「イスラエルの神、主はたたえられますように。主は今日わたしの王座につく者を与えてくださり、わたしはそれをこの目で見ている。」 列王記上1章48節
今日から、列王記を読み始めます。現在、上下2巻に分けられていますが、原典は1巻の書物でした。ヘブライ語原典(マソラ本文)をギリシア語に翻訳したとき(ギリシア語旧約聖書=70人訳聖書)、字数が多くなり、2巻に分ける必要が生じたのです。
また、70人訳聖書では、サムエル記と列王記が「王国の書」として一つに括られています。もしかすると、それが本来の形だったのかも知れません。
また、70人訳聖書では、サムエル記と列王記が「王国の書」として一つに括られています。もしかすると、それが本来の形だったのかも知れません。
ユダヤ教の伝統では、列王記は預言者エレミヤが書いたものだと言われます。それは、列王記下25章、即ちエルサレムの陥落の記事が、エレミヤ書39,52章にほぼ同じかたちで登場するからです。
また、マソラ本文では、列王記は預言者の書に入れられています。それは、エレミヤが著したものと考えられているからでしょう。また、ソロモンやヒゼキヤ、ヨシヤという、他の王たちに比べて詳しく紹介されている王たちにまさって、多くの分量を割いて描かれているのが、エリヤ、エリシャたち預言者の記事だということもあるでしょう。
さらに言えば、この書物が単なる歴史の記述ではなく、イスラエルの歴史の中に表わされた神の御業を通して、私たちが神の御言葉を聴き、御旨を悟るために記されたものだからではないかと考えられます。
さて、年老いたダビデには、もう国を治めていく力がありません(1節)。それで、誰がダビデの後を継ぐのということが、最大の関心事になります。そのとき、4男アドニヤが「わたしが王になる」と宣言しました(5節)。長男アムノンが3男アブサロムに殺され、アブサロムは父ダビデを追い落とそうとして、逆に命を落としました。現在、アドニヤが、王位後継争いの先頭にいるのです。
本来なら、2男でアビガイルの子キルアブ(歴代誌上3章1節ではダニエル)がいるはずですが、彼の名が取り沙汰されることはありません。その理由は不明ですが、王位後継が話題になる前に、若くして亡くなったためではないかと考えられています。
王になると宣言したアドニヤは、軍の司令官ヨアブと祭司アビアタルに相談し、二人の支持を得ました(7節)。そこでアドニヤは、自分の兄弟やダビデの家臣たちを招き、宴会を催しました(9節)。これは、自分の支持基盤を固めるためのものですが、司令官ヨアブと祭司アビアタルが同席していて、事実上の王位継承の儀といってもよいでしょう。
ただし、列王記の記者は、アドニヤが王位継承の意思を表したのを「ハギトの子アドニヤは思い上がって」(5節)と記しています。即ち、アドニヤが選ばれるべくして選ばれたものではないと、はっきり示しているわけです。また、預言者ナタンや護衛長ベナヤ、そして兄弟ソロモンは招かれませんでした(10節)。彼らは、アドニヤの即位をよしとしない人々です(8節)。
アドニヤらの動きを知った預言者ナタンが、ソロモンの母バト・シェバに、アドニヤが王になったことを聞いているかと尋ね(11節)、すぐにソロモンを王とするよう、ダビデに働きかけることを進言します(12節以下)。
ソロモンは主なる神に愛されいて、以前そのことを、ナタンがダビデに示したことがありました(サムエル記下12章24,25節)。それで、ソロモンは「エディドヤ(主に愛された者)」とも呼ばれていました。
先ず、バト・シェバがダビデに後継者について尋ね(15節以下)、次いでナタンがアドニヤのことを報告して、ダビデの意向を確認します(22節以下)。それを聞いたダビデはバト・シェバを呼び(28節)、ソロモンを王とすることを告げます(30節)。
そしてすぐに、祭司ツァドクと預言者ナタン、護衛長ベナヤを呼び(32節)、ギホンでソロモンに油を注ぎ、即位式を行うよう命じると(33節以下)、彼らはソロモンをギホンに連れて行き(38節)、ソロモンに油を注いで角笛を吹くと、民は皆、「ソロモン王、万歳」と叫びました(39節)。
そしてすぐに、祭司ツァドクと預言者ナタン、護衛長ベナヤを呼び(32節)、ギホンでソロモンに油を注ぎ、即位式を行うよう命じると(33節以下)、彼らはソロモンをギホンに連れて行き(38節)、ソロモンに油を注いで角笛を吹くと、民は皆、「ソロモン王、万歳」と叫びました(39節)。
郊外で宴会を催していたアドニヤたちは、ソロモン王即位を祝う角笛の音を聞き(41節)、やって来た祭司アビアタルの息子ヨナタンから、そのときの様子を知らされます(42節)。それで、アドニヤと宴席を共にしていた者たちは、自分たちが勝ち馬に乗り損ねたというか、王位継承の判断を誤ったことを悟り、恐怖に包まれ、それぞれ帰途につきました(49節以下)。
ダビデは非常に年老いていますが、ソロモンに王位を譲る決定をするとき、王としての使命を果たしています。そして、ダビデには信仰がありました。王位を譲った後、彼は寝床の上でひれ伏し、冒頭の言葉(48節)のとおり、主を賛美します。
ダビデはここで、主が王座につく者を与えてくださり、それをこの目で見ていると言っています。ダビデにとって、ソロモンの即位は自分の選びや決断ではなく、主なる神の賜物だというのです。
司令官ヨアブや祭司アビアタルの目には、アドニヤがダビデの後継者となるのに相応しい人物と映ったのですが、主の決定はそうではありませんでした。確かに主は外側ではなく、人の内側、その心を見られます(サムエル記上16章8節)。絶えず主の前にひれ伏す者であるか、主の御旨を求める者であるか、主の御声に聴き従う者であるかが問われているのです。
そしてそれは、今ここに王とされたソロモンについても例外ではありません。右にも左にも曲がらずに主の道を歩むことは、王となることよりも難しい道でしょう。だから、常に主の御言葉に耳を傾け、その導きに従わなければなりません(詩編119編9節)。
私たちにも、「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ書12章2節)と求められています。事毎に主の御心を尋ね求める信仰が必要です。それゆえに絶えず祈れと教えられるのです(一テサロニケ5章17節)。それも喜びと感謝をもって(同5章16,18節)。
何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを主に捧げ、主にある神の平和で私たちの心と考えを守っていただきましょう(フィリピ書4章6,7節)。主の導きに従って、行動しましょう。そこに平和の神が共におられるのですから(同9節)。
主よ、今日も王の王、主の主なるキリスト・イエスの御言葉に耳を傾け、導きに従って歩ませてください。欲に惹かれて道を違えることがありませんように。主の使命を果たすために必要な知恵と力を授けてください。ここ静岡に、そして全日本に、主イエスを信じる信仰の恵みが広げられますように。 アーメン