風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2017年06月

6月30日(金) ヨハネ黙示録10章

「わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜ように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。」 ヨハネの黙示録10章10節

 7つの封印が解かれるとき、6番目(6章12節以下)と7番目(8章1節以下)の間に、幕間劇ともいうべき物語の展開がありました(7章)。同様に、第六の天使のラッパで災いが生じた後(9章13節以下)、第七の天使のラッパが吹かれる(11章15節以下)までの間に幕間劇が挿入されます(10章1節以下)。

 封印にしろラッパにしろ、災いが神に従わない者たちに対して臨むのに対し、挿入されている幕間劇では、神の刻印を押された神の僕、キリスト者たちはどうなるのかということが物語られています。
 
 地上に一人の力強い天使が天から降って来ました(1節、5章2節、18章21節参照)。雲をまとって天から降って来たこと、頭に虹、顔は太陽、足が火の柱と光り輝く様(1節)は、天的な栄光をあらわしています。手には巻物を持っていました(2節)。それは「開かれた小さな巻物」と記されていますので、神の右の手にあった巻物とは違うようです(5章1節)。

 5章2節で力強い天使が「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか」と大声で告げたのと同様、本章の「もう一人の力強い天使」(1節)も「獅子がほえるような大声で叫んだ」(3節)と言われます。ホセア書11章10節に「獅子のようにほえる主」という言葉があり(アモス書3章8節も参照)、この天使が神に近い存在であることを示しています。

 その「獅子が吠えるような大声」に対し、「七つの雷がそれぞれの声で」(3節)語ります。雷が語るというのは、他に例がありません。ただ、ヨハネ福音書12章29節に「そばにいた群衆は、これ(天からの声:同28節)を聞いて、『雷が鳴った』と言い、ほかの者たちは、『天使がこの人に話しかけたのだ』と言った」とあり、神の声と考えてよさそうです。

 その声を書き留めようとすると、天から「七つの雷が語ったことは秘めておけ。それを書き留めてはいけない」(4節)という天の声がありました。8節にも、天から語りかけられた声が記されています。すべての神の言葉が秘められているのではなく、このように告げ知らせられている天の声もあるわけです。これは、あらゆる秘密に通じることは出来ないというメッセージなのでしょう。

 すると、かの天使が「もはや時がない。第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する」(6,7節)と、神にかけて誓いました。この後の記述を見ると、天使がラッパを吹いてすぐに世の終わりが来て救いが完成するわけではありません。キリスト者がまだしばらく艱難のときを過ごさざるを得ないことも、「秘められた計画」の中に入れられていたということでしょう。

 それに対して天からの声があり、天使の手にある開かれた巻物を受け取れと著者に告げます(8節)。ヨハネが天使に巻物をくださいと言うと、天使は、「受け取って、食べてしまえ」(9節)と言います。ヨハネが言われたとおりに食べると、口には甘かったけれども、腹が苦くなったというのが、冒頭の言葉(10節)です。

 これは、どういうことなのでしょうか。以前、英単語を憶えるために、辞書を片っ端から暗記して、暗記したページは食べてしまったという人がいました。それで記憶力が増すということはないと思いますが、何が何でも憶えるのだという気迫が伝わってきます。英語を自分のものにするということですね。同じようなことを、ここに見ることが出来ると思います。

 著者がその巻物を食べたのは、11節によれば、多くの民族、国民、言葉の違う民、また王たちについて、預言するためです。そうするとこれは、エゼキエル書2章8節~3章3節に記されている預言を敷衍したものということが出来そうです。

 エゼキエル書3章1節に、「この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」という言葉があり、そして同2節に、「わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」と言われています。エゼキエルは、神の御言葉が真の食物であることを味わったわけです。

 しかし、差し出されても口を開かなければ、味わうことが出来ません。語られる言葉に耳を傾けなければ、その意味を受け止めることが出来ません。神は、「イスラエルの家は、あなたに聞こうとはしない。まことに彼らはわたしに聞こうとしない者だ」(同7節)と言われています。聞こうとしない、反逆する者に向かって語るのは、辛いこと、空しいことです。

 その上、預言者が語るのは、聞き手が嬉しくなるような祝福の言葉ではなく、むしろ聞き手を怒らせ、乱暴されるような神の裁きの言葉なのです(同2章6節)。神は聞き手に悔い改めを求めているのだけれども、相手が聞く耳を全く持っていないわけです。

 そういうわけで、著者ヨハネにとって、教会を迫害する者の裁きを語るのは、教会の解放と救いの実現につながるのですから、口に甘いということになるわけですが、しかしながらそれが腹に苦いというのは、預言が成就するためには、ヨハネを含めて教会がなお苦難を経なければならないということを示しているのです。

 それでもヨハネたちが苦難に耐えてこの預言の言葉を語り続けているのは、自分たちを救いに導いてくださった主イエスの愛があるからです。主イエスの愛は、主イエスの十字架の犠牲を通して示されました。私たちは主イエスが犠牲となってくださったことを、主の晩餐式ごとに覚えます。

 あのパンと杯が、私たちに差し出された巻物ということでしょう。それは、口に何と甘いことでしょうか。しかし、それがキリストの裂かれたお体、流された血潮であることを考えたとき、甘くて美味しいだけのものではなくなります。私たちがキリストの愛の証人となることを、それは求めているからです(第一コリント書11章26節参照)。

 主の深い憐れみによって救われ、召し出された者として、その使命を自覚し、聖霊の力をいただいて、役割を全うすることが出来るよう祈りつつ励みましょう。

 主よ、あなたは無に等しい者をご自分の民として選ばれました。あなたの深い愛と憐れみがなければ、選ばれることのなかった私たちです。そして、あなたが力と知恵をもって助けてくださらなければ、何をすることも出来ません。あなたが命じられるとおりに従いますから、どうか助け導き、御業のために用いてください。 アーメン





6月29日(木) ヨハネ黙示録9章

「これらの災いにあっても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。」 ヨハネの黙示録9章20節

 今日は黙示録9章です。第五の天使がラッパを吹きました(1節)。すると、一つの星が天から落ちて来ました。その星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられたと言います。穴を開くと、煙が立ち上り(2節)、その中からイナゴの群れが地上に出て来ました。このイナゴは、さそりが持っているような力が与えられました(3節)。

 イナゴながら、草木を損なうことは許されず、ただ「額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい」(4節)と言い渡されていました。それも、五ヶ月の間、殺してはいけないが苦しめることは許されたというのです(5節)。

 ここで、天から降って来た星は神の使いで、底なしの淵とは、死者の世界(陰府:ローマ書10章7節)あるいは悪霊の牢獄(ルカ福音書8章31節)と考えられます。神の使いが穴を開くとイナゴが出て来て、神の刻印を押されていない人、即ち不信者に害を加えます。だから、「さそりが持っているような力が与えられた」(3節)と言われるわけです。

 「五ヶ月間」という期間は、他に例を見ません。比較的短い期間という意味でしょう。「この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く」(6節)というのですから、その苦しみは、死を凌駕するほどのものだったと言われていることになります。
 イナゴの「顔は人間の顔のよう」(7節)だと言います。これは顔かたちのことではなく、人間のような知恵を持っているということでしょう。「髪は女の髪のようで、歯は獅子の歯のよう」(8節)というのは、イナゴの荒々しさ、猛々しさの表現でしょう。

 11節に「いなごは、底なしの淵の使いを王としていただいている」と言います。「使い」(アンゲリオン)は、不信者を滅ぼすイナゴの王ということで、1節などと同じく「天使」と訳してよいでしょう。また、天から落ちてきた一つの星を「天使」と捉え、彼が穴を開いてイナゴを呼び出したとすると、1節の星と11節の使いは同一の天使と考えてよさそうです。

 ヨハネはこの天使の名をヘブライ語でアバドン、ギリシア語でアポリオンと紹介しています。「アバドン」は「アーバド(滅ぶ)」の名詞形で、ヨブ記26章6節などで「滅びの国」と訳されています。「アポリオン」は「アポルミ(滅ぼす)」の名詞形で、「アバドン」をギリシア語訳したものです。イナゴが与える苦しみが、滅びに定められた人々への神の罰に他ならないことを示しているようです。

 イナゴの災いについては、出エジプト記10章1節以下に記されていました。出エジプトの崔には、多くの災いがエジプトに臨みましたが、イスラエルの民はその災いに遭うことなく守られました。同様に、これらの災いは不信者の上に臨み、そして神の刻印を押されたキリスト者たちは、この災いから守られるということなのです。

 12節で、イナゴの災いを「第一の災い」と呼び、「この後、更に二つの災いがやって来る」と言います。つまり、六番目、七番目のラッパによって、あと二つの災いがやって来るというのです。

 第六の天使がラッパを吹くと(13節)、神の前にある金の祭壇の四本の角から声が聞こえました。それは、「大きな川、ユーフラテスのほとりにつながれている四人の天使を放してやれ」(14節)という言葉でした。そして、ユーフラテスのほとりの四人の天使が人間の三分の一を殺すのに放されます(15節)。

 「金の祭壇」は8章3節にもあり、それは聖所に置かれている香をたく祭壇のことです(出エジプト記37章25節以下、40章26節)。その四本の角の声は、すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇に献げた香(8章3節)に対する応答ということになります。

 ユーフラテスは、イスラエルに与えられた約束の地の東の端です(創世記15章18節、出エジプト記23章31節、申命記1章7節、ヨシュア記1章4節など)。なお、この川はローマ帝国の東境でもありました。この大河が国境の天然の防護壁となっているのです。そこから四人の天使が解放され、災いがやって来るということになります。

 解放された天使たちのことを、「その年、その月、その日、その時間のために用意されていた」(15節)と言います。これは、私たちの歴史が神の計画に従って進行しているということ、その計画はとても緻密になされているということです。 

 天使が解放された結果、2億というおびただしい数の騎兵隊が出て来ます。詩編68編18節に「神の戦車は幾千、幾万」とあり、ソロモンが「戦車用の馬の厩舎四万と騎兵一万二千」(列王記上5章6節)を持っていたことなどと比べても、2億は殆ど天文学的な数字です。これだけの天の軍勢に攻撃されては、だれ一人として生き残れないでしょう。四人の天使が騎兵隊になったわけです。

 これは、メソポタミア東方のパルティア人を想定していると言われます。ローマ軍は幾度もパルティアの騎兵隊に破れており、彼らを恐れていたのです。それが、ユーフラテスからのおびただしい数の騎兵隊の出現という表現になったのかも知れません。

 けれども、17節以下に語られているのは神による裁きで、火と硫黄はソドムとゴモラを滅ぼしました(創世記19章24,25節、ルカ福音書17章29節など)。黙示録でも神が悪を罰する手段として用いられます(14章10節、20章10節、21章8節など)。

 騎兵隊の出現により、人間の3分の1が殺されたということは(15,18節)、第一の災いが「殺してはいけない」と言われていたのに対し、災いの度合いが高まったといってよいでしょう。

 ヨハネは冒頭の言葉(20節)と続く21節で、殺されずに残った人間について報告しています。ここで、これらの災いが、悔い改めへの神の招きとして理解されるべきこと、にも拘らず悔い改めようとせず、神ならぬ偶像、見ることも、聞くことも、歩くことも出来ない、人間によって作られたものに頼み続ける人間の愚かさが示されます。

 これも、出エジプト記7章3,4節などで、モーセの前に頑なになったファラオを思い出させます。悔い改めが出来ない、方向転換をすることが出来ないところが、神でないものに拠り頼んでいる者の特徴と言ってよいのかもしれません。

 それに対し、私たちを導いておられる神は、絶えず私たちを平安へ、希望へ、命へと導こうとしておられるのです。そこで必要なのは、悔い改めることです。悔い改めとは、神に心を向けることです。目に見えず触れることも出来ない神に心を向けるとは、神の御言葉を聞くことです。教会で、聖書から語られる説教を聞きましょう。聖書日課に従って聖書を読みましょう。

 そして祈ることです。神は、求める者に良いものをくださると約束されました(マタイ福音書7章11節)。私たちに良いものをくださる神様に心を向けて祈りましょう。そうすれば、神様がよいお方であることを味わうことが出来ます。

 主よ、ヨハネは、苦難の中で神に祈りをささげ、その応答の言葉を聞きました。困難な現実の向こうに、あなたの御手を見ることが出来ました。あなたの勝利を信じることが出来ました。私たちも、信仰に立ち続けることが出来ますように。御言葉に耳を傾け、その導きに従い続けることが出来ますように。感謝をもって祈りをささげ、よいもので満たしていただくことが出来ますように。 アーメン






6月28日(水) ヨハネ黙示録8章

「香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った。」 ヨハネの黙示録8章4節

 今日は8章からの学びです。神の右の手にある巻物の第七の封印が開かれます。第七の封印が開かれたとき、終末の到来が期待されましたが、訪れたのは「半時間ほどの沈黙」(1節)でした。「半時間ほど」というのですから、その沈黙は長い時間ではありません。

 天において、その沈黙が起こったというのですから、それまで次々と封印が開かれて、戦争や飢饉、疫病、地震や雹、火による災いが起こっていましたから、最後の封印が開かれたら何が起こるのかと、だれもが固唾をのんでそれを見ようとしたということなのでしょう。

 ヨハネも、天が沈黙に包まれている中で、これから何が起ころうとしているのか注目していたようです。すると、神に仕えている天使たち7人が、神の御前に立ちました。そして、彼らに七つのラッパが与えられました(2節)。

 聖書の中で、ラッパは喜びの表現や(王上1章34節、王下9章13節)、神を賛美するため(詩編47編6節、81編4節、150編3節など)、また警戒信号や(ネヘ4章12節、エレ4章5節など)、戦闘開始の合図としても(ヨシュア6章5節、士師3章27節、7章18節など)用いられています。ここでも、神に敵対するものに対して、裁きが始まる合図として用いられているわけです。

 それはまた、神の裁きが始まることを願っていた殉教者たち(6章10節)、そして、選ばれた聖徒たちにとっては(7章3節以下)、神の救いが完成される喜びの表現として受け止められたことでしょう。

 第七の封印が開かれて、七つのラッパの災いが始まるということは、その災いが巻物に記されていたものということであり、小羊によってその封印が開かれたのだから、この災いの主導権が小羊にあるということになります。

 けれども、ラッパが与えられた7人の天使とは「別の天使」(3節)が登場します。手に金の香炉を持っています。そして祭壇のそばに立ちます。これは、「香をたく祭壇」(出エジプト記30章1節以下)です。この天使に多くの香が渡されました。それは「すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇に献げるため」です。

 ヨハネは冒頭の言葉(4節)のとおり「香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った」と記します。5章8節に「四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、竪琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである」と記されていました。

 金の香炉を手に持つ天使に聖なる者たちの祈りという多くの香が手渡され、それを玉座の前にある金の祭壇に献げようとしています。香の煙が、神の御前へ立ち上ったというのですから、聖なる者たちの祈りが神に届いたということを示しています。

 祈りの内容はどちらの箇所にも明示されていませんが、5章では長老たちが巻物の封印を開く小羊に対する賛美の歌を歌い、6章で封印が開き始められました。8章では七つのラッパの災いが起こされています。これらのことから、恐らく聖なる者たちを苦しめたこの世の悪に対する「血の復讐」(6章10節)を願い求める祈りといってよいでしょう。

 続いて「天使が香炉を取り、それに祭壇の火を満たして地上に投げつけると、雷、さまざまな音、稲妻、地震が起こり」(5節)ました。雷や稲妻、様々な音などについて、4章5節に「玉座からは、稲妻、さまざま音、雷が起こった」と記されていました。

 このことについて、モーセがシナイ山で神とお会いしたときに、同じような出来事が起こっています(出エジプト記19章16節以下)。ということは、雷や稲妻、様々な音、地震は、神が顕現されたしるしということです。

 祭壇の火を香炉に満たしてそれを地上に投げつけたというのは、「火」がしばしば神の裁きの手段として用いられていることから(創世記19章24節以下、イザヤ書66章15,16節、エゼキエル書38章19節など)、聖なる者たちの祈り(3,4節、5章8節)や殉教者たちの「血の復讐」を求める叫び(6章10節)に答えて、いよいよ神の裁きが地上に下ることをあらわしているわけです。

 ラッパが吹かれて起こる災いは、イスラエルの民がエジプトを脱出する際に、モーセを通して表された災いに似ています(出エジプト記7章14節以下)。

 第一のラッパで血の混じった雹と火が地上に投げ入れられ、木や青草を焼きました(7節)。これは、出エジプト記9章13節以下の「雹の災い」に似ています。第二のラッパでは、火の山が海に投げ入れられ、海の水が血に変わって海に住む生き物が死にました(8,9節)。これは、出エジプト記7章14節以下の「血の災い」に似ています。

 第三のラッパでは、燃える星が川の水源の上に落ち、水が苦くなって多くの人が死にました(10,11節)。この☆の名は「苦よもぎ」(11節)と言います。これは、出エジプト記にはない災いの表現ですが、エレミヤ書9章14節に「見よ、わたしはこの民に苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる」という言葉があり、神に背き、バアルに従って歩む頑なな者の裁きが預言されています。

 因みに、今から31年前の4月、「苦よもぎ」という意味の名を持つ町で大変な事故が起こりました。事故が起きるまで、町の名を聞いたことはありませんでした。その名前は、ロシア語で「チェルノブイリ=苦よもぎ」と言います。

 原発事後当時、黙示録との関連を語る人が随分たくさんおられました。勿論、その事故は、黙示録の預言の成就などではありません。しかし、原発事故の恐ろしさ、被爆の深刻さという点で、無軌道な原子力開発に警鐘を鳴らしたのは確実です。

 第四のラッパでは、天体が損なわれて暗くなりました(12,13節)。これは、出エジプト記10章21節以下の「暗闇の災い」を思わせます。かくて、出エジプト記のときの災いを模して裁きが描かれていますが、その規模はずっと拡大されていて、地と海と天体の三分の一を損なうまでになっています。

 このような災いから、何を学びますか。それは、私たちが神の声に耳を傾けるべきだということでしょう。それは、神ならぬものに寄り頼んできたことを悔い改めなさいということではないでしょうか。エジプトのファラオが心を頑なにして聞くことを拒んだような愚を、繰り返してはなりません。それは、なお大きな災いが地上に臨み、破滅が人類の上に落ちかかるからです(13節)。

 今一度、神の前に静まりましょう。神の御言葉に耳を傾けましょう。御心を悟り、その導きに従いましょう。それこそ、悔い改めて福音を信ずることです。

 主よ、どうして自然災害が頻繁に起こり、さらに福島の原発事故のようなことが起きるのでしょうか。これらが黙示録の成就だとは思いませんが、重大なメッセージが語られているように思います。幸せを追求して地球規模で自然を破壊し、進歩を追及して心も体もゆとりを失っています。どうか、眠りから目覚めさせてください。何が本当に大切なものなのか、立ち止まって静かに見つめ直し、悔い改めることが出来ますように。 アーメン






6月27日(火) ヨハネ黙示録7章

「この後、わたしが見ていると、身よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数え切れないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊に前に立って、(大声で叫んだ。)」 ヨハネの黙示録7章9節

 今日は7章の学びです。ヨハネは、大地の四隅に4人の天使が立っているのを見ます(1節)。彼らは、「大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて」います。それは、大地と海を損なうという災いを下す風で(2節参照)、天使たちは風を吹かせるタイミングを計っているのです。

 そこに、神の刻印を持ったもう一人の天使が登場します(2節)。彼は、四人の天使たちに「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない」(3節)と大声で呼びかけます。彼は、イスラエルの子らの全部族の中から、14万4千人に刻印を押しました(4節以下)。

 この後、8章には七つ目の封印が開かれて、七人の天使が七つのラッパを持って、新たな災いの舞台の幕が上がります。7章は、巻物の七つの封印のうち六つが開かれ、残り一つとなったところで、幕間劇が始まったという場面です。

 そこで、上述のとおり14万4千人が神の「刻印」を受けたということでした。材木や家畜などには、屋号や飼い主を示す焼印が押されます。神の刻印を受けた人は、神が所有者であることを示すのです。9章4節の言葉から、額に神の刻印を押された者は、世を襲う災いから神によって守られるということが示されます。エゼキエル書9章1節以下、特に4節で語られているのも、このことでしょう。

 また、「刻印」はギリシア語で「スフラギス」と言います。5章1節以下などで「封印」と訳されているのと同じ言葉です。

 ローマ書4章11節「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです」という言葉の「印」が「スフラギス」です。また、第一コリント書9章2節「あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです」では「証拠」と訳されています。

 また、「刻印を押す、封印する」という意味の「スフラギゾー」という動詞が、マタイ福音書27章66節、第二コリント書1章22節、エフェソ書1章13節、黙示録7章3,4,5,8節などにあります。

 これらの言葉遣いの中で、「神の刻印」と同様な表現として、第二コリント書1章22節、エフェソ書1章13節、4章30節に、聖霊で証印を押されるという表現があります。それは、アブラハムが信仰によって義とされた証しとして割礼という「印」を受けたように(ローマ書4章11節)、キリストを信じた者が救われて神のものとされ、新しい命が与えられた「印、証拠」を意味しています。

 第一コリント書12章13節に、一つの霊によって、皆一つの体となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊を飲ませてもらったという言葉があります。キリストを信じてバプテスマ(洗礼)を受けた者たちは、聖霊によってキリストという一つの体になり、めいめいが聖霊を受けたということです。聖霊の証印を受けた者たちは、聖霊によってキリストの体という教会を形成するという表現でしょう。

 また、刻印を押された人の数は象徴的です。14万4千人はイスラエル12部族から選ばれました。12は完全数です。そして、キリストを信じる者の集い、つまりキリストの教会こそ、神によって選ばれたイスラエルなのです(ガラテヤ書3章26~29節、6章16節など)。

 そこに挙げられている部族名を読むと、笑ってしまいます。通常、レビ族(7節)が数えられることはありません。むしろ数えてはならないと言われていました。ヨセフ族(8節)があるのに、マナセ族(6節)が出るのは妙です。そして、ダン族がありません。

 これはしかし、単なる記憶違いではありません。士師記17,18章の影響だと思いますが、後期ユダヤ教の教えによれば、ダン族から反メシヤの頭が出て来ると考えられていたのです。

 そうしたことから、ヨハネがここに言う「イスラエル」というのが、正当なユダヤ民族に属する12部族というのではなく、主イエスを信じるすべての人々を「12部族」として、彼らこそ真の神の民イスラエルであると言い表しているわけです。

 1部族1万2千人ずつというのは、12の1000倍です。1000は完全数「10」の3乗です。つまり12も10も完全数なので、完全数に完全数の3乗を掛け合わせるということで、これは、考えられないほど大きな数という意味です。

 ですから、キリストを信じる者の中から、より忠実な信仰者14万4千人を厳選したというようなことでは、決してありません。むしろ、神の愛と憐れみから漏れる者は一人もいない、キリストを信じる者は皆、一人残らず神のしるしが与えられているという宣言です。

 だから、冒頭の言葉(9節)の「だれにも数え切れないほどの大群衆」というのが、刻印を押された14万4千人でしょう。この大群衆は「見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった」と言われており、まさに、全世界のすべての主を信じる民、だれにも数え切れないほどの大群衆が、神と御子キリストの前に立っているというのです。

 また、「白い衣を身につけ」ていると記されています。それは、信仰の戦いを雄々しく戦って勝利を得た者であると、3章5節などに記されておりました。この人々のことについて、14節では「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」と言われています。

 大きな苦難とは、黙示録が書かれた当時、ローマ皇帝ドミティアヌスによる、キリスト教徒が味わっていた迫害の苦しみを指します。それはしかし、彼らが自分の力で戦いに耐え、勝利を得た、それにより白い衣を獲得したというのではありません。それは、「小羊の血で洗って白くした」と言われているからです。

 「小羊の血」と言えば、過越の出来事を思い起こします。それは、イスラエルの民がエジプトを脱出する際、エジプトに下された最大の災いでした。エジプト中の家の長子が神の御使いに打たれて亡くなりました。ただ、主なる神の命令に従い、小羊の血を家の柱と鴨居に塗っているところは、御使いがパスした、過ぎ越したというので、それを記念して過越祭を祝うのです(出エジプト記12章)。

 ということで、「小羊の血で洗って白くした」とは、小羊の血によって大きな災いから守られたという意味があります。ローマ皇帝による厳しい迫害という苦しみを味わっているキリスト信者が小羊の血で守られる、即ち主イエスが十字架に死なれ、そこで流された血潮によって救われただけでなく、その苦難の中で神に守られ支えられて、信仰を全うすることが出来るということです。

 白い衣を着た大群衆が大声で、「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」(10節)と叫び、天使たちが、「アーメン、賛美、栄光、知恵、感謝、誉、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように」(11,12節)と賛美したとありますが、信仰を全うして玉座の前で神を礼拝する群れに加わることが出来ると、ここに予め約束されているのです。

 この世には様々な苦難があります。なぜこのような苦しみを味わわなければならないかと思うことがあります。そういう中で、主イエス・キリストを信じる信仰に導かれているのは、それこそ主の恵みであり、神の祝福なのだとあらためて思います。

 ヨハネが様々な苦難の中で天上を仰ぎ、約束された神の守りを信じ、天使たちと共に凱歌を歌っているように、私たちも絶えず主を仰ぎ、日々御言葉に耳を傾け、常に聖霊の導きに従って前進しましょう。

 主よ、私たちがあなたを選んだのではありません。あなたが私たちを選ばれました。それは、私たちが行って実を結ぶため、その実がいつまでも残るため、そして、皆による祈りがかなえられるためだと言われました。あなたの御心を行うことが出来ますように。そして、御名の栄光を表すことが出来ますように。そのために必要な力と知恵、助けを聖霊をとおして絶えず与えてください。 アーメン




6月26日(月) ヨハネ黙示録6章

「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」 ヨハネの黙示録6章10節

 小羊が封印を開き始めます。最初の封印が開かれると(1節)、白い馬が現れました(2節)。騎手は弓を持ち、冠が与えられて勝利の上に勝利を得ようと出て行きます(2節)。

 二番目の封印が開かれると(3節)、赤い馬が現れました(4節)。騎手には地上から平和を奪い取って殺し合いをさせる力、大きな剣が与えられます(4節)。

 三番目の封印が開かれると黒い馬が現れ、騎手は手に測りを持っています(5節)。すると、「小麦は一コイニクスで一デナリオン。大麦は三コイニクスで一デナリオン。オリーブ油とぶどう酒とを損なうな」(6節)という声がありました。

 小麦一コイニクスは約1.1リットルで、大人一人が一日で食する量と言われ、それが一デナリオンとは、かなり高価になっていることを意味します。飢饉や戦乱などによって収穫量が落ち込み、穀物の値段が高騰しているわけです。

 四番目の封印が開かれると(7節)、青白い馬が現れました(8節)。その騎手の名は「死」といい、陰府を従えていました(8節)。死と陰府には、「地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威」(8節)が与えられます。

 剣や飢饉、疫病による裁きは、エレミヤ書14章11節、エゼキエル書5章12節、14章13節、33章27節などにも預言されています。また、主イエスも終末の徴として、戦争、地震、飢饉、信者の迫害などが起こると教えられました(マルコ福音書13章7節以下など)。

 最初の、白馬の騎手に冠が与えられて勝利の上に勝利を得ようと出て行ったという出来事は、続く三頭の騎手たちが殺し合いや飢餓などの災いをもたらすために現れたというのと、趣を異にしています。白馬の騎手について様々な解釈がなされていますが、佐竹明先生が、忠実な信徒たちの象徴と見る解釈を提案しておられます。

 信徒たちの勝利とは、艱難の中にあっても最後まで信仰を忠実に守ることによって実現します(2章10節)。忠実な信徒たちの中に既に勝利を味わった者がいます(同13節、6章9~11節)。そして、更にその数が増し加えられ、満たされることが待ち望まれます(11節)。それで、「勝利の上に勝利を得ようと」(2節)と言われていると考えるのです。

 ここに、終末を来たらせる神の御業が始まったわけです。そのとき、信徒たちは塗炭の苦しみをなめていました。信仰のゆえに殉教した人々の魂が祭壇の下から叫んだというのが、冒頭の言葉(10節)です。これは、彼らの魂が陰府に捨て置かれず、神の御前にあることを表しています。

 彼らには「白い衣が与えられ」(11節)ました。3章5節に「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる」とあります。彼らは殺されるという苦しみを受けても、忠実に信仰の証しを立てたのです。だから、白い衣が与えられたわけです。

 既に勝利を得た者たちが「いつまで裁きを行われないのですか」と叫んだというのは、今もなお戦いの内にあり、自分たちと同じように殺されようとしている信徒たちために、執り成して叫び祈っているわけです。

 これは、迫害され殺されることは、敗北ではなく勝利だということを味わった人々の祈りです。ということは、主イエスの祈りであるとも言えるでしょう。勝利であるから苦しんでもよいなどとお考えになっているのではないのです。それを自分の苦しみとして受け止めながら、いつまでですかと、神の御心を尋ねられたのです。

 それに対する答えは、「殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なおしばらく静かに待つように」(11節)というものでした。その苦痛は永遠のものではないこと、もうすぐ終わるということです。

 試練の内に、苦しみの中にいる人々にとって、この答えは満足出来るものではないでしょう。納得のいく答えであるとは思われません。しかし、この答えにおいて最も苦しんでおられるのが、神ご自身であると思います。ご自分を信じる者が苦しんでいるのです。殺されているのです。

 なぜ、神は待っておられるのでしょうか。なぜ、すぐに裁きを始められないのでしょうか。御国の福音が全世界に宣べ伝えられるのを待っておられるのです(マタイ福音書24章14節)。神はすべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられるわけです(第一テモテ書2章4節)。

 この神の憐れみにより、迫害者であったパウロが伝道者に変えられました。そのパウロも迫害を受け、殉教しました。パウロは、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(第二コリント書4章17節)と語り、艱難を恐れないで絶えず主を仰ぎ、信仰に生きよう教えています。

 同じく神の恵みに与った者として、主を信じ、主の御言葉に従って歩ませていただきましょう。

 主よ、どうか今苦しみの中にいる方を慰め、励ましてください。私たちが互いに愛し合い、主のご愛を証しすることが出来ますように。あなたから頂いた恵みがいかなるものであるか、いつも思い起こし、救われた原点をしっかりと見つめ、主の御声に従って前進させてください。主の御名が崇められますように。 アーメン






6月25日(日) ヨハネ黙示録5章

「泣くな。見よ、ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」 ヨハネの黙示録5章5節

 ヨハネの黙示録を読み、理解するための一つの方法は、天上の出来事と地上の人々の状況を対比して考えてみることです。たとえば、4,5章には、天上の玉座の間で行われている礼拝の様子が描かれていますが、地上では、ローマ皇帝を神として拝む皇帝礼拝が、帝国内の民に強要されていました。

 2章13節に「サタンの王座」という言葉がありますが、皇帝礼拝を強要し、それを拒否する者を殺すという悪魔的な存在を神として拝ませているという批判が込められています。こうした表現で、皇帝を神として礼拝することを拒否する姿勢を鮮明にしています。

 そして、4章11節で「あなたこそ、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方」と賛美をささげて、本当に賛美されるべき方、信じて従うべき方は、天地を創られた唯一の神のみであるという信仰の宣言をしているのです。

 5章では、玉座に座っておられる方の右の手に握られた巻物が話題になります。その巻物は表にも裏にも文字が書いてあると、1節に述べられます。そこに何が書かれているのか、本章では明らかになりません。まぜ巻物の表裏両面に文字が書かれていると分かったのかは不明ですが、巻物は「七つの封印で封じられていた」(1節)のです。

 6章以下に封印を一つずつ解く度に起こる出来事が描写され、事態が進展していくことから、本章はその導入の場面として、非常に重要な位置を占めているということになります。

 神の手に握られた、表にも裏にも文字が記されている巻物とは、エゼキエル書2章9,10節にその表現があり、ヨハネがここにそれを援用したわけです。エゼキエル書の巻物に書かれているのは、「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった」(同10節)ということで、それはイスラエルの反逆の民に対する神の裁きを意味しています。

 その点は黙示録も同様で、封印が解かれるにつれて、不信の者たちに下される災いが現れます。一方、神の裁きは、信仰者にとっては、救いに近づくしるしとなります。その意味で、神の手に災いの記された巻物が握られているというのは、迫害下にあるキリスト教会にとっては、大いなる希望であり、励ましです。

 ところが4節に、封印された巻物を開くことの出来る者が見当たらないというので、激しく泣いたという言葉があります。その巻物を封じている七つの封印は(1節)、玉座に座しておられる方の権威の完全さ、だれもそれを犯すことが出来ないということを示しています。

 封印を解いて巻物を開く者がいないことを嘆き悲しむのは、巻物が開かれないので、そこに記されている神の業が現実化しないということだからでしょう。ということは、現在ローマ皇帝の下、迫害されているクリスチャンたちの苦難が今後も続くことになると考えられ、ヨハネは全信徒を代表するかのようにして、泣いているのです。

 しかし、それは神の権威をもって封じられているのですから、人間がそれを開くことは許されていません。人間が神の計画を手に入れることは出来ませんし、神に代わってそれを実現することも出来ないのです。

 ところがそのとき、冒頭の言葉(5節)のとおり、長老の一人が「泣くな」と言いました。「ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえ」と言われるメシア・主イエスがその巻物を開くことが出来ると言われたのです。

 長老は「ユダ族から出た獅子」と言いましたが、登場して来たのは「ほふられたような小羊」(6節)でした。世の中は獅子を期待したのですが、それが神の計画でした。力で屈服させる王ではなく、人々を罪と死の恐れから解放するために自らを犠牲とされる愛の王です。

 しかし、その愛の力は、死に打ち負かされませんでした。十字架で潰えてしまいませんでした。墓を打ち破って甦られました。このお方が、神の御手にある巻物の封印を解き、救いのご計画を進められる救い主として、私たちに与えられたのです。「獅子」が「小羊」と呼ばれるところに、この箇所のメッセージがあるでしょう。最も弱いと見えるものが、実は獅子よりも強いものなのです。

 四つの生き物と24人の長老たちは、聖なる者たちの祈りである公を入れた金の鉢と、竪琴を持って、小羊の前にひれ伏し(8節)、新しい歌を歌い始めます(9節)。主イエスのなされた業をほめ讃える賛美の歌です。

 この歌を記しているヨハネは、「彼らは地上を統治します」(10節)と言われているこの地において大変な苦難を味わっています。伝説に従えば、ヨハネはパトモス島に収監されている身で、喜んで歌を歌える、自由に主を礼拝することが出来るという環境にありませんでした。

 けれども、彼はこの地上において自分たちを苦しめているローマの支配の向こうに回し、天上の神の玉座と小羊なる主イエスを見て、罪と死に打ち勝ちって私たちを信仰に生かしてくださる主を、「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です」(12節)と、高らかに賛美しているのです。

 私たちもこのヨハネの信仰に倣い、イエスを通して賛美のいけにえ、即ち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。

 主よ、私たちに信仰をお与えくださって、心から感謝します。あのベートーベンが、耳が聞こえないというハンディキャップに打ち勝って交響曲第9番「歓喜の歌」を生み出したのは、このような信仰に学んでのものだと思います。私たちにも常に主を仰がせ、絶えず御名をたたえる新しい歌を神に献げさせてください。 アーメン




6月25日(日)主日礼拝案内

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6月25日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、ローマ書から聖書の学びと交わりをしています。

主日礼拝を10時半から行います。
礼拝では、ルカ福音書5章12~16節から「御心ならば」と題して説教を頂きます。

礼拝後、信徒会を行います。





















 

6月24日(土) ヨハネ黙示録4章

「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。」 ヨハネの黙示録4章11節

 4章で場面は天上に移り、開かれた門が見えます。ヨハネは「ここへ上ってこい。この後必ず起こることをあなたに示そう」(1節)という声を聞きます。それは「あの最初の声」というので、1章10節で聞いた声のことでしょう。「ラッパのように響く」というのがその声の特徴で、声の主は、同12節以下の描写から、神の右に座す御子キリストでしょう。

 ヨハネは霊に満たされ、玉座の前に出ます(2節)。玉座に座しているのは、碧玉や赤めのうのような方です(3節)。碧玉、赤めのうは、旧約以来宝石として尊重されていました(出エジプト記28章17節以下、エゼキエル書28章13節など)。ここでは、神の高貴さを表現するために用いられているのでしょう。

 玉座に座しているお方について、イザヤ書6章1節以下、エゼキエル書1章26節以下に前例があります。特にエゼキエルでは、王座がサファイアのように見え(同1章26節)、腰のように見えるところから上は琥珀金が輝いているように見えたとあります(同27節)。これも、神の高貴さの表現でしょう。

 玉座の周りにエメラルドのような虹が輝いているというのは、創世記9章13節の契約のしるしとしての虹を思い出させますが、エゼキエル書1章28節に「周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった」とあり、ヨハネもそれを考えての表現でしょう。「エメラルドのよう」というのも、神の高貴さを表しています。

 玉座から稲妻、様々な音、雷が起こったというのは(5節)、出エジプト記19章16節などにある、シナイ山における神顕現の描写を思い起こします。モーセは角笛の音が鳴らされたのに応えて山に登りました。ヨハネを天に招くラッパのような声は、それに呼応していると見ることが出来ます。

 玉座の前の七つのともし火は(5節)、聖所に置かれた七つ枝の燭台(出エジプト記25章31節以下、40章4節など)を思わせます。また、玉座の前の推奨に似たガラスの海のようなものは、ソロモンが神殿の祭司の庭に置くために作らせた青銅の海(列王記上7章23節以下)を思い起こします。いずれも、神を礼拝する場所に置かれていたものです。

 ただ、「七つのともし火」は、「神の七つの霊」(5節)と説明されます。1章7節にも「玉座の前におられる七つの霊」とあり、これは、聖霊の表現と考えられます。ゼカリヤ書4章2節以下に七つ枝の燭台の描写があり、それは「ゼルバベルに向けられた主の言葉」(同6節)で、それを「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」(同6節)と説明します。

 玉座の周りの白い衣を着た24人の長老は(4節)、星座を神々とするバビロンの占星術と関係があるとする説や、神殿の祭司が24組に分けられていたことや(歴代誌上24章)聖歌隊も24組に分けられていたこと(同25章)に基づいているとする説、また、旧約の12部族、新約の12使徒の数を合わせた旧・新約聖書の代表者という節などがあります。それらが皆影響しているかも知れません。

 ネヘミヤ記9章6節には「天の軍勢はあなたを伏し拝む」と歌われており、玉座の周りに座しているのは、神に仕える天使たちと見ることもできそうです。また、イザヤ書6章2節以下、エゼキエル書1章5節以下によれば、玉座の周りの「四つの生き物」とは、セラフィムのことといってよいでしょう。そうすると、いずれも天的な生物ということになります。

 かくて、ここに描かれているすべてのものは、ヨハネを呼び出した神の御子キリストと玉座の前の「神の七つの霊」と言われる聖霊、そして玉座に座す御父なる神の権威、力、栄光を天の玉座の前で賛美する表現ということになります。

 セラフィムなる四つの生き物が8節で「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」と歌います。イザヤ書6章3節でセラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と歌った出来事の再現のようです。

 そして、24人の長老が玉座の前にひれ伏し、冠を投げ出して(10節)歌ったのが冒頭の賛美の言葉(11節)です。「ひれ伏す」のは相手への最大限の敬意を表す姿勢で、特に神礼拝を言い表すものです。「冠を投げ出す」のも、王に対する尊敬と服従を表す当時の習慣でした。

 ここで、「あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方」とは、当時の賛歌の形式の一つだったと言われます。主なる神が賛美を「受けるにふさわしい方」として讃えられるということは、この地上の誰も、その栄誉を受けることは出来ないと言っていることになります。

 また、9節に「栄光と誉れをたたえて感謝をささげると」と言われていましたが、ここでは「栄光と誉れと力を受けるにふさわしい」と、感謝が力に置き換えられたようになっています。「力」は全能の神、万物の支配者としての力です。

 栄光と誉れと力とは、いずれも神に属するもので、神にそれらを与えることができるような者は、どこにも存在しません。「受けるにふさわしい」とは、「栄光と誉れと力」の唯一の所有者であるとの告白、賛美を受けるにふさわしい方だということです。

 唯一賛美を受けるに方である根拠として、「あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」と歌います。万物を創造され、御手の内にすべてを治めておられる方だからこそ賛美すべきであり、そのお方に信頼し、従うべきだというわけです。

 万物が神によって存在し、創造されたと天の玉座の前で歌われたこの歌が、地上ではどのように歌われるでしょうか。万事が順調に運んでいるときには、高揚した思いで歌うことが出来るでしょう。しかし、八方ふさがりのとき、抵抗できない力でねじ伏せられているとき、すべてが神によって造られ、神の支配の中にあると歌うのは、思うほど易しいことではないと思われます。

 けれども、ローマ帝国の圧倒的な権力と支配の前に、八方をふさがれ、ねじ伏せられているようではあるけれども、今ヨハネは、天において、万物は神によって創造されたものであり、すべて神に支配の下にあると歌う24人の長老の姿を見、その歌声を聞いています。そしてヨハネ自らも、この歌を共に歌っているわけです。

 ヘブライ書12章1,2節に「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」という言葉があります。

 旧約の証人たち、そして先に召された信仰の先達が、私たちにエールを送っていてくださるのです。常に主を仰ぎ、主に信頼して歩むとき、天の歌声を聞くことが出来るでしょう。そして、私たちも信仰によってその歌声に和すのです。

 逆に、私たちがどのような境遇にあっても主イエスを仰ぎ、賛美を歌うとき、天の軍勢もそれに和して天上と地上で主を讃える賛美の交換がなされるということも出来そうです。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰をもって、主をほめ歌いましょう。 

 主よ、ステファノは殉教直前、天が開かれて、立ち上がっておられる主イエスを見たと言いました。確かにあなたは、信仰の戦いの中にある私たちのために、立ち上がって応援していてくださると信じます。弱い私たちを助けてください。あなたをいつも見上げることが出来ますように。すべてを委ねて主をほめ歌うことが出来ますように。 アーメン





6月23日(金) ヨハネ黙示録3章

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」 ヨハネの黙示録3章20節

 14節以下は、「アジア州にある七つの教会」(1章4節)の7番目、「ラオディキアにある教会」(14節)に宛てて書き送られた手紙です。

 ラオディキアは小アジア西部,フリギア地方の主要都市の一つで、フィラデルフィアの南東70㎞、エフェソ東150㎞に位置する、メアンデル川の支流リュコス川に面した町です。リュコス流域には、コロサイ(東約15㎞)とヒエラポリス(北約10㎞)があります。

 紀元前3世紀半ばにアンティオコス2世セオスが、それまでディオスポリスまたはロアスと呼ばれていた町をヘレニズム文化の中心都市として整備し直し、自分の妻のラオディケにちなんでラオディキアと改めました。「ラオディキア」とは、「ラオス」(民)と「ディケー」(正義)を合わせた「国民の正義」といった意味になります。

 ヨセフスによれば、アンティオコス3世が多くのユダヤ人をフリギア、リディア地方に移住させました。ラオディキアの町にもかなりのユダヤ人が住むようになったと考えられます。紀元前1世紀には、この地方のユダヤ人は宗教の自由が保障され、エルサレムへ献金を送ることも許されていたようです。

 一時ペルガモン王国の支配下に移りましたが、紀元前133年以降ローマの支配下に入り、エフェソからシリアへ至る通商路に沿っていたこともあって、商業都市として発展しました。また、ラオディキアは金融都市としても知られ、その経済力は、紀元前60年の大地震で町が崩壊した時、他の町のように皇帝の援助を受けず、市民だけの富で復興したほど豊かでした(17節参照)。

 黒羊毛と毛織物の産地としても有名であり(18節参照)、また、郊外のアットゥダの町で生産されていた「フリギアの粉末」と呼ばれる目薬でもよく知られていました(18節参照)。

 ラオディキアの教会のことについては、コロサイ書2章1節、4章12~16節に既に言及されています。それによれば、コロサイ教会と同様、エパフラスという人物の特別な関心の対象となっています。同1章7節によれば、エパフラスがコロサイ教会の創設者であることが分かります。とすれば、ラオディキアも、エパフラスによって創立された可能性が小さくないでしょう。

 パウロがラオディキアの教会に手紙を書いていますが(同4章16節)、それが現在のエフェソの信徒への手紙のことであると考える学者もいます。ただ、黙示録のエフェソにある教会が、パウロによらず、ヨハネの指導によって立てられたと考えられるように、ラオディキアにもパウロやエパフラスたちの働きによらない、ヨハネによる教会があったとあったと考えてよいでしょう。

 ラオディキアには4世紀までフリギアの司教座がおかれていましたが、中世に入ってイスラムとの戦いで破壊されました。現在のエスキ・ピッサルという小村(トルコのデニズリの西)がラオディキアに当ると考えられています。

 7つの教会に宛てて記された手紙には、語り手を紹介する言葉に続いてそれぞれの教会を賞賛する言葉が添えられていますが、ラオディキアだけは例外で、「わたしはあなたを知っている。あなたは冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであって欲しい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(15,16節)と言われます。

 ラオディキアの信徒の信仰の「なまぬるさ」に失望したという表現です。そのなまぬるさは、「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(17節)と言われるほどです。生活の上で不足がないことに満足して、霊的なこと、信仰のことが全く分かっていないというのです。

 冒頭の言葉(20節)は、キリスト教会の集会などでは、まだ信仰の道に入っていない方々に、主イエスを信じましょう、主イエスとの親しい交わりに入りましょうと勧める言葉として、よく読まれます。しかし、この言葉は、ラオディキアにある教会の信徒たちに向かって語られているのです。これは、どういうことなのでしょう。

 「戸を叩く」のは、受け入れることを求める意思表示ですが、ここでは、キリストが再臨される合図のことでしょう。「食事を共にする」とは、最も親密な交わりの表現です。キリストが、その声を聞いて従う者たちと食事を共にするという約束が与えられるということは、やがて来るべき栄光の座に、キリストと共に座に就くことが出来るという約束にほかなりません。

 ここで重要なことは、再臨されるキリストの声を聞き分けて戸を開くことが出来るよう、常日頃から備えておくことです。言い換えれば、忠実な信仰生活を守り続けることが重要だと言われているのです。となれば、「戸を開く」というのは、再臨されたキリストを迎え入れる行為ですが、再臨を待ち望みながら忠実な信仰生活を送ることを、そう表現しているということでしょう。

 その備えとして、「火で精錬された金」、「身に着ける白い衣」、「目に塗る薬」をキリストから買うようにと勧告されています(18節)。これは、17節に挙げられたラオディキアの人々の問題を、神によって解決するためのものです。

 神から離れてどっちつかずの生ぬるさの中にいては、自分の姿をはっきりと知ることが出来なくなります。自己満足と怠惰の中に眠り込んでしまいます。だから「熱心に努めよ。悔い改めよ」(19節)と言われるのです。

 再臨される主を待望することを忘れ、戸を叩いておられる主の御声が分からず、扉を開き損なった者は、やがて天の扉が閉ざされるとき、締め出される者となってしまいます。絶えず目覚めて主の御声を聴き、悔い改めて主の御言葉に聴き従いましょう。主との親しい交わりのうちに、主の祝福が注がれてきます。主に栄光を帰し、御名を高らかに賛美しましょう。

 主よ、あなたの深い恵みと憐れみを心から感謝します。戸を叩かれる主の御声を聞き逃すことがないよう、日々あなたの御言葉に耳を傾けます。聖霊の導きのもと、御言葉の恵みを味わいます。そして、祈りと賛美をささげます。弱い者ですが、主を知る者とされたことを喜び、その恵みを証しし続ける者とならせてください。 アーメン




6月22日(木) ヨハネ黙示録2章

「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」 ヨハネの黙示録2章10節

 2,3章には、「アジア州にある七つの教会」(1章4節)に宛てた手紙が記されています。これは、ヨハネの指導している教会が七つあり、そして、「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ」(同11節)と命じられていました。

 ラオディキアのそばにコロサイの町があり、そこにも教会がありますが(コロサイ書参照)、それがここに数えられていないのは、ヨハネの指導する教会ではないからです。その点では、「エフェソにある教会」(1節)も、パウロの教会とは別のものと言ってよいでしょう。

 「七」は完全数で、これで全世界の教会を代表しているのではないかという節もありますが、それは上記の通り、コロサイが挙げられていないなど、問題があります。ヨハネにとって、アジア州の七つの教会が彼の指導するすべてであり、それでこの世における完全な教会を形成しているものと考えていたのでしょう。

 エフェソ、スミルナ、ペルガモンは地中海沿岸の港町で、南から順にその名が挙げられています。そして、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアは内陸部の町で、ペルガモンから南東にのびる街道沿いにあり、北から順に並べられています。

 パトモス島から一番近いところにエフェソがあり、ここから時計回りに七つの教会を巡ることが出来ます。七つの教会がこの順番に並べられているということは、本書がこの順序で回覧されることを念頭に置いているということでしょう。

 七つの教会に宛てて書かれる手紙には、共通の特徴があります。それは、最初に語り手の神の御子キリストのことが、様々な言葉で紹介されます。次いで「知っている」(2節など)という言葉で綴られる賞賛の言葉が記されます。

 次に「しかし、あなたに言うべきことがある」(4節など)と、叱責の言葉が述べられます。ただし、初めから二番目のスミルナと、終わりから二番目のフィラデルフィアには、叱責の言葉がありません。

 その次は、悔い改めを勧告する言葉です。ただ、スミルナには、苦難を恐れず、死に至るまで忠実であれと命じ(10節)、フィラデルフィアには、持っているものを固く守れと勧めています(3章11節)。

 そして、悔い改めないときの裁きの言葉が語られます。だから、スミルナとフィラデルフィアにはこれがありません。それから最後に、「勝利を得る者には」(7節など)で始まる祝福の約束が告げられます。

 これらのことから、黙示録において神が教会に望まれること、そして、神に裁かれないよう教会が避けるべきことを学ぶことが出来ます。

 冒頭の言葉(10節)は、「スミルナにある教会」(8節)に書き送られた手紙の一節です。スミルナはエーゲ海に面した港町で、現在はイズミルと呼ばれています。ギリシアの植民地として建設された後、リュディア王アリュアッテスによって滅ぼされたのを、紀元前290年頃、アレキサンダーの後継者リュシマコスにより現在の位置に再建されました。

 スミルナは、紀元前195年にローマの女神のための神殿を建設するなどローマに忠誠を尽しており、ローマが東部地中海沿岸で権力を持つ以前から忠実な同盟国としてその保護を受けていました。公共建築物、医学、科学などが栄え、小アジアで重要な、美しい商業都市の一つとなりました。現在でも、アジアの宝石と評されると聞いたことがあります。

 スミルナにある教会の信徒たちは、苦難と貧しさの中にいたと、9節に記されています。ローマ時代、多くのキリスト者は下級の貧しい階層に属していました。そして、ローマによる弾圧、異教徒による迫害などの苦しみを受けていました。

 黙示録が書かれた当時、ローマ帝国の皇帝ドミティアヌスは自分を神として拝むよう、帝国中で皇帝礼拝を強制していました。スミルナでも皇帝礼拝が盛んになされるようになっていました。そして、皇帝を拝まない者は不忠者として迫害されたのです。キリスト者にとって、大変な受難の時代が始まったわけです。

 パウロの時代には、上に立つ権威に従えといった勧めがなされていますが(ローマ書13章1節など)、黙示録でははっきりとローマ帝国、皇帝と戦う姿勢が打ち出されてきます。戦うといっても武器を取るというのではなく、帝国の命令に不服従、皇帝礼拝に加わらないという戦いです。

 そのため、厳しく迫害されたようです。にも拘らず、そのような弾圧の苦しみの中でも、スミルナ教会の人々は信仰を失うことはありませんでした。むしろ霊的に豊かであり、賞賛に値する信仰生活を守り通したのです。

 どのようにして、スミルナの人々は苦難と貧しさを克服することが出来たのでしょうか。それはまず、彼らの上に主イエスの目が注がれていたからです。9節に「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている」と記されています。主が「知っている」と仰っているのです。私たちの苦しみ、悲しみ、困難な状況を、主が知っていてくださるのです。

 主はそれをどのように知られたというのでしょうか。それは、単なる情報としてではありません。8節に「最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方」と言われます。「最初の者にして、最後の者」というのは、初めから終わりまでずっとおられる方、歴史全体を支配しておられるお方ということです。歴史の支配者として、私たちのことを知っていてくださるのです。

 それだけではありません。「一度死んだが、また生きた方」です。肉体の死を味わわれ、そして甦られたのです。その死も、尋常なものではありませんでした。主イエスは、十字架で肉を裂き、血を流されました。イザヤ書53章3~5節の預言の通り、主イエスが御自分の体で私たちの痛みを負い、病を知られ、そして死なれたのです。

 私たちの苦難を知り、貧しさを知っておられる主イエスが、冒頭の言葉で「受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない」と語られました。「恐れてはいけない」というのは、私たちが苦難を恐れているからです。「恐れるな」というのは、聖書の中で繰り返し語られるメッセージです。

 「恐れてはいけない」と言われるのは、そう言われる主イエスが、常に私たちと共にいてくださるからです。怖がって泣いている子どもをあやす母親のような、不安で顔を覗き込む子どもたちの前で毅然としている父親のような、平安と希望をお与え下さる主イエスの言葉です。

 スミルナの教会は、信仰に堅く立って試練に立ち向かい、勝利することが出来ました。ドミティアヌスの時代に、教会は信徒の数を3倍にしたという記録もあるそうです。ということは、試練にじっと耐えた、じっと我慢の子であったということではありません。むしろ迫害に毅然と立ち向かい、大胆に主イエスの福音を告げ知らせたのです。

 ところで、スミルナとは没薬という意味です。没薬は、ミルラというカンラン科の潅木の樹幹から滲み出る黄色の樹液を乾燥させて作ります。できあがった没薬を砕き、磨り潰します。すると素晴らしい薫りを放つ没薬になるそうです。そして、良い香りを放つミルラの粉は、没薬として葬りのときに用いられます。

 これは、私たちのことを語っているのではないでしょうか。私たちの中に強い圧迫を感じている人、プレッシャーに押し潰されそうになっている人はいないでしょうか。粉々に打ち砕かれたように感じている人はいないでしょうか。あるいは、死に対する恐れのようなものを感じている人もいるかもしれません。

 なぜ、そのような苦しみを味わわなければならないのでしょうか。どうして神は、そこからすぐに救い出して下さらないのでしょうか。その理由のすべてを知ることは出来ませんが、一つ大切なこととして、私たちがよい香りを放つためであるということが示されます。

 第一ペトロ書5章6節に「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」という御言葉があります。神の強い腕で無理やり頭を抑えられるということです。しかし、それを神の御手の業と信じて、抵抗しないで自らを委ねましょう。神がその御手をもって私たちを高く挙げてくださるからです。

 主よ、黙示録の御言葉を通して、初代のキリスト者がどのような境遇におかれていたか、そこでいかに戦い、勝利したかを学ぶことが出来ます。私たちも主の御言葉に固く留まり、苦難を恐れず命の冠を授けられる勝利者とならせてください。 アーメン



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