風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2018年01月

1月31日(水) ヨシュア記16章

「彼らがゲゼルに住むカナン人を追い出さなかったので、カナン人はエフライムと共にそこに住んで今日に至っている。」 ヨシュア記16章10節

 16~17章には、ヨセフの一族に割り当てられた領土について記されています。ヨセフには、マナセとエフライムという二人の子があり、それぞれ部族の長となりました。ヨセフ族が分かれて二つの部族となったということです(14章4節)。

 別の見方をすれば、ヨセフは他の兄弟の2倍の嗣業の地を受けることになったわけで、そのことにおいて、イスラエルの長子としての権利を所持していたということになります(申命記21章15節以下参照)。

 イスラエルの子孫のうちで、レビ族は嗣業の土地をもらえませんでした(13章14節)。レビの代わりに、ヨセフの子らがそれぞれ、一部族となったので、合計12部族という数は保持された形です(14章3,4節)。

 また、シメオン族はユダの地に17の町と周囲の村々を与えられただけでした(19章2節以下)。12分割された土地の三つ分を、ヨセフの子孫が獲得することになりました(マナセがヨルダン川の東西に一つずつ、エフライムにも一つ)。ヨセフの子孫がそのような恵みを受けたのも、ヤコブの祝福の祈りのゆえでしょう(創世記49章22~26節)。

 レビとシメオンが嗣業の地を得られなかったのは、やはりヤコブの祈りの中で、シメオンとレビに関して、「彼らの剣は暴力の道具」(同49章5節)といい、「呪われよ、彼らの怒りは激しく、憤りは甚だしいゆえに。わたしは彼らをヤコブの間に分け、イスラエルの間に散らす」(同7節)と言われていたからでしょう。 

 また、約束の地においては、弟エフライムが兄マナセよりも先に嗣業の土地を受けています(4節以下、17章1節以下)。イスラエルでは、長男に父親の資産を受け継ぐ大きな特権がありますが、ヤコブはヨセフの二人の子どもを祝福するとき、弟エフライムを先立てて祝福していたのです(創世記48章)。

 モーセの後継者としてイスラエルの指導者となったヌンの子ヨシュアは、ヤコブによって祝福されたヨセフの子、エフライム族の出身でした(民数記13章8,16節)。特別に祝福を受けた部族から指導者ヨシュアが出たというのは、記憶すべきことです(同27章15節以下、申命記31章1節以下、14節以下)。主の祝福を受けた者は、主のため人のために働くのです。

 冒頭の言葉(10節)に「彼らがゲゼルに住むカナン人を追い出さなかったので、カナン人はエフライムと共にそこに住んで今日に至っている」とあります。何故、イスラエルの民は、ゲゼルに住むカナン人を追い出し、滅ぼしてしまうことが出来なかったのでしょうか。それは、カナン人が強かったからです。

 17章16節に「カナン人は、皆、鉄の戦車を持っています」とあります。当時、ペリシテ人が製鉄技術を独占していました。王国時代になっても、イスラエルには鍛冶屋はなく、鋤や鍬などを研いでもらうために、ペリシテ人のところに行かなければなりませんでした(サムエル記上13章19節以下)。

 だから、サウル王の軍で鉄の武器を手にしていたのは、サウル王とその子ヨナタンだけという状況だったのです(同22節)。約束の地に入ったばかりのイスラエルには、鉄の道具は全くなかったといってよいでしょう。そのような状況では、武装しているカナン人と戦うことは出来ません。特に戦車がその威力を発揮する平地において、強い敵に立ち向うことは出来なかったわけです。

 そのことについて、私たちの信仰と悪しき力との関係で考えてみましょう。私たちは本来、神の子どもとして、神により、神のかたちに創られました。ところが、罪によって神との関係が絶たれ、罪の支配、悪の霊の支配を受けるようになりました。

 しかるに、主イエスは、私たちを罪の力、悪しき霊の支配から解放し、救うために、私たちの罪を御自分の身に負われ、十字架にかかって死んでくださいました。のみならず、三日目に復活されました。罪と死の力に完全に勝利されたのです。

 主は完全に勝利され、私たちの心の王座にお着きになったのですが、私たちの内に先住権を持っていた罪の力、悪しき霊の力が再度復権しようとして、様々な戦いを挑んで来ます。この戦いに決着をつけなければなりません。

 偉大な伝道者パウロが「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7章24節)と言っています。自分のなすべきことは出来ず、したくないと思うことをしてしまう、罪の支配を受け、そのとりこになっていると言います。それを、自分ではどうすることも出来ないのです。だから、誰が救ってくれるのかと問うているのです。

 しかし、パウロは自分を救ってくださる方を見出しました。同25節に「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と言います。即ち、主イエスが救ってくださるのです。私たちは、主イエスの憐れみによって、完全な救いを得ることが出来ます。

 信仰は確かに戦いです。自分たちの現実の生活の中には、困難があります。でも、相手がどんなに強くても、私たちの味方となり、共に戦ってくださる神がどんなに強いお方であるかが分かれば(同8章31節)、勇気百倍です。私たちの神は、強く雄々しい主、雄々しく戦われる主(詩編24編8節)、万軍の主、栄光に輝く王(同10節)と呼ばれるお方なのです。

 天地万物を創造された主なる神の御手にすべてを委ね、私たちを愛し、救ってくださる主に信頼する信仰に立ちましょう。御言葉に耳を傾け、御霊の導きに従って歩みましょう。

 主よ、私たちは土の器に過ぎません。叩けば壊れ、落とせば割れてしまいます。しかし、私たちの内に宝なる主イエスがおられます。主イエスは、天と地の一切の権能を持っておられます。それが私たちの喜びです。平安です。希望です。私たちの内を聖霊で満たし、悪しき霊の働きを完全に追放してください。 アーメン

 

静岡教会公式サイト更新

1月28日(日)主日礼拝には、教会員11名、来賓11名(子ども2名を含む)がお見えになりました。感謝です。



静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に1月28日主日礼拝の礼拝プログラムを掲載しました。動画は撮れませんでした。

②「今週の報告」を更新しました。

③「お知らせ」は随時更新しています。

④「今日の御言葉」は毎日更新しています。



御覧ください。

1月30日(火) ヨシュア記1章

「彼女は言った。『お祝いをください。わたしにネゲブの地をくださるなら、溜池も添えてください』。彼は上と下の溜池を娘に与えた。」 ヨシュア記15章19節

  15章には、ユダ族に与えられた地の範囲が記されています。それは、ヨルダン川が死海に注ぎ込む河口から西に地中海まで線を引き、その線の南方、死海と地中海に挟まれた地域が、ユダの嗣業の地です。南部は雨の少ない山地で、農耕にはあまり適しませんが、面積では、カナンの地の三分の一以上の大きさがあります。

 父祖ヤコブの4男ユダが活躍する場面はあまりありませんが、ルベンと共に、ヨセフの命を守ったことや(創世記37章21節以下)、ヨセフの弟ベニヤミンの命を請け負い(同43章8節以下)、ベニヤミンの身代わりになると訴えたこともありました(同44章18節以下)。

 ヤコブの長男ルベンの姦淫や(同35章22節)、次男シメオンと三男レビのシケムでの蛮行のゆえに(同34章)、ヤコブの覚え宜しく(同49章)、ユダの子孫が最も重要な部族となったと考えてよいのでしょう。

 13節に、ヨシュアがカレブにヘブロンを割り当て地として与えたことが記されています(14章13節も参照)。ヘブロンは、もとは「キルヤト・アルバ」と呼ばれていました(13節、14章15節)。これは、アナクの偉大な人物アルバに由来する名前(「アルバの町」の意)です。ヘブロンは、海抜1000mの丘陵地で、泉が多くあり、斜面はぶどうの名産地になっているそうです。

 アブラハムの時代は、ヘブロンにヘト人が住んでいて、妻サラを葬るために、ヘト人エフロンの畑と洞穴を墓地として購入したことが、創世記23章に記されていました。その後、この墓地には、アブラハム(同25章9,10節)、その子イサク(同35章節以下)と妻リベカ(同49章31節)、その子ヤコブ(同50章13節)と妻レア(同49章31節)が葬られました。

 カレブは、ヘブロンからアナク人の子孫シェシャイ、アヒマン、タルマイという3氏族を追い出し(14節)、次いで、デビルの町を攻めました(15節)。それを自分が攻め落とすというのではなく、攻め落とすことが出来た者に、自分の娘を妻として与えると約束します(16節)。

 すると、カレブの兄弟オトニエルが名乗りを上げ、町の占領を成し遂げました。そこで、カレブは娘アクサを妻としてオトニエルに与えました(17節)。

 アクサは夫となるオトニエルに、父から畑をもらえと言い、アクサ自身はカレブに冒頭の言葉(19節)の通り、溜池も添えてくれと願います。前述のとおり、イスラエル南部ネゲブの地はあまり耕作に適さない荒れ野ですから、水の確保は欠かせません。カレブはその求めに対して、「上と下の溜池を娘に与えた」と言われています。

 アクサは、父カレブが自分たちの求めに必ず応えると信じていたのでしょう。パウロは、「わたしの神は、御自分の栄光の冨に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」(フィリピ4章19節)と言いました。神は豊かなお方で、その豊かさに従って私たちに必要なものを豊かに満たしてくださるお方だと、教えてくれます。

 二つの池といえば、イスラエルの大きな湖のガリラヤ湖と死海を思い出します。ガリラヤ湖には多種多様な魚が群れており、ここで漁れた魚の一部は海外に輸出されるほどだそうです。ところが、ヨルダン川下流の死海には、魚が一匹もいません。

 ガリラヤ湖の水は、水源地フィリポ・カイザリヤから上ヨルダン川を通して流れ込んで来ます。そして、下ヨルダン川を通じて、死海に向かって流れ出して行きます。ところが、死海は海面下-396mで、その水は蒸発する以外、どこにも流れ出ていきませんので、塩分が濃縮してしまいます。塩分濃度が高すぎて、生物など生息出来る環境ではないのです。

 それはさながら、恵みを受けるだけで他者に分け与えなければ、その恵みは死んで、無駄になってしまうということを、見えるかたちで教えているようです。イスラエルの父祖アブラハムは、地上のすべての氏族が彼を通して祝福に入るよう、祝福の源として選ばれました(創世記12章2,3節)。キリスト者はアブラハムの子として(ガラテヤ書3章7節)、その使命を受けているのです。

 新約聖書ヨハネ福音書に、二つの泉の記述があります。ひとつは4章14節で「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と記されています。これは、主イエスを信じる者の内に、永遠の命に至る水が湧き出る泉ということで、主イエスとの交わりによって豊かに活かされるという表現と見ることが出来ます。

 今ひとつは7章38節の「わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という言葉です。その人の内か生きた水が泉となって湧き上がり、流れ出て川となるというのは、それは霊のことを指していると、同39節に注記されています。

 つまり、霊の働きはその人を泉として、命の水が川となって流れ出るようにさせることだというわけです。しかも、「川(ポタモイ=rivers)」は複数形です。幾筋もの川となって流れ出していくということで、それは何という豊かな泉、川の流れでしょうか。

 使徒言行録1章8節に「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたし(主イエス)の証人となる」とはそのことです。即ち、主イエスとの交わりによって生かされている人には、聖霊の恵みが与えられ、それは、他の人を生かす働きをする主イエスの証人となる力を与えるということです。

 また、「一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(第一コリント書12章7節)と言われます。カリスマ(霊の賜物)は、全体の益となるために与えられているというのです。

 神の恵みを豊かに受けて、それを他の人のために用いる人は、さらに豊かに与えられるでしょう。恵みを私するなら、それは腐って役に立たなくなってしまうでしょう。信仰によって二つの泉を持ち、常に主の御業に励む者とならせて頂きましょう。

 主よ、主イエスの贖いによって罪赦され、神の子とされ、永遠の命が授けられました。今、私たちの内には聖霊が宿り、御言葉の真理を教え、主の証人となる力を授けてくださいます。主との日毎の交わりが豊かにされ、力を受けて主の御用をまっとうすることが出来ますように。 アーメン



1月29日(月) ヨシュア記14章

「御覧ください。主がモーセにこの約束をなさって以来四十五年、イスラエルがなお荒れ野を旅した間、主は約束どおりわたしを生きながらえさせてくださいました。今日わたしは八十五歳ですが、今なお健やかです。モーセの使いをしたあのころも今も変わりなく、戦争でも日常の務めでもする力があります。」 ヨシュア記14章10,11節

 ヨルダン川の西側、カナンの土地で、嗣業の地の分配が始まりました。祭司エルアザルとモーセの後継者ヌンの子ヨシュアが分配の責任者で(1節)、9つ半の部族のために「くじ」を用います(2節)。祭司の持つウリムとトンミムが用いられたのかも知れませんね。そしてそれは、嗣業の地の割り当てが人の思いではなく、神の御心によるものであるということを示してます。

 既にルベン族とガド族、そしてマナセ族の半分は、ヨルダン川の東側に嗣業の地を得ていました(13章)。また、レビ族には、割り当ての地を与えません(3節)。代わりに、ヨセフ族の子孫がマナセ族とエフライム族の二つの部族となって、嗣業の地の割り当てを受けました(4節)。

 こうしてヨセフの子孫が他の部族の2倍の嗣業の地を得るということは、この時点で、ヨセフがイスラエル12部族の長男としての地位を得ているということになります(申命記21章17節参照)。

 ただ、最初に分配を受けるのは、ユダ族です(15章1節以下)。それに先立って、「ケナズ人エフネの子カレブ」が、ギルガルのヨシュアのもとにやって来ます(6節)。それは、ヘブロンを嗣業の地として受けるためでした(12,13節)。

 「ケナズ人」とは、エサウの孫ケナズの子孫ということですが(創世記36章10,11節)、民数記13章6節では「ユダ族では、エフネの子カレブ」とされています。ケナズ人エフネが、彼の世代でユダ族に加わることになり、その子カレブは、ユダ族の一員として、その代表になったことがあると言ったらよいのでしょう。

 エソウの子孫はエドム人で(創世記25章30節、申命記23章8節)、いわゆる異邦人ではありませんが、エジプトを脱出して約束の地を目指し北上しようとしたイスラエルに道を譲らず、むしろ、強力な軍勢をもって迎え撃とうとしたので、迂回せざるを得ませんでした(民数記20章14節以下、18,20,21節)。

 そんなケナズ人の子孫がイスラエルの一部族の代表となれたというのは、カレブが示した主なの絶対的な信頼、主の御心を行う熱心さと無縁ではないのでしょう。カレブは、ヘブロンを受け取る根拠として、モーセの約束カデシュ・バルネアから斥候として遣わされた時のことを持ち出しました(6節以下、9節)。

 カレブは先に記したとおり、ユダ族の代表として、約束の地を偵察する斥候の一人になりました(民数記13章4節以下、6節)。斥候に行った12人のうち10人は先住民を恐れ、約束の地に入れないという報告をして民の心を挫きましたが、カレブとヨシュアは主に信頼して、必ず勝てるので上って行こうと進言しました(民数記13章30節、14章6~9節)。

 その信仰を喜ばれた主が、モーセを通してカレブを祝福され、「あなたがわたしの神、主に従いとおしたから、あなたが足を踏み入れた土地は永久にあなたと、あなたの子孫の嗣業の土地になる」と約束されました(9節、申命記1章36節)。

 次いで、冒頭の言葉(10,11節)の通り、カレブは自分の健康状態を持ち出します。彼が斥候となったのは40歳のときでした(7節)。それから45年が経過して、主の約束どおり、ヨシュアとカレブは約束の地を踏むことが出来ました(10節)。85歳となった今も健やかで、45年前と同様に、戦争でも日常の務めでもすることが出来ると語ります(11節)。

 カレブが要求したのは、ヘブロンの町のある「ユダの山地」ですが、「そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があります」(12節)。これは、10人の斥候が、約束の地には上って行けないと語っていた理由です(民数記13章28節)。

 けれどもカレブは、「断然上って行くべきです。」と言いました(同30節)。他の斥候たちはアナク人の強大さを見ましたが(同31~33節)、ヨシュアとカレブは、神の強大さを見ていたのです。

 だから、「もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう」(同14章8節)と言い、「彼らは我々の餌食に過ぎない。彼らを守る者は離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない」(同9節)と語ることが出来たのです。

 ということは、カレブが元気だからヘブロンを取ることが出来るというのではなく、「我々が主の御心に適うなら」、そして主が共にいてくだされば、主がアナク人を餌食としてくださるので、町を取ることが出来るというわけです。

 そのように主なる神を信じる信仰が、45年前から今日に至るまで変わらず、否、主が絶えず共にいてカレブを支えてくださったので、その信仰はカレブの内にいよいよ熱く燃え上がっていたことでしょう。

 ヨシュアはカレブを祝福し、ヘブロンを嗣業の地としてカレブに与えました(13節)。14節に「ヘブロンはケナズ人エフネの子カレブの嗣業の土地となって、今日に至っている」と記されています。ということは、カレブは先住民を追い払うことに成功して、その子孫がヘブロンの嗣業の地に住み続けているわけです。

 私たちもカレブのように、インマヌエルと唱えられる主イエスと共に歩み、「今日わたしは85歳ですが、今なお健やかです。信仰に入ったあのころも今も変わりなく、戦争でも日常の務めでもする力があります」と語る信仰を得させていただきたいと思います。

 となれば、私たちはその年齢まで元気で主にお仕えすることが出来るというわけですが、それは勿論、私たちの能力や健康のゆえなどではありません。ただ、主なる神の深い憐れみに依ることです。

 主の恵みと導きを祈りつつ、日々御言葉に従って歩みたいと思います。

 主よ、御名をほめたたえます。絶えず新しい恵みをもって私たちを楽しませ、また、守り導いてくださるからです。いつも御顔を拝し、御言葉に耳を傾けます。御言葉は私たちを真理に導き、真理は私たちを自由にします。恐れや不安が除かれ、平安と希望が与えられます。御名が崇められますように。 アーメン

 

1月28日(日) ヨシュア記13章

「わたしは、イスラエルの人々のために、彼らすべてを追い払う。あなたはただ、わたしの命じたとおり、それをイスラエルの嗣業の土地として分けなさい。」 ヨシュア記13章6節

 11章23節に「ヨシュアはこうして、この地方全域を獲得し、すべて主がモーセに仰せになったとおりになった」と記されていましたが、13章1節では、主がヨシュアに「あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている」と告げられます。

 これは互いに矛盾しており、理解に苦しむところです。資料を並べる順序が入れ替わってしまったのでしょうか。

 2節以下、残っている土地として示されているのが、「ペリシテ人の全地域」(2節)、「エジプトの東境のシホル」(3節)、「ヘルモン山のふもとバアル・ガドからレボ・ハマトに至るレバノン山東部全域」(5節)などです。これらは、イスラエル周辺地域のことを指しているようです。

 ということは、確かに、ヨシュアは約束の地の大半を獲得したのかもしれません。しかし、まだ完全なものではないと言われるのです。

 かつて、主なる神がアブラハムと契約を結んで「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで」(創世記15章18節)と言われました。この約束は、イスラエルの国力が最大となったソロモン王の時代でも、文字通りに実現してはいません。

 その意味でいえば、「占領すべき土地はまだたくさん残っている」(1節)という言葉は、ヨシュアだけでなく、あらゆる時代の指導者たちにも等しく当てはまるわけです。

 これを霊的に考えてみましょう。私たちは主イエスを信じ、心に、生活の中に主を迎え、御言葉に従う生活を始めました。ときの経過と共に、あらゆる面において、主に聴き従う生活が出来るようになり、まだ不十分だと言和ざるを得ないようなところなどはもうない、完全な者となったと言えるようになれたでしょうか。

 私自身、1968年のクリスマスに主イエスを信じる信仰を公に表明してクリスチャンとなってから、既に49年余りが経過しました。けれども、主のために新たに占領しなければならない部分など、もはや残っていないなどとは、およそ口が裂けても言える状況ではありません。むしろ、今なお主のために、占領すべき土地はまだたくさん残っていると言わなければならない体たらくです。

 主なる神はヨシュアに、冒頭の言葉(6節)のとおり、「わたしは、イスラエルの人々のために、彼らすべてを追い払う」と言われました。ここで、「追い払う」という言葉は、1節の「占領すべき」と言われた言葉と、形態(ヒフィル形とカル形)は異なりますが、同じ「ヤーラシュ」という動詞が用いられています。

 同じ言葉の裏と表と言いますか、主なる神が先住民を追い払い、イスラエルの民が彼らの地を占領するということで、神がお与えになったものを、そのまま受け止めよということでしょう。

 主は続けて「あなたはただ、わたしの命じたとおり、それをイスラエルの嗣業の土地として分けなさい」(6節)と語られました。取るべき多くの地から、そこに住む民を皆追い払うのは主ご自身で、ヨシュアの仕事は、主が彼らに獲得させたそれらの土地を分配することです。

 土地の分配は、どのようにして行なわれるのでしょうか。15章以下を読めば分かりますが、くじで土地を割り当てるのです。「分けなさい」というのはナーファルという言葉で、これは、「落ちる、倒れる」という意味です。祭司は神託を受けるためにウリムとトンミムというくじを投げ、その落ち方、倒れ方で神意を読み取ります。

 ということは、土地の分配も、神の御心に従って決定するわけです。新改訳は、「くじで分けよ」と訳しています。土地が分けられて、各部族の嗣業の地となり、そして、土地の実りを産み出します。

 創世記2章15節に「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」という言葉があります。主は、イスラエルの民をエジプトの地から導き出し、約束の地に連れて来て住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされました。ということは、ユダヤ人にとって、約束の地は当にエデンの園だったのではないでしょうか。

 私たちが自分の知恵や力で、主の御前に相応しくないものをすべて追い払い、御心に適うように整えることは不可能と言わざるを得ません。自分で自分に死ぬことなど出来ません。私たちが心に思うことは、幼いときから悪いと、主が仰ったとおりだからです(創世記21節参照)。

  ただ主の御言葉を聴き、御言葉どおりになることを主に祈り、私たちの内から主の御前に相応しくないものを追い払ってくださるよう願うほかありません。

 主の語られた御言葉は生きていて力があり(ヘブライ書4章12節)、主の望まれることを成し遂げ、主がお与えになった使命を必ず果たします(イザヤ書55章11節)。

 日々主を仰ぎ、御言葉に耳を傾けましょう。その導きに従って一歩ずつ歩ませていただきましょう。

 主よ、私たちの心には様々な計画、思いがありますが、ただ主の御旨だけが堅く立ちます。御心がこの地になされますように。御国が来ますように。御業のために、私たちが用いられる器となれますように。そして、主の御名が崇められますように。 アーメン

 

1月28日(日)主日礼拝案内

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1月28日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、新約聖書・マルコ福音書から、共に聖書の学びと交わりを行います。

主日礼拝を10時半から行います。
礼拝では、フィリピ書4章6,7節より「キリストにある平安」と題して矢部執事の奨励を頂きます。

写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。

キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


教会学校、主日礼拝を通して、皆様に主の恵み、導きが豊かに広がりますように。

 
礼拝後、信徒会を行います。




1月27日(土) ヨシュア記12章

「ヨシュアの率いるイスラエルの人々がヨルダン川のこちら側、すなわち西側で征服した国の王は次のとおりである。ヨシュアは、レバノンの谷にあるバアル・ガドからセイル途上にあるハラク山に至る地域をイスラエル各部族にその配分に従って領地として与えた。」 ヨシュア記12章7節

 12章には、イスラエルが征服した王たちのリストが記されています。1節から6節まで、モーセに率いられていたとき、ヨルダン川の東側で征服した二人の王について、7節以下は、ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡ってから、その西側で征服した町の王31名について報告されます。

 6章からの記事で、それらの町がどのように征服されたのか物語られていますが、11章18節の「ヨシュアとこれらすべての王たちとの戦いは長い年月にわたり」という言葉は、10章、11章に記されている戦いがそれぞれ一両日程度で終結したかのような印象を持つだけに、多少意外な感じがします。しかしながら、恐らく「長い年月にわたり」というのが正確な描写でしょう。

 10章42節に「ヨシュアがただ一回の出撃でこれらの地域を占領し、すべての王を捕らえることができたのは、イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである」と記されていますが、一度の出撃ですべての地域を占領出来たとか、戦闘は一日で終結したということを意味するのではありません。

 たとえば、一度の出撃で一つの町を落とした。その戦いには、何ヶ月も要することがあったという具合に考えた方がよいでしょう。

 また、征服といっても、町全体が滅ぼされ、焼き払われたアイの町のようなところもあれば(8章1節以下)、王が殺されただけで、町が攻められたという記述もないエルサレムの町のようなところもあります(10章23節以下)。

 実際、エルサレムは、ダビデが占領するまで、エブス人が町を支配していました(サムエル記下5章6,7節)。つまり、全土を完全に占領するまでには、さらに年月がかかったということになります。

 冒頭の言葉(7節)にヨシュアが征服した地域が、「レバノンの谷にあるバアル・ガドからセイル途上にあるハラク山に至る地域」と語られています。バアル・ガドはダンの北18km、ヘルモン山の麓というイスラエルの北限です。バアル・ガドとは、「幸運の主」という意味で、ガドという異教の神が礼拝されていたところでした。

 一方、「セイルの途上にあるハラク山」ですが、セイルは「毛深い」という意味で、ヤコブの兄エソウとその子孫、の居住地となりました(創世記32章4節)。エソウとの関連で、「赤い」という意味のエドムと呼ばれることもあります(同25章30節)。

 ハラク山は「裸の山」という意味です。草木の生えていない赤土の山なのでしょうか。これは、ベエル・シェバの南方42kmに位置する山で、ヨシュアが占領したカナンの地の南限を指します。

 バアル・ガドからハラク山までというのは、「ダンからベエル・シェバまで」(サムエル記上3章20節、サムエル記下3章10節など)と同様の表現で、それを南北にもう少し広くした言い方です。この地域に、イスラエルに征服された31の町があったわけです。

 山地もあれば低地(シェフェラ)もあり、水辺もあれば荒れ野もあり、堅固な町もあれば、そうでもないところもあったでしょう。それこそ、あっけなく落ちた町もあれば、陥落させるのに長い月日を必要とした町もあったと思われます。

 いずれにせよ、この地を各部族の領地として分配するために、31の町を征服しなければならなかったのです。そして、イスラエルが主に聴き従うとき、主はイスラエルと共にいて、イスラエルのために主ご自身が戦ってくださり(10章14節)、それを征服することが出来ました(10章14節、11章15,20,23節)。

 私たちが置かれている状況も、様々です。日々困難をおぼえつつ闘っておられる方もあります。その困難がいつまで続くのかと、途方に暮れるような思いになることもあるでしょう。そのような方を慰め、励ますことも、これまた容易なことではありません。ただ、私たちと共におられる神は、万事を益としてくださるお方です。

 スキーのジャンプ競技は、逆風を受けた選手が一番高く遠くまで跳ぶことが出来ます。飛行機は、向かい風に向かって飛び立つのです。私たちに吹き付けてくる逆風を神の息吹と受け止め、主を信頼して信仰の翼を広げるなら、イザヤ書40章31節に語られるごとく、いつしか私たちは、鷲のように翼を張り、上昇気流に乗って空高く舞い上がることでしょう。

 主を信頼し、御言葉に耳を傾けつつその導きに従って進むなら、いつの間にか悲しみが喜びに、苦しみが楽しみに、不安が平安に、呻きの祈りが感謝の賛美に変えられることでしょう。絶えず主を見上げ、日々主の御言葉に耳を傾け、聖霊の導きによって常に祈りましょう。主に信頼して、歩み続けましょう。

 主よ、私たちの心を探ってください。私たちのうちから、御前に相応しくないものを取り除いてください。主に従って実を結ぶ歩み、働きをすることが出来ますように。御言葉の内に留まらせてください。御霊に満たされ、その力に与ることが出来ますように アーメン

 



1月26日(金) ヨシュア記11章

「ヨシュアは、彼らに対して主の告げたとおりにし、馬の足の筋を切り、戦車を焼き払った。」 ヨシュア記11章9節

 ハツォルの王ヤビンは、エルサレムの王らアモリ人の王たちの連合軍を打ち破り(10章1節以下)、カデシュ・バルネアからギブオンまでパレスティナ南部を征服したこと(同41節)などを聞きました(1節)。そこで、パレスティナ北部の町の王たちに使いを送り、連合してイスラエルと戦おうと呼びかけます。この書き出しは、10章1節とよく似ています。

 ハツォルは、ガリラヤ湖の北方約10kmのところにある町で、エジプトと小アジアやメソポタミアを結ぶ隊商路が通っており、早くから栄えていました(10節参照)。後にソロモンが、北方面の守りの拠点として、この町を軍事要塞化します(列王記上9章15節以下)。マドン以下の町や地域は、場所が特定出来ないところが多いですが、ガリラヤ地方一帯を指していると考えられます(1,2節)。

 ヤビンの呼びかけに、「東西両カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、山地のエブス人、ヘルモン山のふもと、ミツパの地に住むヒビ人」(3節)たちがメロムの水場に集まり、イスラエルと戦うために連合軍を組織しました(5節)。その兵の数は「浜辺の砂の粒ほどの大軍」(4節)と言われ、「軍馬も戦車も非常に多かった」(4節)そうです。

  20節に「彼らの心をかたくなにしてイスラエルと戦わせたのは主であるから、彼らは一片の憐れみを得ることもなく滅ぼし尽くされた」とあります。「かたくなにして」(レ・ハッゼーク)は、「強くする、勇気づける」(ハーザク・ピエル形)という言葉です。

 これは、1章6節などでヨシュアに対し、「強くあれ」と繰り返し励ましを与えた言葉です。主なる神が王たちを頑迷にしたというより勇猛果敢にし、戦車などの近代兵器で武装した大軍をもってイスラエルに立ち向かわせたという言葉遣いです。 

 一方、主はヨシュアに対して「彼らを恐れてはならない。わたしは明日の今ごろ、彼らすべてをイスラエルに渡して殺させる」(6節)と言われました。イスラエルをして、パレスティナ北部の種族を滅ぼす道具とするというわけです。そこで、ヨシュアはイスラエル全軍を率いて、メロムの水場を急襲し(7節)、これを撃って全滅させました(8節)。

 主は戦いに際して、「あなたは彼らの馬の足の筋を切り、戦車を焼き払え」(6節)と命じられ、冒頭の言葉(9節)のとおり、ヨシュアは主の命令に従って、「馬の足の筋を切り、戦車を焼き払」います。馬や戦車は、開けた場所での戦闘に威力を発揮します。奇襲をもって馬の足の筋を切り、戦車を焼き払うことで、連合軍の近代兵器を無力化する作戦だったといえます。

 一方、イスラエルにとって、戦いを少しでも有利に進めるために、彼らの馬や戦車を手に入れることは、願ってもないことではなかったかと思います。しかし、主なる神は、それを禁じられました。

 申命記17章14節以下の「王に関する規定」でも、「王は馬を増やしてはならない」(同16節)と命じられています。これは、イスラエルの民が、王の勇猛さ、兵の勇敢さ、武器の種類や兵の数などに頼るのではなく、どんな時にも主なる神に信頼すること、主の命令に従うことが求められているわけです。

 そのことは、戦いの中で明らかになります。多くの軍馬、戦車を持ち、数え切れないほどの大軍であっても、主を信じ、御言葉に従って進軍するイスラエルの敵ではありませんでした。軍馬も戦車も、神の手を逃れることは出来なかったのです。

 御言葉に背いて馬と戦車を手に入れ、イスラエル軍の武装を強化することができたとしても、神を敵にまわすならば、それは何の助けにもなりません。だからこそ、ヨシュアは主の告げたとおりにしているわけです。

 主なる神は、ヨシュアが御言葉に素直に聴き従っているのを見られ(9,15節)、その態度を喜ばれたことでしょう。だから、主ご自身がイスラエルのために戦われ、かくて、カナンの地南部に続いて、北方の地からも、先住の民を滅ぼされたのです。神が連合軍の王の心を強くしたのは、徹底的に彼らを打ち破らせるためだったわけです。

 それを思うとき、誰よりも豊かな知恵と賢明な心が授けられたはずのソロモン王が(列王記上3章12節)、戦車用の馬の厩舎4万に騎兵1万2千(同5章6節)、戦車千四百を有し(同10章26節)、さらにエジプトとクエから馬を輸入しています(同28節)。まさにそれは絶大な冨と権力を象徴するものですが、そこに、ソロモンの驕りを見ることが出来ます。

 「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」(箴言1章7節)という言葉を書き記すことのできたソロモンはしかし、それに自ら耳を傾けようとしなかったからです(列王記上11章1節以下、9,10節)。そのため、国は傾き始め、彼の死後、南北に分裂し(同11章11節以下、30,31節、12章)、やがて、滅びを刈り取ることになってしまいました。

 私たちは、キリストの贖いを通して救いに与った者として、常に主を仰ぎ、絶えずその御言葉に聴き従い、感謝と喜びをもって日々歩みましょう。

 主よ、あなたは心を尽くして御前を歩む私たちに豊かに慈しみを注がれ、御口をもって約束されたことを、御手をもって成し遂げてくださいます。どうか私たちが、あなたの御言葉からそれて、右にも左にも曲がることがありませんように。信仰の正道をまっすぐに歩ませてください。御名があがめられますように。 アーメン

 

1月26日(金) ヨシュア記11章

「ヨシュアは、彼らに対して主の告げたとおりにし、馬の足の筋を切り、戦車を焼き払った。」 ヨシュア記11章9節

 ハツォルの王ヤビンは、エルサレムの王らアモリ人の王たちの連合軍を打ち破り(10章1節以下)、カデシュ・バルネアからギブオンまでパレスティナ南部を征服したこと(同41節)などを聞きました(1節)。そこで、パレスティナ北部の町の王たちに使いを送り、連合してイスラエルと戦おうと呼びかけます。この書き出しは、10章1節とよく似ています。

 ハツォルは、ガリラヤ湖の北方約10kmのところにある町で、エジプトと小アジアやメソポタミアを結ぶ隊商路が通っており、早くから栄えていました(10節参照)。後にソロモンが、北方面の守りの拠点として、この町を軍事要塞化します(列王記上9章15節以下)。マドン以下の町や地域は、場所が特定出来ないところが多いですが、ガリラヤ地方一帯を指していると考えられます(1,2節)。

 ヤビンの呼びかけに、「東西両カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、山地のエブス人、ヘルモン山のふもと、ミツパの地に住むヒビ人」(3節)たちがメロムの水場に集まり、イスラエルと戦うために連合軍を組織しました(5節)。その兵の数は「浜辺の砂の粒ほどの大軍」(4節)と言われ、「軍馬も戦車も非常に多かった」(4節)そうです。

  20節に「彼らの心をかたくなにしてイスラエルと戦わせたのは主であるから、彼らは一片の憐れみを得ることもなく滅ぼし尽くされた」とあります。「かたくなにして」(レ・ハッゼーク)は、「強くする、勇気づける」(ハーザク・ピエル形)という言葉です。

 これは、1章6節などでヨシュアに対して、「強くあれ」と繰り返し励ましを与えた言葉です。主なる神が王たちを頑迷にしたというより勇猛果敢にし、戦車などの近代兵器で武装した大軍をもってイスラエルに立ち向かわせたという言葉遣いです。 

 一方、主はヨシュアに対して「彼らを恐れてはならない。わたしは明日の今ごろ、彼らすべてをイスラエルに渡して殺させる」(6節)と言われました。イスラエルをして、パレスティナ北部の種族を滅ぼす道具とするというわけです。そこで、ヨシュアはイスラエル全軍を率いて、メロムの水場を急襲し(7節)、これを撃って全滅させました(8節)。

 主は戦いに際して、「あなたは彼らの馬の足の筋を切り、戦車を焼き払え」(6節)と命じられ、冒頭の言葉(9節)のとおり、ヨシュアは主の命令に従って、「馬の足の筋を切り、戦車を焼き払」います。馬や戦車は、開けた場所での戦闘に威力を発揮します。奇襲をもって馬の足の筋を切り、戦車を焼き払うことで、連合軍の近代兵器を無力化する作戦だったといえます。

 イスラエルにとって、戦いを少しでも有利に進めるために、彼らの馬や戦車を手に入れることは、願ってもないことではなかったかと思います。しかし、主なる神は、それを禁じられました。

 申命記17章14節以下の「王に関する規定」でも、「王は馬を増やしてはならない」(同16節)と命じられています。これは、イスラエルの民が、王の勇猛さ、兵の勇敢さ、武器の種類や兵の数などに頼るのではなく、どんな時にも主なる神に信頼すること、主の命令に従うことが求められているわけです。

 そのことは、戦いの中で明らかになります。多くの軍馬、戦車を持ち、数え切れないほどの大軍であっても、主を信じ、御言葉に従って進軍するイスラエルの敵ではありませんでした。軍馬も戦車も、神の手を逃れることは出来なかったのです。

 御言葉に背いて馬と戦車を手に入れ、イスラエル軍の武装を強化することができたとしても、神を敵にまわすならば、それは何の助けにもなりません。だからこそ、ヨシュアは主の告げたとおりにしているわけです。

 主なる神は、ヨシュアが御言葉に素直に聴き従っているのを見られ(9,15節)、その態度を喜ばれたことでしょう。だから、主ご自身がイスラエルのために戦われ、かくて、カナンの地南部に続いて、北方の地からも、先住の民を滅ぼされたのです。神が連合軍の王の心を強くしたのは、徹底的に彼らを打ち破らせるためだったわけです。

 それを思うとき、誰よりも豊かな知恵と賢明な心が授けられたはずのソロモン王が(列王記上3章12節)、戦車用の馬の厩舎4万に騎兵1万2千(同5章6節)、戦車千四百を有し(同10章26節)、さらにエジプトとクエから馬を輸入しています(同28節)。まさにそれは絶大な冨と権力を象徴するものですが、そこに、ソロモンの驕りを見ることが出来ます。

 「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」(箴言1章7節)という言葉を書き記すことのできたソロモンはしかし、それに自ら耳を傾けようとしなかったからです(列王記上11章1節以下、9,10節)。そのため、国は傾き始め、彼の死後、南北に分裂し(同11章11節以下、30,31節、12章)、やがて、滅びを刈り取ることになってしまいました。

 私たちは、キリストの贖いを通して救いに与った者として、常に主を仰ぎ、絶えずその御言葉に聴き従い、感謝と喜びをもって日々歩みましょう。

 主よ、あなたは心を尽くして御前を歩む私たちに豊かに慈しみを注がれ、御口をもって約束されたことを、御手をもって成し遂げてくださいます。どうか私たちが、あなたの御言葉からそれて、右にも左にも曲がることがありませんように。信仰の正道をまっすぐに歩ませてください。御名があがめられますように。 アーメン

 

1月25日(木) ヨシュア記10章

「彼らを恐れてはならない。わたしは既に彼らをあなたの手に渡した。あなたの行く手に立ちはだかる者は一人もいない。」 ヨシュア記10章8節

 エルサレムの王アドニ・ツェデクは、イスラエルがエリコ、アイを滅ぼし、ギブオンと和を講じたことを知り(1節)、他のアモリ人の4人の王に人を遣わして(3節)、一緒にギブオンを攻めようと提案します(4節)。すると、彼らはすぐに意気投合し、連合軍を組織してギブオンに攻め上ります(5節)。

 ギルガルに宿営しているイスラエル軍が、エリコ、アイを破り、ギブオンと連合することで、イスラエルが南北に分断されつつあり、このまま放置すると、各個撃破されてしまうだろうと恐れたのでしょう。そこで先ず、これまで隣人であって、今や敵となったギブオンから攻略しようということになったわけです。今回の連合軍は、分断されるイスラエル南方のアモリ人の町の軍隊です。

 戦いを仕掛けられたギブオンは、ギルガルにいるヨシュアに援軍要請をします(6節)。要請を受けたヨシュアは、全兵士を率いて出陣しました(7節)。彼らは、夜通し行軍してギブオンにいた5王連合軍に襲い掛かり、大打撃を与えました(9,10節)。

 さらに、敗走する連合軍を追撃し、わずかの敗残兵を除き、彼らを全滅させることが出来ました(20節)。5人の王は捕えられ、殺されて木にかけられました(17,23,26節)。

 それは、主ご自身が戦ってくださっての勝利というべきでしょう。冒頭の言葉(8節)に「彼らを恐れてらない。わたしは既に彼らをあなたの手に渡した」とあります。特にヨシュアが主の託宣を求めたという記事もありませんので、主の方から、イスラエルの勝利を約束されたかたちです。エリコを攻略する際、主の軍の将軍が登場して、策を授けてくださった時も、同様でした。

 それは、これらの戦いが主の手の中にあり、その勝利の鍵をヨシュアに授けられるということであり、ゆえに、主を信頼することを求めておられるということです。そして、その勝利を通して、カナンの地をイスラエルに与えるという約束を、主自ら実行しておられるということを、表しているのでしょう。

 イスラエル軍が夜を徹して行軍し、アモリ人連合軍を急襲したとき(9節)、「主はイスラエルの前で彼らを混乱に陥れられたので」(10節)、夜の闇もイスラエルに味方したので、それこそ戦いにならなかったのです。その上、敗走する兵士たちに向かって、天から雹が降りました(11節)。イスラエル軍が剣で殺したよりも多くの兵士が、雹に打たれて死にました。

 雹について、はじめは「大石」(アバーニーム・ゲドーロート)と表現しています。あとで「雹」と訳されているのも、正確には「雹の石」(アブネー・ハッ・アーラード)という言葉遣いになっています(新改訳、岩波訳など参照)。それは、雹が主の戦いの武器(石投げ)であるということを示そうとしているのではないでしょうか。

 雹がアモリ人兵士だけを正確に襲い、イスラエル兵に犠牲が出なかったというのであれば(21節からの類推)、それはおよそ自然現象などではありません。

 さらに、ヨシュアが「日よ、とどまれ、ギブオンの上に、月よ、とどまれ、アヤロンの谷に」(12節)というと、まる一日、日も月も動かなかったという(13節)、考えられない記述が続きます。日や月が動かなかったということは、地球の自転がを停止したということでしょう。自転を停止した地球が、一日後に再び自転し始めるなどということは、科学的には、到底あり得ない現象です。

 ここに言い表されているのは、神が自然に働きかけて、日も月もイスラエルが勝利を収めるのに協力したり、雹を石投げの石として、正確にアモリ人を打ち倒したりしたことなど、神があらゆるものを動員して、イスラエルに圧倒的な勝利を収めさせてくださったということです。

 特に、アモリ人らが太陽や月を神として拝む偶像礼拝を行っていたし、その後、イスラエルの民も、そのような偶像礼拝に巻き込まれて行ったので、日や月が動きをとめるようにというヨシュアの宣言、そして、主なる神がご自身への訴えと受け止めて、日と月の動きをとどめられたことを記して、主なる神の権威と力をイスラエルの民に示したものといってよいと思います。 

 14節に「主がこのように人の訴えを聞き届けられたことは、後にも先にもなかった」と言われており、これが特別な出来事だったということを強調しています。それを「主はイスラエルのために戦われたのである」と記して、「わたしは既に彼らをあなたの手に渡した」(8節)と仰ったことを、主が自ら戦って実現してくださったと、あらためて感謝の意を込めて言い表しているのです。

 使徒パウロが、「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ書8章31,32節)と言っています。私たちが今置かれている状況がどのようであれ、神は主イエスを信じる私たちに味方してくださいます。

 また、ご自分の栄光の冨に応じて、私たちに必要なものすべて満たしてくださいます(フィリピ書4章19節)。さらに、万事が益となるように共に働いてくださるのです(ローマ書8章28節)。

 万事を益とされる主を信じ、暗闇も、雹も、そして太陽や月さえも用いられる主の御前に謙りましょう。主の御心が行われることを求め、その御業のために用いていただきましょう。

 主よ、あなたが御心に留めてくださるとは、なんという幸いでしょう。あなたに顧みられるとは、私たちは何者なのでしょうか。あなたこそ、私たちの岩、私たちの支え。私たちの砦、私たちの逃れ場、私たちの盾、避け所です。絶えず新しい歌をもってあなたを褒め歌います。私たちを御業のために用いてください。豊かな実りを得ることが出来ますように。 アーメン

 
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