風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2019年01月

1月24日(木) 詩編83編

「彼らが悟りますように。あなたの御名は主、ただひとり、全地を超えて、いと高き神であることを」 詩編83編19節

 83編は、イスラエルを取り囲む敵の脅威の中から、神に救いを求める「祈りの詩」です。

 2節に「神よ、沈黙しないでください」とあります。これは、神は必ず自分たちを守ってくださるという確信に立っているというよりも、むしろ、祈り求めても神が助けてくださらないのではないかと感じているような表現です。様々な敵の攻撃に際して何度も助けを祈り求めたのに、神は沈黙しておられるかのごとくに、何の助けも得られなかったという経験に基づいた求めではないでしょうか。

 7節以下に「敵」が列挙されています。エドム人から8節最後のティルスの住民まで、いずれもそれはイスラエル周辺の国々、民族です。そして最後にアッシリアが登場して、ロトの子らに腕を貸したといわれます(9節)。ロトの子らとは、モアブとアンモンのことです(創世記19章36節以下)。つまり、7節以下に列挙された国々の民が徒党を組んで襲って来たということになります。

 アッシリアとイスラエル周辺諸国、諸部族が同盟を組んでイスラエルを攻撃したことがあるのかといえば、歴史的にそれを裏付ける証拠はありません。むしろ、これらの国々とイスラエルが手を組んで、アッシリアやバビロンというメソポタミアの強国に対抗したことはあります。

 ただ、これらの国々がそれぞれイスラエルの「敵」となり、その攻撃に苦しめられたことがあるのは事実です。また、文化的、宗教的影響を強く受け、イスラエルの民が主なる神から離反する原因となりました。

 10節から13節までは、士師記4~8章に記されている出来事です。この時代、イスラエルが主の目に悪とされることを行い、それで主なる神がイスラエルを周辺諸国の手に売り渡されました。そこで、イスラエルの人々が主に助けを求めて叫ぶと、神が士師をたてて助けてくださるということが繰り返されました。

 ですから、イスラエルに敵する同盟軍に対して、かつてのようになさってくださいと求めるということは(10節)、この危機の原因が、イスラエルの背きの罪にあるということを示すものでもあります。

 今、詩人が恐れ戦いているのは、アッシリアの脅威が迫っているからです。5節に「彼らは言います、『あの民を国々の間から断とう。イスラエルの名が再び思い起こされることのないように』」とありますが、アッシリア軍の残忍さは尋常ではなかったようです。

 アッシュル・ナシル・パルという王様(紀元前883~859年)は、自分の碑文に「敵対者たちの血で山々を赤く染め、谷を死体で満たし、人々を火で焼いた。謀反を企てる者の皮をはいで磔にし、あるいは手足を切り落とした」と刻ませているそうです。

 預言者ヨナが神に、「ニネベに行きなさい」と命じられてそれを拒んだのは(ヨナ書1章参照)、ニネベがアッシリアの首都だからでした。このような残忍なことをする人々に神の言葉を語り、彼らが悔い改めて救われることを、ヨナは快しとすることが出来なかったのです(同4章2,3節)。

 詩人の願いにも拘わらず、神はアッシリアの攻撃の前に沈黙しておられました。アッシリア軍はサマリアを陥落させ、北イスラエル王国は滅ぼされてしまいました(列王記下17章1節以下、6節)。

 そのことについて列王記の記者は、「こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から導き上り、エジプトの王ファラオの支配から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、他の神々を畏れ敬い、主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の風習と、イスラエルの王たちが作った風習に従って歩んだからである」(同7,8節)と評しています。

 さらに、「ユダもまた自分たちの神、主の戒めを守らず、イスラエルの行っていた風習に従って歩んだ。主はそこでイスラエルのすべての子孫を拒んで苦しめ、侵略者の手に渡し、ついに御前から捨てられた」(同19,20節)と言います。

 そして、その言葉の通り、ヒゼキヤの代にアッシリアが南ユダ王国にも攻め込み、ユダの砦の町をすべて占領し、エルサレムの都に迫りました(同18章13節以下)。

 アッシリア王がヒゼキヤのもとに遣わしたラブ・シャケが、「主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになったのだ」(列王記下18章25節)と告げた言葉は、5節の「あの民を国々の間から断とう。イスラエルの名が再び思い起こされることのないように」という言葉と重なって来ます。

 その時、ヒゼキヤにはアッシリア軍を追い返す力はありませんでした。ヒゼキヤは高官たちを預言者イザヤのもとに遣わし、「今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日、胎児は産道に達したが、これを産み出す力がない」(列王記下19章3節)と言わせ、祈りを要請しました(同4節)。

 ヒゼキヤ自身も、「わたしたちの神、主よ、どうか今わたしたちを彼(アッシリア王)の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが(レ・バデ・ハー)主(ヤハウェ)なる神であることを知るに至らせてください(イデウー)」(同19節)と祈りました。

 詩人が冒頭の言葉(19節)のとおり、「彼らが悟りますように(イデウー)。あなたの御名は主(ヤハウェ)。ただひとり(レ・バデ・ハー)、全地を超えて、いと高き神(エルヨーン)であることを」と、この詩の最後に記しています。ヒゼキヤのささげた祈りによく似ています。

 主なる神は、イザヤの執り成しとヒゼキヤの祈りに応え、エルサレムを包囲していたアッシリア軍を一夜のうちに全滅させ(同35節)、ひとりニネベに逃げ帰ったセンナケリブ王も、謀反の剣に倒れました(同37節)。イスラエルに主なる神がおられることを、はっきりと思い知らされる結果となったのです。

 しかし、本当にそれを悟らなければならなかったのは、イスラエルの民自身でした。ヒゼキヤの死後、王位に就いたヒゼキヤの子マナセは主の目に悪とされることを行います(同21章2節以下)。その後、主の目に正しいことを行ったと言われるのは、ヒゼキヤの孫ヨシヤ一人で(同22章2節)、残りは皆、マナセの後を歩みました。

 その結果、マナセから数えて7代目のマタンヤ改めゼデキヤの代に、バビロンの王ネブカドネツァルに攻められ、エルサレムが陥落しました(同25章1節以下)。町中が焼かれ、城壁も破壊されました(9,10節)。捕囚の苦しみを通して、主が「ただひとり,全地を超えて、いと高き神であることを」悟らされたのです。

 絶えず主の御顔を慕い求め、謙って主の御言葉に聴き従いましょう。

 主よ、絶えず主の御名を求めさせてください。御前におのが愚かさ、罪を永久に恥じ、恐れ、あなたこそ唯一の主、ただひとり、全地を超えて、いと高き神でいますことを、悟らせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。この地に御心がなされますように。 アーメン





1月23日(水) 詩編82編

「わたしは言った、『あなたたちは神々なのか、皆、いと高き方の子らなのか』と。」 詩編82編6節

 82編は、神に逆らう者に味方して正義を行わない神々を裁き、主なる神が立ち上がられることを願い、その支配を讃える歌です。

 1節は、場面設定です。「神聖な会議」(1節)という名の法廷で、神が神々を裁かれます。ここで「神聖な会議」と訳されているのは、「神の集まり」(アダト・エル)という言葉で、この表現は、ここ以外には用いられていません。「エル」は単数ですから、神々の集まりというより、神が集めた会衆といった言葉遣いです。

 主なる神は、「いつまであなたたちは不正に裁き、神に逆らう者の味方をするのか」(2節)と言われます。ここに、神々がそれぞれの国を司る王、あるいは裁判官のような存在として描かれています。そして、不公正な裁きを行って神に逆らう者の味方をしていたと糾弾されているわけですから、主なる神は、この地に正義が行われることを期待しているということになります。

 神は彼らに「弱者や孤児のために裁きを行い、苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ」(3節)、「弱い人、貧しい人を救い、神に逆らう者の手から助け出せ」(4節)と命じられ、それが、神の願っている正義と公正を行うことだと言われるのです。

 しかるに、神々は自分の使命を理解せず、その役割を果たさないので、その地は混乱に見舞われます。「地の基はことごとく揺らぐ」(5節)という言葉で、神々のなしていることによって、神の創造された世界が揺るがせられていること、つまり、神の創造の秩序を破壊するようなことであるというのです。

 そこで、神は彼らを罷免し、死を宣告します(6,7節)。冒頭の言葉(6節)を新共同訳は疑問文にしていますが、口語訳、新改訳のように、「あなたがたは神々、あなたがたは皆、いと高き方の子ら」と肯定文として訳すべきではないでしょうか(岩波訳、聖書協会共同訳2018年版も参照)。

 主イエスがヨハネ福音書10章34節でこの言葉を引用して、「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか」と語られていることも、ここを肯定文とすべきだという論拠になるでしょう。

 主イエスは続けて「神の言葉を受けた人たちが『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか」(同35,36節)と言われました。

 主イエスは、「神々」を「神の言葉を受けた人たち」(同35節)と解釈されました。ここで、神の会議に招集された「神々」は、弱者や孤児、苦しむ者、乏しい人、弱い人、貧しい人のために正義と公正を行うことが期待されていた人々でした(2節以下)。それが主イエスの言われる「神の言葉を受けた人たち」ということでしょう。

 詩人は6節で「神々」を「いと高き方の子ら」と言い換えています。「いと高き方」(エルヨーン)について、民数記24章16節では「いと高き神」と訳され、「神(エル)」、「全能者(シャダイ)」と並置されています。サムエル記下22章14節でも同様に訳され、「主(ヤハウェ)」と並べられています。即ち「いと高き方の子ら(ブネー・エルヨーン)」とは神の子らということです。

 だから、「神々」が「神の子ら」と言い換えられ、主イエスは「神々」を「神の言葉を受けた人々」と解釈されて、神の言葉、即ち神の使命を受けた者は「神の子」と言われていることになると語られたわけです。

 イザヤ書3章13~15節に「主は争うために構え、民を裁くために立たれる。主は裁きに臨まれる、民の長老、支配者らに対して。『お前たちはわたしのぶどう畑を食い尽くし、貧しい者から奪って家を満たした。何故、お前たちはわたしの民を打ち砕き、貧しい者の顔を臼でひきつぶしたのか』と」という言葉があります。

 民の長老、支配者たちが貧しい者を虐げ、食い物にしていると告発し、主が彼らを裁かれるという言葉です。ここで神々が告発されているのと同じ状況です。つまり、神が民の長老、支配者たちを立てられたのは、彼らが「神々」として民の上に君臨し、その権威、権力で民を支配するためではなく、弱い者、貧しい者を守り助けるという公正と正義を実行させるためなのです。  

 神の命に背き、不正をなして神の御心を蔑ろにするなら、退けられるほかはありません。「人間として死ぬ。君候のように、いっせいに没落する」(7節)とは、「神々」、「いと高き方の子ら」と言われた人々も、ただの人として死を迎えさせられるということです。

 最後に詩人は、「神よ、立ち上がり、地を裁いてください」と願い、「あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう」と歌って、詩を閉じます(8節)。

 「神よ、立ち上がり」は、神の契約の箱が進むときにイスラエルが祈った祈りの言葉でした(民数記10章35節、詩編132編8節、74編22節)。裁きを願うとは、未だ地に正義が行われていないことが示され、神が「神々」に代わって正義と公正を行ってくださるように求めているのです。

 それにより、「すべての民を嗣業とする」とは、すべての民をご自身の所有とするということで、主なる神が全地の支配者となられることを意味しています。

 主イエスは私たちに、「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタイ6章10節)と祈るように、教えてくださいました。悪しき者が権力を握り、弱い者を抑圧しているような状況であっても、そこにも主の支配があることを信じ、御心が行われるようにと祈るのです。ここに、私たち信仰者の務めがあります。

 心を込めて、主の祈りを唱えましょう。主こそ、全地の支配者、正義と公正を行われるいと高き神だからです。

 主よ、お立ち上がりください。そして、全世界を治めておられるあなたの正義が、この地に実現されますように。自然災害の被災者をはじめ、困難な生活状況にある方々に、今日もこの日の必要な糧をお与えください。私たちはあなたの口から出る一つ一つの生ける言葉によって生かされているからです。御名が崇められますように。 アーメン



静岡教会公式サイト更新

1月20日(日)には、教会員10名、来賓14名(初来会者1名、子ども1名を含む)がお見えになりました。感謝です。

静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に1月20日(日)主日礼拝プログラムを掲載しました。今回、説教動画を撮ることが出来ませんでした。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。


御覧ください。




1月22日(火) 詩編81編

「わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え。」 詩編81編9節

 81編は、神がおのが民を、「わたしに聞き従え」と招く詩です。

 この詩は二部構成で、第一部が2節から6節前半まで、第二部は6節後半から17節までです。第一部は、祭りの日に賛美をささげよとの招きが語られ、第二部は、神ご自身が民に語りかける説教という内容になっています。

 4節に「角笛を吹き鳴らせ、新月、満月、わたしたちの祭りの日に」とありますが、角笛を吹き鳴らすのは、イスラエルの7月1日の新月祭で、聖なる集会を行います(レビ記23章24節)。続く10日が贖罪日(同27節)、そして満月に当たる15日の安息日から一週間、仮庵祭が行われます(同34節)。この詩は仮庵祭に朗読されるように作られたものと思われます。

 仮庵祭は葡萄に代表される秋の実りを神に感謝する祭りです。それが「仮庵」の祭と呼ばれるのは、この祭りの間、戸外の仮の簡素な小屋で過ごすからです。それは、もともと葡萄を収穫し、直ぐに葡萄を搾って葡萄酒を造るという作業を行うため、雇った労働者が寝泊まりする仮小屋を、葡萄園に建てたためです。

 それに、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民が、荒れ野を旅する長い間、テントで生活したことを重ね合わせ、エジプトの地から導き出された主の御業を告げ知らせると共に、現在の安定した生活、大地の恵みを神に感謝するためなのです(レビ記23章34~43節)。

 冒頭の言葉(9節)は詩の中心に置かれており、文字通り、中心的なメッセージとなっています。「あなたに定めを授ける」というのは「証言する、戒める」(ウード)という言葉で、「あなた」と呼びかけている者たちに悪い状態に陥った関係を正すように勧める言葉なのです。聞き従う者には、「口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう」(11節)という約束が与えられます。

 けれども、「わたしの民はわたしの声を聞かず、イスラエルはわたしを求めなかった」(12節)と言われます。荒れ野を旅する間も、約束の地に入ってからも、イスラエルの歴史は、神に背き、その御言葉に従わない歴史でした。

 エレミヤ書7章25,26節に「お前たちの先祖がエジプトの地から出たその日から、今日に至るまで、わたしの僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした。それでも、わたしに聞き従わず、耳を傾けず、かえって、うなじを固くし、先祖よりも悪い者となった」と言われるとおりです。

 神は、「頑なな心の彼らを突き放し、思いのまま歩かせた」(13節)と言われます。その結果、民は神の御翼の陰を離れ、自分勝手に進んで自ら滅びを招いてしまいました。パウロがローマ書1章18節以下、24節で語っているのは、そのことです。

 神は14,15節で「わたしの民がわたしに聞き従い、イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら、わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ、彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに」と言われています。

 このメッセージは、神が「何度も名前を読んだのに、一度も答えようとしなかったから、もう呼ばない。もし答えてくれていたら、ちゃんと守ってあげたのに、一度も答えなかったから、もう二度と守ってあげない」などと言おうとしているわけではありません。

 このように語りながら、「今これを聞いているあなたは、わたしの声に聞き従いますか、いつもわたしを求めますか」と問いかけているのです。そして、もし神の御声に聞き従うならば、最良の小麦で養い、「わたしは岩から蜜を滴らせて、あなたを飽かせるであろう」(17節)と、再び約束されているのです。

 仮庵祭の最終日には、大祭司が金の水差しでシロアムの池から水をすくい、それを神殿に運んでその水を祭壇に注ぐという儀式を行います。それは、来春の小麦や大麦の収穫のために、雨を降らせてくださるようにという祈りの儀式です。

 ヨハネ福音書7章で主イエスが、「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(7章37,38節)と言われたのは、この日の出来事です。ここで、「生きた水」とは聖霊のことでした(同39節)。

 ヨハネは、主イエスが「大祭司」としてお立ちになったこと、「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい」(同37節)と仰って、命の水を与えるのは、主イエス御自身であることを示します。そして、霊的な収穫(ペンテコステの出来事:使徒言行録2章)が豊かにあるように、主イエスを信じる者に聖霊が注がれるように祈られたと記しているのです。

 私たちが主イエスを信じて、その御声に聴き従うなら、岩から蜜が滴るという神の御業を通して(17節)、聖霊の豊かな恵みで飽かせられる、即ち、自分自身が満足させられるだけでなく、それが川の流れとなって流れ出るようになると言われています(ヨハネ7章38節)。

 朝ごとに主を仰ぎましょう。その御言葉に耳を傾けましょう。その教え、戒めに素直に聞き従いましょう。 

 主よ、御言葉を感謝します。私たちが主の御声に絶えず耳を傾け、喜びをもってその導きに従うことが出来ますように。聖霊の豊かな恵みに与り、主の愛と恵みを力強く証しすることが出来ますように。必要な知恵、力を授けてください。御心がこの地になりますように。 アーメン




1月21日(月) 詩編80編

「神よ、わたしたちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いください。」 詩編80編4節

 80編は、イスラエルの救いを求める「祈りの詩」です。

 2節の「イスラエルを養う方、ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ」という言葉、3節の「エフライム、ベニヤミン、マナセの前に」という言葉から、特に北イスラエル王国の救いを求めているようです。それは、紀元前721年に起こったアッシリアによるサマリアの都の陥落、北王国の滅亡という災いを味わってのことでしょう。

 以後、紀元前597年の第一次バビロン捕囚、587年の第二次バビロン捕囚により、エルサレム神殿が破壊され、ダビデ王朝が滅びるという災いが南ユダ王国に起こりました。このような、メソポタミアの強国によって繰り返される破壊と暴虐から救ってください、解放してくださいと祈り求めているわけです。

 5,6節の「いつまで怒りの煙をはき続けられるのですか。あなたは涙のパンをわたしたちに食べさせ、なお、三倍の涙を飲ませられます」という言葉から、詩人は、アッシリアやバビロンによる王国の滅亡が、単に強国の暴力と考えているのではなく、神がそれらの国々を用いてイスラエルに怒りを表された、つまり、イスラエルの罪を裁かれる神の怒りのゆえだと考えているのです。

 ですから、「いつまで」と尋ねているのは、神の裁きによる苦しみが長く続いている証拠であり、一日でも早く、その怒りをおさめてくださるよう、神の憐れみを求める言葉ということが出来ます。

 神の憐れみを求めるのに、2節で「イスラエルを養う方、ヨセフを羊の群れにように導かれる方よ」と、神を羊飼いとして描写します。岩波訳は脚注に「詩編で『牧者』が出るのはここと23編1節だけ。『イスラエルの牧者』はエゼキエル34章2節にもあるが、そこでは複数形で王たちを指す」と記しています。

 かつてイスラエルがエジプトで奴隷として働かされていたとき、神が彼らを憐れんで救い出してくださり、約束の地カナンに導かれたことを神に思い出していただくこと、そして、もう一度自分たちのために良い羊飼いとなって、自分たちをカナンに連れ戻していただきたいと願っているのです。

 「御耳を傾けてください。ケルビムの上に座し、顕現してください」(2節)とは、契約の箱の贖いの座に付けられているケルビムに鎮座ましまし(出エジプト記25章22節)、かつて荒れ野を約束の地へと民を導かれたように、もう一度イスラエルに連れ帰ってくださることを祈り願っているのです。

 また、契約の箱は、軍勢と共に立ち上がる万軍の主なる神の顕現を、見えるかたちで示すものです(サムエル記上4章4節、サムエル記下6章2節)。かつて、エジプトの苦役から解放し、約束の地を獲得するために神が御力を振るわれたように、自分たちを苦しめている敵の手から解放してくださるように求めているわけです。

 さらに、エルサレムの都に神の宮が建てられ、至聖所に契約の箱が安置されたとき、それが神の臨在の象徴となりました(列王記下19章15節、詩編99編1節)。イスラエルの民は、至聖所に安置された箱を見ることは出来ませんでしたが、箱を担ぐ棒が聖所から見えたので(列王記上8章8節)、それで、箱の存在が確認できるようになっていたようです。

 ソロモンが契約の箱を自分が建立した神殿に安置してささげた祈りの中で、神殿に目を注ぎ、そこに向かって祈る祈りを聞き届けてくださるようにと求めていました(列王記上8章28節以下参照)。同様に、今ここで救いを求めている詩人たちの祈りに、主が耳を傾けてくださるようにと願っているわけです。

 また、9節では「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えられました」と述べています。この「ぶどうの木」のたとえは、詩編だけでなくイザヤ書、エレミヤ書などでも、イスラエルを象徴するものとして用いられます。

 ここでも、エジプトから約束の地に移植してくださった神の憐れみの業を取り上げて、再びその繁栄を回復させてくださるように求めています。12節で「大枝を海にまで」とは地中海、「若枝を大河まで」とはユーフラテス川を指しており、それほど広大な地を領有したことはありませんが、こういう表現で、ソロモン時代の繁栄を回復してくださいと言っているわけです。

 そして、冒頭の言葉(4節)をはじめ、8,20節でも「神よ、わたしたちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いください」と、繰り返し語ります。79編9節と同様、イスラエルの背きの罪のゆえに汚された神の栄光を、神ご自身の力で清め、再び輝かせてくださいと求めているということになります。

 このように詩人が神の憐れみを乞う祈りに対して、神は、ダビデの子孫として主イエスをこの世に遣わし、贖いの供え物として人々の罪を赦し、御名を清められました。

 主イエスが御自分のことを「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ福音書10章11節)と仰ったこと、また、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(同15章5節)と仰ったことを思い出します。

 私たちを真理に導き、豊かな恵みを与え、実を結ばせてくださる主イエスを信じ、その御言葉に従って日々歩ませていただきましょう。

 主よ、常に私たちと共にいてくださる御子イエスの導きによって、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰の歩みを続けることが出来ますように。苦難の中におられる方々にも、希望と平安が与えられますように。 アーメン



1月20日(日) 詩編79編

「わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて、あなたの御名の栄光を輝かせてください。御名のために、わたしたちを救い出し、わたしたちの罪をお赦しください。」 詩編79編9節

 79編は、74編と同様に、異国によるエルサレムの破壊と近隣の民による嘲りから、イスラエルの救いを求める「祈りの詩」です。「彼ら」と言われる異国の民と、「あなた」と呼びかける主なる神、そして「わたしたち」なる神の民の三者が登場してきます。

 この詩は、「異国の民があなたの嗣業を襲い、あなたの聖なる神殿を汚し、エルサレムを瓦礫の山としました」(1節)という言葉などから、紀元前587年の第二次バビロン捕囚という出来事の後、エルサレムに残っていた者が記したものと考えられます。

 この詩は今日、バビロンによる破壊と紀元70年のローマによる破壊を思い起こす嘆きの祈りとして、後世のユダヤ人たちにより毎金曜日、エルサレム神殿の嘆きの壁で唱えられているそうです。

 バビロン兵が破壊されたエルサレムにおいて殺戮と暴虐を行ったので、捕囚とならずエルサレムに残った多くの者が殺され、遺体を葬る者もないまま(3節)、猛禽の餌食になるという悲惨な状況が描かれています(2節)。それゆえ、残りの者たちは近隣の民に嘲られ、辱められています(4節)。

 詩人はその状況を神に訴えて、「主よ、いつまで続くのでしょう」(5節)と言います。異国の民に苦しめられているのに、なぜ助けてくださらないのか、いつ手を伸ばしてくださるのかと問いかけるのです。そして、「あなたは永久に憤っておられるのでしょうか」(5節)と記すことで、この苦しみは、神から来ていると詩人が考えていることが分かります。

 「永久に憤っておられるのか」という言葉には、捕囚の苦しみを味わって後、一定の時間が経過したのかとも思わせ、そうすれば、二度と神の恵みに与ることは出来ないのか、神は私たちの祈りを聞いてくださらないのかと神に訴えている言葉といえるでしょう。

 神が憤っておられるというのは、詩人たちが罪を犯したということです。そのことを8節で「どうか、わたしたちの昔の悪に御心を留めず、御憐れみを速やかに差し向けてください」とも語っています。悪をなした自分たちが拠って立つのは、自分たちの正しい振る舞いなどではなく、立場を回復するために支払う犠牲などでもなく、神の差し向けてくださる「御憐れみ」だということです。

 そこで詩人は、冒頭の言葉(9節)のとおり、「わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて、あなたの御名の栄光を輝かせてください。御名のために、わたしたちを救い出し、わたしたちの罪をお赦しください」と求めます。

 イスラエルの民は、優秀で数の多い民だから、神に選ばれたというわけではありませんでした。エジプトで奴隷の苦しみを味わっていたイスラエルの民を神が憐れみ、モーセを遣わして救い出されて、御自分の聖なる民、宝の民とされたのです(申命記7章6節以下)。

 イスラエルが約束の地に安住しているということは、神がイスラエルを深く憐れみ、愛しておられるしるしです。そしてそれは、イスラエルを祝福の源として、神の深い愛と憐れみが地の表のすべての民に注がれるという神のメッセージです(創世記12章2,3節)。

 ですから、イスラエルの民が近隣の民に嘲られることは、それは勿論イスラエルの民の罪のゆえですが、しかしそれは、イスラエルの神の名折れになることなのです。そこで、御名の栄光を曇らせないよう、イスラエルの罪を赦し、この苦しみから救ってくださいと求めているのです。

 続く10節に「どうして異国の民に言わせてよいでしょうか、『彼らの神はどこにいる』と」ということで、自分たちの罪よりも異国の民の嘲りに焦点を合わせ、御名の栄光を輝かせるために、血の報復をしてくださるようにと求めています。

 よく考えるまでもなく、この祈りは、なんとムシのいい理屈でしょう。自分たちが汚したイスラエルの神の御名が、汚れたまま放置されているのは神の名折れになるので、ご自身で御名を清め、神の栄光で自分たちを輝かせてくださるように、と求めているわけです。

 しかし、主なる神は、この祈りを引き取られました。主イエスがご自身の祈りとして弟子たちに教えられた「主の祈り」の中で、「御名をあがめさせたまえ」(新共同訳聖書では「御名が崇められますように」マタイ福音書6章9節)と祈ります。

 この箇所を直訳すると、「あなたの名が聖くされますように」(ハギアスセートー・ト・オノマ・スー)という言葉になります。神の名が聖くされるようにということは、神の名が汚れているということ、しかも、御名を汚したのは自分だということでしょう。

 そして、この祈りをささげよと教えられた主イエスが、ご自身の命をもって私たちの罪を赦し、贖い、律法の呪いから解放してくださいました。かくて、御名の栄光を表してくださったのです。ここに、神の愛があります(第一ヨハネ4章9,10節)。

 この愛によって、私たちは神の子とされ、「アバ,父よ」と呼ぶことが出来る者とされました(ローマ8章15節、ガラテヤ4章5,6節)。今日も神の御名を呼び、その導きに従順に従っていきましょう。 

 主よ、あなたは「血に対する報復」を、主イエスの贖いにより、全世界を救うという手段で人々の目に表されるようになさいました。その愛のゆえに、私たちも主イエスを信じ、神の民とされる恵みに与りました。主の御心を心とし、委ねられている使命のために自らを捧げて、御名の栄光を褒め称えさせてください。 アーメン





1月20日(日)主日礼拝案内

190120s

1月20日(日)は、教会学校成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
都合により、小学科、少年少女科はお休みです。
教会学校は、「聖書教育」誌にもとづいて、新約聖書・ルカ福音書から、共に聖書の学びと交わりを行います。


主日礼拝を10時半から行います。

礼拝では、ヨハネ福音書6章60~71節より、「生命のみ言葉」と題して、矢部執事より奨励をいただきます。


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そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。

キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


礼拝後、昼食会(有料・自由参加)を行います。

昼食会後、各会例会を行います。

原田牧師は冬期休暇中です。



1月19日(土) 詩編78編

「彼は無垢な心をもって彼らを養い、英知に満ちた手をもって導いた。」 詩編78編72節

 表題の「マスキール」(1節)は、「理解する、賢くなる(サーカル)」という言葉のヒフィル(使役)形分詞で、岩波訳では、「教訓詩」という表題になっています。内容の上からも、78編は、教師が生徒のために記した教訓と考えてよいでしょう。

 詩人が教訓を与えようとしているのは、①「子らが神に信頼をおき、神の御業を決して忘れず、その戒めを守るため」(7節)であり、また②「先祖のように、頑なな反抗の世代とならないように、心が確かに定まらない世代、神に不忠実な霊の世代とならないように」(8節)ということです。つまり、過去の歴史に学び、それを明日に生かそうということです。

 9節で「エフライムの子らは武装し、弓を射る者であったが、戦いの日に、裏切った」と言われています。これは、60,61節との関連で、ペリシテとの戦いに敗れて、神の箱が奪われた出来事を示しているようです。

 「シロの聖所」(60節)とは、エフライム族の古い町シロに神の幕屋が置かれていたときのことを言うのでしょう(サムエル記上1章3,9節)。そこにはエリと二人の息子らが祭司として主に仕えていました。しかし、息子らはならず者で(同2章12節)、人々が捧げるいけにえを私し(同13節以下)、主への供え物を軽んじました(同17節)。

 また、幕屋の入り口で仕える女たちともたびたび関係を持ち(同22節)、祭司にあるまじき振る舞いであることを「人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう」(同25節)といって父エリが諭しても(同23節以下)、彼らは全く聞く耳を持ちませんでした。

 神の人によってエリの家の裁きが告げられ(同27節以下)、エリのもとで主に仕えていたサムエルにも念を押す形で裁きが告げられました(同3章11節以下)。エリはサムエルからそれを聞いて「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように」(同18節)と答えました。

 やがて、主が告げられていたとおりに裁きがエリの家に臨み、ペリシテとの戦いに敗れて多くの兵士が戦死した折(同4章1節以下)、戦場にいたエリの子ホフニとピネハスも死に、陣営に運び込まれていた神の箱は奪われました(同11節)。そして、その報告を聞いたエリも、席から落ちて首を折って死んでしまいました(同18節)。

 まさしく、彼らが主を侮り、供え物を軽んじたゆえに、主がシロの聖所を捨て、神の箱がペリシテの虜となるに任せ、エリの家の栄光の輝きを敵の手に渡されたのです(60,61節)。そのうえ、彼らのゆえにイスラエルは大きな犠牲を払わせられました。

 それで、イスラエルはすっかり悔い改めて、神に聞き従うものになったというわけではありません。後に主なる神がエフライムの家からネバとの子ヤロブアムを立ててきたイスラエルの初代王として選ばれましたが、彼は主の期待を裏切り、御言葉に背く道を歩みました。

 ヤロブアムは、ソロモン王に仕えていましたが、預言者アヒヤの預言を受けて反旗を翻し(列王記上11章26節以下)、ソロモンの死後、イスラエルを南北に分裂させます(同12章)。それは、ソロモンが主に背いたために、主が10部族をヤロブアムに与えて、北イスラエル王国の王とされたのです(同11章31節以下)。

 ところが、主の目に適う正しいことを行うようにと命じられていたにも拘わらず(同38節)、ヤロブアムはその命に背いて金の子牛を二体造り、それを領土の南と北、ベテルとダンに置いて神として礼拝するようにさせたのです(同12章25節以下、28,29節)。

 そして、ヤロブアムのあとの王たちも、ヤロブアムに倣って神に背き続けました。10節に「彼らは神との契約を守らず、その教えに従って歩むことを拒み」と言われているとおりです。

 続く12節から39節までは、神がいかに民を憐れみ、エジプトを脱出して荒れ野を導き、民の必要に答えられたかを記し(12~16節、23~29節)、一方、民がいかに恩知らずに神に対して振舞い、反攻したかが記されます(17~22節、30~37節)。

 しかるに、「神は憐れみ深く、罪を贖われる。彼らを滅ぼすことなく、繰り返し怒りを静め、憤りを尽くされることはなかった。神は御心に留められた、人間は肉にすぎず、過ぎて再び帰らない風であることを」(38,39節)と記して、前半をまとめています。

 40節からの後半では、まずモーセを通してエジプトに下された災いの数々が記されます(43~51節)。イスラエルの民は、約束の地に住むようになりますが(52~55節)、背いて神を怒らせ、様々な災いを蒙りました(56~66節、サムエル記上4章参照)。ここに、過去に学ぼうとしない民の愚かさが示されているのです。

 そのように背き続けたイスラエルの民のために、神は「ユダ族と、愛するシオンの山を選び、御自分の聖所を高い天のように建て、とこしえの基を据えた地のように建てられた」(68,69節)と記します。

 67節に「主はヨセフの天幕を拒み、エフライム族を選ばず」と記されていることから、詩人は、北イスラエルが滅びた後、ヒゼキヤ王(列王記下18章以下)かヨシヤ王(同22章以下)の代に、ダビデの信仰を理想として、主の恵み深い御業に信頼し、御言葉に従って歩むように、そして、先祖の背きの罪に倣わないようにと語っているようです。

 ただしかし、王国が分裂したのは、ダビデの子ソロモンの背信の罪のゆえでした(列王記上11章1節以下)。ダビデも罪と無縁ではありません(サムエル記下11章など)。冒頭の言葉(72節)で「無垢な心をもって彼らを養い、英知に満ちた手をもって導いた」と記されているのは、ダビデのことでもソロモンのことでも、そしてヒゼキヤやヨシヤのことでもありません。

 ダビデの子としてお生まれになり、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない」(ヨハネ福音書14章6節)と語られた主イエス・キリストこそ、その方なのです。

 主を信じ、その御心に従って歩むことが出来るように、絶えず御言葉に耳を傾け、「御言葉がこの身になりますように」と祈りましょう。主を信じ、御言葉に従う恵みを証しする者とならせていただきましょう。

 主よ、私たちは、パンによって生きているのではなく、神の御口から出る一つ一つの言葉によって養われ、御手によって守り導かれているのです。その恵みを心から感謝します。私たちの生活にその御言葉を実現してください。聖霊に満たされ、力強く主の愛と恵みを隣人に証しすることが出来ますように。 アーメン




1月18日(金) 詩編77編

「あなたの道は海の中にあり、あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。」 詩編77編20節

 77編は、イスラエルがかつて主の大いなる力によって救われたことを回顧しつつ、苦難の中から神に救いを求める「祈りの詩」とされます。主なる神を「あなた」(5,12~15,17~21節と2人称で語る言葉はありますが、何かをしてほしいと願う言葉は、この詩にはありません。

 2節で「神に向かってわたしは声をあげ、助けを求めて叫びます」といい、続く3節で、「苦難の襲うとき、わたしは主を求めます」と告げ、4節でも「神を思い続けて呻き、わたしの霊は悩んでなえ果てます」と語ります。前半11節までに「わたし」という言葉が14回も出て来て、祈りというよりも詩人の独白といった印象の強い詩です。

 このとき詩人の心を支配していたのは、「主はとこしえに突き放し、再び喜び迎えてはくださらないのか」(8節)という思いでした。この言葉は44編24節、74編1節などにもありましたが、このように語るのは、苦難が襲って来て主を求めたのに(3節)、それに対する確かな主の答えを手にすることが出来なかったということでしょう。

 5節の「あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます」という言葉は、まぶたを閉じることが出来ないように、つまり眠らせないようにしておられるということでしょう。であれば、詩人は今、祈りが聞かれないというよりも、自分を苦しめているのは神ご自身だと考えていて、それゆえ神に救いを祈ることも出来ず、悶々と思い悩んでいると訴えているわけです(4,7節)。

 けれども、そのような状況で内省を重ねても、堂々巡りになるだけで、そのトンネルから永遠に抜け出せないのではないかという思いに支配されてしまいます。神が答えてくださらないことを、「主の慈しみは永遠に失われたのであろうか」(9節)と自問したところで、納得のいく答えに到達できるはずもないからです。

 そのことを「いと高き神の右の御手は変わり、わたしは弱くされてしまった」(11節)と語り、かつてのように、神がその強い御手で守ってくださらない、神は変わられたのだと結論して、しかしながら、そう考えることは詩人にとって、拠り所を失い、すっかり弱り果ててしまうことたったのです。

 現状に希望を見いだせない詩人は、助けを願う代わりに、いにしえの神の御業を思い起こします(12,13節)。そして、「神よ、あなたの聖なる道を思えば、あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか」(14節、出エジプト記15章11節)と言い、「あなたは奇跡を行われる神、諸国の民の中に御力を示されました」(15節、出エジプト記15章13節以下)と語ります。

 17節以下の歌は、天地創造の時のようであり(創世記1章1節以下)、また、葦の海を分けたときのことを詠っているようであり(出エジプト記14章1節以下、15章5,8節)、また、シナイ山に降ってモーセに十戒を授けられたときの様子(同19章16節以下)を描いているようでもあります。

 冒頭の言葉(20節)の「あなたの道は海の中にあり、あなたの通られる道は大水の中にある」という言葉は、葦の海を分けて乾いた地をイスラエルの民に通らせてくださったことを思わせます。

 しかしながら、続く「あなたの踏み行かれる跡を知る者はない」という言葉は、思いがけない言葉です。大水は神を見たけれども(17節)、人はだれも、その驚くべき御業を見なかったということでしょう。

 これは、ヨブ記37章5節で「神は驚くべき御声をとどろかせ、わたしたちの知り得ない大きな業を成し遂げられる」と語ったエリフの言葉を思い起こさせます。それは、神の御業は私たちの理解を超えているということでした。そのように、神は海の中、大水の中でも自由に歩まれ、力強く働いて驚くべき御業を行われるけれども、誰もその道を知ることが出来ないというのです。

 そう語ることによって、詩人は、今自分の目の前に苦難の海が広がっていて、前進を阻んでいるように見えるけれども、その中に神の通られる道があり、神の御手の業を見ることは出来なくても、その救いに与ることが出来るという信仰を言い表そうとしているのでしょう。

 24編2節に「主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた」という言葉があり、神の不思議な御力を示していました。詩人は、自分の思いに閉じこもって眠れぬ夜を過ごしていましたが、もう一度神の御業に思いを向けたとき、あらためて信仰に目覚めることが出来たようです。それは、「あなた」と呼びかけた神が、詩人に与えてくださった信仰でしょう。

 「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら,わたしに出会うであろう、と主は言われる」(エレミヤ書29章12~14節)と言われるとおりです。

 「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる」(同33章3節)と言われる主に信頼して御名を呼び、求めるところを神に申し上げましょう。

 「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ書4章7節)。

 主よ、あなたに向かって私は声をあげ、助けを求めて叫びます。どうか、空爆にさらされて眠れぬ夜を過ごしているシリアの方々を顧みてください。長く避難生活を送っている被災地の方々を覚えてください。救いの光を見出して、希望を与えてください。どうか、世界と我が国を、あなたのよきもので満たしてください。喜びと平安がいつも豊かにありますように。アーメン



1月17日(木) 詩編76編

「神は裁きを行うために立ち上がり、地の貧しい人をすべて救われる。」 詩編76編10節

 76編は、エルサレムを御自分の住まいと定められたお方について詠っているものです。

 2節に「神はユダに御自らを示され、イスラエルに御名の大いなることを示される」と記されています。神はイスラエルを御自分の民としてお選びになり、彼らに御自身を現されたのです。「御名の大いなることを示す」とは、後の文脈から、敵を打ち破られて町を守ってくださったことを示しています。 

 3節に「神の幕屋はサレムにあり、神の宮はシオンにある」という言葉があります。「サレム」とは、エルサレムの古い呼び名です。イスラエルの父祖アブラムを祝福した祭司メルキゼデクが王として治めている町が、この「サレム」でした(創世記14章18節)。「シオン」はエルサレムの都が築かれている丘の名前です(サムエル記下5章6節以下)。

 「サレム」は平和という意味、そして「シオン」には要塞、砦という意味があります。神がエルサレムにおいて砦となられ、平和を実現してくださる、平和の裡に守ってくださるということでしょう。それが4節で「そこにおいて、神は弓と火の矢を砕き、盾と剣を、そして戦いを砕かれる」と言われているわけです。

 4節の「餌食の山々から光を放って力強く立たれる」とは、山の上から日の出の光が射してくる様子を示しており、神がエルサレムにおいてその栄光を現されるということを表現しているようです。

 また、「餌食の山々」は、3節の「神の幕屋」と関係があるようです。「幕屋」というのは、「ソーク(仮庵、ライオンのねぐらとしての茂みの意)」という言葉で、10編9節ではこの言葉が「茂み」と訳されています。そうすると、「餌食の山々」も、ライオンの住家といった表現ではないかと思われます。

 エゼキエル書39章4節に「お前とそのすべての軍隊も、共にいる民も、イスラエルの山の上で倒れる。わたしはお前をあらゆる種類の猛禽と野の獣の餌食として与える」という言葉があるように、強い者がイスラエルを守っていて、敵として近づくものは、その餌食になるということを示しているのでしょう。

 「勇敢な者も狂気のうちに眠り、戦士も手の力を振るいえなくなる。ヤコブの神よ、あなたが叱咤されると、戦車も馬も深い眠りに陥る」(6,7節)というのは、ユダにご自身を示された神のみ力によって、敵が無力化されてしまったようです。

 これは、エルサレムの町まで攻め込んできたアッシリアの大軍が主の使いに撃たれ、一夜にして全滅してしまったといった出来事を物語っているようです(列王記下18章13節以下、19章35節)。だから、七十人訳(ギリシア語訳旧約聖書)には、「アッシリアに対する詩」という表題が付けられています。

 ここで詩人は、エルサレムの町は安全だと言おうとしているわけではありません。神を畏れ、御前に謙ることを教えているのです。それが、「あなたこそ、あなたこそ恐るべき方」(8節)という言葉になっています。北イスラエルは、神を畏れることを忘れ、神に背いた結果、アッシリアに滅ぼされてしまったのです(列王記下17章)。

 そして、冒頭の言葉(10節)で「神は裁きを行うために立ち上がり、地の貧しい人をすべて救われる」と語っています。ここで「貧しい人」には、圧迫され、抑圧されている人という意味があります。口語訳は、「しえたげられた者」と訳しています。

 呉アライアンス教会の小宮山林弥牧師がこの箇所について、「人間は自分よりも弱い者を当然のように蔑み、肉体的精神的な暴力で苦しめるが、それは弱い者を苦しめる者を厳しく裁かれる御父を敵に回すことである。詩人は、敵の大軍の攻撃の前に怯えるだけであった自分たちが、自分よりも弱い者には傲慢に振舞う姿を見逃さなかったのである」と説かれました。

 そして、「この世界は、御父を無視する者がいうような弱肉強食の世界ではない。弱肉強食者を厳しく裁く御父の愛のご支配の世界である。自分を強めようとすることの愚かさを悟り、弱い自分を顧みていてくださる御父に感謝して信頼し、平安になり、弱い者に心から仕える者とされよう」と奨めておられます。

 あらためて、「貧しい者」とは、自分の力、強さに頼るのではなく、神に信頼し、その御手にすべてを委ねて従う者のことと肝に銘じましょう。神はその信頼に答えてくださる希望の源であられます。主の御前に謙り、その恵みに日々感謝して、喜びと賛美の唇の実を、主にお献げしましょう。

 主よ、災害に見舞われたり、病を患ったりすると、自分の貧しさ、無力さを痛感させられます。だからこそ、主に依り頼みます。その苦しみ、悲しみ、痛みを主に訴え祈ります。主の愛のうちにあって互いに交わりを持ち、聖霊に満たされて、互いに愛し合い、赦し合い、仕え合う家庭、教会、社会を築くことが出来ますように。私たちを選び、立ててくださる主の恵みに信頼し、すべてをお委ねします。 アーメン




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