風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2017年07月

7月31日(月) 創世記19章

「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」 創世記19章29節

 19章には「ソドムの滅亡」という小見出しがつけられています。ソドムは、14章2,3節の記述から、シディムの谷にあったと考えられますが、その正確な場所は不明です。現在は、死海南部にあるリサン半島の南方の湖の底に沈んでいると考えられています。

 死海の南端近くの西岸に沿って「ジェベル・ウスドゥム」(アラビヤ語で「ソドムの山」の意)と呼ばれる岩塩の山があり,それがかつての町の名を表わしていると言われています。なぜソドムの町が湖の底に沈むことになったのか、その原因が、今日の箇所に記されているというわけです。

 1節に「二人のみ使いが夕方ソドムに着いた」とあります。アブラハムのところには、三人の人がやって来ました。三人のうちの一人、主はアブラハムの所に残ってアブラハムと語り合ったことが、18章16節以下に記されています。そして、二人のみ使いが、夕暮れにソドムに到着したわけです。

 その時、「ロトはソドムの門の所に座って」いました。「門の所」には広場があり、そこで市場が開かれたり、また、ときには裁判が行われたりします(申命記21章19節、ルツ記4章1節、サムエル記下15章2節など)。ですから、ロト以外にも、多くの人々がそこにたむろしていたと思われます。

 しかし、二人のみ使いを迎えたのは、ロトだけでした。ロトは彼らの前にひれ伏し、丁重に彼らを招待しました。「皆様方」と訳されているのは、「アドーナイ」というヘブライ語で、「ご主人様」という言葉です。アブラハムが三人の旅人を迎えたのと全く同じ言葉遣いです。

 ただ、み使いたちはヘブロンにアブラハムを訪ねたときとは異なり、全く別の用向きでソドムにやって来たのです。だから、「いや、結構です。わたしたちはこの広場で夜を過ごします」(2節)と、ロトの招待を断ります。けれども、「ぜひにと勧めたので」(3節)、ついにその招待に応じてくれることになりました。

 「酵母を入れないパンを焼いて」(3節)ということから、ロトは急いで料理を調えて、彼らをもてなしました。食事を終えて寛いでいたころ、「ソドムの男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ」(4節)て来ました。二人の旅人をなぶりものにするためです(5節)。

 ここで「なぶりものにする」(5節)と訳されているのは、「知る」という意味の「ヤーダー」という言葉で、4章1節で、「さて、アダムは妻エバを知った」というところで用いられているのと同じく、肉体の交わりを指す表現です。

 男色のことを英語でsodomyというのは、この箇所から出たことです。ソドムの男たちが若者から年寄りまでこぞって、旅人と性的な交わりを持とうというわけですから、その乱れのひどさが知れますね。

 ロトは、彼らから旅人を守るために勇気をふるって戸口の前に出て行き(6節)、「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください」と言います(7節)。「皆さん」とは「私の兄弟」(アタイ)という言葉です。それは、親密さというより、町の中で対等の立ち場だという状況を示すものでしょう。

 その時にロトが提案したのは驚くべきことで「実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから」(8節)と言います。

 旅人を守るために娘を差し出そうと本気で考えていたのかどうか分かりませんが、聖書の世界では、家長には、自分の家に迎え入れた旅人を守る責任があったのでしょう。また、それほどに、二人の旅人が神聖な存在だということを示そうとしている、といってよいのかも知れません。

 しかし、町の男たちはそれに耳を貸さず、かえって、ロトを「よそ者」と呼び、対等な存在ではないこと、「指図など」する権利はないと言います。「指図」とは、裁判官を意味する「シャーファト」という言葉です。ロトを裁判官にした覚えはないというわけです。そこで、まずロトを痛い目に遭わせてやれと言い出します(9節)。

 あわやというところで二人がロトを家の中に引き入れ、町の人々の目をくらまし、戸口が分からないようにしました(10,11節)。旅人を守るつもりが、かえって旅人に助けられたのです。

 この出来事で、天に届いていたこの町の罪の大きさが、実証されました。そこで二人は、自分の身の上をロトに明かして、「あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです」と告げました(12,13節)。

 怖い目に遭ったロトは、それを聞いてすぐに娘婿のところに行きますが、彼らは取り合いません。彼らは冗談だと思ったというのです(14節)。ところが、その様子を見てロトも腰が引けてしまいます。み使いたちがロトをせき立てて、「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい」というと(15節)、ロトはためらっていたというのです(16節)。

 逃げるのをためらう理由は明らかにされてはいませんが、ロトは、ソドムが豊かに潤っているのを見てここに移り住んだのでした(13章10節)。また、裁判官にした覚えはないという言葉遣いがありましたが、よそ者のロトがこの町である程度のステイタスを得ていたと考えられます。そのようなことで、この地を離れることに未練があったのでしょう。

 それなら勝手にしろというところですが、そんなロトをなお「主は憐れんで」(16節)、二人に彼らの手をとらせて町の外へ連れ出し、「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはならない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる」(17節)と言われます。

 ところが、ロトは「主よ、できません。あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。しかし、わたしは山まで逃げ延びることはできません。恐らく、災害に巻き込まれて死んでしまうでしょう」(18,19節)と答えます。

 そして、低地の小さい町を指して、「御覧ください、あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います。あれは小さな町です。あそこへ逃げさせて下さい。あれはほんの小さな町です。どうか、そこでわたしの命を救ってください」と願います(20節)。

 言いたい放題というところですが、それをなんと、主は聞き入れられました(21,22節)。そして、その町は「小さな町」(ミツアル)ということで(20節)、「ツォアル」と名づけられました(22節)。

 ロトがツォアルの町に逃れたとき、天から火が降って、ソドムとゴモラを滅ぼしました。そのとき、「ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になっ」てしまいました(26節)。主は憐れみ深いお方ですが、しかし、侮られるようなお方ではありません(ガラテヤ書6章7節参照)。

 どうして、主はロトを憐れまれたのでしょうか。なぜ、彼の家族を救おうとされたのでしょうか。ソドム、ゴモラの町の人々の中で、ロトの家族だけが神の御言葉に従う清い生活をしていたというのでしょうか。残念ながら、19章を見る限り、彼らが清く、また御言葉に従う生活をしていたとは、到底考えられません。

 ロトとその家族が救い出されたのは、冒頭の言葉(29節)のとおり、「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」と記されていて、ロト自身の正しさなどではありません。アブラハムに免じて、アブラハムの親族として、その憐れみを受けてのことだったわけです。

 アブラハムは、主からソドムとゴモラの町のことを知らされたとき、「まことにあなたは、正しい者と悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」(18章23節)と尋ね、ソドムのために執り成して(24節以下)、そこに十人の正しい者がいれば、滅ぼさないという主の言葉を引き出します(32節)。

 残念ながら、ソドムの町に正しい者を十人見つけることはできませんでした。ソドムの町は滅ぼされます。けれども、アブラハムの執り成しで、ロトとその家族は憐れみを受けました。

 御言葉を聞いたとき、私たちもロトのように、従うことにためらい、実行を曖昧にすることはないでしょうか。それにもかかわらず、恵みに与ることができるのは、主イエスを信じる信仰により、私たちもアブラハムの子とされるからですし、その背後に、私たちのために執り成し祈ってくださる方があるからです。

 それは先ず、主イエスご自身であり、そして、主にあって先に召された先達、私たちのことを愛し、見守ってくださる兄弟姉妹方です。その恵みを覚え、私たちも、常に恵み深く憐れみ豊かな主を信じ、主にあってアブラハムのように家族、親族、知人友人の救いのため、具体的に名前を上げて執り成しの祈りをささげる者にならせていただきましょう。

 主よ、あなたを信じます。私たちの家族、親族を救ってください。私たちの知人友人が滅びを刈り取ることがありませんように。そのために、私たちを用いてください。語るべき言葉を与えてください。知恵と力をお与えください。あなたを待ち望みます。御名が崇められますように。主の御業が表されますように。 アーメン





静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。
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7月30日(日) 創世記18章

「主はアブラハムに言われた。『なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻って来る。その頃、サラには必ず男の子が生まれている。』」 創世記18章13,14節

 18章では、アブラハムの妻サラの信仰が問題になっています。順を追って見てみましょう。1節に「主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた」と告げられています。暑い真昼というのですから、アブラハムは天幕で日差しを避けて、休息を取っていたのでしょう。その天幕は、道路から少し離れたところに張られていたと思います。

 主なる神が現われたということでしたが(1節)、目を上げたアブラハムが見たのは、「三人の人」(2節)でした。主なる神が三人の男たちの姿を借りて現れたということでしょう。なぜ三人なのか、正確なところは分かりません。

 この後、16節以下に「ソドムのための執り成し」の物語が続き、そして、アブラハムと別れた主がソドムに向かわれるのですが、19章1節には、「二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき」と記されているので、三人のうち一人が主なる神で、残りの二人は御使いと解釈してもよいかも知れません。

 三人の男たちは、アブラハムに向かって立っていました。アブラハムは、男たちの歩いて来る姿を見てはいないようです。突然、アブラハムの前に彼らが登場して来たのです。そして、彼らがそこに立っていたということは、アブラハムの所に立ち寄ろうとしていることを示しています。アブラハムは、男たちを見て走り出し、彼らの前にひれ伏しました。

  そして、「お客様、よろしければ、どうか僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから」(3~5節)と告げます。

 ここで「お客様」というのは「アドニー=ご主人様」という言葉遣いです。それに対して、自分のことを「エベド=僕」と言います。アブラハムは極めて丁重に、そして熱心に、彼らを招待しました。「よろしければ」というのは「あなたの目に恵みを得ますなら」という言葉です。

 「古代中近東の世界では、客を持て成すことはひとつの大きな美徳であり、充分に客を持て成すことができるかどうかは人徳にかかわることだったと思われる」と、註解書に記されていました。アブラハムは当時の習慣に倣い、最大のおもてなしをしようと考えたのでしょう。

 少々の水と共に、「何か召し上がるものを」と言いますが、これは「ファト・レヘム=ひとかけらのパン」という言葉です。ところが、実際にアブラムが用意させたのは、随分豪華な食事です。

 まず「上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい」とサラに言います。3セアは1エファにあたり、およそ23リットルという量です。どれだけのパンが作られることでしょう。

 次に「アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させ」(7節)ます。そうして「凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べ」(8節)ました。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をしたのです。

 そのとき、三人がアブラハムに語りかけ、「あなたの妻のサラはどこにいますか」(9節)と、妻サラの所在を確認します。「天幕の中におります」(9節)というアブラムの答えに、彼らの一人が「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」(10節)と告げました。

 これは、17章16節で既に、神がアブラハムに告げておられたことです。それを聞いたアブラハムは笑ってしまいました(同17節)。アブラハムの妻のサラもそれを耳にして「ひそかに笑った」(12節)と記されています。彼女は、「自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに」(12節)と思ったのです。

 「ひそかに」とは「ベ・キルバーハ=彼女の中で」という言葉で、口語訳、新改訳はこれを「心の中で」と訳しています。こっそりと、しかし、多少侮蔑の思いを込めて、「自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに」、子を産むなんてことはありっこないと、心の中で笑ったのです。

 そのときサラは89歳、夫アブラハムは99歳になっていました(17章1,17節参照)。確かに、どう考えても出産は不可能でしょう。現実の厳しさを知る者として、その絶望的な状況から、祝福の言葉を語る彼らを、愚かと笑うしかなかったわけです。

 それに対して主がアブラハムに告げたのが、冒頭の言葉(13,14節)です。主が「なぜサラは笑ったのか」(13節)と問い、そして「主に不可能なことがあろうか」(14節)と質します。ということは、ここで祝福を語っておられるのは主なる神だということです。サラはそのとき、誰が祝福の言葉を語っておられるのか、知らなかったのです。

 「主に不可能なことがあろうか」というのは、サラを初め、私たちに対する信仰のテストです。この問いかけに、どのように答えましょうか。そしてその答えは、合格となるのでしょうか。

 神の祝福の約束は、この世の知恵や常識で判断すると、ときには愚かに見えるかもしれません。あり得ないことと思われるかもしれません。しかし、信ずる者には、救いを得させる確かな力なのです(第一コリント1章18節)。

 サラは不信仰を指摘されて恐れました。約束の言葉を語られたお方が神であることに気づいたのです。自分の不信仰が示されて、恐れを覚えたのです。それはしかし、神への真の信仰に目覚めることでした。

 神は、サラを裁くつもりで、「なぜサラは笑ったのか」(13節)と問い、そして「主に不可能なことがあろうか」(14節)と質されたのではありません。実に、主が語られた言葉は必ず実現するという信仰に招かれたのです。

 主イエスの母マリアも、御使いの受胎告知に「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(ルカ福音書1章34節)と答えましたが、信仰に導かれて「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と告げることができました(同38節)。

 信じないものにならないで、信じるものになりましょう。

 主よ、あなたの愛と導きを感謝します。現実の厳しさの前に笑うしかないようなときにも、祝福をお与えくださる主を仰ぎ、その御言葉に耳を傾けます。弱い私たちを憐れみ、助けてください。キリストの言葉を受けて、信仰に立つことが出来ますように。信じない者にならないで、信じる者とならせてください。 アーメン





7月30日(日)主日礼拝説教

7月30日(日)主日礼拝に、教会員12名、来賓15名(初来会者1名、子ども3名を含む)がおいでになりました。礼拝後の昼食会にも15名の方が参加されました。感謝!

主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「安息日の主」
聖書 ルカ福音書6章1~11節

御覧ください。

7月30日(日)主日礼拝案内

02
7月30日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、創世記から聖書の学びと交わりを行っています。

主日礼拝を10時半から行います。
礼拝では、ルカ福音書6章1~11節から「安息日の主」と題して説教を頂きます。

礼拝後、昼食会(有料/自由参加)を行います。

お気軽にご参加ください。


 

7月29日(土) 創世記17章

「アブラムが99歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。』」 創世記17章1節

 17章には「契約と割礼」という小見出しがつけられています。「契約」は、神とイスラエルの始祖アブラムとの間に結ばれる約束ですが、それは、15章に続いて、2度目のことになります。

 冒頭の言葉(1節)に「アブラムが99歳になったとき」と記されています。直前の16章16節に、「ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは86歳であった」と記されておりました。章立てが新たになったとはいえ、1行進む間に13年の月日が経過したことになります。その間、アブラムと妻サライ、側女ハガルとその子イシュマエルはどのような生活をしていたのでしょうか。

 残念ながら、聖書はそのことについて全く沈黙しています。もしかすると、アブラムはイシュマエルを与えられたことに満足し、その上、牛や羊などの家畜や多くの奴隷を所有しておりますから(12章16節、13章1節以下)、これ以上、何を望むことがあろうかと考えていたのかも知れません。そのためか、記録しなければならないような出来事が、何も起こらなかったわけです。

 86歳で女奴隷ハガルとの間にもうけたイシュマエルは、13歳になりました。13歳といえば、ユダヤでは「バル・ミツバ」と呼ばれる成人式を迎える歳です。律法の命令、戒めを守る責任を負う年齢に達したことを意味します。アブラムにとって、立派な若者になったイシュマエルが自分の跡を継いでくれることで、ますます安泰という状況を迎えていたわけです。

 しかし、神はここに13年の沈黙を破って「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」とアブラムに語られました。「全き者」はヘブライ語で「ターミーム」と言います。「正しい、公平な、健全」という意味の言葉です。ルターは「敬虔」と訳しています。

 つまり、これは道徳的に完璧という意味ではなく、神との関係において、完全に聴き従う者、神に全き献身をした者ということを意味しています。ここで、「全き者となりなさい」と言われたということは、神がアブラムに完全な献身を求められたわけで、そうなることが神の御心だということです。

 どうすれば完全な者となることが出来るのでしょうか。そしてこれは、一人アブラムのことではありません。レビ人及び祭司に対して、「あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない」(申命記18章13節)と命じられています。

 そしてまた、主イエスが山上の説教で、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と語られました(マタイ福音書5章48節)。つまり、私たちに対して、「完全な者となりなさい」と言われているわけです。私たちは、どのようにすれば、完全な者となれるのでしょうか。本当に完全な者になど、実際になれるものなのでしょうか。

 勿論、自力で完全になれる人はいません。だからといって、「神様、無理です、出来ません」と言えば、それですむわけでもありません。主は確かに「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」と言われたのです。

 私たちが全き者となれるのは、私たちの努力などによるのではありません。そのように命じられる全能の神の力です。神が「光あれ」と言われると、闇に光ができました(1章3節)。闇が努力して光輝いたわけではありません。主なる神はここに御自分を「全能の神」(エル・シャダイ)と自己紹介しておられます。「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカ福音書18章27節)のです。

 アブラムは今99歳ですが、思いも新たに百歳に向けて歩み始めるのです。さながら、アブラムの全き者としての人生が、ようやく百歳にして始まると言われているかのようです。あなたは何時、この「全き者であれ」という主の御言葉に耳を傾け、そのようにあろうとして歩み出すでしょうか。

 御前にひれ伏したアブラムに(3節)「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう」(4~6節)と神が語られました。

 主なる神はこれまで、彼の子孫が増えること、約束の地が子孫に与えられることを、何度も約束して来られましたが、今回、新しいことを告げられました。それは、「アブラム」と呼ばれている彼の名前を、「アブラハム」と変えることです。

 言語学的には、「アブラム」と「アブラハム」に、意味上の違いはありません。註解者は、意味を強めるために長い形にしたのだろうと言っています。「アブラム」と、「わが父は高くいます、わが父は尊い」という意味です。「わが父」とは、神のことです。ですから、高くいます、尊いと言われるのは、アブラムではなく、父なる神です。アブラムはその名によって神に栄光を帰しているのです。

 神は、その名の意味を強めるように「アブラハム」の名を与え、そして彼に「あなたは多くの国民の父となる」と言われました(4節、5節)。6節には「あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする」と言われました。高い父、と言われ、尊い父と言われる父なる神が「アブラム」あらため「アブラハム」を、「多くの国民の父」、「諸国民の父」と呼ばれるのです。

 即ち、イシュマエルが一つの国を形成する民族になるでしょう。そして、未だ名の知られていない初子から、決して少なくない数の、否、「多くの国民」が誕生し、子孫の中から王となる者が出るというのです(6節)。アブラムはこの約束の言葉を受けて、アブラハムとして歩み始めます。

 同様に、アブラハムの妻サライも「サラ」と、こちらは縮めた名前にするように、告げられます(15節)。こちらも、その名前の意味に違いはありませんが、言語学的に見て、「サライ」よりも「サラ」の方が新しい形なのだそうです。神は妻サラにも、新たな献身を求められたということでしょう。

 それは、アブラハムとサラに「男の子」を初子として授けるからです。未だ一人の子も産んだことのない「サラ」が祝福を受けて、「諸国民の母」となるというのです(16節)。

 アブラハムは、そのように告げられる神の御前にひれ伏しておりますが、心の中では、「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」といって笑っています(17節)。それは、あり得ないことだからです。

 けれども、あり得ないことが起こります。主が彼らに「イサク」即ち、「笑い」を授けられるのです(19節)。「イサク」とは、「彼は笑う」という意味の名前なのです。神の驚くべき恵みは、「笑う」ほかはないほどのものなのです。

 そうです。笑えなかった者に笑いをお与えくださる、それは、Amazing Grace、奇跡というほかないような、言葉にできない神様からのプレゼントなのです。主なる神が奇跡を行い、アブラハムとサラを全き者として歩ませられる、そして、彼らは多くの国民の父、諸国民の母となるのです。

 それは、「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」と出エジプト記33章19節で告げられているとおり、神が恵みをお与えになる者の初穂となることでした。

 12章2節に「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」と既に告げられていたことを、今ここであらためて、アブラハムとサラという名前の変更と共に、御旨を示されたのです。

 それは、「救い」とも呼ぶべき神の恵みです。アブラハムとサラが主に従う献身の道を歩むことで、神の救いが、アブラハムの血を分けた子孫たるイスラエルの民のみならず、すべての異邦の民にまで及ぶこととなったのです。

 主が共にいてくださるからこそ、主の方が私たちから離れず、私たちを共に歩ませてくださるからこそ、その恵みを見させて頂いているのです。今日も、そしてこれからも、共に信仰の創始者であり、完成に導いてくださる主を仰ぎ、聖霊の風を受けながら、その御言葉に従って一歩踏み出して参りましょう。

 主よ、あなたは確かに全能の神であられます。あなたに出来ないことはありません。あなたが語られたことは必ず実現すると信じます。不信仰な私を助けてください。絶えず主の御言葉に聞き、信仰に堅く立つことが出来ますように。常に主に従い、主と共に歩ませてください。 アーメン






7月28日(金) 創世記16章

「ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、『あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神です)』と言った。それは、彼女が、『神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか』と言ったからである。」 創世記16章13節

 16章には「ハガルの逃亡と出産」という小見出しがつけられています。「ハガル」というのは、アブラムの妻サライに仕えるエジプトの女奴隷と、1節に紹介されています。エジプト女性ということなら、アブラム一家がエジプトに滞在していたときに与えられたのでしょうか(12章10節以下)。ファラオの宮廷に召し出されたときから、サライに仕えるようになったのかも知れません。

 「ハガルの逃亡と出産」について、その発端は2節に「サライはアブラムに言った。『主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません』」と記されています。

 サライに子が授からないというのは(1節)、11章30節から続く、アブラム、サライの大問題でした。詩編127編3節に「見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い」と言われています。
子らが神の賜物だということは、神が授けられる恵みなのです。アブラムとサライに子がないという状態も神の支配のもとにあるわけで、それもまた、神の導きというべきでしょう。

 サライは、あらためて、自分たちの間にある問題を口にしました。「主はわたしに子供を授けてくださいません」(2節)。それは、確かに事実です。しかし、それは真実かと言えば、そうではない部分もあります。というのは15章5節で、アブラムの子孫は星の数のように多くなると、神が約束しておられるからです。

 神はこの約束を確かなものとするために、アブラムと契約を結ばれました(15章9節以下参照)。そのことをサライも知っていたはずです。これまで不妊で(11章20節)年齢も進んだ今、子を授かる可能性が皆無に近いとなれば、「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」という祝福の実現のため、アブラムに側室を持つよう進言するのです。

 それが2節後半の「どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」という言葉です。即ち、サライは、自分の女奴隷ハガルによる代理出産を提案したわけです。そして、生まれた子供は、女主人のものとされます。これは当時、子どもがない場合に採られる原則的解決方法で、一般に合法とされていたものでした。

 アブラムはその提案を受け入れました(2節)。そして、直ぐに実行に移されました(3節)。その結果、見事ハガルは身ごもりました(4節)。10年かかっても与えられなかった子どもが、今、サライの知恵で授かったのです。

 しかし、それでバンザイと叫ぶわけには行きませんでした。かえって、直ぐにアブラムの家に波風が立ち始めます。それまでなかったことですが、ハガルは、自分が身ごもったことが分かると、女主人に対して高慢な態度を取るようになります(4節)。あるいは、不妊の女主人を辱めるに留まらず、アブラムの子の母として、正妻の座を要求するような真似をしたのかもしれません。

 当然のことながら、サライはそれが気に入りません。自分の地位が危うくなったサライは、夫アブラムに身分の保全を求めて「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように」(5節)と訴えます。

 自分の女奴隷をアブラムの側女として与えたのだから、しっかり管理、指導して欲しいということでしょうか。そこで、あらためてハガルはサライの女奴隷であることが確認され、「好きなようにするがよい」(6節)とサライに答えます。そして、サライはハガルに辛く当たりました。

 たまらず、ハガルは女主人のもとから逃げ出しました。それにより、サライは自分の正妻の座を守ることは出来たわけです。けれども、女奴隷ハガルによって跡継ぎを得るという彼女の計画は、それによって水の泡となりました。

 一方、女主人のもとを逃げ出したハガルは、故郷のエジプトに帰ろうとしていたのでしょう。7節の「シュル街道に沿う泉のほとり」というのは、イスラエルとエジプトの国境付近です。

 「ハガル」という名前は、「離脱」とか「逃亡」を意味するものと言われます。実の名を奪われた女奴隷が、「ハガル=逃亡」という汚名を着せられることになったのです。ハガルは、南に下る道を進む間、ずっとうしろを気にしていたことでしょう。それは、奴隷の逃亡には、重い刑罰が待っているからです。

 この逃避行は、ハガルにとっても大きな災難でした。もしも子を孕まなければ、今も女主人サライのもとにいて、平穏に過ごすことが出来たでしょう。女主人から側室として推挙されるほど、女主人の覚えもよかったのです。奴隷生活も悪いことばかりではなかったのに、今となっては、もう女主人のもとには戻れません。ともかく故郷に帰ろう、何かよいこともあるだろうといったところでしょうか。

 そこに主の御使いが登場し(7節)、「サライの女奴隷ハガルよ」(8節)と呼びかけました。そして、「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」(9節)と言います。それは、彼女を厳しく叱責する言葉ではありませんでした。むしろ、慈愛に満ちた勧告であり、また、その言葉を聞いて不安と恐れを抱くに違いない彼女を励ます激励の言葉だったでしょう。

 御使いは「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす」(10節)と約束し、さらに「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたから」(11節)と言います。この「イシュマエル」というのは、「神は聞かれる」という意味の名前なのです。

 それを聞いたハガルは、冒頭の言葉(13節)のとおり、主の名を呼んで「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神です)」と言い、そして、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と告げました。主なる神が、自分を顧みていてくださる、子孫が数え切れないほどになると祝福してくださったことに感動したのです。

 詩編139編8~10節に「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる」とあります。まさに、アブラムの神は、ハガルと共におられ、御手をもって導き、捉えていてくださるお方なのです。

 ハガルがシュル街道に沿う泉のほとり、そのオアシスに来たのは、水を求めてのことだったでしょう。けれども、彼女はそこで、水以上のものを見つけました。自分を見ていてくださる神を見出したのです。彼女はその場所を、「ベエル・ラハイ・ロイ」と呼びました。それは、「生きて見ておられる方の井戸」という意味です。

 これはまるで、サマリアの女が主イエスと出会い、永遠の命に至る水をいただいて、「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」(ヨハネ福音書4章1節以下、14,29節)と証しした言葉のようです。

 ハガルは、御使いの言葉に励まされ、自分を絶えず顧みていてくださる、エル・ロイなる主のまなざしに背中を押されて、女主人サライのもとに帰ります。そして、男児を出産し、御使いに示されたとおり、その子をイシュマエルと名付けました(15節)。これから、どのような辛いことがあっても、主が聞いていてくださると、わが子の名を呼ぶ度に確認したことでしょう。

 「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(第一コリント10章13節)という御言葉があります。ハガルはここに、主のもとに逃れることを学んだのです。

 主よ、その生涯で、苦しみに遭わずにすむ人など、一人もありません。しかし、あなたは真実なお方で、試練と共に、それを乗り越える道を備え、それに目を開かせ、乗り越える力をお与えくださいます。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということも知らされています。絶えず主に聞き、その導きに従うことが出来ますように。 アーメン






日比恵三・平井陽子 Duo Concert

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日比恵三・平井陽子 Duo Concert

 ドイツロマン派の夕べ

 日比恵三 Violin 平井陽子 Piano


期日 2017年7月28日(金)

開場 18時  開演 18時半


会場 江崎ホール(静岡市葵区七間町8-20毎日江崎ビル9F)

チケット 2000円(学生1000円)

問い合わせ先 音楽舎 094-265-2930

すみやグッディ静岡店 054-253-6222


写真をクリックするとPDFファイルが開きます。





 

7月27日(木) 創世記15章

「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」創世記15章6節

 新共同訳は15章に「神の約束」という小見出しをつけています。冒頭の言葉(6節)に「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と記されています。この言葉が、パウロの心を強く捉えました。ガラテヤ書3章6節にこの言葉を引用して、ガラテヤ地方にいるキリスト者たちに信仰の恵みを説いていますし、ローマ書の基礎にこの言葉を据えています(4章参照)。

 「アブラムは主を信じた」。もしも、アブラハムを記念するモニュメントが大理石か御影石で作られていて、そこに何か刻まれているとすれば、それはきっとこの「アブラムは主を信じた」という言葉でしょう。それほどに大切な言葉だと思いますが、アブラムは、主をどのように信じたのでしょうか。主を信じるために、アブラムは何をしたのでしょうか。

 残念ながら、そのことについては、聖書に何も記されていません。おそらく、アブラムは主を信じるために、何かをしたわけではありません。むしろ、何もしてはいません。主をどのように信じたのかと問われても、正確なところはよく分からないのです。強いて言えば、神の語りかけに沈黙して、一切をそのままに受け入れた姿勢を、信仰と呼んでいるのでしょう。

 そして、主はそれを「義と認められ」ました。「義」とは神との正しい関係、神との関係において正しく振る舞うことです。神の御言葉の前に沈黙してそれを受け止める、それをアブラムの信仰とみなし、そしてそれが神の前の正しい姿勢、正しい振る舞いだと認めてくださったというわけです。

 このことについて、出エジプト記33章19節に「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」と言われています。神が恵みを与える者、憐れみをかける者を選び、それらをお与えになるというのです。

 つまり、主が一方的にアブラムを選ばれ、彼に目を留めて恵みと憐みを注ぎ、アブラムをご自身との正しい関係に導き入れられたということです。

 そして、それと同じ恵みをパウロも味わいました。ローマ書3章23,24節で「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」と言っています。その根拠として、前述のとおり4章で冒頭の言葉を引用しながら、アブラムは主を信じる者の模範だと言っているのです。

 パウロがそのように言うのは、彼自身の経験によるのです。パウロは、キリスト教会を弾圧し、信者たちを捕えて獄に投じました。執事に選ばれ、優れた説教者でもあったステファノを殉教の死に追いやったのもパウロです。そのパウロが、復活の主イエスと出会って救われ、しかも、キリストの福音を宣べ伝える伝道者、使徒とされたのです。それを恵みと言わずしてなんというのでしょうか。

 パウロが救われたこと、主イエスを信じる信仰に導かれたのは、神の奇跡だということです。そして、そんな自分が救いに与ったのだから、救われない者は一人もいない。すべての人は神の恵みにより、無償で義とされるのだと、パウロは言うのです。確かに、それは私たちの上にも実現した神の恵み、神の奇跡です。

 1節に「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。『恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう』」と記されています。これは、アブラムの神に依り頼む信仰とその献げ物に対する祝福の言葉といってよいでしょう。

 「(主の)言葉」(ダーバール)と記されていますが、これはアブラムにとって、単なる言葉ではありません。それは「主の言葉」だからです。「主の言葉」であれば、それは既に「事件、大いなる出来事」(ドゥバリーム:ダーバールの複数形)です。

 アダムが罪を犯してから、神の登場、神の言葉が臨むとき、それを受ける人々には、恐れが伴いました。新約聖書においても、主イエスの誕生を知らされた人々、また、復活の知らせを受けた人々も、そして、主イエスに御業とその言葉に神の権威、神の力を感じ取った時、人々は、一様に恐れ戦いています。それで神は、「恐れるな、アブラムよ」と呼びかけられたのです。

 しかしながら、アブラムはこの言葉を素直に喜べませんでした。それは、神がくださる非常に大きな報い、それが12章2節で語られた「大いなる国民とする」ことや、同7節の「あなたの子孫にこの土地を与える」という約束を指しているなら、未だその恵みを受け継ぐべき「子」が与えられていないからです(2節)。

 「家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」ということについて、それは、ダマスコで得た奴隷のエリエゼルのことで、彼を養子として、家督を継がせるしかないという意味であると、3節で説明しています。つまり、神の祝福の言葉が今は信じられないと、アブラムは語っているわけです。

 主は、「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(4節)と言われます。そして、アブラムを外に連れ出して、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」、「あなたの子孫はこのようになる」(5節)と言われました。

 子がないという現実は、未だ何も変わっていません。ハランを出て、どれだけの年月が経過して来たのでしょうか。しかし、神に促されてアブラムは夜空を見上げます。そこには無数の星が輝いています。

 アブラムの心はそのとき、希望のない暗闇だったでしょう。けれども、主に促されて夜空を見上げた時、闇の夜に輝く星が見えます。神は、何もない暗闇に「光あれ」と語って光を造られました(1章3節)。天の大空に無数の星をちりばめることの出来るお方が、あなたの子孫を星の数のようにしようと語られました。

 星の数は数え切れません。それは、子孫の数が無数に増えるという意味でしょう。けれども、どのようにしてアブラムに子が授けられるのか、人間には理解出来ないという意味でもあるのではないでしょうか。

 神の約束は必ず実現します。それは、真実なる主の言葉だからです。言葉が肉となって、私たちの間に宿られました。それが、私たちの主イエス・キリストです。アブラムの子孫として、すべての星を集めても足りない栄光に輝く、恵みと真理に満ちた主イエスが、私たちの住むこの世へおいでくださったのです(ヨハネ福音書1章14節)。

 被造物としての星を仰ぐのではなく、星を創造し、暗い空に配置された主イエスを絶えず仰ぎながら、主がお語りくださった約束の言葉をしっかり受け止め、力強く前を向いて進みましょう。

 主よ、私たちは恵みにより、イエスを主と信じる信仰に導かれました。そして今、その信仰によって義とされています。測り知れない恵みのゆえに、心から感謝と賛美をささげます。絶えず主を仰ぎ、主を信じる信仰に堅く立つことが出来ますように。日々主の御言葉に耳を傾けることが出来ますように。 アーメン






7月26日(水) 創世記14章

「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。」 創世記14章18節

 14章最初の段落には「王たちの戦い」という小見出しがつけられています。聖書に記されている最初の戦争です。そして、残念なことにこれ以後、戦争がなくなることがありません。今日も、世界のどこかでテロやその報復の戦闘などが繰り広げられています。

 我が国は大東亜戦争終了後、平和憲法を制定・発布し、戦後70年余り、戦争に加担しないで平和の裡に歩んで来ることが出来ました。ところが今、安倍政権は憲法を改正しようとしています。秘密保護法、戦争法、共謀罪など、戦前回帰の法律を次々と強行成立させてしまいました。

 1節以下、戦争を起こしている王や国の名前については不明な点が多く、これがどのような戦争だったのか、明確な説明をすることあは出来ません。その意味では、何の関心も持たないまま、アラブやシリア、アフリカ諸国などで起こっている内戦や紛争のニュースを聞いているような気分かも知れません。何のための戦いか、なぜ戦争になったのか、実態がよく分からないのです。

 かつての大東亜戦争、それはアジアを欧米列強による支配から解放し、平和で共に栄えるところとするという大義を持った戦いだったはずです。ところが、ロシアや中国と戦い、米国と戦争状態になってから、インドシナを戦場とし、太平洋南方にまで戦地を拡大させるに至って、何のための戦いなのか、分からなくなってしまったのではないでしょうか。

 1節に記されている4人の王は、その国名からメソポタミアを支配する王たち、2節に記されている5人の王は、ヨルダン一帯を支配する王たちのようです。それら9か国は、エラムの王ケドルラオメルの支配下に置かれていました(4節)。エラム主導による共和制を敷いていたのでしょう。

 その体制が12年続いていたのですが、13年目に、ヨルダンの王たちが同盟を結んで、ケドルラオメルに背きます(4節)。翌年、ヨルダンの5王を討つため、メソポタミアのほかの3王がケドルラオメルに従い、パレスティナにやって来ます。 

 5節以下に戦場が記されています。それは、ガリラヤ湖、ヨルダン川の東側を南下して、死海の南東に広がるセイルの山地、荒れ野に至るものです(6節)。5人の王は、最終決戦地としてシディムの谷、現在の死海にあたるところに集結し、戦いを挑みますが(9節)、打ち破られてしまい、戦場を逃げ出したソドムとゴモラの王はアスファルトの穴に落ち、ほかの王たちは山へ逃れました(10節)。

 メソポタミア連合軍は、征服した五つの国から財産や食料をすべて没収し、生き残っている者たちを捕虜として連行します。その捕虜の中に、アブラムの甥ロトも含まれていたと、12節に報告されています。その情報が、戦場から逃げ延びた一人の人物によって、アブラムのもとにも届けられました(13節)。

 13節に「ヘブライ人アブラム」と記されています。「ヘブライ人」の名が登場するのは、ここが初めてです。「ヘブライ人」とは「渡って来た者」という言葉です。ヨセフ物語では、エジプトの宮廷の役人ポティファルの妻がヨセフを「ヘブライ人」(39章14節)といって、差別的な意味を込めていますが、ここでは「異邦人」といった意味で用いられていると考えてよいでしょう。

 つまり、アブラムは異邦人として、ヘブロンにあるマムレの樫の木の傍らに寄留していたのです。アブラムが、その戦争について聞いた時、それは単なる外国ニュースだったでしょう。あるいは、13章13節に「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた」と記されているので、アブラムはそれを神の裁きとして歓迎する思いがあったかもしれません。

 ところが、その知らせをもたらした男は、ロトとその家族が捕虜になったことを告げました。14節に「アブラムは、親族のものが捕虜になったと聞いて」と記されているからです。なんとその男は、どのようにしてか知る由もありませんが、ロトとアブラムの関係を知っていたのです。

 ロトが捕虜になったと聞いた時、アブラムは単なる異邦人ではいられませんでした。ロトが年長者を立てず、先にソドムを選んでそんな目に遭ったんだ、いい気味だ、打ち捨てておこうなどと考えなかったかどうか、それは分かりません。

 ただ、アブラムは、自分の家族が窮地に陥っている、見過ごしにはできないと考えて行動を起こしました。かつて、エジプトで自分を守るために妻サライを犠牲にしようとしたアブラムが、今回は、ロトのために一肌脱ごうと考えたわけです。

 アブラムは、訓練を授けた家の奴隷318人を引き連れて、敵を追います(14節)。敵は、ヨルダン地方5か国の連合軍を撃破する力のある軍隊です。アブラムが連れて行った318人の僕たちがいかによく訓練されて勇敢であっても、全く勝負にならないというところだと思われましたが、結果は違いました。

 ダンからダマスコの北のホバまで追跡して(14,15節)、「アブラムはすべての財産を取り返し、親族のロトとその財産、女たちやそのほかの人々も取り戻」(16節)すことが出来たのです。それは、神の導きというほかありません。

 兵力、所持する武器の数と威力において、戦術や戦略の巧みさなどで何とかなるというレベルの戦いではありません。神の助けなしに、強大な敵に勝利し、ロトやその家族、財産を取り戻せるとは考えられませんでした。このとき、神がアブラムに味方されたわけです。
 
 アブラムがすべてのものを取り戻して凱旋した時、ソドムの王が彼を出迎えました。それは、戦利品を分け合うためでした(21節以下)。しかし、そこにもう一人の人がいました。それが、冒頭の言葉(18節)に登場する「サレムの王メルキゼデク」です。王メルキゼデクが、アブラムの前にパンとぶどう酒を持ってやって来たというのです。

 続く19,20節に「彼はアブラムを祝福して言った。『天地の造り主、いと高き神に、アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された、いと高き神が讃えられますように』。アブラムはすべてのものの十分の一を贈った」と記されています。

 メルキゼデクは、アブラムを祝福しました。そして、メルキゼデクの祝福の言葉を聞いたアブラムは、自分の持ち物の十分の一をメルキゼデクに贈りました。ここにアブラムの信仰が示されます。即ちアブラムは、この戦いは神の戦いで、神ご自身が勝利をとられたのだと言おうとしているのです。こうしてアブラムは、エジプトで失った家族の関係を取り戻すことが出来たわけです。

 メルキゼデクについて、出自など詳しいことは何も分かりません。「メルキ」は「王」、「ゼデク」は「義(ツェデク)」という言葉ですから、「義の王」という意味の名前です(ヘブライ書7章2節参照)。

 そして彼は「サレムの王」と紹介されています。「サレム」とは、エルサレムを指すものと考えられていますが、「サレム」は「救い」や「平和」を意味する「シャローム」と関係の深い言葉です。即ち、サレムの王とは、平和の王ということになります(ヘブライ書7章2節参照)。

 さらに、その肩書きに「いと高き神の祭司」と記されています。義の王にして平和の王である人物が、いと高き神の祭司だというのです。そのような人物が突然登場して来て、凱旋して来たアブラムを祝福したのです。

 旧約聖書でメルキゼデクについて記しているのは、この箇所のほかには、詩編110編4節があります。そこに、「わたしの言葉に従って、あなたはとこしえの祭司メルキゼデク」と記されています。これは、ダビデの子孫として生まれるメシアのことを語っています。

 そして、この詩の言葉を引用しているのが新約聖書ヘブライ書5章6節、7章17,21節です。ヘブライ書の記者は、アブラムを祝福し、彼から十分の一の献げ物を受け取ったメルキゼデクとは、イエス・キリストだと考えています。だから、メルキゼデクはアブラムを、パンとぶどう酒をもって出迎えました(18節)。それはまるで、主の晩餐式を開こうとしているかのようです。

 アブラムは、勿論、過越祭を知りません。だから、主の晩餐式も知りません。けれども、御自分の命をもって罪の代価を払い、祝福を与えて下さる主イエスのご愛を、メルキゼデクの出迎えに感じ取ったのです。だから、誰から教えられたわけでもないのに、持ち物の十分の一を主に献げて、その御愛に応えようと考えたわけです。ここに、まさにアブラムの信仰を見ることができ来るでしょう。

 私たちも、主の御愛に与りました。日々心から感謝と喜びをもって主の御愛に応え、委ねられている賜物を用いて主の御業に励む者にならせて頂きたいと思います。

 主よ、あなたはメルキゼデクを通して、出来事を生み出す生きた力ある言葉でアブラムを祝福されました。アブラムはそれを信じ、受け入れました。あなたの御言葉が必ず成ると信じることの出来る者は幸いです。私たちに、御言葉を聞く耳とそれを信じ受け入れる心を授け、その祝福に与らせてください。主に従う働きを通して主のご栄光が表されますように。 アーメン





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