風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2018年12月

12月31日(月) 詩編59編

「口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠に、自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に、彼らが捕らえられますように。」 詩編59編13節

 59編は、神の救いを願う個人の祈りの詩です。

 「わたしの神よ、わたしを敵から助け出し、立ち向かう者からはるかに高く置いてください」(2節)と、祈り求めています。詩人は、「流血の罪を犯す者(たち)」(アヌシェーイ・ダーミーム、殺人者ということ、3節)、「力ある者(たち)」(アジーム、4節)という強力な敵にその命を狙われています。

 8節に「彼らの口は剣を吐きます」といい、「剣」は人を殺す道具なので、裁判の際の偽証や呪いの言葉など(13節も参照)、5編10節の「舌は滑らかで、喉は開いた墓」と同様、敵は人を滅ぼすために言葉を用いるのです。

 しかし、詩人には、敵から狙われる理由が分かっていません。「罪もなく過ちもなく、悪事をはたらいたこともない」(4,5節)からです。

 そこで、彼らを罰してくださるように、容赦されないようにと願い(6節)、さらに、冒頭の言葉(13節)のとおり、彼らの設けた言葉の罠、呪いや偽りに、自ら捕らえられ、神の怒りによって根絶やしにされるようにと求めます(14節)。

 詩人は、神への信頼の言葉を「わたしの力よ、あなたを見張って待ちます。まことに神はわたしの砦の塔。神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。わたしを陥れようとする者を、神はわたしに支配させてくださいます」(10,11節)と言い表します。

 そして「わたいは御力をたたえて歌をささげ、朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。あなたはわたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場。わたしの力と頼む神よ、あなたにほめ歌をうたいます。神はわたしの砦の塔。慈しみ深いわたしの神よ」(17,18節)という賛美でこの詩を締めくくります。

 表題に「サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき」(1節)とあります。これは、サムエル記上19章11,12節の記事を指すもののようです。

 ただ、「力ある者がわたしの命を狙った待ち伏せし」(4節)というのは、確かにその状況といってもよいでしょうけれども、ダビデが義父サウルを、生涯「敵」と呼び、「悪を行う者」と呼んだことがあるとは思えません。

 また、6節の「あなたは主、万軍の神、イスラエルの神。目を覚まし、国々を罰してください」という言葉や、12節の「御力が彼らを動揺させ屈服させることを、わたしの民が忘れることのないように」という言葉から、イスラエルの王が民を代表して救いを祈っているように見えます。

 むしろこれは、アッシリア帝国が南ユダ王国に攻め込んできたときの様子を思わせます(列王記下18章13節以下)。ユダの町がことごとく占領されて、ヒゼキヤ王はアッシリアに金銀の貢物を贈り、和睦を計りましたが、アッシリアは大軍を差し向けてエルサレムを包囲し、無条件降伏を要求します。

 その際、「ヒゼキヤはお前たちに、主が必ず我々を救い出してくださる。決してこの都がアッシリアの王の手に渡されることはない、と言って、主に依り頼ませようとするが、そうさせてはならない」、「国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国をわたしの手から救い出したか。それでも主はエルサレムをわたしの手から救い出すと言うのか」と言って、ヒゼキヤに背き、主に背かせようとしました。

 8節で「彼らの口は剣を吐きます。その唇の言葉を誰が聞くに堪えるでしょう」と言い、13節でも「口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠」、「自分の唱える呪いや欺く言葉の罠」と語っているのは、まさにアッシリアの将軍ラブ・シャケの語った言葉のことではないでしょうか。

 圧倒的な敵の前に、抵抗する術のないユダの王ヒゼキヤは、主に頼り祈るほかありません。そして主は、その祈りに答えられました。

 預言者イザヤを通して、「アッシリアの王がこの都に入場することはない。わたしはこの都を守り抜いて救う」と約束されました(列王記下19章20節以下、32,34節)。そして、主の御使いがアッシリアの陣営を撃ったので、18万5千の大軍が滅ぼされて、王は自国に逃げ帰り(同35,36節)、エルサレムは守られたのです。

 あらためて、詩人は「口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠に、自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に、彼らが捕らえられますように」(13節)と願いました。「人を呪わば穴二つ」という言葉がありますが、人を呪って殺そうとする者は、自分も呪われるので、葬るべき穴が二つ必要になるという言葉です。人を罠にかけようとする人が、自らその罠に陥るわけです。

 確かに、アッシリアの王は、自国の神殿で礼拝をしていたときに、謀反が起きて殺されてしまいました(列王記下19章37節)。アッシリアの神は、謀反から王を守ってはくれなかったのです。

 主イエスは山上の説教において「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁くその裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイ福音書7章1,2節)と教えられました。私たちが他者を赦し、愛の言葉を語れば、私たちも赦され、優しい言葉を聞くことが出来るでしょう。

 ヤコブ書3章2節に「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」とあります。そして、「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います」(同10節)と言います。しかし、主を賛美しながら、同時に人を呪うことは出来ないでしょう。人を呪う心を持ちながら、心から主への賛美を歌うことは不可能です。

 主を賛美する心で、隣人に対して信仰の言葉、祝福の言葉を語りましょう。詩人が、「わたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場、わたしの力と頼む神」(17,18節)は、まことに恵み深く慈しみに富むお方なのです(111編4節)。

 主よ、御名を崇めます。主に信頼し、信仰による祈りを通して、日々主の恵みに与ることが出来ますように。主の御言葉に土台し、隣人に対して祝福を祈り、信仰による恵みの言葉を語ることが出来ますように。今、困難な状況にある人々の上に、主の恵みと平安が豊かにありますように。 アーメン



12月30日(日) 詩編58編

「神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。神はこの地を裁かれる。」 詩編58編12節

 58編は、神に公正な政治を求める祈りです。それは、正しい政治を行い、公平な裁判を行うべき権力者が、不正な政治を行い、不法を量り売りしているからです(2,3節)。

 彼らは、神に逆らい、偽りを語ります(4節)。詩人は、蛇使いでさえコントロールすることが出来ない毒蛇になぞらえ、誰の言葉にも耳を閉ざし、自分の思いのままに振る舞っていると断じます(5,6節)。まるで、昨今の我が国の政府与党の政権・議会運営のようです。

 2節冒頭で「しかし」と訳されているのは「エーレム」という言葉で、「沈黙、物言わぬ者」と訳されます。56編1節の表題にある「エーレム」は、「沈黙」と訳されています。2節を直訳すれば、「確かに沈黙よ、お前たちは正しく語り」といった言葉になり、意味不明です。そこで新共同訳は、70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)を参考にして「しかし」と訳しています。

 また、口語訳、新改訳、そして岩波訳は、それとは違って「エレム」を「エリーム」(神々:エル(神)の複数形)と読み替える異読を採用し、岩波訳はそのまま「神々」とし、今年刊行された聖書協会共同訳もそう訳しています。口語訳、新改訳は「力ある者」と意訳しています。世の権力者、支配者たちが、神々の名を用いて不正を行っているという解釈です。

 不法がはびこり、それを公正に裁く者がいない、そんなことがあってもよいのかと、詩人はここで、不正を働く者も、それを公正に裁く責任を放棄してしまっている権力者も、共に断罪しているわけです。

 7節以下に①「彼らの口から歯を抜き去ってくださるように」、②「主が獅子の牙を折ってくださるように」、③「水のように捨てられ、流れ去るがよい」、④「神の矢に射られて衰え果て」、⑤「なめくじのように溶け」、⑥「太陽を仰ぐことのない流産の子となるがよい」、⑦「生きながら、怒りの炎に巻き込まれるがよい」と記されています。

 詩人はここに、七つの言葉をもって、完全な裁きと呪いを語っているのです。

 詩人は、こんなに不法がはびこるようでは、神も仏もあるものか、とは言いません。詩人は、冒頭の言葉(12節)のとおり、「神はいます。神はこの地を裁かれる」と語ります。そうです、神はおられます。神がこの地上を裁かれます。

 不法がはびこるから神がおられないということであれば、この世に救いはありません。不法があり、それによって苦しめられている人があるからこそ、神が必要です。そして、神がおられればこそ、救いの道、命の道、義の道が開かれるのです。

 神はこの地を裁かれます。不義をそのまま見過ごしにされることはありません。けれども、その裁きは、詩人が期待した通りではないかもしれません。「神に従う人はこの報復を見て喜び、神に逆らう者の血で足を洗うであろう」とは、敵を完全に殲滅し、その屍を踏み越えて進む兵士のイメージでしょう。

 けれども、もし神が罪を犯す者を徹底的に殺し、滅ぼされるならば、誰が地上に生き残れるでしょうか。「だれもかれも背き去った。皆ともに汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」(14編3節、ローマ書3章10節以下)と言われている通りです。

 後に詩編の編者が、「『滅ぼさないでください』に合わせて」という表題をつけました。上述のように、不法をなし、それを公正に裁こうとしない悪しき権力者を完全に滅ぼして欲しいと願っているような内容から考えれば、矛盾した曲名です。偶然、「滅ぼして欲しい」という歌を、「滅ぼさないでください」という曲で歌うことにしただけということではないと思います。

 確かに、悪は滅ぼされる必要があります。そうして、義と平和が支配する世界にならなければなりません。しかし、神はその裁きを、不法をなす者の頭に下したのではありませんでした。

 十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ福音書23章34節)と祈られた主イエスの執り成しを受け、神は罪人の私たちを御子キリストの贖いによって赦し、その血によって私たちの足を洗ってくださいました。十字架の贖いを通して、すべての者を赦し、清める救いの道を開かれたのです。

 主イエスを信じる者はだれでも、神の子どもとなる資格が与えられます(ヨハネ福音書1章12節)。誰もが、主イエスの道を通って父なる神のもとに行くことが出来るようにしてくださったのです(同14章6節)。神は私たちすべての者を、この救いに招いてくださったのです。

 このイエスの救いの前には、ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人もありません。皆、キリスト・イエスにおいてひとりなのです。それは、信仰によるアブラハムの子孫、約束による神の相続人となることです(エフェソ書3章28,29節)。

 神の憐れみにより、主イエスを信じて救いの恵みに与った者として、命の道、真理の道を主イエスと共に歩み、家族に、周りの人々にこの恵みを告げ知らせて参りましょう。

 主よ、はかり知ることの出来ない愛と恵みに感謝致します。神に愛されている者として、家族同士、隣人同士、互いに赦し合い、愛し合い、支え合い、祈り合って生活することが出来ますように。主の御名が崇められますように。 アーメン




12月30日(日)主日礼拝説教

12月30日(日)の主日礼拝には、教会員15名、来賓11名(子ども2名を含む)がお見えになりました。感謝です。


主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「あなたのラザロ」
聖書 ルカ福音書16章19~31節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師


ご覧ください。


12月30日(日)主日礼拝案内

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12月30日(日)は、2018年最後の主の日(主日、日曜日)です。

教会学校少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。小学会は都合により、お休みさせて頂きます。
教会学校は、「聖書教育」誌にもとづいて、新約聖書・マタイ福音書から、共に聖書の学びと交わりを行います。


主日礼拝を10時半から行います。

礼拝では、ルカ福音書16章19~31節より、「あなたのラザロ」と題して、原田牧師より説教をいただきます。

写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。

キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


今回は、昼食の用意はありません。


 

12月29日(土) 詩編57編

「目覚めよ、わたしの誉れよ。目覚めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう。」 詩編57編9節

 57編は、6節と12節がリフレイン(折り返し)の役割を果たしているので、2節以下と7節以下の2部構成といえます。その内容は、第一部(6節まで)が、神の憐れみを願い、災いから救ってくださいという祈り、そして第二部(7節以下)は、願いを聞き届けてくださった神への感謝と賛美です。

 表題に「ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき」と記されています。サムエル記上22章1節以下の状況でしょうか。第二部の感謝と賛美から、同24章1節以下のエン・ゲディの洞窟におけるダビデとサウルをめぐる出来事が、その背景になっているようにも思われます。

 詩人の魂は敵に囲まれてうなだれ、屈み込まされていました(5,7節)。けれども、詩人は、神が祈りに答えてくださることを知っています。だからこそ、うなだれ、屈み込みながらも、さらに神の憐れみと救いを祈り願っているのです。

 詩人は、「いと高き神を呼び」(3節)、「天から遣わしてください、神よ、遣わしてください、慈しみとまことを」(4節)と求めます。詩人が神に遣わしてくださるよう願った「慈しみとまこと」とは、神のご本性といってよいでしょう。

 「慈しみ」(ヘセド)は神の変わらないご愛、「まこと」(エメト)は神の真実、真理を示すものです。詩人は、天に座しておられる神が、全権大使として「慈しみとまこと」を派遣してくださるようにと告げて、神ご自身による守り、救いを求めているのです。

 そして、屈み込んでいる詩人の目に、詩人を陥れる罠を仕掛け、落とし穴を掘った敵が、自らそこに落ち込んでいるのが見えました(7節)。つまり、詩人の願いに神が応えてくださったということでしょう。

 ダビデの経験から言えば、それは、ダビデが隠れていた洞窟にサウルが用足しに入ってきて、逆にサウルに手をかける絶好の機会となったというところでしょう(サムエル記上24章4節以下)。

 しかるにダビデは、油注がれた方に手をかけることを、主は決して許されないといって(同7節)、サウルに対する謀反の思いはないことを明らかにし(同12,13節)、それを受けてサウルは、「今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される」(同21節)と応じました。

 詩人は、これまでそのような経験を積み重ねてきたのです。そこで、「わたしは心を確かにします」(ナーコーン・リッビー、8節)と2度重ねて語ります。どんな境遇におかれても、また、そこに何があっても、神を信じて立ち上がろうというわけです。

 冒頭の言葉(9節)のとおり、「目覚めよ、わたしの誉れよ。目覚めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう」と語ります。ここで、「誉れ」(カーボード)という言葉を、口語訳は「魂」、新改訳も「たましい」と訳しています。「誉れ」は、6,12節の「栄光」と同じ言葉です。

 8節で「心を確かにして、あなたに賛美の歌をうたいます」と言ったあとに、「わたしの栄光よ」と語るはずはなかろうと考えて、口語訳などは「誉れ」を「肝臓、心=魂」(カーベード)と読み替えたのでしょう。あるいは、「誉れ」を自尊心と考えて、さらに「魂」と意訳したのでしょうか。因みに、2,5,7節の「魂」は「ネフェシュ」、8節の「心」は「レーブ」という言葉です。

 原文の異読には、「カーボード」と文字の形がよく似ている「キノール」をあてるものがあるようです。これは、このあとに出て来る「琴」という言葉です。つまり、「目覚めよ、わたしの琴よ、目覚めよ、竪琴よ、琴よ」という文章になるわけです。

 これらの訳語の中で「誉れ」と読むのが一番理解し難いものです。「魂」、「琴」などと記されていたものが「誉れ」と書き換えられる可能性と、「誉れ」と記されていたものが「琴」、「魂」と読み替えられる可能性を比較すれば、後者の確率が確実に高いと言わざるを得ません。難解な言葉を理解し易い言葉に書き換えると考えられるからです。だから、新共同訳は「誉れ」を選択したのでしょう。

 そしてこれは、敵に苦しめられ、屈み込んでいた詩人が、神によってもう一度奮い立とう、神に与えられた栄光を取り戻そうという意味に取ることが出来るのではないでしょうか。そのために、竪琴をかき鳴らして、「曙を呼び覚まそう」とうたいます。

 まだ夜明け前で、全く光を見ることが出来ません。けれども、必ず夜は明け、朝の光が輝くようになります。夜明けをじっと待つというのではなく、賛美によって心に夜明けの光をもたらしたい、神を仰ぎ、新しい朝の恵みに与りたいと願っているのでしょう。

 詩人は、竪琴、琴に代表される楽器をもって、そして信仰に目覚めた自分のすべて、声のかぎり歌い、手を打ち鳴らし、踊り、そのようにして体中で主を迎えようとしているのです。ちょうど、ダビデが神の箱をエルサレムに迎えたときのように(サムエル記下6章12節以下)。

 主なる神は、イスラエルの賛美を住まいとされ(22編4節)、賛美の中に栄光をもって臨まれます(歴代誌下5章13,14節)。「あなたの慈しみは大きく、天に満ち、あなたのまことは大きく、雲を覆います」(11節)という賛美は、祈りと願いに答えてくださる神に対する信仰の賛美であり、また、感謝の賛美です。

 私たちもこの詩人の信仰に学び、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝し、賛美する信仰で歩みましょう。それこそ、神が主キリスト・イエスにあって、私たちに望んでおられることだからです(第一テサロニケ書5章16~18節)。

 主なる神よ、天の上に高く今し、栄光を全地に輝かせてください。自然災害で不安と恐れに包まれている東北・関東の人々を、あなたの慈しみとまことで覆ってください。平和と安全が脅かされ、将来に希望を持つことが出来ないでいる人々に、あなたの慈しみとまことを遣わし、真の平安と希望を授けてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン




12月28日(金) 詩編56編

「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に、それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」 詩編56編9節

 56編は、主を信頼する者の「救いを求める祈り」です。その信頼について4,5節で「恐れを抱くとき、わたしはあなたに依り頼みます。神の御言葉を賛美します。神により頼めば恐れはありません。肉に過ぎない者が、わたしに何をなしえましょう」と言います。

 さらに10~12節で「神を呼べば、敵は必ず退き、神はわたしの味方だとわたしは悟るでしょう。神の御言葉を賛美します。主の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。人間がわたしに何をなしえましょう」と語ります。

 「恐れを抱くとき」(4節)は「私が恐れる日」、「神を呼べば」(10節)は「私が呼ぶ日」という言葉遣いで、5節と11,12節は非常によく似ているので、4,5節と10~12節がこの詩のリフレインというかたちになっています。5節の「肉に過ぎない者」が12節で「人間」と言い換えられています。

 ここに、「恐れを抱く」と「依り頼む」、「肉に過ぎない者」と「神(主)」の対比があります。つまり、「肉に過ぎない者=人間」が詩人を踏みにじり、虐げ、恐れを抱かせるのです。だから、詩人は人間にではなく、主なる神を逃れ場として、「わたしはあなたに依り頼みます」というのです。

 その信頼は、神の救いの約束への応答です。「神の御言葉を賛美します」(5,11節)というのは、そのためです。

 「神を呼べば、敵は必ず退き、神はわたしの味方だとわたしは悟るでしょう」(10節)というのも、たとえば、「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いに右の手であなたを支える」(イザヤ書41章10節)のような神の御言葉への応答と考えられます。

 表題に従えば、ダビデがサウル王から逃れて、ペリシテ人の町ガトの王アキシュのもとに来て、捕えられたときに、この詩を作ったということになります(サムエル記上21章11節以下)。これは、34編の表題と共通の出来事です。

 サウル王がダビデの命をつけ狙ったのは、ダビデが戦のたびに手柄を立てて、イスラエルの民の間に人気が高まるのを妬んだからです(同18章8節)。サウルは、自分の王位が危うくなる前にダビデを亡き者にしようと考えたわけです。

 しかし、ダビデはイスラエルの兵士であり、サウルの命により、イスラエルのために命懸けで戦っていました。しかも、サウルの娘婿でもあります(同12節以下、27節)。サウルの息子ヨナタンとダビデは、親密な関係にありました(同1節以下、19章1節など)。ダビデに謀反を起こす野心はありません。つまり、ダビデは謂れのない苦しみを受けていたわけです。

 その苦しみの果て、なんと彼は、これまで敵対していた隣国ペリシテのアキシュ王の下に身を寄せようとしています。サウル王の力の及ぶところでは、安らぐことが出来なかったのです。

 けれども、当然のことながら、ダビデの名は敵に知れ渡っており(同21章12節)、彼は捕らえられてアキシュ王の下に引き出されました。絶体絶命の時、ダビデはそこで気が狂ってしまったように見せかけて、何とか難を逃れます(同14節以下)。

 しかし、自国には戻れず、安易に他国に身を寄せることも適わず、これからどうすればよいのでしょうか。実に、途方に暮れる事態です。そのようなダビデの心境が、よくこの詩に現れているように思います。特に、神に依り頼む信仰を表明してはいるのですが(4,5節)、なお苦しい状態が続いています。「わたしの言葉はいつも苦痛となります」(6節)というとおりです。

 そこで、冒頭の言葉(9節)のとおり、「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです」と訴え、さらに「あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください」と祈っています。革袋は、その中に水などを蓄えておくための水筒であり、荒れ野を旅するときの必需品です。それに詩人の涙を蓄えてくださいと求めているのですから、神にこの苦しみ、悲しみを味わってみてくださいと求めているようです。

 涙を一粒残らず蓄えるということで、神に、すべての苦しみを知っていて欲しい、覚えていてほしいという願いが表されていると考えることが出来ます。それで、「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか」と訴えているわけでしょう。

 ここで、「嘆き」は「ノド(さすらい)」という言葉で、創世記4章16節に「カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ」と記されています。口語訳は「あなたはわたしのさすらいを数えられました」としています(新改訳、岩波訳も同様)。「さすらい」には「嘆き」がつきものですし、後半の「涙」との関連でその訳語になったのでしょう。

 そして、荒れ野の旅の必需品の「革袋」も、つづりは違いますが「ノド」と発音します。「さすらい」と「革袋」の語呂合わせで、神に自分の苦境を訴え、助けを求めているわけです。

 このダビデの祈りは、時代を超えて聞き届けられました。神の独り子キリストが、ダビデの子孫としてお生まれになったのです。彼は悲しみの人で、多くの痛みを負い、病いを知っています(イザヤ書53章3節)。

 罪を犯されませんでしたが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われました(ヘブライ書4章15節)。すべての人の罪を背負い、十字架で身代わりに死んでくださいました。その打たれた傷によって、私たちは癒されたのです(同53章5節、第一ペトロ書2章24節)。

 神は、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」(ヘブライ書13章5節)と言われます。どんな時にも共にいて、私たちの苦しみ、悲しみを受け止め、慰め励まし、立ち上がる力をお与えくださいます。主イエスを信じ、その御言葉を信じて、命の光の中、神の御前を歩ませていただきましょう。

 主よ、私たちを憐れんでください。私たちはあなたに依り頼みます。あなたの御言葉を賛美します。あなたが私たちの味方となってくださるなら、私たちには恐れはありません。あなたが常に私たちと共にいて、命の光の中、御前を歩ませてくださるからです。御名が崇められますように。 アーメン




12月27日(木) 詩編55編

「あなたの重荷を主に委ねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。」 詩編55編23節

 55編は、都にはびこる不法と争い、災いと労苦、搾取と詐欺(10~12節)に悩む詩人が、神に救いを求める祈りです。表題に「マスキール」(1節:「教訓」の意)とあり、そのような苦難の時に、どのように振る舞うべきか、この詩を通して、読者に教えているわけです。

 詩人は、「鳩の翼がわたしにあれば、飛び去って、宿を求め、はるかに遠く逃れて、荒れ野で夜を過ごすことができるのに。烈しい風と嵐を避け、急いで身を隠すことができるのに」(7~9節)と語って、静かに枕出来る宿を切望します。しかし、翼はありません。そして、逃げ出すことも出来ません。

 特に詩人を悩ませているのは、「嘲る者」の存在です。しかもそれは、「敵、憎む者」ではなく、「それはお前なのだ。わたしと同じ人間、わたしの友、知り合った仲」という親しい間柄であり、「神殿の群衆の中を共に行き来した」という、信仰を同じくする友なのです(14,15節)。その友が、「自分の仲間に手を下し」(21節)、「抜き身の剣に等しい」言葉で突き刺すのです(22節)。

 親しい友の裏切り行為によって詩人は深く傷つき、立ち上がる力も失ってしまったのではないでしょうか。エレミヤ書9章1節に「荒れ野に旅人の宿を見いだせるものなら、わたしはこの民を捨て、彼らを離れ去るであろう。すべて、姦淫する者であり、裏切る者の集まりだ」とあります。「兄弟ですら信用してはならない」(同3節)というほどに国に暴虐が満ち、逃げ出したいといっているわけです。

 ミカ書7章1~6節にも、国が乱れ、民の腐敗を嘆く預言者の哀歌が記されています。詩人の心も、そのようなものだったのでしょう。

 ユダヤ人をかくまったためにドイツ秘密警察ゲシュタポに捕らえられ、厳しい拷問を受けたというドイツ人の話を読みました。彼はそれに耐えて、何とか終戦を迎えることが出来ました。それなのに、解放されて間もなく、自ら命を絶ってしまったそうです。

 それは、彼をゲシュタポに密告したのが、自分の家族だったと分ったからでした。ナチスに抵抗し、獄中の苦難に打ち勝ったその人も、家族の裏切りというのは、耐えられないことだったのです。

 そのようなときに、「あなたの重荷を主に委ねよ、主はあなたを支えてくださる」という冒頭の言葉(23節)が響きます。力を失ってうずくまり、呻いていた詩人の心に響いて来た神の御声でしょう

 ここで、「重荷」(エハーブ)という言葉は、「くじ」という意味があり、その人に与えられた分、運命という意味にもなります。その意味から考えると、重荷を主に委ねよというのは、荷物を降ろしなさいということにはなりません。「主は従う者を支え」ると言われているように、このような状況の中で主なる神を信頼し、主に従うことが、重荷を委ねるということなのです。

 「従う者」と訳されているのは、ツァッディーク(正しい)という言葉です。口語訳、新改訳は「正しい人(者)」と訳しています。これは、神と正しい関係にある者のことです。つまり、正しい人とは、主なる神に従う者ということです。その人を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださるから、重荷を、運命を主に委ねて、その導きに従えというのです。 

 主イエスが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11章28~30節)と言われました。

 主イエスは労苦を知らない方ではありません。友に裏切られる苦しみも味わわれました。その友は、接吻という親愛の情を表す挨拶をもって、主イエスを裏切りました(同26章48節以下)。「口は脂肪よりも滑らかに語るが、心に闘いの思いを抱き」(22節)とは、そのときのユダの振舞い、その心境とも考えられます。

 裏切られる痛み、心身の疲労をよく知っておられる主イエスが、私たちを休みへと招かれます。それは、主イエスと軛を共にするため、それによって荷を軽くするためです。主イエスに支えられて立ち上がり、共に前進するためです。

 であれば、パウロが「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる』と書いてあります」(ローマ書12章19節)といった言葉も心に留める必要があります。

 つまり、報復する権限は私たちに与えられてはいないということで、だから、報復したいという感情も、報復すべき相手(敵)の取扱も、主に委ねよと言われているのです。私たちのなすべきことについて、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」(同20節)、「悪に負けることなく、善をもって悪にかちなさい」(同21節)と告げられます。

 使徒ペトロも「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(第一ペトロ書3章9節)と言い、その根拠として詩編34編13~17節を引用しています(同10~12節)。

 そして、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(同5章7節)と語ります。彼は、主イエスのことを三度、知らないと否んだ経験を持っています(マタイ26章69節以下)。しかし、主イエスはペトロを立ち上がらせ、再び使徒として召されました(ヨハネ21章15節以下)。

 すべてを理解し、受けとめてくださる主イエスの深い愛を味わったペトロは、どんなときにも「わたしの重荷を委ねます」と祈って、信じて従う力を頂いたのです。確かに主は、信じて従って来る者を支え、動揺しないように、思い煩うことがないように、計らってくださるのです。

 主に重荷を委ね、主を信頼して歩みましょう。

 主よ、日本各地を襲った大規模自然災害で被災された方々、犠牲となられた方、その家族を憐れんでください。避難生活をしておられる方々を顧みてください。福島第一原発とその周辺で作業に当たっておられる方々を安全にお守りください。この国の行く末を支えてください。すべての荷を主に委ね、従って参ります。聖霊と御言葉によって導いてください。 アーメン



12月26日(水) 詩編54編

「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。」 詩編54編6節

 54編は、「神よ」(3節)と呼びかける言葉をもって始まる、個人的な救いを求める祈りの詩です。表題に「マスキール」(1節)とあり、これは教訓という意味です。救いを求める祈りはこのようにすればよいと教える詩だと、編集者が考えたのでしょう。

 3,4節に、救いを求める願いの言葉があります。続く5節に、願いの理由、救ってほしいわけを述べます。そして6節以下には、神が祈りを聞き、助けてくださるという信頼の言、感謝の言葉があります。

 詩人の願いは、「御名によって、わたしを救い、力強い御業によって、わたしを裁いてください」(3節)ということです。「御名」と「力強い御業」、「救い」と「裁き」を同じ意味合いで用いています。「御名」とは神ご自身のことです。「力強い御業」は「力、強さ」(ゲブーラー)という言葉で、神の御力が働くことを示しています。

 ここで、「わたしを裁いてください」(テディーネーニー)とは、「正当に判断してください(judge)、嫌疑を晴らしてください(vindicate)」ということですし、新改訳のように「弁護してください(plead)」という意味にもとれます。不当な裁判で苦しめられているということでしょうか。あるいは、裁判という手続きもなく、乱暴に扱われているということでしょうか。

 詩人を苦しめる敵について、5節に「異邦の者」、「暴虐な者」と記されています。「異邦の者」(ザーリーム)という言葉について、新改訳は「見知らぬ者」、フランシスコ会訳は「よそ者」と訳しています。神の律法を守らない者たちが詩人の命を狙っているということでしょう。また、彼らは、罠をもうけて詩人を陥れようとしてもいるようです(7節)。

 表題に、「ジフ人が来て、サウルに『ダビデがわたしたちのもとに隠れている』と話したとき」(2節)と記されています。それに従えば、ダビデの命を狙うサウル王、あるいはサウルにダビデのことを密告したジフ人のことを、「異邦の者」と呼んでいることになります。

 しかし、「ジフ人」とは、ヘブロンの南東5キロほどのところにある町に住んでいる、ダビデと同じユダ部族に属する人々のことです。また、ダビデの命を狙っているサウル王は、勿論ユダヤ人であって、「異邦の者」ではありません。そのためでもあると思いますが、口語訳や岩波訳では、ザーリームを異読のゼイディームと読み替えて、「高ぶる者、傲慢な者」と訳しています。

 ジフ人がサウルに「ダビデが私たちのもとに隠れている」と話したときというのは、サムエル記上23章15節以下の出来事を指しています。ダビデは、サウル王から逃げる途中、ペリシテに襲われたケイラの町を救いましたが(同23章1節以下、5節)、町の人々はダビデをサウルに引き渡すという恩知らずな仕打ちをするというので(同9,12節)、ダビデはジフの荒れ野に逃れます。

 そのとき、ジフの町の人々がサウル王のもとに行き、「ダビデは我々のもとに隠れており、砂漠の南方、ハキラの丘にあるホレシャの要害にいます」(同19節)と告げ、「王の手に彼を引き渡すのは我々の仕事です」(同20節)と申し出ています。

 ジフの人々は上記の通りユダ部族ですし、ケイラの町もユダの地にあります。いうならば、ダビデは親類縁者から、彼の命を狙う者に売り渡されてしまっているわけです。

 その背景には、ノブの祭司アヒメレクが、ダビデに協力したという理由でお家断絶という仕打ちをサウル王から受けたという事件を上げることが出来ます(同21~22章)。つまり、ジフのホレシャの要害に隠れているダビデを、ジフの人々がかくまっていたという理由で滅ぼされてはかなわないので、サウルに塩を贈ることにしたのだろうと考えられます。

 あるいは、エッサイの末息子がサウルに取りたてられて王の太刀持ちから(同16章21節)、戦士の長(同18章5節)、千人隊の長となり(同12節)、サウル王の婿にもなったことを(同17節以下27節)妬ましく思っていたのかも知れません。サウル王だけでなく、親戚までが敵となる四面楚歌の状況でその心境を詠ったのが、この詩ということになるわけです。

 そうであるならば、この詩を詠んだダビデ、さすがは信仰の人ということになります。誰も味方してくれないという中で、冒頭の言葉(6節)のとおり、「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる」と、その信仰を言い表しています。この詩がマスキール(教訓詩)とされる所以です。

 5節で「彼らは自分の前に神を置こうとしていない」と記していますから、それによって詩人は、自分の前に神を置いていると語っていることになります。16編8節に「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません」と詠われていました。口語訳は直訳的に「わたしは常に主をわたしの前に置く」としています。

 それは、ダビデ自身が神を目の前に置くというよりも、神がいつも自分の前におられることに気づくということでしょう。いつも神が見えていたわけではありません。時には、神の姿が見えなくなります。失敗してしまうことがあります。苦しい状況に陥ると、神は本当におられるのかと思うこともあります。

 ダビデは、義父サウルから命をつけ狙われます。サウルはダビデの評判を妬み、王位を奪われることを恐れたのです(同18章9節、20章31節など)。だから、ケイラを襲ったペリシテ軍の討伐ではなく、ペリシテの襲撃からケイラを救ったダビデを狙ってサウルは軍を動かしました(同23章6節以下)。

 ケイラをペリシテの手から守ったダビデと、そのダビデの命を狙うサウル、どちらがイスラエルの王にふさわしいでしょうか。しかし、そのところで、ダビデはその恩を仇で返されるような目に遭いました。親戚から売られるという悲哀を味わったのです。

 ダビデは、そのような出来事を通じて、忍耐や従順を学びました。本心に立ち帰って、人間に頼るのではなく、生きておられる真の神に頼ることを学んだのです。ケイラの人々の裏切りと、ジフの人々の密告の出来事の間に、サウルの子ヨナタンがダビデのもとに来て、神に頼るようダビデを励ましたという記事があります(同16~18節)。まさに、苦難の中にも、神の導きが与えられていたわけです。

 神は、御自分を愛する者を「計画に従って召した者」と呼ばれ、彼らのために、万事を益となるようにして共に働くと言われます(ローマ書8章28節)。私たちの助け主、私たちを絶えず支えてくださる主を信じ、「御名によって私たちを救い、力強い御業によって、私たちを裁いてください」と求めつつ、絶えず感謝と賛美を献げて歩みましょう。

 主よ、ダビデの信仰から、苦難によって祈ること、忍耐すること、主に希望を置くことを学びました。耐えられないような試練には遭わせ給わず、乗り越える道も備えてくださることを感謝します。絶えず祈りへ、賛美へと、御名のゆえに正しい道に導いてください。御言葉がこの身になりますように。 アーメン




12月25日(火) 詩編53編

「それゆえにこそ、大いに恐れるがよい。かつて、恐れたこともなかった者よ。あなたに対して陣を敷いた者の骨を、神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた。」 詩編53編6節

 この詩は、詩編14編と非常によく似ています。細かく比較してみるのも、味わい深いものです。主な違いは二つです。

 一つは、14編で「主」(ヤハウェ)と記されている神の名が、すべて一般名詞の「神」(エロヒーム)とされています。これは、14編がヤハウェ(主)を讃える詩であるのに対し、53編は、42編から始まった詩編の第2巻に含まれるエロヒーム(神)を称える部類に属しているからと説明されます。

 ただ、世界に神がただお一人であられるのなら、固有名詞であろうが、一般名詞であろうが、何の問題もないということになるのかも知れません。けれども、神と呼ばれるものが八百万もある状況から、一般名詞よりも固有名詞の方がより明確であろうと思われます。

 十戒の「主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)という規定が問題になるなら、「わたしを呼べ」(53編15節、イザヤ55章6節、エレミヤ33章3節など)と言われる主に、どのように呼べばよいのかを尋ねるべきなのかも知れません。韓国人のように、「ハナニム(お一人様)」、「ハナニメ・アボジ(一人様のお父様)」と呼ぶのも、一つの手でしょう。

 今一つは、冒頭の言葉(6節)です。14編5,6節には「そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます。貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても、主は必ず、避けどころとなってくださる」と記されていました。不法を行う者たちが、自分の利益のために貧しい人々を食い物にし、搾取しようとする抜け目ない企みは、神に挫折させられるということです。

 それが53編で冒頭の言葉のように変えられたということになると、少々困惑させられます。「大いに恐れるがよい」と告げた後、「かつて、恐れたこともなかった者よ」というのであれば、それに続く言葉は14編と同様、神が貧しい者をお前たちの手から救い、そして、お前たちに裁きを下すといった内容のことが語られると想像されます。

 ところが、「あなたに対して陣を敷いた者の骨を神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた」というのです。これでは、悪を為す者に向かって陣を敷き、攻撃しようとした者たちを神が殲滅して、彼らの名を挙げさせられたということになってしまいます。これはいったい、どのように考えたらよいのでしょうか。

 新共同訳聖書が、「恐れたこともなかった者よ」と「あなたに対して陣を敷いた者の骨を」の間に空白を置き、段落を変えているのは、内容的に、ここに断絶があると考えているわけです。つまり、「大いに恐れるがよい」といわれている「悪を行う者」と、「あなた」と呼びかけられている者とは、別の存在だという解釈です。

 それは、悪を行う者が恐れなければならないのは、神が彼らを退け、滅ぼされ、その骨をまき散らされるからで、たとえば、3節の「目覚めた人、神を求める人」に対して「あなた」と呼びかけて、彼らのためには、神の守りが期待できるということを示していると読むわけです。

  そのことについて、この空白が、バビロン捕囚を示していると考えるのも、興味深い解釈でしょう。イスラエルの民は、神に背いた罪のゆえに国を失い、捕囚の憂き目を見ました。まさしく、神がイスラエルの上に、恐るべき事を為されたのです。だから、かつて恐れたこともなかった者よ、大いに恐れよと言われたわけです。

 けれどもそれは、イスラエルを滅ぼし尽くしてしまうためではありませんでした。彼らが悔い改めて神の御前に謙り、再び主の御名を呼び求めるように(エレミヤ書29章11節以下)、そうして、新しい契約をイスラエルの家、ユダの家と結ぶためです(同31章31節以下)。

 ただし、イスラエルの民が悔い改めたから、捕囚から解放されるというのではありません。神の憐れみによって、解放の恵みに与ったので、悔い改めて神に従う者となるのです。そのために、イスラエルを支配していたバビロンを退けてくださるということです。それゆえ、「目覚めた人、神を求める人」となりなさいと勧められているのです。

 主イエスが十字架で贖いの供え物として死んでくださったのも、私たちが悔い改めたからではありません。私たちは、「神などない」と言わんばかりに愚かなことを語り、悪を行っていた者です。

 そのような罪人の私たちのために、主イエスが十字架に死んでくださることで、私たちに対する愛を示してくださいました。敵対している私たちのために、その贖いの死によって、神と和解する道を開いてくださったのです(ローマ書5章8,10節)。

 放蕩に身を持ち崩し、財産を使い果たして帰って来た息子のために肥えた子牛を屠って祝宴を始めたという「放蕩息子のたとえ」(ルカ福音書15章11節以下、23,24節)のように、主イエスは私たちを父なる神のもとへ連れ帰ってくださり、親しく食卓を囲む交わりに迎えてくださいました。

 「神が御自分の民、囚われ人を連れ帰るとき、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜び祝うであろう」(7節)と言われるとおり、私たちはただ、主の御名を「ハレルヤ!」とほめ讃えるのみです。

 主よ、深い御愛を心から感謝致します。私たちが神の子とされるためにどれほどの御愛を頂いたことでしょうか。御独り子が十字架で血を流し、罪の呪いを一身に負い、贖いの業を成し遂げてくだったことを常に心に刻み、御名をほめ讃えさせてください。聖霊に満たされ、主の愛と恵みの証し人として用いてください。 アーメン





静岡教会公式サイト更新

12月24日(月)のクリスマスイブ・キャンドルサービス(燭火礼拝)には、教会員18名、来賓18名(初来会者5名、子ども4名を含む)がお見えになりました。感謝です。


静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に12月23日(日)主日礼拝プログラムとトーンチャイム演奏動画、説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」「フォトギャラリー」を更新しました。
③「お知らせ」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。


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