風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2017年07月

日比恵三・平井陽子 Duo Concert

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日比恵三・平井陽子 Duo Concert

 ドイツロマン派の夕べ

 日比恵三 Violin 平井陽子 Piano


期日 2017年7月28日(金)

開場 18時  開演 18時半


会場 江崎ホール(静岡市葵区七間町8-20毎日江崎ビル9F)

チケット 2000円(学生1000円)

問い合わせ先 音楽舎 094-265-2930

すみやグッディ静岡店 054-253-6222


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7月25日(火) 創世記13章

「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。」 創世記13章14,15節

 新共同訳聖書は13章に「ロトとの別れ」という小見出しをつけています。ロトは、アブラムの兄ナホルの子、つまりアブラムの甥にあたります。これから、アブラムとロトが別れ別れになるということです。
 1節に「アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った。ロトも一緒であった」と記されています。12章10節以下、イスラエル南部のネゲブ地方にいたアブラムは、ひどい飢饉にあってエジプトに逃れました(同10節)。

 そのときアブラムは、妻サライが美しいので(同11節)、殺されてしまうかもしれないと考え(同12節)、「妻」という代わりに「妹」と言います(同13節)。すると、エジプトの王が彼女を王宮に召し入れ(同15節)、アブラムにたくさんの贈り物をしました(同16節)。アブラムは自分の命を守るため、妻サライをエジプトの王に差し出し、引き換えに贈り物を受け取ったのです。

 このままでは、「あなたの子孫にこの土地を与える」(同7節)と言われた主の約束は、台無しになってしまいます。そこに主なる神が介入され、王と宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせました(同17節)。それで、王はサライをアブラムに返し、エジプトを去らせました(同19節)。

 神がアブラムとサライを守ってくださったので、何の害を受けることもありませんでした。それだけでなく、アブラムは王様から妻サライを返してもらいましたが、贈り物として与えられた羊や牛の群れ、ロバ、雌ロバ、ラクダに男女の奴隷などを王様に返さなくてもよかったので、資産を増やしてネゲブに戻って来たのです。

 3,4節に「ネゲブ地方から更に、べテルに向かって旅を続け、べテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」と記されています。これは、12章8節から10節までの箇所に書かれていた旅路の逆コースです。

 そして、飢饉を逃れるためにエジプトに下って以来、しばらく忘れたかのようになっていた、主の御名を呼ぶ、神を礼拝することを回復する道でした。それはまた、アブラムがサライとの仲を回復するための道でもあったでしょう。神の御許に戻って来る以外になかった、神の恵みを受けずして、自分たちを取り戻すことは出来なかったのです。

 それはしかし、元通りということではありません。1~4節に、「戻る、帰る」(シューブ)という言葉は用いられていません。ここにあるのは、「上る(アーラー)」、「行く、歩く(ハーラク)」という、足を踏み出して前進する姿勢を表す言葉が使われています。

 つまり、過去を懐かしむ道、思い出の場所に逃げ込むための道ではなく、目を将来に向け、約束の土地を目指して新しい思いを抱きながら、エジプトを出立し、ネゲブからべテルまでやって来たということになるのではないでしょうか。

 ところが、アブラムとロトの家畜が多くなって、問題が発生します。7節に「アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいた」とあるとおりです。カナン人、ペリジ人の住む地に寄留している二人にとって、現在の牧草地や水場だけでは、各々の群れを維持することが出来なくなってしまったのです。

 かつて、「わたしが示す地に行きなさい」と主から示されたとき、主はアブラムに「生まれ故郷、父の家を離れて」(12章1節)と言われていました。それは、アブラムを目に見える形で守り支えるものから引き離すことでした。そのとき、アブラムは甥のロトを連れて出発しました(同4節)。それは、子が授からなかったときの保険にしようということだったでしょう。

 財産が増えたことは神の祝福と言ってもよいと思いますし、ロトを保険とすることで、アブラムの将来はいよいよ安泰ということになるはずでしたが、それが親族間に争いをもたらすことになりました。人間関係はなかなか一筋縄ではいかず、思うに任せません。エジプトで資産を増やして戻って来たことが、仇になったかたちです。

 そこで、家長として身内の争いを避けるために、アブラムは一つの決断をします。それは9節で、「あなたの前にはいくらでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう」というものです。

 ここでアブラムは、土地の選択権を甥のロトに譲っています。ロトは、周りを見渡して、よく潤っているヨルダンの低地を選び、さっさと荷物をまとめ、東へ移って行きました(11節)。ロトには、年長者を立てて、先によいところをとってもらおうという考えは無かったようです。

 あるいは、牧者間の争いの背後に、ロト自身が叔父アブラムとは一緒にやって行けないという思いがあったのかも知れません。エジプト滞在時の、妻サライよりも自分の命の保全を優先したアブラムの身の処し方に、その原因があるとも思われます。

 「ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡す限りよく潤っていた」と10節後半に記されています。ソドム、ゴモラの位置は不明ですが、死海の南岸にあったのではないかと考えられています。

 19章にソドムとゴモラ、低地一帯の滅亡が記録されています。その原因が13節に「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた」と記されているのです。豊かに繁栄することが罪を犯すことに直結しているわけではありませんが、神に依り頼むよりも富に信頼を置くという、私たちには、目に見えるもので安心しようとする傾向があることを否むことが出来ません。

 一方、ロトに選択権を譲ったアブラムは、西へ移って行きます。18節に、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに住んだと記されています。ヘブロンは、死海(塩の海)の西方、ユダの山地南部、海抜930メートルの高さにある町です。

 かくてアブラムは、「父の家」の残りの者、ロトと分かれ、また、良い地を離れて、南方の山地に住むことになりました。その時、アブラムに主なる神が声をかけられました。それが、冒頭の言葉(14,15節)です。

 ここで「目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」と言われているのは、アブラムがこの時、うなだれていたのでしょう。それは、甥のロトと別れた結果、将来の保険を失うようなことになったからです。また、よく潤ったヨルダンの低地を離れることで、増えた家畜の群れを維持していくことに不安を覚えていたかも知れません。

 10節に「ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は…見渡す限りよく潤っていた」と記されていたように、甥ロトの希望に満ちた有様とは全く好対照です。

 けれども、詩編145編14節に「主は倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださいます」と詠われているように、主はうなだれているアブラムに「目を上げよ」と呼びかけ、立ち上がる勇気を与え、子のないアブラム、今ロトと別れて保険を失ったばかりのアブラムに、見える限りの土地をアブラムと子孫に与えるという祝福を告げられます。

 しかも「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数え切れないように、あなたの子孫も数え切れないであろう」(16節)と言われました。

 先には、自分で自分の命を守るために、詭弁を用い、妻をファラオに差し出しました。それが、ロトと袂を分かつ原因となりました。ここでアブラムは、自ら考えて行動するのではなく、「わたしが与える」と告げられる神の言葉に従うのです。

 何よりの祝福は「見渡す限りの土地すべて」(15節)というより、「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」(16節)という言葉でしょう。子孫がいなければ、ここに嗣業の地が与えられても、アブラムの死後、また他人のものになってしまいます。

 今はまだ、畳一枚分の土地も持っていません。それを受け継ぐ子もいません。しかし、アブラムは主の言葉に従って目を上げました。彼が見たのは、他人の土地ではなく、主が自分にくださると言われた土地です。そして何よりも、それをくださると約束された主を仰いだのです(18節)。

 アブラムは「信仰の父」と言われますが、それは主の恵みによるものでした。ローマ書8章30節に、「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」というとおりです。アブラムは、罪深い自分を義とし、さらに栄光をお与えくださる主を仰ぎ、問題のただなかで、神は万事を益とされるお方だと信じたのです。

 私たちも、御言葉に従って目を上げましょう。示されるところを見渡しましょう。縦横に歩き回りましょう。主が語られた御言葉の力、その恵みに与らせて頂きましょう。

 主よ、アブラムは人間的な希望を失ったとき、御言葉に促されてあなたを仰ぎました。そうしてアブラムは、再び立ち上がる力を得、希望をもって出発することが出来ました。私たちも主の御言葉に信頼し、導きに従って歩みます。耳を開いて御言葉を聞き、目を開いて主の御姿を拝することが出来ますように。 アーメン





7月24日(月) 創世記12章

「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。』」 創世記12章1節

 11章10節以下にノアの子セムの系図が記されていますが、セムから数えて9代目に、テラがカルデアのウルで生まれ(11章24節)、テラにはアブラム、ナホル、ハランが生まれました(同26節)。恐らく長男であろうハランは、ロトをもうけた後、亡くなりました(同28節)。一方、末息子と思われるアブラムには、子どもが出来ませんでした。

 ハランの死後、テラは息子アブラムとその妻サライ、ハランの息子ロトを連れてカルデヤのウルを出発し、ハランまでやって来ました。ウルは、チグリス、ユーフラテス川の河口付近に位置し、ハランは、その上流に位置する町です。ウルからハランまで、約900㎞の距離です。東京~広島、大牟田~静岡といったところでしょうか。

 なぜ、テラがウルからハランまで移動することにしたのか、理由は聖書に記されておりませんが、アブラムが誕生した紀元前2000年頃、東のエラムがウルに侵攻し、ウル第三王朝を滅ぼすという事件がありました。もしかすると、その難を逃れるための移動だったのかも知れません。

 テラは、205年の生涯をハランで閉じることになりました(同32節)。アブラムが生まれたのは、テラ70歳の時ですから(同26節)、テラが召天したのは、アブラムが135歳のときということになります。

 冒頭の言葉(1節)で、主なる神がアブラムに、「生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」と命じられました。「生まれ故郷、父の家」について、「生まれ故郷」は「カルデアのウル」(11章28,31節)ですが、「父の家」は、主の呼びかけを受けた時、アブラムは父テラに連れられて、ハランの地に来ていました(同31節)。

 そして、父テラはアブラム135歳の時に召されたということですから、主がアブラムに語りかけられたとき、父はまだ存命だったのです(同26,32節,12章4節参照)。

 ということで、「生まれ故郷、父の家を離れて」とは、「ハランの地を離れて」ということになりますが、これはしかし、アブラムを愛し、養い育て、守り支えてくれるものの総称と考えたらよいでしょう。神は、それなしに生きることは出来ないと考えているものから、アブラムを引き離そうとされたのです。

 アブラムがハランに何年住んでいたのかは不明ですが、慣れ親しんだ場所、愛され、養い育てられたところを離れ、守り支えてくれた家族、親族から別れて旅立つというのは、大変なことだったでしょう。

 その上、「わたしが示す地に行きなさい」と言われていますが、それがどのようなところなのか、明示されてはいないのです。75歳という年齢に達して、見知らぬ地に出て行くことを選び取るというのは、決して容易いことではありません。簡単にやり直しの聞く年齢とは考えられないからです。思えば、とても勇気のいる決断だったでしょう。

 しかし、アブラムはその命令に従って旅立ちます。ここに信仰の基本があります。信仰とは、神の語りかけ、その御言葉を聞いて、それに応答することです。アブラムは主の御言葉に従いました。即ち、アブラムは自分の親族や竹馬の友、家、財産などではなく、主なる神に信頼し、その導きに従うことにしたのです。

 「わたしが示す地に行きなさい」という命令には、祝福の言葉がつけられていました。それは、2,3節の「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」という言葉です。

 ここに、「祝福する」(バーラフ)という言葉が4回、「祝福(の源)」(ベラカー)が1回用いられています。アブラムが家を出るのは、「大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う人をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(2,3節)と言われる主の祝福に与るためです。

 12章1節以前の状況であれば、アブラムの家系は、彼の死をもって途絶えてしまいます。しかし、そこに状況を変える祝福の言葉が、主なる神によって語られたのです。故郷にいれば、自分たちは安全に守られるかもしれませんが、妻サライの不妊という状況を変えることは出来ません。

 神に従って旅立てば、旅の危険、そして見知らぬ土地、見知らぬ人々の間での新しい生活の不安はあるものの、「大いなる国民とする、あなたの名を高める」という、将来の希望を手にすることが出来るかもしれないのです。アブラムは、それに懸けてみることにしたわけです。

 旧約学者の浅見定雄先生がこの箇所を註解して、「信仰は、服従としての冒険を回避しない。しかし、信仰の決断は、『やけくそ』や『当てずっぽう』の別名ではない!」と記しておられます。上述のとおり、確かにアブラムは、ここで主の言葉に従う信仰の決断をしたのです。

 「あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」(2節)というのは、バベルの人々が、高い塔のある町を建てて獲得しようとしたものでした(11章4節)。バベルの人々が獲得に失敗したものを、主なる神はアブラムに祝福としてお与えくださるというのです。

 しかも、アブラムに与えられる祝福は、彼一人のものではありません。アブラムの祝福は、地上のすべての氏族に及びます。「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(3節)と言われているからです。一人の祝福がすべての民の祝福となるのです。

 何故アブラムが、地上のすべての氏族の祝福の源とされるのでしょうか。その理由は誰にも分かりません。アブラム自身にすら分からないでしょう。ただ、アブラムを祝福の源とし、アブラムによって地上の氏族をすべて祝福に入らせたいという主なる神の御意志、恵みの御心によって、アブラムが選ばれたのです。

 アブラムは、特別な存在ではありません。アブラムが自分で神の祝福を造って人々に配れるわけではありません。ただ、「あなたを祝福の源とする」と言われる神を信じたのです。アブラムは、そのように神を信じる者の代表として、私たちの前に立っています。私たちも、祝福をお与えくださる神を信じる信仰において、その祝福に与っているのです。

 ただ、4節に、「ロトも共に言った」と言われています。主から、「父の家を離れて」と言われていたのに、アブラムは甥のロトを連れて行ったのです(4節)。アブラムは、自分に子が出来なかった場合の保険と考えて、甥ロトが同行させたのではないかと思われます。

 やがて、カナンの地、「シケムの聖所、モレの樫の木まで来た」ところ(6節)、主がアブラムに現れて、「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われました(7節)。「わたしが示す地に行け」という御言葉に従ったアブラムに、「これがその土地だ、これをあなたに与える」と言われているわけです。

 主とその御言葉に信頼して行動するとき、主は御言葉に伴うしるしをもって、御言葉の真実を示してくださいます(マルコ福音書16章20節参照)。アブラムは、そこに祭壇を築きました(7節)。また、そこからベテルの東の山に移った時も、主のために祭壇を築き、主の御名を呼びました(8節)。即ち、アブラムはカナンの地で主なる神に礼拝をささげ、主の御名を呼んで祈ったのです。

 主の示された地に到着して、「あなたの子孫にこの土地を与える」(7節)と言われた主に、感謝と喜びをもって2,3節で語られた祝福の実現を祈り願ったのでしょう。
 
 私たちも信仰によって救いに与ったアブラハムの子として(ルカ福音書19章9節参照)、主の御言葉にしっかりと耳を傾け、御言葉を信じて立ち上がり、前進させて頂きましょう。地上のすべての人が主の祝福に入るため、主の恵みを力強く証ししましょう。

 主よ、アブラムは御言葉を信じて行動しました。主はその信仰を確かなものとしてくださいました。今、私たちもあなたの御言葉を聞いています。私たちの耳を開いてください。ただ聞くだけの者でなく、聞いて行う者とならせてください。御言葉の真実を見ることが出来ますように。聖霊に満たされて、主の証人として用いられますように。 アーメン







7月23日(日) 創世記11章

「こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」 創世記11章9節

 洪水の後、箱舟を出たノアの子孫たちは、世界全地に広がって行きました(9章19節)。ノアの息子ら、その子孫は、それぞれの地に、言語、氏族、民族に従って住むようになったと、10章5節、20節、31節に記されていました。どのように氏族、民族が別れ、違う言語で話すようになったのか、その原因を説明しているのが、1節以下の段落です。

 1節には「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」と言われています。「同じ言葉を使って」は「ひとつの唇(サーファー・エハート)」、「同じように話して」は、「同じ(ひとつの)言葉(ドゥバリーム・アハディーム)」という言葉遣いです。どこでも同じ言葉で話していて、思いを通わせ合うことが出来ます。

 2節に「東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた」とあります。「シンアルの地」とは、10章10節の「彼の王国の主な町は、バベル、ウルク、アッカドであり、それらはすべてシンアルの地にあった」という言葉からも、メソポタミア平野南部から中風にかけてのバビロニア地方を意味するヘブライ語の表現と考えられます。

 いずれにせよ、シンアルの地に住み着いた人々は、「れんがを作り、それをよく焼こう」(3節)といって、素焼き煉瓦造りを始めます。パレスティナでは、建築に石材や木材を用いますが、メソポタミアでは、石材や質のよい木材に恵まれなかったので、煉瓦を作っていました。

 紀元前4千年から1千年間は、粘土を乾燥させただけの日干し煉瓦を使っていましたが、紀元前3千年ごろ、粘土を焼いて素焼き煉瓦を作るという技術が生み出されて、壁の内部には日干し煉瓦を用い、素焼き煉瓦はそれを保護するために用いられたようです。そして、漆喰の代わりに、大量にあるアスファルトを用いられました(3節)。

 紀元前3千年ごろといえば、ジグラットと呼ばれる塔が造られるシュメール・アッカド時代にあたります。ジグラットとは、アッカド語で「高いところ」を意味しているそうです。ジグラットの最上部には月神ナンナルを祀る神殿が載せられています。ジグラットは、神が訪れる人工の山として建造され、そこで人が神と出会うことが出来ると考えられていました。

 4節に「彼らは、『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』と言った」と記されています。高い塔を建てる目的は、名声を得て、全地に散らされることのないようにするということでした。

 シンアルの地に住み着いた人々が「東の方から移動してきた」理由が、より有名な強い民に追い払われた結果だとすると、この地から余所に移動させられずにすむように、堅固な町を建てたいという願いは、分からないではありません。

 ここで「天まで届く塔」を建てるのは、外敵から町を守るためであり、それがどこよりも高い塔であれば、それを建てた人々の威信を内外に示すことが出来ると考えたわけです。その意味で、ここに示されているのは、所謂「ジグラット」のような宗教施設ではありません。

 けれどもそれは、「あなたたちは産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ」(9章7節)と言われた主の御命令に背くことになりました。また、自分たちの力を周囲の人々に誇示しようとすることは、他の人々よりも自分たちを上に置き、神に近い存在として「ジグラット」を造りたいと考える傾向を示しているとも言えるでしょう。

 主なる神は、高い塔のある町を建てようとしている人々の振る舞いを御覧になるため、天から降って来られます(5節)。勿論、申し上げるまでもないことですが、主なる神は、天から降って来られなければ、人間のしていることが分からないような、近視眼的なお方ではありません。

 これは、天まで届く塔のある町を建てて名をあげようと考えている人々に対し、天は途方もなく高いところにあり、一方、人間の業はあまりにも小さいので、それを見るために近寄って来る必要があるという、ある種の皮肉を、ここに込めているわけです。

 皮肉と言えば、高い塔が石造りではなく煉瓦で築かれるというのも、弱くて不十分なものであると言おうとしているということも出来るでしょう。2年前のトルコ東部地震では、煉瓦積みの家の崩壊で犠牲となった方が多くあったと報道されていました。

 塔を建てようとしている人々の振る舞いをご覧になった主が「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない」(6節)と言われました。

 一つの民で、一つの言葉を話しているから、何を企てても、妨げることができないということで、一致の大切さ、その力強さを教えられます。それは、主なる神ですら妨げられないことだというのです。人々はそれを知っており、一致が乱され、全地に散らされることを恐れます。自分たちの名をあげたいという野望が妨げられてしまうからです。

 主なる神は7節で、「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉を聞き分けられぬようにしてしまおう」と言われ、それを実行されました。その結果を言い表しているのが、冒頭の言葉(9節)です。

 人々は、同じ言葉を話しながら、素焼き煉瓦とアスファルトを得て、天にまで達する高い塔のある町を建てようとしました。しかし、主によって言葉が乱され、話が互いに通じ合わなくなって、町が建設出来なくなりました(8節)。それで、その町は「バベル」と呼ばれるようになったと説明されます。

 「バベル」とは、「バビロン」の古い名前で、バビロニアの言葉で「神の門」という意味です。しかし、ここでは「混乱」を意味する「バラル」という言葉に由来する名前だと紹介されています。これは、アダムとエバが、神のようになろうとして禁を犯した結果、神との関係が壊れ、夫婦関係もおかしくなったことを思い出します。

 人がいかに高い技術や知識を獲得し、それによって神のようになろうとしても、実際に神の門に到達することなど出来ないのです。恐怖心で人の心を縛り、一つになって突き進んでいるつもりでも、そこにはしかし、混乱しかないのです。

 言語が混乱させられたというのは、今まで日本語を話していた人が急に英語を話し始めたというような、全く違う言語に変わったということでしょうけれども、あるいは同じ日本語を話していながらも、自分の考えに固執しているため、相手の話が全く理解出来ないという事態を示しているのかも知れません。

 言葉が乱されて、思いの通じなくなった人々は、町を建てることが出来ず、そこから全地に散らされて行きました。しかしながら、全地に広く散らされて行くこと自体は、刑罰などではありません。そもそも神は「産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ」と命じられていたのであり、それが実行されたということだからです。

 とはいえ、互いに言葉が通じない、きちんとコミュニケーションが出来ないというのは、多くの問題を生じさせます。背き合うことを、聖書は「罪」と言います。罪のゆえに、私たちは神の恵みを失い、その栄光を受けることが出来なくなってしまいました(ローマ書3章23節)。

 ゼファニヤ書3章1,2節に「災いだ、反逆と汚れに満ちた暴虐の都は。この都は神の声を聞かず、戒めを受け入れなかった」と言われ、そのため6節で「わたしは諸国の民を滅ぼした。彼らの城壁の塔は破壊された。わたしは彼らの街路を荒れるにまかせた。もはや、通り過ぎる者もない。彼らの町々は捨てられ、人影もなく、住む者もない」と告げられています。

 ところが9節には「その後、わたしは諸国の民に清い唇を与える。彼らは皆、主の名を唱え、一つとなって主に仕える」と預言されています。罪と罰が宣告された後、神は救いを用意されるということですが、諸国の民がかつてのように「一つとなって主に仕える」と言われています。

 私たちは、聖霊の働きによってイエスを救い主、主と信じる信仰に導かれました。信仰によって私たちには永遠の命が授けられ、神の子どもとされる特権に与りました。神に対して「アッバ」、お父ちゃんと呼ぶ資格が与えられたというのです。それは、私たちの功績によって獲得したなどというものではありません。主がお与えくださった恵みです。

 聖霊は私たちを祈りに導きます。どう祈ればよいか分からない弱い私たちのために、呻きをもって執り成してくださいます(ローマ書8章26節)。それによって、どんなマイナス状況をもプラスに変えてくださるのです(同28節)。

 また、聖霊は私たちに、主の恵みを証しする力を与えてくださいます(使徒言行録1章9節)。常に主を仰いで祈りましょう。そして、聖霊に満たされた主の証人にならせて頂きましょう。

 主よ、私たちの家庭や地域、国の至るところで、御言葉が語られ、その権威が回復しますように。国の指導者たちが、主を畏れ、主に仕える真実な心と考えをもって、国の将来に資する正しい政治を行うことができるよう、上よりの知恵と力を与えてください。私たちを聖霊に満たし、主の恵みを証しする力を与えてください。 アーメン






7月23日(日)主日礼拝説教

7月23日(日)主日礼拝には、教会員14名、来賓10名(子ども2名を含む)がお見えになりました。感謝です。

礼拝後、信徒会を行いました。


主日礼拝のの説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「恵みに生きる」
聖書 ルカ福音書5章33~39節


静岡教会の公式サイトを更新しました。
①「礼拝説教」に礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」「フォトレポート」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。
URL https://shizuoka-baptist.jimdo.com/


御覧ください。
 

7月23日(日)主日礼拝案内

02 7月23日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、今月より、創世記から聖書の学びと交わりを行います。

主日礼拝を10時半から行います。
礼拝では、ルカ福音書5章33~39節から「恵みに生きる」と題して説教を頂きます。

礼拝後、信徒会を行います。


7月22日(土) 創世記10章

「ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た。」 創世記10章32節

 10章には、ノアの息子たち「セム、ハム、ヤフェトの系図」が記されています。その最後に冒頭の言葉(32節)のとおり「ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た」と語られています。ノアの子孫が全世界に増え広がって行ったわけです。

 それは、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(9章1節)と神がノアたちを祝福してくださった結果です。ということで、この系図は、すべての民族が一つの家系から出たということを表わしているのです。

 ノアの三人の息子たちの系図について、ヤフェトの子孫(2節以下)は、パレスティナ北方並びに地中海沿岸の国々に広がっています。ハムの子孫(6節以下)は、パレスティナの南方の国々に広がっています。セムの子孫(21節以下)は、「エベルのすべての子孫の先祖」と記されています。

 「エベル」とは、ヘブライ人(イブリー)を指していると思われます。もともと「渡って来た」という言葉で、海や川の向こう側から移住してきた人々を意味します。地域的には、パレスティナ東方に広がっています。また、「セム、ハム、ヤフェトの系図」と言っておいて、セムが最後に取り上げられています。これは、セムの系図が最も重要なものであることを示しています。

 とはいえ、目につくのは、ハムの系図です。一番大きな分量を占めています。特に、ニムロドに注目させています。彼は「地上で最初の勇士となった」(8節)、「主の御前に勇敢な狩人であり」(9節)と言われます。動物を屠って食べることが許されて(9章3節)、狩人を生業とする者が登場したわけです。

 ただ、「最初の勇士」、「勇敢な狩人」で連想されるのは、猛獣と戦って町を守るという人物像です。町を守る者というイメージは、やがて「王」を示すようになります。10節に、「彼の王国の主な町は」と記されているように、ニムロドは彼の王国の権力的支配者となっています。

 ニムロドの出身地クシュはエチオピアを指していますが、支配地域は、「シンアルの地」(10節)、即ちバビロニアです。そこから、「アッシリアに進み、ニネベ、レホボト・イル、カラ、レセンを建てた」と言われます(11,12節)。これは、歴史的な事実というよりも、イスラエルを苦しめた存在として、エチオピヤやバビロン、アッシリアなどの名が挙げられているのです。

 ニムロドに、「主の御前に勇敢な狩人」という形容詞がつけられているのは、アッシリア、バビロンの王がイスラエルを苦しめるのが、主の御心という表現だと考えると、大変興味深いところです。それは、シンアルの地が、11章でバベルの塔の物語と結び付けられているからです(10節、11章2,9節参照)。

 6節に、ハムの子孫として「カナン」の名が挙げられています。民族的には、カナンはセムの中に入れられるべきですが、カナンがエジプトの支配下に置かれていたということや、イスラエルと覇権を巡って争っていたこと、特に、カナン人のバアルやアシュラという異教の神礼拝がイスラエルの純粋な信仰を迷わせたという点で、イスラエルを苦しめたハムの子孫のグループに入れられたのでしょう。

 21節に、セムが「ヤフェトの兄であった」と記されています。敢えてハムの兄であることが伏せられているのは、9章20節以下の出来事、ノアによる呪いが関係しているのでしょう。それ以外に注目すべき点はありません。

 11章10節以下のセムの系図に「アブラム」(26節)が登場して来ます。「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(マタイ福音書3章9節)と言われますが、確かに神は、血筋や能力などではなく、恵みによっておのが民を選び、イスラエルを作り出されたのです。そして、その恵みによって、私たちも選ばれたのです。

 神は、洪水によってすべて完璧になったとは言われませんでした。洪水の前も後も不完全なまま、人は幼いときから心に思い図ることは悪いことばかりと言われたのです(8章21節、6章5節)。しかし、そこに慈しみ深き主なる神がおられ、私たちに恵みを与えていてくださいます。不完全な、ただの人である私たちを選び、キリストの教会を建て上げるために用いてくださいます。

 私たちが住んでいる町とその周辺、私たち信徒一人一人が置かれている家庭や職場、学校、地域が、私たちの宣教の最前線です。主イエスは、世界宣教のために宣教師を海外に派遣されたように、私たちをこの静岡周辺の宣教のために選び立てておられます。家族の救いのため、近隣への伝道の進展のために祈りましょう。

 命が親から子へ、子から孫へとつながれていくように、永遠の命、信仰の恵みも、主によって人から人へとつなげられていきます。そうした営みの背後に、世界宣教を祈る世界中の人々の祈りがあって、至るところに実を結んでいるのです。

 私たちも常に主を仰ぎ、共に御言葉に耳を傾け、御霊の力を受けて、主の教会を建て上げる働きのために熱く祈り、自らを神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげて参りましょう。それこそ、私たちのなすべき霊的な礼拝だからです(ローマ書12章1節)。

 主よ、セムの子孫としてアブラハムが生まれ、ダビデが生まれ、ダビデの子孫としてキリストが世に来られました。すべてが主の深い憐れみによるものでした。私たちも恵みによって救いに与り、神の民として頂きました。聖霊に満たされ、その力を受けて、主の証人としての召しにふさわしく歩み、この地にキリストの教会を建て上げる働きのため用いてくださいますように。 アーメン





7月21日(金) 創世記9章

「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なる者との間に立てた永遠の契約に心を留める。」 創世記9章16節

 箱舟を出たノアとその家族が祭壇を築いて供え物をし(8章18節)、その香りをかいで「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」(同21節)と言われた主なる神が、更に「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(1節)と祝福されます。

 これは、神が最初に人を創造されたときに祝福して言われた「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(1章28節)という言葉とほぼ同じです。ここに神は、洪水後、世界を改めて祝福され、神の御旨にかなう、「極めて良かった」(1章31節)と評価される世界を再創造され、その地で人々が、産まれ、増え、地に満ちることを神が望んでおられるということになります。

 続いて、「地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」(2,3節)と語られます。

 かつて人と動物に与えられていた食物は、木の実や青草だけでした(1章29,30節)。肉食は許されていませんでしたが、ここでは肉食が許され、「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」(3節)と言われています。

 それでも、「ただし、命である血を含んだまま食べてはならない」(4節)と、注意書きが記されています。この箇所を岩波訳では、「肉は命あるまま、すなわち血のまま、食べてはならない」と訳しています。つまり、血は命そのもの、命は血の中に宿っていると考えられているのです。

 申命記15章23節にも「ただし、その血を食べてはならず、水のように地面に注ぎ出さねばならない」と記されています。1章24節によれば、神は動物を地から造られました。そこで、屠られる動物の血は、大地に戻されるのです。

 また、レビ記17章11節には「血はその中の命によって贖いをするのである」と記されています。血は命そのものなので、屠られた動物の血を神に献げることで、それを献げた人の贖いをしているというわけです。

 ですから、動物の血を飲むことは許されませんし、人の血を流し、命を奪うことも、勿論許されません。5節に「また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する」と言われます。

 続く6節でも「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」と言われています。これは、人の命が神のものであり、神にかたどって造られているから、不可侵なのであり、エデンの園の善悪の知識の木の実を食するのが禁じられたのと同じく、神の主権に関わる事柄だということです。

 こうした言葉に続いて、神は8節以下に契約の言葉を告げられます。6章18節で「わたしはあなたと契約を立てる」と言われていました。ここに来て、その調印が行われるのです。

 「契約」というのは、ヘブライ語の「ブリート」という言葉です。これは、「結ぶ、定める」という動詞から出て、足かせや軛などの意味となり、対人関係における約束を示す言葉になりました。

 契約の内容は11節に「わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」と記されます。これは、神がノアとその家族を初めとする、人類の保護を約束したものです。神に対するノアたちの忠誠などは、ここに求められてはいません。神が一方的に宣言された契約ということです。

 13節で神は「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる」と言われました。虹は、神と私たちの間に契約が結ばれたという証拠、契約書に押された証印のようなものでしょう。

 ご承知のように、虹の色の数は一般的に七色(赤、橙、黄、緑、青、藍、紫)と考えられていますが、これは、物理学者ニュートンの虹の研究に由来するものです。イギリスでは、虹の基本色は「赤、黄、緑、青、紫」の5色と考えられていましたが、ニュートンは柑橘類のオレンジの橙色と植物染料インディゴの藍色を加えて、7色としました。

 勿論、虹の色は無段階に変化しています。色の種類は無限にあるわけです。そのことをニュートンも知っていましたが、それにも拘わらず、虹を7色としたのは、7が神聖な数、聖書における完全数だからだそうです。音楽のオクターブも、ドレミファソラシの7音からなっています。ニュートンは、虹の美しさを、七つの基本色から出来ているその神聖さ、完全さによるとしたわけです。

 ところで、「虹」は原語でケシェットと言います。ケシェットは、本来「弓矢」と訳される言葉です。創世記21章16節では「矢」、27章3節、48章22節、49章24節では「弓」と訳されています。つまり、虹は神の武器なのです。だから、神は、「わたしの虹」(13節)と言われています。英語で「レインボウ(雨の弓)」というのは、この箇所に由来しているのかも知れませんね。

 神はここで、御自分の武器である弓を、雲の中に虹として置いて、和解のしるし、契約のしるしとされ、二度と大地を洪水で滅ぼすことはしないと約束されたのです。神の武器は、人の手の届かない雲の中に置かれています。この宣言によって、神の恵みは常に人の意志に先行していることを示しています。

 冒頭の言葉(16節)に「永遠の契約」と記されています。二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはない(11節、8章21節も)という約束が、永遠のものであるということです。

 8章22節に「地の続く限り、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」と言われていました。春夏秋冬、一年365日、神が再構築された天地は、再びリズムを取り戻して、夕となり朝となる毎日のリズムが繰り返されるのです。

 雲が湧き、雨が降り出すことがあるでしょう。川が溢れるようになることがあるかも知れません。しかし、それで地が裁かれ、滅ぼされるということはありません。雲の上には太陽が照っており、やがて虹を見せるのです。

 そして、「虹が現れると・・・永遠の契約に心を留める」(16節、14,15節も)と言われています。虹が現れる度に、私たちに神との契約を思い出せと言われているのではありません。神が永遠の契約に「心を留める」(ザーカール:覚える、思い起こすの意)と言われているのです。それはどういうことでしょうか。

 神が虹を見て契約に心を留められるのは、当然のことながら、神が忘れっぽいので、虹を見て契約を確認するということではありません。箱船のノアたちに「心を留め」(ザーカール)、それで水が引き始めたように(8章1節)、心に思うことは幼いときから悪いと言われる私たちを神が忍耐し続け、深い憐れみと慈しみの心で愛し、恵みを与え続けるため、虹を見るようにするということです。

 その上、永遠の契約は、「地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた」と言われています。ノアとその家族だけでなく、人類だけでもなく、すべての生き物との間に立てられました。人がした悪で滅びを招いた自然界の生きとし生けるものに対して、契約を立てて、人の悪のゆえに洪水をもって自然界を滅ぼすことは二度としないと言われているのです。

 悪をなす人に対し、神はその悪に悪をもって報いるというのではなく、御自分の武器を放棄し、世界の平和を守り、人に恵みをお与えくださいます。私たちは、その恵みを携えて全世界に増え広がるよう、神に祝福されているのです。

 その精神が日本国憲法第9条の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という条文に見事に言い表されているといえるのではないでしょうか。

 世界中の国々が、この条文をその憲法に書き込めば、世界から戦争をなくすことが出来るでしょう。やがて、戦争が野蛮な行為として、国際的な法律で断罪される時代を迎えることが出来るように、神の導きと助けを祈りたいと思います。

 そのために、私たちも契約のしるしである虹を見て、主が私たちにお与えくださった恵みに心を留め、喜びと感謝の賛美と祈りを捧げながら、愛と赦しに歩ませて頂きたいと思います。

 主よ、あなたが御心に留めてくださるとは、人間は何者なのでしょう。人の子は何者なのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。私たちは主の御顔を拝し、御言葉に耳を傾けます。御霊の導きに与り、心から御名を崇めます。聖霊に満たされて、主の証人としての務めを全うすることが出来ますように。 アーメン






7月20日(木) 創世記8章

「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。」 創世記8章1節

 冒頭の言葉(1節)に「地の上に風を吹かせられた」という言葉があります。「風」はヘブライ語で「ルーアッハ」と言います。1章2節に「神の霊が水の面を動いていた」とありましたが、「霊」が同じ言葉の「ルーアッハ」です。

 天地創造の初め、まだすべてが混沌として、闇が大いなる深淵の面にあり、水の面を神の霊が動いていて、そこに秩序が造り出されていったわけです。それと同じように、深淵の源が裂け、天の窓(複数)が開いて、大空の上と下の水が一つとなり、一切が初めの混沌とした状況に戻されたところに、風が吹き、秩序が回復されていくのです。

 そのきっかけとなったのが、「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を心に留め」(1節)というところです。あらゆる命を奪い去った水の面をさまよう箱舟が、そのままの状態で放置されるならば、水と食料を失って、彼らも死に絶えることになったでしょう。神はそのようになることを望まれませんでした。風を吹かせ、水を追い遣られます。

 3節に「百五十日の後には水が減って」とあり、4節で「第七の月の十七日に箱舟はアララト山の上に止まった」と言われます。7月17日というのは、2月17日に洪水が起こって(7章10節)「150日」、ちょうど5か月たった期日です。その日、アララト山に箱舟が漂着したのは、すべて神の導きです。箱舟には舵も動力もありません。すべて風任せ、波任せです。

 山頂より15アンマ上に水面があり、そこを漂流しているわけで、仮に、太平洋上に箱舟があれば、とめどなく船は動かされて、水が減り始めているという実感を持つことは、殆ど出来なかったことでしょうし、また水が元どおりになっても、箱船から出ることが出来なくなっていまいます。山にぶつかって船が止まったことで、そこに陸があるということを、はっきり感じ取ることが出来たでしょう。

 それから2か月と2週間経過した10月1日に、山の頂が水面に顔をのぞかせるようになりました(5節)。そして、40日後、すなわち11月10日になって、ノアは、水が引いたかどうかを確かめようと、まず烏を放します(7節)。続いて、鳩を放します(9,10,12節)。それで、水が引いたかどうかを確かめていたわけです。

 この出来事から、6節でノアが開いた箱舟の窓は、箱舟の側面ではなく、明かり取りとして設けられた屋根の窓であったことが分かります。側面に窓があれば、鳥を放さなくても、自分たちの目で水が減っていることを確認出来たでしょう。

 反面、窓があって外の状況をつぶさに見ることが出来たなら、雨の降り始めから地上の命が絶やされるところを目撃することにもなったでしょうし、何日も雨が降りやまず、何か月も水が減らない状況に、希望を失うような事態になったかも知れません。

 側面の出入り口は神によって閉ざされたまま、屋根に取り付けられた明かり取りだけが外の世界を知る手掛かりということは、ノアたちはいつも天を仰いでいたということ、それによって引き起こされる出来事にすべて身を委ねるほかはなかったということ、言い換えれば、神にすべてを委ねていたということです。そして、主なる神も、そのノアたちに目を留めてくださったのです。

 雨の降り始めから1年後、最初の月の一日に完全に水が引き(13節)、第2の月の27日、つまり、1年と10日が経過した後、地はすっかり乾きました(14節)。そこで、神はノアに箱舟から出よと促されます(15節以下)。そこで、ノアと家族、動物たちは、神に告げられた通り、箱舟から出ました。(18,19節)。

 それからノアは、主のために祭壇を築き、清い家畜と清い鳥のうちから焼き尽くす献げ物をとって献げました(20節)。「祭壇」(ミズベーハ)は、いけにえの動物を「屠殺する」(ザーバー)という言葉から来ており、聖書中に403回出て来ますが、ここで最初に用いられています。

 ノアは、そのようにすることを何時何処で学んだのか分かりませんが、箱舟を出て飲み食いしたり、住み着く場所を探すよりも先に、神にいけにえをささげて礼拝したのです。主に従う正しい人は、「何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ福音書6章33節)という御言葉を実践する者であることが、ここに明確に示されているわけです。

 焼き尽くす献げ物の芳しい香りをかいだ主が、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」(21節)と語られました。

 「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」と主なる神が決意を述べられたのは、洪水を経験した人々が、徹底的に悔い改めて二度と悪を行わないという決意をしたからなどということではありません。というのは、「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と、その理由の言葉が記されているからです。

 「常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって」(6章5節)というのが、神が洪水によって地の面から人をぬぐい去ろうとお考えになった理由でした。しかし、洪水後も、「人が心に思うことは、幼いときから悪い」と言われるということは、人間は、洪水の前と後で何ら変わっていないということになります。

 それならばなぜ、「呪うことは二度とすまい」ということになるのでしょうか。その問いの答えは、冒頭の言葉の「ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め」という言葉にあるということでしょう。つまり、神がノアたちに御心を留めてくださらなければ、地上に人類が生き残ることは出来なかったのです。

 宗教改革者カルヴァンは、創世記を註解して、「もし人々がそれにふさわしく扱われねばならぬとすれば、毎日毎日洪水が必要であろう」と記しています。確かに、私たちは、自分の心に思い計る悪のゆえに、毎日洪水によって神の裁きを受けなければならないでしょう。

 義なる神の御前に、自分一人で立つことの出来る人間など、存在しません。皆、神の憐れみを必要としています。即ち、神が、その憐れみによって私たちに御心を留めて下さるのでなければ、誰も生きられないということです。

 それは、ノアにとってもしかりです。神がノアを御心に留められ、風を吹かせられたからこそ、水が減り始めたのです(1節)。そうでなければ、永遠に大水の上を漂っていなければならなかったことでしょう。そして、結局滅びを招くほかなかったと思われます。

 時折、私たちの周りで、思いがけない出来事が起こります。災害に見舞われる人がいます。悲惨な事件に巻き込まれる人がいます。それはしかし、神の呪いや罰などではありません。大規模災害を神の裁きのように言う人が時折ありますが、神は「呪うことは二度とすまい」と仰っています。

 神は、ノアとその家族、家畜に目を留められたように、そのような被害を蒙った人やその家族を心に留め、愛のまなざしを向けてくださるでしょう。そして、神に代わったつもりで被害を被った人を断罪するようなら、他者を量った計りで自分も量り返され、それこそ、神の裁きを被ることになるでしょう。その人は無事では済むでしょうか。

 忍耐と慰めの源であり、また希望の源である神に信頼し(ローマ書15章5,13節)、聖霊の導きに従って共に歩みましょう。

 主よ、罪のもとにあり、滅びを刈り取るほかなかった私たちに目を留め、救いへと導いてくださったことを感謝します。私たちにキリスト・イエスに倣って同じ思いを抱かせ、私たちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてください。どんな時にも、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とで私たちを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてください。 アーメン





7月19日(水) 創世記7章

「水は勢いを増して更にその上15アンマに達し、山々を覆った。」 創世記7章20節

 1節に「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている」という主なる神の御言葉が記されています。ここに、ノアとその家族が箱舟に乗り込むことの出来る理由が語られます。当時の世の中で、ノアだけが主に従う人だと主から認められているからというのです。

 「従う人」は「ツァディーク(正しい)」という言葉です。口語訳と新改訳は直訳的に「正しい」と訳しています。ただ、この言葉は法律的に「正しい」という意味の言葉ではありません。これは、関係を表す言葉で、その人が置かれている関係の中で正しく振る舞う人という意味です。

 人が神との正しい関係にあれば、その人は神を信じ、依り頼み、御言葉に従うでしょう。そこで、新共同訳は「従う人」と意訳しているわけです。主なる神との関係に正しく立つ者、主に従う者に対して、主もまた恵み深く関わってくださいます。それで、ノアは箱舟に入れと言われるのです。

 そして、ノアの妻子や嫁たちも、箱舟に入ることが許されます。ノアの従順と主の憐れみによって、その家族も救いに与るのです。これは、フィリピの獄吏に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒言行録16章31節)と告げたパウロの言葉を思い起こさせます。一人の人物の信仰、その正しい振る舞いにより、彼との親しい関係にある者にも神の恵みが及ぶのです。

 神は、清い動物7つがいずつ、清くない動物1つがいずつ、鳥も7つがいずつ船に乗せるよう命じられます(2,3節)。清くない動物については、レビ記11章にそのリストが示されます。因みに、そこで不浄とされている動物の多くは、パレスティナ先住民や周辺諸国民の祭儀の中で聖なるものとして高く評価されています。異教の祭儀や呪術的な習慣から離れるために、不浄と定められたようです。

 ノアと妻子、嫁たち、清い動物、清くない動物、鳥も地を這うものもすべて、箱船に入りました(7節以下、13節以下)。すると「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされ」(16節)ました。主が門番となり、主に認められたものが計画通りに箱船に入って洪水から守られ、そうでないものたちが乗り込むことのないように、主がその戸を閉ざしてしまわれたのです。

 洪水について、4節で「わたしは四十日四十夜地上に雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面からぬぐい去ることにした」と言われ、12節に「雨が四十日四十夜、地上に降り続いた」、そして17節後半、「水は次第に増して箱船を押し上げ、箱船は大地を離れて浮かんだ」と言われます。それで、地上に残されたものはすべて死に絶えました(22,23節)。これは、J典の記述です。

 一方、11節では「大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた」と言います。これは、P典の記述です。「大いなる深淵」(テホーム)は、1章2節の「深淵」と同じ言葉で、それが裂けて洪水となったということは、地上に水が溢れたというレベルではなく、宇宙的な破局を意味するものでしょう。

 「洪水」(6節など:マッブール)という言葉は、「本来、『洪水』や『氾濫』という意味ではなく、『滅ぼし』という意味ですらなく、宇宙の一部分、即ち、天上の大洋を意味する特殊用語であった」と、ATDという注解書に記されていました。ギリシア語訳旧約聖書(七十人訳)はそれを「カタクリュスモス」と訳しています。英語のカタクリズム(cataclysm)の語源となる言葉です。

 創世記1章6,7節において、大空(ラキーア)で水(マイム)が二つに分けられました。大空の上の水と大空の下の水で、下の水は海(同10節:ヤーミーム)と呼ばれました。上の水をどう呼ばれたのか1章には記されていませんが、大空の上の水がマッブールで、天の窓が開くと、洪水となって流れ落ちてくるというわけです。

 それは、大空によって分けられていた上の水と下の水が一つとなって、すべてのものが1章2節の「深淵」(テホーム)に沈み込むことになるということです。つまり、地球のみならず、宇宙全体に背きの罪による破局が及んだということでしょう。

 洪水が40日間地上を覆い(17節)、さらに勢力を増して箱船は水の面を漂います(18節)。天の下にあるものはすべて覆われてしまいました(19節)。そのことを強調するかのように、冒頭の言葉(20節)で「水は勢いを増して更にその上15アンマに達し、山々を覆った」と告げます。

 この記事、考えてみると実に不思議な言葉です。そもそも、あらゆる高い山の上15アンマに水面があるということですが、いったい誰がその水深を計測したのでしょうか。そして、そのことに、どんな意味があるというのでしょうか。

 勿論、意味のないことが聖書に記されているはずはありません。天が裂けて宇宙全体の破局が起こっているという状況で、水の深さを測ることが出来るのは、神とその御使いたちだけです。神が無意味なことをされるはずがありません。

 それで考えつくのは、箱舟との関係です。箱船は、高さが30アンマでした(6章15節)。15アンマは、箱舟の高さの半分、ちょうど真ん中ということになります。舟を水に浮かべると、喫水線は舟の中央よりも上にあります。つまり、浮いている部分よりも水に沈んでいる部分の方が大きいということです。

 水面から一番高い山の頂上までの水深が15アンマなので、15アンマ以上水面下に沈んでいる箱舟の底が、一番高い山の上に引っ掛かるということです。主なる神は、初めから水の量を測って、ちょうど舟が高い山の上に止まるようにされたわけです。

 8章4節に、「箱舟はアララト山の上に止まった」と記されています。洪水が収まり、水が引いたら、たまたまイスラエルの人々が知っているこの地方の最高峰(標高5,144メートル)のアララト山だったというのではなく、初めからきちんとそこに漂着するように、主は計算しておられたというわけです。

 主なる神はそのことを悟らせるために、水深を測り、それを創世記の記事に記させておられたのです。そのことは、私たちの目に、直面している事柄、その状況がどのように見えているとしても、神は絶えずそこで私たちに配慮して最善のことをなし、私たちを恵みへ、救いへ導こうとしていてくださるということでしょう。

 ノアは、そのように神を信じ、その御言葉に信頼して箱舟を造り、家族で箱舟に入りました。そうして、神の恵みを得ました。ノアの信仰によってその家族も恵みに与りました。

 私たちも日々主を仰ぎ、その御言葉に耳を傾け、導きに素直に従いましょう。主が最善をなしてくださり、限りなく豊かな恵みに与らせてくださると信じましょう。

 主よ、あなたの恵みに依り頼みます。弱い私たちです。自分の信仰ですら、固く保たせることが出来ません。慈しみの御手の下に、絶えず私たちを守り支えてください。聖霊の執り成しにより、万事が益となるように共に働いてくださることを感謝します。日々御言葉に聴き、導きに従って歩ませてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン




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