「主はヨシャファトと共におられた。父祖ダビデがかつて歩んだ道を彼も歩み、バアルを求めず、先祖の神を求め、その戒めに従って歩み、イスラエルの人々のようには行わなかったからである。」 歴代誌下17章3,4節
17章から、ダビデ王朝6代目の王ヨシャファトについて記述しています。列王記の記述の仕方では、北イスラエル王アハブと姻戚関係を結び、その動きに従属的に紹介されるという登場の仕方になっていますが(列王記上22章1節以下)、歴代誌の著者はヨシャファトを主要な王の一人とし、肯定的評価をしています(21章12節、22章9節も参照)。
ヨシャファトは先ず、ユダの町に軍隊を配置し、父アサが占領したエフライムの町々にも守備隊を置いて(2節)、防御を固めました。ヨシャファトは主の祝福を受けて勢力を増し、ユダにいくつもの城砦と補給基地の町を築き(12節)、町々で大きな工事を進め、エルサレムに戦士、勇士を集めました(13節)。
冒頭の「主はヨシャファトと共におられた」(3節)という言葉は、短いですが、とても素晴らしい言葉です。主イエスの誕生によって「その名はインマヌエルと呼ばれる」というイザヤ書7章14節の預言が実現すると、マタイ福音書1章21節以下に記されています。そして「インマヌエル」とは「神は我々と共おられるという意味である」と説明されています。
どうして、主がヨシャファトとご一緒におられたというのでしょうか。その理由について、冒頭の言葉(3,4節)に「父祖ダビデがかつて歩んだ道を彼も歩み、バアルを求めず、先祖の神を求め、その戒めに従って歩み、イスラエルの人々のように行わなかったからである」と語られています。
ヨシャファトの父王アサに対して預言者アザルヤが「あなたたちが主と共にいるなら、主もあなたたちと共にいてくださる。もしあなたたちが主を求めるなら、主はあなたたちにご自分を示してくださる。しかし、もし主を捨てるなら、主もあなたたちを捨て去られる」(15章2節)と告げていました。
そのことを、ヨシャファトは父アサから聞いていたのではないでしょうか。また、実際にアサが行っていたことを、ヨシャファトがその傍らで見ていたのでしょう。
ただし、アサは生涯その道を歩み通すことが出来ませんでした。最後に道を踏み誤ってしまったのです(16章7節以下)。先見者からそれを指摘されるとかえって怒りを表わし、民の中のある者たちを虐待するという、八つ当たり的な行動を取っています(同10節)。そして、晩年、重い病にかかりましたが、それでも主を求めなかったと批判されています(同12節)。
とはいえ、それによってアサのなした業績がすっかり無駄になったとは思いません。神は、キリストの弟子のために汲んだ水一杯の恩を忘れないお方だと言われているからです(マルコ福音書9章41節)。
アサ王は、41年という長い治世を全うし、眠りにつきました(16章13節)。アサのもとで、国が長い間、平穏の内にあったのです。そして主の憐れみのもと、特別な葬りがアサのためになされたのです(同14節)。
主に慰められる以上の慰めはありません。主が共にいてくださるということ以上の平安はありません。アサの心変わりにも拘わらず、主なる神はその深い憐れみのゆえに、どんなときにもアサと共にいてくださったということではないでしょうか。だからこそ、それを見たアサの子ヨシャファトが、さらに熱い心で主を求めたのだと思います。
「バアルを求めず」(3節)ということについて、6節で聖なる高台やアシェラ像をユダから取り除いたと言われます。「先祖の神を求め、その戒めに従って歩み」(4節)ということについては、高官やレビ人、祭司たちが主の律法の書を携えてユダのすべての町々で教育を行うように遣わし、民の教化に当らせたと記されています(7~9節)。
ヨシャファトの主を求める熱心さも、次第に増大しているということを示すかのようです。それゆえ主は、ヨシャファトを祝福され、多くのものがもたらされました。5節には、ユダの民がヨシャファトに貢ぎを贈ったとあります。
さらに10節以下に主の恐れが近隣の国々を襲い、ユダに戦いを挑む者はなく(10節)、ペリシテ人のもとから貢ぎ物や税が届けられ、アラビア人も雄羊、雄山羊を7700匹ずつ届けたと記されます(11節)。このように、祝福が拡大しているわけです。
こうして、ヨシャファトはおおいに富み栄え、勢力を増し、ユダを守る勇士、武装兵の数は百万を越えています(12節以下)。あまりに多いので、少々誇張されているのではないかという学者が少なくありませんが、いずれにしても、そのように主がヨシャファトを祝されたという表現です。
何よりも先ず主を求める者のためには、その必要のすべてを豊かに与えてくださるという約束の実現を、そこに見ることが出来ます(マタイ6章33節参照)。持っている人は更に与えられて豊かになるという言葉がありますが(同25章29節)、主との関係が正しくされるときに、主が共にいてくださるという恵みに、すべての必要が満たされるという恵みが増し加えられるのです。
私たちも、何よりも先ず主を求め、その導きに従って歩むことを通して、主が共におられて私たちを祝福していてくださることを感謝する者とならせていただきたいと思います。
主よ、ヨシャファト共におられ、豊かな恵みを賜ったように、いつも私たちと共にいてくださることを感謝します。あなたを求めることを心に定め、御言葉に耳を傾けます。キリストの言葉が私たちの内に豊かに宿りますように。私たちの歩みを導き、御心を行わせてください。 アーメン!