風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2019年01月

1月31日(木) 詩編90編

「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」 詩編90編12節

 90編から、第4巻(90~106編)になります。

 90編は、人の命のはかなさ、それは人の罪に対する神の憤りのゆえであることを知り、神の救いを求める「わたしたち」会衆の祈りの詩です。詩人はまず、神の永遠性を詠い(1,2節)、人の命のはかなさに触れます(3~6節)。この箇所は、キリスト教の葬儀において、必ずと言ってよいほどよく読まれます。

 3節の「あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります」という言葉で、塵にまで返される「人」(エノーシュ)とは、弱い存在としての人間を意味します。アダムの3男セトは、生まれた男の子をエノシュと名づけました(創世記4章26節)。「塵」(ダッカー)には「打ち砕かれた」(詩編34編19節、イザヤ書57章15節)という意味もあります。

 「主の御名を呼び始めたのは、この(エノシュが生まれた)時代のことである」(創世記4章26節)とは、アダムの長男カインが弟アベルを殺して(同8節)「主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ」(同16節)のとは対照的に、主なる神のみ前に敬虔な信仰が回復されたことを示しています。

 「人の子」(ブネイ・アーダーム=「アダムの子」)は、土(アダマー)から造られました(創世記2章7節)。この表現は、「土(アダマー)」から生まれた「人(アダム)」がやがて土に返る、人間のはかなさを示しています。

 人の歴史は、千年を単位として測る長さであったとしても、神の目には一日にも満たない夜の一時で(4節、第二ペトロ書3章8節)、夜の夢のようなものであり(5節)、「朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます」(6節、イザヤ40章6節以下)。

 しかしながら、詩人が嘆いているのは、一般論としての人生のはかなさなどではありません。彼らが「得るところは労苦と災い」(10節)と語っているその原因が、神の怒り、憤りにあるということです(7~12節)。70年、80年という人生、罪人として「労苦と災い」に示される神の御怒りの内を歩み、「人の子よ帰れ」の声で塵に返される、その儚さを嘆くのです。

 詩人は今、創世記3章17節以下に記されている神の言葉を思い起こさせる現実の中に置かれているようです。そしてそれは、個人的なものではなく、全人類が置かれている嘆かわしい状況なのです。

 そこで、「主よ、帰ってきてください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください」(13節)という祈りの言葉を発しているわけです。「いつまで」と問うということは、神の憤りによる裁きの時間が長く続いているということです。

 こうした背景には、やはりバビロン捕囚の苦しみがあるということなのでしょう。だから、第3巻最後の89編に続く、第4巻の初めに、90編の詩が置かれることになったのでしょう。

 表題には、「神の人モーセの詩」とあります。「モーセの詩」と呼ばれるのは、90編だけです。明らかに時代状況が違いますが、神の人モーセがイスラエルの民のために、繰り返し執り成しの祈りをささげていたことを思い出します。そして、モーセが同胞を救い出すために、神に召されてエジプトに遣わされたのは、80歳のときでした(出エジプト記7章7節)。

 ファラオの娘に拾われ、王宮で育てられたモーセは(同2章1節以下、10節)、成人して同胞が重労働に服し、エジプト人に苦しめられているのを見て血気に逸り、そのエジプト人を打ち殺しました(同2章11節以下)。

 その後、モーセはエジプトからミディアンの地に逃れ(同2章15節)、そこでミディアンの祭司レウエルの娘ツィポラと結婚し、羊の群れを飼う者となりました(同2章21節、3章1節)。何十年もの間、エジプトで奴隷をしている同胞のことを思いながら、荒れ野で羊を飼っていたモーセの思いを、この詩に重ね合わせたということでしょうか。

 神は、モーセを遣わしてイスラエルの民をエジプトから救い出されたように、ペルシアの王キュロスによって、バビロンからも救い出してくださいました(歴代誌下36章22節以下、エズラ記1章1節以下)。彼らに、喜びの歌を歌わせられたのです(14,15節)。

 詩人は、冒頭の言葉(12節)のとおり、「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」と求めています。「生涯の日を正しく数える」とは、人間の命が有限のものであること、それを定められたのが神であられること、即ち、人間は神の被造物であるということを示しています。

 また、「知恵ある心」とは、箴言1章7節に「主を畏れることは知恵の初め」とあるように、「主を畏れる心」ということが出来ます。つまり、神に造られたものとして、神を畏れ、謙虚に神に聴き従う心を求めているのです。

 確かに私たちは有限の存在です。一回限りの人生、私たちを創造し、慈しみの御手で守り導いて下さる主を信じ、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝して歩みましょう。そして、やがて召される日、「ハレルヤ!主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」(1節)と賛美しつつ、天に携え上げられたいと思います。

 主よ、あなたは代々に私たちの宿るところ。山々が生まれる前から、大地が、人の世が生み出される前から、世々とこしえにあなたは神であられます。私たちに主を畏れ、その御言葉に聴き従う従順な心をお与えください。あなたの僕らが御業を仰ぎ、子らもあなたの威光を仰ぐことが出来ますように。 アーメン

1月30日(水) 詩編89編

「しかしあなたは、御自ら油を注がれた人に対して、激しく怒り、彼を退け、見捨て、あなたの僕への契約を破棄し、彼の王冠を地になげうって汚し、彼の防壁をことごとく破り、砦をすべて廃墟とされた。」 詩編89編39~41節

 表題(1節)の「エズラ人エタン」について、列王記上5章11節(口語訳・新改訳は4章31節)にはソロモンの時の知恵者たちの中にその名が挙げられています。また、歴代誌上15章17,19節には、ダビデが神の箱をエルサレムに運び上げる際に、楽器を奏で、声を張り上げて喜び祝うために立てた詠唱者の中に、エタンの名が記されています。

 89編には、38節と39節の間に、簡単に渡ることが出来ない深い淵があります。前半(2~38節)には、ダビデとの契約を結ばれた主への賛美、後半(39~52節)には、ダビデの子孫にもたらされた苦難による嘆きが記されています。このことで、詩編の編者が、二つの詩を一つにまとめたものではないかと解釈する学者もいます。

 その真偽は不明ですが、50節の「主よ、真実をもってダビデに誓われた、あなたの初めからの慈しみは、どこに行ってしまったのでしょうか」という言葉で、かつて真実をもってダビデとの永遠の契約を結ばれた神が、その契約を破棄して、エルサレムの都を廃墟のままにしておられるのはなぜか、あの慈しみ深き神はどこへ行ってしまわれたのかと問う構成になっているのです。

 そうであれば、4,5節でダビデとの契約について語った後で、6節以下に天上の神々の会議について語る必要はないように思われます。そこでは、イスラエルの主が神々の中の神、王の王、主の主であられることが讃えられ(7,8節)、それが、9節以下の主の御業によって確証されています。

 主は、混沌の海の支配者ラハブを砕き(10,11節、ヨブ記26章12節、イザヤ書51章9節)、天地に秩序をもたらされました。天地創造の御業は、無から有を生じさせ、混沌に秩序を与えることだったわけです(創世記1章1節以下,ローマ書4章17節)。

 このように述べることで、20節以下にも語られるダビデとの永遠の契約、ダビデの子孫をとこしえに立て、王座を代々に備えるという約束は(5,30節)、天上における主なる神の王権(7~9,19節)に基礎づけられたものであることを示しているわけです。

 紀元前597年、バビロン帝国の王ネブカドネツァルがエルサレムを包囲し、南ユダの若い(18歳!)王ヨヤキンは捕囚の身となり(列王記下24章8節以下、12,15節)、以来37年、獄につながれていました(同25章27節:第一次バビロン捕囚)。

 ヨヤキンに代えて王とされたゼデキヤは(同24章17節)、エジプトに援軍を頼み、バビロンに反旗を翻しましたが、返り討ちに遭って子らは殺され、ゼデキヤは両目をつぶされて足枷をはめられ、連行されました(同24章18節以下、25章6,7節)。都に残っていた民らも捕囚とされました(同11節:第二次バビロン捕囚、紀元前587年)。

 そのとき、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、主の神殿や王宮、エルサレムのすべての家屋を焼き払いました(同9節)。また、カルデア人によって、エルサレムの周囲の城壁が取り壊されました(同10節)。かくて、神の都と呼ばれたエルサレムが(48編2,9節、ヘブライ書12章22節など)、廃墟とされたのです。

 そういう事態に陥ったのは、ダビデの子孫が主の目に悪とされることをことごとく行ったからであり、それゆえ、ユダは主の怒りによって、ついにその御前から捨て去られることになったのです(列王記下24章19,20節)。

 しかし、イスラエルの歴史はそれで終わりにはなりませんでした。列王記下25章27,28節に「ユダの王ヨヤキンが捕囚となって37年目の第12の月の27日に、バビロンの王エビル・メロダクは、その即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ、彼を出獄させた。バビロンの王は彼を手厚くもてなし、バビロンで共にいた王たちの中で彼に最も高い位を与えた」と、驚くべきことが記されます。

 さらに「ヨヤキンは獄中の衣を脱ぎ、生きている間、毎日欠かさず王と食事を共にすることとなった。彼は生きている間、毎日、日々の糧を常に王から支給された」(同29,30節)と記して、列王記は閉じられました。なにゆえ、ヨヤキンは牢から出され、他の王たちに勝る高い位を与えられ、毎日、王と共に食事をすることが出来るようになったのでしょうか。

 詩人はこの日を見ることが出来なかったのでしょうが、ここに、神の真実があります。神がイスラエルのために立てられた計画は、平和の計画であって、災いの計画ではなかったのです。その計画に基づき、将来と希望が与えられたのです(エレミヤ書29章11節)。

 そしてまた、冒頭の「あなたは、御自ら油を注がれた人に対して激しく怒り、彼を退け、見捨て、あなたの僕への契約をはきし、彼の王冠を地になげうって汚し」(39,40節)という言葉に、ダビデの子イエス・キリストの十字架の苦しみを見ることが出来ます。

 「油を注がれた人」は、メシア=キリストという言葉です。そして、主イエスこそ、イザヤ書53章に預言されている「苦難の僕」です。ダビデの子キリスト・イエスの苦しみのゆえに私たちは癒され、十字架の贖いのゆえに罪赦され(第一ペトロ書2章24節)、神の子として天の御国の食卓に共に着くことが出来るようになったのです(マタイ26章29節、黙示録3章20節参照)。

 詩人は、神の契約はなぜ捨てられたのか、神の真実はどこにあるのかと訴えましたが、神は旧い契約に変えて、イエス・キリストの血による新しい契約を、すべての民のために備えてくださいました(第一コリント書11章25節、ヘブライ書8,9章)。

 53節は、第三巻(73~89編)の終わりに、編集者が付加したものです。苦難の僕たるメシア=キリストを予表しているようなこの詩ですが、理屈抜きに「主をたたえよ、とこしえに。アーメン、アーメン」(53節)と、主(ヤハウェ)をほめ讃えているかたちです。さながら、ヘンデル作曲「メサイア」の「ハレルヤコーラス」、「アーメンコーラス」のようです。

 「正しい裁き(ツェデク・ヴ・ミシュパート:正義と公正)」を基とし、「慈しみとまこと(ヘセド・ヴェ・エメト)」の支配が広がるよう(15節)、私たちの歴史に御子キリストと聖霊を通して働きかけておられる主に信頼し、日々み言葉に耳を傾けながら喜びと感謝をもって歩みましょう。

 主よ、あなたの慈しみをとこしえに歌います。あなたの真実と慈しみが私たちと共にあり、御名によって私たちは高く上げられます。変えられることのない御言葉を堅く握り、主の真実に信頼して、日々歩ませてください。キリストにある平和がわが日本に、就中苦しみ痛みの中にある方々にありますように。 アーメン



静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に1月27日(日)主日礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。


御覧ください。




1月29日(火) 詩編88編

「主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向かいます。」 詩編88編14節

 88編は、重い病などの苦しみから、神に救いを求める「祈りの詩」です。

 ここには、神に対する信頼の言葉や賛美の言葉など、全く記されていません。4節に「わたしの魂は苦難を味わい尽くし、命は陰府にのぞんでいます」とあるように、まさに死に直面して、嘆き苦しんでいたのです。そこで、ただ一つの願い、この祈りが神に聞き届けられることを求めて続けているわけです(2,3節)。

 6節には「汚れた者と見なされ、死人のうちに放たれて、墓に横たわる者となりました」とあり、詩人は、死に直面させる病いなどの苦しみがある上に、その病のゆえに神の前に汚れた者、神に捨てられた者と見なされます。そのために、家族や知人との交わりから隔離され、生きながら死者の中に住まいする者とされていることが、詩人を一層苦しめています。

  16節に「わたしは若いときから苦しんできました。今は、死を待ちます。あなたの怒りを身に負い、絶えようとしています」と記されています。若い頃なら、将来に期待して耐えることも出来たでしょう。周りの家族や友人も様々に慰め、励ましてくれたことでしょう。しかし、長い年月が過ぎ去り、もはや若くはありません。希望もなくなり、死を待つばかりとなりました。

 19節の「愛する者も友も、あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです」という言葉は、愛する者や友が詩人に愛想をつかしたというようなことなのでしょうか。それとも、「汚れた者と見なされ」(6節)たことによって、彼らが詩人に近づくことが出来なくなったということなのでしょうか。

 あるいはまた、愛する者や友も年老いたとか、あるいは病を得たとかで、詩人を支えることが出来なくなったということなのでしょうか。色々と想像しますが、いずれにせよ、彼の孤独な状況を思うと、身につまされるものがあります。

 詩人のような苦悩の中にいる人々に対して、何をどのように語れば、慰めとなり、励ましとなるでしょうか。うずくまっている人を立ち上がらせるのは、容易なことではありません。私たちには、人を慰める言葉も力もないことを、あらためて思い知らされますし、自分がこの詩人であったらと思うと、やりきれないような思いにされます。

 しかしながら、一つ思うことは、この詩人は神の御前に諦めてはいないということです。「昼は、助けを求めて叫び、夜も、御前におります」(2節)と語り、そして冒頭の言葉(14節)のとおり、「主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向かいます」と言っているからです。

 「今、わたしに親しいのは暗闇だけです」(19節)と語る詩人にも、朝の光が差し込んでいます。昼、助けを求めて叫び、御前に眠れない思いで夜を過ごした詩人が、朝の光の中で身仕舞を整え、姿勢を正して神に祈っています。

 彼を取り巻く現実は、少しも変わっていないかも知れません。詩人が神の前に祈る言葉は、昨日も今日も同じかも知れません。けれども、ことある毎に神の御前に座り、訴え叫ぶ詩人の祈りの姿勢の中に、その祈りを聞いておられる神の御顔を見るように思います。

 そして、神が詩人にそのように祈らせておられるのではないかと思えます。詩人は、ほかの誰でもない神ご自身によって、その祈りに導かれ、そこに力を得て昼叫び、夜深く神を思い、朝を迎えて再び神に祈るのです。

 ベトザタの池の傍らで、38年間という長患いの男に、「良くなりたいか」(ヨハネ福音書5章6節)と主イエスが声をかけられたとき、その男は「はい」とも「いいえ」とも答えませんでした。そのとき彼は「わたしを池に入れてくれる人がいないのです」(同7節)と答えたのです。

 長患いの男にとって、病も苦しいものだったとは思いますが、それ以上に、「愛する者も友も、あなたはわたしから遠ざけてしまわれました」(19節)と語る詩人と同様、助ける者のない孤独な状況が、彼を苦しめていたわけです。それは、病気が治ったところで解消しない苦しみだったのです。

 しかし、主イエスに対して、このやり取りができたとき、彼の心には明るい光が差し込んでいたのではないでしょうか。彼に関心を寄せて、「良くなりたいか」と声をかけてくださる方が現れたからです。そのお方に、神の愛を見ることが出来たのです。

 詩人を祈りに導かれた主なる神は、病む者たちの中にいて長い間孤独に苦しんでいたこの男の口を開かせられました。朝ごとに主の御前に向かい、祈りをささげましょう。その御声に耳を傾け、御旨に従って歩ませていただきましょう。 

 主よ、私たちは自分で自分を救うことが出来ません。あなたを信じることが出来ること、あなたに祈りをささげることが出来ることは、本当に幸いです。どんな時にも、主に信頼して祈りをささげるように導いてくださいます。主の愛の光を受けて、朝ごとに新しく、主を仰がせてください。御声を聴かせてください。御名が崇められますように。 アーメン



1月28日(月) 詩編87編

「歌う者も踊る者も共に言う、『わたしの源はすべてあなたの中にある』と。」 詩編87編7節

 87編は、神の都シオンについての歌です。冒頭の言葉(7節)から、この詩は礼拝で用いられていたようです。というのは、シオンにやって来た巡礼者たちが歓喜の内に歌い踊り、シオンを讃える様子が示されているからです。

 「聖なる山に基を置き、主がヤコブのすべての住まいにまさって愛されるシオンの城門よ」(1,2節)とは、エルサレムの都の城門に呼びかける言葉です。「城門」は複数形で、エルサレムの町を指します(9編15節参照)。つまり、次節冒頭の「神の都よ」と同じ意味ということです。

 「聖なる山」とは、神がお選びになった山ということです。シオンはエブス人の住む町でしたが、ダビデがここを陥れ、城壁を築き、「ダビデの町」としました(サムエル記下5章6節以下、7,9節)。にもかかわらず、都をシオンに据えられたのは主なる神だと言っているのです。

 神の都の栄光について人々は語ると記した後(3節)、4節以下に一人称で語られた言葉が記されていますが、それは、人々が神の都の栄光について語った言葉ではありません。むしろ、神の都の栄光について語る人々に対して、神ご自身が語られた言葉と考える方がよいかも知れません。

 そこに、いくつかの地名が挙げられています。まず、「ラハブ」は、89編11節、ヨブ記26章12節、イザヤ書51章9節などでは、海の龍のような悪しき存在を思わせますが、イザヤ書30章7節に「エジプトの助けは空しくはかない。それゆえ、わたしはこれを『つながれたラハブ』と呼ぶ」とあり、エジプトのことをラハブと呼んでいることが分かります。

 次いで「バビロン」は南ユダ王国を滅ぼし、その民を捕囚とした敵ですが、アッシリア、ペルシアなど、イスラエルを支配したメソポタミアの強国の代表としてここに呼び出されたのでしょう。

 「わたしを知る者」とはイスラエルのことですから、「エジプトとバビロンの名を、イスラエルの名と共に挙げよう」と言っていることになります。ダビデ王朝時代、イスラエルは南はエジプト、北はメソポタミア諸国によって絶えず苦しめられて来たのです。それがここで、イスラエルと共に名を挙げると言われるのです。

 それから、「ペリシテ」は地中海沿いのイスラエルの隣国で、イスラエルの民がカナンの地にやって来て以来、度々苦しめられました。続く「ティルス」は、北隣のフェニキヤの町です。また、「クシュ」はエチオピアのことで、当時、南の地の果てのように考えられていたそうです。

 隣国のペリシテやティルス、地の果てのクシュが「この都で生まれた、と書こう」と言われています。つまり、それらの国民はエルサレム生まれと記されるというのです。「ペリシテ、ティルス、クシュをも」と言われていますので、「ラハブとバビロンをも」ということが前提になります。

 ですから、「いと高き神御自身がこれを固く定められる。主は諸国の民を数え、書き記される、この都で生まれた者、と」(5,6節)と記されているわけです。しかしながら、どうして、諸国の民がエルサレムの都で生まれた、と言われるのでしょうか。

 それは、神が諸国の民を御自分の都に招きたい、神を知るイスラエルの民にように、神を知る者にしたいとお考えになっているわけです。そして、彼らがエルサレムにやってきたとき、神によって新しく生まれたエルサレム生まれとして登録してくださるのです。

 それについてガラテヤ書3章26~28節に「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分のものもなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」とあります。

 パウロは、キリストの贖いのゆえにあらゆる隔ての壁が取り除かれ(エフェソ2章14節以下)、一つとされたのだと語ります。それは、パウロがバルナバと共に宣教旅行に赴いて(使徒言行録13章1節以下)、異邦人にも信仰の門が開かれたのを見る(同14章27節など)などして得た確信でしょう。そして、詩人は知らずして、ここに、このキリストの贖いを預言しているわけです。

 あらためて、冒頭の言葉(7節)に、シオンにやって来た巡礼者たちが、喜びをもって歌い踊り、「わたしの源はすべてあなたの中にある」と語るとあります。「源」は「泉、井戸」(アイン)という言葉です。巡礼者たちにとって、シオンが命の泉、喜びや幸いの源だというのです。

 主イエスは、主イエスを信じる人に与えられる恵みを、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4章14節)と言われました。

 そして、「この山(ゲリジム)でもエルサレムでもないところで、父を礼拝するときが来る」(同21節)、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝するときが来る。今がその時である」(同23節)と言われているのも、主イエスとの交わりに入り、その水を飲むことだと示されます。

 主イエスという同じ井戸から命の水を飲ませて頂いたお互いが、歌をもて、踊りをもて、神に喜び感謝するいうことです。主から命の水を飲ませて頂いた人、主の招きに従った人々は、それを本当に知ることが出来るのです。

 渇く思いで主を慕い求め、この喜び、恵みを味わせて頂きましょう(ヨハネ7章37,38節参照)。

 主よ、あなたは私がまだ弱かったとき、罪人であったとき、敵であったときに、私たちのために死んで、贖いの業を成し遂げてくださいました。それによって永遠の都に国籍を持つ者として頂きました。絶えず主を仰ぎ、すべての人と相和し、赦し合い、愛し合い、助け合って歩むことが出来ますように。 アーメン




1月27日(日) 詩編86編

「主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください。」 詩編86編11節

 86編は、神に苦難からの救いを求める「祈りの詩」です。

 表題に「祈り、ダビデの詩」とありますが、原文には「詩」(ミズモール)という言葉はありません。つまり、「祈り、ダビデの」(テフィラー・レ・ダビード)と記されているのです。

  第2巻(42~72編)の最後、72編20節に「エッサイの子ダビデの祈りの終り」と記されていましたが、第3巻(73~89編)で、「アサフの詩」(73~83編)に続く「コラの子の詩」(84~88編)の中に、「ダビデの祈り」の詩が一つぽつんと置かれるかたちになり、異彩を放っています。

 詩人の「わたし」(1節以下)が主なる神を「あなた」(2節)と呼んで、一対一の談判を行っています。ここに、詩人が救いを求めているのは、14節に「傲慢な者がわたしに逆らって立ち、暴虐な者の一党がわたしの命を求めています」とあるように、彼を苦しめる敵の存在があるのです。

 1節に「わたしは貧しく、身を屈めています」とありますが、これは40編18節、70編6節にも出て来ました。35章10節では「貧しく乏しい人」と訳されています。「身を屈める」というのは「貧窮している」(エブヨーン)という言葉で、類義語を並べて、苦しめる敵を前に、自分で自分を守るすべがないこと、それゆえに一切を主の御手に委ねるという表現です。

 だから2節に「わたしの魂をお守りください。わたしはあなたの慈しみに生きる者。あなたの僕をお救いください。あなたはわたしの神、わたしはあなたに依り頼む者」と祈り求めているわけです。ここで、「僕」(エベド)は、主人に仕える奴隷です。

 「主よ」という呼びかけの内、3,4,5,8,9,12,15節は、「主人」という意味の「アドーン」に、「わたしの」という意味の接尾辞が付けられていて、「わたしの主よ」と訳すことも出来ます。「あなたの僕」に対応するかたちで、7度「わたしのご主人様」と呼びかけているということです。それ以外は、「ヤハウェ」を「主」と訳しています(1,6,11,17節)。

 詩人は、この祈りを主なる神が聞いてくださると信じています(5,7節)。それは、主が恵み深く、豊かな慈しみをお与えになる方だからです(5,15節)。そして、主のほかに神はおられないのです(8,10節)。

 詩人が主の豊かな恵みと慈しみとに目を留めたとき、自分の信仰の有様を省みました。そこで、冒頭の言葉(11節)のとおり、「主よ、あなたの道を教えてください。わたしはあなたのまことの中を歩みます」と言います。

 ここで「まこと」は「エメト(真理、真実、忠実さ、堅固の意)」という言葉です。「あなたのエメトの中を歩きます」とは、あなたの真実な道を歩きますということで、あなたの真実に応えて誠実に、忠実に歩きますという意味といってよいでしょう。

 そのために、「一筋の心をわたしにお与えください」と求めます。直訳は「わたしの心を一つにしてください」となります。あれこれと千々に乱れている心を一つに結合してくださいという意味と取るのが一番スムーズだと思います。

 新共同訳の訳を生かして、「あなた一筋の心にしてください」といってもよいでしょう。岩波訳は「わが心を集中させてください。あなたの名を畏れることに」、聖書協会共同訳(2018年版)は「私の思いを一つにし、あなたの名を畏れる者にしてください」と訳しています。

 主なる神の真実、その慈しみは計り知れません。というのは、深い陰府から詩人の魂が救い出されたのです(13節)。死の淵から神に引き上げられ、癒され、救われたということでしょう。

 そういう経験をしながらも、なお様々な出来事、特に自分を苦しめる事態に遭遇すると、主に信頼し切ることが出来ず、思い煩ってしまうのです。そして自分を支える様々な助けが欲しくなり、あちらこちらを見回している自分を見出すのです。そうすると、「深い陰府」とは、必ずしも死の淵などではなく、不信仰な私たちの心の有様を表しているとも考えられます。

 それにも拘らず、主なる神の慈しみに圧倒された、満たされたということでしょう。それは、決して詩人の努力のゆえなどではなく、まさに主の深い憐れみだったのです。だから、「主よ、わたしの神よ、心を尽くしてあなたに感謝をささげ、とこしえに御名を尊びます」(12節)というのです。

 そう考えれば、14節の「傲慢な者」、「暴虐な者の一党」は、敵を指すだけでなく、自分の心の深みにあるものとも思えます。私たちの心が傲慢になり、また荒れすさむ時、神を前に置いていない状態になります。自分で自分の前に主を置いたなどと考えると、すぐにそこに傲慢な思いが首をもたげてきます。

 私が目の前に主なる神を見ることが出来るのは、主が私を憐れみ、ご自身の御顔を私に向けてくださっているから、そして、主の方から近づいてくださったからです。私が不真実なときでも、主は絶えず真実です(ローマ書3章3,4節)。この主の真実に答える誠実さとは、主を信頼する信仰が心に満ちているということです。

 絶えず主を畏れ敬うことが出来るように、主一筋の心にしていただきましょう。

 主よ、あなたの道を教えてください。私たちはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことが出来ますように、主を一筋に求め、信頼する心を私たちにお与えください。絶えず御名を崇め、心を尽くして感謝をささげることが出来ますように。 アーメン





1月27日(日)主日礼拝説教

1月27日(日)の主日礼拝には、教会員13名、来賓16名(初来会者2名、こども1名を含む)がお見えになりました。感謝です。


主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「インマヌエル」
聖書 ルカ福音書17章20~37節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会


ご覧ください。





1月27日(日)主日礼拝案内

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1月27日(日)は、教会学校小学科(小学生)、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
教会学校は、「聖書教育」誌にもとづいて、新約聖書・ルカ福音書から、共に聖書の学びと交わりを行います。


主日礼拝を10時半から行います。

礼拝では、ルカ福音書17章20~37節より、「インマヌエル」と題して、原田牧師より説教をいただきます。

写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。

キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


礼拝後、信徒会を行います。

お昼の用意はありません。




1月26日(土) 詩編85編

「わたしは神が宣言されるのを聞きます。主は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に、彼らが愚かな振る舞いに戻らないように。」 詩編85編9節

 85編は、神に救いを求める「祈りの詩」です。

 2節に「主よ、あなたは御自分の地をお望みになり、ヤコブの捕らわれ人を連れ帰ってくださいました」と言います。ここで、カナンの地を「御自分の地」(アルツェハー:直訳「あなたの地」)というのは、サムエル記下7章23節とここだけに出る珍しい表現です。

 勿論、すべては神の被造物であり、主なる神こそ天地万物の真の所有者です。ここで「御自分の地をお望みになり」というのは、イスラエルに再び嗣業の地を与えることを望まれたという表現でしょう。

 イスラエルが捕囚の地から戻ることが出来たのは、ただ主の憐れみのゆえでした。3節の「御自分の民の罪を赦し、彼らの咎をすべて覆ってくださいました」という言葉が、それを示しています。

 背きの罪で神の怒りを買い(列王記下17章、同24章20節)、紀元前587年にエルサレムの都がバビロン軍の手に落ち、ゼデキヤ王をはじめ多くの民が捕囚とされたとき(同15章1節以下)、再びエルサレムに戻る日が来るとはとても思えなかったでしょう。しかし、50年後(紀元前538年)、それが現実となったのです。

 ただ、エルサレムに戻って来れば、以前のような生活が直ぐに営めるようになったということではありません。ペルシア王キュロスによってバビロンから解放され、エルサレムに戻ることが出来たものの、町は破壊され、城壁も崩れたままでした(ネヘミヤ記1章3節)。

 神殿再建、城壁再建を妨害する敵が、国の内外に存在していました(エズラ記4章、ネヘミヤ記3章33節以下、6章)。旱魃による飢饉にも見舞われました(ネヘミヤ記5章3節)。その上、課せられた重税によって打ちのめされました(同4節)。

 エズラの帰還は紀元前458年、ネヘミヤは紀元前445年とされていますが、多くの旧約学者がエズラの帰還を、ネヘミヤよりも遅い紀元前398年と考えています。いずれにせよ、バビロンからエルサレムに戻って来て100年経っても、帰還民の生活は上述のような有様だったのです。

 4節に「怒りをことごとく取り去り、激しい憤りを静められました」と語られているのに、続く5節で「わたしたちの救いの神よ、わたしたちのもとにお帰りください。わたしたちのための苦悩を静めてください」と祈り、6節には「あなたはとこしえにわたしたちを怒り、その怒りを代々に及ぼされるのですか」と尋ねる言葉が記されています。

 上記のような事態の中で、エルサレムにおける生活について、私たちをここで苦しませるために連れて来たのか、神はいつまでお怒りになるのか、こんなことならバビロンにいる方がましだったという嘆きや不満の声が上がるのは、想像に難くないところです(出エジプト記14章11,12節、16章3節、民数記11章、14章1~4節など参照)。

 しかし、そこに神を畏れ、その御声を聞く人々がいました。冒頭の言葉(9節)にあるように、彼らは主が「平和(シャローム)」を宣言される声を聞いています。「平和」を「救い、幸福」と訳してもよいでしょう。神の御声を聞いている人々は、自分の置かれている環境は、厳しいものがあっても、しかしそこに神の救い、幸福を見ることが出来たのです。

 「主を畏れる人に救いは近く、栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう」(10節)と言い、さらに、「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます。主は必ず良いものをお与えになり、わたしたちの地は実りをもたらします」(11~13節)と語ります。

 9節以下の段落の動詞は殆ど未完了形なので、未来に成就されるものとして未来形のように訳されます。ただ11節の「出会う」(パーガシュ)、「口づけする」(ナーシャク)、12節の「注がれる」(シャーカフ:「見下ろす」という語)は完了形です。「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし」たことにより、この地に平和が実現すると信じるといった表現です。

 主を畏れる詩人は、主なる神のうちに、「慈しみ(ヘセド)」と「まこと(エメト)」が一つとなっていること、その恵みが私たちに「正義(ツェデク)」と「平和(シャローム)」として与えられたことを知りました。

 つまり、神が慈しみとまことをもって私たちとの関係を正しくし、正しい秩序をもたらしてくださること、そこに神の平和、平安が支配するということを、信仰によって受け止めているのです。それが、詩人を始め、イスラエルの人々が依って立つところ、主に助けを祈り求める根拠でした。

 「主の慈しみに生きる人々」(ハーシード)は、口語訳、新改訳で「聖徒(たち)」、岩波訳では「彼に忠実な者たち」、聖書協会共同訳(2018年版)でも「忠実な人たち」と訳されています。主に選ばれた「聖徒」とは、主の召しに忠実な者であり、それゆえ主の慈しみに生きる者とされると考えることが出来ます。

 2節にいう、主がお望みになる「御自分の地」とは、そのように主を畏れ、主の御言葉を聴き従う人々が住む地であり、そこで私たちが正義と平和の恵みに与るようにと、私たちを招いてくださっているのです。

 招きに応え、主を畏れ、日々主の御言葉に耳を傾けましょう。そこで主の慈しみとまことに触れ、正義と平和に与りましょう。  

 主よ、御子キリストの贖いにより、私たちの罪を赦し、すべての咎を覆ってくださいました。御前に謙り、御声に聴き従います。今、苦しみの中にある多くの人々に、必ずよいものをお与えくださり、私たちの嗣業の地は豊かな実りをもたらすことを信じます。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン



1月25日(金) 詩編84編

「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。」 詩編84編7節

 84編は、万軍の主の神殿での礼拝を慕い求める詩人の「神をたたえる歌」です。

 表題に「コラの子の詩」とありますが、コラはレビ族のケハト家に属し、モーセやアロンの従兄弟にあたります(出エジプト記6章18節以下、21節参照)。ダビデに神殿の詠唱者として選ばれたヘマンは、コラの子孫です(歴代誌上6章18節以下、22節)。詩編の中で42~49,84,85,87,88編が「コラの子の詩」とされています。

 「万軍の主」(2,4,9,13節)と4度呼ばれる主なる神の神殿は、シオンの山に建てられています(8節)。そこで、主を慕い求める人は、巡礼をいたします。「祭壇に、鳥は住みかを作り」(4節)と、主にまみえる場所がいかに望ましい場所であるかということを語ります。

 5,6節に「いかに幸いなことでしょう」(アシュレイ)という言葉を重ねて、神の宮における礼拝に与る者と(5節)、神を慕って巡礼の旅に出る者(6節以下)を讃えています。そして、詩の最後にそれをまとめて、「万軍の主よ、あなたに依り頼む人は、いかに幸いなことでしょう」と、三度目のアシュレイを語ります。

 冒頭の言葉(7節)で「嘆きの谷」(新改訳「涙の谷」)というところを、口語訳では「バカの谷」と訳しています。実は、「嘆き」と訳されているのが「バカ(bk’)」という言葉で、それを口語訳は固有名詞と考えたのです。英語訳のKJV、RSVなども「バカの谷(valley of Baca)」としています。

 ところが、「バカ」は「嘆き、涙」という意味の言葉ではありません。これは「バルサムの木」のことです。その幹からミルクのような樹液が出、それは乳香として用いられます。バルサムの木は、乾燥した高地によく生息しているそうです。

 サムエル記下5章23節に「バルサムの茂み」(ベカイーム)という言葉があり、レファイムの谷に陣取ったペリシテ軍を迎え撃つため、ダビデの軍勢はその茂みに身を隠して、待ち伏せ攻撃をしました(同24節)。その場所は、エルサレムの南にあるヒンノムの谷の北部の谷のあたりであろうと想定されています。

 それが「嘆きの谷」と言われるのは、70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)の「涙」(クラウスモーン:weeping)という訳を参考にしたからでしょう。「涙、嘆き」は、ヘブライ語で「ベケー(bkh)」といい、「バカ(bk’)」によく似ているということもあります。

 ヒンノムの谷は、今日アラビア語でワーディ・エル・ラバビと言われます。ワーディは、雨が降ったときだけ水が流れ、いつもは川の水が全く流れていない涸れた川です。巡礼の旅人が水を求めて谷底に降りても、水が得られません。まさに、旅人を嘆かせる嘆きの谷なのです。

 しかし、一旦雨が降れば、そこに水が流れ、さまざまな命が芽吹きます。嘆きの谷が泉となるのは、恵みの雨が降ったからです。長旅の渇きも、泉の水で癒されます。人生の旅路において、様々な嘆きの谷を通過した人々が、神の宮にやって来て主の恵みに触れたとき、喜びが泉となって内から湧き上がります。

 「いよいよ力を増して進み」(8節)とは、神の宮で新しい恵みを受けた旅人が、家を出たときよりも元気になった、益々強くなったというような表現です。ところが原文は、「力から力へと進み」(メーハイル・エルハーイル:口語訳、新改訳、岩波訳参照)という言葉です。自分の力ではなく、神よりの新しい力をうけてという意味でしょう。

 7節後半の「雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう」という言葉や、8節後半の「ついに、シオンで神に見えるでしょう」という言葉などから、その力とは、単に体力や気力というのではなく、新約の時代において、あのペンテコステに降り注いだ聖霊によって与えられる「力」(使徒言行録1章8節、2章1節以下)を指しているように思われます。

 イザヤ書40章31節に「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」という預言があります。鷲は、自分で羽ばたいて空高く上っていくのではありません。翼を大きく張り広げ、上昇気流に乗って舞い上がるのです。

 ヘブライ語で風と霊は同じ言葉(ルーアッハ)ですから、鷲を高く舞い上がらせる風の力という表現で、主に望みを置く人が得る新しい力とは、霊の力であるということを示しています。また、出エジプト記19章4節に、「あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れてきた」という言葉があり、神の助けを「鷲の翼」と表現しています。

 そのことから、イザヤの預言は、バビロンに連れて行かれた捕囚民に与えられた、エルサレムに帰ることが出来るという約束の言葉とみることが出来ます。神の助けなしに、バビロンから自由になれるとは考えられません。だからこそ、主を待ち望むのです。

 主イエスが仮庵祭の大切な日に立ち上がって、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ福音書7章37,38節)と言われましたが、これも同様です。

 というのは、湧き上がり、流れ出した生きた水の川(複数形:rivers)について、「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている御霊について言われたのである」と説明されているからです(同39節)。

 どんなときにも、私たちの内に、私たちと共にいてくださる聖霊なる神に満たされてその恵みと力に与り、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌を歌いましょう。

 主よ、弱く貧しい私たちを顧み、絶えず新しい恵みに与らせてくださることを、心から感謝します。涙の谷を通ることがあっても、そこを恵みの雨に与る場所としてくださる主を仰ぎます。キリストの言葉を心に豊かに宿らせ、御霊に満たされて、心から御名をほめ讃えさせてください。主の御名は賞むべきかな。 アーメン



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