2018年03月
3月30日(金)①10時~、②19時~、主イエスが十字架にかけられ、殺されて墓に葬られたのを記念して、受難日礼拝を行います。
礼拝では、ゼカリヤ書11章4~17節より「血の代金」と題して、原田牧師の説教を聴きます。
「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ。」 サムエル記上24章7節
ダビデとその一行は、エン・ゲディの要害に隠れ家を移しました(1節)。エン・ゲディとは、「小山羊の泉」という意味で、死海西岸に広がるユダの荒れ野のほぼ中央に位置するオアシスです。その名のとおり、付近の岩山には野生の山羊が生息しています。
ダビデがエン・ゲディに隠れているという情報が、ペリシテとの戦いから帰って来たサウル王にもたらされます(2節)。ケイラといい(23章12節)、ジフといい(同19節以下)、そしてこのエン・ゲディといい、これらの地はすべて、ダビデと同じユダ族が支配しているところです。
ところが、彼らが同族のダビデをかくまい、保護するどころか、むしろ積極的にサウルに情報を提供するのは、やはり、あのノブの地の二の舞にだけはなりたくないという思いがあるのでしょう。王を敵に回すわけにはいかないと考えているわけです。あるいは、一時期にでもダビデがサウルに重く用いられたのを、ユダの人々は快く思っていなかったのかも知れません。
サウルは、イスラエル全軍から三千人を選りすぐり、ダビデ討伐軍を結成します(3節)。ダビデを追ってエン・ゲディの荒れ野にやってきたサウル王は、一つの洞窟を見つけて、そこで用を足します(4節)。ところがなんと、その洞窟の奥にはダビデたちが隠れていたのです。そんなことがあるんですね。
ダビデを捜索するのに、三千の兵を先頭に洞窟に入って来ていれば、洞窟の奥に隠れているダビデたちには、逃げ場はありませんでした。実際、用をたす前に洞窟内の安全を確かめるということも出来たでしょう。けれども、何故か、そうはしませんでした。
そして、エン・ゲディの荒れ野には無数の洞窟があるのに、どうしてサウルはよりによって、ダビデたちの隠れていた洞窟にやって来たのでしょうか。ダビデと共にいた兵たちがダビデに、「主があなたに、『あなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよい』と言われたのは、この時のことです」(5節)と進言しています。
即ち、これは決して偶然ではなく、神がそのようになさったということでしょう。確かに神は、このときダビデの手にサウルの命を委ねられたのです。だから、兵の進言どおり、サウルの命を奪い、自らの手でその後のイスラエルの歴史を書き換えることも出来たのですが、しかし、ダビデはその道を選びませんでした。
冒頭の言葉(7節)の通り、「主が油を注がれた方」、即ち、神からその王位を授けられたサウルに手をかけることはしない。これがダビデの出した結論でした。自分が手を下さないだけでなく、共にいる者たちをも説得して、サウルを襲うことを許しませんでした(8節)。サウルを王として立てた主の御手に、サウルを委ねたのです。
もしも、サウルとダビデの立場が逆であれば、サウルは間違いなくダビデを捕らえ、殺したでしょう。勿論、ダビデに迷いがなかったとは思いません。ダビデはサウルの上着の端をこっそりと切り取りました(5節)。上着の一部を切り取るという行為は、自分がいつでもサウルに手をかけることが出来るという徴です。
そのことは、15章27節以下との関連で、やがてサウルの王位を奪い取りたいというダビデ自身の願望をも表しているようです。6節でダビデがその行為を後悔したというのは、内なる欲求のままに行動してしまったからと考えられます。
ただ、ダビデがそのように行動しなければ、彼と共にいる兵士たちが、自分たちの逃避行を終わらせるために、殺気だってサウルに迫り、手を下してしまうかも知れませんでした。兵士が「この時」といった言葉に応じて行動することで、彼らの機先を制し、サウルに手をかけさせず、彼を守ろうとしていたのかも知れません。
それでも、油注がれた方に手をかけるような真似をしたことを後悔して、上述の通り、自分が手を下さないだけでなく、兵士たちにもそうすることを禁じたのです(7節)。ダビデは、自分がよいと思ったとおりに行動するのではなく、主の御心に適う道を歩もうとしていました(13章14節、16章7節参照)。
洞窟を出たサウル王を追ってダビデも洞窟を出て、王に呼ばわります(9節以下)。そして、こっそり切り取ったサウルの上着の切れ端を見せながら(5,12節)、自分にはサウルに手をかける意志は全くないことを説明します。
そのようなダビデのとった行動、特に、自分を「王」と呼び(9,15節)、「油注がれた方」として重んじているというダビデの心根に触れたサウルは(11,12節参照)、声を上げて泣き(17節)、「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお目に悪意をもって対した」(18節)と言います。
その涙は、ダビデの心根に触れ、その善意に対して感動すると共に、悪意をもって対して来た自分自身の振る舞いに対して後悔の思いを明らかにしています。それゆえに、「今日のお前のふるまいに対して、主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう」(20節)と告げます。
サウルも、主がダビデと共におられ、彼に恵みを与えられると認めざるを得なかったのです。かつて、「しようと思うことは何でもしなさい。神があなたと共におられるのです」(10章7節)とサムエルから言われていたサウルですが、主の命を蔑ろにした結果(15章19,23節)、主の霊が彼を離れ(16章14節)、恵みを失ってしまったのです。
そして、「今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される」(21節)と語ります。これは、ヨナタンが「イスラエルの王はあなただ。わたしはあなたの次に立つ者となるだろう。父サウルも、そうなることを知っている」(23章17節)と報告していたことですが、ここにサウルの口から、ダビデが王となるという言葉が語られました。
それは、このときサウルが、「今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人をご自分の民の指導者として立てられる。主がお命じになったことをあなたが守らなかったからだ」(13章14節)というサムエルの預言を受け入れたということでしょう。
サウルはダビデに、「わたしの子孫を断つことなく、わたしの名を父の家から消し去ることはない」(22節)と誓わせて、自分の館に帰って行きます(23節)。その誓いは、先にヨナタンに対してなしたことで(20章14,15節)、それをサウルにも行っただけのことです。
特に、彼はサウルの王冠をもらうことも、王位を約束させるようなこともしませんでした。それはまだ、彼の手に与えられません。ゆえに、サウルと同行せず、エン・ゲディに留まり、主が恵みをもって報いてくださることを待つのです(20節)。
主が喜ばれるのは、主の御声に聴き従うことです(15章22節)。ダビデはそのようにして、主の恵みに与ろうとしています。私たちも主の御言葉に耳を傾け、その御心に適う道を歩みましょう。
主よ、ダビデはサウルを、主に油注がれた方と呼んで、手を下すことを恐れました。そこに、ダビデが主を畏れる信仰が如実に示されます。私たちも主を畏れて御言葉に耳を傾け、一切を主に委ねて、与えられた使命に日々励むことが出来ますように。そのとき、主はすべてを益としてくださることを信じます。 アーメン
3月25日(日)~31日(土)は受難週、その内、30日(土)が主イエスが十字架につけられて殺された受難日です。そして、次週4月1日(日)は主イエスの復活を記念するイースターです。
受難週は、毎朝6時半から各自で聖書を読み、祈る早天同時刻祈祷を行います。
そして30日(金)に受難日礼拝、4月1日(日)にイースター礼拝、祝会を行います。
イースー礼拝案内を御覧くださり、ぜひお出かけください。
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