風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2017年10月

10月31日(火) レビ記21章

「ただし、彼には障害があるから、垂れ幕の前に進み出たり、祭壇に近づいたりして、わたしの聖所を汚してはならない。わたしが、それらを聖別した主だからである。」 レビ記21章23節

 21章には、「祭司の汚れ」について記されています。1節に「親族の遺体に触れて身を汚してはならない」とありますが、これは、葬儀に参列することを禁ずる戒めです。死や遺体が、人に汚れをもたらす最大の要因と考えられていたようです(エゼキエル44章25節、民数記19章11節以下)。ただし、父母や息子、娘、兄弟など近親の葬儀は、例外として許されました(2,3節)。

 5節の「頭髪の一部をそり上げたり、ひげの両端をそり落としたり、身を傷つけたり」というのは、哀悼の意を表す異教の習慣だったようです。これは申命記14章1節で、祭司だけでなく、一般の人々についても禁じられています。

 しかし、「聖別の油を頭に注がれ、祭司の職に任ぜられ、そのための祭服を着る身となった者」(10節)、即ち選ばれた大祭司だけは、「自分の父母の遺体であっても、近づいて身を汚してはならない」(11節)と定められています。民の代表として聖所で仕える者が、汚れによって職務が全う出来なくなることを禁止し、どんなときでも自らを清く保つという模範を示すことが求められたのです。

 神の定めといえば、守るほかないのかもしれませんが、命を限りあるものとし、その死を悼む思いを人の感情の中に作られたのも神であれば、葬儀を行い、哀悼の意を表すことを禁ずるというのは、なかなか胃の腑にすとんと落ちるものではありません。

 主イエスが、ベタニアで兄弟ラザロの死を悼んでマリアが泣いているのを御覧になって激しく心を揺さぶられ、ご自身も涙を流されました(ヨハネ福音書11章35節)。その後、ラザロを生き返らせて、御自分が人に命をお与えになるメシアであることを示されます(同38節以下)。主イエスにとって、死は触れてはならない汚れというのではなく、神によって打ち破られるべき敵なのです。

 17節以下には、障害のある者は誰も、祭司の任務に就くことを禁ずるという規則が記されています。献げ物が「無傷」のものでなければならないように(1章3節など)、それを神にささげる祭司も無傷、欠陥のない者でなければならないと考えるわけです。神が聖であられるように聖であれという要求を、容姿にも適用しようということです。

 冒頭の言葉(23節)は、障害を「汚れ」と考えていることを示しており、それゆえ、聖所の中に入り、祭壇に近づいて神を礼拝する場所を汚してはならないというわけです。「障害」について、18節以下に10ほどのケースが挙げられていますが、後期ユダヤ教においては、これを142にも拡大したと言われます。

 サムエル記下5章6節以下の記事において、ダビデの命を憎む者として、「目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない」と言われるようになったとされていることも(同8節)、この流れの中にあると思います。ただ、ここにあるのは、まさに障害者に対する不当な偏見、差別と言わざるを得ません。

 祭司アロンの子孫で障害がある者でも、神聖なるものも聖なる献げ物も食べることができると言われますが(22節)、しかし、「垂れ幕の前に進み出たり、祭壇に近づいたりして、わたしの聖所を汚してはならない」となると、聖域でしか食べられない神聖なるもの、聖なる献げ物を食べることは、事実上不可能ではないでしょうか。

 このような規定があるので、「生まれつき目の見えない人」を見かけたときに(ヨハネ福音書9章1節)、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(同2節)という質問が、弟子たちの口から出て来るのです。

 それに対して主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(同3節)とお答えになられました。

 弟子たちは、障害の原因が誰の罪かと尋ねたのですが、主イエスは、その障害が罪から生じたという考えを明確に否定して、神がその人に障害をお与えになった真の目的を示されたのです。即ち、生まれつき目が見えないというその障害は、神の業が現れるためにその人に与えられた神の賜物だと言われたわけです。

 即ち、見えないということは、神から遠ざけられる、文字通りの「障害」ではなく、むしろ、神が彼に目を留め、彼を通して神の御業が表わされるための賜物なのです。それは、ヨハネの記事においては、主イエスが彼に近づいてその目に触れ、シロアムの池に遣わしてその目を癒されるという形で表わされました。

 「闇」という漢字は、門が閉ざされ、日が隠れるという文字だそうで、「暗」が書き換え文字だと、漢和辞典にありました。ただ、素直に見れば、暗やみの中で「音」の門が開くという文字のように見えます。光がないところでは、晴眼者は動きが制限されますが、目の不自由な方には何の妨げにもなりません。

 目の不自由な方々が「目が見えないのは不自由ではあるが、決して不幸ではない。むしろ、それによって神を知ることが出来てよかった」と言われるのは、晴眼者の私には味わうことの出来ない神の恵みを証ししてくださっているのです。

 真理に目が開かれ、真理によって自由にされるため、主の御言葉に耳を傾け、御言葉に留まるものになりたいと思います(ヨハネ8章31,32節参照)。

 主よ、御子イエスを遣わして、文字に縛られて他者を裁き、不自由にする心から、私たちを解放してくださったことを感謝します。あなたが創造されたものはすべて、はなはだ善いものであることを、いつも教えてください。表されようとしている神の御業を見落とし、見逃すことがありませんように。 アーメン




10月30日(月) レビ記20章

「あなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。主なるわたしは聖なる者だからである。わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである。」 レビ記20章26節

 主なる神は冒頭の言葉(26節)で、イスラエルの民をご自分のものとするために諸国の民から区別した、と言われました。だから、聖なる者となり、自分を清く保つために、汚れた動物などを食べたり、それに触れたりしてはならない、清いものと汚れたものとをはっきり区別せよというのです(25節)。

 このことで、二つのことを思わされます。一つは、諸国の民から区別される前のイスラエルは、決して特別な存在ではなかったということです。区別される前から特別な存在、清い民であれば、わざわざ「諸国の民から区別」する必要はありません。

 イスラエルは清い民であったから選ばれ、他のものと区別されたというわけではないのです。であれば、彼らの側に選ればれるだけに理由があったわけではなく、一方的な神の恩寵、恵みと憐れみによる選別といってよいのでしょう。

 そうすると、もう一つのことが気になります。それは23節で「あなたたちの前からわたしが追い払おうとしている国の風習に従ってはならない」と言われていますが、当時のイスラエルの民と他の諸国の民の風習も、それほど大きな違いはなかったことでしょう。であれば、他の国々の風習に倣わない道を歩むというのは、決して容易いことではなかったのではないでしょうか。

 22節で「あなたたちはわたしのすべての掟と法を忠実に守りなさい」と告げ、そして25節で「あなたたちは、清い動物と汚れた動物、清い鳥と汚れた鳥とを区別しなければならない」と命じています。神の教えに従って、清いものとそうでないものとを区別し、汚れたものから離れた生活をせよというわけです。

 しかしながら、イスラエルの民は、神の御言葉に忠実に歩むことが出来ませんでした。むしろ、御言葉に背き続ける道を歩みます。繰返し預言者が遣わされ、背きの罪を離れるよう警告しますが(列王記上17章、列王記下17章など参照)、結局、神に導き入れて頂いた約束の地カナンから、叩き出されることになってしまうのです。

 つまり、人は自分の知恵や力、考えで、神の御言葉に忠実に従うこと、その道を清く保つことは出来ないということです。

 そこで示されるのが、詩編51編のダビデの詩です。「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください」(4節)と願った後、12節で「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」と求めました。自分の罪咎が清められるだけでは、また同じことを繰り返してしまいます。

 たとえが不適切かも知れませんが、放漫経営のために倒産寸前の会社の債権をすべて肩代わりしてくれる人がいて、それで倒産を免れても、経営陣が刷新されなければ、結局また倒産に追い込まれてしまう結果となるでしょう。

 そこで、経営陣を刷新し、新しい方法で会社を再建してくださいと願うのです。それが、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」という祈りなのです。これは、実に虫のいい祈りでしょう。しかしながら、それ以外に、罪人が清い生活に戻り、その歩みを保つ道はないということなのです。

 このことについて、預言者エレミヤが「新しい契約」(エレミヤ書31章31~34節)について告げた後、32章39,40節で「わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする」と預言しています。

 この預言は、神の御子イエスが十字架で血を流されることによって、成就しました(ヘブライ書9章15節以下)。キリストの血潮により、罪が清められたのです。

 また、第二コリント書3章18節に「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」とあります。聖霊の力で新たに造り替えられるのです。

 主の御前に謙り、御言葉に従って歩むことが出来るように、主に信頼し、絶えず「憐れみと祈りの霊」(ゼカリヤ書12章10節)を注いで頂きましょう。

 主よ、渇いている者に命の水の泉から価なしに飲ませてくださる恵みを感謝します。主にあって心の一新によって造り変えられ、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえさせてください。求める者には、聖霊をお与えくださいます。聖霊に満たされ、力を受けてキリストの証し人となることが出来ますように。 アーメン




10月29日(日)特別礼拝・コンサート報告

10月29日(日)「聖書と音楽の集い」特別礼拝には、教会員14名、来賓19名(新来会者2名、子ども4名を含む)がおいでになりました。
また、コンサートには教会員12名、来賓12名(子ども1名を含む)が参加されました。
感謝です。

コンサートはチャリティーとして有料で行われ、収益2万円を九州北部豪雨の被災地復興支援のため、献げさせていただきました。

コンサートの演奏の一端を味わっていただくたく、動画をアップしました。
フルートデュオ(高橋紫微・柳野ひかる)による「Amazing Grace」の演奏です。

何故か、ここに映像を埋め込むことが出来ないので、下記アドレスをクリックして、YouTubeのサイトで御覧ください。
URL https://youtu.be/_9BTsOM8U3E



10月29日(日) レビ記19章

「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」 レビ記19章18節

 2節に「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」とあります。これは、神聖法集(17~26章)のテーマであると共に、レビ記の中で繰り返し語られる大きなテーマです。

 「神は愛なり」(第一ヨハネ4章8節)と言われるように、主なる神は愛なるお方、慈しみ深く憐れみに富むお方でもあるのですが(歴代誌上16章34節など参照)、しかし、イザヤが預言者として召されるとき、セラフィムが互いに呼び交わし、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と唱えたことも、よく知られています(イザヤ書6章3節)。

 主は、罪に染まない聖い神であられます。けれども、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と唱えられる方は、御自分を聖く保つため、天の彼方に孤高を貫かれるというのではありません。神の清さは、愛の中に、愛を通して表わされます。

 そのことが、父と母を敬うこと(3節)、あるいは、貧しい者や寄留者を配慮することなどを通して(9節以下)、表わされます。また「隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である」(13節以下)と言われます。

 イスラエルの民をご自分の民として選ばれたのは、恵みと憐れみによって選ばれたイスラエルの民が、聖なる者としてその範を垂れることにより、すべての民に神の恵みと憐れみが表されるためだったのです。

 そうして、罪を憎まれる聖い神は、私たちを愛して、御子キリストを贖いの供え物とされ、罪の呪いから解放して下さいました。この神の御愛のゆえに、私たちが聖なる者として歩むように、求められるのです。

 ペトロが、「聖なる生活をしよう」という段落の中で(第一ペトロ1章13節以下)、「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」(同22節)と告げているのも、聖さが愛を通して表わされることを示しています。

 19章を通じて「聖なる者となれ」と示されているところに、冒頭の言葉(18節)で「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉が記されているのも、同じ消息です。

 隣人愛を説く掟は、「心の中で兄弟を憎んではならない」(17節)、「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない」(18節)という禁止命令と対置されています。憤りの感情に支配されず、隣人への愛を意志せよ、その幸福を図れというのです。

 第一の掟はどれかと尋ねられた主イエスは(マルコ福音書12章28節)、「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟はほかにない」と答えられました(同29節以下)。

 ここで、「隣人を自分のように愛しなさい」とは、口語訳の「自分を愛するように、隣り人を愛しなさい」という、自分を愛する自己愛を土台として、隣人を愛しなさいと命じているのではありません。岩波訳では「あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう」と訳しています。

 私たちを愛してくださる主イエスは、「人の子には枕するところもない」(マタイ福音書8章20節)と言われていました。それは、家を所有出来ない貧しさと共に、自分のことを考えている暇もないということを示しています。

 パウロがそれを「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ書2章6,7節)と記しています。まさしく主イエスは、御自分のことは顧みず、私たちのことをご自分と置き換えて考えてくださり、救いの御業を完成してくださったのです。

 主の恵みに感謝し、主に愛されている者として、隣人を自分のように愛する者とならせてくださいと、聖霊の満たしと導きを祈り求めて参りましょう。

 主よ、あなたの恵みと慈しみは、永久に絶えることがありません。その深い憐れみにより、私たちは御救いに与リました。神の子とされたことを感謝し、絶えず主の愛と導きに応える信仰の歩みが出来ますように。聖霊に充たし、主の御業に励む者とならせてください。御心が、この地になされますように。 アーメン



秋季特別集会「聖書と音楽の集い」特別礼拝+チャリティーコンサート案内

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秋の特別集会として「聖書と音楽の集い」を開催します。

今回は、フルート奏者の高橋紫微・柳野ひかるデュオをお迎えします。

秋のよい日に聖書のメッセージとフルートデュオの奏でる音楽に耳を傾け、試みたされるひとときをご一緒しましょう。



なお、コンサートの収益の一部を九州北部豪雨被災地の復興支援のため、九州キリスト災害支援センターに献げさせていただきます。

写真をクリックするとPDFファイルが開きます。
そこに、フルートデュオのプロフィールが記されています。


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10月29日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、旧約聖書・ヨブ記から、共に聖書の学びと交わりを行います。

特別礼拝を10時半から行います。
フルートデュオの演奏に続き、ルカ福音書19章1~10節より「あなたを捜す愛」と題して原田牧師の説教を頂きます。


写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
礼拝プログラムを見ることができます。


礼拝後、フルートデュオのお二人と共に愛餐会(昼食/無料)を行います。


キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


午後2時より、フルートデュオによるチャリティーコンサートを行います。



 

10月28日(土) レビ記18章

「自分の子を一人たりとも火の中を通らせてモレク神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」 レビ記18章21節

 3節に、「あなたたちがかつて住んでいたエジプトの国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない。その掟に従って歩んではならない」と言われ、その風習とは、6節以下を見れば、近親相姦をはじめ、乱れた性的な関係のことであることが分かります。

 新共同訳聖書は、18章に「いとうべき性関係」という小見出しをつけています。イスラエルの民には、かつて奴隷とされていたエジプトや、これから獲得することになる約束の地カナンとその周辺に住む異国民らの、乱れた風習に染まず、神に選ばれた聖なる民として生きることが求められているのです。

 25節に「これらの行為によってこの土地は汚され、わたしはこの地をその罪のゆえに罰し、この地はそこに住む者を吐き出したのである」とあり、イスラエルの民がカナンの地に定住出来るのは、先住民がその罪によって地を汚して罰を受け、追い出されたためだというわけです。

 ということは、彼らがエジプトやカナンの民の風習に従って歩めば、彼らも罰を受けて「先住民をはき出したと同じように、土地があなたたちを吐き出すであろう」(28節)ということなります。そこで、民全体が吐き出されてしまう前に、「これらのいとうべき事の一つでも行う者は、行う者がだれであっても、民の中から断たれる」(29節)と言われるのです。

 この規定の中で、冒頭の言葉(21節)だけは、性行為と直接関係がないように見えます。モレク神に子どもをささげるなというのは、偶像礼拝禁止条項です。それがここに入れられているのは、偶像礼拝が神との関係の乱れということで、乱れた性的関係との類似ということも出来るでしょうけれども、そうであるなら、カナンの代表的なバアルやアシェラの礼拝が取り上げられるべきです。

 「モレク」というのは、ヘブライ語の「王」(メレク)という言葉に、「恥ずべきもの」(ボシェス)の母音をつけて発音したもので、「恥ずべき王」という意味になるかと思われます。これは、列王記上11章7節では、アンモン人の神とされており、同33節ではミルコムとも呼ばれています。あるいは、それが正しい呼び名なのかもしれません。

 モレクの神殿は、エルサレムの南西ベン・ヒノムの谷トフェトに築かれました(エレミヤ書7章31節)。それは、ソロモンにより、異教徒の妻たちのために建てられたのです(列王記上11章5,8節)。

 ここは、エルサレムの町のごみやガラクタを焼却処分するところで、その火が消えることはなかったことから、ヒンノムの谷(ゲイ・ヒンノム)=ゲヘナとして知られるようになり、やがて、ゲヘナの火といえば、神の永遠の裁きの象徴となったのです。

 自分の子どもに火の中を通らせて、モレク神にささげるという祭儀が行われていました。大切な子どもをささげることで、なんとしても願い事を神に叶えてもらうという目的があったのでしょう。しかしそれは、神に与えられた命を神ならぬものにささげることであり、自分たちの将来を犠牲にすることです。

 21節の原文を直訳すると、「自分の種から、火によってモレクに与えてはならない」となります。これは、20節の「あなたの隣人の妻に種のためにあなたの性交を与えてはならない」という言葉で、隣人の妻に種を与えることと、モレクに自分の種の一つを与えることが並置されている事が分かります。

 隣人の妻との姦淫が、相手の家庭と自分の家庭の双方を破壊してしまうので、十戒で禁止され(出エジプト記20章14節)、20章10節で「必ず死刑に処せられる」と宣告されています。モレクに子をささげることが民の間に広がることで、主との関係が蔑ろにされ、主の民としての共同体を破壊し、将来を担う命を無駄にするという恐るべき罪とされているわけです。

 そして何と、ユダの王アハズ(列王記下16章3節)、同じく王マナセ(同21章6節)もこれを行っており、この罪によって繰返しその地が汚された結果、イスラエルの民は、この地から追い出され、亡国とバビロン捕囚という憂き目を味わわなければならなくなったわけです。

 改めて、イスラエルが自分の知恵や力で神の民となることは出来ません。人が自分でエデンの園を作り出すことは出来ないのです。イスラエルが神の民として選ばれたのは、ただ神の憐れみです(申命記7章6節以下参照)。

 エゼキエル書36章25,26節)で神が「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」と宣言されています。

 これは、エレミヤが「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ書31章31節以下、33節)と語った「新しい契約」預言と同じ内容の言葉でしょう。

 それはまた、姦淫と殺人の罪を犯したダビデが、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。・・・御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください」(詩編51編12,14節)と求めた祈り願いに対する主の応答ともいうべきものです。

 主なる神は、求めるものに得させ、捜すものに見出させ、門を叩くものには開いてくださるよいお方だからです(マタイ7章7節以下)。

 主よ、何よりも先ず、神の国と神の義を求める者とならせてください。絶えず御言葉を通して清められ、新しい霊で満たしてください。心から、霊と真実をもって主を礼拝することが出来ますように。御名が崇められますように。 アーメン




10月27日(金) レビ記17章

「それを臨在の幕屋の入り口に携えて来て、主の幕屋の前で献げ物として主にささげなければ、殺害者と見なされる。彼は流血の罪を犯したのであるから、民の中から断たれる。」 レビ記17章4節

 17~26章は、レビ記の第二部といった構成になっており、新共同訳聖書にあるように、「神聖法集」と呼ばれています。このような呼び名がつけられるということは、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(19章2節)というのが、第二部全体の主題であるということです。

 17章1節以下の段落には、「献げ物をささげる場所」という小見出しが付けられています。3節以下に、牛や羊、山羊を屠る場合は、常に献げ物として主にささげなければならないと規定しています。食用とするための屠殺でも、主への献げ物としてささげなければならないということは、それを「和解の献げ物」(5節)として献げるということになります。

 和解の献げ物のささげ方については、3章、7章11節以下にその規定があります。即ち、いけにえの血は祭壇の注ぎかけ、脂肪は宥めの香りとして燃やして煙とされます(6節、3章、7章31節)。

 いけにえの胸の肉は「奉納物」(テヌファー)として主にささげられた後、祭司のものとされます(7章30,31節)。また、いけにえの右後ろ肢は「礼物」(テルマー)として祭司とその子らに与えられます(同32節)。そして、それ以外の肉は奉納者自身に下げ渡されるのです。

 食肉について、和解と感謝の献げ物とされたいけにえの肉は、ささげられた日に食べねばならないと言われ(同15節)、満願の献げ物、随意の献げ物については、ささげた日とその翌日にも食べることができるとされています(同16節)。

 残った肉は三日目には焼き捨てねばならないと(同17節)、時間的な制限が設けられています。それは「不浄なもの」(同18節)となると言われます。「不浄なもの」(ピグール)は、「腐敗したもの」という意味を持っています。文字通り、食品衛生的に食べるわけにはいかない物になっていると解することもできるわけです。

 一方、いけにえとする場合の屠殺で、「野外で屠っていたいけにえ」と言われるということは、主への献げ物でないいけにえが「野外」、あるいは宿営の外で(3節)ささげられていたことを思わせます。7節の「彼らがかつて、淫行を行ったあの山羊の魔神に二度と献げ物をささげてはならない」という言葉が、それを明示しています。

 「山羊の魔神」と呼ばれるような異教の神にいけにえをささげていたということであるならば、それは明確に、十戒の第一、第二の戒め(出エジプト記20章3~5節)に背く罪です。「山羊の魔神」と訳されているのは、「雄山羊」(サーイール)の複数形「スイーリム)です。淫行を行った雄山羊に献げ物をするという表現から、これは、雄山羊の形をした異教の神々のことを指しているようです。

 歴史家ヨセフスの著書に、エジプトに山羊やその他の家畜を拝む慣わしのあったことが記されているそうです。祭司アロンが金の子牛像を造って拝ませたように(出エジプト記32章)、雄山羊の形をした偶像を拝むということがなされていたのでしょう。

 主の幕屋以外での献げ物を禁じることで、いけにえを献げて神を礼拝する場所は主の幕屋だけということになります。そうすることによって、異教の偶像にいけにえをささげて、それを拝むのを止めさせようとしているわけです。

 特に、冒頭の言葉(4節)のとおり「主の幕屋の前で献げ物として主にささげなければ、殺害者とみなされる。彼は流血の罪を犯したのであるから、民の中から断たれる」ということで、それがいかに重大な罪であるかを示しています。

 その意味で、当然、家畜を屠る度に、誰に対して献げ物をしようとしているのか、誰を礼拝しようとしているのかが問われることになります。そして、イスラエルの民は、そのような規定が設けられる必要があるほど、十戒に背き、異教の神礼拝を熱心に行なっていたわけです。

 サマリアの女が主イエスに「わたしどもの先祖はこの山(ゲリジム山)で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(ヨハネ福音書4章20節)と言った時、主イエスは「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(同21節)と答えられました。

 そして、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(同23,24節)と仰っています。

 サマリアの女は、ゲリジム山とシオンの山、どちらで神を礼拝すべきなのかと問うたわけですが、主イエスは、神礼拝に必要なのは場所ではない、どのように神を礼拝するのかということが重要だと教えられたのです。

 それは、私たちを新しく生まれさせる聖霊の働きを通し、真理なる主イエスを信じる信仰によって、神を礼拝することです。その意味では、聖霊と主イエスと父なる神、三位一体の神を礼拝することが、まことの礼拝ということになります。

 日ごと夜ごと、私たちの体という臨在の幕屋、神の宮で(第一コリント書6章19節)、私たちと共にいてくださる主イエスを仰ぎ(マタイ福音書28章20節など)、聖霊に満たされて詩編と賛歌と霊の歌により、感謝して心から神をほめたたえる賛美のいけにえを献げましょう(エフェソ書5章18,19節、ヘブライ書13章15節)。

 主よ、霊によるあらゆる知恵と理解によって御心を悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、主をますます深く知ることが出来ますように。神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶことが出来ますように。 アーメン






10月26日(木) レビ記16章

「これはあなたたちの不変の定めである。年に一度、イスラエルの人々のためにそのすべての罪の贖いの儀式を行うためである。モーセは主のお命じになったとおりに行った。」 レビ記16章34節

 16章には、「贖罪日」についての規定が記されています。ただし、「贖罪日」(ヨーム・キプリーム)という言葉は聖書中、23章27,28節、25章9節と、3回登場して来るだけです。「贖い」は「覆う、隠す」(カーファール)という言葉で、神の裁きから罪人を覆い隠すという意味で用いられています。

 1節に「アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件の直後、主はモーセに仰せになった」と記されていて、これが、10章の事件の直後に、主がモーセに語られたものであることを示しています。ということは、11~15章の「種々の清めの規定」が、その間に割り込んだかたちになっています。

 主なる神の臨在の幕屋がイスラエルの民の宿営の真ん中にあるので、気を抜いて汚れを持ったまま幕屋に近づき、アロンの子らのように打たれることがないようにという、具体的な例証としたかたちです。

 2節に「決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように。わたしは贖いの座の上に、雲の内に現れるからである」とあります。

 ここで「贖いの座」(カポーレス)は、上述の「キプリーム」「カーファール」と同根で、「覆い」という意味の言葉です。単純に箱の「蓋」というのが、初めの意味だったかも知れません。ここに「座」という意味はありません。宗教改革者マルティン・ルターがドイツ語訳聖書を翻訳しているときに作り出したものと言われています。

 「わたし(主=ヤハウェ)は贖いの座(カポ-レス)の上に、雲のうちに現れる」とあり、神が顕現され、アロンの祭儀を受けられる場ということで、その意味を込めて「座」という意味が加えられたわけです。「雲」は神の姿を隠しつつその臨在を示し、またそこには主の栄光が表されました(出エジプト記16章10節、24章16,17節、40章4節など)。

 また、「決められた時」とは、29節によれば「第七の月の十日」のことです。それが「贖罪日」と呼ばれるというのは、23章27節にそのように言われて初めて分かることです。この贖罪日の規定が実行されたという記録がありません。もとになった祭儀は初期の段階から存在していたようですが、国を挙げてそれを守るよう、規定が整えられたのは捕囚からの帰還後のこととされています。

 アロンが神の御前に出て大祭司の務めをなすのは年に一度、「第七の月の十日」の贖罪日ということですが、モーセは絶えず主の御前に進み、親しく御言葉を聞いています。モーセが特別な存在だということもあるかも知れませんが、神が呼びたいと思われるなら、一度と言わず、いつでも呼び寄せられるということでしょう。

 一方、11章以下の種々の清めの儀式において、贖罪の献げ物をささげることが規定されています。この規定が文字通り守られたならば、男だけで60万人、民全体で200万人というイスラエルの民のために、臨在の幕屋ではひっきりなしにいけにえがささげられることになり、屠られ、祭壇で焼かれた献げ物や、祭壇に注がれた血の臭いで、息もつけない場所になってしまったことでしょう。

 また、臨在の幕屋を引き継いだソロモンの神殿で、たとえば、生理の清めのためだけでも、毎月エルサレム詣でをしなければならないとなると、ガリラヤなど遠方に住む人々は、生活が成り立たなくなってしまいます。

 そのようなことのため、年に一度、贖罪の献げ物をささげる「贖罪日」が設けられ、そのときエルサレムに行き、まとめて一度献げ物をするというのは、様々な負担を考えると、神様の粋な計らいなのかなあと思ってしまいます。

 3節以下に、贖罪日の儀式について規定されていますが、興味深いのは、8節以下の「アザゼルのものに決まった雄山羊」のことです。アザゼルの語源は不明ですが、「主のもの」との対比で、神に背く悪魔的な存在を指しているのではないかと考えられます。

 アザゼルのための雄山羊は、イスラエルのすべての人々の罪責と背きと罪をすべて負わせて、生きたまま荒れ野に追いやられます。それは、悪霊に対していけにえをささげるのではなく、罪を負わせた雄山羊を、民の住むところから遠く離れた、悪霊の住む荒野に追放し、それによって、民の罪が宿営から取り除かれたことを象徴しているのです。

 そして、神はその計らいをさらに進めて、毎年ささげなければならない贖罪の献げ物、しかも、全世界のあらゆる世代の人々の罪を贖うための献げ物として、ただ一度、御子イエスをいけにえとされたのです。

 ヘブライ書10章に、「すべての祭司は、毎日礼拝をささげるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを繰り返してささげます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえをささげて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもがご自身の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです」(同11~13節)と言われているとおりです。そのただ一度の献げ物で、すべてのものを贖い、清められたのです(同14節参照)。

 「罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません」(同18節)。日々主の十字架を仰ぎ、感謝をもって賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の実を主に献げましょう(同13章15節)。

 主よ、あなたは私たちに対する数知れない御計らいをもって、恵みに恵みを増し加えてくださいます。あなたを尋ね求める人が、あなたによって喜び祝い、楽しみ、御救いを愛する人が、主を崇めよといつも歌いますように。 アーメン



10月25日(水) レビ記15章

「あなたたちはイスラエルの人々を戒めて汚れを受けないようにし、あなたたちの中にあるわたしの住まいに彼らの汚れを持ち込んで、死を招かないようにしなさい。」 レビ記15章31節

 種々の汚れの清めの規定の最後は、様々な種類の身体的な漏出を扱っています。2節以下に尿道の炎症による漏出、16節以下に精の漏出、19節以下に月経、25節以下に月経異常の出血が汚れとして取り扱われ、それぞれの清めの手順が示されています。

 そして、31節以下に結論的な規定が告げられます。冒頭の言葉(31節)に「あなたたちの中にあるわたしの住まい」という言葉が出て来ます。このとき、主が語られた「わたしの住まい」(ミシュカーニー:My tabernacle)とは、イスラエルの民と一緒に旅をするために作らせた臨在の幕屋のことでした(出エジプト記25章8,9節)。

 「あなたたちの中にある」と訳されている「アシェル・ベ・トーカーム」は「彼らの間にある:that among them」という言葉です。彼らとは「イスラエルの人々」(ブネー・イスラエル:直訳は「イスラエルの子ら」)のことです。主なる神が、エジプトを脱出したイスラエルの民の間に住まわれ、共に荒れ野を旅されているのです。

 また、「汚れを受けないように」は「ヒッザルテム・ミ・トゥムアーターム=彼らの汚れから離れさせよ」という言葉です。それは、「わたしの住まいに彼らの汚れを持ち込んで、死を招かないように」させるためです。罪、汚れを持ったまま、幕屋に近づく者は死ぬことになるというのです。

 言うまでもありませんが、神は天地万物を創造されたお方です。聖書には、この宇宙も神を住まわせることは出来ないと記されています(列王記上8章27節参照)。まして、人が造った家に住まわれるのでしょうか。

 そうです。人が造った家に住むことは、神ご自身が望まれたことであり、主のご命令に従って幕屋が造られました(出エジプト記25章8節、40章)。主が、人々の間に住まわれ、彼らとの親しい交わりを求めておられるのです。言い換えれば、すべての民から愛されること、信頼されること、具体的には、私たちが主を畏れ、真の礼拝を捧げる者となることを、主なる神ご自身が求めておられるのです。

 この神の思いを繰り返し踏みにじり、背き続ける私たちに対して、神は究極の愛を示されました。神の独り子キリストを犠牲になさったのです。ご自分の独り子と私たちの立場を交換してくださったのです。

 乞食王子という童話があります。瓜二つの王子と乞食が着物を交換するという話です。その後、乞食の身なりをした王子は、ひどい生活を経験します。一方、王子の着物を着た乞食の子は、夢のような生活を味わうのです。そして、王子が新しい王様に即位する戴冠式の直前、元に戻るというお話です。

 乞食王子は、いわゆる物語です。しかし、神の御子、イエス・キリストと私たちの交換は、ただのお話ではありません。本当に私たちは神の子ども、天の御国の王子とされているのです。

 主イエスを信じて、その救いに与った者には、神の子どもになる資格が与えられました(ヨハネ福音書1章12節)。また、主イエスは私たちに「天におられるわたしたちの父よ」(マタイ福音書6章9節)という呼びかけの言葉を教え、神が私たちのお父さんだと紹介してくださったのです。そして、神は私たちを本当に自分の子どもと認め、私たちの祈りに耳を傾けてくださいます。

 パウロも、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供どもであることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」と言っています(ローマ8章15~16節)。

 またエフェソ書1章13,14節に「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになります」と言われます。

 イエス・キリストを信じて与えられた、約束の聖霊によって「アッバ、父よ」と呼ぶ私たちの神の住まいはどこでしょうか。モーセたちに造らせた神の幕屋も、ソロモンの建てた神殿も、その後エズラ、ネヘミヤによって建てられた第二神殿も、さらにイエスがその破壊を預言されたヘロデの神殿も、今はありません。それでは、神の住まいは今日、どこにあるのでしょうか。

 聖書は、「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(第一コリント6章19節)と私たちに語ります。私たちの体が神の霊が宿る神殿だと言われています。私たちの体に神の霊が宿り、住まいとされたというのです。

 この体は、贖罪の小羊なる主イエスの血によって購われたものです。だからこそ、この神殿を汚すことがないように、否むしろ、この体で神の栄光を現わすように(同6章20節)、主の御前に、主を畏れつつ清い生活を送ることが求められているのです。

 これらのことを教え、私たちを愛し、守ってくださる神様を信頼し、日ごとに語られる主の御言葉で心も体も清められ、神と交わり、隣人を愛する健全な生活を神の御前で送りましょう。

 主よ、あなたの深い愛と恵みのゆえに、心から感謝致します。あなたの御旨はあまりに深くて、すべてを探り知ることは出来ません。ただ、日ごとに御言葉を聴き、その導きに従うのみです。常に御言葉の光のうちを歩み、その交わりから外れることがないように、守り導いてください。私たちの交わりと日々の生活を通して、神の栄光を現わすことが出来ますように。 アーメン




10月24日(火) レビ記14章

「もし、彼が貧しくて前記のものに手が届かないならば、自分の贖いの儀式のための奉納物として賠償の献げ物の雄羊一匹、更に穀物の献げ物のためにオリーブ油を混ぜた上等の小麦粉十分の一エファ、及び一ログのオリーブ油を調える。」 レビ記14章21節

 14章には、重い皮膚病を患った人の「清めの儀式」についての規定が記されています。これは、重い皮膚病を癒すための儀式ではなく、重い皮膚病が癒された人を清めるための、即ち、社会生活に戻し、神を礼拝する民として整えるための儀式です。

 そのためにまず、祭司は患者の状態を調べます(3節)。患者は汚れているとされているため、宿営の外に留め置かれていますから、そこまで往診に行くわけです。そして、治っていれば、清めの儀式を行います(4節以下)。

 清めの儀式を行った後、その人は宿営に戻れますが、すぐには天幕に入れません(8節)。七日の間、家族などとの接触は禁じられているのです。七日目に第二の清めの儀式があり、それから社会生活に戻ることが出来ます(9節)。それでもまだ、聖なるものに触れることは禁じられていると考えられます。

 それで八日目、神の御前に賠償の献げ物、焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物をささげます(10節以下)。まずは、賠償の献げ物として雄羊一匹を、一ログのオリーブ油と共にささげます(12節)。

 このとき祭司は、雄羊の血を取り、清めの儀式を受ける者の右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗ります(14節)。これは、祭司を任職するときの儀式と似ています(8章23,24節、出エジプト記29章20節)。

 賠償の献げ物をするということは、重い皮膚病が単なる病気というのではなく、信仰上の汚れ、即ち、神に対する罪の結果と考えられていることを示しています。

 次いで、オリーブ油を主の前に振りまいた後(15,16節)、右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗り(17節)、更に頭にも塗ります(18節)。これも、祭司アロンの頭に油を注いで聖別したのに似て(8章12節、出エジプト記29章7節)、皮膚病の汚れから清められた人物を、更に聖別して、主に仕える者とするということです。

 最後に、焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物を、祭壇で燃やして主にささげます。こうして、贖いの儀式を経て宗教的にも清い者となり(20節)、晴れて神の民イスラエルの一員として公私共に承認されるのです。

 21節以下には、貧しくて清めの儀式が出来ない人のための規定が記されます。焼き尽くす献げ物は、雄羊一匹、雌羊一匹を鳩2羽に替え、穀物の献げ物は、十分の三エファを十分の一エファに減量されています。貧しい人々に対する配慮は、1章14節以下、5章7節以下などにもありました。

 しかしながら、冒頭の言葉(21節)のとおり、賠償の献げ物としてささげられるのは、いずれも雄羊一匹です。5章14節以下に「賠償の献げ物」についての規定が記されていますが、すべて、雄羊の群れの中から相当額の無傷の雄羊をとってささげることになっていました。

 これは、人が罪を犯して汚れを負った場合、それから清められるのは、雄羊の血のほかにはないということです。ヘブライ書9章22節に、「血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない」と言われるとおりです。

 ただ、重い皮膚病になったことは、罪の結果などではありません。癒されるまで社会生活から隔離されてきた方々が、清めの儀式のために賠償の献げ物をささげるというのは、どんなに大変なことだったろうと思います。

 彼らに代わって賠償の献げ物をささげてくださる方がなければ、もとの生活に戻れなかったかもしれません。洗礼者ヨハネは主イエスのことを、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ福音書1章29節)と言いました。神が御子キリストをこの世に遣わし、私たちのための贖いの供え物としてくだ下さったので、私たちはもはや、いけにえをささげる必要がなくなったのです。

 私たちはかつて、「わたしは汚れた者です」と呼ばわらなければならないような存在でしたが、今は、主イエスの血によって清められた者とされ、聖霊の力を受けて、主の恵みを証しし、福音を告げ知らせる務めに任じられました(ヘブライ書9章14節、使徒言行録1章12節、ヨハネ福音書15章16節、第二コリント書5章15節)。

 神の憐れみによって選ばれ、聖なる者とされているのですから、互いに愛し合い、忍び合い、赦し合って、キリストの平和が心を支配するようにしましょう。そのために、私たちは招かれて一つの体とされたのです(コロサイ書3章12節以下、15節)。

 主よ、あなたの御愛を感謝します。深い憐れみに感謝します。私たちを、御名のゆえに正しい道に導き返してくださいました。家族や知人をお与えくださって感謝します。日ごとの恵みを家族、友人と共に分かち合い、恵みの地境を広げさせてください。 アーメン


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