風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2018年07月

7月25日(水) 歴代誌下11章

「またレビ人に続いて、イスラエルのすべての部族の中から、イスラエルの神、主を求めようと心を定めた者たちが、エルサレムに出て来て、先祖の神、主にいけにえをささげた。」 歴代誌下11章16節

 ソロモンの死後、国が南北に分裂し、北(イスラエル)はネバトの子ヤロブアム(エフライム族)、南(ユダ)はソロモンの子レハブアムが治めることになりました(10章15節以下)。それは、ソロモンが神の戒めを守らなかったからでした(列王記上11章1節以下)。

 ただ、そのことは歴代誌では伏せられていて、ヤロブアムとレハブアムの会談で、北の諸部族の訴えにレハブアムが耳を貸さなかったことが、決裂の原因となっています(10章1節以下、15節)。「アヒヤを通してネバトの子ヤロブアムに告げられた御言葉」(同15節)とは、列王記上11章31~39節に記された預言のことですが、歴代誌には記録されていません。

 17節の「ダビデとソロモンの道」という表現で、この父子の治世を一体のものとして示し(7章10節参照)、彼らが「全き心と喜びの魂をもって神に仕え」(歴代誌上28章9節)ていたということを物語っています。

 主なる神はヤロブアムに「わたしはあなたを選ぶ。自分の望みどおりに支配し、イスラエルの王となれ。あなたがわたしの戒めにことごとく聞き従い、わたしの道を歩み、わたしの目にかなう正しいことを行い、わが僕ダビデと同じように掟と戒めを守るなら、わたしはあなたと共におり、ダビデのために家を建てたように、あなたのためにも堅固な家を建て、イスラエルをあなたのものとする」と約束されました(列王上11章37,38節)。

 ところが、ヤロブアムは主に従いません。15節に「ヤロブアムは、聖なる高台、山羊の魔神、自ら造った子牛に仕える祭司を自分のために立てた」と記されています。「聖なる高台」はカナンの土着の神を礼拝する場所です。そして、山羊の魔神、ヤロブアムが造った子牛などの偶像を拝ませるため、自分で祭司を任命し、レビ人、主の祭司らを遠ざけました(14節)。

 列王記上12章28節以下には、金の子牛を造ったこと、聖なる高台に神殿を設け、レビ人でない祭司を立てて務めにつかせたことは記されていますが、そこに山羊の魔神については触れられていません。

 これは、ヤロブアムだけでなく、代々の北王国の民がレビ記17章7節の「彼らがかつて、淫行を行ったあの山羊の魔神に二度と献げ物をささげてはならない」という規定に反していたということなのでしょう。 

 ヤロブアムは、主を礼拝するためにエルサレムを訪れているうちに、民の心が自分から離れてしまうと考えて、国内に各種の礼拝施設を設け、そこに神官を置いたわけです(列王記上12章26節以下)。それは、ヤロブアムを王とした主の計らいを忘れ、自分の力で王となったかのように思い違いをして、神に聴き従うよりも、自分の知恵と力で王位を守ろうと考えたわけです。

 北イスラエル10部族は、ソロモンの重い軛と、それを軽くして欲しいという訴えに耳を貸さなかったレハブアムのゆえに、ダビデの家を離れることになりました(10章4節以下)。しかしながら、その中には、ヤロブアムの偶像礼拝推進に心を痛めた人々がいました。

 まず、レビ人や祭司たちがエルサレムに集まって来ました(13節)。彼らはイスラエル各部族の中に居住地を与えられ、そこで民の信仰を導いていたのですが(ヨシュア記20,21章)、ヤロブアムに遠ざけられ、務めをやめさせられたのです(14節)。

 次いで、冒頭の言葉(16節)のとおり「主を求めようと心を定めた者たち」がエルサレムにやって来ました。彼らは、部族の結束などより、また、ソロモン、レハブアムに対する遺恨などよりも、主を求めることを選び、そのためにエルサレムにやって来て、先祖の神、主にいけにえをささげたのです。

 「主を求めようと心を定めた者」とは、歴代誌の著者が考える、信仰において賞賛される者たちのことです。ダビデがソロモンを諭した「全き心と喜びの魂をもってその神に仕えよ。主はすべての心を探り、すべての考えの奥底まで見抜かれるからである。もし主を求めるなら、主はあなたにご自分を現してくださる」(歴代誌上28章9節)という言葉も、それを示しています。

 17節に「彼らは三年間ユダの国を強くし、ソロモンの子レハブアムを支援した」とあります。これは、12章1節に「レハブアムは国が固まり、自らも力をつけると、すべてのイスラエル人と共に主の律法を捨てた」とあることから、レハブアムがその治世4年目に主を離れ、その掟を捨てたために、レハブアムを支援することをやめたということでしょう。

 主イエスは「何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6章33節)と教えられました。神の国とは、神の支配ということです。主が私たちの心の中においでになり、私たちを治めてくださると、そこが神の国になる、家庭に迎えれば、そこが神の国になるのです。また、神の義とは、神との正しい関係、神との親しい交わりを意味します。

 神が共におられ、親しい交わりを通して平和と喜びが与えられ、すべてが祝福されます。ですから、神に仕えるためにエルサレムに集まってきたレビ人や、ユダと共に主を求めることを選んだイスラエルの民のゆえに、レハブアムは励まされ、ユダの国は強くされました(17節)。

 ダビデとソロモンの道を歩んだから、国が強くされたのです。しかし、それは3年間という限定的なものでした。国が強くなり、力がついてくると、主の律法を捨ててしまいました(12章1節)。これは、一度の決意で一生を支えることは出来ないということです。

 私たちの心は揺れ動きます。日々主を求めると、心を定めましょう。御言葉に耳を傾け、主に祈りましょう。聖霊の力を受けましょう。そして、その恵みを証ししましょう。

 主よ、私たちの上に御言葉の恵みが開かれ、また祈りの霊が注がれますように。主を求めることに熱心な群れとしてください。福音の交わりが豊かにされ、芳しい香りを放つ群れとなれますように。 アーメン







7月24日(火) 歴代誌下10章

「王は民の願いを聞き入れなかった。こうなったのは神の計らいによる。主は、かつてシロのアヒヤを通してネバトの子ヤロブアムに告げられた御言葉をこうして実現された。」 歴代誌下10章15節

 ソロモンの死後、息子レハブアムがイスラエルで4人目、ダビデ王朝3代目の王として、即位しました(9章31節)。1節で、「すべてのイスラエル人が王を立てるためにシケムに集まって来る」ということは、ここでの「すべてのイスラエル人」とは、ユダ族を除く北イスラエル10部族の民のことを指しているようです。ここで、ソロモンの子を自分たちの王とするか、協議しようということです。

 そこへ、ネバトの子ヤロブアムがやって来ました(2節)。彼は、ソロモンがイスラエルの民に課した苛酷な労役、重い軛を軽くしてくれるように、レハブアムに願いました(4節)。何故ヤロブアムがエジプトにいて、そこから戻って来たのか、歴代誌には記述がありませんが、列王記上11章26節以下、40節を前提としているわけです。

 レハブアムは、先ず長老と相談しました(6節)。長老たちは、優しい態度で、好意を示すようにと進言します(7節)。レハブアムは次に、自分に仕える同期の若者に尋ねます(8,9節)。若者たちは、重い軛を更に重くしてやれと言います(10,11節)。レハブアムは、長老たちの勧めを捨て、若者の意見を採り入れて、ヤロブアムに厳しい回答を与えました(12節以下、14節)。

 14節の「父がお前たちに重い軛を負わせたのだから、わたしはさらにそれを重くする」というところ、 原文は「わたしはお前たちの軛を重くする。わたしはその上に加えよう」という言葉です(新改訳、岩波訳参照)。列王記上12章14節で「父がお前たちに重い軛を負わせた」というのを、「わたしはお前たちの軛を」と書き換えて、王国分裂の原因が、レハブアムにより重くあるようにしているようです。

 レハブアムの回答を聞いて、ユダを除く10部族の民は、ダビデの家を離れ、ヤロブアムと行動を共にするようになりました(16節)。レハブアムは労役の監督ハドラムを遣わします。彼らを労役につかせようとしたのでしょうが、イスラエルの人々が彼を石で打ち殺してしまいます。それに恐れをなしたのでしょうか。レハブアムは戦車に乗り、エルサレムに逃げ帰ります(18節)。

 「わたしの小指は父の腰より太い。父が重い軛を負わせたのだから、わたしはさらにそれを重くする。父がお前たちを鞭で懲らしめたのだから、わたしはさそりで懲らしめる」(10,11節)と告げるようにと進言した若者たちはどうしたのでしょう。

 レハブアムは、全イスラエルの王として立てられるためにシケムに行ったはずでしたが、若者たちに踊らされて国を分裂させ、南ユダ2部族のみの王ということになってしまいました(17節)。そして、再び全イスラエルを指揮する機会を回復することは出来ませんでした(19節)。

 改めて、レハブアム王は何故、ヤロブアムの願いを聞き入れなかったのでしょうか。歴代誌の著者はそれを冒頭の言葉(15節)で「神の計らいによる」と語っています。つまり、神御自身の手によって、長老たちの意見を採用しないよう、レハブアムの心が頑なにされ、若者の意見を採用するという愚かな判断に導かれたわけです。

 ということは、神は初めからイスラエルを二つに分裂させるおつもりだったということになります。何故神は、イスラエルを二つに裂くようなことをなさるのでしょうか。小国イスラエルが二つに分かれて争っていては、外敵に当たることは出来ません。主イエスも「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまう」と仰っておられます(マタイ12章25節)。

 神がそのようになさったのは、歴代誌では省略されてしまっていますが、ソロモンが神の教えに聴き従わなかったゆえでした(列王記上11章9節以下)。主なる神は、二度も御自身をソロモンに現され、他の神々に従ってはならないと戒められたのですが、ソロモンはそれに聴き従わなかったのです。

 ソロモンは主なる神から、契約と掟を守らなかったから、王国を裂いて取り上げると告げられておりました(同11節)。主が出されたこのイエローカードの告知に対し、ソロモンが悔い改めて主に立ち帰っていたならば、ヤロブアムが反旗を翻す事態になることはなかったのかも知れません。また、ヤロブアムに背かれたときに主の御前に謙り、国が分裂しないで済むよう懇願したのではないでしょうか。

 けれども、ソロモンは、悔い改めて主に立ち帰ることも、謙って主に祈り求めることも出来ませんでした。そこで主はヤロブアムにイスラエル10部族を託し、彼がダビデと同じように主に聴き従って主の道を歩むことを期待されたのです(同11章30節以下、38節)。

 つまり、神のご計画は、イスラエルを内部で分かれ争わせて滅ぼしてしまおうというのではなく、ヤロブアムによってイスラエル10部族をご自身に従わせることでした。そして、それが主の御心であり、それによって北イスラエルが主の祝福に与るのを見て、レハブアムを悔い改めさせようとしておられたのでしょう。

 預言者エレミヤが告げるとおり、神のご計画は災いではなく、平和の計画であり、将来と希望を与えるものなのです(エレミヤ書29章11節)。主を呼び、主に祈り求めるなら、主は聞かれ、主を尋ね求めるならば、主に会うことが出来ると約束してくださいました(同12,13節)。

 どのようなときにも主を求め、主に従って歩みましょう。わたしたちに救いをお与えくださるのは、主イエスのほかには、おられないからです(使徒言行録4章12節)。

 主よ、どんなときでも謙遜に御前に進み、その御言葉に耳を傾け、その導きに素直に従うことが出来ますように。あなたのなさることが最善であり、主にあってどんなマイナス状況も益とされ、将来と希望を与える平和の計画が実現するからです。御名はほむべきかな。 アーメン




静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に7月22日主日礼拝の礼拝プログラムと説教動画(YouTube)を掲載しました。

②「今週の報告」を更新しました。

③「お知らせ」は随時更新しています。

④「今日の御言葉」は毎日更新しています。


御覧ください。



ところで、今日7月24日は、小説家の芥川龍之介が多量の睡眠薬を飲んで自殺した日です。
1927年(昭和2年)のことでした。
当日未明に「続西方の人」を書き上げた後、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺したとされていますが、青酸カリによる服毒自殺という説を唱える人もいるそうです。
代表作の『河童』から、「河童忌」と名附けられています。

龍之介は、東京で牛乳製造販売業を営む新原敏三、フクの長男として生まれました。
11歳の時に母が亡くなり、翌年に叔父芥川道章(フクの実兄)の養子となり、芥川姓を名乗ることになりました。
芥川龍之介は、本名だったわけです。

龍之介の作品は、幼稚園時代に「蜘蛛の糸」を紙芝居で見せてもらったのが最初だと思います。
一縷の望みであった蜘蛛の糸が切れて、真っ逆さま再び地獄へ落ちるという結末を見て、それが自分の最後の姿だと、幼い心にしっかり刻みつけられた物語でした。




7月23日(月) 歴代誌下9章

「あなたの臣民はなんと幸せなことでしょう。いつもあなたの前に立ってお知恵に接している家臣たちはなんと幸せなことでしょう。」 歴代誌下9章7節

 シェバの女王がソロモンの名声を聞き、それを確かめに大勢の随員を連れ、多くの贈り物をもってやって来ました(1節)。イスラエル三代目の王を表敬訪問しているわけですが、それは、「難問をもってソロモンを試そう」と記されているように、自分たちが今後国交を開くべきかどうかを見定める審問をしにやって来たというところでしょう。

 ところが、考えていたすべての質問に適切に解答が与えられ、答えられないことが何一つありませんでした(2節)。そして、見るもの、聞くものすべてが女王の想像の域をはるかに超えており、まさに息も止まるような思いだったそうです(4節)。

 女王はソロモンの知恵をたたえ、「わたしが国で、あなたの御事績とあなたのお知恵について聞いていたことは、本当のことでした。わたしは、ここに来て、自分の目で見るまでは、人の言うことを信じてはいませんでした。しかし、わたしに知らされていたことは大いなるお知恵の半分にも及ばず、あなたはうわさに聞いていたことをはるかに超えておられます」(5,6節)と言います。

 ソロモンの知恵について、列王記上5章12節以下(口語訳など:4章32節以下)に、「彼の語った格言は三千、歌は千五百に達した。彼が樹木について論じれば、レバノン杉から石垣に生えるヒソプにまで及んだ。彼はまた、獣類、鳥類、爬虫類、魚類についても論じた」とあります。

 確かに、何を聞いても答えられるというのは、大変なものです。恐るべき知恵でしょう。しかしそれは、エンターテイメントとしての面白さはあっても、国を治める王として、どうしても必要な知識というものではありません。爬虫類について論じることが出来なくても、政治を行うにはあまり困りません。樹木の名を知らなくても、王として恥じ入ってしまうというほどのことでもないでしょう。

 シェバの女王にとって、彼女が驚き、その知恵をたたえているのは、ソロモンが博学だということ以上に、国の指導者として知るべきことを知り、正しく賢く判断し、実行しているということではないでしょうか。だから、冒頭の言葉(7節)で、「あなたの臣民はなんと幸せなことでしょう。あなたの前に立ってお知恵に接している家臣たちはなんと幸せなことでしょう」と言うのです。

 ここで、「臣民」と訳されているのは、「アナシェーハー(「あなたの人々」の意)」という言葉ですが、口語訳のように「あなたの妻たち」としているものがあります(岩波訳も参照)。「家臣たち」は「アバーデーハー(あなたの僕たち)」です。「幸いなるかな、あなたの妻たち。幸いなるかな、あなたのこれらの僕たち」という言葉遣いです。

 シェバの女王は、こうした言葉遣いで、自分もソロモンの妻、あるいは家臣になりたいという思いをここに披瀝しているわけです。この王の知恵を聴き、その指導に従って歩むことが出来れば安心という世界ですね。

 そして、ソロモンを王とされた神をたたえて、「あなたを王位につけられたあなたの神、主のための王とすることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。あなたの神はイスラエルを愛して、とこしえに続くものとし、あなたをその上に王として立て、公正と正義を行わせられるからです」(8節)と語ります。

 女王は、ソロモンの背後に主なる神を見たわけです。このような王が立てられること、その指導でイスラエルがとこしえに続くものとして堅く立てられるということは、主の導きなくして出来るものではないという、女王の信仰の表明とも言えるのではないでしょうか。

 ソロモンは、女王の望むものは何でも与えたとあり(12節)、それは、シェバとイスラエルの間で正式に交易が始まったということを示していると思われます。ソロモンに与えられた知恵を聞き、女王が望んだものの中で最も重要なものが、天地を創造された主なる神を信じる信仰であったといってもよいのでしょう。

 使徒パウロが第3回伝道旅行の途中、エフェソの教会の人々に「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」(使徒言行録19章2節)と尋ねました。信仰生活をするために、聖霊を受けることが重要だということです。

 そのとき、エフェソの人々は、聖霊のことを聞いたこともないと答えました(同2節)。聖霊についての知識も必要ですが、何より、聖霊に満たされ(エフェソ書5章18節)、その力を頂くこと、聖霊の導きに従うことが重要です(ガラテヤ書5章16節以下、25節)。

 聖霊が、私たちを主イエスを信じる信仰に導き(第一コリント12章3節)、主イエスが教えておられることを思い起こさせ、その真理をわきまえさせてくださるからです(ヨハネ14章17,26節、16章13節など)。ソロモンは、この聖霊の知恵を頂いたのです。聖霊に聞いて語ったから、人々が驚くような知恵が開かれたのでしょう。

 惜しみなく知恵を与えると約束しておられる神に(ヤコブ書1章5節)、はっきりと聖霊を求めましょう。求める者には聖霊をくださいます(ルカ11章13節)。神は聖霊を限りなくお与えになるのです(ヨハネ3章34節)。

 主よ、私たちを常に聖霊に満たしてください。聖霊によって、神の御愛が心に注がれます。主を信じる信仰を通して、神の栄光に与る希望をもって喜んでいます。私たちに真の知恵を授けてください。主を畏れることを学ばせてください。御名が崇められますように。御心がこの地になりますように。アーメン!




7月22日(日) 歴代誌下8章

「ソロモンの工事はすべて、主の神殿の定礎の日から、完成の日まで無事に遂行され、主の神殿は完全なものとなった。」 歴代誌下8章16節

 神殿に7年(列王記上6章38節)、王宮に13年(同7章1節)、計20年の歳月をかけて(同9章10節)、ついに主の神殿と王宮が完成しました(1節)。歴代誌は、王宮建設の詳細に関しては、その記述を省略しています。

 次いで、「フラムから贈られた町を次々と再建し」(2節)というのは、ソロモンがヒラムに贈ったガリラヤ地方の20の町が気に入られず(列王記上9章11節以下)、返されたものを修復・再建したということではないかと思われます。修復しなければならないようなものを贈ったのでは、関係を壊しかねません。ただ、それによって、嗣業の地を損なわずにすみました。

 それだけでなく、北方のハマト地方を攻略して版図を拡げます。ハマト・ツォバは、アラムのツォバ王国の首都ハマトのことでしょう。ソロモンの父ダビデのとき、ツォバの王ハダドエゼルと戦って勝利したことがありました(サムエル記下8章3節以下、同10章6節以下も参照)。

 また、シリアの荒れ野にタドモルの町を建築しました(4節)。ヨセフスの「古代史」にも、タドモルはソロモンの創建と記されているそうです。タドモルとは「ナツメヤシ」のことで、ダマスコの北東230㎞余りにあるオアシスが、今もその名で呼ばれています。

 そこに砦の町が築かれたということは、イスラエルの勢力が広範囲に及んでいたことを如実に物語っています。彼はまた、城壁で守りを固めた砦の町、上ベト・ホロンと下ベト・ホロン(5節)、バアラトと、補給基地の町、戦車隊の町、騎兵隊の町を築きました(6節)。こうして、イスラエルの国が堅く立てられたのです。

 さらに、神殿における礼拝を、父ダビデが命じたとおりに行わせたことが、報告されています(12節以下、14節)。その姿勢は、ダビデが「わが子ソロモンよ、この父の神を認め、全き心と喜びの魂をもってその神に仕えよ」(歴代誌上28章9節)と命じていたとおりと言ってよいでしょう。

 冒頭の言葉(16節)に「主の神殿は完全なものとなった」と記されていますが、神殿が立派に完成されさえすれば、それでよいということではないということです。これらの文脈を通して、神殿は、国のあり方に関わり、そして何より、神が神として崇められ、御名にふさわしい礼拝が日々執り行われることによって、完全なものとなると言おうとしているのです。

 詩編に「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい」(詩編127編1節)という言葉があります。

 127編には「都に上る歌。ソロモンの詩」という表題がつけられています。「家」が神殿を意味していると考えられるので、神殿を建て、国を守るのは、主なる神ご自身の御業だというイスラエルの王ソロモンの信仰を、このように言い表しているということになります。

 また、主の神殿が完全なものとなったということは、言わずもがなのことですが、そこに主なる神がおられるということです。どんなに立派な建物が出来、どんなに豪華な装飾が施されても、そこに主がおられなければ、神殿ではありません。主がいてくださるからこその神殿です。

 人間が神の住まいを造ることが出来るということではありませんが、ソロモンが願ったとおり(6章19節以下参照)、主がそこに目を留め、そこに向かってささげられる祈りに主が耳を傾けてくださる。その場所が、主によって堅く定められたということです。

 主イエスが「汚れた霊は、人から出ていくと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊をつれてきて、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(ルカ11章24~26節)という話をされました。

 汚れた霊は、砂漠で休み場を探すと言われます。「砂漠」とは、原文では、正に文字通り、「水がない」(アヌドゥロス)という言葉が用いられています。そこは、命あるものの生存が脅かされる場所です。それが汚れた霊の休み場ということは、汚れた霊は、命を脅かす存在だということになります。

 ここで、水とは、主の御言葉のことであり(エフェソ5章26節参照)、また、聖霊を象徴するものと考えられます(ヨハネ7章37節以下参照)。主の御言葉を宿していなければ、また、主を心にお迎えしなければ、前よりも悪くなると読むことが出来ます。どんなに道徳的で、人間愛があっても、そこに主がおられなければ、悪いものが入り込んで来るのを留めることが出来ないというわけです。

  ダビデが「わが子ソロモンに全き心を与え、あなたの戒めと掟を守って何事も行うようにし、わたしが準備した宮を築かせてください」(歴代誌上29章19節)と祈りました。この「全き心」とは、主の御言葉に従い、主をお迎えした心のことだと教えられました。

 主よ、どうぞ私たちの間に、私たちの心の中にお入りください。私たちを、あなたの望まれるようなものに造り変えてください。絶えず主の御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩むことが出来ますように、私たちの心と考えを、人知を超える神の平和をもってお守りください。心から主を褒め讃えます。いよいよ御名が崇められますように。 アーメン!






7月22日(日)主日礼拝説教

猛暑が続く中、7月22日(日)の主日礼拝には、教会員12名、来賓7名がお見えになりました。感謝です。


主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「神の前に富む」
聖書 ルカ福音書12章13~21節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師


御覧ください。





7月22日(日)主日礼拝案内

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7月22日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。

「聖書教育」誌にもとづいて、旧約聖書・創世記から、共に聖書の学びと交わりを行います。


主日礼拝を10時半から行います。

礼拝では、ルカ福音書12章13~21節より、「神の前に富む」と題して、原田牧師より説教をいただきます。



写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。


キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


礼拝後、信徒会を行います。


昼食会はありません。




7月21日(土) 歴代誌下7章

「もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地を癒す。」 歴代誌下7章14節

 ソロモンが祈り終わると、天から火が降って祭壇のいけにえを焼き尽くし、主の栄光が神殿に満ちましたた(1節)。エリヤがカルメル山の上でバアルの預言者たちと戦ったときのような光景が展開しました(列王記上18章38節)。これは、ダビデが神殿用地を購入して献げ物をささげたときと同様(歴代誌上21章26節)、ソロモンの祈りを聞き届けたというしるしです。

 この記述は、列王記にはありません。列王記は、祈り終わったソロモンが、立ち上がってイスラエルの全会衆を祝福したといい(列王記上8章54,55節)、祝福の言葉を記しています(同56節以下)。歴代誌の記者は、ソロモン王の祝福の言葉の代わりに、その祈りに対する応答として、主が天から火を降されたと記しているわけです。

 それは、裁きの火ではなく、当にソロモンを祝福し、イスラエルの民を祝福する火です。火が降って神殿に神の栄光が満ちたのを見たイスラエルの民は、敷石の上に顔を伏せて礼拝し、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」(3節)と賛美しました。

 前に詠唱者が「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と賛美をささげたときに、雲が神殿に満ち、神の栄光が満ちるという出来事がありました(5章13,14節)。度々、栄光が満ちたというより、その間ずっと神の栄光が満ち溢れていたということでしょう。

 そして、ソロモンはすべての民と共に牛2万2千頭、羊12万匹を献げて神殿を奉献しました(4,5節、列王記上8章62節以下)。その量があまりに多かったので、祭壇だけでは供え尽くすことが出来ず、神殿の庭の中央部を聖別して、そこで献げ物をささげました(7節)。

 そのとき、ソロモンはレボ・ハマトからエジプトの川に至るまで(イスラエルの最大版図)の全会衆と共に七日間の祭を執り行い、八日目に聖なる集まりを開きました(8節以下)。これは、第七の月の祭りのときに契約の箱を神殿に担ぎ上るという出来事(5章2節以下)も含め、仮庵祭と呼ばれる秋の収穫を喜び祝う祭りです。

 神殿と王宮が完成し、奉献の儀式をなし終えた夜、主がソロモンに顕現され(11節)、「わたしはあなたの祈りを聞き届け、このところを選び、いけにえのささげららレルわたしの神殿とした」(12節)と言われました。神殿の完成に加え、王宮が完成したことを述べて、ここに、ダビデの家が堅く据えられ、王朝が確立したことを示しています。

 そして、ソロモンの祈りに対する応答として、神が天を閉ざして雨が降らなくするとき、いなごに大地を食い荒らさせるとき、民に疫病を送り込むとき(13節)、冒頭の言葉(14節)のとおり、民がひざまずいて祈り、神の顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、神が祈りに耳を傾け、罪を赦し、大地を癒すという約束が語られています。

 確かにそれは、ソロモンが6章19節以下で祈り求めた祈りの答えです。大旱魃で飢饉となったり、イナゴの大発生で農作物が食い荒らされたり、また、疫病が流行したとき、それらがすべて、人の罪のゆえだとは考えません。近年各地で頻発している大地震も、また突然襲って来る豪雨なども、それらがみな神の裁きだとは思いません。

 しかし、イスラエルの民の背きに神が天変地異を起こされた時、そこで民がひざまずいて祈り、御顔を求めて神に立ち帰るなら、神がその祈りに耳を傾け、罪を赦し、大地を癒してくださるということは、神は、私たちが絶えず祈ること、御顔を慕い求めること、常に神のもとに立ち帰ることを要求しておられるということであり、神はその祈り願いを聞き届けようと思っておられるということです。

 新約においても、「求めなさい」(マタイ7章7節)、「絶えず祈れ」(第一テサロニケ5章17節)、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ4章6節)と命じられているとおりです。

 私たちの前に困難がおかれると、自分の限界を知ります。そこで謙遜を学ぶでしょう。どうして良いか分からずに神を呼ぶでしょう。そこに祈りがあります。そうした中で神の御声を聴くでしょう。そこに恵みがあります。困難に遭遇するのはいやなものですが、神の御前に謙って祈り、主の恵みを味わうために困難が与えられたというように受け止めることが出来るのであれば、何と幸いなことでしょう。

 使徒言行録17章26~27節に「神は一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」と記されています。

 季節を決めるということは、人生にはバラ色の春というような状況もあれば、夏の猛烈な暑さ、冬の厳しい寒さを味わうようなときもあるし、すべてが枯れ果てるような晩秋もあるということでしょう。

 居住地の境界をお決めになったということは、どこに行っても良い、何をしても良いというのではなく、行けない場所がある、出来ないことがある。勿論、すべてを所有することなどは出来ない。そこで自分の限界を知るということではないでしょうか。

 四季それぞれにある苦しみから祈りに導かれることもあれば、四季の恵みを味わって神に感謝することもあるでしょう。春だから素晴らしいとは言えない人がいるでしょう。一方、冬の厳しさを素晴らしいという人もいます。いずれの人も、神の前に出ることが出来ます。御顔を慕い求めるとき、誰もが神を見出すことが出来ると言われています。それが最も素晴らしいことでしょう。

 主の御前に謙り、御顔を慕い求めましょう。御言葉に耳を傾けましょう。その導きに素直に従いましょう。そうして、主の豊かな恵みを感謝し、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と、心から主に賛美をささげましょう。

 主よ、あなたが私たちを祈りに導こうとしておられることを感謝します。私たちの祈りを聞き届けてくださるという約束を感謝します。絶えず、主の御声に耳を傾け、導きに従って歩ませてください。傲慢にならないよう、柔和と謙遜を学ばせてください。主の御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン!






7月20日(金) 歴代誌下6章

「神なる主よ、立ち上がって、あなたの安息所にお入りください。あなたご自身も御力を示す神の箱も。あなたに仕える祭司らは救いを衣としてまとい、あなたの慈しみに生きる人々は幸福に浸って喜び祝うでしょう。」 歴代誌下6章41節

 雲が神殿を満たし、そこに神の栄光が満ちたのを見て(5章13,14節)、ソロモンは、「主は、密雲の中にとどまる、と仰せになった。荘厳な神殿を、いつの世にもとどまっていただける聖所を、わたしはあなたのために建てました」(1,2節)と言いました。至聖所という、誰の目にも触れないところに契約の箱が置かれ、そこが主の臨在の場とされた理由が、ここに示されます。

 ここで、イスラエルの民がエジプトを脱出して以来、雲の中、そして臨在の幕屋と共に移動して来た主なる神が、その臨在を示される場、即ち民が主を礼拝する場が、主の選ばれた都エルサレムの、主が選ばれた指導者ダビデの息子ソロモンによって建設された神殿に定められたということを、イスラエル全会衆の前で確認しようとしているのです(6,9節)。

 14節以下に、ソロモンの祈りが記されています。この祈りの中でソロモンが先ず願っているのは、ダビデの家を堅く立て、王位に就く者が絶えないようにということです(15,16節)。エルサレムを選び、ダビデを選ばれた主のために神殿が建てられたことで、主とイスラエルの関係、就中ダビデの家と主との関係も、永遠に確かなものとされることを期待しているわけです。

 その上で、御前に捧げるソロモンの叫びと祈りを聞き届け(19節)、新築なった神殿に御目を注ぎ(20節)、イスラエルの民の祈り求めに耳を傾けてくださるよう、主に願います(21節)。さらに22節以下で、民が罪を犯した結果、災いを被ったとき、神殿に向かって祈る祈りに耳を傾け、その罪を赦してくださいと願っています。

 聖書でいう罪とは、必ずしも犯罪を指してはいません。原典(ヘブライ語)には「的を外す、目的を見失う」(ハーター)という言葉が用いられています。新約原典(ギリシア語)の「ハマルティア(名詞)・ハマルタノー(動詞)」も同義です。主に正しく向いていない心から、悪しき思い、悪しき行動が出て来るというわけです。

 罪を犯した者が主の神殿で祈るということは、悔い改めるということです。「悔い改め」とは、方向転換を意味する言葉です。正しい方向に向き直るのです。旧約聖書では「立ち帰る」(シューブ)という言葉が用いられています(24節、申命記30章2節、イザヤ30章15節など)。主への不服従の状態から、正しく主に立ち帰ることを表しています。

 冒頭の言葉(41節)は、詩編132編8,9節に基づくものです。ここに「神なる主よ、立ち上がって、あなたの安息所にお入りください」と語られています。安息所とはどこのことでしょうか。「あなたご自身も御力を示す神の契約の箱も」と言われていて、契約の箱はソロモンの建てた神殿の内陣(至聖所)に運び込まれたから(5章7節)、その場所を「神の安息所」と呼んでいると考えられます。

 安息所といえば、安息する場所ということでしょうけれども、神殿を神の安息される場所とするということではないでしょう。人と共にあって、神は安息されるでしょうか。

 ソロモン自身が「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるのでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることが出来ません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」(18節)と言っているとおりです。

 ソロモンはここで、安息という言葉を使って、これまで民と共に移動し続けて来た契約の箱が、永久にエルサレムの神殿に安置されることを願っているわけです。そしてそれは、主がそこに常にご臨在くださることによって、ダビデの家が永遠に堅く立てられているようにということでしょう(歴代誌上17章12節以下、22章10節)。

 それはまた、主がご臨在くださることによって、イスラエルの民が神の安息に与らせていただくことが出来るということでもあります。私たちが神の安息を受けるにふさわしい義人だから、主がソロモンの建てた宮においでくださるということではありません。むしろ神の安息をいただかなければ生きることの出来ない、弱く貧しい者だからです。

 主イエスは、嵐の船の中でも眠っておられました。波風を恐れ、死を恐れる弟子たちのために主は波風を鎮め、ご自身の平安を弟子たちに分け与えてくださいました(マルコ4章35節以下)。

 父なる神に信頼する心に平安があります。神の愛が恐れを締め出します(第一ヨハネ書4章18節)。主は今、私たちの心を聖霊の宮としてお住まいくださっています。主に信頼する者に平安と喜びをくださいます。

 パウロとシラスがフィリピで伝道していたとき、一人の女奴隷を悪霊から解放したことがもとで、その主人から訴えられ、彼らは鞭打たれ、牢に入れられるという踏んだり蹴ったりの目に遭わされました(使徒言行録16章16節以下)。

 彼らがその夜、賛美と祈りをささげていると、他の囚人たちはそれに聞き入っていました。それは、囚人たちが求めていた安らぎ、そして喜びが、そこにあったからでしょう。

 何故パウロたちはむち打たれ、投獄されるという目に遭いながら、神を賛美することが出来たのでしょうか。彼らの心に聖霊を通して神の愛が注がれ、恐れも不安もなく、主イエスにある平安と喜びがその心に満ちていたからでしょう。

 ソロモンは、主が安息所にお入りくだされば、救いの衣をまとい、幸せに浸って喜び祝うでしょうと言いました。私たちも今日、「神なる主よ、聖霊の宮とされた私たち、キリストの体なる教会へお入りください」と、主に祈ります。それによって主の慈しみに生き、幸せに浸って喜び祝う者とならせていただきましょう。

 主よ、立ち上がって聖霊の宮である私たちの内に、キリストの体なる教会をあなたの安息所としてお入りください。私たちは救いを衣としてまとい、あなたの慈しみに生き、幸福に浸って喜び祝います。私たちにお与えくださった聖霊を通して、常に神の愛が心に注がれているからです。日々主を仰ぎ、その御声に耳を傾け、導きにお従いします。御業のために用いてください。御名が崇められますように。 アーメン!





7月19日(木) 歴代誌下5章

「ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、『主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』と主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。」 歴代誌下5章13節

 7年の歳月をかけて建設して来た神殿が(このような記述は歴代誌にはない)、いよいよ完成しました(列王記上6章38節)。ソロモンは、神殿にあらゆる祭具を運び込み、宝物庫に納めました(1節)。そして、主の契約の箱を神殿に担ぎ上るため、イスラエルの長老、部族長、諸家系の首長を招集します(2節)。

 第七の月の祭り、即ち仮庵祭(レビ記23章34節)に、すべてのイスラエル人がエルサレムに集まったとき(3節)、レビ人は契約の箱と臨在の幕屋のすべての祭具、機材を担ぎ上り(4,5節)、契約の箱を神殿の内陣、至聖所のケルビムの翼の下に安置しました(7節)。

 至聖所に置かれた契約の箱は、ケルビムの翼に覆われて、外から確認することは出来ないのですが、長い担ぎ棒の先端が内陣の前の聖所からは見えたと記されています(9節)。棒の先が至聖所と聖所を隔てる扉の下から見えたということでしょう。そのために、箱の存在が確認されるので、「今日もなおそこに置かれている」(9節)という報告も出来るわけです。

 ただし、歴代誌が著述されたのはバビロン捕囚後のことですから、その時は既に契約の箱は失われていました。歴代誌はこれを列王記に従って記述しているわけですが(列王記上8章8節)、列王記が記されたのも、イスラエルがバビロンに滅ぼされた後のことですから(列王記下25章27節参照)、契約の箱は既に存在していません。

 それにも拘わらず、このように記述されているということは、契約の箱に示される神との契約関係は、神の箱がなくなって解消されたりはしていない、今も契約関係にある。だからこそ、主なる神を礼拝するための第二神殿が築かれたのだ(エズラ記6章13節以下)と主張しているかのようです。

 話を元に戻して、これまで、契約の箱はダビデがエルサレムに建てた幕屋に安置されてあり(1章4節)、臨在の幕屋とすべての祭具などはギブオンにありました(1章3節)。こうして、ソロモンの神殿が完成した今、神の箱と臨在の幕屋、すべての祭具機材が一箇所に集められ、主を仰ぎ、礼拝する場所がソロモンの神殿に集約されることになったのです。

 そして、レビ人の詠唱者全員が120人のラッパ奏者の祭司たちと共に祭壇の東側に立ち(12節)、冒頭の言葉(13節)のとおり声を合わせて「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美しました。4000人の詠唱者たちによる賛美は、それは素晴らしいものだったろうと想像します(歴代誌上23章5節参照、ただし、25章8節では288人)。

 そして、彼らが主の御名をほめ讃えると、雲が主の神殿に満ちたと記されています。雲は、神の臨在を現わしています。ですから、14節では「その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が神殿に満ちたからである」と言われています。それは、主がソロモンの立てた神殿を、契約の箱を安置する場所として承認されたということを明示します。

 イスラエルの民が荒れ野を旅するとき、主は雲の柱をもって彼らを導かれました(出エジプト13章21,22節)。それは、進むべき道を示す道標としての役割と共に、日中の日照りから民を守る日傘の役割を果たすためでもあったでしょう。

 また、イスラエルに3年半に及ぶ干魃が起こって地が渇ききっていたとき、エリヤの祈りに答えて手のひらほどの小さい雲を与え、やがて空が厚い雲に覆われて激しい雨を降らせました(列王記上17~18章)。それにより、雨を降らせて地に豊かな実りを与えるのは、バアルではなく主なる神であるということを、主ご自身が力強く証明されたわけです。

 主イエスが十字架の死と復活を予告された6日後、数名の弟子を連れて高い山に登られました(マタイ16章21節以下、17章1節以下参照)。そこで主イエスの姿が変わり、モーセとエリヤが現れて主イエスと語り合います。モーセとエリヤは、旧約聖書の代表的指導者ですから、そこに、旧約聖書の代表者と新約聖書で証しされている主イエスとの会談が成立しているのです。

 ペトロがその光景に感激し、ここにいるのは素晴らしいことです。主イエス、モーセ、エリヤのために仮小屋を三つ建てましょうと言い始めます(同17章4節)。その時、光り輝く雲が彼らを覆いました。神殿に雲が満ちたのと同様、主イエスとモーセ、エリヤが会談していたその山に、父なる神が臨まれたのです。さながら、シナイ山に主が降られたときのようです(出エジプト記19章18節)。

 そして、神の声が聞こえます。それは、主イエスが神の愛する子、神の心に適う者であるから、これに聞け、という声でした(マタイ17章5節)。光り輝く雲に覆われて視界が遮られた今、見えるものにとらわれず、モーセやエリヤという偉大な先祖に信頼するのでもなく、雲の中から語りかける神の言葉で、神の独り子なる主イエスに聴き従うようにと示されたわけです。

 主は、賛美を住まいとされるお方です(詩編22編4節:新改訳)。イスラエルの賛美を受けて聖所に雲が満ちたのは、聖所で主がその賛美を受けとめられたということです。私たちも絶えず聖霊に満たされて唇の実を主にささげ、主を心の中心にお迎えしましょう。

 そして、静かに語りかけられる主の御声に耳を傾けましょう。神は求める者に聖霊をくださいます(ルカ11章13節)。聖霊によって真理を悟り、聖霊の力を受けてキリストの証人となります。先ず神の国と神の義とを求め、すべての必要を満たしていただきましょう。日々、主とその御言葉に信頼して参りましょう。

 主よ、日々御声に耳を傾け、その導きに従います。主の御心にかなう歩み、働きが出来ますように。主の御前に絶えず唇の実、賛美のいけにえを主にささげます。常に私たちの心を聖霊で満たしてください。インマヌエルの主の恵みが常に豊かにありますように。 アーメン!




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