「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」 創世記19章29節
19章には「ソドムの滅亡」という小見出しがつけられています。ソドムは、14章2,3節の記述から、シディムの谷にあったと考えられますが、その正確な場所は不明です。現在は、死海南部にあるリサン半島の南方の湖の底に沈んでいると考えられています。
死海の南端近くの西岸に沿って「ジェベル・ウスドゥム」(アラビヤ語で「ソドムの山」の意)と呼ばれる岩塩の山があり,それがかつての町の名を表わしていると言われています。なぜソドムの町が湖の底に沈むことになったのか、その原因が、今日の箇所に記されているというわけです。
1節に「二人のみ使いが夕方ソドムに着いた」とあります。アブラハムのところには、三人の人がやって来ました。三人のうちの一人、主はアブラハムの所に残ってアブラハムと語り合ったことが、18章16節以下に記されています。そして、二人のみ使いが、夕暮れにソドムに到着したわけです。
その時、「ロトはソドムの門の所に座って」いました。「門の所」には広場があり、そこで市場が開かれたり、また、ときには裁判が行われたりします(申命記21章19節、ルツ記4章1節、サムエル記下15章2節など)。ですから、ロト以外にも、多くの人々がそこにたむろしていたと思われます。
しかし、二人のみ使いを迎えたのは、ロトだけでした。ロトは彼らの前にひれ伏し、丁重に彼らを招待しました。「皆様方」と訳されているのは、「アドーナイ」というヘブライ語で、「ご主人様」という言葉です。アブラハムが三人の旅人を迎えたのと全く同じ言葉遣いです。
ただ、み使いたちはヘブロンにアブラハムを訪ねたときとは異なり、全く別の用向きでソドムにやって来たのです。だから、「いや、結構です。わたしたちはこの広場で夜を過ごします」(2節)と、ロトの招待を断ります。けれども、「ぜひにと勧めたので」(3節)、ついにその招待に応じてくれることになりました。
「酵母を入れないパンを焼いて」(3節)ということから、ロトは急いで料理を調えて、彼らをもてなしました。食事を終えて寛いでいたころ、「ソドムの男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ」(4節)て来ました。二人の旅人をなぶりものにするためです(5節)。
ここで「なぶりものにする」(5節)と訳されているのは、「知る」という意味の「ヤーダー」という言葉で、4章1節で、「さて、アダムは妻エバを知った」というところで用いられているのと同じく、肉体の交わりを指す表現です。
男色のことを英語でsodomyというのは、この箇所から出たことです。ソドムの男たちが若者から年寄りまでこぞって、旅人と性的な交わりを持とうというわけですから、その乱れのひどさが知れますね。
男色のことを英語でsodomyというのは、この箇所から出たことです。ソドムの男たちが若者から年寄りまでこぞって、旅人と性的な交わりを持とうというわけですから、その乱れのひどさが知れますね。
ロトは、彼らから旅人を守るために勇気をふるって戸口の前に出て行き(6節)、「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください」と言います(7節)。「皆さん」とは「私の兄弟」(アタイ)という言葉です。それは、親密さというより、町の中で対等の立ち場だという状況を示すものでしょう。
その時にロトが提案したのは驚くべきことで「実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから」(8節)と言います。
旅人を守るために娘を差し出そうと本気で考えていたのかどうか分かりませんが、聖書の世界では、家長には、自分の家に迎え入れた旅人を守る責任があったのでしょう。また、それほどに、二人の旅人が神聖な存在だということを示そうとしている、といってよいのかも知れません。
しかし、町の男たちはそれに耳を貸さず、かえって、ロトを「よそ者」と呼び、対等な存在ではないこと、「指図など」する権利はないと言います。「指図」とは、裁判官を意味する「シャーファト」という言葉です。ロトを裁判官にした覚えはないというわけです。そこで、まずロトを痛い目に遭わせてやれと言い出します(9節)。
あわやというところで二人がロトを家の中に引き入れ、町の人々の目をくらまし、戸口が分からないようにしました(10,11節)。旅人を守るつもりが、かえって旅人に助けられたのです。
この出来事で、天に届いていたこの町の罪の大きさが、実証されました。そこで二人は、自分の身の上をロトに明かして、「あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです」と告げました(12,13節)。
怖い目に遭ったロトは、それを聞いてすぐに娘婿のところに行きますが、彼らは取り合いません。彼らは冗談だと思ったというのです(14節)。ところが、その様子を見てロトも腰が引けてしまいます。み使いたちがロトをせき立てて、「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい」というと(15節)、ロトはためらっていたというのです(16節)。
逃げるのをためらう理由は明らかにされてはいませんが、ロトは、ソドムが豊かに潤っているのを見てここに移り住んだのでした(13章10節)。また、裁判官にした覚えはないという言葉遣いがありましたが、よそ者のロトがこの町である程度のステイタスを得ていたと考えられます。そのようなことで、この地を離れることに未練があったのでしょう。
それなら勝手にしろというところですが、そんなロトをなお「主は憐れんで」(16節)、二人に彼らの手をとらせて町の外へ連れ出し、「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはならない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる」(17節)と言われます。
ところが、ロトは「主よ、できません。あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。しかし、わたしは山まで逃げ延びることはできません。恐らく、災害に巻き込まれて死んでしまうでしょう」(18,19節)と答えます。
そして、低地の小さい町を指して、「御覧ください、あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います。あれは小さな町です。あそこへ逃げさせて下さい。あれはほんの小さな町です。どうか、そこでわたしの命を救ってください」と願います(20節)。
言いたい放題というところですが、それをなんと、主は聞き入れられました(21,22節)。そして、その町は「小さな町」(ミツアル)ということで(20節)、「ツォアル」と名づけられました(22節)。
ロトがツォアルの町に逃れたとき、天から火が降って、ソドムとゴモラを滅ぼしました。そのとき、「ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になっ」てしまいました(26節)。主は憐れみ深いお方ですが、しかし、侮られるようなお方ではありません(ガラテヤ書6章7節参照)。
どうして、主はロトを憐れまれたのでしょうか。なぜ、彼の家族を救おうとされたのでしょうか。ソドム、ゴモラの町の人々の中で、ロトの家族だけが神の御言葉に従う清い生活をしていたというのでしょうか。残念ながら、19章を見る限り、彼らが清く、また御言葉に従う生活をしていたとは、到底考えられません。
ロトとその家族が救い出されたのは、冒頭の言葉(29節)のとおり、「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」と記されていて、ロト自身の正しさなどではありません。アブラハムに免じて、アブラハムの親族として、その憐れみを受けてのことだったわけです。
アブラハムは、主からソドムとゴモラの町のことを知らされたとき、「まことにあなたは、正しい者と悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」(18章23節)と尋ね、ソドムのために執り成して(24節以下)、そこに十人の正しい者がいれば、滅ぼさないという主の言葉を引き出します(32節)。
残念ながら、ソドムの町に正しい者を十人見つけることはできませんでした。ソドムの町は滅ぼされます。けれども、アブラハムの執り成しで、ロトとその家族は憐れみを受けました。
御言葉を聞いたとき、私たちもロトのように、従うことにためらい、実行を曖昧にすることはないでしょうか。それにもかかわらず、恵みに与ることができるのは、主イエスを信じる信仰により、私たちもアブラハムの子とされるからですし、その背後に、私たちのために執り成し祈ってくださる方があるからです。
それは先ず、主イエスご自身であり、そして、主にあって先に召された先達、私たちのことを愛し、見守ってくださる兄弟姉妹方です。その恵みを覚え、私たちも、常に恵み深く憐れみ豊かな主を信じ、主にあってアブラハムのように家族、親族、知人友人の救いのため、具体的に名前を上げて執り成しの祈りをささげる者にならせていただきましょう。
主よ、あなたを信じます。私たちの家族、親族を救ってください。私たちの知人友人が滅びを刈り取ることがありませんように。そのために、私たちを用いてください。語るべき言葉を与えてください。知恵と力をお与えください。あなたを待ち望みます。御名が崇められますように。主の御業が表されますように。 アーメン