風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2019年03月

3月19日(火) 詩編137編

「エルサレムよ、もしも、わたしがあなたを忘れるなら、わたしの右手はなえるがよい。わたしの舌は上顎にはり付くがよい。もしも、あなたを思わぬときがあるなら、もしも、エルサレムを、わたしの最大の喜びとしないなら。」 詩編137編5,6節

 137編は、エルサレムの神殿において主を賛美していた音楽奉仕者によって作られたものではないかと思われます。紀元前597年にネブカドネツァルに攻め込まれてヨヤキン王は白旗を掲げ(列王記下24章10節以下12節)、エルサレムのすべての人々と共に捕囚として連れ去られました(同14節以下、第一次バビロン捕囚)。

 傀儡で立てられたゼデキヤ王が愚かにもバビロンに反旗を翻し(同20節)、全軍を率いてやって来たネブカドネツァルの軍に包囲され(同25章1節)、ついにエルサレムが陥落しました。神殿が破壊されて祭具などすべて奪われ(同13節以下)、都は焼き払われ(同9節)、城壁も破壊されました(同10節)。

 そして、都に残っていた人々も捕囚として連れ去られました(同11節)。エルサレムが陥落し、民が連れ去られた結果(第二次バビロン捕囚、紀元前587年)、ダビデ王朝は途絶え、イスラエルの歴史は閉じられることになったのです。このとき、親衛隊の長ネブザルアダンが祭司長らを捕らえているので(同18節)、詩人も一緒に連れ去られたのではないでしょうか。

 詩人たちが一日の働きを終え、「バビロンの流れ」のほとりで、故郷を偲んでしばし涙していると(1節)、バビロンの人々が、「歌って聞かせよ、シオンの歌を」(3節)と求めます。「わたしたちを捕囚にした民」(3節)というのはバビロンの兵士たちで、彼らの労役を監督していた人々のことではないかと想像します。

 シオンの歌とは、詩編46編2,5,6節の「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。・・・大河とその流れは、神の都に喜びを与える。いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない」というような詩歌のことでしょう。

 彼らがシオンの歌をリクエストした理由は、詩人たちを嘲り、「お前たちの神はどこにいるのか」と、その信仰を侮辱して楽しむためだったと思われます。勿論、そのような求めには応じられません。2節で「竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた」というのは、竪琴を弾かないようにしたということです。

 シオンの歌は、神の都エルサレムにいます神をたたえるものですから、竪琴の調べに合わせて歌えと言われても、彼らの余興のためなどにそれを歌うことは出来ません。4節で「どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で」というとおりです。

 「異教の地」を指し示すように、1節で「バビロンの流れのほとり、そこにわたしたち(新共同訳は訳出していない)は座り」、3節にも「わたしたちを捕囚にした民が、そこでわたしたちに(ここも同じく)歌をうたえと言うから」と、「そこに、そこで」(シャーム)という言葉が繰り返されます。 

 亡国のイスラエルの民は「そこ、異教の地」で、亡国の悲しみの上に嘲りの的とされる屈辱を味わわされ、どれほど辛く、悔しい思いをしたことだろうかと思います。にも拘らず、彼らが信仰を失うことはありませんでした。むしろ、苦しめられるほどに、神の都エルサレムを思い、主を慕い求めました。それが冒頭の言葉(5,6節)です。

 「エルサレムよ、もしも、わたしがあなたを忘れるなら」とは、シオンを選んで御自分の住まいとされた主なる神を決して忘れることはないということで、その思いは激しく、もしもエルサレムを忘れるようなら、自分の右手が萎え、舌が上顎に張り付いてもよいという、呪いの誓いを立てるほどです。

 詩人にとって、右手が萎えるというのは、竪琴を奏でることが出来なくなるということであり、舌が上顎に張り付くというのは、主へのほめ歌を歌えなくなるということです。あるいは、そのような事態に陥っても、神の都エルサレムを忘れ、主なる神への信仰を疎かにしたりはしないと、あらためて宣言しているのでしょう。

 現実に押し流され、困難に押しつぶされて神を信じることが出来なくなり、喜びや平安、希望を失う事態に陥れば、竪琴を奏で、主へのほめ歌を歌うのは、空しいことでしょう。そうなっていても可笑しくない状況の中で、なお主を慕い、祈りをささげることが出来るところに、詩人の信仰を見ることが出来ますし、そのような信仰を授けられた主の慈しみを感じます。

 「主よ、覚えていてください。エドムの子らを」(7節)以下の言葉は、受けた屈辱、過酷な仕打ちを、彼らに報い返してくださるようにと求める呪いの祈りです。

 エドムは、ヤコブ=イスラエルの双子の兄エサウの子孫です(創世記25章19節以下、30節など)。創世記27章41節には、エサウが、長子の権利と父の祝福を奪った弟ヤコブを憎み、「父の喪の日も遠くない。そのときが来たら、必ず弟のヤコブを殺してやる」と考えている言葉が記されています。

 この件は、創世記33章において、すでに水に流されているかのように見えます。しかしながら、ヤコブはエサウと歩みを共にすることはありませんでした(同33章12節以下)。そのような兄弟のすれ違いが、エドムがバビロンと連合してイスラエルを攻め滅ぼすという結果を生み出したともいえそうです(エゼキエル書25章12節以下、アモス書1章11節、オバデヤ書10節など参照)。

 しかしながら、復讐に復讐では、今日のパレスティナやアフガニスタン、イラク、そしてシリア情勢、各地で引き起こされるテロ事件が示すとおり、平和の関係を築くことは不可能です。むしろ、互いに憎悪が増し、争いが拡大してしまいます。

 受けた苦しみを忘れたり、相手を赦したりというのは、誰にも出来ないことかもしれませんが、私たちの罪を引き受け、赦しと救いの恵みをお与えくださった主イエスが、互いに罪を赦し(マタイ6章12,14,15節、18章22節など)、愛し合うべき(ヨハネ13章14,15節など)ことを教えておられます。

 御教えに従うことが出来るように、そうして愛と平和の家庭、社会を築くことが出来るように、祈りましょう。

 主よ、他人から受ける悪や侮辱に対して、祝福を祈って返すというのは、私たちの自然の感情ではありません。しかし、愛と信頼の関係を破壊しようとしている悪しき霊の仕業にしてやられることなく、また、自らの感情に流されることなく、御言葉に堅く立って行動出来ますように、主の慈しみと平和で私たちの心と思いをお守りください。キリストの平和が全地にありますように。 アーメン

3月18日(月) 詩編136編

「低くされたわたしたちを、御心に留めた方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」 詩編136編23節

 136編は、詩の各節に「感謝せよ」(ホードゥー)、「慈しみはとこしえに」(キー・レオーラーム・ハスドー)とあり、主に感謝し、主をほめたたえることを教えています。ただし、4~25節は、ヘブライ語原典には「感謝せよ(ホードゥー)」という言葉はありません(新改訳、岩波訳は原典に忠実)。

 この詩は、前半を祭司が、そして「慈しみはとこしえに」を会衆が斉唱したのでしょう。誉め讃えられるべきお方は、「恵み深い」(トーブ:「善い」の意)「主」(ヤハウェ:1節)であり、「神の中の神」(エロヘー・エロヒーム:2節)、また「主の中の主」(アドネー・アドニーム:3節)であられます。

 4節に「ただひとり、驚くべき大きな御業を行う方に感謝せよ」と記されています。これが、この詩のテーマといってもよいでしょう。

 神のなさった驚くべき大きな御業について、まず5~9節では、天地を創造されたことを上げて、感謝と賛美をささげます。天地、海、太陽、月、星などは、周辺諸国において、神として祀られていました。しかし、それらは、神が英知をもって創造されたものであることを、ここにはっきりと宣言しています。

 また、天地を造られた神は、私たち人間をも、創造されました。だからこそ、神に感謝するのです。そして、「慈しみはとこしえに」と賛美していますので、詩人は、神が天地を造られたのは、神の慈しみのゆえであると詠っているわけです。

 「慈しみ」(ヘセド)には、3人称単数の接尾辞(「彼の」)がつけられています。彼とは、「主(ヤハウェ)」、「神の中の神」、「主の中の主」、「ただ一人、驚くべき大きな御業を行う方」のことです。

 ここに、人が造られたことが語られてはいませんが、神のかたちに創造された人間は、被造物にあらわされた神の慈しみに感謝し、主をほめたたえるべきことを、詩人が教えているということが出来ます(創世記1章26節参照)。

 続く10~15節では、出エジプトの出来事を記し、奴隷の苦しみから解放してくださった主をたたえます。16節は、40年の荒れ野の旅を支えられた主をたたえます。17~22節は、敵の軍隊を打ち破り、約束の地をお与えくださった主をたたえています。

 いずれも、彼らにそれを受ける資格や権利があったわけではありません。神の助けがなければ、エジプトを脱出すること、約束の地までたどり着くこと、そして嗣業の地を獲得することは不可能だったでしょう。だからこそ、神の慈しみに感謝し、賛美しているのです。

 そして、冒頭の言葉(23節)で「低くされたわたしたちを心の留めた方に感謝せよ」と言い、さらに24節で「敵からわたしたちを奪い返した方に感謝せよ」と語っているので、あらためてエジプトの奴隷の苦しみから救い出されたことを語っていると見ることも出来ますが、これは、それに重ねてバビロン捕囚から解放されたことを感謝していると読むべきでしょう。

 「低くされた」とは、バビロンの奴隷にされたということですが、それは、単にバビロンとの戦争に負けたということではなく、イスラエルが主なる神に背いてその怒りを買い、神の祝福を失ったということです。いわば、神によって低くされたということです。

 天地宇宙、大自然のいたるところに神の慈しみが表れているのに、そしてエジプトの奴隷から解放され、約束の地カナンを頂くことが出来たことも、すべて神の慈しみであったというのに、イスラエルの民は恩知らずにも、神に背いて罪を重ねたのです。

 それなのに、神は「低くされた」イスラエルの民を心に留められるのはなぜでしょうか。それこそ、まさに神の慈しみです。

 その背後に、アブラハムとの契約があります。神はアブラハムを選び、祝福を与える約束をされました。その約束とは、アブラハムの子孫に約束の地を与えるという約束です(創世記15章1節以下、7節)。

 そのとき、アブラハムは75歳、妻のサラは65歳でした。サラは不妊で、子どもができませんでした(同11章30節、18章11,12節)。もし、神がアブラハムを選ばれていなければ、そしてサラに子を授けるようにしてくださらなければ、彼らにイサクがうまれるはずはなく、ゆえに、イスラエルの民がこの世に登場してくることもなかったのです。

 慈しみによって天地万物を造られた神は、神を礼拝する民をその慈しみによって創造されたわけです。さらに、イスラエルを頑なにすることで、神の慈しみが主イエスを信じる異邦人に及ぶようにされました(ローマ書11章28節以下)。

 主は私たちとの間に新しい契約を結び、主が私たちと共に、私たちの内に住まわれて「イエスこそ主である」ことを教えてくださいます(エレミヤ書31章33,34節、マタイ福音書16章16,17節、ローマ書10章8~10節、第一コリント書12章3節)。恵み深い、慈しみ豊かな神に心から感謝し、御名をほめたたえましょう。

 主よ、あなたが私たちと共におられ、いつも命の道、真理の道に導いてくださいますから、感謝です。絶えず、主の御声に耳を傾け、その御心を悟らせてください。主の御足跡に従うことが出来るよう、絶えず信仰の目を覚ましていることが出来ますように。全世界にキリストの平和と喜びがありますように。 アーメン



3月17日(日) 詩編135編

「主はヤコブを御自分のために選び、イスラエルを御自分の宝とされた。」 詩編135編4節

 135編は、神による創造と救いの恵みにより、主なる神をたたえる賛美の詩です。

 1節の初めと3節(「主を賛美せよ」はハレルヤ)、21節の最後に「ハレルヤ」、1節で「主を賛美せよ」(ハレルー・ヤハウェ)、19節以下で「主をたたえよ」(19,20節はバーラクー・エト・ヤハウェ、21節はバールーフ・ヤハウェ)が繰り返し詠われて、136編と共に「大ハレル」と呼ばれます。

 4、5節の冒頭には、「キー(「なぜなら」の意)」という接続詞(新改訳、岩波訳はこれを「まことに」と訳し、口語訳、新共同訳は訳出していない)があり、1~3節の賛美の理由、根拠を示しています。

 まず4節(冒頭の言葉)では、ヤコブ=イスラエルを主が宝の民として選ばれたことを挙げ、そのテーマを8~12節で展開しています。主がイスラエルを宝の民として選ばれたことについては、出エジプト記19章5節、申命記7章6節などにも記されています。

 また、5節では、主なる神の偉大さを挙げ、天と地、海とその深淵において御旨を行い、すべてのものを統べ治めておられることを6,7節で歌います。それに対して15節以下で、異国で神々として祀られている偶像は、人間が自分たちの手が造り出したもので、それに依り頼むことの虚しさを告げています。

 上述の通り、主がご自分の宝としてヤコブ=イスラエルを選ばれたことについて、歴史の中に働いて、エジプトの奴隷であったイスラエルを解放し(8,9節、出エジプト記12章)、ヨルダン川東部でシホンとオグを討ち(11節、民数記21章)、ヨルダン川西部でカナンの王たちを討って(11節、ヨシュア記12章7節以下)、その領地を嗣業としてお与えになったと告げます(12節)。

 あらためて、なぜ主は、ヤコブ=イスラエルを御自分の宝として選ばれたのでしょうか。

 イスラエルの父祖ヤコブは、双子の兄エサウの長子の権利を一杯の豆の煮物と交換して手に入れ(創世記25章22節以下)、そして、兄エサウに与えるはずの祝福の祈りを、父イサクを騙して奪い取りました(同27章1節以下)。

 長子の権利と父の祝福を奪われた兄エサウは激怒し、弟ヤコブを殺そうと思うようになります(同41節)。それを知った母リベカは、ヤコブを自分の実家のあるハランに逃がします(同42節以下)。

 母の実家のあるハランの町に向かうヤコブは、旅の途中、荒れ野で野宿します(同28章10,11節)。そのとき、神がヤコブに天に達する階段を天使が上り下りしているという幻を見せられました(同12節)。

 そして、ヤコブに祝福を語られました。それは、主が常にヤコブと共にいて、ヤコブを守り、そして、逃げ出したイスラエルの家に連れ帰ってくださるという約束です(同13節以下)。つまり、兄から長子の権利を奪い、父を騙して祝福を奪ったヤコブを、神が祝福されたのです。

 その後、ハランに着いて叔父ラバンの娘たちを娶り、家畜を飼う仕事を手伝ったときには多少の苦労はしましたが(同29章14節以下)、神の助けによって、たくさんの家畜を持つようになりました(同30章43節)。そして、意気揚々故郷に帰ることになります。

 家に帰るに先立って使いをやったところ、兄が400人の供を連れて迎えに出るという返事です(同32章4節以下、7節)。それに恐れをなしたヤコブは、群れの中から兄への贈り物を選び、それで、兄の心を和ませようと考えます(同14節以下)。

 しかし、それでも安心出来なかったヤコブは、家族に先にやり、一晩中神の使いと格闘します(同23節以下、25節)。その後、神の使いはヤコブに祝福を二つ与えます。一つは、「イスラエル」即ち「神と人と闘って勝った」という名(同29節)、もう一つは、腿の関節が外されて引きずって歩くようになった足です(同32節)。そのため、もう逃げ出すことが出来ません。

 ヤコブは、兄エサウと再開を果たします(同33章1節以下)。そして、兄エサウは、弟の罪を全く話題にしません。既にそれを赦し、忘れてしまったかのようです。

 ヤコブは、「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます」と言います(同10節)。これは、おべっかというより、神は罪を赦すお方であるという信仰の表明であり、兄エサウがさながら神のように、罪を赦してくれたことに対する感謝を言い表しているわけです。

 神がヤコブを選ばれたのは、ヤコブが優れているからではなく、神の助けと赦しなしには生きられないことをヤコブに学ばせるためでした。申命記7章7節では、「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちがどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」と語られています。

 イスラエルという名を与えたのは、目的のために手段を選ばないという生き方ではなく、主なる神に信頼し、互いに赦し合い、愛し合って生きる者となること、そのような民を神が御自分の宝とするという祝福なのです。

 新約の時代にペトロが「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」(第一ペトロ書2章9節)と語っているのも、同じ信仰を表明しているのです。

 ここで、ペトロからあなたがたと呼ばれているのは、ユダヤの民ではありません。「ポントス・、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいしている選ばれた人たち」(同1章1節)、即ち今のトルコに住む異邦のキリスト者たちのことで、主イエスを信じる信仰によって、神のものとされているのです。

 恵みによって神のものとされた私たちに主イエスが「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13章34,35節)と言われました。

 聖霊によって注がれる神の御愛で心を満たし(ローマ書5章5節)、主イエスに従って互いに愛し合う者とならせていただきましょう。 

 主よ、私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪赦され、神の民の一員に加えられました。その恵みに与ったものとして、互いに赦し合い、愛し合って歩むことが出来ますように。それによって私たちがキリストの弟子であることを、多くの人々に証しすることが出来ますように。 アーメン



3月17日(日)主日礼拝説教

3月17日(日)の主日礼拝には、教会員14名、来賓10名(子ども1名を含む)がお見えになりました。
礼拝後の昼食会にも16名参加されました。感謝です。


主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「商売をせよ」
聖書 ルカ福音書19章11~27節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師


ご覧ください。













3月17日(日)主日礼拝案内

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3月17日(日)は、教会学校小学科(小学生)、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
教会学校は、「聖書教育」誌にもとづいて、新約聖書・ルカ福音書から、共に聖書の学びと交わりを行います。


主日礼拝を10時半から行います。

礼拝では、ルカ福音書19章11~27節より、「商売をせよ」と題して、原田牧師より説教をいただきます。


写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。

キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


礼拝後、昼食会(有料・自由参加)を行います。

昼食会後、各会例会を行います。
















 

3月16日(土) 詩編134編

「主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。夜ごと、主の家にとどまる人々よ、聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。」 詩編134編1,2節

 134編は、「都に上る歌」(120~134編)の最後のもので、117編と並んでとても短い詩です。原典では、表題を除いて4行の詩になっています。

 これは、巡礼者たちと祭司らとの掛け合いの歌で、冒頭の言葉(1,2節)が都に上ってきた巡礼者たちの歌、3節は、神殿で仕えている主の僕ら、つまり祭司やレビ人たちの歌です。巡礼者たちが「主をたたえよ」と賛美すると、次に祭司たちが「天地を造られた主が、シオンからあなたを祝福してくださるように」と祝福するというかたちです。

 これは、巡礼者がエルサレムを去るにあたって祭司たちと交わす賛歌だったのだろうと想像されます。また、主をほめ称えて賛美の歌をうたうと、主が祝福してくださるという信仰を教えていると読むことが出来ます。

 実は、冒頭の言葉(1,2節)の「(主を)たたえよ」という言葉と、3節の「(あなたを)祝福してくださるように」という言葉は、ヘブライ語で同じ「バーラク」という言葉です。主は祝福する者を祝福し、呪う者を呪うと言われるわけですが(創世記12章3節参照)、主なる神に対して祝福する者は、主から祝福されるわけです。

 ただ、祭司が巡礼者を祝福するというのは、巡礼者のために祝福を神に祈るということであり、祝福は、神が人に与えるものということが出来ます。となれば、人間が神を祝福することはあり得ないということから、「主を祝福せよ」ではなく、「主をたたえよ」と訳されるわけです。

 2節に「聖所に向かって手を上げ」とあります。原文を直訳すると、「あなたたちの両手を聖所に向かって上げなさい」(セウー lift up・ヤデーヘム your hands・コーデシュ in the sanctuary)という言葉です。

 両手を上げるというのは、祈りの姿勢と言われます(岩波訳脚注参照)。幼い子どもが親に向かって両手を挙げているときは、「抱っこして」といっているように見えますね。自分のすべてを神に委ねるという姿勢ということが出来ます。

 あるいはまた、強い者に向かって手を上げると、それは降参という形になります。「四の五の言いません。主の言われるとおりに従います」という姿勢といってもよいでしょう。主なる神を信頼してすべてを委ね、主に聴き従うという祈りをすることが、主をたたえること、賛美することだというのは、私たちが学ばなければならない大切な信仰の心だと思います。

 このことで、ルカ福音書24章50節以下の御言葉を思い出しました。そこに、主イエスが弟子たちを、手を上げて祝福されたことと、弟子たちが絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていたことが記されています。

 ここでも、「祝福された」と「ほめたたえていた」とは、ギリシア語の「エウロゲオー」という同じ言葉が用いられています。主イエスの祝福を受けた弟子たちが、主をほめたたえているわけです。

 同50節に「手を上げて祝福された」とあるのは不定過去形(アオリスト)動詞で、過去のある時点に起こった出来事というのを表します。一方、続く51節には「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」と記されています。ここには、現在形の不定詞が用いられていて、今ある状態、あるいはそれが進行している様子を示します。

 つまり、主イエスが祝福されたのは、天に上げられる前、ベタニアの辺りでのことでしたが、しかしそれは「祝福し終わって天に上げられた」ということではないのです。ルカはこのような言葉遣いで、弟子たちを祝福された主イエスの祝福は、今、私たちのためにも続けられている、私たちも今、この主イエスの祝福に与ることが出来ると言おうとしているのです。

 このことは、私が神学校で学んでいたとき、説教学の講義においでになった故松村秀一先生から教えて頂きました。松村先生は、戦中戦後、大牟田教会の牧師を務め、その後、東京で常盤台教会を設立される働きをされました。後に、連盟の理事長としても手腕を発揮されました。

 主イエスの昇天後、弟子たちは、神殿の境内で神をほめたたえていました。ヘロデ大王によって建てられたその神殿は、ローマとの戦争で破壊されました。今日まで残っているのは、西の壁などごく一部だけです。

 私たちは、エルサレムの神殿に上らなくても、私たちの体が聖霊の住まわれる神殿とされています(第一コリント書6章19節など)。私たちと共におられ、私たちの内にお住まいくださる御霊なる神にすべてを委ね、御霊の導きを求めつつ主の御言葉に耳を傾けるとき、主はその祈り、その賛美を受け止めて、主の祝福と導きに与ることが出来るわけです。

 皆で主をたたえましょう。天地を造られた主がわたしたちを祝福してくださるように。 

 主よ、あなたの尊い御名を崇め、心から感謝致します。主イエスが私たちのために執り成しの祈りをささげてくださり、今その祝福を頂くことが出来ます。主が語られたことは、必ず実現するからです。御国が来ますように。御心がこの地になされますように。主イエスの平和が全世界にありますように。 アーメン

3月15日(金) 詩編133編

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」 詩編133編1節

 133編は「都に上る歌」の14番目で、シオンに一つの家族として集う者たちの味わう恵みの喜びをうたった詩です。

 冒頭の言葉(1節)は、この詩の主文です。原文は「見よ」(ヒンネー)、「なんと良いことか」(マー・トーブ)、「そして、なんと美しいことか」(ヴ・マー・ナーイーム)、「兄弟たちが座っている」(シェベト・アヒーム)、「また一緒に」(ガム・ヤーハド)という言葉遣いになっています。新共同訳は、「良いこと」(トーブ)を「恵み」、「美しいこと」(ナーイーム)を「喜び」と訳しています。

 「兄弟が共に座る(住む)」という表現は、旧約聖書の中であと一度、申命記25章5節(「兄弟が共に暮らしていて」)に登場します。それは、レビラート婚と呼ばれる制度を定めた箇所で、親兄弟家族が共に住むことが前提となっていることを示しています。

 ここでは、親兄弟家族が仲良く共に暮らす喜びが歌われています。兄弟、家族が仲良くというのは勿論のことでしょうけれども、和合している兄弟、家族を周りで見ている者にも、その喜びが伝わっているという様子が覗えます。

 さらに、兄弟を「同胞」ととって、イスラエル全部族が神の御前に共に座し、神に礼拝をささげることをとおして、そこに真の神の家族が形作られていることを意味し、その喜びが語られていると読むことも出来ます。

 紀元前587年にバビロンによってエルサレムが陥落し、神殿が破壊され、捕囚とされたイスラエルの民にとって、もう一度エルサレムに戻り、そこで礼拝が出来るようになることは、彼らの悲願、切なる祈りだったと思います。

 紀元前587年にバビロンによって破壊されたエルサレムの神殿が、捕囚から解放されて22年後の紀元前516年、ダレイオス王の治世第6年に再び建て直され(エズラ6章15節)、神の御前に礼拝をささげることが出来るようになりました。

 そこで盛大に祝われる祝祭に、国内に留まらず、様々な国地域から巡礼者がやって来て、祝いの食卓を共に囲み、仮庵で共に過ごすなどして、皆が一つの家族となって礼拝をささげるのです。それは、どんなに大きな喜びとなったことでしょう。「なんという恵み、なんという喜び」(1節)という言葉がそれを示しています。

 もしかすると、詩人はそのような日が再びやって来ると、考えることができなかったのかも知れません。あるいは、考えてはいても、実現するはずもないと思っていたのでしょう。それが実現したのは、神の恵み以外の何ものでもありません。それはまさにアメイジング・グレイス、考えられないほどの恵みだというわけです。

 2節に「かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り」とあります。エルサレムの神殿で奉仕する祭司を聖別するために、油が頭に注がれると、それがひげに流れ、そして衣の襟に達したということです。

 「衣の襟」とは、祭司の祭服で一番上に身につけるエフォドのことを指しているのだろうと思われます(出エジプト記28章6節以下)。エフォドには、その肩の部分に十二部族の名が記された石がつけられていました(同9,10,12節)。祭司に油が注がれ、それが襟に滴っているということで、神の祝福が祭司を通して、12部族に注がれることを示しています。

 主イエスが十字架にかかられる前、ベタニアのシモンという人の家で食事の席についておられたとき、一人の女性が主イエスの頭に、純粋で非常に高価なナルドの香油を注ぎかけました(マルコ福音書14章3節)。

 主イエスはそれを、「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と言われました(同8節)。大切な使命のために、聖別の儀式が行われたと考えてもよいでしょう。

 そのために払った犠牲の大きさは、女性が主イエスをどれほど大切に思っていたかということを表しています。主イエスは、その愛の香りに包まれて十字架に向かわれました。それは、主イエスの贖いの死を通して、神の愛がすべての者に注がれるためでした。

 3節に「ヘルモンにおく露のように、シオンの山々に滴り落ちる」とあります。ヘルモン山はイスラエル北方、シリアにそびえる山です。シオンの山々とは、エルサレムを指しています。高山に降りた露が滴り流れて、ヨルダンの流れとなり、遠くシオンを潤しています。

 そのように、「シオンで、主は布告された。祝福と、とこしえの命を」(3節)という言葉で、エルサレムから、主を仰ぎ、御名をほめたたえる人々の住む全世界に主の祝福と永遠の命が届けられるというわけです。

 神は、この世を愛して御子を遣わされ、御子を信じる者に永遠の命をお与えになりました(ヨハネ福音書3章16節)。御子を信じた者たちに聖霊の油を注ぎ、この良き知らせを全世界に出て行って証しするようにと命じられました(マタイ福音書28章18節以下、使徒言行録1章8節)。今日、世界のいたるところにキリストの教会が建てられ、主なる神を礼拝しています。

 私たちが聖霊の導きを得て、信徒同士が互いに愛し合い、一つになって礼拝をしている姿を主が見られるとき、主はそれをどんなに喜んでくださるでしょうか。

 あらためて、主の十字架を拝し、聖霊に満たされることを祈り求めましょう。キリスト者の一致は、キリストの福音を信じる信仰により、そして、聖霊に満たされることによってもたらされるものだからです。

 主よ、私たちが互いに愛し合うことを通して、私たちが主イエスに従う者であることを証しするため、聖霊の満たしと導きに与らせてください。このレント、イースターに、多くの方々に主の愛と恵みの福音を告げ知らせることが出来ますように。そうして、救いに与る人々が次々と起こされますように。 アーメン



3月14日(木) 詩編132編

「ダビデのために一つの角をそこに芽生えさせる。わたしが油を注いだ者のために一つの灯を備える。」 詩編132編17節

 132編は「都に上る歌」の13番目で、他の「都に上る歌」と比べて長い詩です。主のための場所を見出し、そこにダビデの王座を回復するよう求める祈りです。

 1節に「主よ、御心に留めてください、ダビデがいかに謙虚にふるまったかを」とあります。「謙虚にふるまう」というのは、「苦しめられる、屈辱を受ける」(アーナー)という言葉です。詩人は、イスラエルの民が苦難にあっている状況を、かつてのダビデの物語と重ねて、神の助けを求めているのです。

 ダビデは、サムエルから油注ぎを受けましたが(サムエル記上16章13節)、すぐに王とされたのではありません。そのときは、ベニヤミン族のキシュの子サウルが王でした。ペリシテの勇士ゴリアトを倒してサウルに召し抱えられたダビデですが(同17章、18章2節)、戦いに勝利を上げ続けるダビデは、サウルから王位を奪う危険な存在として恐れられるようになります(同18章15節)。

 そして、ついにサウルがダビデ殺害を家臣たち全員に命じたため、ダビデは逃亡生活を余儀なくされてしまいます(同19章1節以下)。もし神の守りがなければ、ダビデが生き延びることは出来なかったでしょう。

 サウルがペリシテとの戦いで戦死した後、ダビデはヘブロンで油注がれ、全イスラエルの王となりました(サムエル記下5章3節)。ダビデはシオンの要害を攻め落し(同5章6節以下)、町の周囲に城壁を築き、王宮を建て(同11節)、そうして王権は揺るぎないものとなりました(同12節)。

 それからダビデは、アビナダブの家にあった神の箱をエルサレムに担ぎ登り、天幕に安置しました(同6章)。6節の「エフラタ」はベツレヘムの古い名前で(創世記35章19節)、ダビデの出身地です(サムエル記上17章12節)。

 また、「ヤアルの野」というのは、「ヤアル」は「森」という意味で、アビナダブの家があったキルヤト・エアリムの丘のことを指しているのではないかと考えられています。サウル王の時代、忘れられた存在であった神の箱を、ダビデがアミナダブの家からエルサレムに運んだのです(サムエル記下6章1節以下、17節)。

 その後ダビデは、ぜひ神殿を建てたいと願いましたが(同7章2節)、主は「わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、すなわち幕屋を住みかとして歩んできた」(同6節)と言われ、「なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか」(同7節)と問われてダビデの申し出を断ります。

 それは、神殿を建てないということではありませんでした。主は「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える」(同12,13節)と告げられ、実際、ダビデの子ソロモンが神殿を建てました(列王記上5章15節以下、6章38節)。

 ところが、贅を尽くし、趣向を凝らして建てられた壮麗な神殿は、ソロモンとその子らの不義のゆえにバビロンによって破壊され、神の箱をはじめ神殿祭具は略奪され、所在が分からなくなってしまいました(列王記下24章13節、25章9,13節以下)。

 ここに詩人は、ダビデが様々な苦難を経てイスラエルの王となり、その王権が揺るぎないものとされたことを掲げて、現在苦難の中にいるダビデの子ら、イスラエルの民を御心に留め、神殿が再建され、そしてとこしえの神の都として神がシオンに住まわれ、イスラエルの平和と繁栄を回復してくださるようにと求めているわけです。

 歴代詩下6章に記されているソロモンの神殿奉献の祈りの最後の部分(同41,42節)に、132編8~11節が引用されているのは、注目に値します。それは、捕囚の地で神殿に向かって祈る祈りに耳を傾けるよう祈る言葉(歴代重6章36節以下)に続いて語られ、ダビデの家を顧み、ダビデに示された慈しみを覚えるように願う言葉になっているからです。

 「ダビデに示された慈しみ」とは、11節後半~12節の「あなたのもうけた子らの中から王座を継ぐ者を定める。あなたの子らがわたしの契約とわたしが教える定めを守るなら、彼らの子らも、永遠にあなたの王座につく者となる」という主の約束のことです。 

 詩人は主の語られた言葉として、冒頭の言葉(17節)を記しています。「角」は力、権力、威光を表します(89編18,25節など)。角を芽生えさせるとは、王権の回復を言うのでしょう。また、灯が備えられるとは、王国の存続を言っているようです(サムエル記下21章17節、列王記上11章36節参照)。つまり、11,12節の誓いを実行してくださるということです。

 ルカ福音書1章で祭司ザカリアは、この17節の言葉を念頭に置いて、「我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」(同69節)、「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高いところからあけぼのの光が我らを訪れ」(同78節)と、救い主キリスト・イエスの誕生を預言しています。

 18節の「王冠」(ネーゼル)は、出エジプト記29章6節では、「(聖別の)しるしの額当て」と訳されています。それは、大祭司の「純金の花模様の額当て」のことで、そこに、「主の聖なる者」と刻印されています(同28章36節)。

 そこで、ダビデが大祭司としての役割を果たすと解釈することも出来ます。ネーゼルをナザレと読むのは無理がありますけれども、ダビデの子孫として生まれた神の御子キリストは、王として、また大祭司として、この世においでになったのです。

 そう考えると、初めに言及した1節の「ダビデがいかに謙虚にふるまったかを」という言葉も、パウロがフィリピ書2章6~8節に記しているキリスト賛歌に通じています。即ち十字架の死に至るまでの従順とは、十字架刑という苦しみ、屈辱を味わうことであったからです。 

 主なる神は、十字架で贖いの御業を完成された主イエスを信じる者との間に新しい契約を結ばれ、その心を神の箱として、契約の言葉を心に記され(エレミヤ書31章31節以下、33節)、私たちの体を神殿とされました(第一コリント3章16節、6章19節など)。

 「祭司らに、救いを衣としてまとわせ、わたしの慈しみに生きる人は、喜びの叫びを高く上げるであろう」(16節)と言われるように、私たちは救いの恵みに与り、その慈しみに生かされています。

 主イエスのご受難を記念するレントのこのとき、主の購いの業、救いの恵みに感謝して、唇の実を高く主にささげましょう。

 主よ、御子キリストは、おのれを無にし、奴隷の姿となってこの世に来られました。御子キリストの贖いのゆえに、その十字架の打ち傷によって、私たちは癒されました。私たちの体を神殿として内に住み、永久に共にいてくださることを心から感謝致します。御子キリストのご受難とご復活に示された神の愛の御業の故に、いよいよ御名が崇められますように。 アーメン



3月13日(水) 詩編131編

「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします。」 詩編131編2節

 131編は「都に上る歌」の12番目、宮詣に際し、自分の分を弁えて主に信頼し、主を待ち望むよう勧める教訓的な詩です。

 聖書を読みながら、神様は本当に私たちのことをよくご存知だと思わせられます。様々なことに心惑わし、平安のない私たちに、「主に望みをおき、主を待ち望め」と130編で語られましたが、今日も、同様に語っていてくださいます。

 調べてみると、「恐れるな、恐れてはならない」という言葉が、新共同訳聖書で110回用いられています。聖書を一年で読み通せば、3日に一度「恐れるな」と語られている言葉を聞くという計算になります。それほどに、私たちは様々なことに心騒がせて平安を失い、あるいは人の目を気にし、また恐れを抱いているのだと教えられます。

 1節に「わたしの心は奢っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません」とあります。ここで「奢る」(ガーバー)は「高い、高ぶる」、「高くを見る」(ルーム)は「高ぶる、高慢になる」という言葉です。

 主が憎まれ、心からいとわれるものとして、箴言6章17節に「驕り高ぶる目、うそをつく舌」と言われています。また、「破滅に先立つのは心の驕り、名誉に先立つのは謙遜」(同18章12節)という言葉もあります。

 究極の奢り高ぶりは、自分を神のように思い、考えることです(エゼキエル書28章2,5,17節参照)。即ち、何でも分かる、何でも出来ると考えているということです。

 「大きすぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません」(1節)とは、「大きいこと(ガードール)の内を、また、わたしから不思議に見える(パーラー)中を歩かない」という言葉遣いです。136編4節に「ただ一人、驚くべき(パーラー)大きな御業(ガードール)を行う方に感謝せよ」と言われ、それは神のなさることだと示しています。

 表題に「ダビデの詩」とありますが(1節)、詩人が王であれば、その立場上、どんな情報でも知識でも手に入れることが出来ますし、国内のことは何でも思い通りに出来るものでしょう。そのとき、よほど思い上がらぬよう注意していなければ、罪を犯してしまう危険があります。

 ダビデは、自分の部下の妻と姦淫し、部下を殺す罪を犯しました。預言者ナタンに罪を指摘されるまで、自らその罪の重さに気づきもしませんでした。ダビデはそのとき、権力の座にあって自分の欲望に支配されていたわけです。

 エデンの園の中央にある善悪の知識の木の実を食べたアダムとエバは、神のように賢くなれると蛇に唆されて、神に背く罪を犯してしまいました(創世記3章参照)。神のようになれるということがどんなに大きな誘惑なのか、そこに象徴的に示されています。

 詩人がここで、奢らない、高ぶらないと言っているのは、何でも知りたい、望むものを手に入れたい、思い通りにしたいとは思わないということ、そんな自己本位なプライドはいらないということでしょう。というのは、自分自身に頼る必要がないからです。

 ダビデ王のような境遇になったことはありませんが、また別の意味で、何でも分かりたい、思い通りになって欲しいと考えることがあります。たとえば、自分が苦しみの中にいて、なぜそんな苦労をしなければならないのか、なぜ自分の祈り、願いが叶えられないのかと考えるのです。自分の心が問題一杯、恐れや不安、そして不信と不満で満ちています。

 そうした自分の欲望、あるいは恐れや不安、不信と不満などで満たされる代わりに、詩人は冒頭の言葉(2節)のとおり、「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします」と語ります。

 ここで、「幼子のように」と訳されているのは、「乳離れした子のように」(ケ・ガームル)という言葉です。乳離れした子が母の胸にいるというのは、なにがしか問題があったということでしょう。だから、母親がその子を抱き上げたのです。

 たとえば、夜の闇に怯えて泣き声を上げた幼子を、母親が胸に抱き上げてあやします。すると、闇がなくなったわけではないのに、幼子は安心して再び眠ります。幼子にとって、母の胸以上に自分を安心させ、寛げる場所はないからです。

 この比喩によって、不安や恐れの中に置かれた人間にとって、神との交わり、神への信頼こそが、「魂を沈黙させる」もの、即ち、平安と幸いを得る最大の秘訣であることを教えています。

 神は様々な問題を通して、私たちを謙遜にさせ、御自分のために心を整えさせられます。もしも心の畑が耕されておらず、踏みつけられ固められた道端のようであれば、あるいは、頑なな心のままであれば、あるいはまた、日常の出来事に心ふさがれておれば、種が芽を出すことも困難で、花を咲かせ、実をつけることが出来ません(マルコ4章1節以下参照)。

 よく実を結ばせるためには、深く耕された良い畑が必要です。良い畑に種が蒔かれると、30倍、60倍、100倍の実を結ぶのです(同8節)。それは、「御言葉を聞いて受けれる人たち」(同20節)のことと説明されます。

 私たちの人生において、豊かな実りを迎えるためにも、問題の背後にある神の御手にすべてを委ね、母の胸に憩うごとく魂を沈黙させて、主を待ち望め、その御言葉に耳を傾け、受け入れよと言われているのです。

 主の僕として、自分の使命を自覚し、その業に励みましょう。その結果も含め、すべてを主の御手に委ね、主を待ち望みましょう。

 主よ、御言葉を感謝します。そして、祈ることが出来る幸いを感謝します。あなたは私の問題をご存知であり、そして私の必要をご存知です。その一切を御手に委ね、ただ主を待ち望みます。あなたがなしてくださることが、最善だからです。主に信頼することこそ、私たちの平安であり、力です。 アーメン




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①「礼拝説教」に3月10日(日)主日礼拝プログラムと礼拝説教動画(YouTube)を掲載しました。
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