風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2018年10月

10月25日(木) ヨブ記34章

「人が神に対してこう言ったとする。『わたしは罰を受けました。もう悪いことはいたしません。わたしには見えないことを、示してください。わたしは不正を行いましたが、もういたしません。』」 ヨブ記34章31,32節

 エリフはヨブの応答を待たず、2回目の弁論に入ります。既に3人の友に向かって語り尽くしたヨブは(31章40節)、エリフに答えるつもりもないのでしょう。

 「知恵ある者」(2節)、「分別ある者」(10節)というのは、4節の「わたしたち」という言葉から、エリフがエリファズらヨブの友人たちと共同戦線を張ってヨブに相対するための呼びかけの言葉でしょう。32章では、彼らのふがいなさへの腹立ちを示していたので、この呼びかけは、社交辞令というところでしょうか。

 5,6節にヨブの「わたしは正しい。だが神は、この主張を退けられる。わたしは正しいのに、嘘つきとされ、罪もないのに、矢を射かけられて傷ついた」という主張を取り上げ、それを「水に代えて嘲りで喉をうるおし、悪を行う者にくみし、神に逆らう者と共に歩む」(7,8節)ものと結論します。

 ただ、9節で「『神に喜ばれようとしても、何の益もない』と彼は言っている」と、その根拠を示していますが、ヨブ自身は、神に逆らう者らを観察した結果を21章7節以下に提示し、「なぜ、全能者に仕えなければならないのか。神に祈ってなんになるのか」(同15節)という彼らの発言を取り上げた後、「神に逆らう者の考えはわたしから遠い」(同16節)と、はっきり否定していました。

 10節から、自分の立ち位置を明らかにして、ヨブとの対論に備えます。それは①「神には過ちなど、決してない」(10節)=神は正しい、②「神は人間の行いに従って報いる」(11節)=神は公平、という伝統的な信仰による立場であり、これは確かに、エリファズらと同じ土俵に立っているといってよいでしょう。

 16節以下、そのような自分の立ち場からヨブに、「正義を憎む者が統治できようか。正しく、また、力強いお方をあなたは罪に定めるのか」(17節)と厳しく問いかけます。そのことに関して、ヨブも「神より正しいと主張できる人間があろうか。神と論争することを望んだとしても、千に一つの答えも得られないだろう」(9章2,3節)と言い、神を罪に定めることなどできはしないと語っていました。

 エリフは、「神は人の歩む道に目を注ぎ、その一歩一歩を見ておられる」(21節)と語ります。22節以下との関連で、これは、隠れて悪を行っても神が見ているという警告で、因果応報の原則が示されています。この原則に基づき、ヨブの不幸は、彼の悪がその原因と結論されるわけです。

 冒頭の言葉(31,32節)は、原文が不明瞭で、様々な解釈が成り立ちます。新共同訳は、これをヨブの悔い改めの言葉と解釈し、エリフがヨブにこのように告白するようにと促している言葉になっています。

 また、口語訳は「わたしは罪を犯さないのに、懲らしめられた」と訳して、自分の無実を告げ、自分は懲らしめられる理由が分からないから、悪いことをしたというなら、それを示してほしいと訴える言葉としています。

 ATDという註解書は、この言葉を神がヨブに告げる言葉と解釈して、神が人に対して、「わたしは悪いことをしました。もういたしません」と謝罪し、更生を誓う言葉を告げているように訳して、エリフがヨブに、神があなたの前にそのようなことをするだろうかと問う言葉という註解をしています。原文の直訳では難しい読み方ですが、前後の文脈から、この読み方は、筋が通っています。

 当然、この問いに対する答えは、神がヨブに謝罪されたり、悔い改めをヨブに告げるなどということは、あり得ないということになります。だから、ヨブは自分が正しいのに神に不当に懲らしめられているというのは、間違いだという論法で、だから、「ヨブはよく分かって話しているのではない。その言葉は思慮にかけている」(35節)というわけです。

 36節の「彼を徹底的に試すべきだ」というのは、そのように悔い改めようとしないヨブには、さらに苦難が続くということ、そしてまた、彼がどこまで神に背き、悪を行っているのか、さらに調べるべきだと言っているようです。

 こうして、エリフが確かにエリファズらと同じ立場に立ち、同じようにヨブの言葉を正しく聞くことができないまま、自分の立場に基づいて判断を下すという過ちに陥っています。

 私は小さい頃から、お天道様が見ているよ、お見通しだよと、周囲の人から何度言われたか分りません。それほどよい子ではなかったからです。だから、何度周囲の人々に、冒頭の言葉のように、「ごめんなさい、もうやりません」といったか分かりません。そう言いながら、「神様、今度はバレませんように」と罰当たりなことを願いつつ、またやるという悪い子でした。

 確かに、神のまなざしには、いわゆる悪を見逃さないという側面があることを否定はしませんが、しかし、私たちに注がれている神のまなざしは、何か悪事を働いているのではないか、変なことを考えているのではないかと、私たちの罪を暴こうとするものではありません。

 むしろ、神は私たちが悪い者であること、善いことを考えない者であることを、先刻ご承知です。神はノアの洪水の後、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」(創世記8章21節)と言われています。私たちをお裁きになるつもりなら、そのために見張っている必要などないわけです。

 「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」(イザヤ書43章3節)ているという言葉について、イスラエルの民であれ、私たちであれ、私たち人間の側に神を喜ばせるよいものがあって、それで「価高く、貴く」という評価になるのではありません。神は、私たちが何者であっても、私たちを心に留め、その愛をもって「価高く、貴い」者として見ていてくださるのです。

 そして、罪の呪い、裁きにおののく私たちに、「恐れるな」と語りかけられました。そして、私たちの罪の贖いのため、代償としてご自分の独り子を差し出されたのです。そのようにして私たちの罪を赦し、永遠の命の恵みに入れてくださる主は、私たちを助けて足がよろめかないようにし、眠ることなく、まどろむことなく、私たちを見守っていてくださるのです(詩編121編3,4節)。

 私たちを愛してやまない主なる神が、私たちの歩む道に目を注ぎ、その一歩一歩を見ていてくださるというのは、何と幸いなことでしょうか。心安らぐことでしょうか。絶えず主に信頼し、感謝と喜びをもって主の御声に耳を傾けましょう。御霊の導きに従いましょう。

 天地を創られた主よ、あなたが私たちの歩みに目を注ぎ、その一歩一歩を見ていてくださることを、心から感謝致します。私たちの足がよろめかないように、足を滑らせないように、見守っていてください。すべての災いを遠ざけて、私たちの魂を見守ってくださいますように。特に、国がその歩みを誤らないように、正しい道に導いてください。全世界に主の平和と恵みに満ち溢れますように。 アーメン





10月24日(水) ヨブ記33章

「千人に一人でもこの人のために執り成し、その正しさを示すために遣わされる御使いがあり、彼を憐れんで、『この人を免除し、滅亡に落とさないでください。代償を見つけて来ました』と言ってくれるなら、彼の肉は新しくされて、若者よりも健やかになり、再び若いときのようになるであろう。」 ヨブ記33章23~25節

 怒りによって口を開いたエリフは、「神の霊がわたしを作り、全能者の息吹がわたしに命を与えたのだ」(4節)といって、霊感を受けて語る自分の言葉を聞き、「答えられるなら答えてみよ」(5節)と挑戦します。そうして、8節以下において、いよいよ本論に入るのです。

 そこでまず、ヨブの語っていたことを取り上げます(8節)。ヨブは「わたしは潔白で、罪を犯していない。わたしは清くとがめられる理由はない」(9節)と言い、なぜ自分が苦しまなければならないのかと神に訴えていました(27章5節、31章5節以下参照)。

 そこでエリフは、「ここにあなたの過ちがある、と言おう。神は人間よりも強くいます。なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることを一々説明されない」(12,13節)と、神の裁きは間違っていると訴えることがヨブの過ちと示します。

 そして、「神は一つのことによって語られ、また、二つのことによって語られるが、人はそれに気がつかない」(14節)と語ります。神のなさるすべてのことには目的があり、決して沈黙しておられるのではない。いくつもの方法で、何度も語りかけられているのに、人がそれに気づかないのだと諭します。

 エリフのいう「二つのこと」のひとつは、「人が深い眠りに包まれ、横たわって眠ると、夢の中で、夜の幻の中で、神は人の耳を開き、懲らしめの言葉を封じ込められる」(15,16節)と示されます。

 これはヨブが「あなたは夢をもってわたしをおののかせ、幻をもって脅かされる」(7章14節)と語っていたことに、あてこすった言い方です。それが神の警告で、悔い改めて神に従えというわけです。

 いまひとつは、「苦痛に責められて横たわる人があるとする。骨のうずきは絶えることなく、命はパンをいとい、魂は好みの食べ物をすらいとう。肉は消耗して見えなくなり、見えなかった骨は姿を現し、魂は滅亡に、命はそれを奪うものに近づいてゆく」(19節~22節)と言われるところです。

 ここにいう「苦痛に攻められて横たわる者」とは、ヨブのことを指していると考えて間違いないでしょう。彼が被っているのは、「魂を滅亡から呼び出し、命の光の輝かせ」(30節)るために警告する苦痛だというのです。

 この人のために執り成す人が、苦痛を通して語られる神の言葉を説き明かし、正しいことを示してくれます(23節以下)。つまり、「わたしは罪を犯し、正しいことを曲げた。それはわたしのなすべきことではなかった」(27節)と悔い改めることを通して、救いへと至る御心に適う道を示すということです。

 確かに、神は様々な語り口を持っておられます。決して、沈黙してばかりおられるわけではありません。勿論、神は直接、耳で聞き、目で見、心に響くようにお語りになることがあるでしょう。

 聖書の言葉を通してということも、また、預言者など人を介してということもあります。空の鳥や野の花など、自然界の生物が語り手になることもあるでしょう。神を求め、神に聴こうとしていれば、あらゆるものからそれを受け止めることができると思います。

 敵国の王が神の言葉を語ることがありました(歴代誌下35章21,22節)。エジプトで繰り返された苦難は、ファラオに対する神の警告でした(出エジプト記14章14節以下)。ただ、神がお語りになるのは、警告や懲らしめの言葉ばかりではありません。ヤコブは夢で、ルズの荒れ野が「神の家、天の門」であることを知りました(創世記28章12,17,19節)。

 使徒パウロは、苦難を誇りとするといい(ローマ書5章3節)、また「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ書1章29節)と語っています。彼は自身の苦しみに、神の恵みを見、味わい、受け取ったのです。

 しかし、神の言葉をしっかり受け止められるか、神の言葉として聞き取ることができるかといえば、むしろ、受け止めることができず、聞き逃してしまってばかりいるのではないでしょうか。

 よいことがあれば、それを神の恵みと受け取るよりも、自分の知恵力の賜物と考えるでしょう。悪いことを警告の言葉として聞くより、それを他人の所為にしたりして、それで神が何を物語られているのかなどと静かに耳を傾ける気持ちにはなりません。パウロのように、苦しみを神の恵みと受け取るのは、まずもって困難です。

 冒頭の言葉で、ヨブのためにその正しさを証言する御使いがいて、執り成してくれるなら(23節)、そして、憐れみを乞うてくれるなら(24節)、健康になり、若さを回復するだろう(25節)と語ります。また、神との親しい交わりが回復されます(26節)。つまり、かつての繁栄を取り戻すことができるということです。

 それらのことは、まさにヨブが願っていたことです(9章32節以下、16章19,20節、19章25節参照)。その意味で、これがヨブの一番聞きたかった神の言葉といってよいのではないでしょうか。

 エリフはそのとき、どういうつもりでこれを語っていたのでしょうか。ヨブのために執り成す方がいると、確信していたのでしょうか。むしろ、「千人に一人でも」ということは、そのような御使いがいると信じていたわけではない、それのみか、そういう人がいるはずはないという、ヨブの願いを打ち砕く表現ではないかと思われます。

 ここでエリフは、自分で何を言っているのか、よく分っていなかったのかも知れませんが、確かに神の霊が彼の内に働き、全能者の息吹に押し出されて、示されたところを語ったのではないかと思います。

 エリフは、「代償」(コーフェル)という言葉を使っています(24節)。これは「贖い代、賠償金」という言葉で、命の代価、それによって死を免れるものという意味です。イザヤ書43章3節の「身代金」が、その言葉です。「この人のために」(23節)は「この人に代わって」という意味でもあります。ヨブのために、ヨブに代わって、正しさを示すために御使いが遣わされます。

 聖書で「代償」といえば、それは、主イエスの贖いの業のことです。神の独り子なる主イエスが、私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、その命の代価によって、私たちを救ってくださったことです。使徒パウロが、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ書3章24節)と語っているとおりです。

 また、「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(第一ペトロ書1章18,19節)、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(第一コリント書6章20節)と言われています。

 30節に「その魂を滅亡から呼び戻し、命の光に輝かせてくださる」と言われています。これは、主イエスがヨハネ福音書8章12節で「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と語られたことにつながります。イエス・キリストの贖いの業によって、私たちの魂が滅びから呼び戻され、主イエスによって命の光に輝かせてくださるということなのです。

 私たちも、聖霊を通して日々神の御言葉を受け、命の光に輝くようにと招かれる主イエスの御前に絶えず謙り、導きに従って歩ませていただきましょう。

 主よ、エリフの言うように、夢や幻、また苦難を通して語られる神のみ言葉に耳を傾けることができるでしょうか。自分の意に沿わないものを受け入れるのは、決して容易いことではありません。常に神を求め、その御心に従いたいという心を与えてください。その思いをもって、告げられる御言葉に耳を傾けさせてください。すでに、御子キリストが私たちのために、私たちに代わって、代償を支払ってくださいました。その恵みを感謝しつつ、聴いたところに従って、主の御業に励むものとしてください。御名が崇められますように。 アーメン




10月23日(火) ヨブ記32章

「『いい知恵がある。彼を負かすのは神であって人ではないと言おう』などと考えるべきではない。」 ヨブ記32章13節

 ヨブの最終弁論が終わったとき、腹を立てて発言を始めた人物がいました。それはエリフという若者で、「ブズ出身でラム族のバラクエルの子」と紹介されています。「エリフ」は「彼は神」という意味です。父親の「バラクエル」は「神は祝福する」という意味です。「ラム族」とありますが、「ラム」は高いという意味です。

 「ブズ」については、アブラハムの兄弟ナホルの次男が「ブズ」です(創世記22章21節)。ちなみに、ナホルの長男の名は「ウツ」で、それは、ヨブがいる町の名前でした(ヨブ記1章1節)。ということは、エリフはヨブの親族に当たる存在ということになるのかもしれません。エレミヤ書25章23節も、ブズ人がアラビアの人々であることを示しています。

 ここでエリフは、ヨブに対して怒りをもって語り始めます。それは、ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するからです(2節)。神が言い分を聞いてくだされば、自分が潔白であることが分かるというヨブの主張は、神がヨブに対して行っていることは間違っていると言っていることになり、それは、ヨブの方が神よりも正しいと主張していることだというのです。

 また、このように神を敵に回して言い争おうとするヨブの過ちを、正しく指摘できない三人の友らに対しても、エリフは怒っています(3,5節)。三人の友がヨブに言い負かされて沈黙したことは、エリフにとって、神の義を汚すヨブの過ちを黙認することになるという大問題だったのです。

 エリフとその父親、出身部族の名前の背後に、神の栄光が危険にさらされているとみて、それを弁護しようという護教的な意図が隠されているのかも知れません(36章3節も参照)。

 2~5節の短い箇所に、「怒る」(ハーラー)という言葉が4回出て来ます。だから、彼が大変感情を害していたこと、その感情丸出しの意見開陳であったことが伺えます。

 大変な苦しみの中にいるとはいえ、そして、ヨブが律法に従って正しく歩んで来た者であることは、エリフも知っていることだったでしょう。けれども、神よりも自分の方が正しいなどというヨブの暴論を、エリフとしては到底聞き流すことが出来なかったわけです。

 エリフの言葉の中に、大変重い言葉を見つけました。それは冒頭の言葉(13節)の、「『いい知恵がある。彼を負かすのは神であって人ではないと言おう』などと考えるべきではない」という言葉です。

 これは、三人の友らに向けて語られているもので、ヨブの過ちを正しく指摘しないまま、ヨブを打ち負かすのは神御自身で、それは人の役割ではないなどと考えて、沈黙してしまうのは間違いだということです。

 何が重いのかといえば、苦しみの中にいる人、そしてその苦しみの中から神に向かって抗議の言葉を語る人に対して、人間が何を語り得るのかということです。どういう言葉が彼の慰めとなり、励ましとなるのでしょうか。どうすれば、彼を正しく苦しみの闇から希望の光へと導き出すことが出来るのでしょうか。

 人が人の上に立って、見下すような思いで語られる言葉は、相手の心を動かしません。同じ苦しみを味わい、同じ境遇におかれた者でない限り、相手の心に届く言葉を語ることは出来ないのではないかと思われるのです。特に、心身共に苦しんでいる上、友らとの議論で冷静さを欠いているヨブに対して、「怒り」をもって語るエリフの言葉が届くでしょうか。

 しかも、このエリフの言葉は、ヨブに対しても、自分は神と対話したいと考えているだけだ、ほかの者は沈黙せよ(13章3,5節、21章4節)などという思い上がった考えを持つなという、挑戦的な意味合いを持っています。

 ここには、神と人、人と人との交わりを妨げ、破壊しようとする、どのような企てにも屈しないという、若者エリフの心意気を感じます。エリフがこれを語ったのは、日数、年数といった人生経験ではありません。

 「人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ」(8節)という言葉に示されているように、彼の背後に神がおられ、霊に感じさせて語るべき言葉を与えておられたということです(18節も)。

 19節に「見よ、わたしの腹は封じられたぶどう酒の袋、新しい酒で張り裂けんばかりの革袋のようだ」 というのは、エレミヤ書20章9節のエレミヤの言葉を彷彿とさせます。さながら、自分の発言は、預言者としてものものだといっているかのようです。

 また、6節の「わたしの意見」(デイイー)は、「知識」(デイア)に「わたしの」を意味する接尾辞(イ)がついたものですが、これは、前後の文脈から、経験や伝統的判断による考えではなく、神の霊感によって得られた知識だということでしょう。10,17節も同様です。37章16節の「完全な知識を持つ方」(テイーム・デーイーム)というところでの用い方が、それを支持しています。

 これらの言葉で、エリフがヨブを言い負かそうと考えていることが分かります。そのために、抑えがたく溢れ出るような勢いを持った言葉で(18,19節)、霊感によって与えられた知識を披瀝しようということです(8,10節)。

 そして、そのような言葉遣いで、自分の語る言葉を権威づけているわけです。その原動力が「怒り」であったことは、前述のとおり、2,3,5節に示されています。

 エフェソ書6章10節以下に、悪魔の策略に陥らず、暗闇の世界の支配者と戦うために、神の武具を身に着けよと語られています。そこに、「救いの兜をかぶり、霊の剣、すなわち、神の言葉を取りなさい」(同17節)と記されています。

 神の言葉が霊的な刃物だということですが、それをもって戦う相手は、「血肉」と言われる人間ではないのです(同12節)。新約の基準に従えば、霊感された言葉で相手を言い負かそうというのは、正しいことなのでしょうか。

 エリフが「人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ」(8節)といって、自分はその霊感を受けて語ると自らの言葉を権威付ける根拠は、彼が怒りを持って立ち向かおうとしているヨブにも、そして、エリファズら三人の友人たちにも当てはまります(4章12節以下、15章11節、23章3,4節)。

 だれが買っても負けても、それが霊感された言葉によるということになるでしょう。だれが、真に神の霊を受けて語っているのか、それは、読者自身が全能者の息吹を通して悟りを得るしかないでしょう。そこでは、誰に勝つか負けるかは問題ではなくなります。ただ、神に告げられたとおりに語ったのかどうかが問われます。

 神に命じられもしないのに、怒りに溢れてその知識を語るというのでは、「神に代わったつもりで論争するのか。そんなことで神にへつらおうというのか」(13章8節)と言い返されてしまいます。

 どんなときにも、主のみ前に謙りましょう。そのみ声に耳を傾けましょう。その恵みを隣人と分かち合いましょう。「霊の剣、すなわち神の言葉」が、人を傷つけ殺す刃物でなく、医師の手にあるメスのような、切れ味鋭く病巣を切り取り、命を守り救う道具となるよう、聖霊の導きを祈りましょう。 

 主よ、聖霊を通して私たちの心に主イエス・キリストの愛を満たしてください。知る力、見抜く力を身に着けて、私たちの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられますように。キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができますように。 アーメン




静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に10月21日(日)主日礼拝の礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。

②「今週の報告」を更新しました。

③「お知らせ」は随時更新しています。

④「今日の御言葉」は毎日更新しています。


御覧ください。




10月22日(月) ヨブ記31章

「わたしを胎内に造ってくださった方が彼らをもお造りになり、われわれは同じ方によって母の胎に置かれたのだから」 ヨブ記31章15節

 31章はヨブの最終弁論です。ヨブは最後の最後まで自分の潔白を信じて、「わたしがむなしいものと共に歩き、この足が欺きの道を急いだことは、決してない。もしあるというなら、正義を秤として量ってもらいたい。神にわたしの潔白を知っていただきたい」(5,6節)と語ります。

 「決してない」(5節)は、原文にはない表現です。5節の文頭に「もしも~なら」(イム)という言葉があり、「もしもわたしがむなしいものと共に歩き、この足が欺きの道を急いだことがあるなら」という言葉遣いになっています。古代世界では、自分の潔白を誓うのに、もし罪を犯していたなら、処罰されてもよいという覚悟を示す意味で、自分自身を予め呪うという慣習がありました。

 「決してない」と訳された「イム」という言葉が、31章に14あります(5,7,9,13,17,19,21,25,27,29,30,31,33,39節)。つまり、呪いの誓いが14回語られているわけです。

 14は、7の倍数です。「誓う」(シャーバー)という言葉は、「7」(シェバ)という言葉から発展したものですから、7の倍数の誓いをなすということは、それによって誓いの効果を高めようとしているわけです。

 ただ、「もしも~なら」といった後に、「~してもよい」という処罰を記さず、理由、説明、期待を綴っている箇所も多くあり、呪いの誓いの定式に従っているのは、7~8,9~10,21~22,38~40節の4箇所です。

 いずれにせよ、このような語り口に、自分の正しさをどうしても神に認めてもらいたいという、ヨブの強い意志が示されます。それによって、すぐにもこの苦しみから解放してほしいと、言葉を尽くして訴えているのです。

 31章の最後に、「ヨブは語りつくした」(40節)と記され、3章から続いてきた弁論に終止符を打ちます。語り尽くしたヨブには、これ以上言うことはありません。あとは神がヨブの訴えを聞いて、判決をくだされるのを待つだけです(16章21節参照)。

 ヨブは、この裁判で、天に自分の弁護をしてくださる方、自分のために執り成す方があると言っていました(16章19,20節)。また、わたしを贖う方は生きておられるとも語っています(19章25節)。

 しかし、彼の最終弁論に、そのような彼の弁護者、執り成し手、また贖う方に対する信頼の言葉は出て来ませんでした。それはただ、彼の潔白を証明してくれさえすればよい、神がそれを認めてくれさえすればということでしょう。

 「ヨブは語り尽くした」(タンムー・ディブレイ・イヨーブ)は、ヨブの言葉は終わったという言葉遣いです。「終わった」(タンムー)は、 「無垢」(ターム)や「潔白」(トゥンマー)という言葉によく似ています。まるで、ヨブの最終弁論が終わったという署名に、無垢、潔白と書いているような、そのように読んでほしいと願っているような言葉遣いです。

 ここに、自分の義に依り頼んで神と相対するヨブの姿が、改めて浮き彫りになりました。ヨブ自ら、神から離れて、たった一人で立っています。即ち、ヨブの「正しさ」が、神からヨブを離れさせる「仇」となっているわけです。そして、ヨブがこの「仇」から離れるのは、極めて困難です。なぜなら、正しく歩むのは、よいことだからです。だからこそ、悩みも深いのです。

 使徒パウロが、「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では、他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵芥と見なしています」(フィリピ書3章7,8節)と語っています。

 有利であったはずのものが、かえって徒となったというのです。彼は、出自や経歴に誇りを持っていました(同5,6節)。しかし、彼の誇っていた出自、経歴や学識が、キリストとの交わりを妨げ、真の命に与ることを阻害していたということです。

 そのことに気づかせるために復活の主が彼に現れ、目からうろこが落ちるという経験をさせられたのです(使徒言行録9章1節以下、18節)。ダマスコ途上で強い光に撃たれ、何も見えなくなってしまいましたが(同8,9節)、彼の目をふさいでいた「うろこのようなもの」は、実は、自分の誇りとしていたものだったと気づかされたわけです。

 ヨブの最終弁論の中で、冒頭の言葉(15節)に目が留まりました。ヨブは13節で、奴隷やはしためのことを取り上げ、彼らを不当に扱ったことはないと言い、その理由を説明する言葉で、自分も彼らも神がお造りになったのだからと言っています。

 「我々は同じ方によって母の胎に置かれた」(イェクネヌー・バーレヘム・エハード)を直訳すれば、「我々を母の胎に置かれたのは一人」となります。一人の主によって形づくられ、この世に送り出されたのです。

 「母の胎」(レヘム)は「憐れみ」(ラハミーム)の宿る場所です。母親が胎内の子に抱く感情のことを「憐れみ」というわけです。自分と奴隷を「我々」と括り、「同じ方」(エハード:「一人の」の意)が「母の胎」に置かれたということで、自分と奴隷との間に「憐れみ」という情があるように、自分たちと自分たちを母の胎に置かれた方との間にも、憐れみがあるはずだと言いたいのでしょう。

 「同じ方」について、申命記6章4節に「われらの神、主は唯一の主である」(アドナイ・エロヘイヌー・アドナイ・エハード)という言葉があります。直訳すると「主はわれらの神、主は一人」という言葉です。

 現代に生きる私たちと私たちの神、一人なる主との間にも、同様にあわれみがあるはずです。私たちも同じ方によって母の胎に形づくられ、同じ方によって鼻に命の息を吹き入れられ、生きる者としていただきました(創世記2章7節)。使徒パウロがキリストを信じる信仰に導かれ、それまでの価値観が一変する経験をしたように、私たちも同じ信仰に与りました。

 詩編34編9,10節に「味わい見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか。御もとに身を寄せる人は。主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない」と言われています。主イエスの福音に耳を傾け、主を信頼することにより、主を知る知識の絶大な価値を実際に知り、味わい、経験する者とならせて頂きましょう。

 主よ、キリストの迫害者であったパウロを恵みによって使徒とし、キリストの福音宣教のために豊かに用いられました。ゆえにパウロは神の栄光に与る希望を誇りとし、さらに、苦難さえも誇りとすると語っています。私たちも、聖霊を通して注がれる神の愛を心に、御業のために用いてください。主イエスの恵みと平安が私たちの上に豊かにありますように。 アーメン




10月21日(日) ヨブ記30章

「わたしは泥の中に投げ込まれ、塵芥に等しくなってしまった。」 ヨブ記30章19節

 前章より、ヨブの嘆きは続きます。かつては、「嘆く人を慰め、彼らのために道を示してやり、首長の座を占め、軍勢の中の王のような人物であった」(29章25節)というヨブでしたが、今は若者らの物笑いの種(1節)、嘲りの的にされ(9節)、息も絶えんばかりになっています(16節)。

 30章には「今」(アッター)という言葉が、1,9,16節(「もはや」と訳されている)にあったーというのは、単なる駄洒落ですが、23節までの箇所が、「今」という言葉で始まる三つの段落で区切られています。

 ヨブを物笑いの種にした若者らのことを1節以下の段落で、「彼らの父親を羊の番犬と並べることすら、わたしは忌まわしいと思っていたのだ。その手の力もわたしの役には立たず、何の気力も残っていないような者らだった」(1,2節)、「愚か者、名もない輩、国からたたき出された者らだった」(8節)などと言います。

 「身寄りのない子らを助け、助けを求める貧しい人々を守った」(29章12節)と言っていたヨブが、そのような侮辱的な言葉で彼らのことを描写するとは、どうしたことなのでしょうか。

 情け深い王のようなヨブが(同25節参照)、絶えず心にかけ、守り、助けていた相手から、嘲りの言葉、振る舞いを受けて、実は彼らは、最も軽蔑していた人々なんだ、彼らは、人間社会から完全に疎外されたような輩だったのだというのです。最も軽蔑していた輩から、嘲りを受けるような存在になってしまったと、自己卑下する表現として語っているのでしょう。

 9節以下の段落では、どのような嘲りや屈辱的な振る舞いを受けたのか、語り出されています。それが、29章7~17節の、ヨブの情け深い行為に対する報いなのだとすれば、まさに恩を仇で返されたということになります。

 神に守られ(29章1節)、神との親しい交わりの中にあって(同4節)、正義と公平を旨として歩んで来た(同14節)ヨブが、神の守りを失い、無残な姿になっているのを見て、彼を自分たちのところから追い出すのです(13節以下)。それは、町からということもあり、そして、生きている者たちの間からという意味でもあります。「死の破滅がわたしを襲い」(15節)とあるからです。

 16節以下の段落は、嘲られ、屈辱的な振る舞いを受けた結果、ヨブの現状の姿が述べられています。神の手に守られていたヨブが、「夜、わたしの骨は刺すように痛み、わたしをさいなむ病は休むことがない」(17節)、「病は肌着のようにまつわりつき、その激しさに私に皮膚は見る影もなく変わった」(18節)という有様です。

 そのような苦しみの中で叫ぶ声を神は無視したうえ(20節)、「あなたは冷酷になり、御手の力をもってわたしに怒りを表される」(21節)と、神の手によるひどい扱いを告発します。そして、「わたしは知っている。あなたはわたしを死の国へ、すべて命あるものがやがて集められる家へ、連れ戻そうとなさっているのだ」(23節)と結論します。

 29章4節の「神との親しい交わりがわたしの家にあり、わたしは繁栄の日々を送っていた」という、命と栄光に輝いていたヨブの家は、今や死者の集うところに変えられようとしています。

 冒頭の言葉(19節)の「泥」(ホメル)は、4章19節の「人は塵の中に基を置く土(ホメル)の家に住む者」、10章9節の「土くれ(ホメル)としてわたしを造り」という言葉から、人の肉体をあらわすものといってよいでしょう。

 「塵芥」は、「塵」(アーファール)と「芥」(エーフェル:「灰」の意)という言葉です。二つ並べられるとき、「塵」は、創世記2章7節の「土の塵で人を形づくり」という、人の起源を示し、「芥=灰」は、命の燃え尽きた残りかす、人の宿命を示します。いかに価なくはかない存在かといった表現です。

 「塵芥」と二つ並べる言い方が、旧約聖書にもう一箇所登場します。それは、創世記18章27節です。それは、アブラハムが神に「塵あくたにすぎないわたしですが」といって、ソドム、ゴモラにいるロトを守ろうとして執り成す場面の一節です。

 神の前に謙った姿勢を示すものですが、しかし、そこでアブラハムのしているのは、「正しい者と悪い者を一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界で裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」と、無鉄砲にも神に公正な裁きを願い訴えているのです。

 ヨブがここに、「塵芥に等しくなってしまった」というとき、単に死ぬべき運命だというだけでなく、にもかかわらず、「神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない」(20節)、それでいいのですか、全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんかと、勇気をもって告発しているわけです。 

 ヨブは、このままで終わりたくはないのです。だから、諦めきれずに神に向かって叫ぶのです。24節で「人は、嘆き求める者に手を差し伸べ、不幸な者を救おうとしないだろうか」と問い、続く25節で「わたしは苦境にある人と共に泣かなかったろうか。貧しい人のために心を痛めなかったろうか」と反問しています。

 これらの言葉で、不完全な人間でさえそうするのであれば、まして主なる神は、嘆き求め、苦境にある自分に手を差し伸べ、救って下さるはずだ、それなのに、未だそれが実現していないと、神を非難するヨブの思いが示されています。

 とはいえ、それならもう主なる神に頼らない、主を呼び求めることはやめるということではありません。未だ、神の答えが得られず、神が自分に目を留めておられないと思うからこそ、ヨブは嘆き、神に訴えるのです。

 ここに、「ヤベツの祈り」の祝福が見えて来ます。ヤベツの祈りとは、「ヤベツがイスラエルの神に、『どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください』と祈ると、神はこの求めを聞き入れられた」と、歴代誌上4章10節に記されているものです。

 ヤベツは、母の苦しみを背負って生まれて来ました。「母は、『わたしは苦しんで産んだから』と言って、彼の名をヤベツと呼んだ」(同9節)と記されているとおりです。なぜ、母が苦しみの中でヤベツを産んだのか、その苦しみとはどのようなものであったのか、正確なところは皆目分かりません。

 しかし、ヤベツは神に向かって「わたしを祝福してください」と願い、「苦しみを遠ざけてください」と求めました。きっと、来る日も来る日も、神の恵みと憐れみを祈ったことだろうと思います。そしてそれは、もともとヤベツの母親が祈っていた祈りかも知れません。そして、ヤベツがその祈りを引き継いだのです。

 そのたゆまぬ祈りが神に聞き入れられました。そして、この諦めない祈り、神に信頼してやまない信仰心が、兄弟たちの尊敬を集めることになったのだと思います(同9節)。

 主イエスも、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えられました(ルカ福音書18章1節以下)。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れる逆風の中で、しかし、「主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ書40章31節)者とされます。

 ヨブの訴え、ヤベツの祈りに倣い、死者の中から復活された主イエスの恵みによって日々強められ、御言葉に従って歩み、信仰をもって祈りをささげましょう。

 主よ、あなたが私と共にいて私を助け、恐れるなと言い、救いの御手で私を支え、たじろぐなと語ってくださることを感謝します。私たちを大いに祝福してください。御名の栄光を拝することが出来ますように。 アーメン




10月21日(日)主日礼拝説教

10月21日(日)の主日礼拝には、教会員17名、来賓13名(初来会者1名を含む)がお見えになりました。昼食会にも13名参加されました。感謝です。



主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「神の国」
聖書 ルカ福音書14章15~24節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師


ご覧ください。








10月21日(日)主日礼拝案内

02
10月21日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。

「聖書教育」誌にもとづいて、旧約聖書・詩編から、共に聖書の学びと交わりを行います。


主日礼拝を10時半から行います。

礼拝では、ルカ福音書14章15~24節より、「神の国」と題して、原田牧師より説教をいただきます。


写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。


キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


礼拝後、昼食会(有料・自由参加)があります。


昼食会後、信徒会、各会例会を行います。







 

10月20日(土) ヨブ記29章 

「わたしは正義を衣としてまとい、公平はわたしの上着、また冠となった。」 ヨブ記29章14節

 28章で神の知恵を讃美したヨブは、ここにきて「どうか、過ぎた年月を返してくれ、神に守られていたあの日々を」(2節)と、過去を回想しつつ嘆きの言葉を語り始めます(2節)。それは、かつては神の栄光が、ヨブを守り導いていたからです。

 以前、「その日は闇となれ。神が上から顧みることなく、光もこれを輝かすな」(3章4節)と言っていました。「その日」とは、ヨブが生まれた日のことです。彼が被った災いがあまりに辛く厳しいものだったので、そんな光が与えられなければよかったのにと考えたのです。

 けれども今、ヨブは神のもとにいたときの光を喜びたたえています(3節)。神との交わりがいかに豊かであったかを、「わたしは繁栄の日々を送っていた」(4節)といい、それは、「乳脂はそれで足を洗えるほど豊かで、わたしのためにはオリーブ油が岩からすら流れ出た」(6節)というほどの豊かさだったと誇ります。

 その祝福ゆえに、ヨブは町中の尊敬と栄誉を受けていました(7節以下)。ヨブは、与えられた豊かな恵みを私せず、身寄りのない子らを助け、助けを求める人を守り(12節)、見えない人の目、歩けない人の足(15節)、貧しい人の父となり、彼らの訴訟に尽力(16節)、不正を行う者の牙を砕き、その歯にかかった人々を奪い返しました(17節)。

 その振舞いを、冒頭の言葉(14節)のとおり、「わたしは正義を衣としてまとい、公平はわたしの上着、また冠となった」と言っています。この箇所を直訳すると、「わたしは正義を着、わたしの公正はわたしを上着や冠のように着た」となります。素直に読めば、「正義」(ツェデク)がヨブの上着で、「公正」(ミシュパート)が彼の精神を象徴するものということでしょう。

 正義や公正を身に着けることについて、詩編132編9節に「あなたに仕える祭司らは正義(ツェデク)を衣としてまとい、あなたの慈しみに生きる人々は、喜びの叫びを上げるでしょう」とあります。

 また、イザヤ書11章4,5節には「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」と記されています。

 つまり、正義と公正は、祭司や王が身に着けるべきものだということです。だから「上着」(メイール:「上着、外套(マント)、ガウン」)や「冠」(ツァーニーフ:「王冠、ターバン、帽子」)が言及されているわけです。

 ヨブは自分のことを、正しく情け深い王のような者であったと言おうとしているのです。25節に「わたしは嘆く人を慰め、彼らのために道を示してやり、首長の座を占め、軍勢の中の王のような人物だった」と告げています。

 そのことについて、「ソロモンの詩」といわれる詩編72編1節に「神よ、あなたによる裁き(ミシュパート)を王に、あなたによる恵みの御業(ツェダカー[ツェデクの女性形])を王の子にお授けください」とあります。正しい王は、正義と公正をもって治めるので、貧しい者たちは暴虐から救われ(同4,12節以下)、その統治は地を潤す豊かな雨のようだと言われます(同6節)。

 そこで、「王が太陽と共に永らえ、月のある限り、代々に永らえますように」(同5節)、「王の名がとこしえに続き、太陽のある限り、その名が栄えますように」(同17節)と、王の長寿を願う祈りがささげられます。

 ヨブは18節で、「わたしは家族に囲まれて死ぬ」と、平和で安らかな最期を期待し、また「人生の日数は海辺の砂のように多いことだろう」と、長寿を期待していたように述べています。それが、正義と公正をもって貧しい人々、弱い人々らを助けた者に、当然のごとく期待される報いというものでしょう。

 さらに、「わたしは水際に根を張る木、枝には夜露を宿すだろう。わたしの誉れは常に新しく、わたしの弓はわたしの手にあって若返る」(19節)と、14章7~9節で語っていた希望のイメージを、もう一度取り出しました。

 このように語ったのは、今の自分を顧みて、それは浅はかな夢だったと言いたいのでしょうか。それとも、「幹が朽ちて塵に返ろうとも」(14章8節)、改めて希望が与えられるということになるというのでしょうか。

 もしも、浅はかな夢だった、もう夢など見るものではないということであるなら、いまだ3章の嘆きと同一線上にあるということでしょう。しかし、前述のとおり、彼はかつての光を喜びたたえることで、19節を単に浅はかな夢だったというのではなく、希望の将来が開かれる夢を見たいと考え始めているということではないでしょうか。

 本当に暗闇に光が差し込むように、希望を見出せるのか、まだ判然としていませんが、ヨブには「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別」(28章28節)という御言葉が示されていました。それは、旧来の信仰に基づく知恵を、苦難を通して再認識したということでしょう。

 これまでヨブは、止むことのない苦難を嘆きつつも、友らとの論争の中で調停者、仲裁者を望み(9章33節)、天に自分の証人、弁護者、執り成す方を認め(16章19,20節)、そして「わたしを贖う方は生きておられ」(19章25節)ると語っていました。

 パウロが「わたしたちのうちに働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ書2章13節)というとおり、ヨブがその希望を語った背後に、神の確かな導きがあったといってよいでしょう。

 しかしそれは、力づくでヨブの思いを変えさせたということではありません。神はヨブから遠く離れておられたのではないのです。ヨブとの交わりを控えておられたということでもないでしょう。彼が苦しみ、呻く声を側近くで聞いておられたに違いありません。

 「主は倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださいます」(詩編145編14節)と言われています。無理矢理腕を引っ張って立ち上がらせるというのではなく、時を待って、起き上がる力を授けてくださるのです。また、「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」お方です(同30編6節)。

 神は、この苦しみをとおして、ヨブを真の信仰に導こうとしておられるのです。信仰こそ、神を喜ばせるものだからです(ヘブライ書11章6節参照)。自分の感覚や感情に頼るのではなく、神の御言葉に信頼し、自分の考えではなく、神の御心を悟るように、私たちの心に働きかけてくださるのです。

 はばかることなく、恵みの主の前に進みましょう。日毎、主の御声に耳を傾けましょう。感謝をもって祈りと願いを主にささげましょう。

 天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。御国も力も栄光も、すべてあなたのものだからです。主の御心を悟り、その導きに従うことが出来ますように。 アーメン!




10月19日(金) ヨブ記28章

「神は知恵を見、それを測り、それを確かめ、吟味し、そして、人間に言われた。『主を畏れ敬うこと、それが知恵。悪を遠ざけること、それが分別。』」 ヨブ記28章27,28節

 27章で自分を苦しませる神と友らに、自分自身に誓って自らの潔白を主張したヨブが、28章では一転して、「神の知恵の賛美」をしています。 

 人は、地の底から金や銀、銅などの鉱石、また高価な宝石を見つけ、掘り出すことが出来ます。5節の「下は火のように沸き返っている」という文言について、これは地下のマグマのことを指していると考えてよいでしょう。

 食物(レヘム:「パン」の意)を産み出す大地も、その下では火が燃えていて、鉱石にサファイヤが混じり、金も含まれます(6節)。「鉱石」(エベン:「石」の意)とサファイヤ、「粒」(アーファール:「塵」の意)と金という組み合わせは、訳語とは別の意味合いがありそうです。

 ヨブは、23章10節で「神はわたしの歩む道を知っておられるはずだ。わたしを試してくだされば、金のようであることが分かるはずだ」と語っていました。塵となる運命のヨブが、火で試されて金のようであることが分かるというのです。

 3節の「人は暗闇の果てまでも行き、死の闇の奥底をも究めて鉱石を探す」という言葉には、全く希望がない地震の様子を言い表した10章22節の「その国の暗さは全くの闇で、死の闇に閉ざされ、秩序はなく、闇が光となるほどなのだ」という言葉と同様の言葉が用いられています。

 「死の闇」(オーフェル)は、ヨブの口からしか聞けない言葉で、3章6節、23章17節でも用いられていました。ヨブは自身の塵となる運命、生涯の最後の暗さを嘆いていましたが、暗黒の塵の中に貴金属の鉱石が隠されているように、彼はこのイメージを思い巡らす中で、自分自身の内側を探っていたのではないでしょうか。

 ダビデ・ソロモン時代に、既に金や銀という貴金属のほか、青銅という合金を造ったり、鉄を製造する技術があったことが分っています。三千年も前の人々が持っていた知識、技術の高さに驚かされてしまいます。どんなに強い猛禽類、猛獣でも見出せず、手に入れられないものを(7,8節)、人は見出し、採り出す技術を開発して来ました(9節以下)。

 それにも拘らず、人は知恵を見つけ、それを手に入れることが出来ません(12節)。人が知恵の在処を知らないのは、「命あるものの地には見出されない」からです(13節)。海や深い淵も「わたしの中にはない」(14節)と言います。

 また、「知恵は純金によっても買えず」(15節)、「金も宝玉も知恵に比べられず」(17節)という言葉で、ヨブのいう「知恵」は、この世のどんな価値あるものでもそれと較べることができず、代価を支払って手に入れることのできないものであることが強調されます。

 その在り処、そこに至る道を知っているのは、神ただお一人だけです(23節)。24節以下の言葉から、その知恵とは、天地創造に関する知恵のようです。確かに、天地がどのように創造されたのか、どのようにして全宇宙のバランスを取っておられるのか、命が存在する惑星をどのようにして生み出されたのか、分からないことだらけです。

 このことで、蛇に唆されて善悪の知識の木からとって食べたという創世記3章の記事を思い起こします。その木の実は、神に食べることを禁じられていたものでした。その禁を破ったのは、「目が開けて神のように善悪を知る者となる」(同5節)という誘惑でした。

 けれども、木の実を食べた結果、彼らが手にしたのは、神のように善悪を知る賢さなどではありません。「生涯食べ物を得ようとして苦しむ」(同17節)こと、「塵に過ぎないお前は塵に返る」(同19節)ということでした。

 神はここで、人の到底獲得し得ない深遠な知恵を独り占めして、一人悦に入っておられるようなお方ではありません。冒頭の言葉(28節)で、「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別」であると、神ご自身の言葉として語られています。

 ただ、ここにきて初めてヨブがそのことを悟ったというのではないでしょう。箴言1章7節に「主を畏れることは知恵の初め」とあり、またコヘレトの言葉12章13節に「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて」と語られているように、これはむしろ、伝統的な信仰姿勢といってよいでしょう。

 つまり、それはずっと前から知られていたことです。しかし、突然の悲劇、大変な苦難を経験して、その知恵に疑問が生じました。そのことで、ここまで友らと議論を重ねて来たのです。

 どういう経路でここに立ち戻ったのか、定かではありませんが、彼がこのように告げるとき、それは、元に戻ったということではなく、火のような試練にあって日の光の見えない暗黒を経験し、必死に出口を求めて呻き続け、求め続けて来て、あらためて神の言葉が響いたということでしょうか。

 あるいは、人の知り得ない知恵をもって、ご自身のかたちに創造された人のうちに、神はその知恵を隠しておられ、神がきっかけをお与えくださるときに、その知恵が開かれて、神を畏れ敬わせ、悪を遠ざける歩みをすることができるようになるということでしょうか。

 神のなさることに無意味なものはなく、自分にとってそう思うことが難しくても、それは常に最善であること、最善以下をなさることはないと信じましょう。日々主の御言葉に耳を傾け、常に御顔を慕い求めましょう。

 主よ、あなたはすべての者を憐れむために、すべての人を不従順の状態に閉じ込められました。神の富と知恵と知識のなんと深いことでしょう。誰が神の定めを窮め尽くし、神の道を理解し尽くせるでしょうか。すべてのものが神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が世々限りなく神にありますように。 アーメン





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