「彼らがゲゼルに住むカナン人を追い出さなかったので、カナン人はエフライムと共にそこに住んで今日に至っている。」 ヨシュア記16章10節
16~17章には、ヨセフの一族に割り当てられた領土について記されています。ヨセフには、マナセとエフライムという二人の子があり、それぞれ部族の長となりました。ヨセフ族が分かれて二つの部族となったということです(14章4節)。
別の見方をすれば、ヨセフは他の兄弟の2倍の嗣業の地を受けることになったわけで、そのことにおいて、イスラエルの長子としての権利を所持していたということになります(申命記21章15節以下参照)。
イスラエルの子孫のうちで、レビ族は嗣業の土地をもらえませんでした(13章14節)。レビの代わりに、ヨセフの子らがそれぞれ、一部族となったので、合計12部族という数は保持された形です(14章3,4節)。
また、シメオン族はユダの地に17の町と周囲の村々を与えられただけでした(19章2節以下)。12分割された土地の三つ分を、ヨセフの子孫が獲得することになりました(マナセがヨルダン川の東西に一つずつ、エフライムにも一つ)。ヨセフの子孫がそのような恵みを受けたのも、ヤコブの祝福の祈りのゆえでしょう(創世記49章22~26節)。
レビとシメオンが嗣業の地を得られなかったのは、やはりヤコブの祈りの中で、シメオンとレビに関して、「彼らの剣は暴力の道具」(同49章5節)といい、「呪われよ、彼らの怒りは激しく、憤りは甚だしいゆえに。わたしは彼らをヤコブの間に分け、イスラエルの間に散らす」(同7節)と言われていたからでしょう。
また、約束の地においては、弟エフライムが兄マナセよりも先に嗣業の土地を受けています(4節以下、17章1節以下)。イスラエルでは、長男に父親の資産を受け継ぐ大きな特権がありますが、ヤコブはヨセフの二人の子どもを祝福するとき、弟エフライムを先立てて祝福していたのです(創世記48章)。
モーセの後継者としてイスラエルの指導者となったヌンの子ヨシュアは、ヤコブによって祝福されたヨセフの子、エフライム族の出身でした(民数記13章8,16節)。特別に祝福を受けた部族から指導者ヨシュアが出たというのは、記憶すべきことです(同27章15節以下、申命記31章1節以下、14節以下)。主の祝福を受けた者は、主のため人のために働くのです。
冒頭の言葉(10節)に「彼らがゲゼルに住むカナン人を追い出さなかったので、カナン人はエフライムと共にそこに住んで今日に至っている」とあります。何故、イスラエルの民は、ゲゼルに住むカナン人を追い出し、滅ぼしてしまうことが出来なかったのでしょうか。それは、カナン人が強かったからです。
17章16節に「カナン人は、皆、鉄の戦車を持っています」とあります。当時、ペリシテ人が製鉄技術を独占していました。王国時代になっても、イスラエルには鍛冶屋はなく、鋤や鍬などを研いでもらうために、ペリシテ人のところに行かなければなりませんでした(サムエル記上13章19節以下)。
だから、サウル王の軍で鉄の武器を手にしていたのは、サウル王とその子ヨナタンだけという状況だったのです(同22節)。約束の地に入ったばかりのイスラエルには、鉄の道具は全くなかったといってよいでしょう。そのような状況では、武装しているカナン人と戦うことは出来ません。特に戦車がその威力を発揮する平地において、強い敵に立ち向うことは出来なかったわけです。
だから、サウル王の軍で鉄の武器を手にしていたのは、サウル王とその子ヨナタンだけという状況だったのです(同22節)。約束の地に入ったばかりのイスラエルには、鉄の道具は全くなかったといってよいでしょう。そのような状況では、武装しているカナン人と戦うことは出来ません。特に戦車がその威力を発揮する平地において、強い敵に立ち向うことは出来なかったわけです。
そのことについて、私たちの信仰と悪しき力との関係で考えてみましょう。私たちは本来、神の子どもとして、神により、神のかたちに創られました。ところが、罪によって神との関係が絶たれ、罪の支配、悪の霊の支配を受けるようになりました。
しかるに、主イエスは、私たちを罪の力、悪しき霊の支配から解放し、救うために、私たちの罪を御自分の身に負われ、十字架にかかって死んでくださいました。のみならず、三日目に復活されました。罪と死の力に完全に勝利されたのです。
主は完全に勝利され、私たちの心の王座にお着きになったのですが、私たちの内に先住権を持っていた罪の力、悪しき霊の力が再度復権しようとして、様々な戦いを挑んで来ます。この戦いに決着をつけなければなりません。
偉大な伝道者パウロが「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7章24節)と言っています。自分のなすべきことは出来ず、したくないと思うことをしてしまう、罪の支配を受け、そのとりこになっていると言います。それを、自分ではどうすることも出来ないのです。だから、誰が救ってくれるのかと問うているのです。
しかし、パウロは自分を救ってくださる方を見出しました。同25節に「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と言います。即ち、主イエスが救ってくださるのです。私たちは、主イエスの憐れみによって、完全な救いを得ることが出来ます。
信仰は確かに戦いです。自分たちの現実の生活の中には、困難があります。でも、相手がどんなに強くても、私たちの味方となり、共に戦ってくださる神がどんなに強いお方であるかが分かれば(同8章31節)、勇気百倍です。私たちの神は、強く雄々しい主、雄々しく戦われる主(詩編24編8節)、万軍の主、栄光に輝く王(同10節)と呼ばれるお方なのです。
天地万物を創造された主なる神の御手にすべてを委ね、私たちを愛し、救ってくださる主に信頼する信仰に立ちましょう。御言葉に耳を傾け、御霊の導きに従って歩みましょう。
主よ、私たちは土の器に過ぎません。叩けば壊れ、落とせば割れてしまいます。しかし、私たちの内に宝なる主イエスがおられます。主イエスは、天と地の一切の権能を持っておられます。それが私たちの喜びです。平安です。希望です。私たちの内を聖霊で満たし、悪しき霊の働きを完全に追放してください。 アーメン