風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2018年10月

10月18日(木) ヨブ記27章

「わたしは自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じるところはない。」 ヨブ記27章6節

 25章のビルダドの発言に対して26章で反論したのに続き、ヨブは27章で誓いの言葉を口にします。その結論が、冒頭の言葉(6節)です。

 2節で「わたしは誓う」というのは、原文で「神は生きている」(ハイ・エール)という言葉ですが、これは、誓いを立てるときの定型表現なので、そのように訳されているわけです。

 4節を直訳すると、「もしわたしの唇が不義(アヴェラー)を語るなら、もしわたしの舌が偽り(レミーヤー)をつぶやくなら」という言葉遣いです。その帰結が記されていませんが、5節前半につながっていると見てもよいでしょう。

 5節の「断じて」は「わたしにとっては断じて」(ハリーラー・リー)という言葉です。5節前半を直訳すると、「わたしにとっては断じて、もしも、わたしがあなたがたを正しいとするなら」という文章になります。

 分かりやすく訳せば、「わたしがあなたがたを正しいとするなら、わたしは呪われよ」ということでしょう。つまり、「わたしにとっては断じて」というのは、自分自身を呪う言葉なのです。「恥を知れ」と訳した聖書もあるようです。

 さらに、5節後半の「死に至るまで」は、「たとえ息絶えることがあっても」という意味で、「たとえ息絶えることがあっても、潔白を主張することから離れない」という文章になり、命をかけてそれを守るという、誓いの言葉といってよいでしょう。

 6節までに、三つの誓いの表現があり、内容的にも、①2,3節、②4,5a節、③5b,6節に分けられます。①は神に対して、②は自分自身に対して、そして③は潔白と正しさに焦点を合わせています。

 2節の「魂」(ネフェシュ)、3節の「息吹」(ルーアハ)、「息」(ネシャーマー)という命に関する三つの言葉と、3節の「鼻」、4節の「唇」と「舌」という体の三つの器官とが対応していて、「骨は皮膚と肉とにすがりつき、皮膚と歯ばかりになってわたしは生き延びている」(19章20節)と息も絶え絶えの様子だった者が、今ここに力があふれているような表現を用いています。

 生まれなければよかった、生まれてすぐ死ねばよかった、早く死にたいという表現で、独白を始めたヨブでしたが(3章参照)、ここまで友らとの対論を重ねて来て、ただ苦しく辛いだけ、空しいだけではなかったということでしょうか。あるいは、ヨブ自身が分からないかたちで、神の力、助けに与って来たということでしょうか。

 しかし、「断じて、あなたたちを正しいとはしない」(5節)というのは、友らの意見に首肯できるものではないという強い思いが示されます。だから、「わたしに敵対する者こそ罪に定められ、わたしに逆らう者こそ不正とされるべきだ」(7節)と断罪し、13節以下に、悪人のたどる運命を列挙しています。

 これはまるで、20章のツォファルの発言のようです。そのような読み方をする註解者もいます。その真偽は分かりませんが、「自らの正しさに固執して譲らない」(6節)ヨブが、自分を苦しめた友らのたどる運命として、それを語ったという解釈もできるでしょう。

 これまで自分に向けて語られて来た、神に逆らう者が被る報いについて、友らに向かって述べるというところに、他者を裁く者はその裁きで裁き返され、呪う者は呪い返されるという構図が完成します。ただ、そのように友らを裁き、罪に定めることは、正しいことでしょうか。「一日たりとも心に恥じることはない」(6節)という人のすることでしょうか。

 正しい者がなぜ災いをこうむるのかということで苦しんできたヨブですが、彼は今もまだ、正しいことをした者には神の恵みが、神に逆らうものには神の裁きが臨むという、伝統に基づく価値観の上に立っているわけです。

 自分の正しさに固執して、その自分に対する神のなさりように、神の不義をいうヨブが、他者の罪に対する義なる神の処罰を語るというのは、明らかに矛盾です。10節で「全能者によって喜びを得、常に神を呼び求めることができるだろうか」と語るヨブにそのとき、全能者による喜びがあったとはいえないでしょう。

 ただ、苦難の中から希望を見出そうともがき、呻いて、苦しみからの解放をひたすら待ち望んでいるわけです。まるで、嵐の海に浮かぶ舟の中で枕して眠っている主イエスをたたき起こし、私たちが溺れ死んでもかまわないのですかと、取り乱して叫んでいたペトロのような(マルコ4章38節)、平安を失い、希望を失ってしまった姿です。

 とはいえ、主イエスはそのペトロの叫びを無視なさいませんでした。嵐を鎮め、目的地に無事たどり着かせてくださいました。それは、彼らの信仰の結果などではありません。主の恵みです。主を呼び求めることのできる幸いを思います。

 私たちは、自分の知恵や力ではなく、主イエスを拠り所とし、常に主イエスを呼び求め、主イエスの平安に与らせていただきましょう。

 主よ、どんなときにも思い煩うことなく、何事でも感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているところをあなたに打ち明けます。あらゆる人知を越えるあなたの平和で、私たちの心と考えを、キリスト・イエスによって守ってください。主の恵みと平安が常に豊かにありますように。 アーメン




10月17日(水) ヨブ記26章

「だが、これらは神の道のほんの一端。神についてわたしたちの聞きえることは、なんと僅かなことか。その雷鳴の力強さを誰が悟りえよう。」 ヨブ記26章14節

 26章は、ビルダドの三度目の発言に対するヨブの応答です。25章のビルダドの言葉があまりにも短かったことと、本章5節以下の段落のテーマがビルダドの主張に添ったものであるために、5~14節はビルダドの言葉であると考えて、25章6節以下につなげて解釈する学者も少なからずおられるようです。岩波訳もその立場をとっています。

 ことの真偽はよく分りませんが、主なる神は、ヘブライ語原典を現在のかたちで私たちに伝えさせておられ、またビルダドの立場との相違も垣間見えることから、与えられているままに受け取り、学んでいくべきだろうと思います。

 ヨブは、「あなた自身はどんな助けを力ない者に与え、どんな救いを無力な腕にもたらしたというのか。どんな忠告を知恵のない者に与え、どんな策を多くの人に授けたというのか」(2,3節)という言葉でビルダドの発言を遮り、反論を開始しています。

 ビルダドは、「どうして、人が神の前に正しくありえよう。どうして、女から生まれた者が清くありえよう」(25章4節)と言い、月星も神の前に輝きを失う(同5節)と語った後、「まして人間は蛆虫、人の子は虫けらにすぎない」(同6節)と断じました。

 ここに、人間のことを、「人(エノシュ:死ぬべき存在 mortal man)」、「女から生まれた者」、「蛆虫」、「虫けら」と語っています。有限の存在であり、月や星よりも清さにおいて劣る人間、蛆虫、虫けらに過ぎない者が、全能の神と言い争うことなど、許されることではないという発言でしょう。

 それを受けたヨブも、「力ない者」、「無力な腕」(2節)、「知恵のない者」(3節)と、それを展開しています。そして、友人たちによって、神の御前に力なく、無力で、知恵のない者とされている自分を、どのように助け、救い、忠告し、方策を授けたのかと問うのです。

 これは、ビルダドをはじめ、友らの言葉は、自分にとって、何の助け、救いにもならず、忠告を受けることも、苦難から抜け出す方策を授かることもなかったと、皮肉をこめて語っているわけです。

 5節以下に森羅万象の知識を披瀝していますが、これは、25章2,3節のビルダドの神の力、御業をたたえる言葉を受けて、その程度のことは自分も知っているという表現です。これは、一回目の対話においてビルダドの発言(8章)に対して答えた、9章の言葉に重なる発言になっています。

 たとえば、9節の「覆い隠す」は9章7節の「太陽は昇らず」、11節の「天の柱は揺らぐ」は9章6節の「地の柱は揺らぐ」、12節の「海」、「ラハブ」は9章8,12節に、それぞれ出て来ます。

 その結論として、冒頭の言葉(14節)のとおり、「これらは神の道のほんの一端。神についてわたしたちの聞きえることは、なんと僅かなことか」と言います。あらゆる知力や感覚を総動員しても、神について見聞きし、知り得ることはごく一部、ほんの僅かなことだということです。

 このことも、9章2節の「神より正しいと主張できる人間があろうか」、また、同4節の「御心は知恵に満ち、力に秀でておられる。神に対して頑なになりながら、なお、無傷でいられようか」と重なっていました。 

 「わたしたちの聞きえることはなんと僅かなことか」の「僅かな」(シェーメツ)というのは大変珍しい言葉で、旧約聖書中2度だけ、それもヨブ記だけに用いられています。ここと、もう一か所は4章12節です。

 そこでは、「シェーメツ」が「かすかに」と訳されていました。エリファズは、忍び寄るかすかな声によって神の知恵の言葉を聞いたと語っていました。、そのとき聞き取ったのが、同17節以下の括弧に括られている言葉です。 

 ヨブは「わたしたちの聞きえることはなんと僅かなことか」と受けた上で、「その雷鳴の力強さを誰が悟りえよう」と語ります。「雷鳴」という言葉は、詩編81編8節に「わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い、雷鳴に隠れてあなたに答え、メリバの水のほとりであなたを試した」というところにも用いられています。

 この詩編の言葉は、出エジプトの物語を簡潔に描き出しています。神は、エジプトにおいて苦役のゆえに嘆いていたイスラエルの民の助けを求める叫びを聞かれ(出エジプト記2章23節)、モーセを遣わしてエジプトの国から導き出されました(同12章51節)。

 神は、民をシナイの荒れ野に導き(同19章1節)、シナイ山で十戒を含む律法をお授けになります(同20章1節以下)。その際、神は雲の中に姿を隠し、雷鳴をもってモーセに語られました(同19章16,18,19節)。

 雷鳴をもって語られる神のイメージを浮かび上がらせて、「かすかに聞いた」というエリファズに挑戦しているようです。また、「力強さ」(ゲブーラー)という言葉は、ツォファルに答えるヨブの言葉の中で、12章13節の「神と共に知恵と力(ゲブーラー)はあり、神と共に思慮分別もある」というところに用いられていました。

 しかしながら、神の知恵、力の強さ、思慮分別は、今のヨブにとって、自分が正しいと神の御前に主張することが出来ない(9章2節)、そうすれば、ただでは済まない(同4節)という、喜ぶことの出来ないものでした。「誰が悟りえよう」というのは、そういう思いなのでしょう。

 22章以下、三度目の対論において、ヨブの発言に何度も「誰?」(ミー)という疑問代名詞が用いられます。23章2節、24章25節がそうでした。今回は、4節に二度用いられています。そして、「誰が?」と言っていますが、その答えは明らかに「神」を示しています。

 ヨブは4節で、神の言葉を取り次いでいるのか、神の息吹(ネシャーマー:霊、息)があなたを通して吹いているのかとビルダドに質しています。それを仄めかす発言は、ビルダドの言葉から伺うことは出来ませんが、エリファズの発言(4章17,18節)を25章4,5節に引用しているのは、自分も同様に神の霊の導きを受けているということを示しているのでしょう。

 ヨブがそう質しているということは、彼らの発言が神の言葉の取次だとは思えない、彼らが神の霊の導きを受けているとは考えられないということでしょう。神に自分の苦しい思いを訴え、神に応えて欲しいと思っているヨブは、だから、神に替わって発言する友らの言葉はいらないと考えているのでしょうか。

 一方、力のない者に助けを与え、無力な腕に救いをもたらし、知恵のない者に忠告を与え、問題を解決する策を授けるためには、神の言葉、神の息吹が必要だと、ヨブは考えているわけです。それは、何より、ヨブが求めているものだからです。

 力がなく、知恵を必要としているとき、神の言葉を求めましょう。神の霊の導きを求めましょう。日々神の言葉、霊の導きに与り、その恵みを共に分かち合いましょう。力のない者に助けを与え、無力な腕に救いをもたらす神の愛の言葉、慰めの言葉を分かち合うことが出来れば、どんなに幸いでしょうか。

 私たちが神について知っていることは僅かで、神の御言葉の力強い轟きに較べれば、私たちの言葉は囁きにもなりません。謙遜に、神の導きを祈り求めましょう。神に用いられる器として頂くために、主の導きに従順に、喜びと感謝をもって従う者となりましょう。

 主よ、私たちはふつつかな僕にすぎません。私たちに語るべき言葉、為すべき業を教えてください。御言葉と御霊の導きに従順に、喜びと感謝をもって従うことが出来ますように。この地に御心をなす器として用いてください。主の御名が崇められますように。 アーメン





10月16日(火) ヨブ記25章

「まして人間は蛆虫、人の子は虫けらに過ぎない。」 ヨブ記25章6節

 25章には、シュア人ビルダドの、ヨブに対する三度目の発言が記されています。ヨブの三人の友人がヨブに語るのは、この章で終わりです。ツォファルが三度目に発言することはありませんでした。

 そして、ビルダドの発言は短く終わっています。その後、ヨブの言葉が長々続いているところから考えて、ビルダドの発言を途中で遮り、もはや彼らの意見に耳を貸すつもりはないこと、自分の思いのたけを述べ尽くすことだけが、彼の望みだったということを示しているかのようです。

 また、ビルダドの4~6節の発言は、エリファズの4章17~19節、15章14~16節の発言を借用したものです。ヨブがビルダドに応答した後(26章以下)は、もはや彼らが反論しないことで、三人はヨブとの議論に手詰まりを覚えていたのではないかと思われます。

 4節以下の議論を導入するために、ビルダドは2,3節で、神の威光を語ります。「恐るべき支配の力」(2節)を持つ神が、高慢に神に逆らう者を退け、全宇宙に「平和を打ち立てられ」(2節)ます。

 「その軍勢は数限りなく」(3節)というのは、イザヤ書40章26節の「目を高く上げ、だれが天の万象を想像したかを見よ」という言葉で示されるように、空の星のことを意味しています。というのは、「天の万象」とは「天の軍勢(ツァーバー)」という言葉なのです。

 創世記1章14~19節に日と月と星が創造されたという記事がありますが、それによって「昼と夜とを治めさせ」(同18節)というのは、ビルダドの言う「支配」(マーシャル)と同じ動詞が用いられています。

 「その光はすべての人の上に昇る」(3節)は、「その光を受けない者が誰かいるか」という言葉遣いです。ヨブは神におびえさせられて、「わたしは暗黒を前にし、目の前には闇が立ち込めている」(23章17節)と言っていました。それに対して、神の支配は平和、その光はすべての人をあまねく照らすと、ビルダドが反論しているわけです。

 ヨブは以前、「人間とはなんなのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか」(7章17節)と言っていました。これは、詩編8編5節をもじったものです。土くれに過ぎない人が天地を創造された神に顧みられる感動を歌っています。特に、御手によって造られたものをすべて「治める」(同7節)という、栄光ある使命が与えられたことに、驚きを表わしているのです。

 一方、ビルダドが「月すらも神の前で輝かず、星も神の目には清らかではない」(5節)といった後、冒頭の言葉(6節)のとおり、「まして人間は蛆虫、人の子は虫けらにすぎない」と語るのは、人は、正しさ、清さにおいて、神の前に輝かない月、清いとされない星よりも、劣った存在だと告げていたのです。

 「蛆虫」は、17章14節、21章26節において、死を象徴するものです。「虫けら」は、マタイ福音書6章19節、20節との関連で、腐食を示しているのではないかと思います。土くれを「塵」と称するのと同様、人は死ぬべき存在、しかも、「蛆虫」、「虫けら」ということで、最期の時が迫って来ていることを思わせます。

 詩人もヨブも、ビルダドが考え、発言していることを否定することはないでしょうけれども、ビルダドは、人間の死ぬべき運命、弱さ、はかなさを思わずにいられない存在に、神がお与えになった、すべて命あるものを治めるようにという素晴らしい使命を忘れているようです。

 「人がどうして神の前に正しくあり得よう」(4節)という言葉は、ヨブばかりでなく、エリファズ、ビルダド、ツォファルにも、そして、今ヨブ記を読んでいる私たちにもあてはまります。いったい誰がヨブに石を投げることが出来るでしょうか。そんな資格のある者はいません。皆同じ罪人なのです(ヨハネ8章7節以下参照)。

 パウロが、「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない』」(ローマ書3章9~12節)と指摘しているとおりです。

 私たちは、自分で自分を義とすることは出来ませんけれども、しかし、最後の審判の時、主イエスが私たちの右にお立ちくださり、神の御前で私たちのために弁護者として私たちの無罪を主張してくださいます。

 それはちょうど、サタンに向かって、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」(1章8節)と語られた神の言葉のようなものではないでしょうか。

 なぜ、神の前に正しくあり得ないと言われる人間が、「無垢な正しい人」と評価されているのでしょうか。神は、ヨブが自分の義を盾に、神は間違っていると主張し始める前だったので、そう評価されたというわけではないでしょう。サタンの試みに遭えば、無垢ではいられなくなるということを、神はよくよくご存じだったのではないでしょうか。

 それにも拘わらず、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と賞されるのは、主イエスの贖いの業、救いの恵みゆえです。主イエスがご自分の十字架の死によって、私たちを訴えて不利に陥れる証書を、その規程もろとも破棄してしまわれたからです(コロサイ書2章14節)。

 私たちの罪の代価がキリストの十字架を通して支払われたので、私たちは主に結ばれて、罪なき者として生きることが出来るようにされたわけです。そしてそれは、私たちが神がお与えくださる新しい使命に生きることなのです。

 神の恵みを無駄にせず、キリストの言葉を心の内に豊かに宿らせ、心から父なる神に感謝しつつ、委ねられた使命を果たすべく、その御業に励みましょう。

 主よ、主に敵対して歩んでいた罪人の私のために、御子が贖いの業を成し遂げてくださったこと、その深い憐れみのゆえに、心から感謝致します。御名が崇められますように。和解の御業が前進しますように。全世界にキリストの平和がありますように。 アーメン




静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に10月14日(日)主日礼拝の礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。

②「今週の報告」を更新しました。

③「お知らせ」は随時更新しています。

④「今日の御言葉」は毎日更新しています。


御覧ください。




今日10月16日は、世界食糧デー(World Food Day)です。

国際デーの一つで、1981年に国連食糧農業機関(FAO)が制定しました。

1945年のこの日、FAOが設立されたのです。

世界食糧デーは、世界の一人ひとりが協力しあい、最も重要な基本的人権である「食料への権利」を現実のものにし、世界に広がる飢餓、栄養不良、極度の貧困を解決することを目的としています。

毎年、世界食料デーの前後には、食料問題に関する国際的な政策を話し合う「世界食料安全保障委員会(CFS)」が開催されるほか、世界各地でイベントが実施されます

ハンガーフリーワールド(「世界食糧デー月間」事務局)のサイトがありました。
URL http://worldfoodday-japan.net/about/


ごらんください。





10月15日(月) ヨブ記24章

「町では、死にゆく人々が呻き、刺し貫かれた人々があえいでいるが、神はその惨状に心を留めてくださらない。」 ヨブ記24章12節

 ヨブは、「なぜ、全能者のもとには、さまざまな時が蓄えられていないのか。なぜ、神を愛する者が、神の日を見ることができないのか」(1節)といって、神の御心が分からない中で、神が蓄えている(ツァーファン:「隠す、蓄える」の意)時の中に、世の中の不正を正すための「神の日」を定めておられるはずなのに、それを見られないのはなぜかと訴えます。

 ヨブがそう考える根拠が2節以下12節までに列挙されています。うち、2~4節の弱い立場の者が虐げられ、力づくで隣人のものを貪るという悪については、エリファズが22章5~9節で、ヨブが行っていると告発していた内容です。

 しかし、ヨブは、それを行っている悪人を告発する目的で、それらを語り出したわけではありません。悪人によって苦しめられている人々に共感しつつ、その最後に、冒頭の言葉(12節)のとおり、「町では、死にゆく人々が呻き、刺し貫かれた人々があえいでいるが、神はその惨状に心を留めてくださらない」と、深い嘆きを語るのです。

 「心を留める」は、23章6節で「顧みる」と訳されていた、「シーム」ということばです。23章では、神がヨブの訴えを心に留めてくださるという期待を語りました。しかしながら、現実には、ヨブにお答えにならないだけでなく、断末魔の呻きをあげている者、深く傷ついてあえいでいる者にも、目をお留めくださらないのです。

 「惨状」(ティフラー)は、「空しい、愚かさ、愚劣さ、良くない」といった意味の言葉ですが、この言葉は、1章22節で「このようなときにも、ヨブは神を非難(ティフラー)することなく、罪を犯さなかった」というところに用いられています。この意味を生かせば、神は呻き、喘ぎをもってする非難に心を留められないということになります。

 神が悪に、そしてその悪によって苦しめられている人に目を留めてくださらない様子を、13節以下に語ります。14節に「人殺しは夜明け前に起き、貧しい者、乏しい者を殺し、夜になれば盗みを働く」と言います。「夜明け前に」というのは「光に」(ラー・オール)という言葉です。

 13節に「光に背く者」とあるので、「光に」とは、「光に逆らって」の意味かも知れません。ただ、後半の「夜になれば盗みを働く」との関連で考えると、「光」は「昼」を表すもので、日の高いときに人を殺し、夜には盗みを働くということになります。いかに神が悪を見逃しておられるかというしるしです。

 エリファズの22章の発言に対する応答として、「今日も、わたしは苦しみ嘆き、呻きのために、わたしの手は重い」(23章2節)と語り始めたヨブが、「町では、死にゆく人々が呻き、刺し貫かれた人々があえいでいるが、神はその惨状に心を留めてくださらない」(12節)と嘆いているのは、出エジプトの出来事に対する疑いを言い表す挑戦的なものだという解釈があります。

 出エジプト記2章23節に「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた」と記されています。このときに、エジプトの苦役によるイスラエルの人々の呻き、助けを求める叫び声は神に届きました。

 ヨブは23章3節で、「どうしたら、その方を見出せるのか。おられるところに行けるのか」と問うていました。イスラエルをエジプトから救い出された神、そのために燃える柴の中からモーセに語りかけた(出エジプト記3章4節以下、9節)、その方はどこにおられるのかと問うのです。

 このとき、あるいはヨブの目に、民の苦しみを見、叫び声を聞き、その痛みを知り(同3章7節)、その苦しみから連れ出してくださる(同10節)という神は見えず、むしろ、民の痛みを感じようとせず、頑迷になって行くファラオのように神を見ていたかも知れません(同5章以下)。

 ヨブは今回の発言を、「だが、そうなっていないのだから、誰が、わたしをうそつきと呼び、わたしの言葉をむなしいものと断じることができようか」(25節)という言葉で閉じています。

 23章3節の「どうしたら、その方を見出せるのか」という言葉は、「誰が与えるのか」(ミー・イッテン)「わたしは知る」(ヤーダッティー)という言葉遣いでした。つまり、「誰が」(ミー)という同じ疑問代名詞が、今回のエリファズに対するヨブの応答の言葉の初めと終わりに用いられて、その発言全体を特徴づけているわけです。

 「断じる」(25節)は、23章6節(顧みてくださる)、24章12節(心に留めてくださらない)に続いて、今回のヨブの発言で3度目に用いられる「シーム」という言葉です。 神が顧みてくださるのか、心に留めてくださらないのか、相反する思いを内に抱えたまま、今日もヨブは「苦しみ」(メリー:23章2節=反抗)つつ、神を呼び求めているのです。

 主イエスが「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」(マタイ5章6節)と、山上の説教(同5~7章)において語られました。ここに語られている「義」とは、神との関係を示しています。

 私たちと神との間に正しい関係が造られる時、それを「義」というのです。義兄弟という言葉でいう「義」がそれです。義兄弟は本当の兄弟ではありませんが、兄弟の関係となったということです。

 「神の義」、即ち神との正しい関係を、人間が自ら造り出すことは出来ません。むしろ、人間は神の前に罪を犯し、「神の義」を損なって来たのです。そこで、「義に飢え渇く」とは、神との正しい関係を強く求めることです。主イエスは、義に飢え渇く者は、神がそれを満たしてくださると約束されました。

 それは、神ご自身が私たち人間と正しい関係を回復したいと考えておられるからです。そして、そのことのために、独り子イエス・キリストをお遣わしになりました。キリストがご自分の命をもって私たちを贖い、あらゆる罪を赦して神の子とし、永遠の命に与らせてくださったのです。

 それはまだ、ヨブの目には隠されています(1節)。しかし、必ず時は満たされるのです。神の国は来るのです(マルコ福音書1章15節)。

 主よ、ヨブは今、神が自分の呻きに応えてくださること、神の日を見ることを、飢え渇く思いで求め続けています。それに応えるかのように、義に飢え渇く者は幸いと語られた主イエスの御言葉を感謝します。求めを満たしてくださるという約束をいただきました。御心がこの地に成りますように。全世界に主の恵みと平安が豊かにありますように。 アーメン




10月14日(日) ヨブ記23章

「しかし、神はわたしの歩む道を知っておられるはずだ。わたしを試してくだされば、金のようであることが分かるはずだ。」 ヨブ記23章10節

 23,24章は、エリファズに対するヨブの三度目の応答です。このとき、ヨブの目はエリファズではなく、どこにおられるのか分からない神に向けられているようです。

 2節の「今日も、わたしは苦しみ嘆き、呻きのために、わたしの手は重い」で、「嘆き」(シーアハ)という言葉は、21章4節で「わたしは人間に向かって訴えている(シーアハ)のだろうか」というところに用いられていました。それは、神に向かっての嘆きだということです。

 また、「苦しみ」(メリー)と訳されているのは「反逆、反乱、謀叛」という言葉です。神に反抗して、嘆き、呻いて訴えているということになります。

 エリファズが、「神に従い、神と和解しなさい」(22章21節)と奨めていましたが、ヨブはむしろ、嘆き訴えて反抗することが、自分の敬虔な信仰を表わす神への祈りだといっているかのようです。 

 「呻きのために、わたしの手は重い」も、祈りの姿勢を示しています。詩編28編2節に「嘆き祈るわたしの声を聞いてください。至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます」とあります(77編3節など参照)。

 「手は重い」というのは、出エジプト記17章12節で、祈るために上げた手が疲れて下がるさまを示していました。ここでは、祈りの答えがなかなか与えられず、気力が萎えて来ていることを示しているのでしょう。

 3節に「どうしたら、その方を見出せるのか。おられるところに行けるのか」というように、神がどこにおられるのか、どうすれば自分の訴えが神に届くのか、皆目分からなくなっているのです。であれば、神に向かって祈っているのか、ただぶつぶつと不平を呟いているだけなのかと、不安になってしまいます。

 ヨブは、9章32節以下に言い表したように、ここでまた、神と共に裁きの座につくことを願い求めます。そうすれば、神の面前に訴えを整え、言い分を伝えることが出来るからです(4節)。また、神の応答の言葉を聞き、御心を悟ることも出来ます(5節)。

 そうすれば、神が自分に「心を留め」(シーム:1章9節、4章20節など)、自分の「訴え」(ミシュパート)が「解決」(パーラト:「救い出す」、21章10節では「子を産む」と訳されている)されます(6節)。19章25節の「わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」という希望の光が、ここにも見られます。

 けれども、その光はとても弱くなっています。日の昇る方へ進んでも、日の沈む方へ退いても、左へ、右へと目を転じても、神が見いだせないのです(8,9節)。つまり、ヨブの訴えに応える神の言葉が、ヨブの耳に聞こえて来ないのです。

 それでもヨブは、諦めはしません。神が必ず自分の正しさを認めてくださると信じています。冒頭の言葉(10節)で「神はわたしの歩む道を知っておられるはずだ」といい、続けて「わたしの足はその方に従って歩み、その道を守って離れたことはない」(11節)、「その唇が与えた命令に背かず、その口が語った言葉を胸に納めた」(12節)と語っています。

 「わたしを試してくだされば、金のようであることが分かるはずだ」というのは、22章24節でエリファズが「黄金を塵の中に、オフィルの金を川床に置くがよい」と言ったのを受けてのものです。同25節に「全能者こそがあなたの黄金」と述べているので、24節の「黄金」は、その時ヨブが大切にしていた、自分が正しく敬虔に生きて来たという思い、誇りを指しているといってよいでしょう。

 それを塵の中に置くとは、その思い、プライド、そこから出た神への訴えを捨て去るように、葬るようにということでしょう。その誇りが高ぶりとなり、神の前に謙り、忠実に聞き従うことを妨げていると、エリファズは考えていたわけです。

 しかしヨブは、それをきっぱり拒絶し、試してもらえば、自分がどのようなものか、分かると言います。金に不純物が含まれていないか、金でメッキしただけのものではないか、比重を量ったり(金の比重は19.32g)、一定温度で溶かしてみれば、何が混ざり込んでいたのかも分かります(金の融点は1064.18℃)。

 それによって、自分の信仰が純粋なものだということを確認してほしいということでしょう。けれども、このとき、ヨブは自分で気づかないまま言っているようですが、それこそ火のような試練(第一ペトロ書4章12節)で、彼の信仰の純粋さ、無垢で敬虔なものかどうかが試されているわけです(1章8節以下、2章3節以下)。

 ヨブと三人の友らとのやりとりは、ヨブがそれまで信じて来た旧来の因果応報的な信条と、自分に襲いかかって来た大変厳しい現実とのギャップに苦しんでいる、ヨブ自身の心の葛藤が投射されているものと言ってもよい内容です。

 ここでヨブが拠り所としているのは、主なる神なのか、それとも「その方(神)に従って歩み、その道を守って、離れたことはない」という自分の正しさなのか、そこが問われているといってもよいのかも知れません。神を見出そうとして見つけることが出来ないのは、ヨブが自分の正しさを神に認めさせようとするその自信が、彼の目を曇らせているように思われます。

 「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19章16節)と尋ねた青年に対して、主イエスは「命を得たいのなら、掟を守りなさい」(同17節)と答えられました。

 主イエスが提示された掟について(同18,19節)、「そういうことはみな守って来ました」(同20節)と青年は答えます。それに対して主イエスが、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(同21節)と言われました。

 そのとき青年は、主イエスの言葉に聞き従うことが出来ませんでした。「悲しみながら立ち去った」(同22節)と記されています。それは「たくさんの財産を持っていたからである」と、その理由が述べられています。

 青年は、掟を行うのに熱心で、そのことに誇りを持っていたことでしょう。彼がたくさんの財産を持っているのは、神に祝福されているしるしと考えられていたでしょう。青年が主イエスの言葉に従うことが出来なかったのは、主イエスに従って永遠の命を得ることよりも、自分の持ち物の方が大事だったわけです。

 エリファズが求めて、ヨブが拒否した、「黄金を塵の中に、オフィルの金を川床に置くがよい」という奨め、改めて、それは本質的な問いだということが分かります。そして、それはヨブならずとも、金持ちの青年ならずとも、誰にも出来はしないのだろうと思います。神の義を、自分のなす業、行為で獲得することは出来ません。

 それは、ただ主イエスを信じる信仰により、恵みとして与えられるのです(ヨハネ3章36節、エフェソ2章8,9節)。恵みの主に信頼して、歩み出しましょう。

 主よ、私たちの目を開き、常に主の御顔を仰がせてください。私たちの耳を開き、御言葉に耳を傾けさせてください。何よりも私たちを愛し、恵みをお与えくださる主に信頼し、主に従って歩ませてください。主の恵みと平安が豊かにありますように。 アーメン




10月14日(日)主日礼拝説教

10月14日(日)主日礼拝には、教会員12名、来賓5名がお見えになりました。感謝です。


主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「高くされる」
聖書 ルカ福音書14章7~14節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師


ご覧ください。




10月14日(日)主日礼拝案内

02

10月14日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。

「聖書教育」誌にもとづいて、旧約聖書・詩編から、共に聖書の学びと交わりを行います。


主日礼拝を10時半から行います。

礼拝では、ルカ福音書14章7~14節より、「高くされる」と題して、原田牧師より説教をいただきます。


写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。


キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


礼拝後、定例執事会を行います。

今回、昼食の用意はありません。




 

10月13日(土) ヨブ記22章

「神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう。」 ヨブ記22章21節

 22章から、ヨブと友らの三回目の議論(22~26章)が始まります。それで、友らとのやりとりは終わりです。ただし、ツォファルは発言していません。それに代わって、ヨブの最終弁論というべき主張が、27章以下31章までに記されています。

 エリファズの意見は、初めは何とかヨブに励ましを与えようとしているというニュアンスのものでしたが、次第にヨブを責めるものに変わって来ました。それも、前回は15章5,6節でヨブが罪人であるということを仄めかす程度でしたが、今回は、5節以下、ヨブの悪を並べ立てて攻撃しています。

 それは特に、弱い者、貧しい者を抑圧している(6,7,9節)、力づくで他者の土地を奪う(8節)という強欲ぶりとして描かれていて、「だからこそ、あなたの周りには至るところに罠があり、突然の恐れにあなたはおびえる」(10節)といって、彼が災いに遭ったのは当然だと告げているのです。

 そこに挙げられている悪行について、ヨブが実際に行ったのを知っているということでもないのでしょうけれども、かつてヨブのように地位や富を手にしていた者が陥りやすい罪を列挙し、彼が被っている災いを考えると、その程度のことはしていたはずだと推定しているのでしょう。

 推定無罪という言葉があります。刑事裁判において、「検察官が被告人の有罪を証明しない限り、被告人に無罪判決がくだされる」ということを意味する、刑事訴訟法に定められた原則です。

 つまり、被告人が自分の無実を証明する必要はないのです。裁判官の立場から、「疑わしきは罰せず、疑わしきは被告人の利益に」という言葉もあるそうです。つまり、推定で被告人を犯罪者にすることは出来ないということです。

 しかし、エリファズはそのように推定でヨブを罪人、悪人と決めつけた後、冒頭の言葉(21節)のとおり、「神に従い、神と和解しなさい」と勧めています。そして、「そうすれば、あなたは幸せになるだろう」と言います。ヨブのように神と争い、対立していては、幸せにはなれないよという物言いです。

 「従う」(サーカル)という言葉には「親しくする」という意味があり、口語訳は「あなたは神と和らいで」、岩波訳は「あなたは彼(神)と協調して」と訳しています。2節の「有益である」も同じ言葉で、ここでは、神との関係をよくする行動を指しているということです。

 「和解」(シャーラム)には「報酬」という意味もあり、その意味を出せば、「さあ、あなたは神に役立つ僕となって、よい報酬を得なさい」という訳になります。神に逆らって苦しむよりも、神に忠実に仕えて恵みを得よと勧めているわけですが、これで思い出すのは、サタンが神に語った、「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」(1章9節)という言葉です。

 そうすると、エリファズの勧めは、利益があるから神を敬うというサタンの言葉に沿ったものであることになります。つまり、エリファズの関心は、神とのよい関係というよりも、もっぱら自分の幸福、利益ということになっているのではないかと考えられるわけです。

 また、エリファズは2節で「人間が神にとって有益であり得ようか」という言葉でヨブを非難していたのに、21節で「神に有益な僕となって、よい報酬を得なさい」とヨブに勧めるというのは、矛盾しています。

 ただ、神に造られた存在として、無前提で神を仰ぐということは出来ません。すでに神の恵みが私たちの周りにあり、様々なかたちでそれを享受しています。そもそも「利益もないのに神を敬うでしょうか」という問い自体、私たちには答えることの出来ない問題ではないでしょうか。私たちには、神を敬い、礼拝するべき理由がたくさんあるからです。

 求める者にはよいものをくださると、主イエスも言われました(マタイ7章11節)。主イエスを信じる者には、神の子となる資格が与えられ(ヨハネ1章12節)、罪が赦され(コロサイ2章13節)、永遠の命が与えられ(ヨハネ5章24節)、天の御国に本籍を持つ者とされます(フィリピ3章20節)。

 そして、聖霊が授けられます(ルカ11章13節)。聖霊は、キリストに替わる「別の弁護者」(ヨハネ14章16節)として父なる神から遣わされた「真理の霊」(同17節)です。聖霊は、「神の霊」、「キリストの霊」(ローマ8章9節)とも呼ばれます。即ち、求める者に与えられる「よいもの」とは、三位一体なる神御自身なのです。

 ヨハネが、「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(第一ヨハネ1章3節)と言っていますが、その交わりを保証し、可能にしているのが聖霊の働きなのです。

 パウロは、かつて自分にとって利益だと思っていたものを、キリストを知るあまりのすばらしさのゆえに、すべて損失と見なすようになったと言っています(フィリピ3章7,8節)。利益を得るためにキリストとの関係を正すというより、キリストとの関係が正しくなることが、最大の利益なのです。

 ヨブは苦しみの中で神を求め、「自分の弁護者」(サーヘード=記録、証言:16章19節)、また「自分を贖う方」(ゴーエール=近親者:19章25節)を見出しました。そしてこれから、その方との交わりが開かれるのです。

 その意味では、ヨブはすべてのものを失うという苦難を味いましたが、それを通して、本当に頼りになるもの、真の近親者、贖ってくださるのはどなたなのか、自分がよって立つべきものはどこにあるのかということに目が開かれる導きを受けたのです。

 何よりもまず、「神の国と神の義」に示される、主なる神ご自身を求め(マタイ6章33節)、その御言葉に聴き従いましょう。

 主よ、絶えずあなたの側におらせてください。あなたは私たちの心と思いのすべてをご存じです。み言葉により、聖霊によって清めてください。私たちの心の王座に就き、私たちを御心を行う者として整え、御業のために用いてください。全世界に主イエスの恵みと平安が豊かにありますように。 アーメン




10月12日(金) ヨブ記21章

「わたしは人間に向かって訴えているのだろうか。なぜ、我慢しなければならないのか。」 ヨブ記21章4節

 21章は、ツォファルの2回目の発言(20章)に対するヨブの応答の言葉です。これで、友らとのやりとりが二巡り(①3~14章、②15~21章)したことになります。

 初めに、「どうか、わたしの言葉を聞いてくれ。聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ」(2節)と言います。「どうか、聞いてくれ」(シメウー・シャーモーア)とは、「聞く」(シャーマー)という言葉を二つ重ねた表現です。口語訳は「とくと、わたしの言葉を聞き」としています。

 それは、とにもかくにも、黙ってわたしの言葉に耳を傾けてほしいという願いを示すものです。友らが、ヨブの言葉に込められた思いを全く受け止めてくれていない、むしろ、はねつけてしまっているということです。

 「聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ」は、原文を直訳すると、「これがあなたがたの慰めになる」ということになります。口語訳はそのように訳しています。それを新改訳は「これをあなたがたの私への慰めとしてくれ」と、新共同訳と同様の解釈をもって意訳しています。

 ヨブが「あなたがたの慰め」というのは、自分の思いがきちんと受け止められれば、彼は落ち着くでしょう。落ち着いたヨブを見ることが、友らの慰めになるということで、そのように語っているのではないかと思われます。

 だから、新共同訳、新改訳は、友らがヨブの話を聞き、その思いを受け止めることが、直接友らを慰めるのではなく、まずはヨブの慰めとなるということで、それによって彼らも慰めを受けることになるということであれば、新共同訳、新改訳は、ヨブが友らの慰めを願っているわけではないとして、「あなたがたの慰め」を「わたしの慰め」と意訳しているわけです。

 岩波訳は「それがあなたがたの慰めになればよい」と訳していて、その脚注には、「友人たちの無理解に直面しているヨブは、ここであえて願いとは逆のことをいって、失望を表明する」と記されています。それが、この箇所に関する適切な解釈かも知れません。

 というのは、エリファズが15章11節で「神の慰めなどは取るに足らない、優しい言葉は役に立たない、というのか」と言っていましたが、ヨブは34節で「空しい言葉で、どのようにわたしを慰めるつもりか」といって、「神の慰め」といって語るエリファズの「優しい言葉」など、空しくて何の助けにもならないと非難しているからです。

 もし、友らが本当にヨブを慰めようと思っているのなら、もっと彼の言う話を聞いたことでしょう。ただ、ヨブの切なる願いは、友らに訴えて聞いてもらうことではありませんでした。冒頭の言葉(4節)のとおり、「わたしは人間に向かって訴えているのだろうか」というからです。つまり、自分が神に向かって訴える言葉を、そこで聞いていなさいという意味になります。

 ヨブは、神に聞いてもらいたいと思う内容を7節以下に披瀝します。それはしかし、ヨブにとっては、身震いするような恐怖を呼び起こすものでした(6節)。

 そのことについて、ビルダドが18章20,21節に、神に逆らう者の運命、その末路を見た者が、身の毛のよだつ思いをするといっていたように、今、ヨブを襲っている災い、ヨブのたどっている運命の道を見れば、誰も、慄然とした思いになり、沈黙せざるを得なくなるからです(5節)。

 ヨブがこの連想で思っているのは、神に逆らう者もそうでない者も、同じ運命をたどるということです。そのことを、まず、「なぜ、神に逆らう者が生きながらえ、年を重ねてなお、力を増し加えるのか」(7節)と尋ね、決してビルダドやツォファルが言っているような結果にはなっていないと、自身の観察結果に基づいて反論します。

 ツォファルは、悪人の本質について、「その腹は満足することを知らず、欲望から逃れられず」(20章21節)と言い、それは貪欲だと語っていました。ヨブは、悪人たちの不信心、不敬虔が貪欲の根っこにあると考えています(14,15節)。悪人たちは、神の祝福で富を得たのではなく、自分の力、手の働きで財産を築いて来たと考えているというのです(16節)。

 しかしながら、ヨブはそれを妬み、羨ましく思っているわけではありません。この言葉の後に、「神に逆らう者の考えはわたしから遠い」(16節)と間をおかず述べて、神に逆らう者の考え方に学んだり、その姿勢に倣ったりすることなど、思いもよらないことだと明言します。

 ただ、「ある人は、死に至るまで不自由なく、安泰、平穏の一生を送る」(23節)と言い、「また、ある人は死に至るまで悩み嘆き、幸せを味わうこともない」(25節)と対比します。豊かな人は安心感をもって体もくつろいで過ごせるのに、貧しい人は「悩み嘆き」と訳された、その欠乏を魂の問題として苦しみ、死ぬことになります。

 二人に共通しているのは、人は死ぬ運命にあるということですが、ただ、生前受けたものには大きな差があり、それによって、安楽で幸いな日々を過ごす人と、貧しく悩み多い日々を過ごす人があるというのは、そこに神の正義が機能していない証拠だ。機能していれば、イスラエルの民がマナで養われたときのように、日毎の受ける分は公平平等になるだろうと考えているのです。

 こうして、自分たちの行く末を考えたときに、敬虔に生きた者が必ず良い報いを受けるということでもない、不幸な経験をする者に、さらに容赦ない運命が待ち受けているということなら、どう生きればよいのか、いよいよ暗たんたる思いで、慄然として身震いが止まらないということになるでしょう(6節)。

 ここで、あらためて冒頭の言葉(4節)を考えてみましょう。まず、「我慢しなければならないのか」と訳されているのは、「ティクツァル(不足している)・ルーヒー(わたしの霊)」で、「我慢できない」とか、「いらだつ」という意味になります。

 それを、打ち消す「ない」(ロー)という言葉があって、「我慢できないことはない、いらだたない」という文句になるわけです。「なぜ、我慢しなければならないのか」という言葉で、もはや、いらだちを抑えられないという、爆発寸前の思いを語ります。

 次に、「わたしは人間に向かって訴えているのだろうか」という言葉を見ましょう。「訴えているのだろうか」というところ、実は、「わたしの訴え」(シーヒー)という名詞が用いられています。

 「訴え」(シーアッハ)は、「不平、嘆き、呟き」という言葉です。この「シーアッハ」という言葉は、旧約聖書中に18回出て来ます。うち7回がヨブ記、詩編に5回、創世記に2回といった具合で、ヨブが繰り返し、呟き、嘆き、訴えを口にしていることが分かるという頻度です。

 その呟き、嘆き、不平不満を、「人間に向かって訴えている」わけではない、自分を苦しみから解放してくださらない神に向かって、ヨブは繰り返し訴えているのです。その姿勢は、主なる神への祈りとして受け止められているのではないでしょうか。

 それは、主イエスがルカ11章5節以下で、来客のためにパンを貸してくれるよう執拗に頼む友の姿、また、同18章1節以下の、公正な裁判を願ってひっきりなしに訴えるやもめの姿に見られるもので、それはいずれも、祈りを姿勢を教える譬え話でした。

 ここに、ヨブの語っていた「我慢ならない」という言葉は、忍耐袋の緒が切れたというのではなく、「どうしてですか、何故ですか」と訴え続けることで、それは決して静かに穏やかにということではありませんが、しかし、そうするほか為す術を知らない者の忍耐強い祈りとして、主が受け止めてくださるということを示しているように思います。

 それを、ヨブが願っている通り(2,3節)、沈黙したまま徹底的に聞くだけ聞いてくださるお方がいるのです。それは、天において彼を保証し、弁護し、執り成す友(16章19,20節)、贖う方(19章25節)とヨブが期待する主イエスです(第一ヨハネ書2章1節)。

 私たちもまず主の前に座り、心にあるままを主に打ち明けましょう。すべてをそのままに受け止めてくださる主の慰めと平安にあずかりましょう。主の恵みを頂いた者は、うずくまり、座り込んでいる方々の傍らに座す者とならせていただきましょう。そうして、共に主の業に与らせていただきましょう。

 主よ、世の中には、重い病に苦しむ人々がいます。突然の災害に見舞われた人もいます。世界の紛争地域におられ、厳しく辛い生活を強いられている方々も少なくありません。不条理としか言いようのない苦しみの中にいる彼らのことを、心に留めてください。彼らの嘆きを聞いてください。その祈りに応えてください。慰め、平安、癒し、そして希望が、豊かに与えられますように。全世界にキリストの平和が豊かにありますように。 アーメン






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