風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2017年11月

11月30日(木) 民数記24章

「わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。ひとつの星がヤコブから進み出る。ひとつの笏がイスラエルから立ち上がり、モアブのこめかみを打ち砕き、シェトのすべての子らの頭の頂を砕く。」 民数記24章17節

 1節に「バラムは、イスラエルを祝福することが主のよいとされることであると悟り、いつものように、まじないを行いに行くことをせず、顔を荒れ野に向けた」とあります。荒れ野に宿営しているイスラエルの民を眺めていると、神の霊がバラムに臨んだのです(2節)。まるで、バラムがイスラエルの主なる神の預言者であるかのような表現です。

 確かに、23章で主の託宣を受ける際には、「主は、バラムの口に言葉を授け」(23章5節)、「主はバラムにあい、彼の口に言葉を授け」(同16節)と言われていました。

 バラムは4節で「神の仰せを聞き、全能者のお与えになる幻を見る者、倒れ伏し、目を開かれている者の言葉」と述べています。今ここに私利私欲を離れ、また呪いなどによらず、主なる神に目が開かれて預言を語るというのです。まさにバラムは「イスラエルを祝福することが主のよいとされることであると悟り」、それによって祝福を受けているのです。

 4節の「倒れ伏し」というのは、神の霊の力によって、神に従うこと以外の道がすべて閉ざされた、もはや神の前に無条件降伏だという表現でしょう。そしてそれは、バラムにとって屈辱などではありません。「いかに良いことか、ヤコブよ、あなたの天幕は、イスラエルよ、あなたの住む所は」(5節)と祝福するところに、その喜びが言い表されています。

 しかしながら、イスラエルを呪うために招いたはずの預言者バラムが、このように再三祝福を語るのを聞いて、モアブの王バラクは激しく怒り(10節)、「自分のところに逃げて帰るがよい。お前を大いに優遇するつもりでいたが、主がそれを差し止められたのだ」と告げます(11節)。ぐずぐずしていれば、罰を与えるぞという脅迫です。

 当初、報酬に目がくらんでいたバラムですが(22章31節以下)、王バラクの脅迫に対して「たとえバラクが、家に満ちる金銀を贈ってくれても、主の言葉に逆らっては、善にしろ悪にしろ、わたしの心のままにすることはできません。わたしは、主が告げられることを告げるだけです」(13節、22章18節)と答えます。

 王の言葉に怖気づくどころか、却ってその感情を逆なでするかのように、「あなたに警告しておきます」(14節)とさえ告げています。そうして15節以下、第4の託宣を述べます。

 そこに、今バラムが見ている幻が語られます。それは、冒頭の言葉(17節)に見るとおり、「彼」、「星」、「笏」として語られている、イスラエルに優れた指導者が出現するという預言です。しかし、それは、既に存在しているとか、すぐに登場して来るということではありません。「今はいない」、「間近にではない」と言われているからです。

 特に、「笏」は王権を示すものであり、「星」もその栄光と輝きを表わしています(黙示録22章16節も参照)。イスラエルの王として登場して来る人物が、「モアブのこめかみを打ち砕き、シェトのすべての子らの頭の頂を砕」きます。「シェト」について、18節の「エドム」と「セイル」は同じ意味であることから(創世記32章4節)、これはモアブのことを言っていると考えてよいでしょう。

 サムエル記下8章2節に「(ダビデは)モアブを討ち、彼らを地面に伏させて測り縄で測り、縄二本分の者たちを殺し、一本分の者は生かしておいた。モアブ人はダビデに隷属し、貢を納めるものとなった」と記されています。

 勿論、バラムはダビデのことを知って、そのように預言したわけではないでしょう。いつしか、一人の優れた王が登場してきて、モアブを討つと語ったわけですが、それがダビデ王の代に実現することになるわけです。

 それは、バラク王がバラムを召した際に「あなた(バラム)が祝福する者は祝福され、あなたが呪う者は呪われることを、わたし(バラク)は知っている」(22章6節)と伝えさせていたとおり、バラムを通して語られた祝福がイスラエルに臨み、イスラエルを呪わせようとしたその呪いがモアブに臨んだということです。

 それはまた、バラムがイスラエルを祝福して「あなた(イスラエル)を祝福する者は祝福され、あなたを呪う者は呪われる」(9節)と語っていたことでもあります。イスラエルを祝福するバラムは祝され、イスラエルを呪わせようとしてそれに従わなかったバラムを脅迫したモアブに、主の呪いが及ぶのです。

 アブラハムは祝福の源となるように召され、祝福を受けました(創世記12章2,3節)。信仰に生きる者こそ、アブラハムの子だとパウロは言いました(ガラテヤ書3章7節)。主イエスを信じる信仰に生き、アブラハムの子とされた私たちは、祝福の源となるように召されたのです。

 ペトロも、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱の報いてはなりません。かえって、祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(第一ペトロ3章9節)と記しています。

 主の御前に謙り、日々その御言葉に耳を傾け、導きに従って歩みましょう。

 主よ、世界にキリストの平和が実現されるため、命を愛し、舌を制して悪を言わず、唇を閉じて偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願ってこれを追い求めます。世界から貧困や虐待、差別、迫害などがなくなりますように。国々の指導者たちをはじめ、上に立つ者たちを祝福し、神の平和の御心を実現する者としてください。 アーメン





11月29日(水) 民数記23章

「あなたは、何ということをしたのですか。わたしは敵に呪いをかけるために、あなたを連れて来たのに、あなたは彼らを祝福してしまった。」 民数記23章11節

 モアブ人の王バラクは、預言者バラムが自分の思い通りにイスラエルを呪ってくれると期待しました。バラクはアモリ人をうち破ったイスラエルを恐れていました。自分たちを守るためには、神の呪いをかけてもらうしかないと考え、最強の預言者バラムを、ユーフラテス川流域の町ペトルから招いたのです。それが成功すれば、報酬に糸目を付けないつもりでした。

 バラク王に招請された預言者バラムは、王の意に適う預言をしなければ、預言者としての地位や経済的な基盤だけでなく、生命さえ失うこともあり得ます。安定した豊かな生活を望むなら、王の意に添う預言をすることでした。

 しかし、22章の出来事を通じてバラムは、神の告げられたことだけを語るように、強く示されていたのです。預言者とは、神が告げられたことをそのまま語る務めをなす者です。人の意向を汲み、相手の気に入る言葉を語るというのであれば、それは預言ではなく、甘言、巧言でしょう。聞く人の気持ちをよくするというだけで、実際には何の助けにもなりません。

 「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」(サムエル記上15章22節)という言葉があります。御言葉を聞くために犠牲がささげられましたが(2,14節)、神が喜ばれたのは、謙って神に聴き従うバラムの心でした。

 バラムは、モアブの王バラクの求めに従ってイスラエルを呪うどころか、逆にイスラエルを祝福する言葉を告げます。イスラエルを祝福し、出来ることならイスラエル人になりたい(10節参照)とまで言うバラムに驚愕したバラクは、彼を別の場所に連れて行きます(27,28節)。

 預言者バラムがイスラエルを祝福したのは、イスラエルの民の数や勢いに圧倒されたのかも知れないとバラクは考えたのでしょう。だから、イスラエルを呪うことに集中してもらうため、彼らの姿が見えないところで、呪いの儀式を行ってもらいたいと考えたわけです。

 しかし、手を変え、品を買えてもバラムはイスラエルを祝福することをやめません。自分たちの生存を脅かすイスラエルを祝福する言葉は、バラクにとって聞くに堪えない、むしろ自分自身への呪いの言葉に聞こえたことでしょう。

 とうとうバラクは激しく怒り、バラムを無報酬で追放することになります(24章10~11節)。バラクの心は、イスラエルに対する恐れとバラムに対する怒りで、ますます混乱してしまったでしょう。彼はどうすればよいのでしょうか。

 バラムがイスラエルを祝福して、「見よ、これは独り離れて住む民、自分を諸国の民のうちに数えない」(9節)と語っています。独り離れて住むというのは、独りぼっちということではなく、他には類を見ないとてもユニークな存在、神に選ばれた特別な民であるという意味です。それは、イスラエルが祝福の源であり、すべての民はイスラエルによって祝福に与ることが出来るということでしょう。

 神はアブラハムに対して「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記12章2,3節)と約束されました。バラムはイスラエルを祝福して、神の祝福に与ったのです。

 考えてみると、バラムはバラクに逆らっているのではありません。むしろ、バラクを守り、祝福に与らせようとしているわけです。イスラエルを祝福することがバラムの祝福となり、彼を招請したモアブ王バラクとその民を祝福することになるからです。

 逆に、イスラエルを呪うことは、自分に呪いを招くことです。このことは、ロバが預言者バラムの言うことを聞かなかったのは、主の御使いの剣からバラムを守ろうとしたことだったという出来事と同じです。

 しかし、敵を祝福するのは、バラクでなくても、容易く出来ることではありません。自分の感情に従うならば、それは不可能でしょう。もし出来るとすれば、それは神の御言葉に信頼することです。神が祝福せよと言われるから、敵を祝福するのです。

 それをまず神が、私たちのためにそれを行ってくださいました。神は、私たちがまだ弱かったとき、罪人であったとき、敵であったときに私たちを愛して、私たちのために独り子イエス・キリストを遣わし、十字架で贖いの業を完成してくださったのです。

 私たちを愛して命を捨ててくださった主イエスの教えに従い、呪いの相続を祝福の相続に変えましょう。呪いの言葉を祝福の祈りに変えて、幾千代にも及ぶ神の祝福に与らせていただきましょう(出エジプト20章6節など参照)。

 主よ、以前、ルワンダの和解のプロジェクトについて聞きました。国の復興は、敵を赦すことからしか始まらないと教えられました。感動でした。自分を傷つけた者を決して赦せないでいる私たちを、敵を赦し愛する者と変えてください。敵としか思えない人のために祝福を祈る者としてください。主の平和と喜びが私たちの心を満たしますように。 アーメン




静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。
①「礼拝説教」に礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「フォトギャラリー」に連合女性一日研修会、講壇の花、世界祈祷週間行事、クリスマス飾り付けの写真を掲載しました。
④「お知らせ」は随時更新しています。
⑤「今日の御言葉」は毎日更新しています。
URL https://shizuoka-baptist.jimdo.com/

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11月28日(火) 民数記22章

「バラムは主の御使いに言った。『わたしの間違いでした。あなたがわたしの行く手に立ちふさがっておられるのをわたしは知らなかったのです。もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します』。」 民数記22章34節

 22~24章は、「バラクとバラム」について記されています。モアブ人の王ツィポルの子バラクは(4節)、おびただしい数のイスラエルの民が近づいて来るのを見て恐れをなし(2,3節)、「ユーフラテス川流域にあるアマウ人の町ペトルに住むベオルの子バラム」(5節)を招き、イスラエルを呪ってもらおうと考えました(6節)。

 21章27節以下に、モアブがアモリ人の王シホンに滅ぼされ、捕虜となったという歌が記されています。アモリ人の勝利を祝う歌がそこに記されているのは、モアブ人に勝ったアモリ人をイスラエル人が打ち破ったからです。モアブに勝ったアモリ人を打ち破ったイスラエルが、いかに強いのかということを強調しているわけです。

 それによって、モアブの王バラクがイスラエルの民を恐れるのは、当然の成り行きだということを示しているのです。そこで、バラクは、長老たちを使者として礼物を持たせ、イスラエルに呪いをかけることを依頼するために、遠路はるばる預言者バラムのもとに遣わします(7節)。

 しかし、バラムが主の前に伺いを立てると(10,11節)、主は「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ」(12節)と答えられました。それでバラムは、バラク王の使者に断りを告げます(13節)。

 バラク王は使者が役不足だったかと考えて、次には政府高官を派遣し(15節)、「あなたを大いに優遇します。あなたが言われることは何でもします」(17節)と、まるで、白紙の小切手を渡して、好きなだけの金額を書き込みなさいといわんばかりの招き方をしました。

 バラムは「たとえバラクが、家に満ちる金銀を送ってくれても、わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません」(18節)と言いつつ、もう一度神の前に出ます。すると、先には「彼らと一緒に行ってはならない」と言われた神が、「立って彼らと共に行くがよい。しかし、わたしがあなたに告げることだけを行わねばならない」(20節)と、方針を転換されました。

 「ところが、彼が出発すると、神の怒りが燃え上がった」と22節に記され、抜き身の剣を手にした主の御使いが、妨げる者となって道に立ちふさがります。「妨げる者」は「サタン」という言葉です。これは、どのように考えたらよいのでしょうか。

 ヨブ記1,2章で、サタンは天上における主の御使いたちの集いに、ヨブの告発者として登場しています。その意味で、単に道をふさいで邪魔していたというのではなく、ヨブを有罪として告発するために立ちふさがっていたわけです。

 23節以下の「バラムとろば」のやり取りは大変ユーモラスです。ろばが主の御使いを避けて道を逸れ、端に寄り、うずくまると、バラムは理由が分からず、ろばを打って思い通りに進ませようとします。バラムに三度も打たれたろばが口を開いて、バラムに抗議します。

 その時、主がバラムの目を開き、主の御使いを目にして、ひれ伏します(31節)。32節の主の御使いの言葉は難解です。「あなたはわたしに向かって道を進み、危険だったから、わたしは妨げる者として出て来た」という新共同訳の訳し方では、主の御使いがバラムを危険から守るために出て来たと読めます。

 けれども、それでは33節の「ろばがわたしを避けていなかったなら、きっと今は、ろばを生かしておいても、あなたを殺していたであろう」という言葉と合いません。守るために出て来たと言う主の御使いが、バラムを殺していたであろうというからです。

 「あなたはわたしに向かって道を進み、危険だったから」を、新改訳は「あなたの道がわたしとは反対に向いていたから」、岩波訳は「この道が、わたしの意に反する、堕落させる者だから」と訳しています。つまり、主の御使いが抜き身の剣をもって道をふさぎ、その道から逸れさせようとしていたと解釈される訳し方です。
 
 それにしても、ろばに見えた主の御使いが、預言者に見えなかったというのは、皮肉なことですね。それは、「立って彼らと共に行くがよい」(20節)という神の御告げに従った行動でしたが、バラムは「あなたを大いに優遇する。言われることは何でもします」(17節)という報酬の大きさに目がくらんでいたということだったのでしょう。

 最初に「一緒に行ってはならない、呪ってはならない」(12節)と告げられてたのですから、再度やって来た使者のために改めて託宣を求めているのは、その際に持ちかけられた報酬に、バラムの心が動かされていたという証拠でしょう。このようにバラムの心の内にあるものを、主の御使いが「妨げる者=サタン」となって告発しようとしていたわけです。

 新約聖書において、使徒ペトロが「バラムは不義のもうけを好み」(第二ペトロ書2章15節)と記し、主イエスの弟ユダも「金もうけのために『バラムの迷い』に陥り」(ユダ書11節)などと語っていて、バラムの行動が金儲けのためだったと指摘しています。

 主によって目が開かれ、抜き身の剣を持った主の御使いを見たバラムは、すっかり肝を潰して、冒頭の言葉(34節)を語りました。主の御前に、自分がろばよりも劣る者であることが明らかにされ、それゆえ、バラムが預言者であるのは、彼の能力によらず、主が彼を預言者として用いようとされているからだと、繰り返し教育されたのです。

 だから、「もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します」とバラムが言うのに対して主の御使いは「この人たちと共に行きなさい。しかし、ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい」(35節)と、先の託宣と同じことを告げます。

 ここに主なる神は、バラムをイスラエルを呪う呪(まじな)い師としてでなく、イスラエルを祝福する主の預言者として召し、モアブの王バラクのもとに遣わそうとされているのです。そのときにバラムが報酬などに心惑わされてしまわないように、主の御使いによって、しっかり釘を刺されたわけです。

 私たちも、置かれている状況や得られる利益、自分の目で見える行く末などに惑わされず、しっかりと御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩みたいと思います。

 主よ、知恵と啓示の霊を賜り、神を深く知ることが出来ますように。心の目が開かれて、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、そして、私たちに対して絶大な働きをなさる神の力だどれほど大きなものであるか、悟らせてくださいますように。 アーメン




11月27日(月) 民数記21章

「モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。」 民数記21章9節

 イスラエルの民は、祭司アロンが息を引き取ったホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回しながら、モアブの地を目指します(4,10節以下)。エドムを迂回するのは、領内を通過する許可が下りず、かえって強力な軍勢で迎え撃つと警告されたからです(20章14節以下、18節)。

 そこで、迂回路を進むほかなかったというわけですが、民は途中で耐えられなくなり(4節)、神とモーセに、「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか、パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます」(5節)と文句を言います。

 女預言者ミリアムや大祭司アロンを失って、この先、どうなるのかという不安が広がったのでしょうか。また、カデシュからネゲブに進んで来たのに、逆戻りするように南下して反時計回りにエドムを迂回するルートを進むのは、いつになったら約束の地につけるのかという思いにさせたことでしょう。その上、パンや水の蓄えもないという現実に、不満が出るのもやむを得ないという状況ではあります。

 しかしながら、彼らが「こんな粗末な食物」(5節)と呼んでいる「マナ」は、神が彼らのために提供されたものです(出エジプト記16章)。民は何の苦労もなく、毎朝それを集め、食事をすることが出来ているのに、あからさまに不平を言うということは、民の間に神への畏れや感謝の心が失われている証拠です。

 主はそういう民の不満の言葉を聞いて、炎の蛇を送られました。蛇が民を噛んだので、多くの死者が出ました(6節)。「炎の」(サーラーフ)という形容詞は、蛇の毒で燃えるような感覚を覚えることを表わしているそうです。また、火は神の裁きを示すものですから、神の憤りを表現するものとして、「炎の蛇」という表現が用いられたのではないでしょうか(11章1節参照)。

 民はモーセのもとに来て、「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って蛇を取り除いてください」(7節)と罪を告白し、執り成しの祈りを要請します。ここ以外で民が主に背いた罪を告白したのは、約束の地を偵察した後、その地を悪く言って民の心をくじいて主の怒りを買い、不平を言った者は約束の地に入れないと宣告されたときだけです(13章1節以下、14章40節)。

 「我々は誤っていた」(14章40節)と言いましたが、それはしかし、二度と主に背かず、御言葉に聴き従うという意味ではありませんでした。「荒れ野に向かって出発しなさい」(同25節)と告げられていたのに、「主が約束されたところへ上って行こう」と言い、「どうして主の命令に背くのか。成功するはずがない」(同41節)というモーセの警告を無視して行動したからです(同44節)。

 ここで改めて、民の悔い改めの姿勢が問われます。モーセが民のために祈りをささげると、主は「炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」(8節)と言われました。血清を造らせて民を癒したとか、神の力で蛇を消滅させるというような方法ではなかったのです。

 なぜ、竿の先に掲げられた炎の蛇を見上げるだけで、助かるというのでしょうか。勿論、そこに科学的な根拠などあるはずがありません。竿の先に掲げられた蛇が毒を消すのではなく、神がそれをなさるのです。しかしながら、神は民に信仰を要求し、御言葉に従うかどうかを試されました。

 冒頭の言葉(9節)のとおり、モーセは青銅で蛇を造り、それを旗竿の先に掲げました。「蛇」は「ナーハーシュ(nachash)」、「青銅」は「ネホーシェト(nechoshet)」という、非常によく似た単語で、いわゆるダジャレのようになっています。

 旗竿の先に掲げられた青銅の蛇を仰ぎ見た人は命を得ました(9節)。そんなばかばかしいことは出来ないと考えて蛇を見上げなかった人は、命を落としたことでしょう。即ち、旗竿の先に掲げられた蛇に人を癒す力があるのではなく、「蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」(8節)と言われた神を信じ、御言葉に従う者に、その恵みが与えられるのです。

 後に、主イエスがこの出来事を律法学者ニコデモとの対話の中で取り上げて、「モーセが荒れ野で蛇をあげたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書3章14~15節)と言われました。「人の子も上げられる」とは、十字架につけられることであり、また、甦られた後、天に上げられることでもあります。

 炎の蛇が罪を裁いて民に死をもたらし、竿の先に掲げられた蛇によって民に命を得させたように、十字架は罪の裁きの場であると同時に、主イエスを信じる者に罪の赦しと永遠の命を与える救いの場なのです。

 主イエスは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と招かれます(ルカ福音書9章23節)。先立って歩まれる主イエスを絶えず拝しながら、日々、十字架を背負って主に従って参りましょう。

 主よ、神を畏れず、感謝を忘れた者たちは、不平不満に満たされ、やがて死を招きました。しかし、悔い改めて御言葉に従い、十字架の主を拝する者は命を得ました。弱い私たちを助け、常に信仰をもって主を仰がせてください。あなたこそ、主であって私たちを癒す方だからです。御名が崇められますように。 アーメン





11月26日(日) 民数記20章

「主はモーセとアロンに向かって言われた。『あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。』」 民数記20章12節

 イスラエルの共同体全体が、ツィンの荒れ野に入りました。それはイスラエル南部のネゲブの南に位置し、約束の地パレスティナの南端を指しています(34章4節)。

 そこでミリアムが死に、埋葬されました(1節)。出エジプト記において重要な役割を果たしたミリアムですが(出エジプト記2章1節以下、15章20,21節)、アロンと組んでモーセを非難したかどで神に打たれ(民数記12章)、以来再び表舞台に登場してくることはありませんでした。

 ツィンの荒れ野、カデシュには飲み水がありませんでしたので(2節)、民がモーセとアロンを非難して、「なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。我々と家畜をここで死なせるためですか」(4節)と言います。問題に直面して未来に希望を持てなくなると、ここで死んだ方がましとか、昔はよかったとか言い出すのが、私たちの常です。

 二人が臨在の幕屋の入り口にひれ伏すと、主の栄光が現れ(6節)、モーセに、「あなたの杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい」と言われました(8節)。

 モーセは命じられたとおりに杖を取り(9節)、会衆を岩の前に集めました。そして、「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」と言い(10節)、手を上げて杖で岩を二度打つと、水が出たので、共同体と家畜に飲ませました(11節)。

 ところが、このモーセの言動は、神を悲しませました。神の告げられた御言葉に従順に従わなかったからです。だから、冒頭の言葉(12節)のとおり「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった」と断じられ、そのために「あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない」と告げられたのです。

 問題は、モーセが会衆に語った言葉です。神は「『反逆する者らよ、聞け』と民に告げよ」とは仰いませんでした。確かに、民は繰り返しモーセに逆らい、非難を口にしました。その都度、モーセはそれに対応して来ました。11章以来繰り返されて来た指導者批判に、いい加減にしないかという思いにさせられたというのは、理解出来ないではありません。

 けれども、モーセは何を考えて、「この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」と語ったのでしょうか。それは、私はあなたたちの召使いなのか、どうして私があなたたちのために水を出さなければならないのかといった思いでしょう。また、私がこの岩から水を出すことができるとでも思っているのか、それは出来ない相談だといった思いでしょう。

 「あなたたちはわたしを信じることをせず」と神が仰っているということは、モーセが自分には出来ないことと思っているだけでなく、神の仰るとおりにしても水を出すことが出来ないのではないかと考えていたことになります。

 また、絶えず自分を非難し、あれこれと文句を言って来るイスラエルの民のために、水を出してやりたくはないと言っているのであれば、岩から水を出すという神の御業を、自分自身の栄光にすることです。そして「彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい」(8節)と言われた主の御心に背いています。

 ここで決定的なことは、神は「岩に向かって、水を出せと命じなさい」(8節)とモーセに命じられたのですが、モーセはそのとおりにせず、杖で岩を二度打ちました(11節)。杖で岩を打って水を出すというのは、十戒が授与される前に一度、レフィディムで経験していました(出エジプト記17章5,6節)。モーセは神の御言葉に注意深く聴き従うことをせず、自分の経験に従ったのです。

 そして、岩を二度打ったということは、一度では水が出なかったので、もう一度岩を叩いたというわけです。それは、まさに御言葉への不信であり、不従順でしょう。歴史に「タラレバ」をいっても仕方がありませんが、もしも一度打ったところで気がついて、神の御前に悔い改め、主の御言葉どおりに、岩に命じて水を出していれば、その後の展開は違っていたはずです。

 ただ、そのようなモーセの不従順にも関わらず、2度叩いた岩から水が出たのは、神が恵み深く、民の必要を満たされるお方であること、即ち、神が聖なるお方であられることを、自らお示しになられたということです。

 このように、主が聖なるお方であること、御言葉の聖なることを示さなかったモーセとアロンに対して、主は「この会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない」(12節)と言われ、神の民を導く指導者の座から退けられました。

 彼らは、約束の地を前にしながら、あと一歩のところで入れないということになります。一度の過ちが、取り返しのつかないことになってしまいました。イスラエルの民をエジプトの地から導き出したモーセとアロン兄弟、そして姉のミリアムは、誰も約束の地を踏むことが出来なくなってしまったのです。

 この出来事の後、カデシュを旅立ってホル山に着いたところで、アロンは死に、先祖の列に加えられました(22節以下、28節)。また、モーセも後継者を任命した後(27章12節以下、申命記31章)、モアブ領アバリム山地のネボ山に上り、約束の地カナンを見渡して、息を引き取り、葬られました(申命記34章)。主に近くあることに、畏れを持たざるを得ません。

 その引き金は、民の不平でした。不信と不平によって、出エジプト第一世代は、殆ど荒れ野で命を落とすことになります。互いに主の御前に柔和と謙遜を学ばなければなりません。主の御言葉に、真剣に耳を傾けて参りましょう。

 主よ、誰よりも謙遜で主と会衆に仕えて来たモーセが指導者として相応しくないと言われるのであれば、主の御前に立つことができる者など一人もいません。そうです。今私たちが主とともに歩むことができるのは、すべて主の恵みです。そのことを忘れ、思い上がることのないよう、常に主を畏れ、日々御言葉に注意深く耳を傾け、素直にその導きに従って歩ませてください。御名が崇められますように。 アーメン





11月26日(日)主日礼拝説教

11月26日(日)主日礼拝には、教会員13名、来賓7名(子供2名を含む)がお見えになりました。感謝です。

礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「もう泣かなくともよい」
聖書 ルカ福音書7章11~17節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師

御覧ください。

11月26日(日)主日礼拝案内

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11月26日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、旧約聖書・イザヤ書から、共に聖書の学びと交わりを行います。

主日礼拝を10時半から行います。
11月26日(日)から12月3日(日)まで、世界バプテスト祈祷週間で、世界宣教を覚えて祈り、献金します。
礼拝では、世界祈祷週間のアピール、祈りが行われます。
また、ルカ福音書7章11~17節より「もう泣かなくともよい」と題して原田牧師の説教を頂きます。


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礼拝プログラムを見ることができます。


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礼拝後、信徒会を行います。
 




 

11月25日(土) 民数記19章

「祭司は自分の衣服を洗い、体に水を浴びた後、宿営に入ることができる。しかし、祭司は夕方まで汚れている。」 民数記19章7節

 19章は、「清めの水」を取り上げています。それは、9節では、「罪を清める水」と言われますが、11節以下で、特に死者に触れて汚れた者を清めるための水とされています。

 ここに、清めの水が取り上げられたのは、キブロト・ハタアワで疫病に打たれた人々をはじめ(11章31節以下)、カナンの地を偵察して悪い情報を流した者たち(14章36節以下)、レビ人コラやその仲間250名の指導者たち(16章参照)、そしてモーセとアロンに逆らって不平を言い、疫病に打たれた14,700人もの人々(17章6節以下)と、宿営内に死者が多数生じたからです。

 その葬りがなされたことを考えると、死者に触れずにすんだ者の方が少なかったのではないでしょうか。そこで、宿営全体をその汚れからいかに清めるのかという問題が出て、この定めが与えられたのでしょう。

 まず、赤毛の雌牛を宿営の外で屠り(2,3節)、その血を臨在の幕屋に向かって振りまきます(4節)。「正面に向かって」と言われますから、幕屋から東方、ユダ族を中心に宿営している地域の外側だろうと思われます。

 それから、その雌牛を焼きます。ここで、「皮も肉も血も胃の中身も」焼くという表現は、他に例がありません。というのは、焼き尽くす献げ物でも、血は祭壇の側面に注ぎかけられ(レビ記1章5節)、内臓は水洗いされるので(同1章9節)、血や胃の中身が共に焼かれることはないからです。すべてを焼き尽くして神にささげるということで、清めにつながるのでしょう。

 次いで、牛を焼いている火の中に、杉の枝、ヒソプ、緋糸を投げ込みます(6節)。これらは、重い皮膚病を患った人を清める儀式でも用いられています(レビ記14章6節)。それらのものが、汚れを清める力を持っていると考えられているのでしょう。

 そうして、その灰を集め、宿営の外の清い場所に保存します(9節)。その灰を容器に入れ、新鮮な水を加えると(17節)、それが清めの水となります。そして、その水にヒソプを浸し、死者に触れて汚れた人々などに振りかけて、汚れを清めます(18節以下)。

 この清めの水に関して、よく分からないのが、その作業に関わる人々がみな汚れると言われることです。冒頭の言葉(7節)で、雌牛を屠った祭司エレアザルが夕方まで汚れると記されています。汚れを身に受けることになるので、大祭司アロンではなく、息子の祭司エレアザルがこの儀式を任せられているものと思われます。

 これはまだ、屠られた雌牛とその血に触れたからと考えてもよいのですが、その灰を集めた者も汚れていると言われます(10節)。その灰は、罪を清める水を作る材料として集められたものだから、むしろ、その作業に携わる者は清くなると言われてもよさそうです。

 究めつけは、清めの水を振りかける人、その水に触れた者も汚れるとされるところです(21節)。人を清めるための水に触れて、その水を人に振りかけて、どうして汚れると言われるのでしょうか。水に触れた者が汚れるのであれば、水を振りかけられた人の罪がどのようにして清められるというのでしょうか。そのメカニズムは、全く理解不能です。

 ただ、私たちの罪のため、主イエスが贖いの供え物となられたということを考えると、少し見えてきます。神が罪を赦すと言えば、それで罪が清められるというのではなく、清い神の御子が私たちの汚れをその身に引き受けられることで初めて、私たちは清い者とされるのです。

 「善いサマリア人」の例え話で(ルカ福音書10章25節以下)、サマリア人は、追いはぎに襲われた人を見て憐れに思い(同33節)、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱しました(同34節)。

 翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」(同35節)と言いました。このサマリア人が、追いはぎに襲われた人の「隣人になった」人だと、主イエスは教えられます(36節参照)。

 そして、主イエスこそ、この例え話のサマリア人のモデルとなられたお方です。主イエスは、罪人の罪を自分の身に負ってその汚れを引き受け、罪そのもののようになられました(第二コリント書5章21節)。それによって私たちは清められたのです。主の打たれた打ち傷により、私たちを癒し、清め、解放し、自由の身にしてくださったのです(第一ペトロ書2章24節、ガラテヤ書5章1節)。

 「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を得させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」(ガラテヤ書5章13,14節)。

 主よ、私たちは傷や汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によって贖われました。それは、あなたの一方的な愛でした。真理なる主イエスを信じて魂が清められた者として、聖霊によって心に注がれる神の愛に満たされて、感謝と喜びをもって互いに深く愛し合うことを学び、実行する者とならせてください。 アーメン




11月24日(金) 民数記18章

「イスラエルの人々が主にささげる聖なる献納物はすべて、あなたとあなたと共にいる息子たち、娘たちに与える。これは不変の定めである。これは、主の御前にあって、あなたとあなたと共にいるあなたの子孫に対する永遠の塩の契約である。」 民数記18章19節

 18章には「祭司とレビ人に関する規定」が記されています。ここには、「主はアロンに言われた」という言葉が3度(1,8,20節)記されています。通常アロンは、モーセを通じて神の言葉を聞いていました。

 神がアロンに直接語りかけられたのは、それによってアロンが神に選ばれた祭司であることを確証しているかたちです。12章2節以下の「ミリアムとアロン」による反逆事件以来、アロンの特別な地位について、疑問が抱かれるようになっていたのかも知れません(16章参照)。

 神は、アロンとその子らに、二つのものを賜物として与えたと言われます。それは、祭司職(7節)と彼らの助手として幕屋の作業に従事するレビ人(4,6節)です。彼らにこれらの賜物が与えられたのは、イスラエルの民を幕屋を汚す罪による死から守るためでした(3~5,7節)。

 主は、聖なる献げ物の一部をアロン家のものとしてお与えになります(8節以下)。そのリストの最初に、「穀物の献げ物」(9節)が挙げられています。また、「最上のオリーブ油、極上の新しいぶどう酒、穀物など、主にささげられた初物はすべて、あなたのものとなる。彼らの土地にできた初物で、彼らが主に携えるものはすべて、あなたのものとなる」(12,13節)と記されています。

 つまりこれは、約束の地に定住し、収穫の恵みに与って初めて有効になる定めです。8~19節に、「これは不変の定めである」という言葉が3度(8,11,19節)語られるのも、アロンとの間に定められるこの規定が、子孫にとっても有効であるという保証を与えているわけです。

 冒頭の言葉(19節)に「永遠の塩の契約」という言葉があります。「塩の契約」という言い方について、歴代誌下13章5節に「イスラエルの神、主が、塩の契約をもって、イスラエルを治める王権をとこしえにダビデとその子孫に授けられたことを、あなたたちが知らないはずはない」とあり、永遠、不変の契約という意味であることを示しています。

 ですから、「永遠の塩の契約」は、同じ意味の言葉を二つ重ねてそれを強調していることになります。ということは、イスラエルの民が必ず約束の地に入ることが出来ることが強調されているということでもあります。

 アロンとその子らに献げ物の一部が授けられる根拠について、20節に「あなたはイスラエルの人々の土地の内に嗣業の土地を持ってはならない。彼らの間にあなたの割り当てはない。わたしが、イスラエルの人々の中であなたの受けるべき割り当てであり、嗣業である」と言われています。

 つまり、アロンとその子孫には、嗣業の土地という資産を持つことが許されません。だから、生活の基盤を神の上に置いているのであり、献げ物の一部が与えられるのは、神の賜物と恵みに頼って生きることを見えるかたちで証しするものだったのです。

 主イエスが、「人は皆、火で塩味をつけられる。塩はよいものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味をつけるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい」(マルコ9章49,50節)と言われました。ここで「塩」は、神との契約関係を示しています。

 これは、レビ記2章13節の「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ」という言葉で、塩が契約の永遠性を示しているのと同様です。

 人は、自分で塩味をつけることが出来ません。それは、「火」に象徴される聖霊の働きによるのです。永遠の命を授けて神の子として下さった主に信頼し(ヨハネ1章12節、3章16節)、聖霊の働きによって日々内側から清められ、御子キリストの姿に造りかえられましょう(第二コリント3章18節)。

 主よ、私たちは皆、御子の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に更に恵みを受けました。私たちの内に働く御力により、愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。教会の働きを通して、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなく神にありますように。 アーメン




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