民は、神に背いて、今なおバビロンにおける偶像礼拝の習慣に倣っているということを示しているようです。

 そこで、「見よ、わたしの前にそれは書き記されている。わたしは黙すことなく、必ず報いる」(6節)、「彼らの悪も先祖の悪も共に、と言われる」(7節)と告げ、その悪を裁かれます。しかしながら、あらためて「わたしの僕」と呼ぶ民を、彼らの中から選び出されます(9節)。選びの条件は明示されていません。

 主に背いて異教の神を拝む者は再び剣に渡され(11,12節)、そして、主の僕たちは、糧を得、酒に酔い、喜び楽しむことが出来ると言われます(13,14節)。裁きが語られるのは警告のためであり、主の御声に聴き従って、その祝福に与るように 、あらためて民を招いているのです。

 冒頭の言葉(17節)で言及されているのは、民族としての、即ちヤコブの末としてのイスラエルの民のことではありません。神はここで、「新しい天と新しい地を創造する」と言われているからです。

 第二イザヤが、出エジプトをモティーフとして、バビロン脱出を新しい神の国建設として語っているのに対して(43章16,17節)、第三イザヤは、天地創造物語になぞらえ、創世記1章27節と同じように、冒頭の言葉(17節)と続く18節に「創造する」(バーラー)という言葉を三つ重ね、神が新しい天地、新しいエルサレムを創造されると説いているのです。

 神は、新しいエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして創造するので、「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ」と言われます(18節)。それは、神がエルサレムを喜びとし、その民を楽しみとされるからです(19節)。「泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない」(19節)のは、神と民とが共に喜び、楽しむからなのです。

 主なる神が新しく創造される民の特色は、長寿であるということです。「若死にする者も、年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者となる」(20節)と言われています。

 わが国の平均寿命は世界最高水準ですが、いまだ百歳に達してはいませんし、超高齢化社会の到来に、長寿を祝いつつもそれを祝福と受け止める空気は、残念ながらまだ生まれていません。そして、百歳に達していないから、「呪われた者」のように思えるということでもないはずです。

 もう一つのことは、「狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、害することも滅ぼすこともない」(25節)と言われることです(11章6~8節も参照)。

 創世記1章30節に「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう」とありました。神が創造された獣は初め、すべて草食で、肉食獣などいなかったわけです。

 それが、ノアの洪水後のノアと神との契約の中で、「動いて命あるものは、すべてあなたたちの食料とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない」(同9章3,4節)と語られて、人間に肉食が許されます。

 ゆえに、すべての動物は人の前に恐れ戦き(同2節)、噛み合い、殺し合うようになったわけです。それがここに、狼や獅子が草やわらを食べると言われているのは(25節)、天地創造のはじめ、主なる神が創造された最初の秩序が回復されるということになります。

 ただ、「蛇は塵を食べ物とし」と言われています。これは、女を唆して善悪の知識の木の実を食べさせた蛇を呪って、「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、呪われるものとなった。おまえは、生涯這いまわり、塵を食らう」(創世記3章14節)と神が語られたところから、採られていると言ってよいでしょう。

 つまり、神の創造される新しい天と地は、狼や獅子に代表される強いものと、小羊や牛といった弱いものが共存共栄する世界だということであり、その新天新地において、神の僕とされた人は祝福を受けて過ごすことが出来るのですが、神に背くよう人を唆した蛇は、その呪いから逃れることは出来ないということでしょう。

 絶えず主の御顔を慕い求め、御言葉に耳を傾けつつ、祝福のうちを歩ませて頂きましょう。そうして、百歳までも健やかに主の御用を果たすことが出来る祝福を頂きましょう。

 主よ、あなたは背く民を招き、応えた者たちを僕として選び、御自分の民として祝福をお与えになります。それは、主の憐れみにほかなりません。迫害者であったパウロも、主の恵みによって、使徒・伝道者となりました。絶えず御声に耳を傾け、喜んで御言葉に聴き従います。御用のために用いてください。御心がなされますように。御国が来ますように。そうして、御名が崇められますように。 アーメン




7月25日(木) イザヤ書64章

「しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業。」 イザヤ書64章7節

 4節前半に「喜んで正しいことを行い、あなたの道に従って、あなたを心に留める者を、あなたは迎えてくださいます」と記されています。預言者がこのように語るのは、イスラエルの民が喜んで正しいことを行って来たからではありません。むしろ、神に背いて異教の偶像を慕い、神に信頼せず、エジプトの武力に依り頼んで、神を悲しませ、その怒りを招いて来たのです。

 4節後半で、「あなたは憤られました。わたしたちが罪を犯したからです」という通りです。新共同訳は訳出していませんが、文頭に「見よ behold」(ヘン:強調詞)という言葉があります。1節以下ここまで語って来たことと、今彼らが置かれている状況に注目させる言葉です。

 その罪のゆえに、「聖なる町々は荒れ野となった。シオンは荒れ野となり、エルサレムは荒廃し、わたしたちの輝き、わたしたちの聖所、先祖があなた(神)を賛美したところは、火に焼かれ、わたしたちの慕うものは廃墟となった」(9,10節)のです。

 もしも、神が因果応報の原則に基づいて評価される方であれば、イスラエルの民は、捕囚の苦しみから解放されることを期待することも出来なかったでしょう。しかるに神は、「期待もしなかった恐るべき業と共に降られ」(2節)、ペルシア王キュロスを用いてイスラエルの民をバビロン捕囚の苦しみから解放し、故国イスラエルに戻れるようにしてくださいました(歴代誌下36章17節以下)。

 ただ、帰国を果たすことは出来たものの、エルサレムの都は破壊されたままに放置されていて、神殿や城壁・城門の再建もなかなか進みませんでした。そこで預言者は憐れみ深い主に向かい、神殿が火に焼かれ、廃墟となったままであるのに、「それでもなお、主よ、あなたは御自分を抑え、黙して、わたしたちを苦しめられるのですか」(11節)と訴えます。

 前述の通り、バビロンからの帰国を果たせたのは、彼らが罪を悔い改め、喜んで正しいことを行っていたからではありません。同様に、帰国したイスラエルの民が、神の喜ばれることを行うようになっているから、預言者が神に助けを求めて訴えているということでもありません。

 5節で「わたしたちは皆、汚れた者となり、正しい業もすべて汚れた着物のようになった」というのは、過去のことではないでしょう。実際、そこに用いられている動詞は、未完了形です。つまり、その行為が今も続いていて、完了してはいないということです。

 預言者は、63章16節に続いて冒頭の言葉(7節)でも、主なる神を「我らの父」と呼び、その憐れみを求めます。主を父と呼ぶということは、自分たちが主の子どもであると自覚していることを意味します。子どもとして、親の助けを求めているわけです。

 このような表現は、預言者が神の憐れみを求めて祈ったのが、一度や二度ではないということを示しているようです。繰り返し何度も「アッバ、父よ」(ガラテヤ書4章6節)と神を呼びながら、その助けや導きを願ったことでしょう。

 主イエスは「神を畏れず人を人とも思わない裁判官とやもめ」のたとえ話(ルカ18章1節以下)を通して、弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教え」(同1節)、「神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」(同7,8節)と語られました。

 預言者はまた、「わたしたちは粘土、あなたは陶工」(7節)といいます。イスラエルの民と主なる神との関係を、粘土と陶工というイメージを用いて表す言葉は、45章9節にありました。

 20数年前、松山に住んでいた頃、贈り物にと湯飲みを砥部焼の陶工に依頼したことがあります。思いのほか時間がかかりました。思った色と形になるまで、何度も作っては壊し、壊しては作りしたのだそうです。だから、一組だけ作るのは、割に合わないと言われました。何も知らずに、ずいぶん無茶なお願いをしたものでした。

 ここに粘土と陶工のイメージを用いているのは、自分たちの味わっている苦しみを、自分たちをもう一度神の民として作り直すための陶工の手の業と考え、さらに子どもが親に全幅の信頼を置いているように、一切を神の御手に委ねるという信仰の表明でしょうか。

 それとも、一度高温の火で焼いた器は再び作り直すことは出来ず、強い力を加えたり、高いところから落としたりすれば、器は壊れ、砕けてしまうだけなので、自分たちが主の手によって作り出された作品であることを思い出し、苦しみから解放してくれるようにと願う言葉でしょうか。

 続く8節の「どうか主が、激しく怒られることなく、いつまでも悪に心を留められることなく、あなたの民であるわたしたちすべてに目を留めてくださるように」という言葉から、後者のように解釈すべきではないかと思われます。それは、ヨブ記10章9節で語られているところの状況とよく似ています。

 主が自分たちに目を留めてくだされば、また、自分たちが神の作品であり、神を「我らの父」と呼ぶ神の子らであることを思い出してくだされば、「熱情と力強い御業」、「たぎる思いと憐れみ」(63章15節)が自分たちに示されるでしょう。苦しみ呻いているわたしたちを見ながら、「黙して、わたしたちを苦しめられる」(11節)ことはないでしょう。

 「たぎる思い」は「はらわた、腸」(メーアイム)、「憐れみ」は「子宮、胎」(ラハミーム)という言葉です。父が、母が、我が子の苦しみを、はらわたの痛みとして覚えてくださるように、また、おなかを痛めて産んだ子どもとして覚えてくださるように、求めているのです。

 昨日も学んだとおり、父なる神は「贖い主」(63章16節:ゴーエール)として、イスラエルの民をその苦しみから贖い出してくださいました。それは、独り子イエス・キリストの命を代償として支払うという方法でなされました。

 十字架に苦しまれる我が子をご覧になる神の苦しみはいかほどだったでしょう。まさに、腸がちぎれる痛みだったでしょう。にも拘わらず、まさに主なる神は「ご自分を抑え、黙して」、我が子・主イエスを「苦しめられ」たのです。ここに、神の愛が示されます(第一ヨハネ4章9,10節)。

 愛と恵みの主に信頼し、御手の内にある土塊として、主の望まれるような者に作り替えていただきましょう。 

 陶器師なる主よ、私を憐れんでください。深い御憐れみをもって背きの罪を拭ってください。私たちの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。私たちの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。それ以外に、罪深い私たちが救われる道はないからです。御子イエスの贖いの業を感謝し、御名をほめ讃えます。主の恵みの証人として用いてください。 アーメン




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