「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。」 詩編118編22,23節
118編は、ハレル賛歌詩集(113~118編)の最後の歌です。この詩は、様々な苦難から救われた人の信仰告白と、それを祝う人々の賛歌です。
この詩が、117編に続いて読まれることを考えると、「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」(1節)と賛美をするのは、イスラエルの民を超えた、すべての国のすべての民ということになります。
そして、恵み深い主に感謝し、永遠の慈しみをほめたたえるがゆえに、彼らも神によって選ばれた「イスラエル」、主を礼拝する「アロンの家」、そして、「主を畏れる人」と呼ばれるのです(2~4節)。
この詩が詠まれた時代的背景や、詩人が経験した出来事について、具体的なことは分かりませんが、出エジプト記15章の「海の歌」との関連を示す記述があります。それは14節で、出エジプト記15章2節前半の言葉と全く同じ言葉遣いです。詩編で「わたしの砦」と訳されているのは、出エジプト記の「わたしの力」(アージー)という言葉なのです。
また、「主の右の手」(15,16節)というモチーフが、出エジプト記15章6,12節にありまし、「わたしの神」(28節)として主を崇める言葉も、出エジプト記15章2節後半に出ます。
ただ、14節の言葉はイザヤ書12章2節にも現れるので、この詩は単に出エジプトの出来事を思い起こさせるだけでなく、国々の包囲の中にあって、特にバビロン捕囚とそこからの帰還に際し、イスラエルが主なる神の見守りの下にあったことを明らかにしています。
詩人にとって神とは、苦難の中で御名を呼び求めれば、そこから助け出して解放してくださる力強い味方、助けとなり、避けどころとなられるお方なのです(5~9節)。敵に包囲されても、主が味方となってくださいますから、彼らを必ず滅ぼすことが出来ます(10~12節)。
10節の「滅ぼす」と訳されているのは「切断する、断つ」(ムール)という言葉で、特に「割礼を施す」という意味で用いられます。「割礼」と「滅ぼす」が結びつく例は、サウル王がダビデを娘ミカルの婿に迎えるのに、ペリシテ人の陽皮100枚を要求したのに対し、ダビデは200人のペリシテ人を討ち取り、その陽皮を持ち帰ったという話でしょう(サムエル記上18章25,27節)。
その事実にサウル王は、主がダビデと共におられることを思い知らされたと、同28節には記されています。
そのときサウルは、100人分ものペリシテ人の陽皮を持って来ることは不可能だろう、出来ればそのときにダビデが命を落とさないかと考えていたわけで(同17,25節)、それを難なくやってのけたということは、ダビデに神の助力があることを認めざるを得ないということになったわけです。
そもそもダビデは、自分がサウル王の婿になれるなどとは全く考えていませんでした(同18,23節)。けれども、こうした状況で神がダビデに助力したということは(同14,28節参照)、ダビデがサウル王の婿になること、後にサウルに代わってイスラエルの王位に就くことが神の計画であるということでしょう。
このダビデの子孫として、エルサレムにやって来られる方がおられます。その方こそ、主イエス・キリストです。
冒頭の言葉(22節)に、「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった」とありますが、この言葉を主イエスが引用しながら、御自分を「家を建てる者の退けた石」、ユダヤの指導者たちを「家を建てる者」として語られたことがあります(マルコ福音書12章10~12節など)。
ユダヤの指導者に捨てられた主イエスこそ、神の家を建てるときに要となる石であり、キリストによって全体が組み合わされ、完成するということです(エフェソ書2章20,21節)。そのとき、ユダヤ人も異邦人も、男も女も、キリストによって一つにされます。
主イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入城されるときに、人々が「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(マルコ福音書11章9,10節)といって主イエスを迎えました。それは、118編で歌われている内容の実現といってよいでしょう。
というのは、人々が主イエスを迎えた言葉は、26節の「祝福あれ、主の御名によって来る人に」という言葉そのものです。また、「ホサナ」とは「どうか、私たちを救ってください」という意味ですが、25節の「どうか、わたしたちに救いを」は、原文では「ホーシーアー・ナー」、それをギリシア語音化すれば「ホサナ」という言葉になるのです。
かくて、主イエスが義と平和の王としてエルサレムに入城され、ご自身を贖いの供え物として十字架に死んでくださったことにより、私たちの罪が赦され、信仰によって神の子とされる救いの道が開かれたのです。だから、「今日こそ主の御業の日、今日を喜び祝い、喜び躍ろう」(24節)と宣言されているわけです。
「主の御業の日」は「主が造られた日」(ゼ・ハッヨーム、アーサー、ヤハウェ)という言葉です。キリスト教会はイースターにこの詩を読みながら、キリストの復活を喜び祝う日として、この日を造り与えてくださった主をほめ讃えて来ました。
慈しみ深き主を心から誉め讃え、感謝の一日を過ごしましょう。賛美を通して恵みの主を証しさせていただきましょう。
主よ、あなたこそ私たちの神、私たちに光をお与えくださる方です。御子イエスが十字架の祭壇にご自身を生贄としてささげ、贖いを成し遂げてくださいました。御名を崇め、感謝をささげます。主は恵み深く、その慈しみはとこしえに絶えることがありません。 ハレルヤ! アーメン!