風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2019年03月

近況報告

先日、病院を受診し、前回行った検査の結果を聞いてきました。
毎回血液検査などをして、持病の様子をチェックしていますが、前回はもう一つ詳しい検査を行っていたのです。
その結果、2年半ほど前に始めた新しい治療が功を奏し、以来ずっと寛解状態が続いていることが、あらためて確認されました。

検査方法によっては、かえって持病を悪化させることもあります。
治療法もまだ決定的なものはなく、寛解状態を維持するために行われているという状況で、うまくいかなければまた新しいものを試すことになります。
すべてが良いというものでもなく、以前試したものは、薬効よりも副作用の方が問題で、肝機能などに悪影響を及ぼしたりしました。

今の治療法がずっと良い効果をもたらし続け、それによって発症が抑え続けられれば、発癌のリスクも抑えられます。
そうなることを願っています。
そのためにも、健康的な生活を心がけていきたいと思います。

皆様の上にも主の守り、導きがいつも豊かにありますように。




3月12日(火) 詩編130編5節

「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。」 詩編130編5節

 130編は「都に上る歌」の11番目で、「七つの悔い改めの詩」(6,32,38,51,102,130,143編)の一つにも数えられています。

 詩人はこの詩を、「主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」(2節)という、救いを求める言葉をもって始めています。詩人は今、「深い淵の底」にいて、そこから主を呼んでいると記しています(1節)。

 「深い淵の底」は、「深み」(マアマッキーム)という言葉で、通常、海の深みを表します(69編3,15節、イザヤ51章10節など)。海は恐怖の対象として描かれることが多く(46編4節、イザヤ5章30節、ルカ福音書21章25節など)、人に恐れや死をもたらす悪しき龍が住むと考えられていました(ヨブ7章12節、74編13節、148編7節、イザヤ27章1節)。

 「深い淵の底」が具体的に何を指すのか、どのようにして深い淵の底に落ち込んだのか、詳細は不明ですが、3節で「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう」と語られているので、詩人は、罪ゆえにそこに投げ込まれたように感じているということなのでしょう。即ち、神に捨てられ、祈りの声も神に届かないような「深み」なのです。

 罪ゆえに海の深みに投げ込まれたといえば、ヨナ書に物語られている、アミタイの子ヨナという預言者のことを思い出します。ヨナは、「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている」という主の言葉を聞きましたが(同1章1,2節)、それに背いてタルシシュ行きの船に乗ります。

 タルシシュの正確な場所は分かっていませんが、地中海の西方、現在のスペイン領にあるだろうと考えられています。一方、ニネベはアッシリア帝国の首都で、現在のイラクの北方に位置していました。

 アッシリアは、北イスラエルを滅ぼした国です。ヨナに対して主の言葉が告げられたのが、北イスラエル滅亡の前か後かなども不明ですが、列王記下14章25節のヨナと同一人物であれば、北イスラエル滅亡前、ヤロブアム二世の時代ということになります。そうであれば、そのような国に行って神の言葉を告げ知らせたいとは思えなかったわけです。

 というのは、彼が神の裁きの言葉を告げ知らせることによって、ニネベの町の人々が悔い改めでもすれば、憐れみの神は裁きを思いとどまられるからです。そして、神が預言者が遣わされるのは、勿論、ニネベを滅ぼしたいからではなく、悔い改めに導きたいからなのです。ヨナは、ニネベは滅んで当然と考えていたので、敢えて主に背いて逃げ出したわけです。

 その船は海上で大嵐に見舞われました(同5,12節)。しかし、ヨナが嵐の海に放り込まれると、海は静まりました(同15節)。嵐がヨナの裁きと関わりがあったという証拠です。海に放り込まれたヨナは、巨大な魚に飲み込まれ(同2章1節)、その腹の中から主に祈りをささげました(同3節以下)。

 そこに、「苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった」(同3節)とあり、130編1,2節の祈りの言葉をヨナが祈ったところ、神が答えられたと読める内容です。

 自分の罪ゆえの苦しみの中からの叫びを聞かれるとは、なんと神は憐れみ深いお方なのでしょう。だから、冒頭の言葉(5節)のとおり、「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます」というのです。

 ここで、「望みをおく」は「望む、待望する」(カーワー、ピエル完了形)という言葉で、「待ち望む」は「待つ、待ち望む」(ヤーハル、ヒフィル完了形)という言葉であって、意味上の違いはそれほど大きくありません。同類の言葉を重ねることで、主を待ち望む思いの強さを表わしているようです。

 主を待つ思いは、主を信頼する心でもあります。それが、6節の「わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして」に示されます。ここに、主を待つことが、見張りが朝を待つことと対比されています。夜の次に朝がやって来るのは確実です。その朝の到来を待つ見張りの心にもまして、主を待ち望むというのです。

 4節の「赦し」(スリーハー)、7節の「慈しみ」(ヘセド)は、いずれも定冠詞がつけられており、「赦し」と「慈しみ」の権威が主のものであり、主は赦し、慈しむ力をお持ちであることを示しています。 

 しかし、主の赦しと慈しみが自分たちに与えられることたは勿論大歓迎ですが、イスラエルの敵国アッシリアの首都ニネベの人々にも与えられるというのは、ヨナでなくてもなかなか納得できないでしょう。そして、神のなさりようは納得いかないと腹を立てたとき、私たちも主に背く者となります。それゆえ、ヨナ同様、海に投げ込まれ、深い淵の底で苦しむ者となるのです。

 誰でもない私たち自身が従順に感謝と喜びをもって主に従う者であるよう、主は絶えず憐れみをもって私たちを招き続け、語り続けていてくださいます。主は深い愛と憐れみによって神の義を作り出されるお方なのです。

 苦しみ、悩みのすべてを主の御手に委ね、常に主に望みを置き、朝ごとに主の御言葉を待ちましょう。

 主よ、私たちの魂はあなたを待ち望みます。慈しみと、豊かな贖いはあなたのもとにあります。あなたは私たちをあらゆる罪から贖い、救いの喜びに与らせてくださいました。絶えず御言葉に耳を傾け、素直にその導きに従うことが出来ますように。 アーメン




3月11日(月) 詩編129編

「傍らを通る者が、『主はあなたがたを祝福される。わたしたちも主の御名によって、あなたがたを祝福する』と言わないように。」 詩編129編8節

 129編は「都に上る歌」の10番目で、敵の支配の中にあっても、主が守り助けてくださるという信仰を言い表し、敵の敗北を願う歌です。

 1,2節に「わたしが若いときから、彼らはわたしを苦しめ続けたが」(ラバト・ツェラルーニー・ミネウーライ)と、同じ言葉が2度繰り返されていて、苦難を繰り返し味わったことを強調しています。

 1節冒頭の「イスラエルは言うがよい」は、原文では「わたしが若いときから、彼らはわたしを苦しめ続けたが」という言葉にサンドイッチされる位置に記されていて、詩人の苦しみは民族の苦しみであるということを示そうとしているようです。

 その苦難は3節の「耕す者はわたしの背を耕し、畝を長く作った」という言葉から、畑で過酷な農作業に従事させられたと考えられ、詩人にとっては、さながら自分の背を耕し、そこに畝を作るような過酷な痛み苦しみを伴うものだったということです。

 それは、エジプトでの奴隷生活のことも含まれるでしょう。そして、そのときの400年間の奴隷生活にも匹敵するバビロンでの50年という意味もあるでしょう。

 それだけでなく、モーセに導かれてエジプトを脱出した後、約束の地カナンに王国を築くまでも、その後、アッシリア、バビロンに国が滅ぼされるまでも、さらに、ペルシアによってバビロンからの帰国が許され、神殿を再建してからも、ずっと苦難続きでした。イスラエルの歴史は、確かに自分の体に刻まれた傷が畑の畝に見えるほどの苦難の連続だったわけです。

 しかし、「彼らはわたしを圧倒できなかった」(2節)というとおり、詩人をはじめイスラエルの人々は、その苦しみに耐え抜くことが出来ました。というのも、かつて主の助けによってエジプトでの苦しい奴隷生活から脱出することが出来たように、バビロン捕囚の苦しみからも解放されたからです。そのように常に神に希望を置いていたということも出来そうです。

 その信仰が、「主は正しい。主に逆らう者の束縛を断ち切ってくださる」という4節の言葉に表現されています。これまで、様々な苦難を味わうたびに、イスラエルの民は救いを求めて神に叫びました。憐れみ豊かな神は、その声に答え、イスラエルをその苦しみから、悩みから、あらゆる束縛から、解放してくださったのです。

 そもそも、彼らがそのような苦難を味わうことになったのは、イスラエル自身が主に逆らう者となったからです。彼ら自身が彼らを守る主の御手を離れ、自分勝手に神ならぬ神に惹かれて行きました。強国にすがり、守ってもらおうともしました。

 しかし、神の守りがなくなったとき、主に逆らう者、シオンを憎む者らの束縛に陥りました。彼らが頼りとした異教の神々も、エジプトに代表される強国の軍隊も、そのとき、何の助けにもなりませんでした。ですから、イスラエルの民は、様々な苦難を通して、改めて主への信仰を受け止め直したのです。

 5節以下に、「主に逆らう者」(4節)に対する呪いの言葉が記されます。5節では「シオンを憎む者」と呼ばれます。イスラエルに敵対し、それを滅ぼそうとする者は、その都の置かれたシオンを憎む者であり、それは、シオンをご自身の住まいとして選ばれた主に逆らう者だという論理です。

 しかし、逆に言えば、イスラエルの民は主に背き続けていたので、彼らこそシオンを憎む者と呼ばれる者であり、ゆえに、自ら国を亡ぼす結果となったいうことです。それが冒頭の、「傍らを通る者が『主はあなたがたを祝福される。わたしたちも主の御名によって、あなたがたを祝福する』と言わないように」(8節)という呪いの言葉の結果です。

 「主はあなたがたを祝福される。わたしたちも主の御名によって、あなたがたを祝福する」というのは、本来、収穫の束を抱えている者たちがお互いに交わした祝福の言葉でしょう。そして、「都に上る歌」という表題に示されるように、エルサレムに巡礼してきた旅人がお互いに交わした言葉でしょう。

 それを言わないようにということは、収穫に与らないということでしょう。また、エルサレムに詣でることがないということでしょう。捕囚となって民が味わった悲哀を思います。であれば、自分たちを苦しめたバビロンを呪っておしまいになるという話ではありません。

 あらためて、主は祝福する者を祝福され、呪う者を呪われます。「人を呪わば穴二つ」なのです。だから、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(第一ペトロ書3章9節)と教えられているのです。

 呪う者ではなく、祝福する者になりましょう。背く者でなく、主に従う者になりましょう。 

 主よ、あなたが私たちを徹底的に愛し、恵みに与ることが出来るようにしていて下さることを、心から感謝致します。もしも主が私たちの悪に悪をもって、侮辱に侮辱をもって報いられる方であるなら、私たちが主を信じ、神の子とされる恵みを味わうことなど、あり得ませんでした。祝福を受け継ぐために召されたことを肝に銘じ、主の御足跡に従わせてください。御国が来ますように。御心がこの地に行われますように。 アーメン



3月10日(日) 詩編128編

「いかに幸いなことか、主を畏れ、主の道に歩む人よ。あなたの手が労して得たものはすべて、あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか、いかに恵まれていることか。」 詩編128編1,2節

 128編は「都に上る歌」の9番目で、主に信頼する者を祝福される主なる神への賛美の詩であり、127編の続編ともいうべき内容です。

 127編では、主の働きなしに労苦する空しさが、その冒頭で語られていました。それに対して128編では、冒頭の言葉(1,2節)のように、主を畏れ、主に信頼してその道を歩む者の労苦は豊かに報われ、また家族に恵まれて繁栄すると(3節)、祝福が語られています。

 人は、神が取って食べるなと命じられた木から食べるという罪を犯したため、地は呪われ、生涯、食べ物を得るために苦しむことになりました(創世記3章17~19節)。また、女性は出産のために苦しみを味わわなければならなくなりました(同16節)。労働も出産も、大きな苦痛を伴うものとなったわけですが、それはいずれも、神の祝福のもとにありました。

 神が、ご自分にかたどって人を、男と女に創造されたとき(同1章27節)、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」といって祝福されました(同28節)。また、エデンの園を耕し、守るように、人にその務めを与えられました。そして、園の木の実を食物とするようにされたのです(同2章15,16節、1章29節も参照)。

 ですから、出産や子育て、そして勤労は、本来、神から祝福として与えられたものなのです。その祝福なしに生きるのは、神の御旨に添わない不完全なこと、127編の言葉で言えば、「むなしい」ということになります。即ち、主なる神は、私たちの人生を祝福に満ちたよいものとしてお与えくださったわけです。

 「シオンから、主があなたを祝福してくださるように」(5節)と言われるということは、シオンが御自身の現臨を示される地であり(132編5,13節)、そこから全世界を恵みをもって統治されるということです(50編2節、99編2節)。

 それゆえ、私たちの祝福はシオン、即ちエルサレムの平和と繁栄に関わりがあることになり、それで、「命のある限りエルサレムの繁栄を見、多くの子や孫を見るように」と祈られるわけです(5,6節)。であれば、122編6節以下と同様の願いが語られていることになります。

 詩人は勿論、シオンの山、エルサレムに来なければ、神様の祝福を受けることが出来ない、エルサレム神殿の礼拝に参加すれば、それが受けられるなどと言っているわけではありません。かつてバビロン捕囚という苦難を経験した人々は、エルサレムの神殿や町の城壁が自分たちを守ってくれるわけではないことを、しっかりと学びました。

 127編で学んだとおり、主が建ててくださるのでなければ、主が守ってくださるのでなければ、一切の労苦は空しいのです。だから、主を畏れ、主の導きに従って歩む者の幸い、祝福が語られているのです。

 この詩においては、主の道を歩むこととは、「都に上る」ことであり、エルサレム巡礼をすることですが、その心は、絶えず主との交わり、主との結びつきを確認するということです。

 神は、独り子キリストを信じる者に永遠の命をお与えくださいました(ヨハネ3章16節)。「永遠の命」とは、単に永遠に長生き出来るということではなく、交わりの豊かさが与えられることです。同10章10節で「わたし(キリスト)が来たのは、羊(私たち)が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と語られているのは、まさにこのことです。

 主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(同14章6節)と言われました。「主を畏れ、主の道に歩む」とは、主イエスと共に、主イエスの導きに従って歩むことで、真理と命の恵みを受け、そして、父なる神との交わりが豊かに開かれるのです。

 私たちにとって、誰より何より、主が私たちの内におられ、共にいてくださるのが、何よりの恵みです。主イエスは「インマヌエル」、即ち「神がわたしたちと共におられる」(マタイ福音書1章23節)と呼ばれるお方です。ここに、祝福の基があります。主から、聖霊を通して神の愛、平安、希望、喜び、力が注ぎ与えられるのです(ローマ書5章5節、15章13節など)。

 絶えず主を拝し、その御言葉に従って歩ませて頂きましょう。

 主なる神よ、御子キリストが私たちのために十字架にかかられ、私たちの罪を担ってくださいました。私たちが罪に対して死に、義に生きるようになるためです。どうか、御霊により、御言葉に従って主の御足跡に続いて歩ませてください。悪に打ち負かされず、祝福の基として、すべての人のために祝福を祈る者とならせてください。 アーメン



3月10日(日)主日礼拝説教

3月10日(日)の主日礼拝には、教会員17名、来賓15名(初来会者2名、子ども3名を含む)がお見えになりました。感謝です。
礼拝後、信徒会で執事選挙、会計監査の選任が行われました。


主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「今日救いがこの家に」
聖書 ルカ福音書19章1~10節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師


ご覧ください。







3月10日(日)主日礼拝案内

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3月10日(日)は、教会学校小学科(小学生)、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
教会学校は、「聖書教育」誌にもとづいて、新約聖書・ルカ福音書から、共に聖書の学びと交わりを行います。


主日礼拝を10時半から行います。

礼拝では、ルカ福音書19章1~10節より、「今日救いがこの家に」と題して、原田牧師より説教をいただきます。


写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。

キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


礼拝後、臨時の信徒会を行います。

午後1時より、定例執事会を行います。


お昼の用意はありません。



3月9日(土) 詩編127編

「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。」 詩編127編1節

 127編は、「都に上る歌」(120~134編)の8番目、ちょうど真ん中にあって、主なる神に信頼する平安と祝福を教えています。

 表題に「ソロモンの詩」(1節)とあるのは、2節の「(彼の)愛する者」(エディードウ)という言葉が、ソロモンの幼名「エデイドヤ」(「主の愛する者」の意、サムエル記下12章25節)によく似ているということで、そのようにつけられたのではないかと考えられます。70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)は、「ソロモンの詩」という表題を省略しています。

 1,2節に「むなしい」(シャーウェ)という言葉が3度、出て来ます。それは、家を建てる人の労苦、夜通し町を守る人の労苦、そして、朝早くから夜遅くまでの日常の労苦について語っているものです。

 冒頭の言葉(1節)で、「家」は、「神殿」と訳すことも出来ます。ソロモンの建てた神殿は、バビロンによって焼かれてしまいましたが、バビロンから解放されて帰国した人々が2番目の神殿を建てます。

 そこで、主なる神が神殿を建ててくださるのでなければ、労苦することは空しいと言われるのは、無駄だからやめようと言っているのではなく、神殿を建てる業は神の祝福に基づく業、それこそ、主ご自身が建ててくださるのだから、どんなに苦労があり、それで空しさを覚えることがあっても、徒労に終わらせず、信仰をもってやり遂げようと語っているわけです。

 また、「家」には冠詞がついていません。「ザ・ハウス」ではなく、「ア・ハウス」なのです。ですから、普通の家を建てることとも考えられます。そうであれば、事情は少々違って来ます。

 ハガイ書1章4節以下に、捕囚から帰還した人々が神殿よりも自分の家の再建を優先させたことに対する神の裁き、あるいは、警告が語られています。それとの関連を考えると、神を無視した自宅の建築は、無駄なこと、空しいことになると言われているようです。

 かつて、王宮に住むようになったダビデが、神殿を建てたいと主なる神に願ったとき(サムエル記下7章2節)、主はそれを留められました(同5節以下)。

 そして、「主があなたのために家を興す」と言われました(同11節)。それは、ダビデに王国を嗣ぐ子を与えてくださり、その子が神殿を建てることになるということでした。つまり、子らによって、家が堅く建てられるというわけです(同12節)。ダビデの家は、まさに主御自身によって建てられたのです。

 このことは、後半(3節以下)の「子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い」(3節)などと言われるところにも示されます。詩人は、仕事の成功と家庭の繁栄は、共に主の祝福として与えられるものとして、ここにそれを結び合わせているのです。 

 「町を守る人」は、ネヘミヤ記4章1節以下を思い起こします。同9節に「わたしたちが気づき、神がその計略を破られたことを敵が知ったので、わたしたちは皆、城壁に戻り、それぞれ自分の作業に就いた」と記されています。即ち、城壁の再建を妨害する敵に対して、神御自身が見張りをしてくださったということです。

 詩人は、エルサレムの城壁再建にあたり、敵の計略を破られた神が、今も町を見張り、また配慮し続けていてくださると言っているわけです。その意味で、町を守るのは城壁ではなく、神ご自身であるということです。

 確かに、ソロモンの建てた神殿はいかにも壮麗であり、飛ぶ鳥を落とすほどの威光によって築かれたエルサレムの町は、堅固な城壁に守られていました。けれども、子らは国を二つに割り、北はアッシリアに追い散らされ、南はバビロンによる捕囚の憂き目に遭いました。確かに、神殿の壮麗さや城壁の堅固さが町を守るわけではないと学ばされます。

 今イスラエルは何に依り頼むべきか。もし、主の御手が共にあるのでなければ、主が働いておられるのでなければ、一切は空しいこと、無益なことなのだということ、ゆえに、主の御手が共にあり、主が働いてくださるのであれば、糧を得ることにあくせくせず、安心して眠るがよい(2節)と、詩人は教えているのです。

 箴言10章22節に「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることができない」と記されています。「朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人」(2節)という言葉の背景には、神に背き、神を離れて生きることになった人間に定められた労苦(創世記3章16~19節)があるようです。

 主イエスは、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(ヨハネ福音書5章17節)と言われました。父なる神が、私たちを神の安息に導き、平安な恵みを味わわせるためにお働きくださっており、その御心を実現するために主イエスがお働きくださっているということです。

 主の平安と恵みに導きいれられ、そこに留まる事が出来るよう、絶えず主を信頼し、その御言葉に従って歩ませて頂きましょう。

 主よ、私たちが主イエスから離れるなら、実を結ぶことが出来ません。どうか、常に主につながり、その御愛の内に留まることが出来ますように。私たちの内に主の御言葉がいつもあり、祈り願いを聞き届けていただくことが出来ますように。 アーメン



3月8日(金) 詩編126編

「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」 詩編126編5節

 126編は「都に上る歌」の7番目で、捕囚からの解放の喜びを思い起こし、主の民の回復を待ち望む巡礼の民の信頼の歌です。

 1節に「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて」とありますが、原文は「主がシオンの回復を戻した」という言葉です(岩波訳脚注参照)。「捕らわれ人を連れ帰る」という訳は、七十人訳と同様、4節の「わたしたちの捕らわれ人を連れ帰ってください」との関連で、「回復」(シーバー)を「捕らわれ人」(シェビート)と読み替えたかたちになっています。

 口語訳、新改訳は、「回復」を「繁栄」と読んでいます。シオンの回復とは、シオンが神の都エルサレムなので、エルサレムが回復するとは、民の帰還と共に、神の都が復興するということになるでしょう。そこから、「繁栄」という訳語が選ばれたということなのだろうと思います。

 シオンの繁栄の回復とは、商売繁盛、五穀豊穣などといった物質的な祝福ではなく、まことの主なる神を礼拝するイスラエルの民が回復することです。そして、主を礼拝する民の回復とは、バビロンに捕らわれている人々が解放されることであり、彼らが帰国して神殿を再建すること、神の都を復興することなのです。

 捕囚から解放されて帰国しさえすれば、シオンの繁栄が回復出来るというものではありません。彼らが頑張れば、国を建て直すことが出来るというわけでもありませんでした。

 解放されたときには、まさに「夢を見ている人のよう」(1節)だったろうと思われますが、帰国した捕囚の民を待ちうけていたのは、城壁も破壊されたままの荒れ果てた地です(ネヘミヤ記1章3節)。神殿を建て直そうとしますが、内外に妨害があり、工事は遅々として進みませんでした(エズラ記4章)。

 帰国して22年後、ダレイオス王の治世第6年(BC515年)、ようやく第二神殿を完成することが出来ました(同6章15節)。エルサレムの城壁再建にはさらに時間がかかり、ネヘミヤの時代、アルタシャスタ王の治世第20年(BC445年)に、それが実行されました(ネヘミヤ記6章15節)。

 けれども、それで主を礼拝する民が回復されたわけではありません。エズラ記9章に、「異民族の娘との結婚」という小見出しがあります。異教の民との結婚がなされたということは、これは信仰上の問題ということですが、その背景には、そうせざるを得ないほどの貧しくて辛く苦しい生活があったのだと思います。

 だから、4節に「主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように、わたしたちの繁栄を回復してください」と主に祈り求めているのです。「ネゲブ」(南という意)はユダヤの南部、年間降水量が200㎜以下という乾燥地帯です。

 「ネゲブに川の流れを導く」とありますが、ネゲブの川は、夏(乾期)の間は全く水を見ることが出来ません。しかし、冬(雨季)になると雨水が川を満たして一気に流れ下ります。つまり、雨が降ったときだけ水が流れる、ワーディーと呼ばれる川なのです。

 ネゲブに川の流れを導くようにということは、ときどきイスラエルを繁栄させて欲しいというのではなく、天の水につながっていなければ水が流れないというところから、絶えず水の流れがあるよう自分たちを主なる神にしっかりとつながらせ、常に主なる神を礼拝する民として回復してくださるようにと、詩人は祈り求めているわけです。

 冒頭の言葉(5節)で「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」と言い、6節でも「種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」と語って、このところでは、種蒔きと涙、刈り入れと喜びが結び付けられています。

 刈り入れが喜びであることは言うまでもありませんが、なぜ種蒔きが涙なのでしょうか。種を蒔くことそのものが涙のこぼれる辛いこと、悲しいことであるはずはありません。

 詩人が語っているのは、水のないネゲブの川のように、種を蒔こうとしても蒔く種がない、種を蒔くための畑もないといった、厳しく辛い現実だろうと思います。つまり、収穫などほとんど期待出来ない状況です。そのような厳しい現実の中で、イスラエルの民は日々主を仰ぎ、主に信頼するという訓練を受けているのです。

 そのような苦しみの中で主を仰ぎ、涙ながらに主を求めたとき、主はそれを信仰による種蒔きとして、収穫のときのような喜びを味わわせてくださるということでしょう。恵みの雨で川に水が流れるように、自分たちの手に蒔くべき種はなくとも、収穫の主はその民に麦の束を与え、喜びの歌を歌わせてくださるのです。

 その意味では、主を礼拝する恵みに与っていることこそ、私たちに授けられた「束ねた穂」であることを悟ります。レントに入ったこの時、悔い改めの涙をもって主の御前に進み、私たちのために独り子をさえ惜しまずお与えくださる主の恵みをほめたたえましょう。

 主よ、あなたは私たちを主の民として選ばれました。それはただ、主の深い憐みのゆえです。主よ、どのようなときでもあなたを信じ、依り頼み、あなたの手足として用いて頂くべく、いつもあなたに聞き、その御言葉に従うことが出来ますように。 アーメン



3月7日(木) 詩編125編

「主に従う人に割り当てられた地に、主に逆らう者の笏が置かれることのないように。主に従う人が悪に手を伸ばすことのないように。」 詩編125編3節

 125編は「都に上る歌」の6番目で、エルサレムが山に囲まれて内外の敵から守られているように、主に依り頼む人が主なる神によって守られるよう祈る、教訓的信仰の歌です。

 1,2節に「主に依り頼む人は、シオンの山。揺らぐことなくとこしえに座る。山々はエルサレムを囲み、主は御自分の民を囲んでいてくださる、今も、そしてとこしえに」とあり、ここに詩人の信仰が表明されています。シオンの山が揺らがないように、主に依り頼む人は揺らがせられない。山々がエルサレムを囲んでいるように、主がその民を囲んで守っていてくださるというのです。

 ただ、何の疑いもなくそのように語ることが出来るときもありますが、しかし、様々な波風に揺るがされ、どこにも囲いがないように思われるときもあります。主に信頼すれば、危険がなくなるということではありません。むしろ、突然の嵐といった思いがけない危機に遭遇するからこそ、神の守りが必要であり、主に助けを求めて依り頼むのです。

 冒頭の言葉(3節)で「主に従う人」とは、「義人(たち)」(ツァディーキィーム)という言葉です。主なる神との正しい関係にある人々ということです。それで、「主に従う人」と意訳されています。1節の「主に依り頼む人」、2節の「御自分の民」を「主に従う人(義人)」と呼んでいるわけです。

 また、「割り当てられた地」とは「くじ」(ゴーラル)という言葉です。かつて、約束の地を各部族がくじをひいて嗣業の地を得たことから(ヨシュア記15章1節、16章1節など)、そのように訳されているわけです。

 さらに、「笏」は王権を示し、「主に逆らう者」は「不正、悪」(レシャー)という言葉で、「主に従う人」に対して「主に逆らう者」と訳されています、主に逆らう者の支配ということから、ここでは、異教の民や他民族のことではないかと考えられます。

 「ように」と訳されているのは、「キー」(なぜなら、確かに)という接続詞で、これは願いを意味するものというより、1,2節で語られている言葉の理由や目的を示す言葉なのです。

 岩波訳はこの3節を、「まことに、不法の笏は、義人たちの籤(くじ)に留まらない。義人たちが手を不正に差し入れないために」と、直訳的に記しています。つまり、イスラエルの嗣業の地を異教の民が治めたりしないために、主がご自分の民を取り囲んで守ってくださるということです。

 しかし、危機を及ぼすのが必ずしも外敵ばかりではないことを、詩人は知っていて、「主に従う人が悪に手を伸ばすことがないように」と願います。「悪」は、「不正、偽り、不義」(アヴラー)という言葉で、「主に逆らう者」との関連で、神に背く道を歩むことを指しています。

 「主に従う人」は、続く4節の「良い人、心のまっすぐな人」と、「主に逆らう者」は、5節の「悪を行う者」とが対応しています。ということは、主に従う人の中で、悪を行う者に誘惑され、「よこしまな自分の道にそれて行く者」(5節)がいるわけです。

 このように語られる背景には、バビロン捕囚があります。エルサレムの都が占領され、傀儡政権がおかれました。エルサレムに「神に逆らう者の笏」が置かれることになったわけです(列王記下24章8節以下、17節)。紀元前597年のことです。

 その10年後、この傀儡政権がエジプトを頼りに、バビロンに対して反旗を翻します(同24章20節)。しかし、バビロンの王ネブカドネツァルによって謀反は鎮圧され、都は焼き払われ、民は捕囚として連れ去られてしまいました(同25章1節以下9,11節)。それは、イスラエルの王たちが主の目に悪とされることをことごとく行い、主の怒りを買ったからです(同24章19,20節)。

 イスラエルの民が捕囚から解放され、故郷に帰ることが許されたのは、神の一方的な憐れみでした。だからといって、バビロンから解放されたイスラエルの民を待ち受けている状況は、以前とまったく変わってしまっているわけではありません。

 詩人はあらためて、自分たちを取り巻いている状況にではなく、主なる神に目を注ぎ、人の知恵や力などではなく、自分たちを囲んで守ってくださる主に依り頼むことを宣言し、そして、主に逆らう者、悪を行う者を追い払ってくださるように祈り求めているのです。

 ハバクク書2章4節に「神に従う人は信仰によって生きる」とあります。「神に従う人」は、3節の「主に従う人」と同じ「正しい」(ツァッディーク)という言葉の単数形が用いられています。即ち、主に従う人の正しさというのは、主の恵み、主の助けに信頼することによって表されるということであり、主を信頼して歩むときに、神の救いの御業が現されるわけです。

 詩人は、主なる神の御業によって内外に平和が実現されることを、主に信頼しつつ「イスラエルの上に平和がありますように」と求めているのです。

 平和が脅かされている時代に、主にあって世界中にキリストの平和が実現するように、また、どんなときにもあらゆる人知を越える神の平和が、私たちの心と考えをキリスト・イエスによって守るように、平和の源である神に信頼しつつ、祈り求めて参りましょう。

 主よ、あなたの御顔を拝し、心からほめ歌をささげます。どうか私たちを信仰に固く立たせ、私たちをあなたの恵みで囲んで守ってください。いたるところで平和が脅かされています。不安と恐れが世界を支配しているかのようです。世界中にキリストの平和がありますように。信仰によって得られるあらゆる喜びと平和で満たし、私たちを希望に満ち溢れさせてください。 アーメン



3月6日(水) 詩編124編

「仕掛けられた網から逃れる鳥のように、わたしたちの魂は逃れ出た。網は破られ、わたしたちは逃れ出た。」 詩編124編7節

 124編は、「都に上る歌」の5番目で、主の救いを賛美するようイスラエルの民に促す「賛美の詩」です。

 最初に「イスラエルよ、言え」(ヨーマル・ナー:1節)といって、自分たちの経験した救いの出来事を思い返し(1~5節)、次に「主をたたえよ」(バールーク・ヤハウェ:6節)といって、救いの出来事を賛美し(6,7節)、最後に「わたしたちの助けは主の御名にある」(エズレーヌー、ベ・シェーム、ヤハウェ:8節)と、主に対する信仰の表明がなされます。

 8節の「わたしたちの助けは、天地を造られた主の御名にある」という言葉は、121編2節の「わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから」という言葉によく似ています。そして、「わたしの助け」が「わたしたちの助け」と、個人から集団へと助けが拡大されています。個人をお救いくださる神は、「わたしたち」という集団も守り助けられるお方なのです。

 「わたしたちの助け」を提供される神は、「わたしたち」という集団を形成している一人一人のことを、よくご存知です。集団の中の一人でも足並みを乱す者がいれば、助けはお預けということであれば、「わたしたちの助け」という言葉は存在しなかったことでしょう。仮にそういう者がいても、神はその集団を憐れみ、味方となってくださるのです。

 「主がわたしたちの味方でなかったなら」と、1,2節で2度繰り返されています。それに対して、「そのとき」(アザイ:3~5節)を3度繰り返して、その条件の帰結が語られます。そうすることで、イスラエルが繰り返しそのような危機から主によって救われてきたことを、読者に思い起こさせるのです。

 2節の「わたしたちに逆らう者」の「者」とは、「人」(アダム)という言葉です。単数形ですが、「人々」を意味する集合名詞として用いられています。これは、自分たちを苦しめているのは人間に過ぎない。人間が主なる神に敵対することなど出来はしないということでしょう。

 それにも拘わらず、イスラエルは危機に際して、「人」に代表される目に見える強いもの、例えばアッシリアやバビロン、エジプトなどの軍事力に頼ろうとします。そうして、主の命に背き続けてきたのです。その結果、北イスラエルはアッシリアに、南ユダはバビロンに滅ぼされ、捕囚となる憂き目を見たのです。

 確かに、主なる神が味方となってくださらない状況では、「敵意の炎」(3節)「激流」(4節)、「奢り高ぶる大水」(5節)には全く太刀打ちできず、絶望せざるを得ませんでした。

 「わたしたちの味方である」というのは、「わたしたちの側におられる主」(ヤハウェ・シェハーヤー・ラーヌー)という表現です。どうして主なる神は、繰り返し背いて主を悲しませたイスラエルの詩人たちの傍に立ち、その味方となられたのでしょうか。それは、この詩が123編に続く場所に置かれているというところに、解釈の鍵があると思います。

 123編3節で詩人は、「わたしたちを憐れんでください」と願い求めていました。憐れみを乞うということは、詩人には、神に救いを求める資格や権利がないということだと学びました。しかしながら、神の憐れみによる救いを求めるということは、もはやそれ以外に、自分たちが救われる術がないということでもあります。そして主は、その祈りに答えてくださったのです。

 冒頭の言葉(7節)には、「逃れ出る」(マーラト)と「網」(パー)が2度ずつ出てきますが、原文を見ると、「逃れ出る」、「網」、「網」、「逃れ出る」という具合に、対称形に並んでいます(交差配列)。これは、詩の一つの技巧で、自分たちに襲い掛かってきた危機から逃れ出られた喜びを、このような形で表現しようとしているのです。

 詩人は、自分たちが網から逃れ出ることが出来たのは、「網は破られ」てということだったと言っています。自分で網を破いたとか、網にかからなかったということではないわけです。つまり、もしも網が破られなければ、逃れ出ることは出来なかったということになります。そして、網を破られたのが、味方となられた主なる神のお働きと言っているのです。

 イスラエルの民は、その罪ゆえに神に裁かれ、亡国と捕囚の憂き目を味わいました。そこで苦しみ呻く民の祈り、願いに、神の憐れみの御手が伸べられ、彼らを捕えていた網を破ってくださったのです。

 網を破る仕事を請け負ったのが、ペルシアの王キュロスでした(歴代誌下36章22節以下、エズラ記1章1節以下)。キュロスは、かつてイスラエルの罪を裁き、国を滅ぼす役割を与えられたバビロンを滅ぼし、捕囚とされていたイスラエルの民を解放したのです。

 ここに、天地を造り、すべてのものを御手の内に治めておられる主の、人知を超えた計画と御業があります。イスラエルのために、主は時に異教徒のバビロンを用いられ、また、ペルシアをお用いになるのです。ゆえに、「わたしたちの助けは、天地を造られた主の御名にある」(8節)と、高らかに主に対する信仰の宣言をするのです。

 私たちも、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒言行録16章31節)という神の御言葉を信じ、「わたしたち(家族)の助けは、天地を造られた主の御名にある」との信仰を言い表して、その御言葉に聴き従いましょう。

 主よ、私たちのために死んで甦られた御子キリスト・イエスがその右にいて、私たちのために執り成していてくださいます。この愛から私たちを引き離すことは出来ません。この神の愛のゆえに、私たちはどんな困難にも勝利することが出来ます。主を喜び、御名をほめたたえさせてください。 アーメン


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