風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2017年09月

9月30日(土) 出エジプト記30章

「アロンはその祭壇で香草の香をたく。すなわち、毎朝ともし火を整えるとき、また夕暮れにともし火をともすときに、香をたき、代々にわたって主の御前に香りの献げ物を絶やさぬようにする。」 出エジプト記30章7,8節

 主は、香をたく祭壇を造るように命じられます(1節以下)。この祭壇は、聖所の、掟の箱を隔てる垂れ幕の前に置かれます(6節)。聖所の入り口から中に入ると、右手にパンの供え物を置く机、左手に七つ枝の燭台が置かれ、正面にこの祭壇があって、至聖所、即ち垂れ幕を隔てた向こうに掟の箱があるという位置関係になります。

 ヘブライ書9章3,4節に「第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって」とあり、香をたく祭壇が至聖所にあるように記されています。

 けれども、冒頭の言葉(7,8節)にあるとおり、祭司たちが毎朝晩、七つ枝の燭台のともし火を整えるときに香草の香をたくためには、祭壇が垂れ幕の前、つまり聖所に置かれている必要があります。至聖所には、大祭司が一年に一度、贖罪日にしか入れないからです(レビ記16章、ヘブライ書9章7節)。

 少数ながら、写本の写字生の中にこの誤りを正そうと考えて、「金の香壇と」を2節に移して、至聖所ではなく「第一の幕屋」の中にそれがあるようにした写本もあります。

 ただ、レビ記16章12,13節に「主の御前にある祭壇から炭火を取って香炉に満たし、細かい香草の香を両手にいっぱい携えて垂れ幕の奥に入り、主の御前で香を火にくべ、香の煙を雲のごとく漂わせ、掟の箱の上の贖いの座を覆わせる。死を招かぬためである」とあります。

 ここでは、香炉に炭火を入れ、両手一杯に香を携えて垂れ幕の奥、すなわち至聖所で主の御前で香をたくのですが、その際、香の祭壇が至聖所に置いてあるかのように読めます。炭火を入れた香炉に香草の香を入れてたくと考えられるので、香の祭壇が至聖所に置かれている必要はないわけです。

 至聖所に入って務めをなす大祭司が香の煙を雲のごとく漂わせ、掟のはこの上の贖いの座を覆わせるのは、大祭司が死を招かないようにということですが、それは、雲が臨在の幕屋を覆って主の栄光が幕屋に満ちたという出来事を思わせ、雲のごとき香の煙によって神の栄光を覆い、大祭司がそれを直接見ることから守るということでしょう。

 また、民数記17章11節に「香炉を取り、それに祭壇の火を入れ、香を載せ、急いで共同体のもとに行って、彼らのために罪を贖う儀式を行いなさい。主の御前から怒りが出て、もう疫病が始まっている」とあります。

 モーセらに逆らって不平を行っているイスラエルの民に神が怒りを発せられ、そこでアロンが贖いの儀式を行うのですが、それによって災いが取り除かれたことから(同12,13節)、祭壇の炭火が民の罪を清める働きをするということが分かります。

 このことは、神殿で祭司の務めをなしていたイザヤが預言者として選び立てられるとき、セラフィムのひとりが祭壇から火鋏で取った炭火を持って来てイザヤの口に触れ(イザヤ書6章6節)、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(同7節)と言ったという箇所からも確認出来ます。

 毎日、香の祭壇で香草の香をたくように命じられているのは、聖所で働く者たちを守るためであり、また清めるためにそれをせよと言われているのでしょうか。

 ヨハネ黙示録に、香は祈りの象徴として登場します(黙示録5章8節、8章3,4節)。詩編の記者も、「わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし、高く上げた手を、夕べの供え物としてお受けください」(詩編141編2節)と詠っていて、旧約時代から同様に理解されていたことが分かります。

 それは、朝に夕に、芳しい香りが香の祭壇から立ち上るごとく、祭司たちだけでなく、多くのイスラエルの民が神の御前に絶えざる祈りをささげていたということでしょう。そして、かつては神の幕屋、そしてエルサレム神殿の至聖所の前にしかなかった香壇が、どこでも主を信じる信徒たちが祈りをささげるとき、そこに置かれているかのようです。

 私たちにとって香の祭壇とは、聖霊のようです。聖霊は私たちを「イエスは主である」と告白する信仰に導き(第一コリント書12章3節)、そして祈りに導きます。ゼカリヤ書12章10節に「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ」とあります。私たちは聖霊によって「アッバ、父よ」と神を呼ぶことが出来るのです(ローマ書8章15節、ガラテヤ4章6節も)。

 そして、聖霊は弱い私たちのために、言葉に表せない呻きをもって執り成し祈られます(ローマ書8章26節)。それゆえ、神が私たちのために万事を益となるよう共に働いてくださるのです(同28節)。

 また、聖霊は主の証人となる力を与えます(使徒言行録1章8節)。そのことについてパウロは、「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」と言います(第二コリント2章14節)。福音宣教を香りにたとえて語っているわけです。

 朝ごとに、夕ごとに、神の御前に進み、何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けましょう。

 主よ、私たちを朝ごと夕ごとに、御言葉と祈りに導き、御旨を悟らせ、またそれを行う力を授けてください。御名が崇められますように。御心が地の上で行われますように。全世界にキリストの福音が告げ知らされ、イエスを主と信じ、告白する信仰の導きが与えられ、喜びと平和が満ち溢れますように。 アーメン






福音歌手 森祐理 25周年記念コンサート

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福音歌手 森祐理 25周年記念コンサートツアー
~25年の感謝をこめて~

 期日 2017年9月30日(土)
 開場 14時半  開演 15時
 会場 清水文化会館マリナート小ホール(静岡市清水区島崎町214)
 入場料 一般3000円、小学生以下1500円

 写真をクリックすると拡大版が開きます。

 「ここ」をクリックすると、コンサートツアー・開催スケジュール案内のPDFファイルが開きます。

9月29日(金) 出エジプト記29章

「彼らは、わたしが彼らの神、主であることを、すなわち彼らのただ中に宿るために、わたしが彼らをエジプトの国から導き出したものであることを知る。わたしは彼らの神、主である。」 出エジプト記29章46節

 祭服についての規定に続いて、本章では、祭司を聖別する儀式について記しています。まず任職の儀式の準備として、雄牛と小羊を種入れぬパンなどと共にささげ(1節以下)、アロンとその子らを臨在の幕屋の入り口で清めます(4節)。次に、祭服を着用させ(5節以下)、聖別の油を頭に注いで聖別します(7節)。

 「任職式」(9節)は、「手を満たす」という言葉です。これは、聖職者への任職行為を表す専門用語(28章41節、レビ記8章33節、士師記17章5節など)で、任職に際して実際に祭服かささげるべき犠牲などが手渡されたことに由来する表現だろうと考えられています(24節、レビ記8章27,28節参照)。

 任職式のはじめに「贖罪の献げ物」(14節)として、雄牛をささげます(10節以下)。次に「焼き尽くす献げ物」「なだめの香り」(18節)として、雄羊をささげます(15節以下)。

 続いて、任職のため雄羊をもう一匹取り(19節)、それを屠って血を取り、その一部をアロンとその子らの右の耳たぶと右手の親指と右足の親指とに付け、血を祭壇の四つの側面に注ぎかけます(20節)。また、血の一部と聖別の油の一部でアロンと子らの祭服に振りまき、聖別します(21節)。

 血を右の耳たぶ、右手と右足の親指につけるのは、清めの儀式と考えられますが、耳につけるのは、耳が開かれて神の言葉を聞くことが出来るようになるためでしょう。それと同様、手は御言葉に従って祭司の務めを全うすることが出来るように、足は御心に適う道を歩むことが出来るようになるためでしょう。

 聖書の「聖」という文字は、「耳」と「呈」に分けられます。即ち、耳をささげるというのが、「聖」の字の意味するところです。耳がよくとおって神の声を聞きとることが出来る人、それゆえ、知徳の最も優れた人を、「聖(ひじり)」、「聖人」というようになりました。つまり、「聖」という漢字を作った人の思いは、道徳的な清さというよりも、神との関係の正しさを重要視しているわけです。

 そこで、聖書とは、神の声を聞くことの出来る書物ということになります。聖書を通して、耳が開かれ、聞くべき神の言葉を聴くことが出来る者にならせて頂きたいと思います。

 ヤコブ書1章21節に「あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」とあり、続けて「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(同22節)と語っています。耳で聞いた御言葉を、手と足で行う者とならせて頂きましょう。

 次に、雄羊の脂肪と右足を切り取ります(22節)。また、一塊のパン、輪形のパン、薄焼きパンを取ります(23節)。それらをアロンとその子らの手に載せ、主の御前に奉納物としてささげさせます(24節)。そして、それらを焼き尽くす献げ物と共に祭壇の上で煙にします(25節)。

 そうして、この任職の儀式を7日間行います(35節)。祭司として聖別され、専ら神に仕える者となるために、7回繰り返されるわけで、神への完全な献身が求められているということです。

 続いて38節以下に「日ごとの献げ物」についての規定が記されています。日ごとの献げ物として、一歳の雄羊一匹と四分の一ヒンのオリーブを砕いて取った油を混ぜた十分の一エファの小麦粉、四分の一ヒンのぶどう酒を、朝夕二回、神の御前で燃やして献げます。

 四分の一ヒンとは、約1リットル、十分の一エファは一オメルで、約2.3リットルです。量として、それほど大量ということでもありませんが、しかし、それを毎朝晩、献げるということは、オリーブ、小麦、ぶどうの収穫が安定している、必要な量が確保出来ることが必須条件です。そして、それらを保存するための施設も必要です。

 今はまだ、荒れ野をさすらう生活をしていて、安定的に小麦粉やオリーブ油、ぶどう酒を確保するというのは、不可能です。ということは、これからこの規定を守るということになるのですから、ここに神は、小麦やオリーブ油、ぶどう酒を豊かに供給されるということ、それはつまり、約束の地カナンに安住出来るようになるということを、示されているわけです。

 主なる神は、「わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる」と言われ(45節)、そして冒頭の言葉(46節)を告げられました。イスラエルをエジプトの国から導き出した神が、彼らを約束の地へと導き入れ、地の産物を豊かにお与えくださるのです。それゆえ、日ごとに主への献げ物をするということは、彼らが主をおのが神とすることであり、彼らが神の民であるという証しです。

 神はイスラエルを神の民とするため、そして彼らのただ中に宿られるために導き出されました。シナイ山に下られた神が、さらに山を下って民の間に住まわれるようになったのです。私たちの主イエスは、「インマヌエルと呼ばれる」(マタイ1章23節)お方です。

 神の右の座から、この世に降って来られ、人となられました。主イエスに向かい、朝ごとに夕ごとに、賛美のいけにえを献げ、また時間を聖別して御言葉に耳を傾けましょう。そのとき、主が私たちを罪の呪いから解放してくださった神であられ、私たちの内に、私たちと共におられるお方であることを心と体で味わい知るのです。

 主よ、あなたは天地万物を創造され、御手の内にすべてを支えておられます。私たちのような者にまで目を留め、私たちの内に住い、共に歩んでくださいます。その恵みに感謝しつつ、朝ごとに夕ごとにあなたの御前に進み、御言葉に耳を傾けます。私たちの耳を開いてください。御心を悟り、御業を行うために私たちの手と足を用いてください。 アーメン





9月28日(木) 出エジプト記28章

「あなたの兄弟アロンに威厳と美しさを添える聖なる祭服を作らねばならない。」 出エジプト記28章2節

 28章には、アロンとその子らが祭服(祭司として身につける衣服)についての規定が記されています。それは「胸当て、エフォド、上着、格子縞の長い服、ターバン、飾り帯」(4節)の六つですが、6節以下にエフォド、15節以下に胸当て、31節以下に上着、そして39節に格子縞の長い服・ターバン・飾り帯の作り方が記されています。

 なお、祭司の祭服で4節に記されていないものとして、36節以下に額当て、そして42節にズボンの作り方が記されています。42節のズボンは、アロンだけでなく、アロンを補佐する子らの衣服でもあります。ここに履物の記述がないのは、幕屋の中で祭司は裸足で務めを行うということなのでしょう(3章5節参照)。

 これらは、冒頭の言葉(2節)では、「威厳と美しさを添える聖なる祭服」と言われています。即ち、神に仕えるために身に着ける、特別な服装ということです。

 そして43節で、「アロンとその子らがそれを身に着けていれば、臨在の幕屋に入ったとき、あるいは聖所で務めをするために祭壇に近づいたとき、罪を負って死を招くことがない」と言われています。ということは、祭服が彼らを神の裁きから守る役割を果たすことになります。

 エフォドとは、チョッキのようなものであろうと想像されますが、正確なところはよく分かりません。肩紐にイスラエル12部族の名を彫りつけたラピス・ラズリがつけられています(9節)。「イスラエルの子らのための記念の石」(12節)とあることから、エフォドを身につけることで、12部族の代表者であることを表わすことになります。

 サムエル記上23章9節、30章7,8節では、エフォドは神の御心を尋ねることと関連しています。士師記8章27節、17章5節、ホセア書3章4節では、エフォドは服飾品を意味してはいないようです。

 胸当てにも、12部族の名が彫り付けられた12の宝石が付けられています(17節以下、21節)。「裁きの胸当て」(15,29,30節)と呼ばれていますが、それは、イスラエル12部族のために神の裁定を求めて、胸当てに入れられている「ウリムとトンミム」(30節)を用いるからです。

 ウリムとトンミムは、祭司が神託を求めるときに用いる、くじのようなものだと考えられています(民数記27章21節、サムエル記上28章6節)。それがどのようなものなのか、どのように用いられたのか、正確なことは分かりません。後に預言者が登場して来て、ウリムとトンミムが用いられなくなり、姿を消してしまったようです。

 また、上着の裾には、金の鈴とざくろの飾りが付けられました(33,34節)。ザクロの飾りはおもりの役割を果たし、上衣がずれ上がるのを防いだようです。金の鈴は、その鈴の音が聞こえることで、「死を招くことがない」(35節)ようにするということですが、それは、この上衣を着ている者が神の祭司であり、聖所の務めを行おうとしていることを神に知らせるということでしょう。

 のみならず、祭司自身が神の御前で奉仕していることを常に意識するため、また、祭司が聖所で務めを行っていることを知って、民が共に神を礼拝するためにも、鈴の音を響かせていたのではないでしょうか。

 ターバンには、「主の聖なる者」(36節)と彫られた純金の花模様の額当てが付けられました。「主の聖なる者」とは、主なる神の目的のために聖別された人ということです。「これがアロンの額にあれば、アロンは、イスラエルの人々がささげる献げ物、つまり、聖なる献げ物に関して生じた罪を負うことになる」(38節)と言われます。

 祭司の務めは、民を代表して神にいけにえをささげ、民のために執り成し祈ることで、そのとき、祭司は民の罪を負っているわけです。額に「主の聖なる者」という札を付けることについて、黙示録7章4節以下で、神の僕たちの額に刻印が押されることが記されています。それは、「小羊の名と、小羊の父の名」(14章1節)を記すものでした。

 小羊とその父の名は「主=ヤハウェ」です。小羊なる主イエスは、私たちのすべての罪を背負い、自らを罪の贖いの供え物として十字架についてくださった方です(ローマ書3章25節、第一テモテ書2章6節)。父なる神は、十字架の死に至るまで従順であられた主イエスに、「あらゆる名にまさる名」(フィリピ書2章9節)すなわち、至高の「主=ヤハウェ」の名を授けられたのです(同11節)。

 パウロは、「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラテヤ書3章27節)と言いました。それはまさしく、私たちが罪赦され、清められた者であり、裁かれることなく死から命に移された者であることを示しています(ヨハネ5章24節)。

 アロンの祭服は、その豪華さによって「威厳と美しさ」をあらわしたのかも知れませんが、私たちは、主の霊の働きにより、鏡のように主イエスの栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていくのです(第二コリント3章18節)。

 主が私たちのためにご自身を献げられたように、私たちも神の憐れみにより、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げましょう。それこそ、私たちのなすべき礼拝だからです(ローマ書12章1節)。

 主よ、私たちは土の器の中に、主イエスの命という宝を納めています。それは、死ぬはずのこの身に主イエスの命が現れるためです。キリストの福音を宣べ伝えます。今こそ、恵みのときであり、救いの日だからです。御名が崇められますように。 アーメン





9月27日(水) 出エジプト記27章

「アカシヤ材で祭壇を造りなさい。縦五アンマ、横五アンマの正方形、高さは三アンマとする。祭壇の四隅にそれぞれ角を作り、祭壇から生えているように作り、全体を青銅で覆う。」 出エジプト記27章1,2節

 冒頭の言葉(1節)に「アカシヤ材で祭壇を造りなさい」と記されています。幕屋を造る木材はアカシヤ材です。聖書辞典によると、アカシヤはシナイ半島およびエジプトの荒れ野に生育する豆科の落葉喬木で鋭いとげを持ち、葉は羽状複葉、花は金色の小毛鞠形、樹高4~7m、木理は緻密、堅牢、美しいオレンジ・ブラウン色なのだそうです。

 荒れ野に生育する樹木なので、イスラエルの民がそれを調達するのは困難ではなかったでしょう。しかし、堅い木で、その上とげまであるというのですから、切ったり細工したりは大変だったでことしょう。また、「全体を青銅で覆う」(2節)と記されています。柔らかい銅に錫を混ぜると硬くて強靱な青銅になります。

 このアカシヤ材は私たちのことを象徴しているようです。神の恵みなき荒れ野に育って頑なになり、その上言動にとげがあって周りの者を傷つけます。そして、努力しても、自分で自分を変えることが出来ません。神はしかし、私たちのありのままを受け入れ、そして「主の用なり」と、私たちを尊い主の御業のために用いてくださいます。

 それは、主イエスの犠牲の上になされました。主イエスの額にはとげある茨の冠、手足には釘、脇腹には槍。止めどなく血が流れました。その時、流された血潮で主イエスは私たちの罪を覆い、清めてくださいました。アカシヤ材が青銅で覆われたように、私たちの体に主の衣を着せて、主の業に相応しく整えてくださるのです。

 祭壇は、神へのいけにえをささげるものです。その祭壇の四隅に角を造れとあります(2節)。角は力を表わしています。祭司は贖いの供え物の血をこの角に塗りました(レビ記4章7節)。それは、贖いの血で祭壇を清めることですが、また、救いの力を表わしています。

 列王記には、ソロモンの怒りを逃れるため、ソロモンの兄アドニヤや軍の司令官ヨアブが祭壇の角をつかんだと記されています(列王記上1章50節、2章28節)。神の贖いの力、救いの力にすがろうとしたということです。

 私たちの罪のための贖いの供え物は、牛や羊という動物ではなく、神の御子、イエス・キリストです。その祭壇は、十字架でした。主イエスの十字架は、アカシヤ材で造られていたかも知れません。十字架に主イエスの血潮が流れました。私たちは真の救い主、主イエスの十字架のもとにひざまずき、より頼んでいます。主の十字架を通して魂の救いを得、恵みと平安とに与ることが出来ました。

 祭壇は、幕屋を囲む庭に置かれます。幕屋を囲む庭を造るようにと、9節以下に指示されています。この幕屋を囲む庭は、イスラエルの民が神を礼拝する場所です。かつては、礼拝する場所が年齢、性別、職業などにより区別されていました。

 幕屋の中には祭司しか入れません。奥の至聖所には大祭司しか入れません。一般の人々は幕屋の庭で礼拝を捧げました。人々が礼拝する場所に祭壇が置かれています。これは、礼拝には供え物が必要であり、まず供え物を捧げてから礼拝がなされたということを意味しています。私たちの礼拝の供え物は何でしょうか。

  詩編100編4節に「感謝の歌を歌って主の門に進み、賛美の歌を歌って主の庭に入れ」と歌われています。私たちのために主イエスが贖いの供え物となってくださった今、私たちの礼拝の供え物は何よりも、主への感謝、主への賛美です。「賛美のいけにえ」という言葉もあります。礼拝でささげる献金は、神への感謝のしるし、賛美のしるしなのです。

 また、詩編84編2~3節には「万軍の主よ、あなたのいます所は、どれほど愛されていることでしょう。主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです」とあり、5節にも「いかに幸いなことでしょう、あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら」と歌われています。

 この詩人にとって、主の庭に入って礼拝することは慕わしいことであり、出来ればそこに住みたいということなのです。彼は主と交わり、主と語らい、主を賛美する恵みを深く味わっているのです。そして、そこから離れたくない。いつも主の御前にいたい、主の御前で生活したい。生活を通して絶えず主を賛美したいと詠っているのです。

 イエス・キリストの誕生の時、「その名はインマヌエルと呼ばれる」(イザヤ書7章14節)という預言者の言葉が実現するためだったと告げられています(マタイ福音書1書22,23節)。インマヌエルとは、神が私たちと共におられるという意味でした。イエス・キリストの降誕は、これから常に神が私たちと共にいてくださるということだと教えているのです。

 今日、キリストの御霊が主イエスを信じた私たちのからだを聖霊の宮として、お住まいくださっています。私たちは主イエスの血潮により、御言葉を通して清められました。私たちの祭壇から絶えず芳しい賛美の供え物、感謝の供え物が神に捧げられているでしょうか。

 主のご命令に従って、まず祭壇を造りましょう。賛美と祈りを通して、主と共にある恵みを深く味わわせていただきましょう。いよいよ深く、熱く、主と交わり、御霊に満たされましょう。そして、心から絶えず主に感謝し、主を賛美しましょう。

 主よ、御子キリストを通して賛美のいけにえ、即ち御名をたたえる唇の実を、絶えずあなたに献げます。永遠の契約の血による大牧者、私たちの主イエスを死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによって私たちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものを備えてくださいますように。 アーメン




9月26日(火) 出エジプト記26章

「その垂れ幕は留め金の下に掛け、その垂れ幕の奥に掟の箱を置く。この垂れ幕のはあなたたちに対して聖所と至聖所とを分けるものとなる。」 出エジプト記26章33節

 箱や机、燭台に続いて、幕屋を覆う幕(1節以下)、壁板と横木(15節以下)、至聖所の垂れ幕を造ります(31節以下)。15節以下の記事によれば、幕屋には縦10アンマ、横1.5アンマの壁板が用いられます。1アンマはおよそ45センチですから、10アンマは4.5メートル、1.5アンマは67.5センチです。

 聖所の南北の壁にはその板を20枚ずつ並べます(18節)。ということは、幕屋の奥行きは30アンマ、約13.5メートルになります。間口は壁板を8枚(22節)、即ち12アンマ、約5.4メートルです。そして幕屋の高さは10アンマ(16節)、つまり約4.5メートルです。この幕屋は、敷地面積22.5坪で、天井の高い大きな立方体であることが分かります。

 そのため、幕屋を覆う「幕」(イェリアー)を織るというのは、骨の折れる仕事だったでしょう。長さ28アンマ、幅4アンマの幕を10枚織ります。「亜麻のより糸、青、紫、緋色の糸を使って意匠家の描いたケルビムの模様を織り上げ」(1節)ます。それは、亜麻布に青、紫、緋色の糸でケルビムの刺繍を施すということでしょう。

 また、山羊の毛を使って11枚の幕を造り、幕屋を覆う「天幕」(オーヘル)とします(7節)。1枚の幕は、長さ30アンマ×幅4アンマです。さらに、赤く染めた雄羊の毛皮とジュゴンの皮で天幕の「覆い」(ミクセ)を造ります(14節)。この「天幕」と「天幕の覆い」により、雨や風、強い日射から幕屋の「幕」が守られることになります。

 こうして、神の幕屋は幾重にも守られているのですが、それは、そこでなされる神への礼拝が何ものにも妨げられないように守るためのものと考えても良いのでしょう。

 15節以下に幕屋の壁板と横木の造り方が指示されています。岩波訳は「壁板」(ケレシュ)を「木枠」とし、「一枚の平板とする見方もあるが、細長い材木を枠状に組み合わせた木枠と解する方がよいであろう。その方が重量も軽く、通気性もあり、また、第一の層の豪華なタペストリーやそこに刺繍されたケルブたちの姿を内側から見ることができる」と注をつけています。

 横木の取り付け方がよく分かりませんが、おそらく並べた壁板の内外の上と下を固定するために4本の横木が用いられ、壁板の外側の中央の高さに1本取り付けられたのでしょう。それで、正面を除く3方の壁板に5本ずつの横木が作られるのです。この壁板と横木が「幕屋」(ミシュカン)の骨格となり、その上に幕屋の「幕」、「天幕」、「天幕の覆い」が掛けられます。

 次に、至聖所の垂れ幕作りについて指示されます(31節以下)。これは、冒頭の言葉(33節)のとおり、聖所と至聖所とを分けるものです。至聖所には贖いの座(掟の箱)が置かれていて、そこに主が臨まれます(25章22節)。聖所は、主を礼拝する場所です。

 その間に垂れ幕があるのは、罪ある人間が聖なる神を見て、撃たれることがないように、隔ての壁となっているわけです。そこにもケルビムの模様がつけられています。これは、エデンの園の命の木に至る道を守るためにケルビムときらめく剣の炎を置かれたという、創世記3章24節の言葉を思い出させます。人が神の神聖を侵すことは許されないということです。

 けれども、その垂れ幕が裂けてなくなるときが来ます。それは、主イエスが十字架で息を引き取られたときです。そのとき、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けました(マルコ福音書15章38節など)。

 キリストの十字架の死によって罪赦され、すべての汚れから清められた私たちには、もはや神殿の垂れ幕、至聖所と聖所を隔てる壁は必要がなくなり、大胆に神に近づけるように、道が開かれたのです(ヘブライ書6章19節、10章20節)。

 マタイ福音書では「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」(同27章52節)と言われています。それは、エデンの園の東で、命の木の番をしているケルビムが退けられて、人が永遠の命に与れるようになったということでしょう。

 「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ書4章16節)。

 主よ、御子キリストが私たちの罪のためにご自身を献げられ、その後、罪と死の力を打ち破って甦られ、天に上り、永遠に神の右の座に着かれました。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道を私たちのために開いてくださったので、心清められ、感謝と喜びをもって御もとに近づくことが出来ます。ハレルヤ! アーメン
 




静岡教会公式サイト更新

静岡教会のサイトを更新しました。
①「礼拝説教」に礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「フォトレポート」に教会学校アピールの写真を掲載しました。
④トップページと「お知らせ」に「聖書と音楽の集い」の案内を掲載しました。「お知らせ」は随時更新しています。
⑤「今日の御言葉」は毎日更新しています。

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9月25日(月) 出エジプト記25章

「わたしのために聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。」 出エジプト記25章8節

 主はモーセに対し、「イスラエルの人々に命じて献納物を持って来させなさい」(2節)と仰せになりました。それは、冒頭の言葉(8節)のとおり、イスラエルの民の中に住まわれると言われる主のための「聖なる所」、すなわち、神の幕屋とそのすべての祭具(9節)を造らせるためです。

 献納するように言われたのは、金、銀、青銅という金属材料(3節)、青、紫、緋色の毛糸、亜麻糸、山羊の毛(4節)、赤く染めた雄羊の毛皮、じゅごんの皮(5節)、アカシヤ材という木材(5節)、灯火のための油、種々の香料(6節)、ラピス・ラズリやその他の宝石類(7節)です。

 最初に造るように命じられたのは、箱です(10節)。その中に、十戒の記された「掟の板」を納めます(16節)。それで「掟の箱」(22節、26章33節、16章34節など)と言われます。この箱は、垂れ幕の奥(26章33,34節、40章21節)、つまり至聖所に置かれて、聖所から見られないようになっていました。

 箱の材料に用いるアカシヤの木は、普通直径40~50センチ、樹高5~10メートルに至るまめ科アカシヤ属の木です。自らを守るために鋭いとげがあります。まめ科なのでよく乾燥に耐え、根を深く張り、根粒バクテリアをもって自ら空気中の窒素を取り込んで、養分とします。

 アカシヤ材はオレンジ色で、堅くて、病虫害に強く、腐り難いので、建築材や家具など利用価値があります。これは、荒れ野で鍛えられたからこその堅牢さなのかも知れません。

 次に、贖いの座を純金で作ります(17節)。それから、ケルビムを作って贖いの座につけます(18,19節)。ケルビムは複数形で、単数形はケルブです。だから、岩波訳はケルビムを「ケルブたち」と訳しています。ケルブとは、スフィンクスのように頭は人間、体は動物、4本の足に二つの羽を持つ天上の生き物です。

 創世記3章24節では、命の木を守るためにエデンの園の東に置かれたと言われています。ここでも、掟の箱とその中に納められた掟の板を守る役割が与えられていると考えてよいでしょう。

 また、サムエル記上6章2節の「ケルビムの上に座す万軍の主の御名によって」という言葉、サムエル記下22章11節の「(主は)ケルビムを駆って飛び、風の翼に乗って現れる」という言葉で、神の乗り物としての役割も果たしていたようです。

 この贖いの座を掟の箱の上において、箱の蓋とします(21節、26章34節)。22節に「贖いの座の上からあなたに臨み」とあるとおり、これは神の臨在を表すものであり、礼拝において、主なる神が人とお会いになる場だということです。

 特に、大祭司が年に一度、自分の罪とイスラエルの民の罪のためにいけにえの血を贖いの座とその前方に振りかけ、贖いの儀式を行います(レビ記16:11~17)。だから、「贖いの座」と言われるのです。

 次に、机を造ります(23節以下)。この机は、主の前にパンを供えるためのもので(30節)、至聖所の垂れ幕の手前、聖所の北側に置かれます(26章35節、40章22節)。

 パンを供えるのは、それが神の食物というのではなく、神が食べ物、飲み物をお与えくださることへの感謝を表わすためです。つまり、食べ物、飲み物は神のくださるものであるということを示しています。そして、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ福音書4章4節)という言葉から、このパンは、神の言葉を象徴しているということも出来ます。

 それから、燭台を造ります(31節以下)。これは主柱の両側に三本ずつ支柱がつけられ、合計七つの枝がある「燭台」(メノラー:31節)です。この燭台は、祭司らが礼拝を行う場所を照らす灯火として、幕屋の中の垂れ幕の手前、即ち聖所の南側に置かれます(26章35節、40章24,25節)。

 マタイ福音書3章11節の「その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる」という言葉や、使徒言行録2章3節の「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」という言葉から、灯火は聖霊を象徴しているといっても良さそうです。

 こうして、主のための「聖なるところ」(8節)が造られていきますが、それは何よりも先ず、主の臨在が現され、神を礼拝するところです。賛美をもって絶えず主を心の王座に迎え(詩編22編4節、歴代誌下5章13節参照)、聖霊に満たされ、霊に燃えて主を礼拝しましょう(ローマ書12章11節)。

 主よ、あなたが私たちの間に、私たちと共に住まわれ、共に歩んでくださることを感謝致します。主が共におられることに勝る平安、喜びはありません。あなたこそ私たちの希望と平安、慰めの源だからです。心から御名をほめたたえます。日々命の言葉によって生かされ、御霊の力を受けてキリストの証人となることが出来ますように。 アーメン





9月24日(日) 出エジプト記24章

「主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。」 出エジプト記24章16節

 イスラエルの民が、自分たちをエジプトの奴隷の家から導き出してくださった主なる神と、シナイ山のふもとで契約を結びます。契約書には、十戒からはじまる神の言葉が記されています(20~23章)。

 契約の主文は、19章5,6節の「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる」という言葉です。

 モーセは、山のふもとに祭壇を築き、12部族に因んで12の石の柱を契約の記念として建てました(4節)。そして、若者たちに焼き尽くす献げ物と和解の献げ物を献げさせました(5節)。そして、雄牛の血の半分を取って祭壇に注ぎかけ(6節)、契約の書を読み聞かせて、イスラエルの民に「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」(7節)と言わせます。

 それから、残りの血をイスラエルの民にふりかけ、「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」(8節)と宣言します。いけにえとなった雄牛の血が、祭壇に象徴されている主なる神と、祭壇の前で神の御言葉に従う約束をしたイスラエルの民とを結ぶしるしということです。

 興味深いのは、契約を「結ぶ」(8節)というのは、原文では「切り離す、切り落とす」という意味の「カーラト」という言葉が用いられていることです。

 この言葉遣いについて、西南学院大学神学部名誉教授だった故関谷定夫先生から、二つに切り裂かれた動物の間を松明の火が通って主がイスラエルの父祖アブラハムと契約を結ばれたという創世記15章の記事から、もしも契約を破るならば、そのように切り裂かれてもよいということで、「契約を切る(結ぶ)」という言葉になったと伺いました。

 ヘブライ語辞典には、契約のためにいけにえとして献げた動物を、共に食するために切り分け、分配したことから、そのような言葉遣いになっているという説明が付けられていました。その語源について、様々な解釈があるということでしょう。

 主イエスの十字架の死によって、神と民との間に新しい契約が結ばれました。最後の晩餐の席で、主イエスはパンを取って、「取りなさい。これはわたしの体である」と言われ、杯を取って、「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われました(マルコ14章22節以下)。

 十字架で裂かれた主イエスの体を象徴するパンを食べ、十字架でながされた主イエスの血潮を象徴する杯を飲む者は、主イエスの命に与り(ヨハネ6章53節以下)、神と和解させていただいたのです。

 契約を結んだ後、主がモーセを招かれます(12節)。教えと戒めを記した石の板を授けると言われるのです。モーセは、ヨシュアを連れて神の山に登ります(13節)。すると、雲が山を覆いました(15節)。19章9節で「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む」と主は言われていました。

 雲は神の姿を隠しますが、その雲は神の臨在のしるしなのです。モーセが主なる神に命じられたとおりに神の幕屋を建設し終えたとき、雲が臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちました(40章34節)。また、ソロモンが壮麗な神殿を建て、契約の箱を安置したときにも、神殿に雲が満ち、そこに神の栄光が現れました(列王記上8章1節以下、10,11節)。

 冒頭の言葉(16節)で、六日間、雲が山を覆っていて、七日目にようやく主の御声が聞こえたということです。18節に「モーセは四十日四十夜山にいた」とありますので、7日目に主の声が聞こえた後34日間は主との交わりの中にいたということでしょう。ところで、いったいモーセは最初の六日間、山の上で何をしていたのでしょうか。

 申命記9章9節に「わたしが石の板、すなわち主があなたたちと結ばれた契約の板を受け取るため山に登ったとき、わたしは四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず水も飲まなかった」とあります。これは、食べ物、飲み物がなかったということではなく、ひたすら主の御声を待って、賛美と祈りをささげていたということではないでしょうか。

 雲に覆われて何も見えはしません。神の御声も聞こえません。六日間待たされたというのは、モーセが心穏やかに主と主の御言葉に信頼し、主を畏れてその道を歩もうとするかどうか、神が試されたのかも知れません。

 がしかし、そこに満ち溢れている神の栄光に包まれていて、人知では測り知ることの出来ない神の平安、神の平和が、モーセの心を満たしていたのでしょう。そして、七日目に神の語りかける言葉を聞いたとき、いよいよ豊かに心満たされたことでしょう。

 私たちは、神の口から出る一つ一つの言葉で生かされるからです(申命記8章3節)。

 主よ、あなたの限りない愛と慈しみにより、極東に住む私たちのところにまで、福音が伝えられて来ました。十字架で贖いの業を成し遂げてくださった主イエスを信じる信仰によって、新しい契約に与る恵みを得ました。感謝しつつ、賛美しつつ、御前に進みます。御言葉に聞き、御旨に従います。いつも、全力を尽くして神の業に励むことが出来ますように。 アーメン





9月24日(日)主日礼拝案内

02
9月24日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、旧約聖書・士師記から、共に聖書の学びと交わりを行います。

主日礼拝を10時半から行います。
9月は教会学校月間で、小学科、少年少女科のアピールと証しを礼拝の中で伺います。
また、ガラテヤ書5章から「キリスト者の自由」と題して説教を頂きます。

キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。

礼拝後、昼食会(有料・自由参加)があります。

その前に信徒会、昼食会後、各会例会を行います。






 
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