「まことに、主はこう言われる。『大地はすべて荒れ果てる。しかし、わたしは滅ぼし尽くしはしない』。」 エレミヤ書4章27節
5節以下には、「北から災い」(6節)がもたらされることが語られます。これは、1章13節の「煮えたぎる鍋」の幻、続く14節で「北から災いが襲いかかる」と告げられていたものです。この災いをもたらす敵について、7節で「獅子」、「諸国の民を滅ぼす者」と言われています。
エレミヤが預言者としての働きを始めた頃、バビロンはまだ新興勢力でしたが、イスラエルを圧迫するアッシリアを滅ぼす希望の星として期待していたようです。岩波訳の注には、「好戦的な騎馬民族のキンメリア人やスキタイ人を指すものと解される」とあります。
アッシリアは、バビロン軍に首都ニネベを落とされ、失地回復のためエジプトの助力を受けてカルケミシュでの戦いに臨みますが、この戦いに敗れて、歴史の表舞台から姿を消すことになりました。バビロン軍はその後、ヨヤキムの代にエルサレムに攻め上ってきました(列王記下24章1節)。以来、北の脅威はバビロンになりました。
ヨヤキムはネブカドネツァルに降伏し、三年間服従していましたが、その後反逆しました(同1節)。ヨヤキムの死後、代わったヨヤキン王のとき、バビロン軍に都を包囲されて、王族のほか家臣、高官たちを捕虜としてバビロンに連れて行かれました。これが、第一次バビロン捕囚と言われます(同12節以下15節、紀元前597年)。
ネブカドネツァルはヨヤキンに代わり、叔父マタンヤをゼデキヤと改名し、傀儡の王として立てました(同17節)。後にゼデキヤがバビロンに反旗を翻したので(同20節)、再びエルサレムがバビロン軍に包囲され、壊滅的打撃を受けることになりました(同25章1節以下)。それをさせられたのは、主なる神です(同24章20節、20章16節以下)。
エレミヤが語った北からの脅威は、岩波訳のようにキンメリアやスキタイだったのか、それともバビロンのことを預言したのか、確かなことは分かりません。いずれにせよ、預言の通り北から押し寄せてイスラエルを滅ぼしたのは、バビロンだったのです。
8節に「主の激しい怒りは我々を去らない」とあります。「去ら(ない)」は、シューブという動詞です。何度呼びかけて立ち帰らない民に臨んだ激しい怒りが、彼らから立ち帰らないようにされたという言葉遣いです。つまり、北からの災いとして繰り返し攻め上って来たバビロン軍は、主の激しい怒りの表れだったということです(列王記下24章20節参照)。
23節以下で、「わたしは見た」(ラーイーティー)が4回繰り返されます。ここに、イスラエルが徹底的に荒らされ、滅ぼされることが語られています。
預言者が最初に見たのは、「大地は混沌とし、空には光がなかった」(23節)という光景です。「混沌」という言葉は、聖書中ここと創世記1章2節の二箇所だけです。創世記では、混沌とした地に光が造られたと記されていますが、ここでは、全地の秩序が失われて混沌とした世界に戻り、光もないと語られて、ちょうど創世記の天地創造の動画を逆回ししているようです。
次に見たのは、「山は揺れ動き、すべての丘は震えていた」(24節)という光景です。「国破れて山河あり」(杜甫「春望」)という詩のごとく、山や丘は不動のものの象徴ですが、安定と秩序が失われるということです。
3番目は、「人はうせ、空の鳥はことごとく逃げ去っていた」(25節)という光景です。神はご自分と交わりの出来る存在として人を創られましたが、人は神に従うことをよしとしませんでした。再三「立ち帰れ」(1節、3章14節以下)と呼びかけられても、それに応じなかったので、北からの災いによって、人も空の鳥も住まないような廃墟になってしまいます。
最後に「実り豊かな地は荒れ野に変わり、町はことごとく、主の御前に、主の激しい怒りによって打ち倒されていた」(26節)という光景を見ました。地を耕して産物を得るように、主なる神はアダムに使命を与えました(創世記2章15節)。アダムが神に背いてエデンの園を追い出されたように、イスラエルは裁かれて砂漠の向こうに追放され、乳と蜜の流れる実り豊かな地は、荒れ果ててしまうのです。
しかしながら、かく語りつつも、神はイスラエルを、また全世界に住むすべての者を滅ぼし尽くそうと考えておられるわけではありません。27節に「大地はすべて荒れ果てる。しかし、わたしは滅ぼし尽くしはしない」と語られているからです。滅ぼし尽くさないと言われるのは、ひとえに神の憐れみです。厳正に罪が裁かれれば、神の怒りを免れることは不可能です。
19節に「わたしのはらわたよ、はらわたよ。わたしはもだえる。心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く」と記されています。「はらわた」は、感情の宿る場所と考えられていました。「断腸の思い」に通じるような表現です。また、心臓は呻く」も、心臓が破裂するような思いということでしょう。
これは、御自分が選ばれたイスラエルの民を裁かねばならない神の呻きであり、そして、同胞が蒙る災いの預言を語るエレミヤ自身の呻きです。それはまた、神に裁かれて苦しむイスラエルの民の呻きに連なるものでもあります。
神は、おのが罪の裁きのために呻き苦しむ民のために、永遠の救いの計画を実行に移されました。それは、独り子のイエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪を贖うという計画です。
主イエスは、私たちが「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」(マタイ福音書9章36節)ました。ここで、「深く憐れむ」(スプランクニゾマイ)という言葉が、はらわたが痛むという言葉なのです。
主イエスは、私たちの罪をご自分の身に背負い、十字架に命を献げられたのです。その贖いにより、私たちは罪赦され、永遠の命が授けられ、神の子として生きる恵みに与っているのです。
常に主に立ち帰りましょう。主は生きておられます。「真実(エメト)と公平(ミシュパート)と正義(ツェダカー)」(2節)、それは、主イエスによって実現される神の国の世界です。その恵みに与り、主の祝福の源なるアブラハムの子としての使命を全うさせていただきましょう。
主よ、あなたが選ばれたイスラエルの民があなたに背きました。繰り返し憐れみをもって呼びかけられましたが、彼らは頑なに悔い改めを拒みました。それゆえ、救いが異邦人の私たちに広げられることになりました。救いの恵みに与らせてくださり、心から感謝致します。今、私たちを憐れまれたその憐れみをもって、イスラエルの民も救いに導いてくださると信じます。皆で神の子としての恵みと使命に生きることが出来ますように。そうして、いよいよ御名が崇められますように。 アーメン