「またレビ人に続いて、イスラエルのすべての部族の中から、イスラエルの神、主を求めようと心を定めた者たちが、エルサレムに出て来て、先祖の神、主にいけにえをささげた。」 歴代誌下11章16節
ソロモンの死後、国が南北に分裂し、北(イスラエル)はネバトの子ヤロブアム(エフライム族)、南(ユダ)はソロモンの子レハブアムが治めることになりました(10章15節以下)。それは、ソロモンが神の戒めを守らなかったからでした(列王記上11章1節以下)。
ただ、そのことは歴代誌では伏せられていて、ヤロブアムとレハブアムの会談で、北の諸部族の訴えにレハブアムが耳を貸さなかったことが、決裂の原因となっています(10章1節以下、15節)。「アヒヤを通してネバトの子ヤロブアムに告げられた御言葉」(同15節)とは、列王記上11章31~39節に記された預言のことですが、歴代誌には記録されていません。
17節の「ダビデとソロモンの道」という表現で、この父子の治世を一体のものとして示し(7章10節参照)、彼らが「全き心と喜びの魂をもって神に仕え」(歴代誌上28章9節)ていたということを物語っています。
主なる神はヤロブアムに「わたしはあなたを選ぶ。自分の望みどおりに支配し、イスラエルの王となれ。あなたがわたしの戒めにことごとく聞き従い、わたしの道を歩み、わたしの目にかなう正しいことを行い、わが僕ダビデと同じように掟と戒めを守るなら、わたしはあなたと共におり、ダビデのために家を建てたように、あなたのためにも堅固な家を建て、イスラエルをあなたのものとする」と約束されました(列王上11章37,38節)。
ところが、ヤロブアムは主に従いません。15節に「ヤロブアムは、聖なる高台、山羊の魔神、自ら造った子牛に仕える祭司を自分のために立てた」と記されています。「聖なる高台」はカナンの土着の神を礼拝する場所です。そして、山羊の魔神、ヤロブアムが造った子牛などの偶像を拝ませるため、自分で祭司を任命し、レビ人、主の祭司らを遠ざけました(14節)。
列王記上12章28節以下には、金の子牛を造ったこと、聖なる高台に神殿を設け、レビ人でない祭司を立てて務めにつかせたことは記されていますが、そこに山羊の魔神については触れられていません。
これは、ヤロブアムだけでなく、代々の北王国の民がレビ記17章7節の「彼らがかつて、淫行を行ったあの山羊の魔神に二度と献げ物をささげてはならない」という規定に反していたということなのでしょう。
ヤロブアムは、主を礼拝するためにエルサレムを訪れているうちに、民の心が自分から離れてしまうと考えて、国内に各種の礼拝施設を設け、そこに神官を置いたわけです(列王記上12章26節以下)。それは、ヤロブアムを王とした主の計らいを忘れ、自分の力で王となったかのように思い違いをして、神に聴き従うよりも、自分の知恵と力で王位を守ろうと考えたわけです。
北イスラエル10部族は、ソロモンの重い軛と、それを軽くして欲しいという訴えに耳を貸さなかったレハブアムのゆえに、ダビデの家を離れることになりました(10章4節以下)。しかしながら、その中には、ヤロブアムの偶像礼拝推進に心を痛めた人々がいました。
まず、レビ人や祭司たちがエルサレムに集まって来ました(13節)。彼らはイスラエル各部族の中に居住地を与えられ、そこで民の信仰を導いていたのですが(ヨシュア記20,21章)、ヤロブアムに遠ざけられ、務めをやめさせられたのです(14節)。
次いで、冒頭の言葉(16節)のとおり「主を求めようと心を定めた者たち」がエルサレムにやって来ました。彼らは、部族の結束などより、また、ソロモン、レハブアムに対する遺恨などよりも、主を求めることを選び、そのためにエルサレムにやって来て、先祖の神、主にいけにえをささげたのです。
「主を求めようと心を定めた者」とは、歴代誌の著者が考える、信仰において賞賛される者たちのことです。ダビデがソロモンを諭した「全き心と喜びの魂をもってその神に仕えよ。主はすべての心を探り、すべての考えの奥底まで見抜かれるからである。もし主を求めるなら、主はあなたにご自分を現してくださる」(歴代誌上28章9節)という言葉も、それを示しています。
17節に「彼らは三年間ユダの国を強くし、ソロモンの子レハブアムを支援した」とあります。これは、12章1節に「レハブアムは国が固まり、自らも力をつけると、すべてのイスラエル人と共に主の律法を捨てた」とあることから、レハブアムがその治世4年目に主を離れ、その掟を捨てたために、レハブアムを支援することをやめたということでしょう。
主イエスは「何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6章33節)と教えられました。神の国とは、神の支配ということです。主が私たちの心の中においでになり、私たちを治めてくださると、そこが神の国になる、家庭に迎えれば、そこが神の国になるのです。また、神の義とは、神との正しい関係、神との親しい交わりを意味します。
神が共におられ、親しい交わりを通して平和と喜びが与えられ、すべてが祝福されます。ですから、神に仕えるためにエルサレムに集まってきたレビ人や、ユダと共に主を求めることを選んだイスラエルの民のゆえに、レハブアムは励まされ、ユダの国は強くされました(17節)。
ダビデとソロモンの道を歩んだから、国が強くされたのです。しかし、それは3年間という限定的なものでした。国が強くなり、力がついてくると、主の律法を捨ててしまいました(12章1節)。これは、一度の決意で一生を支えることは出来ないということです。
私たちの心は揺れ動きます。日々主を求めると、心を定めましょう。御言葉に耳を傾け、主に祈りましょう。聖霊の力を受けましょう。そして、その恵みを証ししましょう。
主よ、私たちの上に御言葉の恵みが開かれ、また祈りの霊が注がれますように。主を求めることに熱心な群れとしてください。福音の交わりが豊かにされ、芳しい香りを放つ群れとなれますように。 アーメン