風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2017年08月

8月23日(水) 創世記42章

「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々に降りかかった。」 創世記42章21節

 42章から、物語りは大変ドラマティックに展開して行きます。41章で、エジプトのファラオが夢を見、ヨセフがそれを解き明かしたとおり、7年間豊作が続いた後、7年間の飢饉が始まりました(41章47節以下、53節)。

 ファラオはヨセフを責任者として、飢饉に対する対策をしっかりと行いました。そのため、エジプト周辺諸国をも巻き込んだ大凶作の中で、エジプトには十分な食物があり、やがて、各地から穀物を買いにエジプトにやって来るようになりました(同56,57節)。

 その中に、ヤコブの息子たち、つまり、ヨセフをエジプトに売った兄弟たちもいました(1節以下)。エジプトの「司政者」(ハ・シャッリート:権威者)ヨセフの前に来てひれ伏し、食糧を買うためにカナンからやって来たと告げます(6,7節)。彼らは、司政者が弟のヨセフだとは気づきませんでした(8節)。

 ヨセフの方がいち早くそれに気づき、「お前たちは回し者だ。この国の手薄な所を探りに来たに違いない」と言います(9節)。兄たちは身に覚えのないことを言われるので、何とか誤解を解こうとして自分たちの氏素性を語ります(10,11節、13節)。

 その中で、兄たちは問わず語りに「末の弟は、今、父のもとにおりますが、もう一人は失いました」(13節)と、ヨセフのことにも言及しています。

 それを聞いた司政者は、「お前たちのうち、だれか一人を行かせて、弟をここに連れて来い。それまでは、お前たちを監禁し、お前たちの言うことが本当かどうか試す」(16節)といって、皆を牢に投げ込んでしまいました(17節)。

 けれども、三日目に施政者が姿を現すと、「兄弟のうち、一人だけを牢獄に監禁するから、ほかの者は皆、飢えているお前たちの家族のために穀物を持って帰り、末の弟をここへ連れて来い」(19,20節)と命じました。監禁する者と穀物を持って家に帰る者の数を逆転させたわけです。

 ヨセフの真意が定かではありませんが、「もう一人は失いました」という表現の意味、そのことについての兄弟たちの考えを知りたいと思ったのでしょう。しかし、9人を監禁して、一人だけを家に帰すなら、父ヤコブはいよいよ意気消沈し、末の息子ベニヤミンを絶対失うわけには行かないと、エジプト行きを認めはしないだろうと考えて、方針を変えたものと思われます。

 兄弟たちにとって、スパイ扱いされての投獄は、まったく謂れのないことですから、大変な苦痛だったと思います。しかしながら、そうであればこそ、彼らは自分たちがヨセフに対してなした仕打ちを強く思い出させられたのでしょう。

 というのは、冒頭の言葉(21節)のとおり、「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ」と言い、自分たちの現在の苦しみを、かつてのヨセフの有様と重ね合わせ、自分たちの弟への仕打ちに対する罰と受け止めているからです。

 長兄ルベンの「だから、あの子の血の報いを受けるのだ」(22節)という言葉は、直訳すると、「彼の血が求められている」となります。血とは命のことですから、ヨセフは既に死んだものと思っているのです。それは取り返しのつかないことで、自分たちの命が要求されていると考えているということになります。

 ヨセフは、兄たちが語った言葉を聞きました。それは、自分に対して行った仕打ちを罪と認め、後悔している言葉でした。ヨセフはその場を離れて一人、涙を流します(24節)。ヨセフは、兄たちが自分にした悪事を忘れることはなかったでしょう。だから、兄たちがやって来たとき、「お前たちは回し者だ」と難癖をつけ、牢に監禁するような真似をしたのでしょう。

 ところが、兄たちの会話を聞いて、兄たちも自分のことを忘れてはいないこと、そのことを傷みに覚え、また悔いていることを知りました。苦しんでいたのは自分一人ではなかったと知ったわけです。すると、自分が今、兄たちにしていることは、なんとひどい仕打ちだろうかということにもなるでしょう。そうした思いが涙となって溢れ出たのではないでしょうか。

 そこで、罪滅ぼしの意味も込めて、兄たちの穀物の袋にその代金をすべて返し、彼らを特別なゲストとして処遇することにしたのではないでしょうか(26節以下)。兄たちが神の御前にひれ伏し、素直に罪を認めている姿に接して、ヨセフもまた、神の前にひれ伏す思いにさせられたわけです。

 ただ、兄たちはエジプトの司政者から回し者呼ばわりされて監禁され、シメオンを残して家に帰らされ、末の弟を連れて行かなければならなくなったこと、それから、穀物の代金がすべて戻されていることなど、訳の分からないことの連続に、「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは」(28節)といぶかります。神のなさりようが、彼らの理解や経験を越えているのです。

 ヤコブの子らは、神の祝福に生きるよう選ばれていたのに、罪によってその祝福を見失っていました。しかるに神は、彼らの罪を裁き、罰を与えようとしておられるのではありません。彼らを義の道に導こう、祝福の道に連れ戻そうとされていて、ヨセフと兄たちに働きかけておられるのです。ここに、神の深い憐れみが示されています。

 主よ、私たちが皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になれますように。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を祈る者とならせてください。私たちは、アブラハムの祝福を受け継ぐために召されたからです。 アーメン




8月20日(日)主日礼拝報告

8月20日(日)は夏期休暇で、代わりに織田たい子執事が主日礼拝の説教を担当してくださいました。
主日礼拝には、教会員9名、来賓5名(子ども2名を含む)がお見えになりました。
感謝です。

静岡教会の公式サイトを更新しました。
①「礼拝説教」に礼拝プログラムを掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」「フォトギャラリー」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新していますが、先週15日(火)から今週22日(火)まで、お休みさせて頂きました。
URL https://shizuoka-baptist.jimdo.com/

御覧ください。









8月20日(日)主日礼拝案内

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8月20日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、創世記から聖書の学びと交わりを行っています。

主日礼拝を10時半から行います。
礼拝では、ヨハネ福音書3章1~15節から「永遠の命を得る」と題して奨励を頂きます。
奨励は、織田たい子執事の担当です。

キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


礼拝後、昼食会(有料・自由参加)があります。


午後、各会例会があります。


 


 

第50回 平和記念日集会

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8月15日(火)18時半~ 第50回平和記念日集会
再考・靖国問題ー「冬の時代」に抗う
 講師 田中伸尚先生(ノンフィクション作家)
 場所 静岡県産業経済会館(静岡市葵区追手町44-1)
 参加無料
 主催 静岡靖国問題連絡協議会(代表代行 前田茂已)
 
 特定秘密保護法、安保法に続き、「共謀罪」が成立しました(本年6月)。安倍政権のもと、日本はかつてのように「戦争をする国」になろうとしています。
 「国家の嘘」が国民を呑み込んでいこうとする今、この「嘘」の正体を暴き、平和・民主主義を求める声をあげていきましょう。

写真をクリックすると、拡大版が開きます。

静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。
①「礼拝説教」に礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」「今月の御言葉」を更新しました。
③「お知らせ」「フォトレポート」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。


御覧ください。

夏期休暇

今日から夏期休暇に入りました。
明朝、静岡を離れ、翌週22日まで留守にします。
その間、ブログの更新が出来ません。
ご了承ください。
皆様に主の恵みと導きが常に豊かにありますように。

8月14日(月) 創世記33章

「いいえ。もし御好意をいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取りください。兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎えてくださったのですから。」 創世記33章10節

 帰国したヤコブは、いよいよ兄エサウと20年ぶりの対面に臨みます。兄は、400人の供を連れています(1節)。その仰々しい出迎えを見たヤコブは、心中穏やかではなかったでしょう。

 あるいは、兄の顔を避けてハランに旅立った日のことを、昨日のことのように思い出したのではないでしょうか(27章41節以下、28章5節)。彼は、父イサクを騙し、父が兄に与えると約束していた祝福の祈りを横取りしたのです。兄エサウはそれを知ったとき、ヤコブを殺す決断をしました(27章41節)。だから、逃げ出したのです(27章43節)。

 ベテルで神の祝福を受け(28章10節以下)、ハランで大家族となり(29章15節以下)、ひと財産をなし(30章43節)、ヤボクの渡しで神の使いと互角に相撲をとり、「イスラエル」という名前をもらい、祝福を受けたヤコブではありますが(32章23節以下、29節)、腿を痛めて、足を引きずっているヤコブは、もはや逃げ出すこともできません。

 ヤコブは観念し、兄の前に「七度地にひれ伏し」ました(3節)。地にひれ伏すのは、家臣が国王に対して、あるいは人が神に対して行う儀礼的な行為で、「私はあなたの下僕です」というような、相手に対する最高度の敬意を表明する態度です。

 七度それをしたということは、何度も何度も繰り返したということですが、七は完全数ですから、私は絶対あなたに反抗しません。完全にあなたに従いますということを表わしているものといってよいでしょう。

 すると、兄「エサウは走って来てヤコブを迎え、抱きしめ、首を抱えて口づけし、共に泣」(4節)きました。つまり、エサウはヤコブの帰郷、そして再会を喜び、歓迎してくれたのです。過去のことについては、全く何も語られません。それは、ヤコブの罪過を完全に赦し、何があったかも忘れてしまっているような状況だということです。

 ヤコブは兄を「ご主人様(アドニー:「わが主人」の意)」と呼び(8節)、エサウは、「弟よ」と呼んで答えています(9節)。さながら、放蕩息子とその父親が再会したときのような、麗しい光景です。もしかすると、主イエスはこのときのエサウとヤコブのやりとりを思い起こしながら、放蕩息子のたとえをお語りになったのかも知れません。

 しかし、ヤコブはそんなエサウが信じられません。本当にこれが兄エサウだろうか、別人ではないだろうかと思ったことでしょう。冒頭の言葉(10節)には、そんなヤコブの気持ちが書かれています。それは「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます」というところです。

 ヤコブは当初、兄エサウがどのように行動しても身の安全を確保出来るように、組を二つに分けました(32章8,9節)。また、兄に機嫌を直してもらえるよう、贈り物を準備するという、二重三重の備えをしました(32章14節以下)。しかし、エサウがヤコブを無条件で受け入れ、歓迎してくれたので、今度は感謝の思い一杯で、贈り物をどうしても受け取ってくれるようにと頼み込みます。

 ヤコブはどうして兄エサウがそんなに優しくなっているのか、分からずにいます。しかし、エサウの顔が、神の顔のように見えるというのは、興味深い表現です。イスラエルには、人間は罪深いので神の御顔を見ることは出来ない、清い神の眼差しに触れると、一瞬にして心刺され息絶えてしまうといった考え方があります。

 ところが今ヤコブは、エサウの歓迎振り、そしてかこのことに全く触れようともしない態度に、自分の罪を兄が赦してくれたと実感し、そこから、神の顔を見ることは、裁きや罰を受けるというのではなく、赦され、受け入れられることだと語っているわけです。

 ヤコブは、ベテルや(28章17節)ヤボクの渡しでの体験(32章31節)に基づいて、そう語ったのでしょう。ここに、聖書の語る福音があります。

 三度主イエスを否んだペトロも(ルカ22章54節以下)、主イエスの愛の眼差しに見つめられ(同61節)、「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」という主イエスの執り成しの祈りに支えられて(同32節)、やがて立ち直りました。

 私たちも、神の愛と赦しの眼差しに絶えず守られていることを感謝し、日々主の御言葉に耳を傾けつつ、その恵みに応え、感謝と喜びをもって歩みたいと思います。

 主よ、あなたは迷い出た一匹の羊を探し回る羊飼いのように、放蕩息子の帰還を走り迎えた父親のように、何時も愛と憐れみに満ちた眼差しで私たちを捕らえ、守り導いてくださいます。そのご愛に応えて、あなたの御言葉の光の内を歩ませてください。いよいよ深く真実な交わりの内に、共におらせてください。 アーメ



8月13日(日) 創世記32章

「その人は言った。『お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。』」 創世記32章29節

 イスラエルというヘブライ語は、「神が支配される、神が保持される、神が守られる」という意味だろうと言われます。これまで、神が共にいて、守り、祝福に至らせるという信仰について、学んで来ました。

 23節以下の段落で、ヤコブが何者かと夜明けまで「格闘」(アーバク)したことが記されています(25節)。格闘、レスリングです。日本流に言えば、相撲をとったというところでしょう。「夜明けまで」というのですから、一晩中相撲をしていたわけです。

 その人は、勝てそうにないとみて、ヤコブの腿の関節を打ってはずしました(26節)。それから、「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」(27節)と言います。ヤコブが、「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」(27節)と答えると、その人はヤコブに名を尋ねた後(28節)、冒頭の言葉(29節)のとおりヤコブを祝福しました。

 ヤコブには、どうしても神の祝福に与りたいという強い思いがあったと思います。彼は、二人の妻、二人の側女、11人の息子に最低一人以上の娘、そして、たくさんの家畜の群れ、僕たちを連れて故郷に帰って来ます。無一物で家を出たのに、大成功を収めて戻って来ました。

 故郷に錦を飾るというところです。胸を張って家に戻れるわけですが、当のヤコブは、家が近づくほど小さくなり、心配が増して来ました。それは、あの自分の命を狙っていた兄エサウはどうしているだろうか、まだ自分に対する恨みが消えていないのではないかという心配です。

 それで、セイル地方、エドムの野にいる兄エサウのもとに使者を走らせて帰郷を知らせると(4~6節)、兄はヤコブを歓迎するために四百人の供を連れて迎えに出るという答えです(7節)。それを聞いたヤコブには、それが歓迎の徴とは思えず、とても恐怖の念が湧き上がってきました。

 どうすればよいかとあれこれ考えて、まず群れを二組に分け、前が襲われている間に逃げようという算段をします(8,9節)。そして、神が守ってくださるように祈ります(10節以下)。その後、ヤコブは兄に贈り物をして機嫌を取ろうと考えます。14,15節に贈り物のリストがありますが、なかなかたいしたものではないでしょうか。

 こうして二重三重の備えをして夜、寝もうとするのに、いよいよ明日は兄と対面だと思うと、どうしても寝付けません。そこで、贈り物の群れをまず送り出し(22節)、次いで、家族を連れてヤボクの渡しを渡ります(23節)。持ち物も渡らせた後、ヤコブだけその場に残ります(25節)。その時、何者かがヤコブに襲いかかり、格闘したというのが上述の話です。

 あらためて、冒頭の言葉(29節)でヤコブは神の祝福として、まず「イスラエル」という名を受け取りました。ヤコブとは「かかと」に由来する名で(25章26節)、それはまた「押しのける、奪い取る、だます」という動詞と同根なので、父をだまし、兄を出し抜いたとき、その名の由来が説明されています(27章36節)。

 そのヤコブに、上述のとおり「神が支配される、神が守られる」という名を与えられたのです。自分自身のために、自分の力でというエゴの突っ張った人間ではなく、神に頼り、神の守りに与る人間になれと言われているわけです。けれども、それはヤコブが自分の思い、自分の考えでなし得られるものではありません。まさに、神の御業です。

 第二は、それと明言されているわけではありませんが、「腿を傷めて足を引きずっていた」ことです。彼はこれまで何度も、他者を足で蹴飛ばし、押しのけて欲しい物を手に入れ、苦境に陥ればその足で逃げ出して来ました。けれども、これからは、そのような強い足ではなく、彼を守られる神に頼るほかはありません。

 それは神の御心に適ったことでした。痛んだ足を引きずりながら嘆くヤコブに、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(第二コリント書12章9節)と、祝福を語られるでしょう。

 神はいつも私たちと共にいてくださり、私たちが神を認め、神に信頼するならば、いつでも私たちのために必要な御業を行ってくださるのです。主を真剣に尋ね求め、祝福に与る経験、主にあって強められる経験を持たせて頂きましょう。

 主よ、あなたがいつも共にいてくださるという子と、どこにいても守り支えていてくださるというのは、頭で分かることではなく、恐れと不安の中にあって、実際に心と体で味わい知るものです。困難にぶつかる度毎に、祝福してくださるまで離しませんと祈り求めます。あなたが祈りに答えてくださることを信じて感謝します。 アーメン





8月13日(日)主日礼拝案内

02

8月13日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、創世記から聖書の学びと交わりを行っています。

主日礼拝を10時半から行います。
礼拝では、ガラテヤ書1章から「福音に生きる」と題して説教を頂きます。


キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


午後、定例執事会があります。


 

8月12日(土) 創世記31章

「わたしはベテルの神である。かつてあなたは、そこに記念碑を立てて油を注ぎ、わたしに誓願を立てたではないか。さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい。」 創世記31章13節

 ヤコブは、ラバンの息子たちが「我々の父のものを全部奪ってしまった。父のものをごまかして、あの富を築き上げたのだ」(1節)というのを耳にします。これは、ヤコブのものを搾取するつもりが、自分がその落とし穴に落ち込んでしまったということであり、ヤコブのゆえに豊かに祝福されていたものを取り戻された形になって腹立たしい思いになっているということを表わしています。

 ですから、神の祝福を受けて、ヤコブには満面の笑顔を見せていたであろうラバンの態度は、以前とは全く違ったものに変わってしまいます(2節)。ずっとただ働きさせながら、群れを大きくするつもりが、むしろヤコブに取り上げられるかたちになったわけですから、腹立ちも一様でなかったことでしょう。

 そのとき、主なる神がヤコブに、「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる」(3節)と語られました。

 そこで、ヤコブは早速妻たちを呼び、話をします(4節以下)。それは、妻たちがその子らも含め、自分の帰郷について来てくれるかどうかを確認しようとしてのことでしょう。

 その際、父ラバンがいかにヤコブを欺いたか(6節以下)、それにも拘らずいかに神がヤコブを祝福されたかを語り(6,7,9節)、その神から冒頭の言葉(13節)のとおり「わたしはベテルの神である。かつてあなたは、そこに記念碑を立てて油を注ぎ、わたしに誓願を立てたではないか。今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい」と告げられたことを伝えます。

 神がご自身を「ベテルの神」と町の名前で紹介するのは、異例のことだと思いますが、明確に28章18~22節の出来事を思い出させます。神が20年前の出来事を思い起こさせたのは、彼が立つべき場所は、持ち物の多さ、財産の豊かさなどではなく、彼を守り、祝しておられる神への信仰だということを、ヤコブ自身と、この物語を聞く私たちに対して明らかにするためです。

 ヤコブの話を聞いた妻たちは、「父の家に、わたしたちへの嗣業の割り当て分がまだあるでしょうか。わたしたちはもう、父にとって他人と同じではありませんか。父はわたしたちを売って、しかもそのお金を使い果たしてしまったのです」(14,15節)と応じました。

 自分たちに嗣業の地の割り当て分は期待できず、「他人と同じ」(ノクリヨート・ネフシャブヌー:「よそものと見做される」の意)であるし、ヤコブの結納金(14年の労働)を独りで使い果たしたのだから、それは事実上、自分たちを売り飛ばしたということです。

 通常、結納金は使わずにとって置いて、最後には嫁入りした娘に渡るようになっていたようですが、ラバンはそれを私して、娘たちには何も渡さないままでした。そのケチさ加減、貪欲ぶりに、娘として愛想を尽かしていたということでしょう。

 だから、「神さまが父から取り上げられた財産は、確かに全部わたしたちと子供たちのものです。今すぐ、神様があなたに告げられたとおりになさってください」(16節)と答えるのです。
 
 そこで、ヤコブは家族を連れ、密かにラバンのもとを抜け出しました(17節以下)。三日目にヤコブが逃げ出したことに気づいたラバンは、一族を引き連れて追いかけ、七日目にギレアドの山地で追いつきます(22節)。ヤコブが逃げ出したことにすぐ気づかなかったのは、「自分(ラバン)とヤコブとの間に歩いて三日かかるほどの距離をおいた」(30章36節)ためでした。

 ヤコブに追いついたラバンは、「なぜ、こっそり逃げ出したりして、わたしをだましたのか。ひとこと言ってくれさえすれば、わたしは太鼓や竪琴で喜び歌って、送り出してやったものを。孫や娘たちに別れの口づけもさせないとは愚かなことをしたものだ」(27,28節)と非難します。さらに、「なぜわたしの守り神を盗んだのか」(30節)と詰問します。

 それに対してヤコブは、「あなたが娘たちをわたしから奪い取るのではないかと思って恐れただけです」(31節)と応じ、「もし、あなたの守り神がだれかのところで見つかれば、そのものを生かしてはおきません。我々一同の前で、わたしのところにあなたのものがあるかどうか調べて、取り戻してください」(32節)と言います。

 そこでラバンがヤコブたちの天幕に入って守り神を探しますが、その像を見つけることができませんでした(33~35節)。ただ、ヤコブの「わたしのところにあなたのものがあるかどうか」という物言いは、守り神の像のことより、ヤコブと共にいる娘や孫たち、そして多くの家畜もすべて、ラバンのものではないと言い表しているようです。

 ラバンが「夕べ、お前たちの父の神が、『ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい』とわたしにお告げになった」(29節)と語っていました。ここに、ラバンの守り神はその像のありかをラバンに教えることが出来なかったけれども、ベテルの神はヤコブを守るために、ラバンに警告を与えたという、分かり易い対比をもって、主こそ神であることを示しています。

 この神の仲介により、二人は契約を結び、記念碑を立てます(43節以下、45節)。記念碑として立てた石塚を、ラバンはエガル・サハドタと呼び、ヤコブはガルエドと呼びました(47節)。ガルエドはヘブライ語で「証拠の石塚」という意味で、エガル・サハドタはそのアラム語です。ラバンがアラム人だという表現です。

 「その名はガルエドと呼ばれるようになった」(48節)というのは、彼らのいる「ギレアドの山地」(23節)の地名の由来を説明しているのです。また、ヤコブが妻たちを苦しめたり、ほかの女性を娶ることがないいように(50節)、主がヤコブとラバンの間を見張ってくださるようにとラバンが言ったので、そこは「ミツパ(見張所)」(49節)とも呼ばれるようになったと説明されます。

 ラバンは更に、「敵意をもって、わたしがこの石塚を越えてお前の方に侵入したり、お前がこの石塚とこの記念碑を越えてわたしの方に侵入したリスrことがないようにしよう」(52節)と言います。つまり、二人はここに、相互不可侵条約を結んだということです。

 ここに、「多くの民がお前に仕え、多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり、母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ、お前を祝福するものは祝福されるように」(27章29節)というイサクの祈り、それに応えたもう神の祝福が響いています。

 そして「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる」(3節)と言われたとおり、主がヤコブと共にいて、御言葉を実現するために働いてくださったのです。

 誰の計画が上手くいっているように見えても、あるいはまた、そうは見えなくても、本当に堅く立つのは神の御言葉(イザヤ書40章8節)であり、主の御旨だけが実現するのです(箴言19章21節)。

 恵みの主の御言葉に日々耳を傾け、御旨が実現するよう祈りつつ主の業に励みましょう。

 主よ、あなたは私たちのために、天の窓を開き、溢れる恵みを注いで、良いもので満たしてくださるお方です。大いなることを期待して、絶えず主を仰ぎます。御言葉を信じ、大胆に歩み出します。主が私たちと共にいてくださるということに優る祝福はないからです。 アーメン





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