「この日、ハマンはうきうきと上機嫌で引き下がった。しかし、王宮の門にはモルデカイがいて、立ちもせず動こうともしなかった。ハマンはこれを見て、怒りがこみ上げてくるのを覚えた。」 エステル記5章9節
王妃エステルとモルデカイとのやりとりから「三日目」(1節)、即ち、三日三晩断食することにした(4章16節)、その最終日のことです。すべてのユダヤ人の運命を担い、エステルは王妃の衣装をまとって、王宮の内庭に入りました(1節)。それは、「このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります」(4章16節)と告げたとおり、決死の覚悟をもっての行動です。
ここで、「王妃の衣装」と訳されているのは「マルクート(王国、統治、領土、王権)」という言葉です。岩波訳には、「字義通りには、『帝国風に(マルクート)着飾って』」という脚注が付けられています。「王妃の尊厳をまとって」という表現と採ることも出来るでしょう。因みに、4章14節では、同じ言葉が「王妃の位」と訳されています。
王宮の入り口に向かって王座に座っていた王が、庭に立っているエステルを認め、手にしていた金の笏を差し伸べました(2節)。それは、エステルを側へ来るように促す合図であり、禁令を犯して王に近づいたエステルの行為が許されたことを意味します(4章11節参照)。
「満悦の面持ちで」(2節)というのは、「彼女(エステル)は、彼(王)の目に魅力を高めた」と訳せる言葉遣いで、岩波訳は「彼女は王の好意をかち得た」としています。王がエステルを見つけた瞬間、禁令を犯されたことより、正装した美しい王妃が自分を求めてそこに立っているのを喜んだのです。
内庭に入ること自体禁じられているのですから、もしも王がそこにいなければ、警護の者に追い出されるか、拘束されてしまう可能性もありました。しかし、王は庭の入口に向かって座っていて、入って来たエステルをすぐに認め、笏を差し伸べて招きました。神の導きを思わせられる展開です。そのとき、彼女が王に近づいたのではなく、王が彼女を自分のもとに召したかたちになったのです
王は近づいて来たエステルに、「王妃エステル、どうしたのか」(3節)と尋ねます。「何をあなたに」(マー・ラーフ)という言葉で、岩波訳は「何なりとお前に〔あたえられよう〕」と訳しています。
続けて「願いとあれば国の半分なりとも与えよう」(3節)と王が言います。これは、ヘロデの誕生日に娘サロメが踊りをおどって喜ばせたとき、「欲しいものがあれば何でも言いなさい」といって約束したのと同じ言葉であり(マルコ6章23節)、王がエステルの登場を喜び、どんな要求でも答えてやろうという思いを、少々誇張した表現で伝えるものです。
エステルが王の前に立ったのは、同胞ユダヤ人の救済を王に嘆願するためです。けれども、「願いとあれば国の半分なりとも与えよう」という言葉を聞いたエステルは、その願いをすぐに切り出そうとはしません。「今日私は酒宴を準備いたしますから、ハマンと一緒にお出ましください」と願います(4節)。
原文を正確に訳すと、王のために準備する酒宴に、今日、ハマンをお供にして来るようにという招きです。つまり、王妃が王のために酒宴を設けるから、そこにお供としてハマンを呼べということで、言葉を選んで慎重に自分の思いを王に届ける舞台を整えようとしているのです。
ハマンは王に賄賂を贈ってユダヤ人絶滅を進言し(3章9節)、勅書を帝国全土に発布させた人物であり、王とハマンは、帝都スサの混乱をよそに二人で酒を酌み交わしていました(同15節)。
問題の張本人を、ユダヤ人の王妃エステルが自ら設けた王のための酒宴に招いたのです。自分のために王妃が酒宴を準備すると聞いて喜んだ王は、その願いを受け入れ、早速ハマンと共に酒宴に赴きました(5節)。
王はその席で、「何か望みがあるならかなえてあげる」(6節)と言い、重ねて「国の半分なりとも与えよう」(6節)と約束します。王妃の願いが、自分のために酒宴を開きたいだけのこととは思えなかったのでしょう。また、「ぶどう酒を飲みながら」というのですから、上機嫌で気が大きくなってもいたことでしょう。
エステルは、「もし王のお心にかないますなら、もし特別なご配慮をいただき、わたしの望みをかなえ、願いをお聞き入れくださるのでございましたら、私は酒宴を準備いたしますから、どうぞハマンと一緒にお出ましください」(8節)と言い、そして、「明日、仰せのとおり私の願いを申し上げます」(8節)と答えました。
王妃の言葉を受けて、ハマンはうきうきと上機嫌で王宮を後にします(9節)。エステルが王のために準備したプライベートな酒宴に2度続けて同伴するよう招かれたハマンは、もう有頂天でした。自分のことを、王族の一人にでもなったかのように感じていたのではないでしょうか。
しかし、その上機嫌は、あっという間に吹き飛んでしまいます。冒頭の言葉(9節)のとおり、王宮を出ようとしたところでモルデカイを見たのです。彼は、自分に敬礼しないどころか、動こうともしません。それを見たハマンの心は、完全に怒りで満たされてしまいましたが、何とか自分を制して帰宅しました(10節)。
帰宅したハマンは、親しい友達を招き、妻ゼレシュも同席させて、憤懣やるかたない思いを彼らにぶつけます。それを告げるにあたり、自分の莫大な財産や大勢の息子について、また王から与えられた栄誉、自分の栄進について自慢します(10,11節)。さらに、王妃から特別な酒宴に招かれたことを語り聞かせます(12節)。そこまでは、この上もなく幸せな気分だったのです。
けれども、そのすべてをぶち壊したもの、それがユダヤ人モルデカイの存在でした。人は、善事よりも悪事に心とらわれるものです。そのことを、「王宮の門に座っているユダヤ人モルデカイを見るたびに、そのすべてがわたしにはむなしいものとなる」(13節)と、妻や友らに訴えました。
それに対して、妻ゼレシュが他の者たちと口をそろえて、「50アンマもある高い柱を立て、明朝、王にモルデカイをそれにつるすよう進言してはいかがですか。王と一緒に、きっと楽しく酒宴に行けます」(14節)と勧めます。
ハマンは、王の実印を与り、政を行う責任者なのですから、モルデカイを見たくないなら、彼を王宮から遠ざけ、閑職をあてがえばよいでしょう。そうでなくても、モルデカイを含むユダヤ人たちは、ハマンによって既に死刑を宣告されている身の上(3章13節)、一年後にはその刑が執行されているのです。
けれども、ハマンはそれを待っていられません。妻たちの勧めに気を良くしたハマンは、早速、家に高い柱を立てさせます(14節)。そして、明日行われる二度目の王妃の酒宴までにモルデカイをその柱につるして、妻の言うとおり、本当に気分よく酒が飲めるようにしようと、はやる思いを静めるようにして、床に就いたのではないでしょうか。
しかしながら、王妃エステルもユダヤ人であり、モルデカイはその養父であり、後見人となっている人物です。このつながりをハマンが知っていれば、どうだったでしょう。自分の計画が、自分を最高に気分に導いてくれているエステルを殺そうとすることだと知れば、どうでしょうか。
知らないからこそのハマンの行動なのです。けれども、「人を呪わば穴二つ」です。彼は自分の蒔いたものを刈り取らなければなりません(ガラテヤ書6章7節)。
また、「痛手に先立つのは驕り、つまずきに先立つのは高慢な霊」(箴言16章18節)、「人間の前途がまっすぐなようでも、果ては死への道となることがある」(同16章25節)という言葉があります。ハマンは、最高に幸せという状況にあって、自分自身を吹き飛ばすことになる地雷を自ら仕掛けてしまいました。
「好事魔多し」というように、順調な時に足をすくわれるようなことにならないように、思い上がらず傲慢にならず、謙ることを学びましょう。自分を知って、一歩一歩着実に足を進めることが出来るよう、常に神の御言葉に耳を傾けましょう。主の御心を悟り、聖霊の導きに従って歩みましょう。
主よ、エステルは真剣に祈り、神の力に押し出されて行動しました。そこに、主の守りと導きがありました。一方、怒りにまかせて行動したハマンは、自らに滅びを招くことになります。あらためて、私たちは、神の国と神の義を第一に求めて御前に進みます。御旨を行うことが出来るように、御声をさやかに聞かせてください。耳が開かれ、目が開かれますように。そうして、絶えず御名を崇めさせてください。 アーメン