風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2018年11月

11月30日(金) 詩編28編

「主をたたえよ。嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました。」 編28編6節

 28編は、死の苦しみからの救いと、神に逆らう者に対する報復を求める「嘆きの祈り」(1~5節)と、祈りが聞き届けられたことに対する「感謝の賛美」(6~9節)という二部構成になっています。

 この詩には、三種類の「手」(ヤド)が出て来ます。それは先ず、神の御前に嘆き祈る詩人の手(2節)、次いで、神に逆らう者、悪を行う者の手(4節)、それから、神に逆らう者らが悟ろうとしない主なる神の御手(5節)です。

 詩人は、神に逆らい、悪を行う者の手によって苦しめられていました。彼らは、口では「平和」(シャローム)を語りながら、その心に悪意を抱き、その手で悪事を行っているのです(3,4節)。

 ゆえに詩人は主を呼び求め、祈りの手を上げ、救いを求めて叫んでいるのです(2節)。もしも、詩人の祈りに主が御手を動かしてくださらなければ、彼は墓に下る者とされてしまいます(1節)。

 しかしながら、それはただ、彼らに殺されてしまうという意味ではないように思われます。というのは3節で、「神に逆らう者、悪を行う者と共に、わたしを引いて行かないでください」と言っているからです。これは、神の裁きが、神に逆らう者、悪を行う者だけでなく、自分自身にも及ぶのではないかと思っている証拠です。

 詩人は、神に逆らって悪をなす者らに陥れられて、彼らの「仲間」(レーア、3節)にされてしまい、彼らと共に裁きを受けようとしているのかも知れません。友に裏切られたということでしょうか。「その仕業、悪事に応じて彼らに報い、罰してください。その手のなすところに応じて彼らに報い、罰してください」(4節)と願っているからです。

 続けて、「主の御業、御手の業を彼らは悟ろうとしません」(5節)と言います。詩人は、悪人の「仕業、悪事」と「主の御業」、悪人の「手のなすところ」と神の「御手の業」とを対比しています。彼らは主の御業を悟らず、悪をなすがゆえに滅ぼし、再び興される(バーナー:「建てる、再建する、確立する」)ことがないようにして欲しいと願っているのです(5節)

 詩人の手は今、神の前に上げられています(2節)。それは、神の助けを求める祈りの姿勢であり、また、主をたたえる賛美の姿勢でもあります(134編2節)。そのときに、手のひらは神に向かって開かれています。それは、手の中には何もないということを表わしています。だから、神を求めているのです。そして、空の手に恵みを満たしてくださる主をほめ讃えているのです。

 また、神の前に上げられた手は、まさにお手上げ、降参のしるしのように見えます。詩人は、神のほかに自分をこの悪の力から、自分を苦しめる者の手から解放してくれるものを知らないのです。確かに、主なる神こそ、私たちの力、私たちの盾であり(7節)、油注がれた者の力、その砦、救いです(8節)。

 これは、使徒ペトロが「(イエス・キリストの)ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12節)と言っているとおりです。

 手を上げて祈る者の心は、しかし、深い苦しみと不安に揺れていることでしょう。救いを求める祈りに対して、神が沈黙しておられるように思われるからです(1節)。そして、神の沈黙の時間は、詩人にとって、決して短い時間ではないでしょう。救いを待つ1日は、千年にも感じられるものです。

 しかるに神は、冒頭の言葉(6節)のとおり、嘆き祈る詩人の声に耳を傾けてくださいました。そのとき、詩人の心は歓喜で溢れたことでしょう。「主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。歌を献げて感謝いたします」(7節)と歌っています。

 詩人の祈りが聞かれたのは、確かに神の憐れみです。そして、主の御手を動かしたのは、詩人の信仰による祈りでした。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」(ヘブライ書11章6節)という御言葉があります。

 主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。捜しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7章7節)と言われました。み言葉を信じて求めましょう、捜しましょう、門をたたきましょう。神が助けてくださいます。必要を満たしてくださいます。神は必ず「求める者に良い物をくださるにちがいない」(同11節)のです。

 「お救いください、あなたの民を。祝福してください、あなたの嗣業の民を。とこしえに彼らを導き養ってください」(9節)と祈る詩人に倣い、自分とその家族親族、友らのために、主の恵みと導きを祈り求めましょう。そのように主に依り頼む私たちの心は、主の助けを得て喜び躍り、感謝に溢れ、主をたたえる賛美が湧き上がってくるでしょう。

 主よ、あなたは嘆き祈る私たちの声を聞き、時宜にかなう助けをお与えくださいます。あなたこそ私たちの力、私たちの盾、油注がれた者の力、その砦、救いです。あなたに依り頼みます。私たちの上にあなたの恵みと導きが豊かにありますように。そして御名が崇められますように。 アーメン

 

11月29日(木) 詩編27編

「一つのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。」 詩編27編4節

 この詩は、語調やその内容から、6節までと7節以下の二つに分けることが出来ます。前半には神への信頼の賛美、後半には苦難の中から神の救いを求める嘆きの祈りが記されています。

 ですから、もともとはそれぞれに独立していた二つの詩が、たとえば4節と13節の表現が似通っているというような理由で、一つにまとめられるようになったのではないかと考える注解者もいます。しかしながら、主なる神への確かな信頼があればこそ、あらゆる苦難のとき、不安や恐れの中で神を呼び、助けを願い求める祈りが出来るというものではないかとも思われます。

 そして、いくつものモティーフが前後を一つに結べ合わせています。1,9節の「救い」(イェイシャー)、2,12節の「敵」(ツァル)、3,8,14節の「心」(レーブ)、3,12節の「立つ(挑む)」(クーム)、4,8節の「求める(尋ね求める)」(バーカシュ)、4,13節の「命」(ハイ)などです。

 かくて、この詩は、主を信頼することと主に祈り願うことが、密接に結びついているものであることを、私たちに教えます。主を信頼するからこそ、主に救いを求めて祈り、主に祈ることを通して、主への信仰を新たにするのです。

 詩人は、「主はわたしの光、わたしの救い」といいます(1節)。主を「わたしの光」(オーリー)と呼ぶのは、聖書中ここだけですが、詩人と主なる神との個人的な関係が示されます。23編1節でも「主はわたしの羊飼い」といっていました。

 神を光とする比喩は、18編29節、36編10節などにもあります。光は闇を照らし、道を見出します。イスラエルの民は、葦の海の奇跡を経験した後、「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった」(出エジプト記15章2節)と歌いました。

 詩人をさいなむ敵の攻撃の中で(2,3節)、冒頭の言葉(4節)のとおり、詩人は、ただ一つの願いをもって神の前に出ています。それは、「命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ臨んで喜びを得、その宮で朝を迎えること」です。

 その願いは、「命の砦」(1節)なる主のもとに逃れ場を得ることで、神との交わりを通して、苦しみから解放され、喜びに満たされることでした。詩人にとって、神の宮において主を礼拝すること以上に大切なことはないということでしょう。

 9節で詩人が「御顔を隠すことなく、怒ることなく、あなたの僕を退けないでください」と求めていることから、自分の罪で神のみ怒りを受け、み前から退けられていると感じているわけです。そして、2,11節以下の敵という存在から、そこにつけ込まれているようです。

 そのような状況にあって、主の「わたしの顔を尋ね求めよ」(8節)という命令を聞きました。聖書の世界では、神の顔を見た者は死ぬとされています(出エジプト19章21節、33章20節、士師6章22節、13章22節、イザヤ書6章5,6節など)。しかるに、主がそう言われたのは、詩人を打つためではなく、再び正しい関係に招くためです。

 エレミヤ書29章12~14節に「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう」とあるのも、積年の罪が裁かれてバビロンに捕囚とされたイスラエルのためと、新しい関係を築かれるための主の招きです。

  「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と、十戒の第一条に規定されています(出エジプト記20章3節)。また、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」(申命記6章4,5節)という命令が、旧約律法の中で最も重要な戒めであると、主イエスが言われました(マタイ福音書22章37,38節)。

 苦しみのとき、自分の力ではどうにもならない困難に道が塞がれているとき、私たちを招き、よい関係を築こうとしてくださるまことの神、唯一の主に依り頼むことが出来ることは、大きな喜び、また平安です。

 「主を仰ぎ望んで喜びを得」(4節)を、口語訳では「主のうるわしきを見」、新改訳は「主の麗しさを仰ぎ見」と訳しています。主を仰ぎ望む喜びは、主の麗しさ、主の慈愛を知ることで、詩人は、心から神との交わりを楽しみ喜ぶことを期待し、待ち望んでいるわけです。

 「仰ぎ望む」(ハーザー)という言葉は、「見る」という意味のほかに、「知覚する、予見する、預言する」などという意味があります。つまり、預言者が聖霊に満たされて見るということです。霊の目が開かれて見るといえばよいでしょうか。詩人は、自分の置かれている今の状況が如何にあれ、そこで霊の目が開かれて主を仰ぎ、主と交わる素晴らしさ、その喜びを味わったのです。

 そして今、それを求めているということは、一度そういう体験をすればもうよいというのではなく、いつでもどこでも、主と親しく交わりたい、主を仰ぎ見みたい、そのことを通してまことの喜びを得たいと考えているわけです。パウロが、聖霊に満たされなさい、満たされ続けなさいと言っているのは、そのことでしょう(エフェソ書5章18節参照)。

 「主の家」とは、神殿を指す言葉です。そこに宿りたいとは、神殿に住みたいということになります。主イエスが少年時代、エルサレム神殿に行かれたことがあります(ルカ福音書2章41節以下)。そのときの両親とのやり取りで主イエスは、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」と言われました(同49節)。

 「自分の父の家にいる」(エン・トイス・トゥー・パトゥロス・ムー:in the ~ of my father)と訳されていますが、原文には「家」(オイコス)という言葉はありません。しかも、想定されているのは複数です(トイスは冠詞で複数形だから)。主イエスにとっての「父の家」とは、エルサレム神殿には限らないということです。

 主イエスははここで、父を神と呼んで、自ら神の子であること、そして、自分がいるところが父なる神のおられる場所であり、「父の家にいるのは当たり前」といって、父なる神がいつも自分と一緒にいてくださると言われていることになります。

 ですから、「命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えること」を願い求める詩人の信仰は、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」(ヨハネ福音書4章23節)と主イエスが言われた、まことの礼拝者の信仰であると言ってよいでしょう。

 24時間365日、共にいてくださる主のみ顔を慕い求め、み言葉に耳を傾け、み心を行う主の僕として、喜びと感謝をもって歩ませていただきましょう。

 主よ、どうか私たちを聖霊で満たしてください。常に霊の目が開かれて主を仰ぎ望み、霊の耳が開かれて御言葉に耳を傾けることが出来ますように。主を慕い求めて御前に進み、絶えず主との親しい交わりの内におらせていただくことが出来ますように。 アーメン




11月28日(水) 詩編26編

「主よ、あなたのいます家、あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います。」 詩編26編8節

 1,11節に、「わたしは完全な道を歩く」という表現が出て来ます。ここで語られている「完全な道」(トーム)という言葉には、完全無欠 integrity という意味もありますが、無実とか十分、一杯とも訳されます。口語訳、新改訳は「誠実に」、岩波訳は「けがれなく」としています。

 2節以下、主に従って歩んで来たことを確認してほしいと主に願い、6節で「わたしは手を洗って潔白を示し」と、自分の無実を神が証明してくださることを求めています。詩人は、不当な裁判で苦しめられているのかも知れません。だから、1節冒頭に「主よ、あなたの裁きを望みます」と訴えているのでしょう。

 また、「完全な」を「十分 fullness 」、つまり、神の恵みが満たされている状態と捉えて読み替えれば、わたしは神の恵み充満の道を歩くという言葉になります。それは、神が詩人の心と思いを完全に満たしていることを表しています。わたしは神の恵みに満たされて歩くといってもよいでしょう。

 パウロが、「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(ローマ書15章13節)と、祝福の祈りを記しています。

 また、「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(エフェソ書3章18,19節)と、祈りの言葉を記しています。

 いずれも、神の恵みによってそのうちが満たされるように、さらには神ご自身で満ちあふれさせてくださるようにと祈り求めていますが、ここに、私たちの信仰の目標が示されます。

 そして、心と思いが恵みに満たされているということは、神様に自分の心と思いを明け渡したということです。それは、自分の弱さ、欠点も包まず明らかにして、ありのまま神にささげたということです。

 であれば、「わたしは完全な道を歩く」という言葉は、完全無欠な人間として生きるというようなことではありません。そうではなく、詩人が自分自身を主なる神に全く献げて生きていることを表している言葉だと解釈することが出来ます。

 その完全な献身から、主への信頼が生まれます。1節に「主に信頼して、よろめいたことはありません」と記されているとおりです。それはしかし、自分が独りでしっかり立っていたということではありません。3節に「あなたの慈しみ(ヘセド)はわたしの目の前にあり、あなたのまこと(エメト)に従って歩み続けています」と言っています。

 「まこと」は「真理、忠実、安定、信頼性」などと訳されます。神が忠実に守ってくださる、神は信頼出来るということです。詩人は、神の真実に支えられ、信頼すべき神に守られて歩んでいるということです。

 現実には、悪が詩人をよろめかせ、また、私たちをよろめかせます。5節に「悪事を謀る者の集い」という言葉があります。「集い」(カーハール)について、岩波訳の用語解説に「詩編では、神を礼拝するために集まった人々を言う(22:23,26、35:18、40:10,11、107:32、149:1)。ただし26:5では悪人の集まりを指す(民20:12参照)。七十人訳はekklesia」と記されています。

 「集い」(カーハール)のギリシア語訳「エクレシア」は、新約聖書で「教会」と訳される言葉です。もともと、集い、集会、会議を意味する言葉で、議会と訳されることもあります。呼び出された者たち、選ばれた者たちの集まりということです。わたしたちは主なる神から

 その「集い」に集まる者の謀る悪事について、10節に「彼らの手は汚れた行いに慣れ、その右の手には奪った物が満ちています」と記されています。「奪った物」と言えば、力づくで取ったという印象になりますが、原語は「賄賂、まいない」(ショーハド:口語訳、新改訳、岩波訳参照)という言葉が使われています。

 悪行や賄賂で手を満たしているということは、「悪事を謀る者」とは、権力を行使することのできる指導者ということでしょう。即ち、有力者の献金で政が歪められ、弱い者、貧しい者が抑圧されるという構図で、昔も今も、人間の悪の性質というものは変わらないのかという思いになります。

 詩人はそれを憎むと言っていますが、決してよろめかなかったと言い切れるでしょうか。むしろ、実際には、袖の下に心惑わされ、仲間に加わろうという誘惑が絶えずあったのではないかと思います。だからこそ、「わたしは完全な道を歩きます。わたしを憐れみ、贖ってください」(11節)と祈り願うのです。

 神はその信仰と祈りに答え、欠点だらけ、失敗だらけの私たちを赦し、憐れみ、愛してくださり、キリストの贖いによって義と認め、「あなたは潔白だ」と言ってくださるのです。そこに、神の慈しみとまことがあります(3節)。

 冒頭の言葉(8節)で、この詩人は、神殿を慕っています。「あなた(主)のいます家」とは、神殿のことでしょう。そして、詩人は「主のいます家」を「主の栄光の宿るところ」と言い換えています。「宿る」というのは、「幕屋」(ミシュカン)という言葉です。

 出エジプト記40章34節に「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた」と記されています。幕屋は、エジプトを脱出した民が荒れ野を旅する間、神を礼拝するために設けられた移動用神殿で、同25章8節に「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう」と言われ、幕屋と祭具を造り始めたのです(同9節)。

 完成したとき、雲が幕屋を覆い、栄光が幕屋に満ちました。雲は神の臨在のしるしです。神の臨在のしるしが現れているところに主の栄光が満ちたということですから、確かにそこに主なる神がご自身を現された、かみがご臨在くださったと解釈することが出来ます。

 つまり、主の栄光とは、人間が見物することの出来る光景や現象などではなく、神の臨在されるところで主を礼拝する恵みを味わうことと考えられます。この詩人は、神殿にやって来て、主を礼拝する喜び、神の臨在の恵みを味わうために、かつて主の栄光が満ちた幕屋、今も生きておられる神の神殿、そこに住まわれる主なる神を慕い求めると言っているのです。

 そして、慈しみとまことを惜しみなく注ぎ与えてくださる神への感謝の思いが、ますます主の家を慕わしく思わせているのです。主は今、私たち主イエスを信じる者の心を住まいとし、そこに神の栄光を現そうとしておられます(第一コリント書6章19,20節)。主の御顔を慕い求め、慈しみ豊かな御言葉に耳を傾け、そのまことに従って歩ませていただきましょう。

 主よ、あなたの慈しみは私たちの目の前にあり、あなたのまことに従って歩みます。主よ、あなたのいます家、あなたの栄光の宿るところを私たちは慕います。私たちを憐れみ、贖ってください。その慈しみ豊かな御言葉に耳を傾け、主に信頼して御名を誉め讃えつつ歩みます。 アーメン





11月27日(火) 詩編25編

「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。」 詩編25編4節

 この詩には、アルファベットによる詩という注がついています(9,10編参照)。各節の最初の文字がアルファベットの文字順にならんでいるわけです。それは、詩の言葉を覚えやすくするという一つの技巧ですが、そこに、あらゆる言葉を尽くし、技巧を凝らして主に祈り、また賛美するという信仰の姿勢を見ることが出来ます。

 1節に「主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み」とあります。「仰ぎ望み」とは、「高く上げる」(ナーサー)という言葉で、手を天に向かって高く上げるのは、神に祈りをささげる仕草です(28編2節、141編2節)。

 「魂を高く上げる」とは、全身全霊をもって神に祈るということであり、おのがすべて、命をも神に委ねるという、神への信頼を言い表すものです(哀歌3章41節も参照)。それで、「仰ぎ望む」という訳語になっているわけです。24編4節の「魂を奪われることなく」も、「魂を上げることなく」という言葉遣いでした。

 その信頼は、2節の「神よ、あなたに依り頼みます」や、20節の「御もとに身を寄せます」、3,5,21節の「あなたに望みを置く」などの言葉にも示されています。そしてそれは、詩人の個人的な貧しさや孤独(16節)、悩み、痛み(17節)、労苦、罪(18節)からの解放、救いを求めて神に祈る根拠となっています。

 22節では「イスラエルをすべての苦難から贖ってください」と、神のすべての民のための祈りの言葉でこの詩が閉じられています。詩人の苦難がイスラエルの苦難に連なるものであること、私たちも神の民として、この詩の祈りに合わせて、自分自身の苦難からの救いを求めて祈るよう教えられます。

 この詩を読んで目につくのは、「道」という言葉です。そのうち、4節の「(従う)道」と10節の「(主の)道」は「小道」(オーラハ)という言葉、残りは、「道、大路」(デレク)という言葉です。また、「道」(デレク)から派生した「導く」(ダーラク)という動詞が、5,9節に用いられています。

 冒頭の言葉(4節)の中で、二つの「道」という言葉が使われているのは、詩の技巧によるものでしょう。口語訳は「あなたの大路をわたしに知らせ、あなたの道をわたしに教えてください」と訳し、新改訳は「あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えて下さい」と訳しています。リビングバイブルでは「進むべき道」、「歩むべき小道」となっていました。

 道は往来する場所、目的地に向かって通過するところですが、そこに、「従う」とか、「進むべき」、「歩むべき」という形容詞がつくと、私たちが生きている上での規範というような、道そのものが意味のあるものになります。

 「あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください」という願いに、苦難を乗り越えて生きるべき道を教えてほしいという思いと、神に従い、神と共に歩む道を示してほしいという思いを見ることが出来ます。

 詩人は、神の憐れみ、助けと導きがなければ生きることは出来ず、そして神に従うことも出来ないと考えているわけです。だから、「あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください。あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています」(5節)というのです。

 主イエスは、「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ福音書14章6節)と言われました。ここで主イエスが言われた「道」とは、父なる神のもとに行くための道路という意味ですが、「真理、命」と並べられて、生き方、生きる姿勢を示すものとなっています。

 つまり、主イエスという「道」を通って神との交わりに導かれ、そこから真理を得、「永遠の命」といわれる主ご自身の豊かな命に与らせていただくことが出来るのです。詩人も、「あなたのまこと(エメト)にわたしを導いてください」(5節)と願い、「主の道はすべて、慈しみ(ヘセド)とまこと(エメト)」(10節)と語っています。

 私たちは神に愛され、選ばれてこの道を歩む者としていただきました。主は、「わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ福音書15章16節)と仰せくださっています。主の道を歩むとは、主イエスと共に歩むということです。主イエスとの親しい交わりに導かれます。み言葉を聴くことが出来ます。

 そして、この道は十字架に向かいます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ福音書9章23節)と言われるとおりです。これは、大変な覚悟を伴う言葉でしょう。道楽や片手間で出来ることではありません。

 私たちは主イエスに招かれて、この道を歩み始めました。そして、主イエスがいつも共にいて、必要な助け、知恵と力を授けてくださいます。ゆえに、嫌々ながらではなく、感謝と喜びをもって歩むことが出来ます。

 私たちを愛し、恵みをお与えくださる主を信じ、日々その御言葉に耳を傾け、真理の道、命の道をまっすぐに歩むことができるよう、絶えず御霊の導きを祈りましょう。

 主よ、私たちを交わりに招いてくださり、感謝します。あなたの御声を聴き、御旨に従って歩むことが出来ますように。主の御名にふさわしく、いつも正しい道に導いてください。賛美しながら主イエスという門から入り、感謝して主を礼拝する者としてください。御名が崇められますように。 アーメン




静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に11月25日(日)主日礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。

②「今週の報告」、「フォトギャラリー」を更新しました。

③「お知らせ」は随時更新しています。

④「今日の御言葉」は毎日更新しています。


御覧ください。




 11月27日は、ノーベル賞制定記念日です。1895年のこの日、スウェーデンの化学者ノーベルが、自らの発明したダイナマイト、爆薬で得た富を、人類に貢献した人に与えたいという遺言を書きました。ノーベルの死後、ノーベル財団が設立され、1901年にノーベル賞の第一回受賞式が行われました。

 ノーベルの遺産を元にした基金168万ポンドの利子が、物理学、化学、生理学医学、文学、平和事業の5分野に貢献した人に、ノーベル賞として贈られています。

 後に経済学賞が追加されましたが、ノーベルの遺言に経済学部門は含まれていなかったことから、ノーベル財団はこれを認めていません。
正式には、アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞と言いますが、一般的にノーベル賞として扱われることが多いです。1968年、スウェーデン国立銀行設立300周年祝賀の一環として、その年がノーベルの死後70周年に当たることから制定されたものす。

 毎年、ノーベルの命日の12月10日に、平和賞はノルウェー・オスロで、その他の賞はスウェーデン・ストックホルムで授賞式が行われます。

 日本人で最初の受賞は物理学部門で、湯川秀樹博士の中性子理論が評価されました。それ以後、物理学部門で8人、科学部門で7人、生理学・医学部門で5人、文学部門で2人、平和事業部門で1人受賞しました。他国籍を取得して日本国籍を失った3人(物理学部門2人、文学部門1人)と併せて、合計27人の人々がノーベル賞の受賞者となっています。

 経済学部門で受賞した日本人は、まだいません。


 誰もがこのような賞を手にできるものではありませんが、誰かひとりにでも、「あなたがいてくれてよかった」と言っていただけるような生き方をしたいものだと思います。




11月26日(月) 詩編24編

「主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた。」 詩編24編2節

 24編は、栄光に輝く王たる主の権威を称えています。

 1節に「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの」とあります。原文では、最初に「主のもの」(ラ・ヤハウェ)と記されています。主なる神が天地の創造者であるがゆえに、天地万物の所有者であり、そこに住むすべてのものの支配者であることを表しています。

 そして、その次に大変興味深い表現が出て来ます。それは冒頭の「主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた」(2節)という言葉です。

 「潮の流れ」は、「川」(ナハル)という言葉で、絶えず流れて定まらない混沌の表象と、注解書に記されていました。岩波訳の脚注にも、「ここの『海』、『潮』(エゼ31:4,15、ハバ3:9-10)は、地の下にあるとされた(出20:4)『淵』を暗示する」とありました。

 旧約聖書には、神が大空の上と下に水を二分され(創世記1章6節以下)、そして、大地を水の上に広げた(詩編136編6節)と記されています。それはまるで、大陸が海の上に浮かんでいる浮島のようなものと考えているかのようです。当時の人々は、海と陸など、地球のことをそのように理解していたのかもしれません。

 ただ、現代科学では、海と陸ではありませんが、マントルの上を地殻が覆っていると考えられています。ちょうど卵の白身にあたる部分がマントルで、卵の殻が地殻です。因みに、黄身にあたるところは核(コア)と言います。地球の表面を覆う厚さ100㎞の地殻は、幾つかの板(プレート)に別れています。

 そして、マントルが熱によって対流すると、それによってその上のプレートが動かされているのです。つまり、大陸といえども不動ではないし、地球は冷たく大きな岩の塊というわけではないのです。私たちの住む日本は、プレートの端っこで、プレートとプレートがぶつかり合う位置にあると考えられています。そのぶつかり合いで地震などが発生します。

 あらためて、「大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた」というのは、私たちの人生を描写しているようです。自分はしっかりと人生設計をしたつもり、それに従って地歩を固めて来たつもりでも、それが一夜にして崩れることがあります。

 一流と言われる学校で学び、一流と言われる企業に就職して安定した生活を手に入れたはずだったのに、この不況下でリストラされ、あるいは倒産の憂き目を見た方々があります。突然の病や事故で、人生設計を狂わされてしまった人々がおられます。

 減少傾向にあるものの、1997年以降、毎日65人以上の人が自殺されるという異常事態が続いています。若者は勿論、中高年の自殺も大変な問題です。経済の問題、社会の問題、健康の問題、家庭の問題、人間関係の問題など、問題をあげればきりがありません。どんなに丈夫な家を建てても、大地そのものが揺り動かされれば、私たちの人生はそれによって大きく揺れ動くわけです。

 そのとき、私たちは大地を拠り所とするのではなく、目に見えるものの大きさやかたち、数の多さなどに信頼するのではなく、大海の上に大地の基を据えられた方、潮の流れの上に世界を築かれた主を信頼することが出来れば、それはどんなに心強いことでしょうか。私たちには波風を静める力はなくても、私たちと共におられる主イエスがその力を持っておられます(マルコ福音書4章35節以下)。

 3節以下に、創造主を礼拝する会衆について記しています。それは、他者に悪事を働かない潔白な手を持ち、隣人に対して誠実に相対する人、空しいものに魂を奪われず、ひたすら忠実に主に仕える清い心を持つ人です(4節)。その人は、主を求め、神の御顔を尋ね求めます(6節)。

 そのように主を仰ぐ者を祝福され、救いの神を慕い求める者に恵みをお与えになります(5節)。ここで、「恵み」と訳されているのは、「義、正義」(ツェダーカー)という言葉です。「祝福」(ベラーカー)という言葉と韻を踏んだ言葉遣いです。「義」は、神との関係を回復し、正しくする神の賜物です。だから、意味を汲んで「恵み」と訳したのでしょう。

 7,9節に、「栄光に輝く王が来られる」といい、8,10節に、「栄光に輝く王とは誰か」、告知します。それは、雄々しく戦われる万軍の主です。栄光に輝く王は、ご自分を求め、礼拝する民に、勝利者として臨まれます。天地万物の創造者にして支配者であられる主なる神は、ご自分の名をもって呼ばれる都、そこに建立された神殿に、勝利者としておいでになります。

 私たちをご自分のかたちに創造し、この世界に住まわせられた主の御顔を絶えず尋ね求め、私たちに恵みをお与えくださる救いの神の御言葉に日毎に耳を傾けましょう。

 天のお父様、今日も私たちに必要な糧をお与えください。私たちはあなたの口から出る一つ一つの言葉によって生かされているのです。主によって造られたすべての人々に、恵みと平和が豊かにありますように。 アーメン

 

11月25日(日) 詩編23編

「死の影の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」 詩編23編4節

 23編は、聖書の中で最も愛誦されてきた詩であり、私たちを慰めや励ましを与え、力づけるもののひとつです。この詩には、羊飼いが羊の群れを、どこまでも続く広い草原や、こんこんと湧き出る泉のほとりに伴っているといった、大変美しく安らぎを与える平和な情景が描かれています(2節)。

 けれども、雨の少ないパレスティナでそのような光景を目にするのは困難です。特に、ダビデ家の属するユダ部族に与えられたイスラエル南部の嗣業の地には、農耕に適さない、荒涼とした石ころ砂漠が広がっています。

 そのような厳しい自然環境の中で羊の群れを養い育てていくためには、羊の餌場、水飲み場を求めて絶えず移動せざるを得ません。そのためには、遊牧の経験豊富な羊飼いの存在が不可欠なのです。

 1節に「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と言われています。これは、神が羊飼いで、私たちが羊という関係を示しており、そして、「わたしには何も欠けることがない」ということは、主は優れた羊飼いであると言っているわけです。このように神を羊飼いと表現している箇所は、イザヤ書40章11節、エレミヤ書31章10節、エゼキエル書34章11節以下などにあります。

 表題に、「賛歌、ダビデの詩」と記されています。ダビデは少年時代、羊飼いをしていました(サムエル記上16章参照)。そこから神に選ばれて、イスラエルの王となりました。

 詩編78編70,71節に「僕ダビデを選び、羊のおりから彼を取り、乳を飲ませている羊の後ろから取って、ご自分の民ヤコブを、ご自分の嗣業イスラエルを養う者とされた」とあります。これは、神がダビデを羊を飼う者からイスラエルの民を養う者にされたという表現です。

 イスラエルの王は、神に代わってその民を養うように選ばれた羊飼いであるとも言われるのです。神に民を養う羊飼いとして選ばれたダビデが、神を羊飼いと呼んで感謝をささげているというところに、この詩の面白さがあります。

 ダビデがこの詩を作ったのは、羊飼いをしていた少年時代のことではありません。神への揺るぎない信頼に基づく心の静けさが、詩全体に溢れていますが、それは、何の苦労も煩いも知らなそうな子どものものではないのです。

 そうではなく、辛い経験と苦闘を通して(4,5節)、静かな夕べの憩いを見出し(6節)、様々な危険に脅かされているにも拘わらず、神との交わりの内に力を得ている(2,6節)、円熟した心の所産と見るべきです。

 この詩が、ダビデが晩年にいたり、息子アブサロムに命を狙われて都落ちしたとき(サムエル記下15章以下)の作ではないかと言われるは、そのためです。「死の影の谷」(4節)とか、「わたしを苦しめる者」(5節)という言葉で、敵に追われて死の淵を歩んでいるという様子が思い浮かぶからです。

 この想定が正しいのかどうかは不明ですが、ダビデにとって、息子に謀反を起こされたのは、どんなに辛い経験だったことでしょう。しかし、神はダビデを顧みて絶体絶命のピンチから救われ、再び王宮に戻し、王座に着くことが出来るようにされました。そこに神の憐れみがあります。

 このような経験を背景として、どんな時にも神が自分の羊飼いとして共におられ(1,4節)、食卓の交わりを通して慰められ、力づけられる(5節)信仰の喜びを歌い上げているのです。

 確かに、ダビデの目の前にあった現実は、「死の影の谷」と評した、荒涼とした石ころ砂漠かもしれません。瞬間瞬間、命が脅かされる状況が広がっている場所です。それでも、主なる神が私と共にいてくださるという確信により、彼の心のうちには、青草の原が広がり、命の水の湧き出る泉があったのです。

 ダビデの子孫として生まれ(マタイ福音書1章1節、ローマ書1章3節など)、「わたしは善い羊飼いである」(ヨハネ福音書10章11節)と語られた主イエスは、私たちの罪の贖いのために十字架にかかられ、そして三日目に死の力を打ち破って甦られました(第一コリント書15章3,4節)。

 主イエスは今も生きて、私たちの主、私たちの神として、私たちと共にいてくださいます(マタイ28章20節)。そして、私たちのためにあらゆる恵みを備えてくださるのです。主を信じ、主の導きに従って、祈りつつ、賛美しつつ歩ませていただきましょう。

 主よ、あなたは、どのようなときにも私たちの希望の源です。信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とで私たちを満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてくださいますように。 アーメン





11月25日(日)主日礼拝説教

11月25日(日)の主日礼拝には、教会員14名、来賓16名(初来会者1名、子ども2名を含む)がお見えになりました。感謝です。


主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「放蕩息子の兄」
聖書 ルカ福音書15章25~32節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師


ご覧ください。



11月25日(日)主日礼拝案内

02

11月25日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。

「聖書教育」誌にもとづいて、旧約聖書・イザヤ書から、共に聖書の学びと交わりを行います。



主日礼拝を10時半から行います。
日本バプテスト連盟に属する教会では、11月25日(日)から12月2日(日)まで、世界宣教のために祈り、献金する世界バプテスト祈祷週間として守ります。主日礼拝の中で、世界宣教のアピール、派遣宣教師の活動報告を行います。

礼拝では、ルカ福音書15章25~32節より、「放蕩息子の兄」と題して、原田牧師より説教をいただきます。


写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。


キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


礼拝後、信徒会を行います。

その後、アドベント(待降節:12月2日~12月24日)に入るための準備を行います。

昼食の用意はありません。








 

11月24日(土) 詩編22編

「だがあなたは、聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方。」 詩編22編4節

 22編は、キリスト者にとって重要な詩です。それは、主イエスが2節の「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という言葉を、十字架の上で叫ばれたからです(マルコ15章34節)。

 また、8,9節の「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう』」という言葉は、十字架につけられた主イエスを嘲る人々を描写しています(マルコ15章29~32節)。

 17節の「犬どもがわたしを取り囲み、さいなむ者が群がってわたしを囲み、獅子のようにわたしの手足を砕く」は、主イエスが十字架につけられる際に、手足を釘で刺し貫かれたこと、脇腹が槍で突かれたことを語っているようです(ヨハネ19章34節、20章20,25節参照)。

 そして19節の「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」は、主イエスを十字架につけたローマの兵士たちがくじで主イエスの衣服を分け合ったことと合致しています(マルコ15章24節)。

 そのように、キリスト者にとって主イエスの最期を描写しているものとしてよく知られ、受難預言として読まれるこの詩ですが、そのような解釈を一端離れて、詩の言葉に静かに耳を傾けてみましょう。

 冒頭の言葉(4節)について、原文の「ヴェ・アッター・カードーシュ・ヨーシェーブ・テヒロート・イスラエール」を直訳すれば「しかし、あなたこそ聖、イスラエルの賛美(複数)に座す方」となります。新共同訳の「だがあなたは、聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方」はかなりの意訳です。

 口語訳は「しかしイスラエルのさんびの上に座しておられる、あなたは聖なるおかたです」、新改訳は「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」、岩波訳は「しかし、あなたは、聖なる方、イスラエルの諸々の讃歌に座する方」と訳しています。

 「いまし」と訳された言葉は、「座す、住む、留まる」(ヤーシャブ)という意味の言葉です。「ヨーシェーブ」は現在完了分詞なので、「住まいとされる方」、「座する方」という訳語にもなるわけです。

 主なる神がイスラエルの賛美の上に座しておられる、賛美を住まいとされるという表現は、この箇所以外には出て来ません。岩波訳の脚注にも、「讃歌を歌うイスラエルの会衆の上に臨む神(申10:21参照)の意か。ヤハウェは『ケルブたちに座する』(80:2、99:1)のが普通で、『讃歌に座する』という表現はここだけ」とあります。

 讃歌を歌う会衆の上に神が臨まれるという考え方が妥当であるならば、神のおられる聖所に向けて讃歌がささげられると考えることも出来ますから、新共同訳のような解釈も生まれて来るわけです。

 聖所は、神を礼拝する場所です。そして、苦しみの中にいる民が避難してくる場所です。この詩人は、いま、神から捨てられたように感じて、絶望の淵にいます(1~3節)。それは、詩人がどのように呻き、呼び求めても、神が答えてくださらないからです。それでも、神を呼ばずにはおれません、叫ばずにはおれません。

 詩人にとって、神は聖なるお方、あらゆるものから区別されているお方です。だれも神聖を冒すことは出来ません。神の聖さの前ではすべてのものが沈黙するのです。しかし、この聖なるお方は、イスラエルと特別な関係を持たれます。

 かつて、イスラエルの民がエジプトで奴隷となっていたとき、彼らの呻きを聞かれました。そこで、モーセを立て、イスラエルの民を救われました。彼らに、歓喜の歌をお与えになりました。

 出エジプト記15章2節に「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった」とあります。「(主は)わたしの歌」というのは、主がわたしに歌を与えてくださったということです。神が「葦の海の奇跡」(同14章)を通してイスラエルの民を救い出されたからです。

 この民と共におられ、民の内に住まうために、主なる神は「聖なる所」として幕屋を造らせました(同25章など)。イスラエルの民はその幕屋で主とお会いし、祈りをささげてきました。神は絶えずその祈りを聞き、彼らの信仰に応えてくださいました。

 詩人は、先祖のエジプトの奴隷の苦しみに自分を重ね、そして、先祖を救ってくださった神、先祖の祈りに答えてくださった神を思っているのです(5,6節)。そこで、7節以下に自分の苦境を訴え(13~19節)、祈りに答えて救い出してくださるように求めます(20~22節)。

 そしてついに、「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します」(23節)と歌い始めます。嘆きの祈りが喜びの賛美に変えられたのです。ここに、詩人の信仰経験があります。神の恵みに触れたのです。

 パウロが、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(第一テサロニケ書5章16~18節)と語っています。パウロの人生は、苦難の連続でした(第二コリント書11章23節以下)。その彼が、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝していたのです。だから、他の人々にもそうするように教えているわけです。

 そうするのは、「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」(第一テサロニケ5章18節)だからです。つまり、私たちがいつも喜び、たえず祈り、どんなことも感謝するとき、神はその喜びの歌、感謝の賛美を住まいとされるのです(4節)。

 私たちもこの詩人に倣い、主イエスを通して賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の実を、絶えず主にささげましょう(ヘブライ書13章15節)。主は万事を益とされます(ローマ書8章28節)。どんなマイナスも、プラスになるのです。

 「主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を畏れよ」(24節)。

 主よ、御名を崇め、感謝と賛美をささげます。絶えずあなたに目を留め、あなたにのみ信頼を置き、その御言葉に聴き従う者とならせてください。地の果てまで、すべての人が主を認め、御許に立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように。 アーメン




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