風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2017年08月

8月31日(木) 創世記50章

「ヨセフは兄弟たちに言った。『わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。』」 創世記50章24節

 ヤコブの死を受けて(49章33節)、ヨセフは侍医たちに遺骸の防腐処置を命じます(2節)。それは、ヤコブの遺骸を遠くパレスティナまで運ぶために必要な処置でした。どれほどの手数、費用がかかる処置だったか、「そのために40日を費やした」(3節)という言葉が暗示しています。

 その期間も含め、エジプト人がヤコブのために「七十日の間喪に服した」(3節)と言われます。アロンとモーセのための服喪期間が30日(民数記20章19節、申命記34章8節)、イスラエル初代の王サウルのために、ヤベシュの住民が七日間断食したと記されていました(サムエル記上31章13節)。ヤコブのための期間の長さは群を抜いています。

 エジプトの王のための服喪期間が72日という記録があるそうで、ヤコブはエジプト王に匹敵する扱いを受けていることになります。葬りのためにカナンの地に向かうヨセフと家族に同行するエジプトの重臣や長老(7節)、そして戦車や騎兵(9節)という盛大な葬列も、エジプトの偉大さを誇示する目的もあるでしょうが、ヤコブがエジプトにとってそれほど重要な人物だということを示しています。

 勿論、ヤコブはエジプトでどれほどのことをしたというのでしょう。ただ、神がヨセフを通じてエジプトでなさった出来事の恵みに与ったということです。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」(ローマ書11章36節)。あらためて、神の憐れみ深さを思います。

 ヤコブの子らは、父に命じられていたとおり、マムレの前にあるマクペラの畑の洞穴に葬りました(12,13節、49章29節以下)。そして彼らは、またエジプトに戻りました(14節)。

 ヤコブを葬った後、ヨセフの兄たちは、かつて自分たちが行った悪をヨセフがまだ恨みに思っていて、報復されるのではないかと恐れてしました(15節)。

 そこで人を介して、父ヤコブの言葉として「お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい」(17節)と告げ、「あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください」(17節)と謝罪します。

 それを聞いたヨセフは、涙を流しました。それは、父の死の悼みに加え、兄弟たちとの間に信頼関係が十分でなかったという思いと、これから真の関係を築くことが出来るという思いが入り交じった、悲喜こもごもの涙でしょう。

 そして、「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたは悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(19,20節)と語ります。これは、ヨセフと兄たちとの間に神が介入しておられるということです。

 ヨセフも兄弟たちも、共に神の御前におかれています。過去、現在、未来のすべてのことが御手のうちに収めてられています。そして、ヨセフがエジプトに奴隷として売られたことを、神が善に変えられました。世界各地を襲った飢饉からエジプトを救い、カナンの地にいるヤコブの家族を救うために、主なる神は、兄弟たちの悪巧みでエジプトに売られたヨセフを用いられたのです(45章5節以下)。

 神がなさったことに、人が付け加えることはありません。そんなことをすれば、悪を善に変えられた神の御業を台無しにしてしまいます。それは「神に代わること」で、それこそ、ヨセフが神に裁かれることになります。

 ヨセフも、自分の死を前に、神の約束の御言葉を信じ、約束の地に遺骨を携えて上るよう、指示を与えます(25節)。冒頭の「神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます」(24節)という言葉が、ヨセフの信仰を明確に示しています。

 神は、全人類をその罪の呪いから救い出すため、主イエスをこの世に遣わされました。そして、主イエスの評判を妬み、亡き者にしようという祭司長,律法学者ら宗教指導者たちの悪巧みを、全人類の救いに変えられました。キリストの十字架の死によって、全人類の罪を贖われたのです。

 また、死が甦りの命に変えられました。その「苦難の僕」(イザヤ書52章13節以下)に、天と地のすべての権威、権能を授けて、支配者とされたのです(マタイ福音書28章18節)。

 パウロが、「わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ書6章4節)と記しています。

 この世は滅びに向かって突き進んでいるように見えます。確かに、この世は終わりのときを迎えます。世界を創造されたお方が、この世の終わりをも設けられます。そしてそれは、新しい世界の始まりなのです。

 初めであり、終わりである方、アルファであり、オメガである方、今おられ、かつておられ、やがて来られるお方は(黙示録1章8節、22章13節)、私たちのために、万事が益となるように共に働いて下さるお方です(ローマ書8章28節)。

 昨日も今日も、永遠に変わらない主の御言葉に耳を傾け(ヘブライ書13章8節)、信仰をもって歩みましょう。

 主よ、あなたは私たちの涙をぬぐい、どんなマイナスの出来事も益に変えて下さるお方です。ヨセフの苦しみは、エジプトを救い、そして家族を救いました。主に信頼することこそ、私たちの希望であり、力の源です。弱い私を憐れみ、信仰に堅く立つことが出来ますように。 アーメン





静岡教会公式サイト更新

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8月30日(水) 創世記49章

「ヤコブは、息子たちに命じ終えると、寝床の上に足をそろえ、息を引き取り、先祖の列に加えられた。」 創世記49章33節

 死期が近づいたことを知ったヤコブ=イスラエルは(48章21節)、息子たちを呼び寄せ、「後の日に起こること」を語りたいと言います(1節)。新共同訳は、ここに「ヤコブの祝福」という小見出しをつけています。

 しかしながら、それはこの段落を必ずしも正しく言い表してはいません。長男ルベン、次男シメオン、三男レビに与えたのは、後の日に起こることというより、過去に行ったことに対する叱責、また呪いです(4,7節)。

 後に約束の地カナンに嗣業を得るとき、ルベンはヨルダン川東部に一地域を与えられたものの強力な部族になることはなく、シメオンとレビは部族としての嗣業の地を受けることが出来ませんでした。その理由がどこにあるのかということを、ここに予め告げたものとなっています。但し、レビは神を嗣業とするという名誉ある務めが与えられるので、その扱いが平等であるとも言えないように思われます。

 これら三人とユダとヨセフを除く他の七人については、扱いはごく小さいものになっています。その中でゼブルンについて「海辺に住む」、「舟の出入りする港となり」(13節)と言われますが、古代、パレスティナの海岸に舟の航行に良い港はなく、また、ゼブルンが後に与えられる嗣業の地に、海岸線はありませんでした(ヨシュア記19章10節以下)。

 12人の子らの中で、ユダとヨセフは特別扱いを受けています。このユダとヨセフ両部族は、この後、王国時代に重要な役割を担うことになります。

 ユダについて10節に「王笏はユダから離れず」という言葉が出て来ますが、イスラエル第2代の王となったダビデはユダ族で、彼の子孫が代々の王となって一時代を築きました。

 「ろばをぶどうの木に、雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ」という11節の言葉は、通常、ろばが葡萄を食べ尽くしてしまうから、そのようにすることはあり得ないと思われます。そんな不注意なことをする人、着物をぶどう酒で洗う人は、当にパラダイス的と言える程の豊かさの中に住んでいる人です。

 「ついにシロが来て」(10節)という言葉は難解ですが、シロを「彼の支配者」(モーシェロー)と読む読み方が提唱されており、それによって、これはユダの子孫にメシアが出るという言葉と解釈されて来ました。そして確かに、ダビデの子孫として主イエスがこの世においでになったのです。

 ヨセフについては「あなたの父の祝福は永遠の山の祝福にまさり、永久の丘の賜物に優る。これらの祝福がヨセフの頭の上にあり、兄弟たちから選ばれた者の頭にあるように」(26節)と、最高の讃辞が述べられます。

 ヨセフの子孫は、マナセとエフライムがヤコブの子として、他の兄弟たち対の子孫に並び、パレスティナの中央部(ヨシュア記16章)およびヨルダン川東部に嗣業を受け(同13章29節以下)、大勢の人口を持つ部族に成長しました。

 ヤコブがエフライムをマナセに先立てて祝福しましたが(48章19,20節)、ソロモン以後、イスラエルが南北に分裂した際、エフライム族出身のネバトの子ヤロブアムが北イスラエル王国の初代の王になるなど(列王記上11章26節以下、37節、12章20節)、中心的存在となります。

 イザヤ書7章2節に「アラムがエフライムと同盟した」という言葉がありますが、エフライムが北イスラエル全体の代名詞のように用いられています(エレミヤ書7章15節、エゼキエル書37章16節、ホセア書4章17節など)。

 子らを祝福し終えたヤコブ自身の生涯は、波乱万丈と言ってもよいものでした。必ずしも、人々から褒められるような生き方をしたわけではありません。むしろ、後ろ指を指されるようなところもあります。けれども、息子たちに祝福を与え、自分の遺体は先祖代々の墓地に葬るように命じた後、最期は冒頭の言葉(33節)のとおり、寝床の上で息を引き取るという、とても穏やかなものでした。

 ヤコブの死に際して、「ヨセフは父の顔に伏して泣き、口ずけした」(50章1節)と記されている以外の感情表現はありません。ヤコブ自身にも、動揺している様子は見られません。悲しみ嘆いたり、あるいは、死の向こうに何かを期待するという様子もありません。死という現実を素直に受け止め、それに身を委ねたようです。

 それは、かつて、兄エサウを恐れて神の御使いと格闘したペヌエルの出来事とは対照的です(32章23節以下)。ここにヤコブは、生への執着などではなく、祝福を与えてくださる主なる神に信頼し、その手に自分を委ねる信仰に生きていたことが明示されています。

 最後に、「先祖の列に加えられた」と記されています。これは、遺体が先祖代々の墓に納められたという表現のようですが、アブラハムの祝福に与り、その力に支えられて生き、その祝福を次の世代に手渡して、祝福の列に加えられたと読んでもよいのではないでしょうか。

 モーセに対して神ご自身が、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト記3章6節)と言われています。確かにヤコブは先祖の列に加えられたわけです。

 主イエスを信じる信仰によって、私たちも「アブラハムの子」(ガラテヤ書3章7,9節)とされました。常に主を仰ぎ、祝福の内を歩ませて頂きましょう。

 主よ、あなたを信じます。御言葉を信じます。神の祝福、そこに愛が溢れています。恵みが溢れています。その祝福を信じ、家族のために、隣人のために祝福を祈っていきたいと思います。私たちの歩みを祝福し、その地境を広げてください。 アーメン





8月29日(火) 創世記48章

「イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。」 創世記48章14節

 死期が近いのを知ったヤコブ=イスラエルは息子ヨセフを呼び寄せ(47章29節)、遺体をエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬って欲しい」(同30節)と願い、その実行を誓わせました(同31節)。

 その後、病気の知らせを聞いたヨセフは、二人の息子を連れて見舞いに行きます(1節)。すると、ヤコブは、息子ヨセフの二人の子マナセとエフライムを自分の子としたいと言います(5節)。「エフライムとマナセは、ルベンやシメオンと同じように、わたしの子となる」(5節)ということですが、これは、エフライムとマナセがイスラエルを形作る12部族の2部族となるということです。

 さらに、マナセが長男、エフライムは次男ですが、このときヤコブは、その順序を逆にして、「エフライムとマナセ」と言っています。それが8節以下、ヨセフの二人の子らの祝福において起こる出来事を予め告げるかたちになっています。

 ヤコブがヨセフの子らを祝福しようと言うので(9節)、ヨセフは父ヤコブの前にひれ伏し(12節)、二人の子をヤコブの前に進ませます(13節)。するとヤコブは、右手をエフライムの頭に、左手をマナセの頭に、両手を交差させて置きました(14節)。つまり、右側のマナセに左手を、左側のエフライムに右手を、交差させるかたちで手を置いたのです。

 口語訳は、「ことさらそのように手を置いた」と訳しており、不注意や気まぐれではなく、注意深く慎重に相手を選んで行われたことを示しています。

 イスラエルの伝統では、右手の祝福は長子に与えられるもので、遺産の配分において他の兄弟の2倍を受ける特権を有効にする祝福と言われています。ヨセフは、長男マナセが右手の祝福を受けるように右前に、次男エフライムを左前に進ませたのです。

 ところが、父ヤコブの右手が次男エフライムのの頭に置かれているので、ヨセフは父の手を置き換えようとします(17節)。けれどもヤコブはきっぱりと「わたしの子よ、わたしには分かっている」(19節)と言い、弟エフライムを兄に勝って祝福しようと、神が選ばれたというわけです(19節以下)。

 なぜそうなのか、理由は説明されていませんし、ヨセフも父に対してそれ以上抗議をしていません。ここに、祝福というものは、人の考えに左右されない、神の自由な選びによって与えられるものということが語られているのです。そしてこの自由な選びは、神の憐れみに基づいています。

 ヤコブはヨセフを祝福して「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。どうか、この子どもたちの上に祝福をお与えください」(15,16節)と祈ります。

 ヤコブは勿論、祝福の祈りを空しい言葉だとは考えていません。ヤコブは父イサクを騙し、兄を出し抜いてこの祝福を受けました。父イサクの祝福を受けずに生きることなど出来ないと考えていたわけです。

 生きていく上で、神の祝福が不可欠という考えは間違っていませんが、しかし、手段を選ばないというやり方を神は喜ばれはしません。結局ヤコブは、兄エサウを恐れ、その前から逃げ出さなければなりませんでした。苦しみを味わい、後悔の日々を過ごしたでしょう。

 しかるに神は、ヤコブの罪を赦し、苦しみから救い出してくださったのです。ヤコブはここに、本当に大切なのは、祝福をお与えくださる神との交わりであることを知ったのです。特に、死んだと思っていたヨセフが生きていると知らされたとき、それこそおのが罪の結果と諦めていたのに、罪赦される喜びが湧き上がり、あらためて神の祝福の力を味わったのです。

 長子の受けるべき祝福が次男に与えられたというのは、新約の福音の光を通してみると、神の独り子イエス・キリストの受くべき分が、御子を信じる私たちに与えられたということを示しています。

 ヤコブは祝福をお与えくださる神を「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ」(15,16節)と呼んでいますが、これは、ヤコブが自ら知らずして主イエスを証しているようです。

 使徒ペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マルコ14章29節)、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(同31節)と豪語していましたが、舌の根も乾かぬうちに3度も主イエスなど知らないと公言してしまいます(同66節以下)。

 主イエスはそのことについて、予めペトロに「シモン、シモン、サタンはあなたがたを小麦のようにふるいにかけることを願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」(ルカ22章31,32節)と告げられ、立ち直らせるべく十字架の死によってペトロを贖い、御自分の証人として用いるべく聖霊の力を注ぎ与え、使徒として立てられました。

 主は私たち一人一人にそれぞれ違った賜物を与え、違った仕方で主の祝福を体験し、主に従うように招かれています。「あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ福音書21章23節)と。主の招きに答え、示された使命、主の御業のために励むものとならせて頂きましょう。

 主よ、私たちがあなたを選んだのではありません。あなたが私たちをお選びになりました。それは、私たちが出て行って実を結ぶ者となるため、その実が豊かに残るためであり、また、御名による祈りが聞き届けられるためでした。御名が崇められますように。御国が来ますように. アーメン






8月28日(月) 創世記47章

「それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、ファラオの前に立たせた。ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた。」 創世記47章7節

 ヤコブは、息子ヨセフがエジプトで生きており、自分を招いていると知って、喜び勇んでエジプトに下り(46章1節以下)、ゴシェンの地でヨセフに会いました(同28節以下)。これは、どんなに嬉しい出来事だったことでしょう。「わたしはもう死んでもよい」(同30節)という言葉に、この感激の大きさを見ることが出来ます。

 ヨセフは兄たち5人を連れてファラオのところへ行き(1,2節)、自分の家族たちがゴシェンの地に住む許可を願い出ます(3節以下)。ゴシェンは、ナイル川河口デルタ地帯(下エジプト地帯)にあります。11節に「そこは、ラメセス地方の最も良い土地であった」と記されているとおり、そこは居住や牧畜に適する地でした。

 ヨセフは「今、ゴシェンの地におります」(1節)と、自分の家族がたまたま滞在している場所として言及し、ヤコブの兄弟たちがファラオの問いに答えて、「先祖代々、羊飼いでございます」と答え、「ゴシェンの地に住まわせてください」(4節)と求めました。

 ファラオはヨセフに、「父上と兄弟たちが、お前のところにやって来たのだ。エジプトの国のことはお前に任せてあるのだから、最も良い土地に父上と兄弟たちを住まわせるがよい。ゴシェンの地に住まわせるのもよかろう」(5,6節)と言いました。ヨセフのゆえに、父上と兄弟たちのことを「よきにはからえ」というわけです。

 ヨセフは冒頭の言葉(7節)の通り、父ヤコブをファラオのところへ連れて行きました。そのとき、ヤコブがファラオに祝福の言葉を述べたと記されています。

 ヤコブは、どんなことをファラオに言ったのでしょうか。相手はエジプトの王です。富と権力をその手に握り、そして、自分と家族に対して非常に親切にしてくれています。それに引き換え、ヤコブは飢饉でカナンから出て来た者、住む場所も食べるものもなく、ただ王の好意に甘えるしかないような者です。

 ヘブライ書7章7節に「さて、下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです」と記されています。この基準を当てはめると、エジプトのファラオを祝福したヤコブの方が、上なる者、大いなる者であるということになります。しかしながら、ここで、ヤコブの何がファラオに勝っているというのでしょうか。
 ファラオはヤコブに年齢を尋ねます(8節)。それは、老人に対する敬意の表明だと言われます。老人を大切にするという時には、その人格を敬い、尊ぶことが大切です。聖書では「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい」(レビ記19章32節)と命じられています。ヤコブは130歳でした。確かに長命です。

 けれどもヤコブは「わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません」と言います(9節)。「苦しみ多く」(ラーイーム)は、「悪」(ラーアー)という言葉の複数形です。

 これは、自分の若き日々の罪を思っているところから語られた言葉と考えられます。父を騙し、兄を押しのけるような真似をして、その結果、こんなに苦しみ多い生活を送っているというわけです。

 そんなヤコブが持っているもので、ファラオが欲しいと思うものとは何でしょうか。ファラオは権力を持ち、富を持っています。住む家も食べる物も、その他ありとあらゆるものを豊かにもっています。それらは、ヤコブにはありません。

 しかし、ヤコブの目は、エジプト中のすべてのものよりもさらに豊かな神の祝福を見ています。神はヤコブの想像を超えて、祝福をお与え下さるお方であることを、何度も経験してきました。

 父イサクの祈りを通して与えられた神の祝福の確かさを味わってきたからこそ、臆することなくファラオの前に立ち、ファラオに祝福の言葉を語ることが出来たのです。そしてそれは単なる言葉ではなく、本当にファラオを富ませる力となっていくのです。

 ペトロとヨハネが、「美しい門」の傍らで物乞いをしていた、生まれつき足の不自由な男に対して、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言いました(使徒言行録3章1節以下、6節)。すると、男は躍り上がって立ち、歩き出しました(同8節)。

 これは、イエス・キリストを通して私たちに与えられている祝福の力の大きさ、強さを示しています。私たち自身が主イエスの御名によって立ち上がり、信仰によって歩き出すように、と命じているのです。人々が聞きたいのは、理屈ではなく、この力をもって働く主イエスの救いの福音なのです。

 主よ、私たちには、聖霊を通して神の愛が与えられています。主イエスの十字架の死によって罪赦され、今本当に自由にされて、喜んでいます。この信仰の喜びと平安を、多くの方に語り伝え、日々の生活で証しすることが出来ますように。アーメン





8月27日(日) 創世記46章

「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民とする。」 創世記46章3節

 エジプトで宰相となっていたヨセフが兄弟たちに自分の身を明かし(45章1節以下)、まだ5年は飢饉が続くので(同6節)、全家がエジプトに下って来るようにと、父ヤコブに告げさせました(同9節以下)。それはヤコブにとって、にわかに信じることの出来ないニュースでした(同26節)。

 獣に殺されたと思っていたヨセフが生きており(37章33節)、しかも、「エジプト全国を治める者になっている」というのですから(45章26節)。しかし、ヨセフが与えた数々の品を示されて、父ヤコブは元気を取り戻します(同27節)。抑え切れない喜びが湧き上がって来たことでしょう。

 46章は、物語の主人公の座が、もう一度ヨセフから父ヤコブに移ります。ヤコブ=イスラエルは、かくして一家を挙げて、エジプトに向けて旅立ちます。その途中、ベエル・シェバに立ち寄り、神にいけにえをささげました(1節)。ここはかつて、ヤコブが兄エサウを出し抜き、父イサクを欺いて、祝福の祈りを受けたところです(27章18節以下、28章10節参照)。

 その夜、幻の中に神が現れて、冒頭の言葉(3節)のとおり「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする」と言われました。37章以下のヨセフ物語の中で、神の顕現が記されるのは唯一ここだけです。

 ここに「エジプトへ降ることを恐れてはならない」と言われていますが、ヤコブはエジプト行きを恐れているのでしょうか。それは何故でしょうか。エジプト行きは、死んだと思っていた息子ヨセフと再会するためであり、なお5年は続く飢饉から逃れるためです。むしろ、ベエル・シェバに留まるほうが恐れを伴うというものでしょう。

 ヤコブがエジプト行きをためらい、恐れる理由を見出すことは、出来そうにありません。ここでヤコブが恐れているのは、エジプトに下ることではなく、約束の地を離れてエジプトに下ることを神が許されるのかということでしょう。

 特に、これまでは、自分が欲しいと思ったものを手に入れるためには、手段を選ばないというヤコブでしたが、あらためて神の祝福を受け、今や「イスラエル」という名を与えられています。でありながら、またもや神の御旨を尋ね求めないで、見える物に心動かされ、利益に飛びつこうとしているのではないかと神を畏れ、いけにえを献げて、御旨を祈り尋ねたわけです。

 それは、本当に神によって生きていこうとしているのか、本当にパンよりも神の御言葉が大切なのかということでしょう(マタイ福音書4章4節)。今ヤコブはここに、神を畏れ、神の御言葉を求めて礼拝をささげました。それを神が祝福されて、「安心してエジプトに下れ、そこで大いなる国民とする」という約束をくださったわけです。

 さらに、「わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう」(4節)と言われます。この約束はヤコブにとって、マクペラの畑にある先祖の墓に埋葬されることを指しています(49章29節以下、50章13節)。そしてそれは、イスラエルの子孫もいつの日かカナンに戻るということを示唆するものにもなっています。

 ヤコブ=イスラエルは、息子や孫、娘や孫娘など、子孫を皆連れてエジプトへ行きました(7節)。レアから生まれた子らが33名(15節)、ジルパの子らが16名(18節)、ラケルの子らが14名(22節)、ビルハの子らが7名(25節)、かくてヤコブの子らは、合計70名です(27節)。

 既に大家族となっているヤコブですが、エジプト行きを通して「大いなる国民」となる祝福を受けました。430年後、エジプトを脱出したイスラエルの民は、兵役に就くことの出来る20歳以上の男子だけで60万3550人になりました(民数記1章45,46節)。

 ヤコブ=イスラエルが神の御前に砕かれ謙ったように、主イエスの弟子たちも御前に砕かれる経験をしました。それは、ゲッセマネの園で主イエスを見捨てて逃げ去ったこと、大祭司カイアファの官邸で主イエスを知らないと三度も否定したことです。

 彼らは、自分の力で信仰に堅く立つことは出来ない、神に頼り、聖霊の力を受けなければ、主イエスの証人となることは出来ないと思い知らされたのです(使徒言行録1章8節)。だからこそ、弟子たちは主の召天後、心を込めて一つになって真剣に聖霊を祈り求めました(同14節)。

 主なる神は、弟子たちの祈りに応え、彼らを聖霊に満たしました(同2章1節以下)。そこから、キリスト教会の働きが始まったのです。徹底的に自らの貧しさ、罪深さを知り、謙って主に従いましょう。

 主よ、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたを慕い求めます。日々、御言葉を聞かせてください。主の愛と恵み、聖霊の力と導きを祈り求めます。どうか私たちを祝福し、恵みの証人として用いてください。御名が崇められますように。御心がこの地になされますように。 アーメン





8月27日(日)主日礼拝説教

8月27日(日)主日礼拝には、教会員13名、来賓12名(新来会者1名、子ども3名を含む)がお見えになりました。感謝。
礼拝後、信徒会、第6回教会一日愛修会を実施しました。


主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「キリストの真実」
聖書 ガラテヤ書2章15~21節

御覧ください。





 

8月27日(日)主日礼拝案内

02
8月27日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、創世記から聖書の学びと交わりを行っています。


主日礼拝を10時半から行います。
礼拝では、ガラテヤ書2章から「キリストの真実」と題して説教を頂きます。


キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


礼拝後、信徒会を行います。

午後、第6回教会一日愛修会(聖書と祈りの修養会)があります。



 

8月26日(土) 創世記45章

「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」 創世記45章5節

 いよいよ45章は、37章から始まったヨセフ物語のクライマックスです。「何とぞ、この子(ベニヤミン)の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください」(44章33節)という兄ユダの言葉を聞いたヨセフは、もう自分を抑えることが出来なくなり、兄弟たちを残して側にいる他の者たちを外に出し、自分の正体を明かします(1節)。

 ユダは、ヨセフが父親の愛を一身に受けていることを妬み、夢の話に恨みを抱いて、ヨセフをイシュマエル人に売ろうと提案した張本人です(37章26節以下)。そのユダが、上記の通り、父の愛を一身に受けているベニヤミンをかばい、自分が代わってヨセフの奴隷になると言ったのです。

 考えてみると、兄たちがエジプトに穀物を買いに来てから、ヨセフはずっと、エジプトの司政者ツァフェナト・パネア(41章45節)として彼らに接して来ました。そしてそれは、ヨセフが最初に見た、「畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました」(37章7節)という夢の実現でした。

 恐らく、ヨセフの心には、自分を苦しめた兄たちへの憎悪があったでしょう。それゆえ、かつての夢が実現したということで、勝ち誇る思いを持っていたのかもしれません。そして、弟ベニヤミンを呼び寄せることにも成功しました。その気になれば、これからずっと側近くに置いておくことも出来ます。

 けれども、こうしたヨセフの企みを、父ヤコブや弟ベニヤミンに対する兄ユダの思いが粉砕、溶解してしまったのです。そこで「わたしはヨセフです」(3節)と名乗ります。そして、「お父さんはまだ生きておられますか」(3節)と尋ねます。それを聞いた兄弟たちは、驚きのあまり答えることが出来ませんでした。

 ヨセフを空井戸に投げ込み、食事しながら相談している間に、ミディアン人がヨセフを引き上げ、イシュマエル人のキャラバンに売ってしまって、その姿を見ることが出来なくなって以来(37章12節以下)、死んだことになっていたヨセフです。それが今、自分たちの生殺与奪の権を手にした支配者として、目の前に立っているのです。どう考え、どのように答えればよいでしょうか。

 これは、主イエスの復活のニュースを受けた弟子たちと同じ反応ではないでしょうか。弟子たちは、死んだ主イエスの復活の報告を信じられませんでした。

 その上、主イエスがゲッセマネの園で身柄を拘束されたとき、弟子たちは皆主イエスを捨てて逃げ出したのです。ただ一人ついて行ったペトロは、カイアファの官邸で、3度も主イエスを否定してしまったのです。主イエスが甦られたと聞いても、どの面下げて主イエスに会えるかといった心境でした。ヨセフの前にいる兄弟たちは、そんな主イエスの弟子たちと同じ状態だったことでしょう。

 「お父さんはまだ生きておられますか」(3節)とは、42章で兄たちがエジプトにやって来てから、何度も聞き、確認してきたところですが(42章11,13節、43章27,28節、44章19節以下、22,24~32節)、ここで改めてそのように尋ねるのは、自分がシメオンやベニヤミンに対してしたことで、父を苦しませたと自覚するからでしょう。

 だから、恐れて口を開くことが出来ない兄弟たちを側に近寄らせ、「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです」(4節)と確認させるのです。それは、決して自分が死者でも化け物でもないということ、「恨めしや」と登場して来たのではないということです。

 そして、冒頭の言葉(5節)のとおり、「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません」というのは、完全な赦しの宣言ですが、そこには、自分が兄弟たちや父に対してしたことは、エジプトに売られても仕方のないことだったという意味も含まれているようです。

 つまり、兄弟たちの仕業が原因でヨセフがエジプトに売られることになって父ヤコブが苦悩したように、ヨセフがベニヤミンについて企んだことによって更に深く父を苦しませていることを、ユダの言葉で知り、それがヨセフの罪を告発したわけです。

 そして、「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と告げます。この言葉は、この時初めてヨセフの心に浮かんだ思いだったのではないでしょうか。今初めて本当のことが分かったということです。それは、37章でヨセフの見た夢は、ヨセフを勝ち誇らせるためではなく、神が家族に将来を与えるためのものだったということです。

 目の前にある出来事に振り回され、一喜一憂する私たちですが、歴史を支配しておられる主なる神を信じ、日々御言葉に耳を傾けつつ、聖霊の導きを祈り求めながら、自分のなすべきことを忠実に実行して参りましょう。

 主よ、ベニヤミンのために身を投げ出すユダの言葉を聞いて、ヨセフは心溶かされ、兄弟たちの罪をすべて赦しました。ユダの言葉は、ヨセフ自身の罪を告発し、彼も兄弟たちや父の赦しを必要とする存在だと告げていたからです。そして、神の深い御心を悟りました。ヨセフが父の愛を受け、特別な夢を見たのは、家族の救いに奉仕するためであり、苦しみを味わったのは、ヨセフのエゴが砕かれるためだったのです。主の御名が崇められますように。 アーメン








8月25日(金) 創世記44章

「何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。」 創世記44章33節

 扇谷正造氏の著書に『トップの条件』(PHP研究所、1983年刊)という本があります。30年程前、牧師となった最初の任地、松山の書店で求めました。この本には、リーダーとなる人物に求められる条件などが述べられています。副題は「『恕』一字で萬事」です。

 「恕(じょ)」は「如」と「心」の組み合わせ文字です。「如」は「似ている、同じ、等しい、らしくする」といった意味に用いられます。それに「心」を組み合わせて、「恕」は「心を等しくする」という文字となります。そこから、相手の立場に立つ、人の身の上や心情について察し、同情すること、思い遣りということです。訓読みは「恕(ゆる)す」です。

 そこに紹介されているエピソードで、弟子の子貢が師である孔子に「人生において大切なことを一字で表わすと、なんという字になりますか」と尋ねたところ、孔子は「それ、恕か」と言ったという話が記されています(P.76)。これが、副題の意味です。

 ヤコブの4男ユダがエジプトの司政者となっているヨセフに対し、末弟ベニヤミンを守ろうとして語る18節以下の言葉は、私たちの心を揺さぶります。

 ヨセフは、再び穀物を買いに来た兄弟たちを自宅での食事に招き(43章32節以下)、帰りには、執事に命じて袋一杯に穀物を入れさせ、その袋に代価として支払われた銀貨を返すようにしました(1節)。彼らを特別な賓客として遇したわけです。その上で、自分の銀の杯をベニヤミンの袋に入れて置くように言いつけました(2節)。兄弟たちは何も知らずに家路に着きます(3節)。

 町の門を出て、どれほども行かないうち、それこそ兄弟たちが夕べの宴会の席のことをあれこれ思い巡らしているうちに追手がやって来て、「どうして、お前たちは悪をもって善に報いるのだ。あの銀の杯は、わたしの主人が飲むときや占いのときに、お使いになるものではないか。よくもこんな悪いことができたものだ」(4節以下、6節)と詰問されます。

 身に覚えのない彼らは、おのが身の潔白を証明するため、自分たちの持ち物を調べて、「僕どもの中のだれからでも杯が見つかれば、その者は死罪に、ほかのわたしどもも皆、御主人様の奴隷になります」(7節以下、9節)と申し出ます。それは、単に盗みというだけでなく、「占い」というエジプトの習慣に手を出す、神を冒涜する行為だったからでしょう。

 それに対して執事は「その者はわたしの奴隷にならねばならない。他の者には罪はない」(10節)と答え、年長者の袋から順に、念入りに調べます。最後にベニヤミンの袋を調べたところ、銀の杯が見つかります(12節)。

 犯罪が明らかになり、弁解の余地はありません。皆すごすごと町へ引き返し(13節)、ヨセフの屋敷に戻ります(14節)。そして、「お前たちのしたこの仕業は何事か」(15節)と問うヨセフに、御主君に何と申し開きできましょう。・・・神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります」(16節)と答えました。

 ヨセフがこのような策を弄したのは、母ラケルから生まれたもう一人の兄弟ベニヤミンを自分のもとに留まらせたいという思いからであろうと考えられます。「杯を見つけられた者だけが、わたしの奴隷になればよい。ほかの者は皆、父親のもとへ帰るがよい」(17節)と言っているからです。

 けれども、自分の身の上を明かさないまま、血のつながった、しかし自分をエジプトに売った犯罪には加わっていない弟ベニヤミンを犯罪者とし、その罪を暴くという方法をとっていることから、奴隷として売られたエジプトの侍従長ポティファルの家で自分が蒙った苦しみを、兄弟たちにも味わわせようという思いが全くなかったとは言えません。

 けれども、ユダが「神が僕どもの罪を暴かれた」というとき、それはベニヤミンのことだけでなく、自分たちがヨセフになした罪のことも告白していると思われます。ということは、神がヨセフを用いて、このように兄弟たちを真の悔い改めに導こうとされているといってもよいのではないでしょうか。

 「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(第一ヨハネ書1章9節)とあるとおり、主なる神は彼らの罪を赦し、罪の呪い、過去の出来事に対する後悔の念から解き放ってくださろうとしているということです。

 ヨセフの言葉(17節)を聞いたユダは、父ヤコブがいかに末息子ベニヤミンを愛しているかという事情を、彼が戻らなければ、白髪の父を悲嘆のうちに陰府に下らせることになると説明します(24節以下、30,31節)。

 そして、冒頭の言葉(33節)のとおり、「何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください」と懇願しています。

 ユダはまさに「恕の精神」を発揮して、ここに弟ベニヤミンの罪を引き受け、またベニヤミンを失ったときの父ヤコブのことを思い遣り、父に対してなした保証を実行するために、自分自身を犠牲として司政者ヨセフの前に投げ出したのです。

 この物語は、ユダの子孫、ダビデの子としてこの世に来られた主イエス・キリストの十字架を思い起こさせます。主イエスは、罪の虜になっている私を救うため、十字架にご自身を投げ出して罪の呪いをその身に引き受け、私たちが父なる神の許、本籍のある天に安全に帰って行けるように道を備えてくださったのです。

 この主の「恕(ゆるし)」を味わわせて頂いた者として、私たちも互いに愛し合い、その喜びを証しする者にならせて頂きましょう。

 主よ、ヤコブの息子たちが自分たちの罪に気づかされたように、私たちもあなたの御前に立つときに、おのが罪を自覚せざるを得ません。けれどもそこには、裁かれる恐れではなく、罪赦された喜びがあります。御子イエスが私たちの罪を身代わりに負ってくださったからです。今はただ、喜びと感謝をもって主にお従いするのみです。ハレルヤ! アーメン





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