「イスラエルの人々は皆、そのすべての軍団と共にベテルに上って行き、主の御前に座り込んで泣いた。その日、彼らは夕方まで断食し、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物を主の御前にささげた。」 士師記20章26節
レビ人の送りつけたものに対して全イスラエルは鋭く反応し、ミツパに集結しました(1節)。「一団となって一人の人のようになり」というところにその驚きぶりが窺えます。それで、その後の対応が全く一様であったということです。
「ミツパ」とは、見張所、物見櫓という意味で、イスラエルの各所にその名で呼ばれるところがあります。ここに記されているのは、ベニヤミンの嗣業の地にある町のことでしょう(ヨシュア記18章26節)。ギブアで何があったのかを知ろうとして、皆がそこに集まって来たのです。
レビ人がイスラエルの人々に事の次第を説明しますが(3節以下)、5節の説明は、19章22節以下に物語られている状況とは違うように思われます。彼らを襲ったのは「町のならず者」で「ギブアの首長たち」ではなかったし、「殺そうとし」たわけでもありません。そして「側女」はレビ人が彼らに差し出したものであることが説明されていません。
その説明を聞いてすべての民が立ち上がり、イスラエルの中で行われた非道を制裁することに決し(8~10節)、ベニヤミンに対し、ギブアで犯行に及んだ者を引き渡すように求めます(12,13節)。ところが、ベニヤミンの人々は引渡しに応じないだけでなく、ギブアに集結して、イスラエルの人々と戦うために出て来たのです(13,14節)。
そこで、イスラエルの部隊はベニヤミンに制裁を加えるため、主の託宣を受けようとベテルに上ります。「我々のうち誰が最初に上って行ってベニヤミンと戦うべきでしょうか」と尋ねると、「ユダが最初だ」という主の答えがありました(18節)。そこでギブアに攻め上りましたが、返り討ちに遭って2万2千人が打ち倒されました(21節)。
しかし、態勢を立て直してもう一度主の前に出、「兄弟ベニヤミンと、再び戦いを交えねばなりませんか」と問うと、「彼らに向かって攻め上れ」という答えです(23節)。再び出陣しましたが(24節)、またも1万8千人の死者を出しました(25節)。主の託宣を求め、敵を圧倒する軍勢を送り込んでいるのに、4万もの犠牲者を出したのです。いったい、どうなっているのでしょうか。
最初の問いに対する「ユダが最初だ」というのは、1章1,2節のカナン人に対する戦いのときと同じです。しかし、ここでは同胞のベニヤミン人との戦いです。それを主が望まれたのでしょうか。自分の目に正しいとすることを行って来たイスラエルの民に、主が御心を示されたというより、彼らが主に自分たちの願いを是認するよう求めて、主がそれを許容されたという流れではないでしょうか。
思わぬ結果を受けてイスラエルの民のとった行動が、冒頭の言葉(26節)に記されています。彼らはベテルに上り、主の御前で泣きました。あまりにも多くの犠牲が出たからです。
イスラエルの中に起こった事件で、その悪を取り除こうとしているのに、悪に悪が重なるように犠牲が増えていくという、耐えられない状況でした。親や伴侶、子どもが犠牲になったとすれば、どんなに悲しいことでしょうか。誰も笑ってなどいられなかったのです。
そして、夕方まで断食しました。イスラエルの民がその日一日断食したのは、あまりの悲しみのために食事をするにならなかったというのが真相かもしれませんが、断食するのは、祈るためです。命を懸けて主と対話するという姿勢です。祈らずにおれなかったでしょう。
それから、イスラエルの民は、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげました。これまで、主に背いてその目に悪とされることを行って来た民が、同族同士の戦いで多くの犠牲を出し、主の前に出るほかはなかったのです。
ベテルは、かつてイスラエルの父祖ヤコブが孤独な逃避行の中で神と出会った場所、そして、神の前に祭壇を築いた場所です(創世記28章、35章)。ベテルとは、「神の家」という意味です。荒れ野で神と出会った、ここにも神がおられたという信仰の表明です。
士師記の時代には、ベテルに神の契約の箱が置かれ、祭司ピネハスが御前で仕えていたと記されていますが(28節)、イスラエルの人々は長らく、それぞれが自分の目に正しいと見えることを勝手に行っていて(17章6節)、神に祈り、御旨に聴き従うということをしていなかったから、ここでもう一度神と出会おうとしたということなのでしょう。
それから、イスラエルの民はあらためて、出陣すべきか否かを主に尋ねました。すると主は「攻め上れ。明日、わたしは彼らをあなたの手に渡す」(28節)と告げられました。そして、その通り、ベニヤミンをうち負かすことが出来ました。
ベニヤミンの打ち滅ぼされた兵が2万5千1百人に上ったということは(35節)、ギブアに馳せ参じた兵士が2万6千、ギブアの選りすぐりが7百、合わせて2万6千7百だったので(15節)、残りは1千6百という壊滅の状態です。その内、6百人は荒れ野のリモンの岩場に逃げて、4ヶ月そこに留まっていました(47節)。
イスラエル人はベニヤミンの町の男たちから家畜まで、見つけ次第、残らず剣で撃ち、すべての町に火を放ちました(48節)。ベニヤミン族の全滅を図っていたわけです。これを勝利と呼ぶのでしょうか。主は、イスラエルの民の祈りに応えて、この勝利を賜ったというのでしょうか。
むしろ、主の目に悪とされることを行い続け、自分の目に正しいとすることを行っていた彼らが、一人の女性が暴行されたことをきっかけに、全部族的内戦状態になって、6万5千人もの犠牲者を出したということ、それにより、12部族の内の一部族が消滅の危機に陥っているということです。
イスラエルの人々が泣かなければならないのは、犠牲の大きさもさることながら、自分たちの主に対する罪、不従順がこのような結果を招いてしまったということではないでしょうか。そして、誰もその償いをすることは出来ないということです。
そこに、泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜び給う主がおられ(ローマ書12章15節、ヨハネ福音書11章33~36節)、彼らがその涙をぬぐうときをお与えくださるのです(イザヤ書25章8節、エレミヤ書31章16節、黙示録21章4節)。
主の御前に謙り、御言葉に日々耳を傾けましょう。聖霊の満たしと導きを願い求め、その力に与りましょう。御心をわきまえ、主の御業に励む者とならせていただきましょう。
主よ、私たちに憐れみと祈りの霊を注いでください。真の悔い改めに導いてください。主の命に与り、清められ、癒され、救われ、平安になり、何より主との深く豊かな交わりに与るためです。御言葉と御霊の導きに喜びをもって素直に聴き従うことにより、御心がこの地になりますように。 アーメン