「彼は着物を脱ぎ捨て、預言する状態になったまま、その日は一昼夜、サムエルの前に裸のままで倒れていた。」 サムエル記上19章24節
サウル王は、娘婿ダビデの武勇にも拘わらず、否、どんなときにも必ず武功をあげるからこそ、それを妬み、今や公然と彼の殺害を家臣全員に命じます(1節)。ダビデは多くの人々から愛されていましたので、すべての家臣がサウルの命令を積極的に実行しようとは考えなかったと思います。
しかしながら、一方でこれを機会に自分の名を上げ、サウルに取り立てられようと、その命に従う者も少なからずいたのかも知れません。となれば、王に狙われたダビデの命は、風前の灯火のように見えます。
ところが、そのときにダビデの命運を吹き消そうとする風の盾になったのは、なんと、サウルの息子ヨナタンと娘ミカルです。ここに、皮肉以上のものを感じます。ヨナタンは、父サウルに対してダビデの功績を語り、翻意を促します(4,5節)。サウルはそれを受け入れ、「彼を殺しはしない」と誓いました(6節)。
しかしながら、一方でこれを機会に自分の名を上げ、サウルに取り立てられようと、その命に従う者も少なからずいたのかも知れません。となれば、王に狙われたダビデの命は、風前の灯火のように見えます。
ところが、そのときにダビデの命運を吹き消そうとする風の盾になったのは、なんと、サウルの息子ヨナタンと娘ミカルです。ここに、皮肉以上のものを感じます。ヨナタンは、父サウルに対してダビデの功績を語り、翻意を促します(4,5節)。サウルはそれを受け入れ、「彼を殺しはしない」と誓いました(6節)。
けれども、また主からの悪霊がサウルに下り(9節)、竪琴を奏でるダビデを槍で突き刺そうと狙います。ダビデはそれを避けて逃げ、難を免れました(10節)。そこでサウルは使者を送ってダビデを見張らせ、翌朝には殺させようとしました(11節)。それを知ったミカルは、寝台を偽装した上、夜の間にダビデを逃がします(11,12節)。
そのようにヨナタンとミカルが行動したのは、ダビデ自身に、父サウルを退けて自ら王になろうとするような振る舞いがいささかもなかったこと、むしろサウルのため、イスラエルのために常に命を賭して敵と戦い、勝利して来たことを認めていればこそです。そして、そのようなダビデを、二人は愛していたのです。その上、ダビデを守られる神の御手があります。
ミカルの機転で難を逃れたダビデは、ラマのサムエルのもとに行き、サウルのことを報告します(18節)。サムエルは、ダビデとナヨトに行きます。「ナヨト」は「住居」という意味で、これは固有の地名ではなく、ラマにサムエルを中心とする「預言者の一団」(20節)が生活する家があって、それを「ラマのナヨト」と言っているのではないかと考えられます。
ダビデがラマにいることを知ったサウルは、そこに使者を差し向けますが(19,20節)、預言者の一団の先頭に立っているサムエルの前で、彼らにも神の霊が降り、預言する状態になって、ダビデを捕らえることが出来ません(20節)。
三度使者を遣わして、その度に同じことが起こりました(21節)。最後にサウル自身がやって来ましたが、彼にも神の霊が降り、預言する状態になりました(22,23節)。
預言には、言葉で語られる預言の他に、行動で示される預言もあります。それぞれ、どのような状態になったのか、何が語られたのか、述べられてはおりません。ただ、冒頭の言葉(24節)には、「彼(サウル)は着物を脱ぎ捨て、預言する状態になったまま、その日は一昼夜、サムエルの前に裸のままで倒れていた」と記されています。
それこそ、サウルの真の姿です。神の霊が離れ、預言者サムエルが離れ、勇士ダビデが離れ、そして息子、娘までも自分から離れてしまい、たった一人、裸で倒れています。心からサウルに味方する者は誰もいません。しかしそれは、サウル自身が神の命を守らず、自分のため命懸けで働くダビデを亡き者にしようとして招いた結果でした。
そのサウルに神の霊が降り、預言する状態になりました。そして今、裸でサムエルの前に倒れています。これはただ、興奮状態、恍惚状態になっていただけというのではないでしょう。神が霊をもってサウルに働きかけておられたのです。彼がまさに「裸の王様」であることを教え、諭しておられたのではないでしょうか。
あるいは、彼が裸のまま一昼夜を過ごしても、誰も彼を襲って危害を加える者がないように、神の霊が彼を覆い、その身と心を守りながら、彼が神の御旨を受け入れ、もう一度神の御言葉に忠実に従うように促されていたのではないでしょうか。
あの「放蕩息子」が、分与された財産すべてを使い果たして無一物となり、豚のえさを奪って食べたいと思うほどに落ちぶれ果て、我に返って父のもとに帰る決意をし、再び家族としての生活を取り戻したように(ルカ15章11節以下、17節)、すべてのものを失ったこの最大の危機が、サウルにとって、神の恵みに与る最大のチャンスだったのです。
サウルは、そのことを悟って、チャンスをものにすることが出来るでしょうか。主なる神は、ご自分を信頼し、ご自分にすべてを委ねる者たちのために、万事を益としてくださるのです(ローマ書8章28節)。主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上ることができます(イザヤ書40章31節)。
私たちも、主に信頼して一切を主の御手に委ね、御言葉と聖霊の導きを受けて、日々主と共に歩ませて頂きましょう。
主よ、私たちは自分の弱さ、愚かさを認めることが苦手です。問題を感じながらも、それを手放すこと、ハンドルを委ねることが、なかなか出来ません。どうか助けてください。裸のサウルを霊で覆ってくださったように、私たちを御霊で覆い、守り導いてください。すべてを御手にお委ねします。イースター(4月1日)から始まる新しい一年も、主の恵みと導きが常に豊かにありますように。 アーメン