風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2018年05月

5月31日(木) 列王記下10章

「『一緒に来て、主に対するわたしの情熱を見てください』と言った。二人は彼の戦車に一緒に乗り、サマリアに行った。」 列王記下10章16,17節

 ラモト・ギレアドで預言者の従者から油注がれて(9章6節)、イスラエルの王となったイエフは(同13節)、告げられた通りにアハブ家を撃ち滅ぼすため、アハブの子ヨラムを殺し(同14節以下、24節)、ヨラムを見舞っていたユダの王アハズヤ(アハブの娘アタルヤの子)を撃ち(同27節)、次いでアハブの妻イゼベルを殺しました(同30節以下、33節)。

 1節に、アハブには子どもが70人いたと、記されています。イゼベル以外にも多数の妻がいて、そのように多くの子を得たのでしょう。文字通り70人というよりも、完全数7と10の倍数で、たくさんの子どもということを示す概数といってよいでしょう。

 イエフは、サマリアの町の指導者たちに、アハブの子ら70人の中から最も優れた正しい指導者を立て、自分と戦えという手紙を送ります(1節以下、3節)。町の指導者たちはイスラエルとユダの王を撃ったイエフに恐れをなし(4節)、仰せに従うと、イエフに対する恭順の態度を示します(5節)。

 そこでイエフが、70人を残らず殺すよう彼らに命じると(6節)、ただちに実行されました(7節)。さらに、アハブの姻戚となっていたユダの王アハズヤの身内の者42人を殺しました(12節以下、14節)。それは、エリヤによってアハブに告げられた言葉のとおりでした(10,17節、列王上21章21節)。

 その後、イエフは、自分を出迎えに来たレカブの子ヨナダブに会います(15節)。聖書中、初めてここにレカブの子ヨナダブが登場して来ました。しかし、イエフとヨナダブは、既知の間柄でした。イエフがヨナダブに挨拶して、「わたしの心があなたに心に対して誠実であるように、あなたの心も誠実ですか」(15節)と尋ねたのは、その関係に変化がないか確認したのでしょう。

 さらに、冒頭の言葉(16節)のとおり、「一緒に来て、主に対するわたしの情熱を見てください」と語っている言葉から、イエフがヨナダブに、自分の行動を認めてもらいたいと考えているということが分かります。イエフの行動は、主に対する情熱によるものだというのです。

 だとすれば、ヨナダブは、主なる神に対する信仰において、イエフに一目置かれる教師のような存在であるということになるでしょう。そのことで、エレミヤ書35章6節に「父祖レカブの子ヨナダブが、子々孫々に至るまでぶどう酒を飲んではならない、と命じたからです」とあります。

 ヨナダブの子孫のレカブ人たちは、ヨナダブの言葉に従って禁欲的な生活を忠実に守って来たと語っています(同7節以下)。そして、それを引き合いに出しながら、主が、ヨナダブの一族は父祖の命じた命令を堅く守っているのに、ユダの人々が神の言葉を受け入れないのはなぜかと仰っています(同12節以下)。

 ここで主ご自身が、レカブ人ヨナダブとその一族の生き方を認め、賞賛しておられるのです。また、ヨナダブという名前は、高貴な主、寛大な主という意味です。ここにも、ヨナダブの家の主に対する信仰を見ることが出来るでしょう。

 ヨナダブは、アハブの家を滅ぼしたイエフの働きを認め、アブラムを祝福したメルキゼデクのように(創世記14章17節以下)、イエフを祝福するために出て来たのではないでしょうか。それは、エリヤを通して示されていた主の御心だったからです。二人は共にサマリアに向かい、アハブの家の者をことごとく撃ち殺して、一族を全滅させました(17節)。

 そして、イスラエルからバアルの預言者とバアルに仕える者たちを一掃するため、策を講じます。自分はアハブ以上にバアルに仕えるつもりだから、バアルのすべての預言者、祭司を自分のもとに集めよ、来ない者は生かしておかないと、すべての民に命じたのです(18節以下)。

 そして、バアルに仕える者が神殿に満ちたとき、イエフは近衛兵と侍従たちに命じて彼らを剣にかけて殺させ(25節)、神殿を破壊させました(26,27節)。かくて、イスラエルからバアルの預言者とバアルに仕える者たちを一掃したのです。それは主を喜ばせ、イエフの子孫4代にわたってイスラエルの王座に就くと約束されます(30節)。

 ただ、ネバトの子ヤロブアムの罪を離れず、ベテルとダンの金の子牛を退けなかったので(29節)、主なる神はイスラエルを衰退に向かわせ、アラム王ハザエルがイスラエルの領土を侵略し始めました(32節)。北イスラエル初代の王の過ちをだれも是正することができず、親の呪いが子々孫々に影響を与え続けているわけです。

 そうしたこともあり、自分の知恵や力で主に従うことを徹底するというのは、とても難しいもののようです。だからこそ、主の御前に謙り、その導きと助けに与る必要があります。 

 私たちも、主に対する情熱を見ていただくため、私たちの心と生活から、主の御前に相応しくないものを一掃しませんか。まず主イエスの御言葉に耳を傾けましょう。示される罪を主の前に告白し、主の血潮によって清めていただきましょう。聖霊を心に迎え、絶えず御霊に満たしていただきましょう。そして、心から主に向かって賛美をささげましょう。

 主よ、私の心を探ってください。御前に相応しくない思い、醜い考えを取り除いてください。キリストの血潮によって、すべての罪を赦し、汚れを清めてくださったことを感謝します。主の御言葉を心に豊かに宿すことが出来るよう、聖霊に満たし、その力と導きに与らせてください。 アーメン




5月30日(水) 列王記下9章

「ヨラムはイエフを見ると、『イエフ、道中無事だったか』と尋ねたが、イエフは答えた。『あなたの母イゼベルの姦淫とまじないが盛んに行われているのに、何が無事か。』」 列王記下9章22節

 ヨルダン川東部ギレアドの地、ラモト・ギレアドの領有を巡り、北イスラエルの王ヨラムの父アハブの時代から、隣国アラムとの間に戦争が断続的に行われていました(列王記上22章3節以下)。ヨラムはその戦いで傷つき、戦線を離れてイズレエルで療養しておりました(列王記下8章28~29節)。

 ときに、イスラエルの将軍イエフが、軍勢を率いてイズレエルにやって来ました(17節以下)。彼は、密かに預言者エリシャの遣わした従者によって油注がれ、ヨラムに代わって王となり、アハブの家を撃つよう命じられていました(6節以下)。

 将軍イエフを出迎えたヨラムは、彼が軍勢を率いて戻ってきたので、アラムとの戦いがどうなったのか気になり、冒頭の言葉(22節)のとおり、「イエフ、道中無事だったか」と尋ねます。「道中無事だったか」という言葉の原語は「シャローム」の一語です。口語訳は「平安ですか」、新改訳は「元気か」と訳しています。

 この箇所では、通常の挨拶ではなく、アラムとの戦いにおいて平和を獲得したのか、つまりラモト・ギレアドを巡る戦いに勝ったのかと問うているのではないでしょうか。先に2度騎兵をやってそれを尋ねさせたのに、応答がなかったということで、王自ら戦車を用意してイエフのもとに出向き、同じ問いをしているわけです。

 戻って来た将軍に対して、王自身が車を走らせて出迎えるというのは、およそ尋常なものではありません。イスラエルは無事なのか、この戦いに勝利したのかということが、いかに真剣な問いであったかということです。

 であれば、今現在、ヨラム自身のうちに「シャローム」、平安がない、不安と恐れの中にあるのだということをを窺い知ることが出来ます。つまり、無事だ、勝利したという福音・グッドニュースを聞きたい、それによって平安を得たいと考えているのです。

 その問いに対して、イエフは「イゼベルの姦淫とまじないが盛んに行われているのに、何が無事か」とヨラムに答えました。その言葉遣いは、およそ王とその家臣の会話とは思えません。

 イエフは、隣国との関係ではなく、主なる神との関係において「シャローム」を考えていました。主との間に真の平和がなければ意味がない。主のシャロームを破壊する者が国の中にいるなら、隣国に勝利したとしてもそれは無益だというわけです。真のシャロームを獲得するには、先ず、皇太后イゼベルの姦淫とまじないをやめさせなければなりません。

 イエフの意図を悟ったヨラムは、同行して来たユダの王アハズヤに「アハズヤよ、裏切りだ」(23節)と叫び、慌てて逃げ出しますが、イエフに射殺され(24節)、ナボトの畑に投げ捨てられます(25節)。それは、ヨラムの父アハブが、ナボトから奪い取ったもので、エリヤがアハブに告げていた裁きの言葉どおりです(26節、列王記上21章19節以下)。

 また、アハブの娘アタルヤを母に持つアハズヤも、逃げる戦車の中で傷を負い、メギドで命を落としました(27節)。さらに、ヨラムの母イゼベルも、偶像礼拝の罪を刈り取ることになりました(30節以下)。繰り返しエリヤによって断罪されていたのに、主の御前に悔い改めることをしなかったアハブの家系は、預言通りに滅ぼされてしまいました。

 どうすれば、真の平和を築くことが出来るのでしょうか。それは、イエフが語ったように、姦淫とまじないをやめること、それにかわって、先ず神の国と神の義とを求めることです(マタイ6章33節)。何よりも神を第一とすべきなのです。

 神の国を求めるとは、神に御支配頂くこと、神にお委ねすることです。神の支配のもとにある国、それが神の国です。心の中心に主を迎え、家庭や職場、学校、地域が神の御支配に与るように求めるのです。

 神の義とは、神との正しい関係です。絶えず神を崇め、神の前に謙ることです。神の義を求めるとは、神との関係を正しくしたいと願うこと、罪の赦しを求め、主の救いに与ることです。

 主イエスは、世の罪を取り除く神の小羊です(ヨハネ1章29節)。主イエスが私たちのために死なれ、神との関係を正しくしてくださいました。そしてキリストは、私たちに「アバ父よ」(ローマ書8章15節)と呼ぶ聖霊をお与えくださいました。私たちと神との正しい関係とは、神が私たちの真の父親となられ、私たちが真の神の子になることです。

 神と私たちとの関係が正しくなり、神が私たちと共に住み、私たちを御支配くださるとき、私たちに乏しいことはありません。必要なものはみな、加えて与えられると約束されているからです(マタイ6章33節)。こうして、神との関係がシャロームになるならば、隣国との関係においても神がシャロームをお与えくださるでしょう。

 キリストは、十字架を通して私たちを神と和解させ、十字架によってユダヤ人と異邦人とを一つに結んでくださいました。十字架の縦の棒は神と私たちを結ぶ架け橋、横の棒は私たちお互いを結ぶ架け橋です。そして、その中心にキリストがおられ、私たちを一つにしてくださるのです。

 主の招きに応え、主との真の平和に与るため、何よりもまず、神の国と神の義とを求めて主の御前に進みましょう。その御言葉に耳を傾けましょう。導きに従って歩みましょう。

 主よ、御言葉と祈りを通して、また、信仰の交わりを通して、希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とで私たちを満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてくださいますように。平和の源である神が、常に私たち一同と共におられますように。 アーメン




5月29日(火) 列王記下8章

「ハザエルは、『この僕、この犬にどうしてそんな大それた事ができましょうか』と言ったが、エリシャは、『主はあなたがアラムの王になることをわたしに示された』と答えた。」 列王記下8章13節

 アラムの王ベン・ハダドが病気になり(7節)、その病気が治るかどうか、ダマスコを訪れていた預言者エリシャに尋ねます。直前に、イスラエルとアラムの戦争があり(6章8節以下)、神の人エリシャによってアラム軍の作戦が見透かされるというので(同12節)、彼を捕らえるために大軍を差し向けたりもしています(同14節)。

 何度も悔しい思いをさせられた相手に、使者を送るとはどのような心境なのかとも思います。しかし、前に軍の司令官ナアマンの重い皮膚病をエリシャに癒してもらったことがあったので(5章)、自分も癒して欲しい、元気になりたいという願いがあったのでしょう。だから、贈り物を持たせて、主の御旨を尋ねさせたのです(8節)。

 そのとき、ベン・ハダドが遣わした使者が、ハザエルです(8節)。エリシャはハザエルに、「行って王に言うがいい。『あなたは必ず治る』と。しかし、主は彼が必ず死ぬことをわたしに示された」(10節)と告げます。

 そして、エリシャはハザエルの顔をじっと見つめて、泣き出します(11節)。それは、必ず治るはずのアラムの王ベン・ハダドが、必ず死ぬことになるからということもあったと思います。しかしながら、それよりもハザエルによってイスラエルに大いなる災いがもたらされるということが、エリシャに涙を流させたのです(12節)。

 その涙の理由を尋ねた後のハザエルとエリシャとのやりとりが、冒頭の言葉(13節)です。つまり、アラム王ベン・ハダドに代わり、家臣ハザエルが王となって、イスラエルに災いをもたらすのだということです。ここに、ハザエルがどのようにして王になるのかということについては、何も記されていません。

 かつて、主がエリヤに「ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ」(列王記上19章15節)と告げられました。そのとき、エリヤがダマスコに赴いてハザエルに油を注いだという記事は、どこにもありません。また、エリヤの後継者エリシャが今ここで、ハザエルに油を注いだということでもありません。ただ、神の言葉として、彼がアラムの王になると予告したのです。

 王のもとに帰ったハザエルは、「必ず治ると彼(エリシャ)は言いました」(14節)と報告します。そして翌日、ハザエルは事故を装うかの如く、王ベン・ハダドの顔に濡れた布を乗せて暗殺し、代って自分が王となりました(15節)。エリシャの告げた言葉を、自らの手で実現するために、アラム王を暗殺するという手段を選んだわけです。

 神はなぜ、ハザエルに油を注げとエリヤに告げたのでしょうか。それは、12節に言われているように、ハザエルが王となって「砦に火を放ち、若者を剣にかけて殺し、幼子を打ちつけ、妊婦を切り裂く」という恐るべき災いを、イスラエルにもたらすためです。エリシャは、この言葉をハザエルに告げるため、わざわざダマスコを訪ねたわけです。

 この災いがイスラエルにもたらされることを知って,エリシャは泣き出したのです。だからといって、エリシャはハザエルが王にならないようにしたわけではありません。むしろ、上述のとおり、王となると予告しました。

 こうして、神はアラムを、イスラエルを試すために用いられます。危機にあってイスラエルが主なる神に信頼し、その御言葉に従おうとするか、それとも、自分の知恵や力などを頼みとするかを試すのです。

 そして、試練の中でイスラエルが神に信頼することがないとき、神はアラムを用いてイスラエルに敵対させ、イスラエルを打ち負かすようにさえなさるのです(列王記下8章28,29節、10章23節、12章18,19節、13章3,22節)。

 主は「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである」(イザヤ書45章7節)と告げられます。私たちが主に背き、我が道を行こうとするとき、私たちに災いをもって臨まれます。

 そう告げられたのは、私たちに災いを下したいからではなく、義の道、平和の道を歩ませたいからです。また、主にあって災いを通過することで、忍耐や従順を学ばせられるのです。

 「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブライ書5章8節)と言われます。そして主イエスは「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい(マタイ11章29節)」と告げて、主と共に重荷を担うよう招いておられます。

 パウロが「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ1章29節)と言っているのは、そのことでしょう。

 さらに、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8章28節)とあります。それは、御霊なる神の働きです。

 主なる神は、ご自身の計画に従って私たちを召し出してくださいました。どのようなときにも、神を愛し、主に信頼する者たちのためには、神は万事を益に変えてくださる、どんなマイナスと見える出来事もプラスにしてくださるというのです。

 主を愛し、主に信頼して、その御言葉に耳を傾け、日々その導きに従いましょう。

 主よ、あなたはハザエルを用いてイスラエルを裁き、ネブカドレツァルを用いてユダを打ち、そしてキュロスを用いてバビロン捕囚から解放されました。御旨を行われるために、すべてのものが用いられます。私たちも主の御用のために用いていただきたいと思います。主に用いられる器として、整えてください。試練を耐え忍び、主を喜び、賛美することを教えてください。 アーメン




静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に5月27日主日礼拝の礼拝プログラムと説教動画(YouTube)を掲載しました。

②「今週の報告」を更新しました。

③「お知らせ」は随時更新しています。

④「今日の御言葉」は毎日更新しています。



御覧ください。

5月28日(月) 列王記下7章

「王の介添えをしていた侍従は神の人に答えた。『主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう』。エリシャは言った。『あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない。』」 列王記下7章2節

 アラムの王ベン・ハダドが全軍を招集して、サマリアを包囲しました(6章24節)。ベン・ハダドとは、アラムの神である「ハダド」の息子という意味のアラム王の称号です。

 聖書中では、ユダの王アサの時代に、ベン・ハダド1世が登場します(列王記上15章18節)。それから、イスラエルの王アハブの代に出て来るのがベン・ハダド2世で(同20章1節)、今回と同じ人物です。

 アハブは、神の助けによってアラムを2度打ち破りましたが(同20,21節、29節以下)、そのとき、ベン・ハダドの助命の嘆願を受け入れて協定を結び(32節以下)、彼を安全に帰国させました(同34節)。

 その協定を破り、ベン・ハダドは三度目イスラエルに攻め込み、サマリアを包囲して兵糧攻めにしているわけです。サマリアは、大飢饉に見舞われた上にアラム軍による包囲で、まさに泣き面に蜂状態、大変なことになりました(列王記下6章25節)。

 そこで、イスラエルの王ヨラムは、エリシャに使者を遣わし、エリシャの首をはねさせようとします(同31節)。それは、ヨラム王が、この大艱難が主によって引き起こされたものと考えていて(同33節)、それゆえ、主の預言者にその怒りをぶつけようとしているわけです。

 しかし、主がイスラエルに艱難を与えているのであれば、エリシャを殺したところで、それが止む道理はありません。むしろ、主を畏れないその行為が、主の怒りの炎に油を注ぐ結果になるだけです。ヨラムに求められているのは、主を畏れ、その御前に謙ることでしょう。

 しかるにエリシャは「明日の今頃、サマリアの城門で上等の小麦粉1セアが1シェケル、大麦2セアが1シェケルで売られる」(1節)と告げます。1シェケルが現在の貨幣価値でいくらになるのか分からないので、高いのか安いのか判別できませんが、しかし、穀物が売りに出るということは、飢饉とアラム軍という大艱難を脱出できるということです。

 ところが、王の介添えをしていた侍従は、エリシャの告げる主の御言葉を信用しません。冒頭言葉(2節)のとおり「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう」と答えています。それは、侍従だけでなく、ヨラム王も、そしてアラム軍に包囲されているサマリアの町の住民も、同様だったのではないでしょうか。

 そのとき、都の城門の入り口に重い皮膚病を患う者が4人いて、このままここに座して死を待つよりも、アラム軍に投降しよう。うまくいけば生き延びることが出来るかも知れないと考えて、立ち上がりました(3,4節)。ところが、アラムの陣営に近づいてみると、そこはもぬけの殻でした(5節)。

 それは、主が戦車や軍馬、大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせられたので、イスラエルがヘト人の諸王やエジプトの諸王に援軍を頼んだのだと恐れ(6節)、アラム軍は取るものも取り敢えず、逃げ去ってしまったのでした。あとには、天幕も馬もロバもそのまま残されていました(6,7節)。

 重い皮膚病を患っている者たちは、一つの天幕に入って思う存分飲み食いし、金品を隠して自分のものにしようとしましたが(8節)、この事実を隠したままいるなら、神の罰を受けるに違いないと考えて、これを王家の人々に知らせようとサマリアの町に戻り(9節)、情報を門衛に伝えます(10節)。

 門衛はそれを王家の人々に知らせました(11節)。知らせを聞いた王はしかし、これをアラム軍の策略と考え、重い皮膚病を患う者たちのもたらしたよい知らせを、にわかに信じることが出来ず、それは町から出て来た者たちを捕らえ、町に攻め入ろうとするアラム軍の策略だと家臣たちに告げました(12節)。

 そこで家臣の一人が、偵察隊を出しましょうと進言します(13節)。そして、偵察隊が派遣されることになりましたが、彼らが出て行って見たのは、重い皮膚病を患う者たちが知らせたとおりで、軍勢を追撃してヨルダンまで行きましたが、その道の至るところに、敗走するアラム軍の衣類や武具が捨てられていました(15節)。

 偵察隊の報告を聞いた民は、アラムの陣営に行って略奪をほしいままにし、主の告げられた言葉の通り、食料が城門で売られるようになりました(16節)。サマリアを取り囲んでいたアラム軍は、どれほどの大軍だったことでしょうか。

 王は、侍従を城門の管理に当たらせましたが、殺到した民衆に踏み倒されて死んでしまいました(17節)。エリシャが、「あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない」(2節)と言っていたとおりです。預言者の言葉を信用しなかっただけでなく、主なる神にもそんなことは出来ないと、主を侮る発言をしたからでした。

 エリシャの告げた主の言葉をヨラム王が信じていれば、重い皮膚病を患う者たちの報告を疑うことはなかったでしょう。また、もしも偵察隊を出そうという家臣がいなければ、ヨラム王を初め、イスラエルの民は皆、いまだに空腹を抱え、座して飢え死にするのを待つばかりだったことでしょう。

 しかし、主なる神は、エリシャの告げた言葉を実現するために、アラム軍が兵糧を残して逃げ去るように計らわれ、それを重い皮膚病の者たちに発見させ、その報告を信じられない王のために、斥候を出すよう家臣に進言させ、そのようにして、エリシャの告げた福音が真実な主の言葉であり、イスラエルにまことの神、主がおられることを、明示したのです。

 イスラエルにそのように食料がもたらされたのは、ヨラムが悔い改めたからでも、イスラエルの民が主に助けを求めたからでもありません。むしろ、飢饉にアラム軍の包囲という絶体絶命の状態になったのをエリシャの責任にして、彼の首をはねさせようとしたのです。ということですから、このように救いが示されたのは、主の一方的な憐れみというほかはありません。  

 主は繰り返し、私たちが命の道、義の道を歩むことが出来るように招かれます。その道を開かれます。ところが、そのような主の言葉を素直に信じることが出来ません。あまりにも現実に囚われているからです。あまりにも罪深く、主の御声を聴くことが出来ないからです。

 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20章27節)と、私たちを信仰へと招かれる主の御前に謙り、常に主の御言葉に耳を傾けましょう。御旨に従い、主の御業に励む者とならせていただきましょう。

 主よ、深い憐れみをもって私たちを招き、導いていてくださり、感謝致します。日々主の御前に謙り、御言葉に耳を傾け、御霊の導きに従って歩み、その祝福に与ることが出来ますように。弱い私たちを助け、信仰に歩ませてください。 アーメン




5月27日(日) 列王記下6章

「そのうちの一人が梁にする木を切り倒しているとき、鉄の斧が水の中に落ちてしまった。彼は、『ああ、ご主人よ、あれは借り物なのです』と叫んだ。」 列王記下6章5節

 預言者の仲間たちがエリシャに、今住んでいる場所は狭すぎるので、大きな家を建てるため、ヨルダンに材木を切りに行きましょうと言います(1,2節)。預言者仲間が共同生活をしていた場所は、ベテル(2章3節)、エリコ(同5節)にもありますが、4章38節とのつながりから、ギルガルと考えるのが妥当であろうと思います。

 ただ、エリシャはサマリアに家があることが報告されており(2章25節、5章3,9節)、その私邸のほかに、預言者仲間と共に生活する公邸があると考えたらよいのでしょうか。その場所が狭くなったということは、エリシャを指導者と仰いで集い来る預言者の数が増加して来たということです。

 歴代の王たちがなかなか主なる神の御声に耳を傾けようとしない北イスラエルにあって、エリシャのもとに預言者が集うということは、御声を正しく聴きたいと思う者が増えているということであり、王を初め北イスラエルの民に主の御言葉を正しく告げ知らせる働き人が、より多く求められているということなのでしょう。

 主イエスが、「収穫は多いが働き手が少ない」(マタイ9章37節)と仰いましたが、収穫が多いというのは、問題,課題が多いということでもあります。だから、多くの働き手を必要としているわけです。

 家を増築するための材木を集めるため、木を切りに行くという申し出を受けて、「行きなさい」(2節)と応じたエリシャでしたが、預言者の一人が、「どうぞあなたもわたしたちと一緒に来てください」(3節)と懇請します。「一人」には、定冠詞が用いられているので、預言者仲間の代表ということでしょう。

 そして、新共同訳で「わたしたち」と訳されているのは、「あなたの僕たち」(アブデイハー)という言葉で、5節の「ご主人」(アドニー:「わたしの主人」の意)と共に、上下関係を強調する表現になっています。

 新改訳は「どうぞ」を「思い切って」と訳して、その願いの強さを表現しています。預言者集団のトップとして、当然同行すべきだということなのでしょうか。あるいは、以後不測の事態が起こることを予感してということなのかも知れません。委細は不明ですが、その強い要請にエリシャは、「わたしも行こう」と応じました。

 ヨルダンで材木となる木を切り出している最中に、一人の者が手を滑らして、鉄の斧を水の中に落としてしまいました(5節)。その斧は借り物でした。当時、鉄は貴重品で、簡単に手に入れることが出来ません。貧しい預言者仲間には、到底買えるような代物ではなかったと思われます。だから、木を切るために、どこかから借りて来ていたわけです。

 斧を落とした者は、冒頭の言葉(5節)の通り「あれは借り物なのです」と叫びました。借りて来たものを、返せませんで済ませるわけにはいきません。買って返すお金もないとなると、どうしたらよいのでしょうか。エリシャに助けを求めるほか、何をすることも出来ませんでした。

 助けを求める声を聞いたエリシャは、「どこに落ちたのか」と尋ね、示された場所に枝を切って投げ込みました(6節)。すると、なんと鉄の斧が浮き上がったのです。そこで、浮き上がった斧を拾い上げさせました(7節)。あり得そうにないことが起こって、窮地を脱することが出来たのです。

 借り物は、必ず返さなければなりません。主イエスがファリサイ派などの人々から、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」(マルコ12章14節)と尋ねられたとき、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(同17節)とお答えになりました。

 考えてみてください。私たちの人生において、これは自分のものと主張することが出来るものがあるでしょうか。一時期、所有することは出来ても、手放すときがやって来ます。つまり、すべて預かりもので、返すべき時がやってくるのです。

 私たちにとって最も大切な、なくてならないもの、それは命です。まさに命こそ、神からの預かりものです。だから、清算のときがきます。その時、「これは借り物だったのに、取り返しのつかないことをしてしまった」と叫ばずにすむ生き方が出来ているでしょうか。神からの預かりものなのに、罪の中に沈めてしまって自分ではどうしようもない。それが私たちの現実ではないでしょうか。

 しかし、神は私たちに救いの手を差し伸べてくださいます。エリシャが投げた木の枝は、私たちにとって、キリストの十字架を象徴しているようなものです。罪に沈んでいた私たちが、キリストの十字架の贖いによって、もう一度生き返ることが出来ました。自分で清算することの出来なかった罪の代価を、神の御子がご自身の命によって支払ってくださったのです。

 キリストによって新たにされた自分の人生を、まさしく神からの預かりものと覚え、「是非わたしと一緒に来てください」と願い、どんなことも「ああ主よ」と主に依り頼み、日々御言葉に聴きつつ歩ませて頂きましょう。

 主よ、あなたの恵みと導きを感謝いたします。御子の命というかけがえのない代価をもって贖い出し、神のものとしていただきました。御霊の住まわれる神の宮として、御名の栄光のため、私たちのこの体を用いてください。御名が崇められますように。 アーメン




5月27日(日)主日礼拝説教

5月27日(日)の主日礼拝に、教会員16名、来賓15名(子ども2名を含む)がお見えになりました。感謝です。


主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「なくてならぬもの」
聖書 ルカ福音書10章38~42節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師


御覧ください。






5月27日(日) 主日礼拝案内

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5月27日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。

「聖書教育」誌にもとづいて、新約聖書・コリントの信徒への手紙から、共に聖書の学びと交わりを行います。


主日礼拝を10時半から行います。

礼拝では、ルカ福音書10章38~42節より「なくてはならぬもの」と題して、原田牧師より説教をいただきます。

写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。


キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


礼拝後、信徒会を行います。




 

5月26日(土) 列王記下5章

「ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。」 列王記下5章14節

 新共同訳聖書は、5章も「エリシャの奇跡」という見出しで括る大きな段落に入れています。ここは、アラムの将軍なあ万に起こった出来事が記されています。1節に「アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである」と記されています。

 イスラエルに敵対するアラムの将軍ナアマンが、主君に重んじられ、気に入られていた理由を、「主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたから」と語っているということは、主はご自身の御旨を行われるために、イスラエルに敵対しているような者をも用いられるということです。

 しかも、「彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て」という2節の言葉から、アラムの勝利はイスラエルに対するものだったということです。主に従わないイスラエルがアラムに対して反抗するように導き、それに対し、敵軍の将ナアマンが主の御名を呼び、助けを求めたので、主がアラムに勝利を与えられたというところでしょうか。

 ところで、ナアマンは重い皮膚病を患っていました(1節)。彼の妻が召使いにしていたイスラエルの少女が(2節)、「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに」(3節)と女主人に告げました。それをナアマンがアラムの王に伝え(4節)、イスラエル行きの許可を得ます(5節)。

 ナアマンは、アラムの王から委ねられた親書と、銀10キカル(342kg≒2千万円)、金6千シェケル(68.4kg≒3億3千5百万円)、着替えの服10着という贈り物を携え、イスラエル王の許にやって来ました(5,6節)。その親書を読んだイスラエルの王は衣を裂き、これはアラムの王の陰謀だとばかり、感情を露わにします(7節)。

 そのことを伝え聞いた預言者エリシャはイスラエルの王に、自分のところにナアマンをよこすよう進言します(8節)。そして、やって来たナアマンに使いを遣って、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」(10節)と言わせます。

 アラム王の親書を携え、多くの贈り物をもってイスラエルまでやって来たナアマンは、顔を見せようともしないエリシャのやり方が礼を失していると憤慨し、「イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか」(11,12節)といって国へ帰ろうとします。

 けれども家来たちは、「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか」(13節)と執り成します。つまり、命じられたのは大変なことではないのだから、やってみてはどうかとナアマンに勧めたわけです。

 ナアマンは家臣の勧めを受け、思いを変えて冒頭の言葉(14節)のとおりヨルダン川に下り、エリシャに指示されたとおり川に七度身を浸しました。それは確かに、やろうとして出来ないような難しいものではありません。実行できました。

 ナアマンが腹を立てたのは、エリシャが自分に対して敬意を示さないこと、彼の命じたことが余りにも簡単で、それで本当に清くなると考えることが出来なかったからでしょう。王に重用されている軍の司令官という立場、彼のメンツが、一預言者の言葉に従うことを難しくしたのです。

 しかし、彼は部下の諫めを受け入れ、エリシャの言葉に従いました。すると、彼の体は元に戻り、清くなりました(14節)。体が元に「戻った(シューブ)」のを見たナアマンは(14節)、エリシャのところに「引き返す(シューブ)」(15節)という語呂合わせがここにあります。

 自分を出迎え、対面して癒しを行おうとしなかったエリシャに憤慨して立ち去ろうとした将軍ナアマンが、身の清めを経験して、エリシャの言葉が確かに神の言葉であることを悟りました。彼は、随員全てを連れてエリシャの前に立ち、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました」(15節)と、その信仰を言い表しています。

  さながら、エリシャの臣下に入ろうかというような振る舞いです。ナアマンが神の恵みを味わうためには、謙ること、忠実に御言葉に従うことが求められました。一度だけではなく、七度身を浸すというのも、七が完全数で、主の御言葉に完全に従えという表現と考えられます。

 また、洗う度にだんだん清くなったというのではなく、七度身を浸し、川の水で七度身を洗って初めて清められたのです。そうして主の恵みを受けるため、彼の従順と忍耐が試されたわけです(ヘブライ書10章36節参照)。

 主イエスの母マリアは、「お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1章38節)と答えました。主イエスもゲッセマネで「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(同22章42節)と祈られました。私たちも神の恵みに与るために、絶えず謙遜と従順が試されています。

 日毎に開かれる主の御言葉の前に、常に謙遜と従順をもって歩ませていただきましょう。

 主よ、ナアマンが七度洗ってその身が清められたように、私たちの心を繰り返し御言葉で清めてください。人知を超えた神の平安で、私たちの心と考えを絶えず守ってください。主の恵みが常に豊かにありますように。 アーメン




5月25日(金) 列王記下4章

「彼は言った。『外に行って近所の人々皆から器を借りて来なさい。空の器をできるだけたくさん借りて来なさい。』」 列王記下4章3節

 4章には、「エリシャの奇跡」という小見出しがつけられています。そこには、負債からの救済(1~7節)、死から命へ(8~37節)、有害物質の除去(38~41節)、百人の給食(42~44節)という、エリシャによってなされた四つの奇跡が記されています。いずれも、死から命へ、絶望から希望へという共通のテーマを持っています。

 最初の「負債からの救済」という奇跡は、預言者仲間の一人が亡くなり、その後、債権者がやって来て、子ども二人を負債のかたに連れ去り、奴隷にしようとしていると、その預言者の妻が訴えたことに対して(1節)、エリシャが行ったものです。

 エリシャが、あなたの家に何があるのかと尋ねると、彼女は「油の壺一つのほか、はしための家には何もありません」(2節)と答えます。彼女の家に残っているものは、本当にごく僅かです。家財道具から一切合財、債権者に持って行かれたというところでしょうか。油の壺一つだけでは、殆ど何の助けにもなりません。

 けれども、それを聞いたエリシャは、「外に行って近所の人々皆から器を借りて来なさい。家に帰ったら、戸を閉めて子供たちと一緒に閉じこもり、その器のすべてに油を注ぎなさい。いっぱいになったものは脇に置くのです」(3,4節)と彼女に告げました。

 そこで、彼女は家の戸締まりをし、二人の子らは空の器を集めて来ました。そして、彼女が集められた空の器に壺の油を注ぎます(5節)。驚くべきことに、壺の油は尽きません。集められた器はすべて満たされました。「もっと器を持っておいで」と彼女が言うと、子どもたちは「器はもうない」と答えました。すると、油は止まりました(6節)。

 それを神の人エリシャに報告すると、エリシャは「その油を売りに行き、負債を払いなさい。あなたと子どもたちはその残りで生活していくことができる」(7節)と言いました。

 アハブの御世、3年にわたる旱魃が続いている中、サレプタの貧しいやもめを、エリヤが救ったことがありました(列王記上17章8節以下)。そのとき、底をついていた壺の粉と瓶の油が、その後、再び雨が降って地に実りが与えられるまで、幾日食べてもなくならないという奇跡が行われました(同16節)。

 また、ギルガルの地が飢饉に見舞われていたとき(38節)、一人の男が初物のパン、大麦パン20個と新しい穀物を袋に入れて、エリシャのもとに持って来ました(42節)。それを人々に与えて食べさせるよう命じると、「食べきれず残す」(43節)と言われた主の言葉のとおり、百人もの人がそれを食べて食べきれず、残すという奇跡もありました(44節)。

 これらの箇所に見る、ごく僅かなものですべての必要を満たされただけでなく、多くのものが余るというのは、男だけでも5000人いるという大群衆の腹を五つのパンと二匹の魚というごく僅かなもので満たし、残りを集めると、12の籠に一杯になったという、主イエスが行われた奇跡の物語を思い起こします(マルコ6章30節以下など)。

 また、この出来事から、主の恵みについて教えられます。彼女らには、負債を返す力がありませんでした。だれかにその負債を肩代わりして貰わない限り、子どもを奴隷として売るしかなかったのです。しかも、負債を返し終えさえすれば、それでよいというわけではありません。

 そもそも、預言者の夫が負債を残して亡くなり、それが返せなかったわけです。負債がゼロになっただけでは、明日からまた借金生活が始まってしまいます。だから、借金がゼロになった後の生活がきちんと出来る仕組みや備えが必要なのです。

 私たちの信仰において、負債とは罪のことです(ルカ11章4節参照)。粉飾して、負債などないという顔をしている人でも、神の御前に、負債のない人、罪を犯したことがないと言える人などいません(詩編14編1節以下)。

 そして、誰も自分の力ですべての負債を返すことができません。だから、神の御子キリストが十字架にかかり、私たちの負債をすべて、支払ってくださいました。けれども、借金体質がそのままでは、再び借金生活に逆戻りです。そうならないように、収入を確保できる仕組み、借金を産まない体制が必要です。

 主なる神は私たちに、別の助け主として真理の御霊、聖霊を送ってくださいました。私たちは、私たちといつまでも共にいてくださる聖霊の力を受けて、新しい歩みをすることが出来るのです(ヨハネ14章16,26節、15章26節、16章8節以下)。主イエスを信じて罪赦された今、聖霊の満たしと導きを求めましょう。

 もう一つ、預言者エリシャが隣近所からたくさんの空の器を集めさせ、その器を油で満たしました。そして、すべての器を満たしたとき、油は止まってしまいました。空の器がなくなったからです。用意された器の分だけ、油が注ぎ出されました。

 ここで、器は私たちの必要であり、壺の油はそれを満たす主の恵みであると考えます。私たちが器を満たしてくださいと主に祈り願うと、主はその祈りに答えて、恵みを注いでくださいます。隣近所から空の器を集めなさいというのは、家族や隣人の救いを求め、恵みを求めて執り成しの祈りをせよということにもなるでしょう。

 空の器を主のもとに持ち出せば、すべて恵みで満たして頂くことが出来ます。集めた器をすべて満たせば、油は止まってしまいます。無尽蔵の主の恵みで、家族親族、知人友人が満たされるよう、祈り願いましょう。そうして、日毎の御言葉と祈りを通していただいた恵みを、隣人のために用いさせていただきましょう。

 主よ、日々御言葉を通して新たな恵みを示してくださり、感謝します。私たちの家族、隣人がすべて、主の救いの恵みに与りますように。心も体も健康で、日々充実した生活が出来ますように。生活の必要がすべて満たされますように。仕事が祝されますように。そのことを通して、いよいよ主の御名が崇められますように。 アーメン




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