風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2017年12月

12月31日(日) 申命記19章

「彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」 申命記19章19節

 15節以下に、「裁判の証人」についての規定が記されています。裁判については、1章9節以下の「役職者の任命」の段落で、部族長を選んで、裁判人としての心構えを与えています。それは、正しい裁判を行えという、至極当然の勧めです。

 そして、それが16章18節以下でもう一度取り上げられておりました。それは当時、賄賂で判決が曲げられるなど、いかに裁判において不正が横行していたかということの表れではないかと思います。

 しかしながら、それはひとり裁判人の問題であるだけではなく、不正な裁判を依頼する者、賄賂で偽証を請け負う者の問題でもあります。だからこそ、この段落では、裁判人や証人たちに向かってではなく、すべての民に向かって「あなた」と呼びかけ、あなたの中から悪を取り除かねばならないというのです。

 今日の箇所では、被告の犯罪を立証する証人についてとりあげ、まず、二人か三人の証人を立てるよう規定しています(15節)。17章6節では、死罪にあたる者を罪に定めるときには、二人か三人の証言を必要とするとされていましたが、ここではすべての罪を裁くために、複数の証人が必要とされています。

 つまり、より客観的で正しい証言を得て、正しい裁判が行われるように、定められたわけです。というのも、万一、虚偽の証言がなされた場合には、裁判の公正さが失われ、無実の罪で刑に服する、冤罪が発生してしまうことになるからです。

 そこで裁判人は、証人の申し立てと被告人の弁明をよく聴き、詳しく調査して、誤った判決を下すことがないように細心の注意を払わなければなりません(18節)。1章でも「同胞の間に立って言い分をよく聞き、同胞間の問題であれ、寄留者との間の問題であれ、正しく裁きなさい」(同16節)、「身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである」(同17節)と言われていました。

 もしも、証人が偽証をして、被告人を不当に罪に定めようとしていたことが判明すれば、裁判人は、その偽証によって被告が定められようとした罪の罰を、そのまま偽証人に下します。冒頭の言葉(19節)で「彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない」と言われている通りです。

 即ち、偽証によって被告が死刑にされようとしていたのであれば、偽証人に死刑を宣告することになるのです。21節の「あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない」とは、そのことです。

 「目には目、歯には歯」と聞くと、徹底的に仕返しをするという意味に取られることがありますが、それは誤解です。この言葉は出エジプト記21章23節にもあり、そこでは、人が喧嘩などで相手を傷つければ、自分も同じ傷をもって償いをしなければならないという規定になっています。これは「同害法」と呼ばれるもので、報復がエスカレートするのを防ぐ役割を果たします。

 私たちの心情としては、一発叩かれたら二発でも三発でも、気が済むまで叩き返したい、歯を一本折られたら、相手の歯を全部折ってやりたいという具合に思うでしょう(創世記4章15,24節参照)。しかし、それを許せば、報復合戦になってしまいます。

 復讐が復讐を生む悪の連鎖、報復合戦にならないために、相手の目を傷つけたら自分の目で、相手の歯を折ったら自分の歯で償えと、被害を等しくして仲直りするように規定しているわけです。

 この同害法の原則を、裁判の証言にも当てはめて、人を傷つけ、貶める目的で偽証を立てれば、その人は、偽証によってもたらされる刑罰と同じ重さの報いを受けなければならないというのです。それほどに偽証を重い罪と考え、それに対して重い刑罰を課すことで、偽証を抑止しようとしているわけです。

 そうしたことで裁判が公正に行われるならば、社会生活が公正に保たれることになります。そして、社会生活に公正が示されれば、人々は安心して生活することが出来ます。

 けれども、残念ながら人はこのような規定を持ちさえすれば、正義を行い、公正な社会を造り上げることが出来るというわけではありません。イスラエルの人々は、福音書の記録によれば、規定違反の裁判を主イエスに対して行いました。

 「多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていた」(マルコ福音書14章56節)と記されています。この場合、偽証をした者たちがその罪を負い、処刑されることで、社会正義を守るべきでした。しかしながら、その時宗教指導者たちは罪のない方を犯罪者とし、十字架に磔にして殺害してしまいました。

 しかるに神は、彼らの罪を問われるどころか、御子の死をもって彼らを含む私たち人類の罪の身代わりとされました。それによって私たちは罪赦され、神の子とされ、永遠の命を受ける神の救いの御業の恵みに与ったのです。

 主の救いの恵みを頂いた者として、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りましょう(エフェソ書4章25節)。悪い言葉を一切口にせず、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りましょう(同29節)。それができる善人になれというのではありません。私たちの内におられる主の真実に生きる者とされたいのです。

 主よ、ここに言葉の真実が求められています。空しい言葉に惑わされず、何が主に喜ばれるかを吟味し、実を結ばない暗闇の業に加わらず、主に結ばれた光の子として歩むことが出来ますように。ひかりから、あらゆる善意と正義と真実が生じるからです。そのため、常に聖霊に満たされ、いつもあらゆることにおいて、父なる神に感謝する者とならせててください。 アーメン






12月31日(日)主日礼拝説教

12月31日(日)の主日礼拝には、教会員17名、来賓17名(子ども3名を含む)がお見えになりました。
感謝です。
一年365日、嬉しいこと悲しいこと、楽しいこと辛いこと、様々ある中で主に導かれ、支えられて今日まで過ごして来ることができました。
53回の主日礼拝が守られたことを感謝いたします。

主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「神の国の奥義」
聖書 ルカ福音書8章4~15節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師

御覧ください。


12月31日(日)主日礼拝案内

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12月31日(日)は、教会学校をお休みにします。

主日礼拝は10時半から行います。
礼拝ではルカ福音書8章4~15節より「神の国の奥義」と題して原田牧師の説教を頂きます。

写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。


19時より、年末感謝祈祷会を行います。
一年の守り、恵みを主なる神に感謝し、新しい一年の導き、祝福を祈ります。


また、1月1日(月)11時より、元旦礼拝を行います。
礼拝では第一ペトロ書1章1~12節より「信仰に生きる」と題して原田牧師の説教を頂きます。

礼拝後、持ち寄りの昼食会を行います。


キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


皆様に新しい年も、主の恵みと慈しみがいつも豊かにありますように。





 

12月30日(土) 申命記18章

「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」 申命記18章15節

 イスラエルの民を導く者として、「王に関する規定」(17章14節以下)の後は、「レビ人および祭司に関する規定」(1節以下)が示され、「異教の習慣への警告」(9節以下)に続けて、「預言者を立てる約束」(15節以下)が与えられます。

 イスラエルにおいて、宗教生活の中心に祭司、レビ人がいます。主の前で祭儀を行うこと(10章8節など)、また民の前に教育的な指導(33章10など節)、また裁判官としての務め(17章8,9節など)を担います。

 預言者を立てる約束の前に異教の習慣への警告が告げられるのは、イスラエルの周辺に住む諸民族の間で預言者と言われる人々が、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者(10節)だったからです。そのようなかたちで将来起こる出来事や、隠されている神の御心を探り知ろうとするあらゆる種類の営みを拒絶しています。

 それに対して、私たちが主なる神の御心を知る手段、方法が、主によって示されます。それが、冒頭の言葉(15節)の「わたしのような預言者を立てる」という宣言です。「わたしのような」とは、モーセのような預言者のことで、主が彼のような預言者を立てると約束しておられるのです。

 イスラエルの民は、モーセに率いられてエジプトを脱出し、荒れ野を旅して来ました。今、約束の地を目前にしています。そして、モーセには約束の地を踏むことが許されていません(1章37節、3章23節以下など)。

 神は、後継者としてヌンの子ヨシュアを任命されました(民数記27章18節以下)。「あなたたちは彼に聞き従わねばならない」と言われるとおり、ヨシュアを通して神に聴き従うことを、神は求められるのです。

 ここで、「預言者を立てる」という言葉には、未完了形の動詞が用いられています。未完了形とは、ある動作が継続していて、完了していないという文法的な表現です。つまり、継続的に預言者が立てられるということで、イスラエルを指導する者が絶えることはないという約束と読むことが出来ます。

 預言者が立てられる根拠は、民がホレブでそれを求めたからと言われます(16節)。それは、モーセが十戒を授かった折、民がモーセに御言葉の取次ぎを頼み、神が直接民に語りかけることがないようにして欲しい。そうでないと死んでしまう、と願ったことです(出エジプト記20章19節)。

 神がモーセをイスラエルの指導者として任命したのも、ホレブでした(同3章1節)。その際、「このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」と言われました(同4章12節)。ですから、これから立てられる預言者も、「その口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう」と言われます(18節)。

 ホレブに関わりのある預言者として、エリヤの名を挙げることが出来ます。エリヤは、カルメル山でバアルとアシェラの預言者らに打ち勝ちましたが(列王記上18章)、その後、アハブ王の后イゼベルに脅されて(同19章2節)、南方に逃げ出します。もう死んでしまいたいと思うほど、追い込まれてしまいました(同4節)。

 御使いがエリヤを励まして、ホレブまで連れて行きます(同5節以下、8節)。エリヤはそこで、主の御前に立たされされます。そして、激しい風が起こって岩を砕いたり、地震が起きたり、火が降って来たりしました(同11,12節)。

 これは、モーセがシナイ山で主から律法を授かったときの光景を思い起こさせます(出エジプト記19章16節以下)。つまり、エリヤが第二のモーセとして立てられたかのような印象です。

 そして、モーセとエリヤといえば、主イエスの山上の変貌の出来事を思い出します。主イエスがご自分の受難と復活をはっきり語られてから、高い山に登られました(マルコ9章2節以下など)。そこにエリヤがモーセと共に現れて、姿のお変わりになった主イエスと語り合っていたというのです。

 そのときに天から、「これはわたしの愛する子。これに聞け」(同7節)という声がします。「これに聞け」という声は、冒頭の言葉で「あなたたちは彼に聞き従わねばならない」と言われていることです。つまり、申命記における約束の預言者とは、モーセとエリヤからバトンを受けた神の御子イエス・キリストのことであると、福音書記者は告げているのです。

 使徒言行録でも、申命記18章18,19節を引用しながら、使徒ペトロが、モーセのような預言者とは、まさにイエスのことであると、説教の中で語っています(使徒3章21節以下)。

 こうして神は、エジプトを出て以来、イスラエルの民のために御言葉を語る預言者を備え、その御旨を示し続けて来られました(ヘブライ書1章1節)。その最後に御子イエスをお遣わしになったのです(同2節)。

 御子イエスは私たちに永遠の命を授け(ヨハネ福音書3章16節)、神の子とし(同1章12節)、天の御国に導き入れてくださいます。御子は今も生きておられ、御自分を信じる者を完全に救うことがお出来になるのです(ヘブライ書7章25節)。

 今日も、信仰をもって神の御言葉に耳を傾けましょう。その恵みのうちを歩みましょう。

 主よ、イスラエルの民を救い出すためにモーセをお立てになり、神の救いが全人類に及ぶように御子イエスをお遣わしくださいました。その恵みに感謝し、怠らず御言葉に耳を傾け、霊に燃えて主に仕える者としてください。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祝福を祈らせてください。 アーメン






12月29日(金) 申命記17章

「彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。」 申命記17章18,19節

 まだ、約束の地に入ってもいないときに、主がモーセに対し、14節以下「王に関する規定」を伝え、命じています。約束の地を獲得したイスラエルの民が王を立てるように求めるのは、それから何百年も後のことです。

 サムエル記上8章によれば、まず、イスラエルの民が預言者サムエルに、「他のすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください」(同5節)と求めました。その理由を、「あなたは既に年をとられ、息子たちはあなたの道を歩んでいません」と説明しています。これは、まるでサムエルが仕えた祭司エリの家庭と同じです(同2章12節以下)。

 民の求めを聞いたサムエルには、王を立てることは悪しきこととと思われました(同8章6節)。他の国々のように王を持ちたいという要求は、目に見えない神よりも、見える王に頼りたいという思いの表れであり、それは、異教の神々を慕う思いと連なることになるからです。

 そのとき、主なる神はサムエルに「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ」(同7節)と言われ、サムエルに同意しながらも、民が求めるとおりに王を立てることを承認しています。王を立てなければ民は神に忠実に従い、王を立てれば民は神に背くというものでもないからです。

 王に関する規定の中で「周囲のすべての国々と同様、わたしを治める王を立てよう」(14節)と、王を立てる理由を述べていることから、それはイスラエル周辺の王国をモデルにしていますが、そもそも王を立てることは、上記のとおり人間側にある願望であって、主がそれを許容されるにあたりその条件が提示されています。その意味で、ここにあるのはイスラエルにおける理想的な王の姿です。

 まず、「主が選ばれる者を王としなさい」(15節)と言われ、外国人は王の候補者から除外されます。それは、異邦人に対する偏見というより、主なる神のみを礼拝するという基本的な戒めに従おうとしない外からの宗教的勢力を排除する姿勢を明示したものといってよいでしょう。

 次いで、「馬を増やしてはならない」(16節)、「大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない」、「銀や金を大量に蓄えてはならない」(17節)と、主なる神に信頼せず、軍事力や冨、跡取りをもうけるシステムなどを整備してそれに頼ることがないよう禁止命令が告げられます。

 そして冒頭の言葉(17,18節)のとおり、「律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない」と言われます。ここに、王の使命は軍事力や裁判の能力などでなく、イスラエルの民の模範として主を畏れ、御言葉に忠実に従うことであることが示されます。

 それゆえ、王は民の上に立てられるものですが(15節)、しかし、同胞を見下して高ぶることは許されません(20節)。その戒めから右にも左にも逸れることがないようにと忠告されています。このような規定がなされているのは、イスラエルに立てられた王が、主を畏れ、この戒めに従って民を治める道から逸れている例が数々あったからでしょう。

 ダビデの子ソロモンは、馬を増やすな、大勢の妻を娶るな、銀や金を大量に蓄えてはならないといわれた規定にことごとく反しています(列王記上10章14節以下、11章3節)。その結果、王国がソロモンの死後、南北に分裂し(同12章)、その子らも同様の道をたどって、ついに国が滅んでしまいました(列王記下17章、25章)。

 あらゆる知恵と知識に精通していた(同5章9節以下)ソロモンに欠けていたもの、それは、主なる神を畏れ、その御言葉に忠実に従う心です(列王記11章1節以下、9,10節)。主を畏れることを忘れたソロモンは、自分の博識を真に生かす術を失ってしまったのです。知ってはいても、従わないのであれば、知らないのと同じです。

 「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」(箴言1章7節)とは、そのことです。箴言の著者がソロモンだと言われていますので(同1節)、まさに、自らの振る舞いで、己が無知を表しています。

 あらためて、そうならないための規定が、冒頭の言葉(18,19節)です。「この律法の写しを作れ」を直訳すると、「自分自身のために、律法の写しを書く」という言葉です。王が自ら筆を取って書き写せば、その内容に精通することになるでしょう。そして、王はそれを手もとに置き、繰り返し読み返して主を畏れることを学び、御言葉と掟を忠実に守らねばなりません。

 以前に学んだとおり、この「律法の写し(ミシュネー・ハットーラー)」を、ギリシャ語訳旧約聖書(セプチュアジンタ=七十人訳)がデウテロノミオンと訳しました。「デウテロス」が第二、「ノミオン」が律法で、第二の律法という意味になります。「申命」というのは、重ねて命じるという意味で、デウテロノミオンの訳語なのです。

 旧約聖書の時代、紙は高価で一般人には手の届かないものでした。ですから、自分で聖書を持つのは不可能でした。イスラエルの国で、祭司と王が持っているだけだったのです。だから、祭司や預言者が王を指導し、王がそれを実践するという形で、聖書に記されている主の御心が民に伝えられたわけです。

 今日、私たちは聖書を自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、主を畏れることを学び、すべての言葉と命令を忠実に守ることが出来ます。主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人は、本当に幸いです(詩編1編1,2節)。

 主はその人に、「その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」と約束されています(同3節)。

 たえず御前に謙り、繰り返し御言葉に耳を傾けましょう。

 主よ、あなたこそ生ける神です。あなたを畏れ、御前に謙ります。御言葉を聴かせてください。御心を教えてください。御言葉を忠実に守る信仰をお与えください。朝ごとに御前に出て、あなたを仰ぎ望みます。祈りを聞き届けてください。 アーメン





12月28日(木) 申命記16章

「アビブの月を守り、あなたの神、主の過越祭を祝いなさい。アビブの月のある夜、あなたの神、主があなたをエジプトから導き出されたからである。」 申命記16章1節

 16章には、「三大祝祭日」についての規定が記されています。

 年の初めに行われるのは、「主の過越祭」です。冒頭の言葉(1節)で「アビブ」とは、出エジプト記9章31節の「大麦はちょうど穂の出る時期で」という言葉の「穂」のことです。即ち、「アビブの月」とは、大麦が穂を出す月ということで、現在の3~4月を指しています。出エジプト記12章2節に「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」とあります。

 なお、エステル記3章7節に「クセルクセス王の治世の第十二年の第一の月、すなわちニサンの月に」とあります。「ニサン」とは、バビロンの暦で正月を指す表現です。

 メギドでヨシア王率いるユダヤの軍をエジプトのファラオ・ネコが撃破しましたが(列王記下23章29節)、バビロン軍がそのエジプト軍をカルケミシュで打ち破り、パレスティナを支配下に置くことになりました。その頃からバビロンの暦が用いられるようになったようで、「ニサンの月」も、イスラエルの正月を指すことになります。

 イスラエルの民は、大麦が穂を出す1月の14日の夜、主の過越祭を祝います(出エジプト記12章6,18節)。過越祭は、エジプトの全家を襲った災いがイスラエルの家を過ぎ越し、つまり、ただ通過するだけで、何の災いも起こさなかったという出来事を記念するものです。この出来事によって、イスラエルの民はエジプトの奴隷の苦しみから解放されたのです。

 イスラエルの民は、これまでも繰り返し、過越祭を含む三大祝祭日を守るように、命じられて来ました(出エジプト記23章14節以下、34章18節以下、レビ記23章4節以下、民数記28章16節以下)。

 大麦の収穫を喜び祝う祭りをエジプトから導き出された過越の出来事と融合させ、それを正月とすることで、年の初めに大麦の収穫をお与えくださった主なる神に感謝すると共に、出エジプトに示された神の恵みの出来事を想起させて感謝し、信仰を新たにします。

 農事暦とイスラエル救済の出来事が一つになって祝われるということは、イスラエルが約束の地を獲得して、そこで農業を営む平和な社会を築くことが出来るということです。そして、そのような生活を営むことが出来るのは、神の救いの出来事がなされたためであるということを、年三度の祭りのリズムで記念し(3節)、信仰を養うのです。

 今日、私たちは過越祭をイースターとして祝います。パウロが「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」(第一コリント5章7節)と記しているのは、過越祭とイースターとの結びつきを示しています。

 過越の小羊を屠り、その血を鴨居と入り口の二本の柱に塗った家は、初子が打たれるという災いが過ぎ越しました(出エジプト記12章)。小羊が初子の身代わりになったかたちです。

 過越の小羊として十字架で血を流された主イエスを仰ぐ者は、律法の呪いから開放され、救われます。神の御子キリスト・イエスが私たちの身代わりとなられたのです。コリントの人々は、勿論ユダヤ人ではありませんが、このように、パウロを通して主の過越を主イエスによる自分たちの救いの出来事として学んだのです。

 主イエスは十字架にかけられる前日、弟子たちと最後の晩餐をなされ(マルコ14章22節以下)、それを記念として行えと命じられました(第一コリント11章24,25節)。最後の晩餐は、年に一度行われる過越の食事でした(マルコ14章12節など)。

 キリスト教会は、この過越の食事を、年に一度ではなく、多くのプロテスタント教会では月一度(第一日曜日)、カトリック教会の修道院では毎日、主の晩餐(聖餐=ミサ)として頂いているのです。

 「過越のいけにえを屠ることができるのは、あなたの神、主が与えられる町のうちのどこででもよいのではなく、ただ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所でなければならない」(5,6節)というのは、民が主の定められた場所において、皆で会食するということです。

 「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(第一コリント10章17節)とあるように、主の晩餐式は、会衆が一致してキリストの体なる教会を建て上げるために定められています。絶えず神より賜った恵みを思い起こし、心から主を賛美しましょう。

 主よ、私たちがあなたを神として選んだのではありません。あなたが私たちを選び、神の子どもとしてくださいました。そのために御子キリストが犠牲を払われました。毎月第一主日(日曜日)に、主の贖いを記念する晩餐式を執り行います。主の恵みを無駄にせず、委ねられた宣教の使命を果たすことが出来ますように。伝道する教会、主の恵みを証しする信徒になることが出来ますように。 アーメン 





12月27日(水) 申命記15章

「彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのためにあなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。」 申命記15章10節

 1節に「7年目ごとに負債を免除しなさい」とあります。「負債を免除しなさい」は、「負債の免除」(シェミッター)と「実行せよ」(タアセ)という言葉遣いで、2節に「負債を免除する」(シャーマト)という動詞形があります。

 名詞形の「シェミッター」はすべて申命記だけで用いられていますが、動詞形の「シャーマト」は出エジプト記、サムエル記、列王記、歴代誌、詩編、エレミヤ書などで合計10回用いられています。一番最初に登場する出エジプト記23章11節で、「休ませる」と訳されているのが「シャーマト」です。

 7年周期でその終わりの年、7年目は、土地を休ませて休閑地としなければならないと規定されています。農耕を休むというのは、土地を休ませるということですが、その主眼は、自然に実ったものを民の貧しい者や野の獣の食物とすることで、即ち、自分たちのために畑地を利用して収穫を得ることが禁じられているのです(レビ記25章2節以下も参照)。

 土地を休ませる安息年の規定に続けて、安息日が規定されています(出エジプト記23章12節)。それは、家畜や奴隷、寄留者が休みを得て、元気を回復するという人道的な規則です。

 今日の箇所では、土地を休ませるという規定が経済活動に広げられて、7年目(安息年)ごとに同胞の負債を免除しなさいと命じられています。さらに12節以下には、7年目ごとに同胞の奴隷を解放せよと定められています。

 ただ、負債を免除する対象はイスラエルの同胞に限られており、外国人からは取り立ててもよいとあります(3節)。どうように、解放されるのは同胞ヘブライ人の奴隷だけで、捕虜になって奴隷とされたものを解放せよとはいわれていません。つまり、これらの命令は、経済的ルールではなく、イスラエル同胞を家族と見なすようにという命令なのです。それを、安息年ごとに確認せよということです。

 家族の間で貸し借りが生じること、負債が生じることがあるでしょう。その負債について、7年ごとに免除して関係を新しくせよというのです。家族に対してというなら、そういうこともあるかなと思いますね。家族相手なら、負債免除だけでなく、追加支援、追加投資ということだってあるでしょう。

 勿論、家族ならば無責任に貸し借りしてもよいということではありません。借りた物は返す義務があるでしょう。責任を果たさない人は、信用されなくなりますよね。けれども、事情によっては、それが出来ないこともあります。そのようなとき、7年目にはそれを免除しなさいと言われます。イスラエルの民がこの命令に聞き従う時、貧しい者はいなくなると約束されています(4節)。

 負債を免除したから、それで貧しい者がいなくなるというのではありません。借金体質そのものが直らなければ、直にまた借金生活に逆戻りです。冒頭の言葉(10節)にあるとおり、主が命令に従う者の手の働き、その務めを祝福されるというのです。換言すれば、神の祝福を受けるために、同胞の負債を免除せよということです。

 考えてみてください。私たちは負債を免除するほうでしょうか、免除されるほうでしょうか。そうです。私たちは、主によって免除される側の人間です。今も、毎週7日目ごとに主なる神から負債を免除していただいています。主の赦しなしには生きられません。

 これまで、主イエスによって、どれほどの負債を免除されてきたでしょうか。計算することも出来ませんが、主イエスがご自分の命で払わなければならないほどの負債です。私たちが自分で負いきれない負債を、主イエスが身代わりに受けてくださったのです。それは、私たちを神の家族、主の民とするためです。

 そんなことをして、主イエスに何の得、何の益があるのでしょうか。何もありません。ただ、私たちが真の救いに与ったとき、救いが完成したとき、主イエスは神の家族、主の民を一人得ることになります。つまり、主なる神は神の家族を獲得するために、ご自分の独り子を犠牲とされ、私たちの負債を免除してくださったのです。ただ感謝あるのみです。

 戒めを忠実に守るならば、その結果、「多くの国民に貸すようになる」(6節)、「多くの国民を支配するようになる」(6節)という祝福の約束も記されています。国民に貸す、支配するというのは、相手を酷い目に遭わせるというようなことでは決してない。愛をもって人々に仕える、主イエスのような者に変えられるということでしょう。そして、更に豊かな祝福に与らせていただくことでしょう。

 家族が共に愛し合う、共に歩み、共に生きることが出来る、これが最も大きな祝福です。貧しい者は一人もいない。豊かに生きることが出来るという祝福です。神が御言葉に従う者たちに、その祝福をお与えくださるのです。

 私たちが日毎に頂いている御言葉ひとつひとつを、注意深く真剣に聴きましょう。今私たちは、御言葉を聴き、御言葉に従う訓練を、この申命記を通して与えられているのです。絶えず主の御言葉に耳を開き、注意深く聴いて、従って参りましょう。

 主よ、あなたはキリストを通して賜った愛をもって、互いに愛し合えとお命じになりました。本当にどれほどの愛をキリストから賜ったか、悟らせてください。心と体で教えてください。そして、主の民、神の家族として愛し合うことを学ばせてください。互いに助け合い、赦し合い、仕え合うことが出来ますように。 アーメン





静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。

②「今週の報告」、「フォトギャラリー」を更新しました。

③「お知らせ」は随時更新しています。

④「今日の御言葉」は毎日更新しています。



御覧ください。

12月26日(火) 申命記14章

「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである。死者を悼むために体を傷つけたり、額をそり上げてはならない。」  申命記14章1節

 冒頭の言葉(1節)に「死者を悼むために体を傷つけたり、額をそり上げてはならない」という禁止命令があり、その理由が「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである」と説明されています。ということは、カナン人たちが死者を悼むために体を傷つけたり、額をそり上げるという宗教儀式を行っていたのでしょう。

 イザヤ書15章2節、エレミヤ書47章5節、ホセア書7章14節などとの関連から、イスラエルの民は後代まで、異教の慣習から離れることがなかったようです。だからこそ、ヨシヤ王(BC640~609在位)の時代に執筆されたと考えられる申命記に、禁止命令として記されているのです。

 続けて、「清い動物と汚れた動物」(3節以下)について記しているのも、同じような観点から、イスラエルの民を異教的な生活習慣から離れさせるための手引きだったものと考えられます。 

 あらためて、冒頭の言葉に「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである」とあります。「主の子ら」(バーニーム・ラ・アドナイ)というのは、聖書中ここだけにしか出て来ない、とても珍しい表現です。

 ただ、32章5節の「もはや神の子らではない」は、原文を直訳すると「もはや彼の子らではない」で、「彼」は前節の「主」を受けていますから、意味をはっきりさせるなら、「主の子ら」となるところです。口語訳、新改訳はそのように訳しています。

 イスラエルの民を「神の子」と呼んでいるのは、旧約聖書中、詩編29編1節とホセア書2章1節だけです。それ以外に4回「神の子」が出て来ますが、創世記6章2,4節、ヨブ記38章7節とダニエル書3章25節では、天使というべき存在を、そのように呼んでいると考えられます。

 もう一箇所、申命記32章8節にも「神の子らの数に従い」とありますが、原文には「イスラエルの子らの数に従い」(レ・ミスパル・ブネー・イスラエール)と記されていて、口語訳、新改訳は正しく訳しています。

 岩波訳も「イスラエルの子らの数に従って」と訳していますが、脚注に「マソラ本文の校訂者は『神の子らの数に』と読み替えることを示唆。70人訳は『神の御使いたちの数に』」と記されていました。新共同訳は、それに従って「神の子ら」(ブネー・エール)と読み替え、訳出したようです。

 また、主なる神がイスラエルの民を「わたしの子」と4回呼んでいます(出エジプト記4章23節、詩編2編7節、イザヤ書45章11節、エゼキエル16章21節)。そして、ダビデを指して「わたしの子」と呼ぶ例が2回(サムエル記下7章14節、歴代誌上17章13節)、ソロモンのことを「わたしの子」と呼ぶ例が2回(歴代誌上22章10節、28章6節)あります。

 ところで、イスラエルの人々が自ら積極的に「わたしは神の子です」と宣言する箇所、そのように信仰を告白することは、旧約の時代にはありませんでした。そういう人がいれば、それは神を冒涜することとして、神に打たれることになったでしょう。

 その意味で、イスラエルの民一人一人を指す言葉として、「あなたたちは、主の子らである」と言われているところ、そして、個人を指して、「わたしの子」と呼ぶ例は、新約聖書の信仰につながってくるところです。

 新約聖書では、「神の子」あるいは「御子」が120回ほど出て来ます。大半、神の御子イエス・キリストを指して用いられますが(マルコ1章1節など)、20回ほど、主イエスを信じる者を指して用いられます(ヨハネ1章12節など)。また、平和を実現する人々が神の子と呼ばれ(マタイ5章9節)、使徒言行録17章29節は、アテネの人々を含め全人類を神の子孫としています。

 言うまでもなく、私たちは人間から生まれた人間の子であって、イエス・キリストと同じ神の子ではありません。神の子だから、主イエスを信じることが出来たというわけでもありません。

 イエス・キリストが私たちの罪の贖いの供え物として、十字架に死んでくださり、私たちに命を授けてくださるという一方的な恵みによって、神の子としていただいたのです。神の深い憐れみなしには、私がどんなに逆立ちしても、神の子になれるはずはないからです。

 ということは、「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである」と言われているのは、憐れみ深い神の一方的な恵みの宣言ということになります。そして、イスラエルの民が神の子とされたのは、すべての者に神の恵みが証しされるためでした。アブラハムが祝福の源とされ、アブラハムによって地上のすべてが祝福に入ると言われているからです(創世記12章2,3節)。

 主イエスを信じる信仰によって、神の子として頂いた私たちも、「主の聖なる民」であり、「地の面のすべての民の中から」、神の「宝の民」とされた者です(2節、一ペトロ2章9節)。

 私たちは土の器に過ぎませんが、内側には永遠の宝を宿しています(二コリント4章7節)。主イエスが内にいて下さるからこそ、宝の民なのです。主のものとされたのですから、主の恵みに感謝して、その愛の御業をあまねく宣べ伝えましょう。

 主よ、欠けだらけの土の器である私たちを憐れみ、神の選びの民に加えてくださったことを感謝します。私たちの内に宝なる主がおられます。主に愛されている僕として、いつでも主の恵みを証しし、キリストの福音を宣べ伝える者となることができますように。聖霊の満たしと導きに与らせてください。そして、多くの人々が豊かに恵みを受けられますように。 アーメン






12月25日(月) 申命記13章

「あなたたちは、わたしが命じることをすべて忠実に守りなさい。これに何一つ加えたり、減らすことがあってはならない。」 申命記13章1節(口語訳、新改訳は12章32節)

 冒頭の言葉(1節)に「これ(わたしが命じること)に何一つ加えたり、減らすことがあってはならない」と言われています。これは、既に4章2節で、「あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい」と記されていました。

 新約聖書のヨハネの黙示録22章18,19節にも「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる」という言葉があります。

 あらためてこの言葉を聴きながら「何一つ加えたり、減らすことがあってはならない」という言葉に思いが止まりました。たとえば、刑法は時代の変化と共にその条項が増えていくでしょう。想定外の犯罪が起きると、それを禁ずる項目が付け加えられるわけです。

 あるいはまた、時代に合わなくなって削られる条項も出て来るでしょう。価値基準などが変わって、量刑が変更されることもあるでしょう。何一つ変えてはならないということになれば、司法が硬直してしまうことになるのではないでしょうか。

 また、パウロが「今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、霊に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」(ローマ書7章6節)と記して、律法を文字通りに守ることを「文字に従う古い生き方」と呼んでいるのは、冒頭の言葉と矛盾しないのでしょうか。

 そういえば、使徒言行録10章でペトロが幻を見て、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥などを屠って食べよという声を聞いたとき、「主よとんでもないことです。清くないもの、汚れたものは何一つ食べたことがありません」(同14節)と答えると、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」(同15節)と言われたこともあります。これは、変更ではないのでしょうか。

 ここまで考えて来て、気がつきました。それは「何一つ加えたり、減らすことがあってはならない」と言われているのは、私たち人間です。それに対して、パウロが語っているのは「霊に従う」こと、つまり、文字に従う古い生き方ではなく、聖霊なる神に従う生き方です。私たちの生き方を変えられるのは、「聖霊」なる神であるということです。

 また、ペトロが幻の中で聞いたのは「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という言葉でした。ここに明らかなように、食物の規定を変えられたのは、神ご自身なのです。ということから、私たちが自分の都合や自分の考えで、勝手に書き加えたり、削除したりして、神の教えに変更を加えるような真似をしてはならないと言われているわけです。

 12章8節の「あなたたちは、我々が今日、ここでそうしているように、それぞれ自分が正しいと見なすことを決して行ってはならない」との言葉から、自分が正しいと見なす変更を加えるということは、人間には許されていないということになります。

 特に、冒頭の言葉が異教の神礼拝に対する警告との関連で語られていることから(12章29節以下、13章2節以下、4章3,4節も参照)、これは主なる神に対する信仰を明確にし、御言葉に従う姿勢を鮮明にするようにという、強いメッセージです。

 そのような強いメッセージが繰り返し語られるということは、主を畏れ、御言葉に従おうとするイスラエルの民の信仰を妨げるもの、脅かすものがいるということです。それを聖書は悪魔、サタンと呼んでいます。

 パウロは「悪魔の策略に対抗して立つことが出来るように、神の武具を身に着けなさい」と言いました(エフェソ6章11節)。それは、御言葉に堅く立つことが出来るように、聖霊に導かれ、主に祈り願うということです(同18節)。

 占星術の学者たちが主イエスと出会い、喜び溢れて贈り物を献げた後(マタイ福音書2章11節)、「ヘロデのところへ帰るな」(同12節)というお告げを受けて、別の道を通って自分たちの国へ帰りました。主イエスとの出会いが、彼らに星占いの道を離れ、主の御言葉に従うという新たな道を歩む導きとなったのです。

 主の救いの恵みに与った者として、日々主の御言葉に耳を傾けましょう。右にも曲がらず左にも逸れず、まっすぐその導きに従うことができるよう、聖霊の導きを絶えず祈り求めましょう。聖霊の力を受けて、委ねられた主の御業に励みましょう。

 主よ、あなたの御言葉は、私たちの道の光、私たちの歩みを照らす灯火です。日々御言葉を与えてください。御言葉に与って、命を得させてください。あなたの定めがとこしえに私たちの嗣業です。それが私たちの心の喜びです。とこしえに従って参ります。私たちの祈りを受け入れてください。 アーメン




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