「彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」 申命記19章19節
15節以下に、「裁判の証人」についての規定が記されています。裁判については、1章9節以下の「役職者の任命」の段落で、部族長を選んで、裁判人としての心構えを与えています。それは、正しい裁判を行えという、至極当然の勧めです。
そして、それが16章18節以下でもう一度取り上げられておりました。それは当時、賄賂で判決が曲げられるなど、いかに裁判において不正が横行していたかということの表れではないかと思います。
そして、それが16章18節以下でもう一度取り上げられておりました。それは当時、賄賂で判決が曲げられるなど、いかに裁判において不正が横行していたかということの表れではないかと思います。
しかしながら、それはひとり裁判人の問題であるだけではなく、不正な裁判を依頼する者、賄賂で偽証を請け負う者の問題でもあります。だからこそ、この段落では、裁判人や証人たちに向かってではなく、すべての民に向かって「あなた」と呼びかけ、あなたの中から悪を取り除かねばならないというのです。
今日の箇所では、被告の犯罪を立証する証人についてとりあげ、まず、二人か三人の証人を立てるよう規定しています(15節)。17章6節では、死罪にあたる者を罪に定めるときには、二人か三人の証言を必要とするとされていましたが、ここではすべての罪を裁くために、複数の証人が必要とされています。
つまり、より客観的で正しい証言を得て、正しい裁判が行われるように、定められたわけです。というのも、万一、虚偽の証言がなされた場合には、裁判の公正さが失われ、無実の罪で刑に服する、冤罪が発生してしまうことになるからです。
そこで裁判人は、証人の申し立てと被告人の弁明をよく聴き、詳しく調査して、誤った判決を下すことがないように細心の注意を払わなければなりません(18節)。1章でも「同胞の間に立って言い分をよく聞き、同胞間の問題であれ、寄留者との間の問題であれ、正しく裁きなさい」(同16節)、「身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである」(同17節)と言われていました。
もしも、証人が偽証をして、被告人を不当に罪に定めようとしていたことが判明すれば、裁判人は、その偽証によって被告が定められようとした罪の罰を、そのまま偽証人に下します。冒頭の言葉(19節)で「彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない」と言われている通りです。
即ち、偽証によって被告が死刑にされようとしていたのであれば、偽証人に死刑を宣告することになるのです。21節の「あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない」とは、そのことです。
「目には目、歯には歯」と聞くと、徹底的に仕返しをするという意味に取られることがありますが、それは誤解です。この言葉は出エジプト記21章23節にもあり、そこでは、人が喧嘩などで相手を傷つければ、自分も同じ傷をもって償いをしなければならないという規定になっています。これは「同害法」と呼ばれるもので、報復がエスカレートするのを防ぐ役割を果たします。
私たちの心情としては、一発叩かれたら二発でも三発でも、気が済むまで叩き返したい、歯を一本折られたら、相手の歯を全部折ってやりたいという具合に思うでしょう(創世記4章15,24節参照)。しかし、それを許せば、報復合戦になってしまいます。
復讐が復讐を生む悪の連鎖、報復合戦にならないために、相手の目を傷つけたら自分の目で、相手の歯を折ったら自分の歯で償えと、被害を等しくして仲直りするように規定しているわけです。
この同害法の原則を、裁判の証言にも当てはめて、人を傷つけ、貶める目的で偽証を立てれば、その人は、偽証によってもたらされる刑罰と同じ重さの報いを受けなければならないというのです。それほどに偽証を重い罪と考え、それに対して重い刑罰を課すことで、偽証を抑止しようとしているわけです。
そうしたことで裁判が公正に行われるならば、社会生活が公正に保たれることになります。そして、社会生活に公正が示されれば、人々は安心して生活することが出来ます。
けれども、残念ながら人はこのような規定を持ちさえすれば、正義を行い、公正な社会を造り上げることが出来るというわけではありません。イスラエルの人々は、福音書の記録によれば、規定違反の裁判を主イエスに対して行いました。
「多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていた」(マルコ福音書14章56節)と記されています。この場合、偽証をした者たちがその罪を負い、処刑されることで、社会正義を守るべきでした。しかしながら、その時宗教指導者たちは罪のない方を犯罪者とし、十字架に磔にして殺害してしまいました。
しかるに神は、彼らの罪を問われるどころか、御子の死をもって彼らを含む私たち人類の罪の身代わりとされました。それによって私たちは罪赦され、神の子とされ、永遠の命を受ける神の救いの御業の恵みに与ったのです。
主の救いの恵みを頂いた者として、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りましょう(エフェソ書4章25節)。悪い言葉を一切口にせず、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りましょう(同29節)。それができる善人になれというのではありません。私たちの内におられる主の真実に生きる者とされたいのです。
主よ、ここに言葉の真実が求められています。空しい言葉に惑わされず、何が主に喜ばれるかを吟味し、実を結ばない暗闇の業に加わらず、主に結ばれた光の子として歩むことが出来ますように。ひかりから、あらゆる善意と正義と真実が生じるからです。そのため、常に聖霊に満たされ、いつもあらゆることにおいて、父なる神に感謝する者とならせててください。 アーメン