風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2019年04月

4月30日(火) 箴言29章

「幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。」 箴言29章18節

 冒頭の言葉(18節)で、「幻」(ハーゾーン)は「見る」(ハーザー)という言葉から派生したものですが、これは特に、預言者に啓示と託宣を与える手段として用いられるものです(サムエル記上3章1節、イザヤ書1章1節、ナホム書1章1節。ハバクク書1章1節など)。その意味では、口語訳のように「預言」と訳してもよさそうです。

 また、「堕落する」(パーラー)という言葉は「自由にさせる、抑制が効かない」という言葉です。そこから、「自分勝手に振舞う、わがままになる、滅びる」といった意味に解されています。

 そこで、口語訳は「預言がなければ民はわがままにふるまう」とし、新改訳は「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」、岩波訳は「幻がないと、民は統制がとれなくなる」、KJV(英欽定訳)は「Where there is no vision, the people perish(幻がなければ、その民は滅びる)」と訳しています。

 初代の王サウルの時代には、サムエルという預言者がいました。ダビデの時には、ナタンやガドという預言者がいました。ソロモンに油を注いで王としたのは預言者ナタンですが、彼の治世に預言者は姿を見せなくなります。預言者は、神の代弁者として神の御言葉を語るのですが、その職務の一つは、政治指導者に託宣を告げること、罪を示して悔い改めを迫ることです。

 ソロモン王の御世に預言者の姿が見えないのは、あらゆる知恵知識に通じていたので、預言者を必要とはしなかったということかも知れません。しかしながら、国王としての圧倒的な権力によって、預言者の働きを排除していたというのであれば、それは、聖書が求めている、神を畏れる知恵を持つ者の姿ではありません。

 ですから、「幻(預言)がなければ民は堕落する」という言葉が、ソロモンの第三格言集(25~29章)に語られているというのが、興味深いところです。あらゆる知恵知識に通じていたソロモンが、娶った千人もの女性たちに惑わされて、主の戒めに背き(列王記上11章1節以下)、その結果、イスラエルの国が分裂する原因を作ってしまいます。

 主なる神はソロモンに「あなたがこのようにふるまい、わたしがあなたに授けた契約と掟を守らなかったゆえに、わたしはあなたから王国を裂いて取り上げ、あなたの家臣に渡す」(同11節)と仰せになりました。まさに、神の幻、預言の言葉がなかった、否、ソロモンが聞こうともせず、自ら堕落してしまったのです。

 私たちは、神の御言葉を「聖書」として、手に持っています。いつでも、御言葉に触れ、それを目にすることが出来ます。御言葉がないわけではありません。けれども、自分に語りかけられた神の言葉として御言葉を聞こうとしないならば、それは、わがままに振舞っていること、信仰が堕落していることと言えるのではないでしょうか。

 アモス書8章11節に「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」と記されています。神の御言葉を聞こうとしないから、また、聞いてもそれを行いに表そうとしないから、霊が、魂が飢えと渇きに苦しむことになるというわけです。

 一方、ヨエル書3章1節に「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る」と記されています。聖霊が注がれると人々は預言をし、夢と幻を見るというのです。

 聖霊について主イエスが、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ福音書14章26節)と教えておられます。

 パウロは、私たちが聖霊に満たされること(エフェソ書5章18節)と、キリストの言葉を私たちの内に豊かに宿らせること(コロサイ書3章16節)との間に、密接な関係があることを教えています。それによって引き起こされる行動が全く同様だからです。

 真理の御霊、弁護者なる聖霊に満たされ、キリストの言葉を絶えず思い起こさせて頂き、かくて、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ者となって、その人のすることはすべて、繁栄をもたらすという祝福に与らせて頂きましょう。

 主よ、私たちに幸いを授け、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道に留まらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人にならせてください。私たちはあなたに依り頼み、御言葉と聖霊の導きに従って歩み、心から主を褒め称えます。 アーメン




4月29日(月) 箴言28章

「貧乏でも、完全な道を歩む人は、二筋の曲がった道を歩む金持ちより幸いだ。」 箴言28章6節

 冒頭の言葉(6節)は、19章1節の「貧乏でも、完全な道を歩む人は、唇の曲がった愚か者よりも幸いだ」に非常によく似ています。「貧乏でも」という言い方がなされるということは、貧しいということが人々に忌み嫌われる要因であったことを伺わせます(19章7節)。

 ここで、「完全」(トーム)と訳されている言葉には、「誠実」という意味もあり、口語訳は「正しく」、新改訳は「誠実に」、岩波訳は「まっとうに」と訳しています。誰が、完全な道を歩むことが出来るでしょうか。完全無欠の生活など、誰にも出来はしないでしょう。ではなぜ、新共同訳は「完全」という訳語を選んだのでしょうか。

 主イエスが山上の説教の中で、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ福音書5章48節)と言われました。不完全な私たちが、どうすれば完全な者となれるというのでしょうか。

 人間の知恵や力では、不可能でしょう。けれども、主イエスは私たちに、実行不可能な無理難題を押しつけて、弱り果てた私たちを嘲笑うというようなお方ではありません。であれば、主イエスは、本当に私たちが完全な者となるように願っておられ、そして、なれるとお考えになっているわけです。

 太宰府天満宮に祀られている菅原道真が、「心だに 誠の道にかないなば 祈らずとても 神や守らん」(「金玉抄」)という歌を遺しています。心さえ誠実であれば、祈り願わなくても神は守ってくれるというわけです。

 ここに、一般的日本人の神観があるといってよいでしょう。はっきり言って、道真は神の守りを当てにしてはいないのです。神の助けや守りがなくても、自分の心を清く、誠実に守ることが出来ると考えているのです。だから、「祈らずとても」と言うのです。しかしながら、現実はそうではありません。

 ヨブ記は、神の前に正しく歩んでいる者がなぜ不幸のどん底に突き落とされ、苦しめられるのかという問題を扱った書物です。ヨブは神から、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と評価される人物でした(ヨブ記1章8節)。そのヨブが苦しみを味わうと、死を願い始めます(同3章)。

 それを見ると、無垢で正しいというのは、ヨブ自身の実力などではないことが分かります。神の守り、支えがあってはじめて、正しく歩むことが出来る、汚れなき生活が出来るというものだったのです。

 アブラハムは75歳のとき、主の言葉に従ってカナンの地に移り住みました(創世記12章1節以下)。主なる神は「目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、あなたとあなたの子孫に与える」(同13章14,15節)と約束されました。

 しかし、アブラハムには子がありませんでした。祝福される神にアブラハムが、「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています」(同15章3節)と言いますと、神はアブラハムに天の星を仰がせ、「あなたの子孫はこのようになる」(同5節)と言われました。

 すると、不思議なことにアブラハムは主を信じました。それは、御言葉を心に留め、繰り返し星を見上げているとき、それが自分の子孫の顔に見えて来たということでしょう。主の御言葉を聞き、主が見せてくださったビジョンに心を留めたとき、アブラハムの心は主への信仰に満たされたのです。その信仰を神は義と認められました(同6節)。

 「完全な道」とは、神に至る道といっても良いでしょう。それは、主イエスご自身のことです。主イエスが、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ福音書14章6節)と言われている通りです。

 人の誠実さによって、父なる神のもとに到達することは出来ません。主イエスに信頼し、その導きに従って歩む時に、父なる神のもとに至るまったき道を行くことが出来るのです。ここに、新共同訳聖書が、「完全」という訳語を選んだ理由を見ることが出来ます。

 日々主の御顔を仰ぎ、御言葉に従い、父なる神を目指して歩ませて頂きましょう。

 主よ、あなたは全能の神であられ、不完全な罪人の私を完全な者とすることがお出来になります。主と主の御言葉に信頼し、すべてを御手に委ねて歩みます。どうか私をあなたの望まれるとおりの者にしてください。御名が崇められますように。 アーメン




4月28日(日)主日礼拝説教

4月28日(日)主日礼拝には、教会員17名、来賓13名がお見えになりました。感謝です。

礼拝後、第66回定期総会を開催しました。


主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「隅の親石」
聖書 ルカ福音書20章9~19節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師


ご覧ください。




4月28日(日) 主日礼拝案内

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4月28日(日)は、教会学校小学科(小学生)、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
教会学校は、「聖書教育」誌にもとづいて、新約聖書・フィリピ書から、共に聖書の学びと交わりを行います。


主日礼拝を10時半から行います。

礼拝では、ルカ福音書20章9~19節より、「隅の親石」と題して、原田牧師より説教をいただきます。


写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。

キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


午後1時より、第66回定期総会を開催します。
2018年度活動報告、決算報告、並びに2019年度活動計画、予算案について協議します。
総会は教会の最高議決機関で、全信徒が平等の資格で協議、決議を行います。

お昼の用意はありません。




4月28日(日) 箴言27章

「明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないのだから。」 箴言27章1節

 冒頭の言葉(1節)の「誇る」と、2節の「ほめる」は、語根(ハーラル)の同じ言葉が用いられています。「ハーラル」は「輝く」という意味の言葉で、「誇る」は、「自分自身を輝かす」(ハーラルのヒトパエル形)ということで、「自慢する、誇る」という訳になっています。

 「一日のうちに何が生まれるか知らないのだから」(1節)という言葉について、「明日のことを誇る」という言葉の関連から、ルカ福音書12章16節以下で主イエスが語られた「『愚かな金持ち』のたとえ」という話を思い出します。

 豊作で喜んだ金持ちが、蔵を大きく建て替えて、「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」(同19節)と語るのを、神が「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは、いったいだれのものになるのか」(20節)と言われました。何年先の保証を持ったつもりでも、明日の命の保証はどこにもないわけです。

 ヤコブも、「あなたがたには自分の命がどうなるのか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生きながらえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです」(ヤコブ書4章14,15節)と記しています。

 山室軍平聖書注解全集『民衆の聖書15』の箴言20章1~4節の解説に、「あさましや思えば日々の別れかな、昨日の今日にまたも会わねば」という沢庵和尚の言葉や、「明日ありと思う心の徒桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」という親鸞聖人の言葉が紹介されています。明日のことは分からないというのは、聖書の専売特許ではないということですね。

 そうだからといって、明日に計画を持っていてはいけないとか、明日のことを考える必要はないということではありません。神が私たちに永遠を思う心をお与えになったわけですし(コヘレト3章11節)、神の霊が注がれると、「老人は夢を見、若者は幻を見る」(ヨエル書3章1節)と言われます。夢や幻によって、神が御心を啓示されますが、それは明日を含む未来に関わることでしょう。

 また、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ書2章13節)という言葉もあります。神が私たち心に働きかけて望みを抱かせ、実現に向けて働かせられるということです。これらの言葉は、神が明日に計画を持ち、それを私たちに示されると教えています。

 しかしながら、私たちは明日に生きることは出来ません。私たちは過去の思い出を持っていますし、明日に夢幻を持つことは出来ますが、しかし、過去に留まって生きることも、未来に先駆けて生きることも出来ません。私たちは常に「今」を生きているのです。明日に夢を持ちながら、過去の様々な経験や知識に学びながら、今日を生きるのです。

 主イエスが、「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ福音書6章34節)と言われたのは、そのことでしょう。

 明日のことまで思い悩むのは、明日に計画を持ち、私たちを生かしておられる主なる神を信頼していないからです。明日のことを誇るのは、明日に計画を持ち、啓示してくださった神の栄誉を自分のものにしようとすることなのです。

 あらためて、「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ」(3章5~7節)との御言葉に耳を傾け、神の御前に謙り、「何よりもまず、神の国と神の義を求め」(マタイ福音書6章33節)て、御前に進みましょう。

 「『誇る者は主を誇れ』。自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです」(第二コリント書10章17,18節)。

 主よ、私のうちに見張りを置き、唇の戸を守ってください。私の心が悪に傾くのを許さないでください。主よ、造られたものがすべてあなたに感謝し、あなたの慈しみに生きる人があなたを称え、あなたの主権の栄光を告げ、力強い御業について語りますように。主はすべての者に恵みを与え、造られたすべての者を憐れんでくださるからです。 アーメン




4月27日(土) 箴言26章

「自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる。」 箴言26章12節

 26章は、三部に分けられます。第一部(1~12節)は「愚か者」についての格言、第二部(13~16節)は「怠け者」、そして第三部(17~28節)には「欺き」や「陰口」、「唇」、「うそをつく舌」など、発言に関する格言が並んでいます。

 第一部で、4節に「愚か者にはその無知にふさわしい答えをするな」とあり、続く5節には「愚か者にはその無知にふさわしい答えをせよ」と記されていて、相矛盾した格言が肩を並べています。ということは、この二つは、絶対的な言葉ではないことを示しています。

 つまり、愚か者とされる人に対して、どんな場合でも一つの対応をとるというのではなく、ある時には、その無知にふさわしい答えをしてはならず、またある時には、その無知にふさわしい答えをしなければならないというわけです。であれば、ふさわしい答えをすべきなのか、そうすべきではないのか、いずれの対応をするべきかを弁える知恵を得る必要があるということになります。

 そうすると、ここに集められているその他の格言も、いずれも律法主義的に読まれるべきではなく、人を生かす言葉として、そのときどきに知恵をもって読まれなければならないわけです。

  「無知にふさわしい答えをするな」とは、「ネコに小判」、「馬の耳に念仏」といった言葉を連想しますが、「あなたが彼に似た者とならぬために」という言葉から、無知な人の相手をするな、愚か者の仲間になるなという意味になります。

 一方、「無知にふさわしい答えをせよ」とは、「彼が自分を賢者だと思い込まぬために」というのですから、彼の無知、言葉の誤りなどを正しく指摘してやりなさいという意味でしょう。

 「愚か者」シリーズの最後に、冒頭の言葉(12節)の通り、「自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。彼よりは愚か者の方がまだ希望を持てる」と記されています。賢者と思い込んでいる者よりも愚か者の方がまだましということは、「自分を賢者と思い込んでいる者」が、最上級の愚か者であるということになります。

 5節との関連で、愚か者の中には、自分の誤りや無知を指摘してくれる人の言葉を聞いて、自分が賢者だと思い込まないように出来る者がいると考えられます。であれば、自分が賢者だと思い込んでいる者は、他者の意見や忠告に耳を貸そうとしないということになります。それで、自分の無知を悟らず、その誤りを修正することが出来ないので、最も愚かな者ということになるわけです。

 16節にも「怠け者は自分を賢者だと思い込む。聡明な答えのできる七人にもまさって」とあります。「七人」は完全数ですから、すべての賢者を意味すると解することが出来ます。怠け者は、自分の賢さが聡明な答えの出来るすべての賢者に勝るというのですから、自分が世界で一番の賢者と思い込むということですね。

 つまり、聡明な答えをする訓練や努力を怠り、そうした賢者の言葉に耳を傾けないということは、自分が一番の賢者だと思い込んでいるだけの怠け者であり、冒頭の言葉との関連で言えば、怠け者でいるよりも、愚か者と呼ばれる者の方がまだ希望が持てるということになるわけです。

 というのは、自分の知恵が足りないと自覚すれば、知恵を得るために努力するでしょう。そして、賢者の言葉に耳を傾けることが期待されるからです。

 「(偶像に供えられた肉について言えば、)『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」(第一コリント書8章1,2節)と、使徒パウロが語っています。

 即ち、真の知識は、神を愛する愛に基づくものであり(同3節)、しかもそれは、「神に知られている」という知識なのです。それに対して、他者を見下げておのが知識を誇る者は、高ぶっているということであり、神を愛さない者と断じられることになります。

 かくて、聖書が語る賢者とは、多くの知識を持っている者ということではありません。主を畏れ、神と隣人を愛する者を、賢者と呼んでいるのです。主を畏れる者は、自分の弱さ、愚かさ、罪深さを悟ります。ゆえに神の憐れみを求めて主の御前に進みます。他者の忠告に耳を傾けます。主の導きに従います。そして、主から愛されていることを悟り、主を愛する者となります。

 愚か者、怠け者とならないよう、自らの弱さ、愚かさ、罪深さを知って、主の十字架を拝しましょう。主の愛と恵みに与らせていただきましょう。そうして、主を愛する者とならせて頂きましょう。

 主よ、御言葉を感謝します。自分が、知らねばならぬことをまだ知らない、愚かな者であることを教えて頂きました。主を愛し、御言葉を慕い求めます。まことの知恵と知識の富をうちに持つ主イエスの御言葉に耳を開かせ、その御心を深く悟らせてください。 アーメン



4月26日(金) 箴言25章

「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」 箴言25章21,22

 25章から「ソロモンの箴言(補遺)」(25~29章)という段落に入ります。1節はその表題で、「ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が筆写した」と記しています。それを文字通り受け止めれば、紀元前716年から686年まで在位したユダの王ヒゼキヤに仕える人々や若者たちの教育のために集められたものといってよいでしょう。

 ヒゼキヤは、北イスラエルがアッシリアに滅ぼされる以前から父アハズと南ユダを共同統治していました(紀元前729年頃から716年頃まで)。アハズはアッシリアに朝貢し、ユダに異教の慣習が導入されました(列王記下16章3節以下)。

 北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされたのは、バアル礼拝など神の教えに背く行為のためと悟ったヒゼキヤは、アハズに代わって王となってから、国内に宗教改革を断行し(同18章3節以下)、神の助けを得てアッシリアを退けることが出来ました(同19章参照)。

 そのような背景の中で、国を治めるために必要なものとして、ヒゼキヤは富や武力ではなく、先人の知恵を求めたのでしょう。そして、その格言は「主を畏れることは知恵の初め」(1章7節、9章10節、15章33節)と教えます。

 25章は、比喩的な格言のかたちで様々な話題が寄せ集められています。たとえば、3節に「王の心の極め難さ」を「天の高さと地の深さ」にたとえて示しています。確かに、ときの指導者の心中は、なかなか量りがたいものです。

 その中で、冒頭の言葉(21,22節)が目にとまりました。敵に食べ物、飲み物を与えよという勧告は、24章17,18節の「敵が倒れても喜んではならない。彼がつまずいても心を躍らせるな。主がそういうあなたを見て不快とされるなら、彼への怒りを翻されるであろう」という禁令にも通じるものがあります。

 使徒パウロが、冒頭の言葉を引用しながら、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ書12章20,21節)と語っています。

 第一ペトロ書3章9節に「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」という言葉が記されていますが、これも同じ精神を示しています。

 ところで、「こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む」とは、どういうことでしょうか。「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」(ローマ書12章19節)との関連で、私たちが敵に施しをすることで、かえって神は敵の罰を重くされるという意味だと解することも出来ます。そういう趣旨の話を伺ったこともあります。

 しかしながら、この文脈から考えれば、その解釈は明らかに誤りです。「善をもって悪に勝ちなさい」と教えていながら、私たちが敵に善を行えば、神が敵にもっとひどい罰を与えるということであるというならば、それはただ、自分の手を汚さず、神にきっちりと仕返しをしてもらうということでしょう。

 つまり、自分が相手に与えた施しは、相手に対する呪いの行為ということになります。そうすると、どうしてそれが、善をもって悪に打ち勝ったということになるのでしょうか。そのことについて、ドイツの信徒向けに著されたNTD新約聖書注解に、よい解説が記されていました。

 「復讐を神の御手に委ねるというのは、一見無力を示しているようであるが、それは内側に神の偉大な愛の力を頂くということだ。そして、その愛の力は、敵の心に、頭に積まれた熱い炭火のような耐え難い思いを与える。
 それは、神様からお灸を据えられたようなことだ。その熱さに耐えかねて、敵は兜を脱がざるを得ない。神の愛は、敵の心をいたく恥じ入らせ、それによって敵の内側から悪意を抜き去ってしまうという、驚くべき力を秘めている。
 こうして、報復を神の手に委ね、自らは善意で答えようとする態度は、安易な神頼みと現実逃避ではなく、驚くべき底力のある強さであり、悪を克服する善の力を信じて、善をもって悪に打ち勝とうとするすることである。
 これは、『あなたがたも聞いているとおり、「目には目を、歯には歯を」と命じられている。しかし、わたしは言っておく、だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい』(マタイ福音書5章38~41節)、『あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである』(同43~45節)と主イエスが山上の説教で教えられたことを、パウロなりの立場と方法で語ったものということができよう」。

 つまり、神の報復というのは、天から火を下して敵を滅ぼすという重い罰などではなく、圧倒的な愛の力によって敵愾心や悪意を打ち砕き、神の御前に恥じ入らせ、思いを転化させるというものだというのです。

 これは、頭で考えて納得出来るものではないかも知れません。きっと甘過ぎると感じることでしょう。 そう上手くことは運ばないと思うでしょう。けれども、それがキリストの教えに示された神の愛なのです。そしてそれは、キリストの十字架に示されるものです。神は、私たちの罪を御子キリストに負わせ、私たちに愛を示し続けてくださっています。

 そのことに気づかされたとき、私たちの内側に、己が罪ゆえに主イエスが苦しまれたことによる耐え難い痛みと、どう申し上げてよいのか分からない感謝が湧き上がって来ます。キリスト・イエスのお蔭で神との間に平和を得た私たちは(ローマ書5章1節)、与えられた聖霊を通して心に神の愛が注がれており(同5章5節)、それによって苦難をさえ誇り、喜びとすることが出来ます(同3節)。 

 そのように神の愛を受けた者として、主の教えに従い、聖霊の力と導きを受けて、その愛に生きるものとして頂きましょう。

 主よ、私たちが受けている考えられないほど大きな愛と赦しを、私たちの回りにいる人に少しでも示して行くことが出来ますように。苦々しい思いを持つ人にも、挨拶から会話を始めることが出来ますように。私たち自身の内に愛の奇跡を起こしてください。 アーメン



4月25日(木) 箴言24章

「わたしはそれに心を向け、観察した。それを見て、諭しを得た。」 箴言24章32節

 22章17節以下、24章22節までが「賢人の言葉(1)」でした。23節から「賢人の言葉(2)」(23~34節)の段落です。段落冒頭の「これらもまた、賢人の言葉である」(23節)という言葉は、この段落の裁判に関する言葉(23~29節)と畑での労働に関する言葉(30~34節)を、前段「賢人の言葉(1)」の教えと結びつけるための編集者による挿入と考えられています。

 冒頭の言葉(32節)で「わたしはそれに心を向け、観察した」と言っていますが、ここで賢人が観察したのは、30節に記されている「怠け者の畑」、「意志の弱い者のぶどう畑」でしょう。そして、そこから得た「諭し」というものは、「(怠け者、意志の弱い者は)しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく横になる。貧乏は盗賊のように、欠乏は盾を取る者のように襲う」(33,34節)というものでした。

 この教訓は、6章10,11節にも記されており、そこでは、怠け者が知恵を得るように、蟻のところに行って見よと言われています(同6節)。

 確かに、教訓は書斎でだけでなく、人がその気になれば、どんな場所、どんなものからでも学ぶことが出来るものです。ニュートンは、リンゴが木から落ちるのを見て、そこから万有引力の法則を見出しました。私などは、それを何百回見たとしても、ただ、「リンゴが落ちた、それがどうした」と思うだけでしょう。

 作物が何も穫れないのを、天候のせいにしたり、環境のせいにするのは簡単です。雨が降らなかったから、日照りが続いたから、そして、灌漑の水を引こうにも場所が悪過ぎるからなどと言って何の工夫も努力もしなければ、永久に収穫を見ることは出来ません。

 8年前の震災と原発事故で、生活を破壊されたままの人々がおられます。震災がなければ、原発事故も起きなかったかも知れません。震災と津波に関しては、誰にも責任がないのかも知れませんが、それ以後、放射能汚染は続いています。

 昨年度上半期に白血病を発症された方は、例年の数倍に及ぶという報告があります。その多くが東北、関東地方、中でも福島県が最も多くなっているそうです。また、白血病と診断された方の半数以上が急性白血病で、統計を取り始めた1978年以来、そのような高率になったことはかつてなかったそうです。

 医師会会長は、白血病の増加と原発事故との因果関係は不明、原因が判明すれば発表すると語っているそうですが、原因が突き止められたら、病気の治療が出来る、予防が出来るようになるというものでもないでしょう。だれが被爆から守ってくれるのでしょうか。「アンダーコントロール」と強弁した首相、そして政府は、そのために何をしようとしているのでしょうね。

 昨年、大坂なおみ選手が女子テニスの全米オープンに第20シードで出場、決勝でセリーナ・ウィリアムズを破り、グランドスラム初優勝。世界ランキングも22位から7位に上昇しました。続く全豪オープンでも優勝してグランドスラム2連勝、世界ランキングも1位になりました。これは、アジア人初の快挙です。

 男子テニスの錦織圭選手は、2014年にメンフィスの大会を連覇、マイアミのマスターズでベスト4、バルセロナのATP500で優勝、マドリッドのマスターズで準優勝と立て続けに好成績を上げて、世界ランキングが9位となり、念願のトップ10選手の仲間入りを果たしました。以来、好調をキープして、現在のランキングは7位です。

 そのほか、世界で戦っている日本人選手の活躍を見るのは、本当に嬉しいものです。しかし、その陰には、素人には想像出来ないような練習や工夫が積み重ねられているのでしょう。誰もやらないようなことに挑戦しているからこその快挙というべきであり、ということは、人一倍失敗を重ね、それを成功のバネにしているわけです。

 誰もが、世界というフィールドで活躍し、優勝という輝かしい成果を上げることが出来るわけではありませんし、学問、研究の分野などで素晴らしい発見をしたり、目覚ましい業績を上げるようなことが出来るというわけでもありません。

 しかし、神は私たちがナンバーワンになろうとすることよりも、オンリーワンであることを自覚して、託されている賜物を互いに生かし合い、主の使命を全うすることを願っておられます。

 「知恵ある男は勇敢に振舞い、知識ある男は力を発揮する」(5節)と言われています。主なる神を畏れることが知恵の初めですから、主の御前に謙り、自分のなすべき務めは何か、それを如何になすべきか、主の御声に耳を傾けましょう。

 「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(ローマ書12章11,12節)とパウロが勧めています。これを記しているパウロ自身が、言葉だけでなく行動で、彼の生活を通して、かくのごとく歩んでいたわけです。

 私たちも、頻発する災害や事故などを他人事とせず、上からの知恵と力を頂きながら、怠らず励み、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈る者とならせていただきたいものです。

 主よ、怠惰な僕をお赦しください。絶えず目覚めて主の御声に聴き従うことが出来ますように。聖霊に満たされ、力を受けて、主の御用に励むことが出来ますように。これから着実に歩みを進めるため、明確なビジョンを与えてください。計画を具体的に推進することが出来ますように。感謝と喜びの賛美を捧げて、御名を褒め称えさせてください。 アーメン

 

静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に4月21日(日)イースター礼拝プログラムと礼拝説教動画(YouTube)を掲載しました。
②「今週の報告」「フォトギャラリー」を更新しました。
③「お知らせ」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。


御覧ください。




4月24日(水) 箴言23章

「わが子よ、聞き従って知恵を得よ。あなたの心が道をまっすぐに進むようにせよ。」 箴言23章19節

 22章17節から24章22節までが、「賢人の言葉(1)」という小見出しの付けられた格言集となっています。その内容から、エジプトの『アメン・エム・オペトの教訓』という、宮廷の財産を管理する高官が息子ホル・エム・マア・ケルのために与えた教訓に基づいているものと考えられています。その『教訓』は、出エジプトの出来事以前に収集され、記録されたものです。

 箴言には、怠惰と飲酒、姦通を戒める言葉が繰り返し出て来ます。この三つが、社会生活や家庭生活を危うくする元凶と考えているのでしょう。

 23章は29節以下に、酒に酔う者の愚かさを描いています。酒の害悪について、創世記9章21節以下で、箱船を出たノアたち一家の別離の原因となっていますし、新約でも、「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです」(エフェソ5章18節)と言われています。

 植木等が歌った「スーダラ節」(詞:青島幸男、曲:萩原哲晶)のレコードが1961年8月に東芝音楽工業から発売され、80万枚を売り上げる大ヒットとなりました。「♪チョイト一杯のつもりで飲んで、いつの間にやらハシゴ酒。気がつきゃホームのベンチでゴロ寝、これじゃ身体にいいわきゃないよ。分かっちゃいるけどやめられねえ。ア ホレ スイスイ スーダララッタ スラスラスイスイスイ ・・・♪」。

 酒に競馬に女性、「飲む、打つ、買う」の三拍子といえば、男が道楽の限りを尽くすことです。ちょっとだけ、すぐにやめると言いながら、ブレーキが利かなくなってしまう人の弱さが歌われています。

 この歌には面白いエピソードがありました。植木等は当初、「こんなふざけた歌が歌えるか」といって怒ったそうです。関係者やクレイジーキャッツの他のメンバーから何度も勧められて悩んだ末、父親に相談しました。植木等の実家は真宗大谷派のお寺です。住職をしていた父親に相談したわけです。

 父親はその歌を聞いて、「これには浄土真宗の教えに通ずる。きっとヒットすると思うぞ」と言ったそうです。それを聞いて植木等はようやく歌う決心がついたというのです。もっとも、植木等は、スーダラ節のヒットに、こんな歌がヒットするなんて悲しいと言ったとか。

 浄土真宗の教えに通ずるというのは、この歌詞の最後の「分かっちゃいるけど、止められねえ」というところにあると考えられます。仏教では、何度反省しても同じことを繰り返す、自分の力で悪を断ち、善を行うことなど到底出来ない人間のことを、凡夫というそうです。

 その凡夫を救うという他力の本願を頼みとするほか、往生を遂げる道はないと悟ることを回心というと、浄土真宗では教えられているのです。他力の本願とは、西方浄土におられる阿弥陀仏がすべての凡夫を救おうとして立てた誓いのこと、往生とは死んで極楽に生まれることです。

 キリスト教と浄土真宗の教えは似ています。凡夫を罪人、他力を主イエス、本願を神の御心と読み替えれば、そのまま新約聖書の福音になりそうです。

 ただ、決定的な違いは、阿弥陀仏が架空の存在で、極楽往生の目的が悟りを開くことであるのに対し、主イエスは歴史に登場して、私たちの罪を赦すため、身代わりに十字架にかかって死んでくださった実在のお方で、その御業は、私たちを救うためのものです。

 主イエスについて、天からの声で「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(マタイ福音書17章5節)と言われたことがあります。私たちは確かに、自分の知恵や力で罪と悪の力に打ち勝つことは出来ませんでした。

 しかし、「わたしに従いなさい」(同16章24節)と私たちを招かれる主イエスは、御自分の死と復活によって罪と死の力を打ち破られたお方です。この方の御言葉を聞くことによって信仰は始まります(ローマの信徒への手紙10章17節)。

 「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」(コロサイ書2章3節)とありますから、キリストに聞いて従っていくとき、確かな知恵を得ることが出来るのです。冒頭の言葉(19節)で、「わが子よ、聞き従って知恵を得よ」とは、そのことでしょう。

 また、「あなたの心が道をまっすぐに進むようにせよ」というのも、同様に解釈することが出来ます。ヨハネ福音書14章6節に、主イエスこそが道であり、主イエスに従ってその道を歩んで行くと、真理と命に与り、父のもとに行くことが出来ると言われています。そこから右にも左にもそれることがないように、主イエスの御言葉と聖霊の導きに素直に聴き従うものでありたいと思います。

 主よ、酒に酔うのではなく、聖霊に満たされて、絶えず心から主を賛美し、信仰によって互いに教え、励まし合うことが出来ますように。心の中から新たにされて、神の御旨をわきまえ、喜びと感謝をもって御言葉と聖霊の導きに素直に従うことが出来ますように。 アーメン





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