風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2018年10月

10月31日(水) ヨブ記40章

「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。」 ヨブ記40章6節

 1,2節は、神の第一の発言の締めくくりです。2節の「引き下がるのか」(イッソール)と訳されているのは、4章3節で「諭す」(ヤーサル)という言葉の名詞形で「非難する者、欠点発見者」という言葉です。動詞の意味を加味して訳すと、「全能者と言い争うのは、教え諭す者か」という言葉になります。

 「責め立てる者」(モーキーアハ)は9章33節で「調停する者」と訳されていました。これはヨブが、神との間を調停、仲裁してくれることを期待した人のことです。動詞形の「ヤーカー」という言葉は、「裁く、責める、決定する」という意味です。

 ヨブは、本気で神と言い争うことができると考えていたのでしょうか。しかし、神の発言を聞いて、「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます」(4節)と答えています。ヨブの心は、神を畏れる思いで完全に満たされていることでしょう。

 7節から、神の第二の発言が記されます。そこで38章3節の言葉を再度繰り出し、続けて、「お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪にするためにわたしを有罪とさえするのか」(8節)と問いかけられます。「定めたこと」は、「公正」(ミシュパート)と訳される言葉です。

 ヨブは27章2節で「わたしの権利を取り上げる神にかけて、わたしの魂を苦しめる全能者にかけて、わたしは誓う」と言っていましたが、「権利」と訳されているのが「ミシュパート」で、わたしのミシュパートを取り上げ、苦しめる全能者を告発していたのです。

 しかし、自分も神に対して同じことをしているとは、ヨブ自身、考えもしなかったことでしょう。そのように神を告発していたのは、ヨブが応報の原則によって「義」(ツェデク)や「公正」(ミシュパート)を考えていたからです。友らが、その原則に従って、ヨブに罪があるとしていたのを、ヨブは、自分は無実なのに苦難を受けるのは、神が公正ではないからだと批判する結果になっていたのです。

 それが、神の経綸を暗くすること(38章2節)、ヨブが無罪を主張するために神を有罪とすること(8節)と批判されているということは、応報の原則によって神の義を考えることはできないということを示しています。

 9節に「腕」という言葉があり、14節に「自分の右の手」という言葉があって、ヨブの力を示すものによって9~14節の段落を括っています。そして10~13節に、王権を象徴する装束を身に着け、王たる者にふさわしく行動することができるかとチャレンジしています。ヨブは、このチャレンジを受けて、神に代わり、奢り高ぶる者、神に逆らう者を排除することができるでしょうか。

 もしできれば、神はヨブを賞賛し(14節)、神にも劣らぬ者であること(9節)を認めようというのですが、ヨブならずとも、誰にもできることではありません。そもそも、奢り高ぶる者、神に逆らう者をすべてこの世から排除して、王国が成り立つでしょうか。上述の批判から、ヨブ自身でさえ、この世に留まることが許されないでしょう。

 これはしかし、神にしかできないと言いたいのではありません。神は、ご自分が支配するこの世界を、そのように暴力的な力で支配しようとはなさらない、ご自分に逆らう者を力で排除するという仕方で、この世を治められてはいないということです。そのことについて、38章39節~39章30節の箇所で、野生生物の支配について語るところで、既に語っておられました。

 あらためて、冒頭の言葉(6節)に目を留めてください。神は、第二の発言でも再び「嵐の中から」ヨブに語りかけられました(38章1節参照)。嵐の中で語りかける神のイメージは、モーセがシナイ山で十戒を受けた時、山全体が雷雲に包まれ、雷鳴がとどろいて、宿営していた民が震え上がったときのことを思い起こさせます(出エジプト19章参照)。

 また、ソロモンが神殿の奉献式において賛美を捧げたとき、そこに雲が満ちたことがあります(歴代誌下5章13節)。雲は、神の臨在のしるしでした。その雲が雷雲であれば、それは神の臨在を示しているだけでなく、許可なく神に近づくことを許さないというしるしでしょう。

 そのうえ、その雲が「嵐」をもたらすものならば、どうなるのでしょうか。嵐は、ヨブの長男の家を倒壊させて子どもたちのすべての命を奪いました(1章19節)。ヨブにとってそれは、大きな苦しみであり、また悲しみです。嵐が今ヨブに立ち向かっているということは、ヨブに対する神の裁きと考えてもよいでしょう。

 ヨブは苦しみをもたらした神に訴えて、答えを求めていたわけですが、耐え難い苦難を通して、苦難をもたらした嵐の中から神が語りかけておられることに、今ようやく気がついたと読むことも出来そうです(36章15節参照)。

 ヨブは、自分の正しさを神が認めてくれるようにと求めるあまり、むしろ、神から遠く離れることになってしまったことに気づかされたのです。そして、自分に厳しく、しかし慈しみをもって迫り、問われる神の言葉により、主が神であられること、また自分が神の被造物であるということを、再認識させられました。それはしかし、もう一度神の恵みに目を開かせることだったのです。

 モーセがシナイ山で十戒を授かったとき、山全体が激しく震え、モーセの語りかけに雷鳴をもって答えられるという恐るべき光景が展開されていたわけですが、モーセはそこで神と親しく語らい、40日40夜を飲まず食わずで過ごしました。

 神と親しく交わることは、モーセにとって飲食を忘れさせるほどの、否、私たちの理解をはるかに超えた、真の食べ物であり、飲み物だったのです(ヨハネ4章32,34節、6章53節以下、55節)。

 詩編34編18~21節に「主は助けを求める人の叫びを聴き、苦難から常に彼らを助け出される。主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる」と詠われています。

 直接語りかけられた神の御前に、己の傲慢を思い知らされ、自己中心の罪を示されて平伏しているヨブにとって、神の御言葉は厳しくありますが、それは、ヨブの目を開いて悔い改めさせ、再び神との親密な交わりに導くものとなったわけです。

 2000年前のペンテコステの日、「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(使徒言行録2章2節)ということ、そして、「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話しだした」(同4節)という出来事があり、ペトロの説教を通して3000人もの入信者を獲得して(同41節)、エルサレムに教会が誕生致しました。

 「激しい風」は聖霊の到来を表わしており、そして、それまで権力の前に怯えていた使徒たちに神の力を与え、それによって宣教の働きが著しく伸展しました。「霊」は、ギリシア語(プネウマ)でもヘブライ語(ルーアッハ)でも、「風」とも訳される単語です。聖霊が激しく信徒たちの上に働きかけたということになります。

 十字架の前にひざまずき、聖霊に満たされ、喜びをもって従順に主に従う者としていただきましょう。そのために、約束の聖霊を求めて祈りましょう。聖霊の力を受けて、主の証人にならせていただきましょう。

 主よ、御前に謙り、様々な方法を持って語りかけられる御声に絶えず耳を傾けます。聖霊の助けと導きを求めます。私たちの耳を開いてください。日々上からの力に与り、頂いている恵み、平安、喜び、慰め、癒し、助けを周りの人々と分かち合うことが出来ますように。主の恵みと導きが私たちと共に常に豊かにありますように。 アーメン




静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に10月28日(日)秋の特別礼拝の礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。

②「今週の報告」、「フォトギャラリー」を更新しました。

③「お知らせ」は随時更新しています。

④「今日の御言葉」は毎日更新しています。


御覧ください。




以前記したことをもう一度。

10月31日は、ハロウィンです。
Wikipeddiaによれば、「ハロウィン 、あるいはハロウィーン(Halloween, Hallowe'en) は、カトリックの諸聖人の日(万聖節)の前夜(10月31日)に行われる伝統行事。諸聖人の日の旧称"All Hallows"のeve(前夜祭)であることから、Halloweenと呼ばれるようになった」そうです。

もともとは、ケルト人の収穫感謝祭でしたが、それをカトリック教会が教会行事として取り入れたのだそうです。ケルト族の一年の終わりは10月31日で、この夜は死者の霊が家族を訪ねたり、精霊や魔女が出てくると信じられていました。これらから身を守る為に仮面を被り、魔除けの焚火を焚きました。

これに因み、31日の夜、南瓜をくり抜いて作ったジャック・オー・ランタン(お化けカボチャ)に蝋燭を立て、魔女やお化けに仮装した子ども達が、「Trick or Treat(お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ)」と唱えて近くの家を一軒ずつ訪ねます。家庭では、カボチャの菓子を作り、子供達はもらったお菓子を持ち寄り、ハロウィン・パーティーを開いたりするそうです。

日本では、1990年代から次第に知られるようになったということですが、日本の場合は、母の日も、バレンタインもハロウィンも、そしてクリスマスまでも商業ベースに乗って行われているので、教会がもう少ししっかりと福音宣教を進めていかなければと思います。


その意味では、むしろ、宗教改革記念日であることを強調していくべきなのでしょう。
1517年と言いますから、今から501年前の今日、マルチン・ルターがヴィッテンベルクの城教会の門に「95か条の論題」を貼り付けて、ここから宗教改革が始まりました。

ルターは、カトリックに対抗するプロテスタントを起こそうと考えていたわけではありませんでしたが、神が教会を清めるために、宗教改革の業を起こされたわけです。

聖書主義を唱え、誰もが聖書を読めるようにとドイツ語訳新約聖書を出版したことが、キリスト教界にどれほど大きな影響を与えたか分りません。ラテン語訳だけが聖典とされていたものが、それ以後、各国の言葉で読めるようになっからです。

現在、私たちが御言葉と祈りによる交わりを提唱して、日々聖書日課に励んでいるのは、ルターのお蔭と言ってもよいでしょう。そして、その背後に神様の導きがあったわけです。ハレルヤ! アーメン

ただ、教会学校に来る子ども達に、「10月31日は何の日?」と聞くと、皆「ハロウィン」と答えて、「宗教改革記念日」とは答える子どもはいないと、福音ルーテル教会の牧師がつい先日言っていました。ルーテル派でもそうであるなら、本当にもっと「宗教改革記念日」を強調していかなくちゃ!




10月30日(火) ヨブ記39章

「神が(駝鳥に)知恵を貸し与えず、分別を分け与えなかったからだ。」 ヨブ記39章17節

 38章39節から、神はヨブの目を、天地宇宙から転じて地上の動物、空の鳥たちに向けさせます。登場するのは獅子(38章39,40節)、烏(同41節)、山羊(1節a)、鹿(1節b以下)、野ろば(5節以下)、野牛(9節以下)、駝鳥(13節以下)、馬(19節以下)、鷹(26節)、鷲(27節以下)です。

 馬以外はすべて野生のものであり、馬は軍馬で、おとなしさとは無縁のものとして描かれています。これら鳥獣の生態について、殆ど何も知りません。ここに記されているのが、科学的に正確な描写であるのかどうかも、よく分かりません。神が造られた動物で、その名を知っている動物であっても、分からないことだらけです。

 獅子と烏についての描写(38章39~41節)と鷹と鷲についての描写(39章26~30節)、即ち猛獣と猛禽の営巣、子育てに関する表現でこの箇所を括っており、それは、人に容易く飼い慣らされず、むしろ危害を加える力のある爪や牙、嘴に恐れと不安を感じるというものです。

 創世記1章26~30節には、海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配するものとして、人が創造されたことが記されています。その支配権は、神のかたちに造られたところにあると示されています。神は今、生物の支配者なる人間の代表者ヨブに対して、この目録を示しつつ、獅子や烏、鷹、鷲などを治めることができるのかと挑戦しておられるかのようです。

 もっとも、創世記1章30節に「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう」と記されており、その段階では、すべてのものがベジタリアンで、お互いに危険な存在ではなかったことが示されます。

 肉食が許されるのは同9章3節で、箱舟を出たノアに対して神が「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしは、これらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」と言われました。そのときから動物が人を恐れるようになり、また、反撃するようになったということでしょう。

 イザヤ書11章6~9節に、肉食獣と草食動物、人と動物の関係が、創造当初の平和な関係に戻ったかのような預言が記されています。それは、平和の王に導かれた終末的な世界の状況でしょう。そのとき、あらためて人が彼らを治める支配者となるということなのでしょう。

 それはしかし、力による支配、恐れと恐怖をもたらす支配などではありません。「小さい子供がそれらを導く」(同6節)という、支配という言葉が似合わないほど穏やかな、やさしい支配です。

 ところで、ここに記されている動物の中で、駝鳥の評価が最低です。鳥なのに空は飛べませんし(13節)、卵は産みっぱなし(14,15節)、雛を守ろうともしない(16節)というように、ひどい言われようです。その理由について、冒頭の言葉(17節)のとおり、神が駝鳥に知恵、分別を与えなかったからだと書かれております。

 それでも神は、駝鳥を見捨てられているわけではありません。駝鳥にも神の特別な配慮があるのです。駝鳥は強靱な脚力で、馬やその乗り手(人間)をあざ笑うかのような走りが出来ます。

 人間は、神のかたちに創造されており(創世記1章26節以下)、被造物の中の最高傑作だと言われます。だからといって、ここで評価の最も低い駝鳥を、自分の思い通りに動かすことなど、容易に出来るものではありません。

 神は何故、駝鳥のような鳥を創られたのでしょう。それは、神にしか分かりません。誰もその経綸を悟ることは出来ません。神に代わることは出来ないのです。

 以前、駝鳥の卵を使って鳥インフルエンザウイルス(H7N9型)の抗体を作ったというニュースを見ました。ウイルスを不活化する抗体をダチョウの卵から精製することに、京都府立大学生命環境科学研究科の塚本康浩教授のグループが成功し、実用販売されています。

 何でも、駝鳥は傷の治りがきわめて早く、灼熱の砂漠で生きながら寿命が60年もあります。その驚異的な生命力に着目した塚本教授は、「すさまじい免疫力の持ち主で、抗体を作る力も強い」と見て研究し、卵から大量の抗体を取り出す技術を開発したそうです。

 その抗体をスプレーに入れて、マスクに吹き付けると、病原体から完全に防護してくれるというものでした。駝鳥の卵は病原体への抵抗力が強く、その上、鶏の卵の20~25倍の大きさがあり、卵1個からマスク8万枚分の抗体がとれるそうです。また、卵1個の抗体からインフルエンザ検査薬が2万人分作れるとも報道されていました。

 韓国で猛威を振るったmers(マーズ)の抗体を、駝鳥の卵を使って精製することに成功しました。現在、有効性、安全性を検証中だということですが、米国、韓国などにスプレー剤にして既に送られたのだそうです。エボラ出血熱のウイルスを不活性化する抗体の精製にも成功して、実用化されています。花粉症やアトピー性皮膚炎にも効果が期待されています。

 駝鳥は年間100個近い卵を産むそうで、しかも前述の通り、駝鳥の寿命は60年以上、産卵期間も40年ほどあることから、同質の抗体を長期間にわたって安定供給出来ることも強みということでした。また、肉は高タンパク低脂肪で健康志向で需要が高まり、世界各地に飼育農場が増加しているそうです。

 勿論、脅威のウイルス対策やメタボ対策という人間の健康保持のために、神が駝鳥を創造されたわけではないでしょう。とはいえ、駝鳥のお蔭で、私たち人間の命が守られるというのは、確かなことです。神が造られた被造物の多様さ、しかも、その一つ一つに注がれている配慮の細やかさには、目を見張るばかりです。

 神がヨブに創造の神秘を語られるのは、被造物一つ一つに込められている神の深い御心に気づかせるためでしょう。そして、それによって、ヨブの上にも神の特別な配慮があることを気づかせるためだったのではないでしょうか。

 慈しみ深い神に信頼し、すべてをその御手に委ねることの出来る者は幸いです。「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ書30章15節)と言われているとおりです。

 主よ、御名はいかに力強く、全地に満ちていることでしょう。その威光をたたえます。月も星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが私たちを御心に留めてくださるとは、人間は何者なのでしょう。測り知れない恵みに与っていることに感謝し、心を尽くしてその御愛を語り伝えます。全世界に主イエスの平和が豊かにありますように。 アーメン




10月29日(月) ヨブ記38章

「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。」 ヨブ記38章2節

 1節に、「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった」と記されています。主なる神が、雷鳴や山鳴りの中からモーセに語られ(出エジプト記19章16節以下)、激しい風と火の後エリヤに語られたように(列王記上19章11節以下)、嵐の中から、ヨブにお答えになりました。即ち、このとき、嵐が主の顕現されたしるしでした。

 ヨブは、このときをどれだけ待ち侘びたことでしょう。ようやく、直接に神と語り合える、念願のときが巡って来たのです。ヨブは、なぜ自分が苦難を味わわなければならなかったのか、神の不当なやり方を問いつめるつもりでした。神から何を言われても、自分の正当性を徹底して主張するつもりだったのです(13章22,23節、14章15節、31章35節以下など)。

 けれども、その出会いは、ヨブが望んでいたようには展開しませんでした。神はそのようなヨブの問いに対して、全くお答えにはなりませんでした。むしろ、冒頭の言葉(2節)のとおり、ヨブに「お前は何者か」と問います。ヨブは神を被告席に立たせて、神のなさった仕打ちの不当性を訴えるつもりだったようですが、逆にヨブが被告席に座らされ、質問に答えさせられます。

 モーセが、柴の燃える炎の中から神に語りかけられ(出エジプト記3章2,4節)、イスラエルの指導者として民をエジプトから連れ出すという使命が与えられたとき(同7節以下、10節)、「わたしは何者でしょう」と答えています。自分が神の前に立ち、その使命を果たすことができる人物だとは考えられないという発言です。

 神はヨブに「男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」(3節)といって、「何者か」の返答を求められます。それは、神との関係において、ヨブが何者なのかを神に知らせるというより、ヨブが自分自身について再認識するための、最も大切な問いとして、初めに語られています。

 神はこれまでのヨブの弁論を、「知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」(2節)と、切って捨てるように語られました。「経綸」(エーツァー)は、「計画、助言、構想、目的」という意味の言葉で、12章13節では「思慮」と訳されています。

 その箇所でヨブは「神と共に知恵と力はあり、神と共に思慮分別もある」と言い、その神の思慮、神の計画は、「暗黒の深い底をあらわにし、死の闇を光に引き出され」(同22節)、「この地の民の頭たちを混乱に陥れ、道もなく茫漠としたさかいをさまよわせられる」(同24節)というものだと語っていました。

 このような言葉に異議を唱えるために、「知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」と仰ったわけです。そう言われた上で、お前は何者か、男らしく答えよと問われても、いったいどのように返答することができるでしょう。

 そうして、「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」(4節)といって質問を始められます。この問いは、イザヤ書40章12節以下の預言の言葉に似ています。神の創造の御業の秘密を、人がどうして知ることが出来るでしょう。このような質問に、誰が答えることが出来るでしょうか。

 12節以下に、「お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか」(12節)といって、朝の光が闇を追い払うように、神に逆らう者を地上から払い落とすというイメージが語られ(13,14節)、続く16節から、深淵の底(16節)、死の闇の門(17節)という深い暗闇の世界を知っているかと問います(18節)。

 そして19節以下で、光と闇との関係について考えさせます。20節を直訳すると「あなたはそれを領地まで連れて行けるか、また、あなたはそれの家の道を知っているか」となり、そこに「光」、「暗黒」という言葉はありません。これは、18節の光と暗黒の順をそのまま19節に当てはめるという、訳者による解釈です。

 19節の直訳、「光の住まいに至る道はどれか、暗黒の場所はどこか」と20節の「あなたはそれを領地まで連れて行けるか、また、あなたはそれの家の道を知っているか」とをよく見ると、19aの「住まい」と20bの「家」、同じく「道」という言葉、それに対して、19bの「場所」と20aの「領地」という、いわゆる交差配列になっていることが分かります。

 ということは、光と暗黒の順が20節では交差して、暗黒と光という順になると考えるべきでしょう。とすると、20節は「暗黒をその境にまで連れて行けるか。光の住みかに至る道を知っているか」という訳語になります。

 即ち、「光」(19aと20b)が「暗黒」(19bと20a)を囲んでいる形になります。「暗黒をその境(ゲブール:「地境、領地、縄張り」の意)に連れて行く」というのは、闇に覆われていた世界に神が「光あれ」と命じられて、昼と夜ができたという創世記1章3~5節の記事で、光によって暗黒の場所が定められたことと解することができます。

 さらに、12節から21節までの、光と暗黒のテーマを取り扱っているこの箇所で、12節の「一生に一度でも」は、「あなたの日から」(ミー・ヤーメイ・ハー)という言葉です。そして、21節の「人生の日数」という言葉も、同じ「あなたの日から」という言葉です。つまり、「あなたの日から=あなたの人生は」というのが、この箇所の枠組みになっているのです。

 つまり、この箇所において、ヨブの人生には光と暗黒というものがあること、しかし、暗黒は光に囲まれ、その場所が定められているということを示すかたちになっているわけです。

 初めは「知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」(2節)と、ヨブの高ぶりともいうべき罪を指弾されるような、「嵐の中から」語りかける神のきわめて厳しい表情を思い浮かべていたのですが、このように読んでいるうちに、なんだか、優しいおじいさんが可愛い孫に笑顔を見せながら語りかけているような、そんな慈しみを感じてきました。

 もしも神がヨブを断罪するつもりであれば、「男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えて見よ」(3節)と仰るまでもなく、たとえば、あのウザを打たれたように(サムエル記下6章7節参照)、一瞬にしてヨブを打たれたことでしょう。

 しかしながら、神はそうなさいませんでした。神はここでヨブに、神の経綸を知ること、悟ることを真に求められたのだと思います。そして、ヨブの誤った自信、自分を義とする思いを砕きつつ、単なる被造物としてでなく、神の語りかけに応答する者として、さらに深く神に信頼する信仰の心を、ヨブに授けてくださろうとしているのです。

 「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(コロサイ書1章26,27節)と、パウロが記しています。

 神の深い計画を人がすべて知ることが出来るはずもありませんが、秘められた計画が明らかにされるのは、神が御自分の創造された世界、そこに住む私たちを愛されるがゆえのものです。

 だからこそ、秘められた計画が栄光に満ちたものであることを知らせようとされるのです。その最も大切な栄光に満ちた計画は、神が私たちの内に御子キリストを住まわせるというものでした。

 私たちの方からいえば、それは、私たちがキリストを信じて受け入れるということです。私たちは、キリストを信じる信仰によって義とされ、すべての罪が赦され、永遠の命が授けられ、神の子となる特権が与えられました。

 主に信頼し、その御言葉に聴き従いましょう。

 主よ、御子の贖いの業により、御救いに与りました。あなたに喜ばれる信仰の器となることが出来るように、日々私たちを御言葉と御霊によって整えてください。主の恵みと平安が私たちの上に常に豊かにありますように。 アーメン




10月28日(日) ヨブ記37章

「全能者を見だすことはわたしたちにはできない。神は優れた力をもって治めておられる。憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。それゆえ、人は神を畏れ敬う。ひとの知恵はすべて顧みるに値しない。」 ヨブ記37章23,24節

 36章26節から、神の偉大さをたたえる賛美が記されています。神は、雨を降らせ(36章27,28節)、雷鳴をとどろかせ(同29節)、稲光を走らせます(同32節)。37章もそのイメージを引き継ぎ、稲妻(3節)、雷鳴(4節)、そして、雨に加えて雪を降らせられます(6節)。

 2節の「聞け、神の御声のとどろきを、その口から出る響きを」は、雷鳴を神の御声とみなした言葉で、詩編18編4節、29編3,4,5節にも、同様の賛美がなされています。それは、神が創造の御業をなされる驚くべきとどろきで、人がその内容を知ることはないと言います(5節)。

 雪や強い雨は、人の手の業を封じ込めるためのもので(7節)、「獣は隠れがに入り、巣に伏す」(8節)というのは、野生の獣が手なずけられたというような表現で、神に逆らうことをやめさせる神の力を示すものということでしょう。これは、神に向かって自分の思いをぶつけているヨブが、獣のように爪を出し、牙をむいているように見えるということを示しているようです。

 「嵐」(9節)は、38章1節で神の臨在を示すものとなっていますが、雷を含め、強い雨風など、「懲らしめのためにも、大地のためにも、そして恵みを与えるためにも、神はこれを行わせられる」(13節)と、自然の力が神の裁き、また神の恵みとして示されます。

 この論法によれば、ヨブの羊と羊飼いが天からの火で焼け死に(1章16節)、またヨブの子どもたちが、四方から吹きつけた大風で家が倒れて命を落とした(同19節)というのは、神の裁き、怒りが、自然の力として現れたということになります。しかし、そのような論立てを、ヨブはおとなしく黙って聞いてはいないだろうと想像します。

 14節以下はエリフの最終弁論で、ヨブに対する最後の勧めが語られています。それは、冒頭の言葉(23,24節)に示されているとおり、人が神を理解することは不可能だというものです。優れた力をもって治めておられる全能者に対する、人間としてのふさわしい姿勢は、神を畏れ敬うことで、挑戦的に神に物申すことは許されないというのです。

 確かに、人の知恵、知識には限界があります。自分の知恵で、神を見出すことはできません。相手が神でなくても、自分自身のことさえ、知り尽くしているわけではありません。他人のことをどれだけ理解していることでしょう。ヨブの三人の友も、そして長い弁論をなしたエリフも、ヨブの訴えに対して、全く理解を示すことができませんでした。

 私たちは、自分に都合のよいことは神の恵みとして受け取りますが、不都合なことを同様に考えることは困難です。6節以下で大雪、大雨などの自然現象も、神の御心によって司られていると教えられますが、台風の被害や大地震による災害などをどのように考えればよいのでしょうか。自分や家族が天災などで被害を受けたとき、神の裁きだと言われて、それを素直に受け取れるでしょうか。

 確かに因果応報というのは、物事をわきまえる一つの知恵ですが、すべてのことにそれを当てはめるのは、無理があります。全能の神が、一つの法則に基づいてしか行動できないと言うことはないでしょう。様々な方法で語られるということであれば(33章14節)、行動原理も様々、その表現も様々でしょう。 

 時折、苦難を恵みと考えることが出来た人々に出会います。水野源三さんもそうでした。三浦綾子さんや星野富弘さんも、そうした人々の中の一人です。私たちの目には神様の御姿は見えませんが、このような人々がその苦しみの中で神を信じて変えられたという話を伺うと、確かに神がおられるのではないかと思います。

 なぜ、彼らがそのように苦しまなければならなかったのか、その理由はよく分かりませんが、源三さんの詩集や、富弘さんの詩画集などが、多くの人々に感動を与え、慰めや励ましとなっていることを考えると、苦しみの中にあった彼らに、確かに神が私たちの知り得ない方法で語りかけ、生きる力、希望を与えたのだと思わざるを得ません。

 47年の生涯を駆け抜けられた現代のヨブ、水野源三さんが神様に対して心を開くようになるのは、しかし、一朝一夕のことではありませんでした。源三さんのことを知った一人の牧師が、一冊の聖書を置いていったのが、そのきっかけです。源三さんが12歳の時です。

 その頃、源三さんを自分たちの宗教に勧誘しようとする訪問者が後を絶たず、それにウンザリさせられていたので、家族も最初は拒絶していたといいます。しかし、誠実に訪問し、家族の話に耳を傾け、福音を語る牧師に、それまでとは違うものを感じて、源三さんのお母さんが牧師に、源三さんの話し相手になってくれるよう、頼まれたそうです。

 源三さんを信仰に導いたのは、坂城栄光教会を築かれた宮尾隆邦という牧師ですが、当時、小学校の分校教師をしながら伝道しておられました。長野県の田舎のあばら屋に住み、大変苦労をしながら伝道されていたそうです。それは、宮尾先生に、郷里伝道という使命が与えられていたからこその働きでした。

 その上、源三さんと出会ったときには、既に進行性筋萎縮症を発症しておられ、杖をつきながら源三さんを訪ねておられたそうです。聖書を置いて行った宮尾先生は体の不自由な人だと母親から聞かされた源三さんは、初め、暗い人かと思っていたので、先生の朗らかな笑い声に驚いたそうです。

 様々な宗教の勧誘にうんざりしていた源三さんでしたが、宮尾先生の誠実なお人柄とその信仰、そして何より、宮尾先生を通して大きな業を成し遂げようとされる神ご自身の御業によって、源三さんは13歳でクリスチャンとなられたのです。

 私たちが信仰に導かれたのも、神の不思議な導きがあったからであり、そのために様々な出会いや導きを与えてくださったからです。そしてまた、主イエスを信じる私たちを通して、御言葉を告げ知らせ、御業をなさせてくださいます。そのすべては、応報の法則によらない、神の深い恵み、憐れみによることです。

 恵みに生かされている者として、神の恵みの証人として用いられる器とならせていただきましょう。そのために、聖霊の満たしと導きを祈りましょう。 

 主よ、どうぞ私たちをあなたの聖霊で満たし、主の御業のために用いてください。用い易い器となるために整えてください。そのための試練を耐え忍ばせてください。ひつような知恵と力を授けてください。御言葉に耳が開かれますように。主の御業を見ることができますように。そうして、御名をあがめさせてください。 アーメン!




10月28日(日)秋の特別礼拝説教

10月28日(日)の主日礼拝は、宣教67周年を記念して、秋の特別礼拝として開催しました。

講師は名古屋市・東山キリスト教会牧師の鈴木直哉先生です。鈴木先生は、1971年に静岡市でお生まれになりました。名古屋市の大学在学中にクリスチャンになられ、大学卒業後、東京神学大学で学ばれて、牧師となられました。

礼拝には、教会員16名、講師の鈴木先生、初来会者1名と子ども3名を含む33名の来賓、合計50名の出席がありました。

礼拝後の愛餐会(昼食)にも21名の方が参加されました。感謝でした。

礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「みずみずしい生き方の約束~イエス様につながって生きる~」
聖書 ヨハネ福音書15章1~5節
説教者 鈴木直哉先生 東山キリスト教会牧師


ご覧ください。



 

10月28日(日)特別礼拝案内

02
10月28日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。

「聖書教育」誌にもとづいて、旧約聖書・詩編から、共に聖書の学びと交わりを行います。


主日礼拝を10時半から、今回は宣教開始67周年記念特別礼拝として行います。

礼拝では、ヨハネ福音書15章1~5節より、「みずみずしい生き方の約束~イエス様につながって生きる~」と題して、鈴木直哉牧師(名古屋・東山教会)より説教をいただきます。


写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。


キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


礼拝後、講師を囲んでお昼を共にする愛餐会(無料・自由参加)があります。
どなたもお気軽にどうぞ!





10月28日(日)秋の特別礼拝

03わが日本バプテスト静岡キリスト教会は、1951年に静岡で宣教を初めて67周年を迎えました。
それを記念し、感謝を盛って秋の特別礼拝を開催します。

今回は、静岡市出身の牧師・鈴木直哉先生をお迎えします。

先生は、「みずみずしい生き方の約束~イエス様につながって生きる~」と題して、聖書から明快に説き明かしてくださいます。

写真をクリックすると、集会案内のPDFファイルが開きます。ぜひご覧ください。


キリスト教会は初めてと言われる方も、この機会にぜひ、教会へ足をお運びください。

入場料、参加費などはいただきません。礼拝の中で感謝の献金をしますが、お気持ちのままになさってください。なさらなくても不都合ではありません。

駐車場は完備されています。
アクセスについては、「ここ」をクリックしてください。
教会公式サイトの「アクセス」の頁が開きます。


 

10月27日(土) ヨブ記36章

「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いてくださる。」 ヨブ記36章15節

 36,37章は、エリフの最終弁論です。

 3節に「遠くまで及ぶわたしの考えを述べて、わたしの造り主が正しいということを示そう」とあります。「遠くまで及ぶわたしの考え」は、自分の知識や思索の広さを示す表現のようです。神の導きによって、遠く神にまで及ぶほどに広い知識を持っているので、そこから、神の正しさについて、ヨブに告げ知らせようという解釈でしょう。

 口語訳、新改訳は「遠くからわが知識をとり」、「遠くから私の意見を持って来て」という訳文で、神からその知識を得たという解釈を示しています。原文の「メイ・ラーホーク」は、口語訳などのように「遠くから」と訳すほうが正しいように見えます。

 一方、岩波訳は「遠くから」を「はるか昔から」としています。その注釈には「字義通りには、『遠くからのもの』。先祖から受け継がれてきた知恵であることを主張する意図を持つ」と記されています。

 「考え」(デイア)は32章で、霊感によって得た「知識」として示されていました。4節に「まことにわたしの言うことに偽りはない。完全な知識を持つ方をあなたに示そう」と告げます。完全な知識を持つ方とは、神ということです。「知識」(デイアー)は「考え」(デイア)の女性形です。この言葉遣いで、エリフの霊感が、その完全な知識を持つ方からのものと告げているようです。

 そして今エリフは、完全な知識をお持ちの方の正しさを、神に代わって証明しようとしているのです。26節で「まことに神は偉大、神を知ることはできず、その齢を数えることもできない」と言いながら、造り主なる神の正しさを証明するというのも、自分の霊感に自信を持っての発言で、ヨブには到底獲得できない知識を披瀝するということでしょう。

 しかしながら、それでは神の霊感を受けて、その御言葉を語るというところから大きく外れ、自分の方がヨブや三人の友らよりも広く豊富な知識を持っていると傲慢に自慢するというものに、成り下がってしまっています。

 そうであるなら、ヨブが「神に代わったつもりで論争するのか。そんなことで神にへつらおうというのか」(13章8節)と友らを批判した言葉が、彼の発言に対する予めの応答になっています。

 5節以下、神は公正に裁きをなされるので(6,7節)、苦難はその罪の重さを指し示し(8,9節)、悪い行いを改めるようにという警告であると告げ(10節)、その諭しに聞き従えば幸いが、耳を傾けなければ苦悩のうちに死を迎えることになるといいます(11,12節)。 

 この文脈で語られる冒頭の言葉(15節)は、貧苦や苦悩は、その人に与えられる悪い行いをやめるようにという警告であり、また神の御言葉に耳を傾け、従うようにという勧めです。

 17節に「罪人の受ける刑に服するなら」、つまり神の裁きを受け入れるならと言われているので、悪い行いを改めるとは、ヨブの場合、潔白を訴え続けるのをやめることを指しているでしょう。そうすれば、彼の受けた貧苦は有効に機能し、そこから救われ、耳が開かれると言うのです。

 このことは、ヨブの友エリファズが5章17節以下に「見よ、幸いなのは、神の懲らしめを受ける人」と語って、ヨブに悔い改めを促していました。それに納得できなくて、議論を繰り返し、そのような理由で苦しみを受ける謂われはないと訴えていたのを見ていたはずですから、ヨブがエリフの言葉にどのように反応するか、聞くまでもないというところでしょう。

 ただ、エリフの意図、前後の文脈を離れて、素直に冒頭の言葉を読むと、別のメッセージが聞こえてきます。

 当然のことながら、貧しい人、苦悩の中にいる人を救い出すのは神ご自身であって、貧苦や苦悩がその人を救うのではありません。しかし、人は貧苦や苦悩をとおして、新たな道を見出し、かつてなかった喜びを味わうことがあります。貧苦や苦悩が神の御声に耳を開く契機となることがあるのです。

 勿論、苦悩を経験しさえすれば、誰もが自動的に神と出会い、その恵みを味わうことが出来るというわけではありません。卑屈になって殻に閉じこもる人もいるでしょう。周りに八つ当たりする人もいるでしょう。自暴自棄になり、取り返しのつかないことをしてしまうかも知れません。

 その一方で、貧苦や苦悩などは、自分の限界を教えてくれます。それによって謙遜を学びます。そしてそこから大切なことを学ぶことが出来るようにもなります。詩編119編で「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」(同71節)と語られています。

 また、「わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり、命を得させてください」(同107節)、「苦難と苦悩がわたしにふりかかっていますが、あなたの戒めはわたしの楽しみです」(同143節)と謳われていて、苦難が神の御言葉に心を向けさせ、それが慰めとなり、励ましとなっているわけです。

 神の言葉が貧苦と苦悩の中にいる人を慰めるのは、御子イエス・キリストを十字架につけることよって、神ご自身が自ら苦悩を味わっておられるからです。

       「苦しまなかったら」
   もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。
   もしも主イエスが苦しまなかったら、神様の愛はあらわれなかった。
   多くの人が苦しまなかったら、神様の愛は伝えられなかった。

 これは、瞬きの詩人といわれた水野源三さんの詩です(水野源三『わが恵み汝に足れり』アシュラムセンター刊より)。

 水野源三さんは、小学校4年生のときに患った赤痢の高熱が原因で脳膜炎を起し、首から下の神経が麻痺して、体を動かすことも、声を出すことも出来なくなりました。そんな源三さんが、お母さんと二人三脚で編み出した自分の表現法、それが瞬きでつづる詩や短歌、俳句です。

 源三さんはこうした苦しみを通して神と出会い、その結果、出会いの糸口となった苦難を神から賜った恵みと考えるようになられたのです。神との出会いに導くために苦しみを与えられたとは思いませんが、主なる神があらゆる出来事を通して私たちを最善に導いてくださると信頼することの出来る方は、本当に幸いです。

 70年前、広島、長崎に投下された爆弾で被爆した方々やそのご家族の苦しみ、未だに被爆者として国に認定されていない方があるという報道もあり、そのやりきれなさはどれほどだろうかと思います。

 また、東日本大震災の被災者、就中、福島第一原発事故の影響で、いまだに避難生活を余儀なくされている方々に、心から主の慰めと平安を祈り、そして、これ以上被爆者を生まないよう、核の管理の徹底を祈り願いましょう。

 主よ、あなたは憐れな人を守り、弱り果てた人を救ってくださいます。私たちの魂を死から、私たちの目を涙から、私たちの足を滅ぼそうとする者から、助け出してくださいました。今、不条理なことで悩み苦しみ続けておられる方々に、主の恵みと平安が豊かにありますように。すべての人々に神の愛が伝えられますように。御国が来ますように。 アーメン




10月26日(金) ヨブ記35章

「しかし、だれも言わない、『どこにいますのか、わたしの造り主なる神。夜、歌を与える方。地の獣によって教え、空の鳥によって知恵を授ける方は』と。」 ヨブ記35章10,11節

 35章は、エリフの三回目の弁論です。エリフは再度、「神はわたしを正しいとしてくださるはずだ」(2節)というヨブの発言を問題にし、さらに3節で「わたしが過ちを犯したとしても、あなたに何の利益があり、わたしにどれほどの得があるか」と言います。これは34章9節の「神に喜ばれようとしても何の益もない」とヨブが言っていたとした発言を、悪意をもって変形したような言葉です。

 3節の原文は難解です。口語訳は「あなたは言っている。『何があなたの役に立つのでしょうか。私が罪を犯さないと、どんな利益がありましょうか』と」。新改訳は「またあなたは言う。『わたしが過ちを犯したとしても、あなたに何の利益があり、わたしにどれほどの得があるのか。』」。岩波訳は「まことに、あなたは言う、『いったい、私に何か益するのか、私が罪を離れても、何の得になるのか」と訳しています。

 2節、34章9節との関連で考えると、岩波訳のように訳すのがよいのではないかと思います。勿論、ヨブがこういう発言をしているということではありません。ヨブが自分の潔白を主張して、悔い改めようとしないのは、罪を離れても何の得にもならないから、そこから離れないと言っているようなものだと、エリフがそう考えたということでしょう。

 5節から8節まで、人の言葉と行いで神に影響を与えることはできないと言っていますが、これは、22章2~4節のエリファズの言葉を展開したものです。このことについては、ヨブも7章20節で「人を見張っている方よ、わたしが過ちを犯したとしても、あなたにとってそれが何だというのでしょう」といって、神の超越性に訴えて、苦しみから解放してくださるように願っていました。

 勿論、神が人の世界をはるかに高いところにおられて、人の罪でそれを害したり、人の善い行いで神に利することはできないからといって、不道徳な生活をしてよいということにはなりません。ただ、自分の道徳的生活をもって神に働きかけ、そのアドバンテージで自分の願いをかなえてもらうことなどはできないということです。

 9節以下では、ヨブの叫び、求めに神がお答えにならないことについて、取り上げています。ヨブは30章20節で「神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのに、あなたは御覧にならない」と言っていました。

 エリフは、「抑圧が激しくなれば人は叫びを上げ、権力者の腕にひしがれて、助けを求める」(9節)と、時の権力者による抑圧で人々は叫び声を上げるという一般論を述べ、けれども、冒頭の言葉(10節)のとおり「どこにいますのか、わたしの造り主なる神」とその苦難の中で謙遜に神を求めようとしないと言います。

 人が叫び声を上げて助けを求めながら、それが得られないのは、神を尋ね求めないからで(10節)、それは「悪者が高慢にふるまう」(12節)ことだと結論づけています。苦しみの原因が何であれ、ヨブに求められるのは、自分にはこのような苦しみに遭う理由が分からないということではなく、「わたしの造り主なる神はどこにおられますか」と謙遜に尋ね求めることだというのです

 そして、「あなたは神を見ることができないと言うが、あなたの訴えは御前にある。あなたは神を待つべきなのだ」(14節)と言います。ヨブが空しく口を開き、愚かなことを言い続けられるのは、神が裁きの時の到来を待っておられるからで(15,16節)、ただ沈黙しておられるわけではないこと、ゆえにそれも、神にふさわしい態度だというのです。

 あらためて、エリフは神について冒頭の言葉で「わたしの造り主なる神。夜、歌を与える方。地の獣によって教え、空の鳥によって知恵を授ける方」と紹介します。ヨブは自分が苦難から解放されないことで神の正しさを問題にしているけれども、神はご自分が創造された地の獣や空の鳥を通して、即ちどのようなことからでも、人を教え、知恵を与えることが出来ると示しているのです。

 エリフ自身が語っているように、ヨブの訴えは神の御前にあります(14節)。神はどんな言葉も受け止めてくださいます。だから、神のときを待つべきでしょう。それはしかし、未だ怒りの時が来ていないので、神がヨブの無駄口を無視し、聞き流しておられる(15,16節)などということではないのではないでしょうか。

 神はその訴えを無視しておられるのではなく、むしろヨブの傍らに寄り添い、思う存分その胸の内を語らせて、そのすべての思い、願いに静かに耳を傾けてくださっているのではないかと思います。

 もう一言、エリフは神について「夜、歌を与える方」と語りました。なぜ、夜に歌が与えられるのでしょうか。苦しみ、悩みで眠れない夜を過ごすことがあります。そうしたとき、深く孤独を味わうものです。けれども、そのときに、神に出会う経験をするのです。そして、そこで嘆きが歌に変えられるのです。

 詩編30編6節に「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」という言葉がありました。また、同16編7節に「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます」と記されています。悲しみの夜、光のない闇の中で、神の励まし、諭しを受けて主をほめたたえる、その歌をもって朝を迎えることができたということです。 

 フィリピ伝道の初めに無実というべき罪で鞭打たれ、獄舎につながれた使徒パウロと従者シラスが、真夜中ごろ、眠れずに恨み言を言っていたというのではなく、賛美の歌をうたって、神に祈りました(使徒言行録16章25節)。

  そうしたことが、二人の監視を命じられていた看守とその家族の救いにつながりました(同31節以下、35節)。それはまさに、苦難の中に共にいてくださり、歌を授けてくださる神の導きだったわけです。

 神は、私たちの苦しく辛い状況を、遠く離れたところから見下ろしておられるお方ではなく、私たちに傍らに来て、そして私たちに代わってそれを背負い、私たちを癒してくださるお方なのです。

 「夜、歌を与える方」に向かい、心から賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の実を絶えず献げましょう。

 主よ、あなたは、泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださるお方です。私たちの嘆きを踊りに変え、荒布を脱がせ、喜びを帯としてくださいます。悲しむ者に深い慰めをお与えくださる主の恵みと平和が、今、助けを、解放を必要としている人々に、そして全世界に豊かにありますように。 アーメン




プロフィール

pastabco

記事検索
最新コメント
月別アーカイブ
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ギャラリー
  • クリスマス礼拝の案内
  • 12月15日(日)主日礼拝案内
  • 静岡教会公式サイト更新
  • 静岡教会公式サイト更新
  • 12月8日(日)主日礼拝説教
  • 12月8日(日)主日礼拝案内
  • 12月1日(日)主日礼拝説教
  • 12月1日(日)主日礼拝説教案内
  • 11月24日(日)主日礼拝案内
  • 11月17日(日) 主日礼拝案内
  • 11月10日(日)主日礼拝案内
  • 11月3日(日)主日礼拝説教
  • 11月3日(日)主日礼拝案内
  • 10月27日(日)秋期特別礼拝説教
  • 10月27日(日)秋期特別礼拝説教
livedoor 天気
「J-CASTニュース」は提供を終了しました。
楽天市場
「Amazonライブリンク」は提供を終了しました。
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ