風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2018年03月

3月31日(土) サムエル記上26章

「さらに言った。『主は生きておられる。主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ。』」 サムエル記上26章10節

 ジフ人がベニヤミン領ギブアにサウル王を訪ね、「砂漠の手前、ハキラの丘にダビデが隠れている」と報告しました(1節)。ダビデがジフ人から売られるのは、これが二度目です(23章19節参照)。ジフ人はダビデと同じユダ族ですから、同じ部族の人々から裏切られ続けているわけです。

 この背後には何があるのでしょうか。サウル王に対する忠誠心でしょうか。それとも、ノブの町のようにはなりたくないという、サウルに対する恐怖心でしょうか。あるいは、ダビデに対して何か恨みでもあるのでしょうか。主イエスが、「預言者は故郷では敬われない」と仰っていますが(マルコ13章57節)、所謂ダビデへの妬みややっかみがあるのでしょうか。

 聖書はその理由について何ら語っていませんが、ジフ人の告げ口が呼び水となって、サウル王は再び3千の精鋭を連れ、ダビデを追い始めました(2節)。ダビデの側からすれば、ようやく和解が成立したと思っていたのに(24章)、なぜ再び追いかけっこが繰り返されることになったのか、合点がいかなかったのではないかと思います。

 けれども、ダビデは主なる神によって守られており、むしろ、追いかけているサウルの方が、再びダビデの前に命を晒します。主がサウルと兵士たちを深い眠りに落としたので、ダビデと数名の供の者がサウルの陣地に侵入したことに気づいた者は、一人もいませんでした(5節以下、12節)。

 ダビデの従者アビシャイが「神は、今日、敵をあなたの手に渡されました。さあ、わたしに槍の一突きで彼を刺し殺させてください。一度でしとめます」(8節)とダビデに進言しますが、ダビデはそれを許さず、「殺してはならない。主が油注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない」(9節)と言います。

 先のエン・ゲディの洞窟でサウルと遭遇したときにも、ダビデは兵たちに同じように語っていました(24章7節)。アビシャイもそのことを知っていたと思いますが、しかし、再びダビデの命を狙ってサウルがやって来たので、この際、危険な芽は摘んでおこうと考えたのではないでしょうか。

 ダビデは、改めてアビシャイに釘を刺した上で、さらに冒頭の言葉(10節)のとおり、「主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ」と語ります。即ち、サウルを主の手に委ね、自ら手を下さないようにしようということです。

 ただし、原文は「主が彼を打たれる」(アドナイ・イガーフェヌー)という言葉遣いで、「彼」がサウルではなく、前節の「主が油を注がれた肩に手をかける者」を指すという可能性もあります。次節との関連で、サウルに手をかけることは許されない、そうする者を主が打たれるということです。

 ダビデはサウルの枕元から槍と水差しを取ってその場を離れ(11,12節)、遠く離れた山の頂からサウル軍の長アブネルに呼びかけます(14節以下)。それは、軍の長でありながら、本陣に忍び込んだ敵兵に気づかず、王の槍と水差しが奪われてしまったことを糾弾するものでした(15,16節)。そうして、自分はサウルに手をかける気がないことを、再び証明したのです(23,24節)。

 サウルは「わたしが誤っていた。わが子ダビデよ、帰って来なさい。この日わたしの命を尊んでくれたお前に、わたしは二度と危害を加えようとはしない。わたしは愚かであった」(21節)と言い、さらに「わが子ダビデよ。お前に祝福があるように。お前は活躍し、また、必ず成功する」(25節)と祝福しました。

 先のカルメルにおけるナバルとのやりとりでは、ダビデは短気を起こして武器を取って出陣し(25章13節)、ナバルに属する男を一人残らず殺そうとしましたが(同22節)、ナバルの妻アビガイルになだめられて(同24節以下)、思いとどまりました。その結果、無意味な流血の罪を犯さずにすみました(同33節)。

 主はここに、再びサウルをダビデの手に渡して、彼をどのように取り扱うかを試みられたのでしょう。ダビデが語っているとおり、主が油を注いだ器に対して刃を向けることは許されません(11節)。ダビデは、サウル王を主の手に委ね、自らサウルに手をかけることはしませんでした。

 主イエスが、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6章35,36節)と教えられています。また、主に油注がれた者に敬意を払うことは、主を畏れることであり(ローマ13章1節参照)、自分がその職務に就くときに、主を畏れて謙虚にその務めを果たしていくことにつながります。

 さらに、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(第一ペトロ3章9節)と教えられています。ダビデは、その信仰によって神に祝福されたのです。

 神の慈しみの下に留まり、憐れみ深い主の憐れみに支えられて、主にあって憐れみ深い者とならせていただきましょう。

 主よ、私たちはあなたから選ばれ、聖なる者とされ、愛されています。聖霊を通して注がれている神の愛により、互いに憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けて、互いに忍び合い、赦し合うことが出来ますように。また、祝福を受け継ぐために、祝福を祈る者となれますように。 アーメン





3月30日(金) サムエル記上25章

「サムエルが死んだので、全イスラエルは集まり、彼を悼み、ラマにある彼の家に葬った。ダビデは立ってパランの荒れ野に下った。」 サムエル記上25章1節

 イスラエルの精神的な支柱であった預言者サムエルが亡くなりました(1節)。サムエルは、宗教が乱れ、預言も幻も少なくなってしまっていたときに、神がお立てになった預言者であり(3章1節以下)、新しく王が立てられるまでの間、イスラエルをために裁きを行った(7章)、いわば最後に登場した「士師」でした。彼は、生涯主と共に歩み、使命を全うしました。

 ところが、サムエルの息子たちは、その道を歩まなかったので(8章3節)、イスラエルの民は王を求めるようになりました(同5節)。サムエルは、民の求めに応じて王を立てました(8~11章)。王を宗教的に指導するのは、預言者の務めです。

 しかしながら、初代の王サウルは、サムエルを通して語られた主の御言葉に従いませんでした(13章8節以下、15章)。そのために、サムエルはサウルを王としたことを嘆き、彼から離れます(15章35節)。

 前にも学んだとおり、サムエルは、王を立てることに賛成ではありませんでした(8章6節以下)。しかしながら、サウルが王位から退けられたとき、やはり王は必要なかった、主が王なのだとは考えていません。むしろ、サウルが神に従い、正しく民を導くことに期待をかけていたために、それが適わなくなって嘆いていたわけです。

 「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい」(16章1節)と主に言われて、サムエルはベツレヘムに行き(同4節)、主がお選びになったエッサイの8番目の息子ダビデに油を注ぎました(同13節)。そして、表舞台から退きます。サウル王とは全く没交渉になりました。

 「幻がなければ、民は堕落する(口語訳:「預言がなければ、民はわがままに振る舞う」)。教えを守る者は幸いである」(箴言29章18節)という御言葉がありますが、預言者サムエルの指導を受けられなくなったサウルは、道を誤り、わがままに振る舞うようになります。

 即ち、王位を守り、サウル王朝を築くため、それを危うくしかねないダビデを殺すことに血眼になるのです(20章31節)。政治は二の次で、絶えずダビデの命を狙います。

 ダビデに協力したというかどで、祭司アヒメレクの一族と、彼らが住んでいたノブの町の住民、その家畜まで、剣にかけて滅ぼしました(22章18,19節)。これでは、神を味方につけるのは不可能です。サウルが王位から退けられるのも当然で、自業自得と言わざるを得ません。

 神は、彼が神に聞き従おうとしないので、彼のするままに任せておられます(ローマ1書24節参照)。神とつながっていなければ、実を結ぶことは出来ません(ヨハネ15章5節)。木につながっていない枝は枯れて、集められ、火の中に投げ込まれて焼かれてしまうのです(同6節)。

 サウルは、アマレクの一件以降(15章)、一度だけサムエルの前に行きました。そのとき、サウルの上に激しく神の霊が下り、預言する状態になりました。しかしそれは、サウルがサムエルに託宣を求めたのでも、自ら預言することを望んだわけでもありません。ダビデがラマにいたサムエルのもとに逃げたので、追いかけて行っただけのことです(19章18節以下)。

 そのとき、サウルに神の霊が降って預言する状態になり、そのままラマのナヨトまで歩きました。そして、サムエルの前で丸一昼夜、着物を脱ぎ捨て、裸で倒れていました(同24節)。それは、自分の真の姿を見せつけられ、神の前に悔い改めることを、主なる神が望まれてのことだと思います。けれども、残念ながら、サウルはそこで悔い改めることが出来ませんでした。

 こうして、預言者サムエルは神のもとに召されました(1節)。サウルは、サムエルと和解する機会を永久に失ってしまいました。それは、神と和解する道が最後的に閉ざされてしまったということでもあります。

 主の霊がサウルから離れ、悪霊が彼をさいなむようになったとき、ダビデが竪琴を奏でてサウルを癒していましたが(16章14節以下、23節)、そのダビデに対して妬みを抱き、殺意をもってつけ狙うようになりました。そして、上述のとおり、祭司アヒメレク一族を滅ぼしてしまいました。

 そうして、自分に油を注いで王としてくれた預言者サムエルが亡くなりました。もはや、サウルの周囲には、主の託宣を告げる者、主に執り成しをする者が誰もいなくなってしまったのです。しかしながら、今一番の問題は、サウル自身が、ここに至ってもなお悔い改めて神と和解しよう、誠心誠意主の導きに従おうとは考えていないということです。

 24章で、ダビデを次の王と認め(同21節)、サウルの家を寛大に扱うという誓約をさせていたのに、ハキラの丘にダビデが隠れているというジフ人の報告を受けると(26章1節)、またもや精鋭部隊を率いて出陣します(同2節以下)。結局、ダビデとも真に和解することができないまま、サウルの最期の時を迎えることになってしまいます(31章参照)。 

 「今日」という日に、心を頑なにすることがないように、絶えず主の御声に耳を傾け、御言葉に従って歩ませていただきましょう(ヘブライ書3章7節以下、同4章2節)。

 主よ、愚かで罪深い私たちを憐れみ、罪を赦してください。キリストの血潮により、すべての不義から清めてください。私たちの耳を開き、日々御声を聴かせてください。私たちの唇を開き、絶えず賛美のいけにえを御前に献げさせてください。恵みに与り、時宜に適った助けを頂くために、大胆に御座に近づかせてください。御名が崇められますように。 アーメン

 


3月30日(金) 受難日礼拝説教

3月30日(金)の受難日礼拝①には、教会員9名、来賓8名(子ども2名を含む)がお見えになりました。②には、教会員3名がおいでになりました。
感謝です。

受難日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「血の代金」
ゼカリヤ書11章4~17節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師

御覧ください。








3月30日(金)受難日礼拝・4月1日(日)イースター礼拝案内

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3月30日(金)①10時~、②19時~、主イエスが十字架にかけられ、殺されて墓に葬られたのを記念して、受難日礼拝を行います。
礼拝では、ゼカリヤ書11章4~17節より「血の代金」と題して、原田牧師の説教を聴きます。


4月1日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、新約聖書・マルコ福音書から、共に聖書の学びと交わりを行います。


イースター礼拝を10時半から行います。
礼拝では、ルカ福音書24章13~27節より「主イエスは生きておられる」と題して、原田牧師の説教を聴きます。


写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。

 
礼拝後、イースター祝会(卵探し、愛餐会、ゲームなど)を行います。

キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。





3月29日(木) サムエル記上24章

「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ。」 サムエル記上24章7節


 ダビデとその一行は、エン・ゲディの要害に隠れ家を移しました(1節)。エン・ゲディとは、「小山羊の泉」という意味で、死海西岸に広がるユダの荒れ野のほぼ中央に位置するオアシスです。その名のとおり、付近の岩山には野生の山羊が生息しています。


 ダビデがエン・ゲディに隠れているという情報が、ペリシテとの戦いから帰って来たサウル王にもたらされます(2節)。ケイラといい(23章12節)、ジフといい(同19節以下)、そしてこのエン・ゲディといい、これらの地はすべて、ダビデと同じユダ族が支配しているところです。


 ところが、彼らが同族のダビデをかくまい、保護するどころか、むしろ積極的にサウルに情報を提供するのは、やはり、あのノブの地の二の舞にだけはなりたくないという思いがあるのでしょう。王を敵に回すわけにはいかないと考えているわけです。あるいは、一時期にでもダビデがサウルに重く用いられたのを、ユダの人々は快く思っていなかったのかも知れません。


 サウルは、イスラエル全軍から三千人を選りすぐり、ダビデ討伐軍を結成します(3節)。ダビデを追ってエン・ゲディの荒れ野にやってきたサウル王は、一つの洞窟を見つけて、そこで用を足します(4節)。ところがなんと、その洞窟の奥にはダビデたちが隠れていたのです。そんなことがあるんですね。


 ダビデを捜索するのに、三千の兵を先頭に洞窟に入って来ていれば、洞窟の奥に隠れているダビデたちには、逃げ場はありませんでした。実際、用をたす前に洞窟内の安全を確かめるということも出来たでしょう。けれども、何故か、そうはしませんでした。


 そして、エン・ゲディの荒れ野には無数の洞窟があるのに、どうしてサウルはよりによって、ダビデたちの隠れていた洞窟にやって来たのでしょうか。ダビデと共にいた兵たちがダビデに、「主があなたに、『あなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよい』と言われたのは、この時のことです」(5節)と進言しています。


 即ち、これは決して偶然ではなく、神がそのようになさったということでしょう。確かに神は、このときダビデの手にサウルの命を委ねられたのです。だから、兵の進言どおり、サウルの命を奪い、自らの手でその後のイスラエルの歴史を書き換えることも出来たのですが、しかし、ダビデはその道を選びませんでした。


 冒頭の言葉(7節)の通り、「主が油を注がれた方」、即ち、神からその王位を授けられたサウルに手をかけることはしない。これがダビデの出した結論でした。自分が手を下さないだけでなく、共にいる者たちをも説得して、サウルを襲うことを許しませんでした(8節)。サウルを王として立てた主の御手に、サウルを委ねたのです。


 もしも、サウルとダビデの立場が逆であれば、サウルは間違いなくダビデを捕らえ、殺したでしょう。勿論、ダビデに迷いがなかったとは思いません。ダビデはサウルの上着の端をこっそりと切り取りました(5節)。上着の一部を切り取るという行為は、自分がいつでもサウルに手をかけることが出来るという徴です。


 そのことは、15章27節以下との関連で、やがてサウルの王位を奪い取りたいというダビデ自身の願望をも表しているようです。6節でダビデがその行為を後悔したというのは、内なる欲求のままに行動してしまったからと考えられます。


 ただ、ダビデがそのように行動しなければ、彼と共にいる兵士たちが、自分たちの逃避行を終わらせるために、殺気だってサウルに迫り、手を下してしまうかも知れませんでした。兵士が「この時」といった言葉に応じて行動することで、彼らの機先を制し、サウルに手をかけさせず、彼を守ろうとしていたのかも知れません。


 それでも、油注がれた方に手をかけるような真似をしたことを後悔して、上述の通り、自分が手を下さないだけでなく、兵士たちにもそうすることを禁じたのです(7節)。ダビデは、自分がよいと思ったとおりに行動するのではなく、主の御心に適う道を歩もうとしていました(13章14節、16章7節参照)。 


 洞窟を出たサウル王を追ってダビデも洞窟を出て、王に呼ばわります(9節以下)。そして、こっそり切り取ったサウルの上着の切れ端を見せながら(5,12節)、自分にはサウルに手をかける意志は全くないことを説明します。


 そのようなダビデのとった行動、特に、自分を「王」と呼び(9,15節)、「油注がれた方」として重んじているというダビデの心根に触れたサウルは(11,12節参照)、声を上げて泣き(17節)、「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお目に悪意をもって対した」(18節)と言います。


 その涙は、ダビデの心根に触れ、その善意に対して感動すると共に、悪意をもって対して来た自分自身の振る舞いに対して後悔の思いを明らかにしています。それゆえに、「今日のお前のふるまいに対して、主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう」(20節)と告げます。


 サウルも、主がダビデと共におられ、彼に恵みを与えられると認めざるを得なかったのです。かつて、「しようと思うことは何でもしなさい。神があなたと共におられるのです」(10章7節)とサムエルから言われていたサウルですが、主の命を蔑ろにした結果(15章19,23節)、主の霊が彼を離れ(16章14節)、恵みを失ってしまったのです。


 そして、「今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される」(21節)と語ります。これは、ヨナタンが「イスラエルの王はあなただ。わたしはあなたの次に立つ者となるだろう。父サウルも、そうなることを知っている」(23章17節)と報告していたことですが、ここにサウルの口から、ダビデが王となるという言葉が語られました。


 それは、このときサウルが、「今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人をご自分の民の指導者として立てられる。主がお命じになったことをあなたが守らなかったからだ」(13章14節)というサムエルの預言を受け入れたということでしょう。


 サウルはダビデに、「わたしの子孫を断つことなく、わたしの名を父の家から消し去ることはない」(22節)と誓わせて、自分の館に帰って行きます(23節)。その誓いは、先にヨナタンに対してなしたことで(20章14,15節)、それをサウルにも行っただけのことです。


 特に、彼はサウルの王冠をもらうことも、王位を約束させるようなこともしませんでした。それはまだ、彼の手に与えられません。ゆえに、サウルと同行せず、エン・ゲディに留まり、主が恵みをもって報いてくださることを待つのです(20節)。


 主が喜ばれるのは、主の御声に聴き従うことです(15章22節)。ダビデはそのようにして、主の恵みに与ろうとしています。私たちも主の御言葉に耳を傾け、その御心に適う道を歩みましょう。


 主よ、ダビデはサウルを、主に油注がれた方と呼んで、手を下すことを恐れました。そこに、ダビデが主を畏れる信仰が如実に示されます。私たちも主を畏れて御言葉に耳を傾け、一切を主に委ねて、与えられた使命に日々励むことが出来ますように。そのとき、主はすべてを益としてくださることを信じます。 アーメン


 

 

3月28日(水) サムエル記上23章

「そのとき、サウルの子ヨナタンがホレシャにいるダビデのもとに来て、神に頼るようにとダビデを励まして」 サムエル記上23章16節  

 ダビデのもとに、ケイラがペリシテに襲われているという知らせが届きました(1節)。ケイラは、ヘブロンの北西に約13km、ダビデのいるハレトの森から西に約10kmのユダの低地(シェフェラ)にある要塞の町の一つで(ヨシュア記15章44節)、穀物の産地です。ペリシテ人は、そこにある麦を略奪するためにやって来たわけです。

 ダビデが主なる神に「行って、このペリシテ人を打つべきでしょうか」(2節)と尋ねると、「行け、ペリシテ人を討ってケイラを救え」(2節)と命じられました。ケイラを失うことは、ユダの人々にとって生活を脅かす一大事だったことでしょう。

 ダビデの兵は、逃避行中であることを理由にケイラ行きを渋りますが(3節)、ダビデは再び主に尋ねて、腹を決めます(4節)。長年に亘って脅威となっているペリシテを打つため、主の命に従って逃亡の旅を中断するのです。サウルを恐れてはいますが、さらに主なる神を畏れている証しです。

 主なる神はダビデの信仰に答え、「ペリシテ人をあなたの手に渡す」(4節)と、勝利を保証されています。ダビデとその兵はケイラに行き、ペリシテと戦って彼らの家畜を奪い、彼らに大打撃を与え、ケイラの住民を無事救うことが出来ました(5節)。

 ところが、ダビデがケイラにいると知って(7節)、サウルは兵を招集し、ケイラに向かおうとしていました(8節)。それを知ったダビデは、サウルはケイラに下って来るかと主に尋ねると、「彼は下って来る」(11節)と言われ、ケイラの有力者は自分たちをサウルに引き渡すだろうかと尋ねると、「引き渡す」(12節)という答えが返って来ました。

 なんという恩知らずな人々でしょう。ペリシテ人の手から救ってくれた恩人を、サウルに売り渡してしまうというのです。しかも、ケイラの民はユダ部族で、ダビデとは同族です。主はそんなことを許されるのでしょうか。もし、そうすることが最初から分かっていれば、彼らを助けることはなかったのではないでしょうか。

 もちろん、主はすべてをご存じでした。こうなることは、最初から分かっていたのです。主はしかし、どうしてこういうことを許されるのでしょうか。ここで主は、ダビデが自分の利害よりも隣人のことを優先して考えることが出来るか、そして何より、主の御言葉に従うことが出来るかどうかを試されたかたちです。

 かつて、ダビデがノブの祭司アヒメレクにパンと剣を求めたとき(21章)、そのことがアヒメレクとその家族、そしてノブの町にどのような結果を生じるのかということを考える余裕がありませんでした。そして、そのためにノブの町は全滅させられてしまったのです(22章19節)。難を逃れることが出来たのは、アヒメレクの子アビアタルただ一人だけでした(同20節)。

 ですから、今このケイラの町に、ノブの町の二の舞をさせるわけにはいかないということを、ダビデはしっかりと肝に銘じていたのだと思います。そのときダビデは、何の見返りも求めなずにケイラを去りました。そんな潔いダビデのもとには、彼を慕ってくる者がさらに加えられて、合計600名の集団になりました(13節、22章2節参照)。

 主なる神は、ご自分に信頼し、御言葉に従って行動するダビデを顧み、その旅路を守られます。14節に「サウルは絶え間なくダビデをねらったが、神は彼をサウルの手に渡されなかった」とあるように、ダビデの知恵や素早さなどではなく、主が守っておられるからこそ、逃避行を続けることができるのです。

 死海西方、ユダ山地のジフの荒れ野ホレシャに身を隠しているとき、サウルの息子ヨナタンがダビデのもとに来ました(15節)。ホレシャは、ヘブロンの南10㎞ほどのところにある「樹木の茂った丘」という名がつけられた要害です。

 サウル王が必死にダビデを探していながら、容易に見つけることが出来ないのに、その子ヨナタンはいつでもダビデと意思疎通が可能になるというのは、どういうことでしょうか。それと明言されてはいませんが、主がヨナタンをダビデのもとに導かれたのでしょう。

 それはしかし、命がけの行動です。ヨナタンがダビデと会ったことが分かれば、父サウルからどんな目に遭わされることになるか、分かったものではありません。そのように命がけでダビデを訪ねたのは、冒頭の言葉(16節)のとおり、ダビデを励ますためでした。

 ヨナタンはここで、「神に頼るようにとダビデを励まし」ました。彼は、父サウルが、無二の親友であり、かつ妹ミカルの婿であるダビデを、亡き者にしようと必死になっている様子を、そばでずっと見て来ました。

 そして、サウルから逃げている身の上のダビデが、ケイラをペリシテの手から救ったというニュースを耳にしたのだと思います。そして、イスラエルのために行動しているダビデを殺すために、サウルが兵を召集するのを見たことでしょう。ここに、どちらがイスラエルの王としてふさわしい者か、既に答えは出ていると言わざるを得ません。

 ヨナタンは、「恐れることはない。父サウルの手があなたに及ぶことはない。イスラエルの王となるのはあなただ」(17節)と語ります。聖書中では、これがダビデにとって、ヨナタンの遺言となりました。この後、ダビデはもうヨナタンの顔を見ることはありません。次にヨナタンが登場するのは、31章の箇所ですが、それは、ヨナタンの死を報告する記事です。

 主の御旨を尋ね、その御言葉に従って行動しているダビデにとって、最も信頼出来る親友ヨナタンの励ましが、どんなに力強く彼に心に響いたことでしょうか。命がけで自分を励ましに来てくれた親友が、「神に頼れ」というのです。ダビデは、はっきりと信仰に立つことを学びました。

 ダビデは完璧な人間ではありません。失敗など決してしないという人間ではありません。同じ過ちを繰り返す、私たちと同じ人間です。しかし彼は、自分の過ちが指摘され、自分の失敗に気づくと、素直に自分の非を認め、悔い改めをする人間でした。反省に留まらず、神を仰ぎ、神に聴き従う人間でした。

 神は、その御名のゆえに私たちを救い、御手をもって私たちを守ってくださいます(詩編54編3節)。主を愛し、信じて祈る者のためには、万事を益としてくださいます。人に出来ないことも神には出来ると信じ、主に依り頼んで参りましょう。

 主よ、あなたはケイラの人々の裏切りで傷ついたダビデのもとにヨナタンを遣わし、神に頼るようにと励まされました。絶えずあなたに目を留めて、どんな困難も乗り越えることが出来ますように。困難を感謝に、賛美に変えてくださる主を仰ぎ、御言葉に耳を傾けます。弱い私たちを助けてください。神の御子、主イエスが私たちのところに来られ、命をもって救いの道を開いてくださったことを、心から感謝いたします。 アーメン 

 



3月27日(火) サムエル記上22章

「わたしのもとにとどまっていなさい。恐れることはない。わたしの命をねらう者はあなたの命をもねらう。わたしのもとにいれば、あなたは安全だ。」 サムエル記上22章23節 

 サウルを恐れて逃避行を続けているダビデですが、彼のもとに人が集まり始めました。

 先ず、ダビデがアドラムの洞窟に難を避けていることを聞いた兄弟や父の家の者が皆、ベツレヘムから下って来ました(1節)。ダビデがサウル王から命を狙われているということは、兄弟や家族、親族にとっても大きな脅威だったことでしょう。実際に、彼らにもサウルの手が伸びていたのかも知れません。

 続いて、「困窮している者、夫妻のある者、不満を持つ者」(2節)が集まって来ました。サウルのもとでは力を発揮することが出来なかった者、役に立たなかった者が、ダビデのもとで整えられ、やがて大きな戦力となっていきます。その数は、既に400人にもなりました。

 そして、ダビデは両親をモアブの王に託します(3節)。おそらく、ダビデの両親は年老いていたので、ダビデと共にサウルを避けて荒れ野を旅するのは困難なことだったと考えられます。また、サウルの兵と戦いを交えることになれば、表現が適切でないと思いますが、ダビデの両親が足手まといになってしまうでしょう。

 両親をモアブの王に託したということは、そのとき、モアブの王とダビデの間には、友好的な関係が築かれていたわけです。モアブは、ダビデの曾祖母ルツの故郷ですし(ルツ記1章4節、4章17節)、そもそも、モアブは、イスラエルの父祖アブラハムの甥ロトの子孫です(創世記19章37節)。

  ところが、ダビデは王となった後、モアブを征服して多くのモアブ人を処刑し、モアブを属国としました(サムエル記下8章2節)。モアブに対するダビデのこの態度の変化について、モアブ王に託したダビデの両親が殺害されたためだったと、ユダヤ教の伝説は伝えています。

 話をもとに戻して、アドラムの洞窟にいたダビデのところに預言者ガドがやって来て、「要害にとどまらず、ユダの地に出て行きなさい」(5節)と指示を与えます。預言者を通して、主の助言が与えられているわけです。ダビデは、その指示に従って、すぐに行動を起こし、ハレトの森に移って行きました。それは、アドラムから南東に数kmという「ユダの地」にあります。

 その後、祭司アヒメレクの息子アビアタルが、ダビデのもとに逃れて来ます(20節)。アヒメレクとその父アヒトブの家の者たち、「亜麻布のエフォドを身に着けた者」、即ち祭司が「85人」(18節)、無実の罪でサウルに殺され(11節以下)、祭司の町ノブの住民も家畜も、皆殺しにされました(19節)。アビアタルがただ一人、逃れることが出来たのです。

 その悲劇の原因は、ダビデがその種を播いたのですが(21章参照)、しかし、ただダビデに利することをしたというだけで、祭司たちを打たせたサウルの非道ぶりが示されます。だから、それを家臣に命じたとき、だれもそれに従おうとしませんでした(17節)。エドム人ドエグが祭司たちに手をかけたのです(18節)。

 おのが非を認めたダビデは(22節)、冒頭の言葉(23節)にある通り、アビアタルの保護を約束します。王としての役割を離れて権力を私し、その座にしがみつこうとしているサウルとは違い、ダビデは自分の責任を果たそうというのです。

 一方、サウル王は、主なる神の命に背いたため、先ず預言者サムエルが離れました(15章35節)。そして、ダビデが油注がれた結果、主の霊がサウルを離れます(16章14節)。そして、誰よりも勇敢に戦って武勲を立て、名声を得た家臣ダビデを妬み、殺そうとしたので(18章30節)、当然のことながら、ダビデとその家の者が離れて行きました。

 その上、サウル王の息子ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛して契約を結び(18章3節)、ダビデの妻となったサウル王の娘ミカルもダビデを愛していたので、王の命に背いてダビデを逃がしました(19章11節以下)。

 そして、ダビデに味方してサウルに刃向かわせたというかどで、祭司一族とその町の者を皆殺しにします(13,16,18節)。そのようなことをして、主なる神を味方に付けることは出来ません。主に敵対しながら、今後、外敵に対してどのように立ち向かうつもりなのでしょう。

 こうして、サウルが王座にしがみつこうと躍起になればなるほど、主に背いてそこから退けられ、人心も離れるという結果を招いていきます。サウルに不満を持つ者がダビデのもとに身を寄せるようになるのも、主の霊が彼のもとを去り、神の恵みを失ってしまっているからです。これが、「他のすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください」(8章5節)と民の求めた結果です。

 しかるに、サウル王が失ったものを、ダビデが集めるようになっていきます。主がダビデと共におられ、神の国イスラエルを立て直そうとしておられるのです。そこに神の癒しがあり、救いがあります。

 ダビデがアビアタルに、「わたしのもとにいれば、あなたは安全だ」(23節)と言っていますが、逃避行中のダビデがここでアビアタルの安全を保証出来るのは、勿論ダビデ自身の力などではありません。主なる神がダビデと共におられるからです。

 主の御言葉に背いたサウルから主の霊が去ったように、主を信頼し、その御言葉に従おうとしないなら、道端に落ちた種を鳥が来て食べたごとく(マルコ4章4,15節)、私たちも恵みを失うでしょう。私たちと共に働いて、万事が益となるようにしてくださる主を仰ぎ、信じて御言葉に耳を傾けましょう。

 主よ、私たちは心を確かにして、あなたに賛美の歌を歌います。あなたの慈しみは大きく、天に満ち、あなたのまことは大きく、雲を覆います。このイースターに、主なる神よ、天の上に高くいまし、栄光を全地に輝かせてください。地の上には、キリストの平和が豊かにありますように。 アーメン






静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に3月25日主日礼拝の礼拝プログラムと説教動画(YouTube)を掲載しました。

②「今週の報告」を更新しました。

③「お知らせ」は随時更新しています。

④「今日の御言葉」は毎日更新しています。



御覧ください。


3月26日(月) サムエル記上21章

「ダビデは更にアヒメレクに求めた。『ここに、あなたの手もとに、槍か剣がありますか。王の用件が急なことだったので、自分の剣も武器も取ってくることができなかったのです』。」 サムエル記上21章9節

 ヨナタンを通してサウル王の殺意を確認したダビデは、ヨナタンと別れて逃避行を始め(20章33,42節)、最初にノブの町を訪ねました(2節)。ノブは、エルサレムの北にあったベニヤミンの町で、サウルの時代、祭司アヒメレクのいる幕屋が置かれていました。

 アヒメレクの父アヒトブ(22章9節参照)は、サウルに仕えていた祭司アヒヤの父でもあり、シロで主の祭司を務めたエリの孫にあたります(14章3節参照)。もしかすると、アヒヤとアヒメレクは同一人物なのかも知れません。

 ダビデがノブの町にアヒメレクを訪ねたのは、あるいは避難所を求めてのことだったのではないかと思われますが、アヒメレクの「不安」(2節)に示されているように、それは適わないことでした。というのも、そこにサウルの家臣の一人でドエグというエドム人がいたからです(8節)。

 ダビデは、サウルの密命を帯びて行動しているとアヒメレクに告げ(3節)、彼に食べ物を求めました(4節)。逃避行を続けていて、空腹になっていたわけです。そこには、通常祭司以外の者が食べることは許されない、神への献げ物として聖別されたパンしかありませんでした(5節)。けれども、空腹を抱えているダビデの求めに応じて、アヒメレクはそれを与えました(7節)。

 ファリサイ派の人々との安息日を巡る論争のときに、主イエスがこのダビデの行為を取り上げて、「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか」(マルコ2章25節)といって語っています(同26節も参照)。

 それから、冒頭の言葉(9節)にあるとおり、ダビデはアヒメレクに剣や槍などの武器を求めます。すると、なんとそこに、ペリシテ人ゴリアトの剣が保管されていました(10節)。ダビデはそれを喜んで受け取りました。

 こうして、食べ物と武器を手に入れることが出来、力づけられていざ出発というところですが、しかし、このことは後に大きな傷となりました。というのは、上述のとおり、サウルの家臣の一人が、ノブの聖所に留められていたのです(8節)。「主の御前に留められていた」ということは、必要があって宗教的な儀式に参加していたということでしょう。

 そこに、ダビデがやって来て、祭司アヒメレクとやりとりしている話が、耳に入ったのでしょう。ドエグが、それをサウルに告げ口をしたため、アヒメレク一族をはじめ多くの祭司たち、ノブの町の住民が皆、家畜も含めて剣で撃たれることになりました(22章9節以下、18,19節)。

 ダビデはドエグの存在に気づいていましたが(8節、22章22節)、自分がサウルを避けて逃げていることを悟られないように、巧みに嘘をついて、その場を繕いました。そのときのダビデは、自分のことで精一杯で、アヒメレクや他の人のことまで考えている余裕がなかったのです。

 実際、ダビデはゴリアトと戦ったときに見せた信仰を忘れてしまっているかのようです。かつて、「わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにして見せましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから」(17章36節)と言い、そして「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされない」(同47節)と語っています。

 少年のときのダビデは、神がゴリアトの手から自分を必ず守ってくださると信じて疑わなかったのです。しかるに、そのダビデが、祭司アヒメレクを訪ねて、神の加護を求めて執り成しの祈りを要請したとか、どの道に進むべきか神の託宣を求めたというのではありません。お腹を満たすためのパンだけでなく、身を守るための武器を求めたのです。

 これは、神の守り、助けよりも、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」(12節、18章7節)と歌われた自分の腕を信じているということになるでしょう。ペリシテに対して連戦連勝するうちに、あるいは危険な逃避行を続けていく中で、サウルに対する恐れから、少年の日の信仰が大きく後退してしまったのです。

 ダビデといえども、自分の力で主に対する信仰を保持し続けることは出来ませんでした。信仰は、日毎の主との交わりを通して養われていくものであるということを、改めて教えられます。

 この後、ダビデは隣国ペリシテに逃れ、ガトの王アキシュの下に身を寄せようとしますが(11節)、自分のことがガトの人々に知られていることが分かり(12節)、気が狂ったような振る舞いをしてそこから逃れ出ました(14節以下)。およそ、かつてのダビデ少年ではありません。そんなダビデが敵の手から守られたのは、ただ神の愛であり、憐れみなのです。

 恐れや不安、心配があるならば、それを主に訴え、主の守りを求めましょう。苦しみがあるなら、癒しと解放を求めましょう。困難があるなら、主の導きを待ちましょう(ヤコブ書5章13節以下参照)。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7章7節)のです。

 主は、求める私たちに聖霊、即ち主なる神ご自身をお与えくださいます(ルカ11章13節)。主イエスが「インマヌエル(神は我々と共におられるの意)」(マタイ1章23節)と呼ばれるお方であったのと同様、聖霊は絶えず私たちと共に、私たちの内にいて、私たちを力づけてくださいます(ヨハネ14章16,17節)。

 そして、私たちには聖書が与えられています。いつでも、神の御言葉を頂くことが出来ます。年度末を迎え、新年度を始めようとしているこの時から、忠実に聖書日課に従って御言葉を聴き、主の御前に感謝をもって祈りと願いをささげましょう。そのとき、主の平安が、私たちの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださるのです。

 主よ、御言葉を感謝します。あなたは、永遠の命の言葉を持っておられます。日々、命の言葉を聴かせてください。いつも御言葉の光の中を歩ませてください。あなたから離れては、実を結ぶ人生を歩むことが出来ないからです。御名が崇められますように。御国が来ますように。御心がこの地に行われますように。 アーメン




 

3月25日(日) サムエル記上20章

「エッサイの子がこの地上に生きている限り、お前もお前の王権も確かではないのだ。すぐに人をやってダビデを捕らえて来させよ。彼は死なねばならない。」 サムエル記上20章31節

 サウルに追われてラマを逃げ出したダビデは、サウル王の息子ヨナタンのもとに来て、サウル王が自分の命を狙う理由を尋ねます(1節)。ヨナタンは、そのようなことはさせはしないと請け合いますが(2節)、ダビデはヨナタンに、新月祭の席を欠席して、サウルがそれを認めるか激怒するかで、サウルの真意を探るよう求めます(5節以下)。

 8節で、ダビデの方から「主の御前で契約を結んでくださったのですから、僕に慈しみを示してください」と持ちかけているところから、18章3節の契約以来、両者が対等の立ち場でいることが伺えます。ヨナタンは実行を約束した後(11節以下)、ダビデと契約を結び(16節)、サウルの真意を知った後の連絡の仕方を打ち合わせます(18節以下)。

 新月祭が来て、食事の席に来ないダビデに激怒したサウル王は、息子ヨナタンにダビデを捕らえ、殺すように命じます(30,31節)。ヨナタンがその理由を質すと(32節)、サウルはヨナタンをも殺そうと槍を投げつけます。

 サウルは、預言者サムエルの前で神の霊に満たされて預言する状態になり(19章23節)、自分の真の姿を見せつけられていたのですが(同24節)、結局、真の悔い改めにまでは至らなかったわけです。

 父サウルがダビデに対して殺意を抱いていることを知ったヨナタンは(33節)、翌朝ダビデと取り決めた時刻に若い従者を連れて野に出、打ち合わせどおりに行動しました(35節以下)。そして、ヨナタンが従者を帰すと(40節)、隠れていた場所からダビデが現れ、互いに別れの挨拶を交わします(41,42節)。ヨナタンは、出来ることならダビデと同行したかったことでしょう。

 ところで、冒頭の言葉(31節)の、ヨナタンの王権は確かではないというサウルの分析は、間違ってはいません。けれどもそれは、ダビデが生きているからではありません。第一、ダビデはヨナタンの王権を狙ってなどいません。

 そもそも、サウルが王位から退けられることになったのは、彼が神の御言葉に耳を傾け、忠実に従おうとしなかったからであり、今もなお、それを悔い改めようとしないからです。彼がそのようだから王位から退けられ、代わってダビデが王としての油注ぎを受けることになったのです。

 つまり、サウルが主に聴き従わない限り、首尾よくダビデを殺すことが出来たとしても、第二のダビデ、第三のダビデが登場して来ます。それは、主ご自身がサウルを王位から退けられることに決めておられ、サウルに代わる新たな王を選ばれているからです。そして、ダビデを新しい王として油注がれたのは主なる神ですから、人がそれを取り消すことは出来ないのです(15章29節)。

 また、神がサウルを王位から退けれらることは、既にサムエルによって語られており(同23,28節)、サウルも承知しているはずです。それをなお、ダビデの所為にするところがサウルの罪であり、今日でも、権力の座に着いた者がしばしば露呈する人間の弱さ、愚かさでしょう。

 既に、サウルを王位から退ける決定がなされ、サウルに代わる新たな王としてダビデに油が注がれましたが、状況が変化する兆しもありません。神は、サウルが御前に謙り、悔い改めて帰って来るのをひたすら待っておられたのではないでしょうか。ところが、サウルは自分が御言葉に聴き従おうとしないだけでなく、神に油注がれた者に手をかけようとしているのですから、処置なしです。

 一方、父サウルから、ダビデが生きている限り王権を脅かされていると言われた息子ヨナタンは、ダビデを自分自身のように愛し、ダビデのために行動します。「ダビデとヨナタンの間には何があるか」と問われて、「『と』があった」と、どこかの牧師がジョークを飛ばしていましたが、上述の通り、二人の間には、真実な契約が結ばれています。立ち場を超えて、二人に間には真実の愛があったのです。

 ダビデを王として選ばれたのが神の憐れみであれば、ヨナタンがダビデを愛するように仕向けられたのも、神の導き、恵みでしょう。神は、様々な手段、方法、そして人を用いて、ダビデをイスラエルの王として守り育て、導いておられるのです。だから、ダビデはサウルを主に油注がれた者として敬い、その命を奪うことが出来る状況になったときにも、サウルに手をかけようとはしなかったのです。

 神は祝福する者を祝福され、呪う者は呪われます(ルカ6章35節以下、38節、創世記12章3節)。主を仰いで主の御言葉を聴き、上からの恵みと平安で心を満たしていただきましょう。主の御愛を心いっぱいいただいて、互いに愛し合う者としていただきましょう。ダビデとヨナタンのように。

 主よ、今私たちを聖霊に満たし、キリストの御言葉が心に豊かに宿るようにしてください。絶えず感謝と賛美の生贄を、人としてこの世においでくださり、贖いの御業を成し遂げてくださった御子イエスの御前に献げることが出来ますように。そして、このイースターの良いときに、隣人に主の愛と恵みを証しすることが出来ますように。 アーメン

 






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