風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2017年05月

5月28日(日) ヘブライ書11章

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」 ヘブライ人への手紙11章6節

 新共同訳聖書は11章全体を一つの段落として、「信仰」という小見出しをつけています。

 1節に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります。この言葉を聴いて、何を思いますか。私はこれまで、自分の信念をしっかり持てば、望んでいることはなんでも実現すると解釈していました。実現しないのは、自分の信念が弱いから、疑いながら信ずるからだと考えていたわけです。

 確かに、信念をしっかり持って最後まで励むなら、実現出来ないことはないかも知れません。少々問題が起こったくらいで信念が揺らぐようなら、何もなし得ないでしょう。だから、何事でもはっきりと目標を定め、実現した姿を思い描いて積極的に進もう、否定的な言葉は口にすまいということになります。いわゆる積極思考、肯定的思考ということです。

 こうした考え方が間違っているとは思いません。むしろ、この世で何かを成し遂げた人々は、多少なりともこのような考え方を持っておられたことでしょう。ただ、1節の御言葉は、そのような「信念」について語っているのではなく、「信仰」を語っているのです。

 信仰の対象は、私たちが実現を望んでいる「事柄」や、その実現を目にしていない「事実」などではありません。私たちの信仰の対象は、主なる神であり、神の独り子イエス・キリストです。ヨハネ福音書14章1節に「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と主イエスが語られています。

 であれば、「望んでいる事柄」というのは、主ご自身が望んでおられる事柄ということになるのではないでしょうか。すると、その実現を約束された主なる神の御言葉を信じなさい、まだ実現していなくても、時が来れば実現する神の御言葉を信じて祈り待ちなさいということになりますね。

 著者がここで語っている、イエス・キリストを信じる信仰において「望んでいる事柄」、「まだ見ていない事実」というのは、私たちの救いの完成のためにキリストが再臨されることであり(9章28節)、天の故郷に迎え入れられることです(16節)。

 私たちがキリストの再臨を待ち望むのは、それによって私たちの救いが完成されて神の子として御国に迎えられ、主なる神と相見えること、主と親しく交わることが出来るからです。神はそのような信仰を喜ばれます。

 それが、冒頭の言葉(6節)で語られています。神が喜ばれるのは、「神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であること」を信じる信仰です。神は、自分の願望の実現を求める者たちにではなく、神ご自身を求める者たちに報いてくださるお方なのです。

 無論、私たちは自分たちの願いの実現を求めて神に祈ります。願いを適えていただきたいと求めます。そのときに、私たちが実現を疑わずに願うから、真剣に熱心に願うから、それが適えられるということではないのです。繰り返しますが、神が喜ばれるのは、私たちが神ご自身を求めて神に近づくこと、わたしたちに良いものをお与えくださる神を信頼することです。

 主イエスが祈りについて、「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」と語られました(マタイ福音書6章7,8節)。

 だから、祈らなくて良いということではありません。そうではなく、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(同6章33節)ということです。私たちの必要をことごとくご存知の主を信頼して自分の願いや問題を明け渡し、その主との交わりを喜び、楽しむことをまず求めよと言われているのです。

 4節以下に、アベルをはじめ、信仰者として例示される者の名前が列挙されます。その中で、一番大きく扱われているのが、信仰の父アブラハムです。アブラハムは「信仰によって、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」(8節)と言われます。

 そしてアブラハムは、イサクやヤコブ(9節)、サラも含め(11節)、「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」(16節)と言われます。アブラハムが望んでいたのは、カナンの地ではなく、天において神と共に住むことだったので、それで彼は、神の召しの言葉に服従して、行き先も知らずに出発したと言われるわけです。

 神と神の御言葉に信頼していたからです。そのことが、「神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません」(16節)と言われて、それが神の喜ばれる信仰であることを示しています。

 主イエスは、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13章34節ほか)と言われました。そう命じられているのは、主がそれを望んでおられるからであり、それを行うことが、私たちの使命だからです。

 私たちも主を慕い求め、愛そのものであられる主イエスを心に迎えましょう。主との親しい交わりの内にいつも身を置かせていただきましょう。私たちの内におられる聖霊を通して、心に神の愛を注いでいただきましょう。神の御国は、互いに愛し合う愛に満ち溢れているところなのです。

 主よ、絶えずあなたを慕い求め、あなたの教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ幸いな人とならせてください。命の御言葉の流れの側から離れることがありませんように。そこを離れては何をすることも出来ず、風に吹き飛ばされるもみ殻のように、裁きに堪えないからです。そうではなく、御言葉に従って神の愛に生きる者として頂くことができますように。 アーメン





5月28日(日)主日礼拝説教

5月28日(日)主日礼拝に、教会員14名、来賓10名(新来会者1名、子ども3名を含む)がおいでになりました。感謝!
礼拝後、信徒会を行いました。


主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。
説教 「悪魔の誘惑」
聖書 ルカ福音書4章1~13節


教会の公式サイトを更新しました。
①「礼拝説教」に礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」「フォトレポート」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。
URL https://shizuoka-baptist.jimdo.com/


御覧ください。

5月28日(日)主日礼拝案内

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5月28日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、ローマ書から聖書の学びと交わりをしています。

主日礼拝を10時半から行います。
礼拝では、ルカ福音書4章1~13節から「悪魔の誘惑」と題して説教を頂きます。

礼拝後、信徒会を行います。

 

5月27日(土) ヘブライ書10章

「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」 ヘブライ人への手紙10章35,36節

 1節に「律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません」と言います。罪過の償いはできても、罪の性質を取り除き、清めることが出来ないので、毎年、贖いのいけにえが必要になるというのです。

 そこで神は、キリストを罪を贖う供え物とし、この「唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさった」(14節)のです。「聖なる者」とは、神が選んだ者、神のものとされた人という意味であり、イエス・キリストを信じる信仰によって救いの恵みに与った者を指しています。

 キリストの贖いにより、私たちの罪が赦され、神の子とされる恵みに与ったのです。私たちが御子キリストを信じたとき、私たちの心にキリストが入って来られました。それが、「わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思い鬼それを書きつけよう」(16節)という御言葉が示していることです。

 御子イエスは「インマヌエル」(「神は我々と共におられる」の意)と呼ばれるお方です(マタイ福音書1章23節)。だから、いつも私たちは主イエスと交わりを持つことが出来ます。「イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(20節)という言葉は、そのことを言っています。

 イエスが十字架の上で息を引き取られたとき、神殿の至聖所と聖所を隔てていた幕が真二つに裂けました(マルコ福音書15章38節など)。それは、キリストの死によって聖と俗とを隔てていた壁が取り除かれたことを示します。それにより、主イエスを信じる者はだれでも聖所に入り(19節)、神の恵みに与ることが出来るように新しい生きた道が開かれたのです。

 それはまた、神が私たちに近づき、私たちと共にいてくださるという恵みが与えられたということでもあるわけです。私たちが意識して神に近づくときだけでなく、神は私たちと24時間、365日、いつでもどこでも共にいて、私たちを守り導いてくださるということです。
 
 それで、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(22節)、「公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう」(23節)、「互いに愛と善行に励むように心がけ」(24節)ましょうと勧めています。ここに、いつまでも残る偉大な賜物である「信仰・希望・愛」(第一コリント書13章13節)が、具体的な勧告の言葉として表現されています。

 これは、大胆に神に近づいて礼拝することが出来るように、神が信仰、希望、愛の賜物をくださると読むことも出来ます。これが、冒頭の言葉(35,36節)でいう、「この確信には大きな報いがあります」という内容でしょう。

 永遠に残る偉大な賜物が与えられるということは、永遠の命に与るということです。永遠に神との交わりに生きる者とされることです。そして、その交わりの中に、私たちの愛する神の家族、教会の兄弟姉妹もいます。私たち神の家族の交わりも、主イエスにあって永遠のものなのです。

 その交わりの完成のため、救いの完成のために、キリストが再びおいでになります。それまでの間、忠実に信仰に励んでまいりましょう。キリストの再臨よりも、私たちが召されるほうが早いかもしれません。いずれにせよ、「死に至るまで忠実であれ」(ヨハネ黙示録2章10節)ということです。

 私たちが主に忠実に仕えようとするとき、忍耐が必要だと言われます。信仰が試されます。それは、私たちがすぐに見えるもの、身の回りの環境に目を移してしまうからです。しっかりと主に目を留め、主の御言葉に耳を傾け、一歩一歩着実に歩み続けましょう。
 
 主よ、 今日も御言葉の恵みに与り、憐れみ深い御心の一端に触れさせてくださって、有り難うございます。導きのまま憚らず大胆に御前に近づき、聖霊に満たされ、心からの賛美をささげさせてください。御言葉をいただくことを喜びとし、聴き従うことを楽しみとすることが出来ますように。 アーメン




5月26日(金) ヘブライ書9章

「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」 ヘブライ人への手紙9章28節

 1節以下の段落に「地上の聖所と天の聖所」という小見出しがつけられています。前半(1~10節)に地上の聖所とされる旧約の規定が記されています。そして11節以下に、キリストの大祭司なる働きが記されています。

 15節に「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです」とあります。「こういうわけで」とは、「御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた」(12節)ということでしょう。

 16節以下に「遺言」という言葉が出て来ますが、実はこれは、15節の「契約」と同じ「ディアセーケー」という言葉です。文脈から「契約」と「遺言」とを訳し分けているわけです。「遺言」が、遺言者の死によって成立する「契約」であるということです(16節)。

 もしかすると、「ディアセーケー」という言葉の成り立ちから、「遺言」という意味が入ってきたのかもしれません。というのは、「ディア」は「~を通して(through)」、「セーケー」には「墓(grave)」という意味があります。「墓を通して」ということで、死によって効力を発揮するものとして、「契約」また「遺言」という意味になったということなのでしょう。

 いずれにせよ、著者は新しい契約が、キリストの血が流され、死なれることによって正式に締結されたことを、「遺言」という意味を引き合いに出して示しているのです。聖書は、神との契約書(古い契約の書と新しい契約の書からなる)です。

 古い契約は動物の死によって成立したのですが、新しい契約は、神の御子キリストの死によって成立しました。つまり、新しい契約書は、キリストにより、私たちへの遺言として記されているということになります。何が言い遺されているのか、しっかりと読む必要があります。

 特に、「遺言」で連想されるのは、遺産相続です。ヘブライ書では、「受け継ぐ」ものとして、「救いを受け継ぐ」(1章14節)、「約束されたものを受け継ぐ」(6章12,17節)と記しており、そして15節では「既に約束されている永遠の財産」と言われています。

 ということは、キリストが死なれて、その遺産を相続する者に与えられるのは、キリストの血の贖いによる罪の赦しと救い、そして、キリストの持っておられた神の子たる身分や力(ヨハネ福音書1章12節)、そして永遠の命(同3章16節など)だと言ってよいでしょう。

 私たちは、神の相続人となる権利も資格も持っていませんでした。キリストが私たちのために死んでくださったお蔭で、その恵みに与りました。全く一方的な、無条件の恵みです。そのことを思うとき、感謝のほかありません。

 契約の成立に「血」が用いられたことから(20節、出エジプト記24章8節)、すべてのものが血で清められ、血を流すことなしには罪の赦しは有り得ないと(22節)、血の働きを解しています。そこから次の段落へ議論が引き継がれ、展開されて行きます。

 地上のものは「天にあるものの写し」で、動物の血をもって清める必要があることから、天にあるものは、さらにまさったいけにえで清められなければならないと言い(23節)、だから、神の御子キリストが神の御前に現れてくださったのだと説明します(24節)。

 冒頭の言葉(28節)で「キリストも」と言われているのは、27節の「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように」という言葉を受けているからです。キリストが、「多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた」のは、「人間が一度死ぬこと」と「裁きを受けること」が定まっていることと関連しているわけです。

 確かに、人間はだれでも死にます。死なない人間はいません。「ただ一度死ぬことが定まっている」ということは、二度目の人生はないということです。一度限りの人生、大切にしなければなりません。

 死の原因も様々です。勿論、病死が多いのですが、しかし、事故死や自死も、決して少なくありません。死んでおしまいということならば、死んだほうがましということにもなるかもしれませんが、死んでおしまいにならないのであれば、いかに死ぬべきかを考えておくのは、とても大切なことでしょう。それは、いかに生きるべきかをきちんと考えることだからです。

 主イエスの死は、「多くの人の罪を負うために身を献げる」ことでした。4章15節などに「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」と言われるとおり、罪のない方が贖いの供え物としてご自分を献げられたのです。

 それは、罪ある人間に対する神の深い愛、憐れみです。そのように死なれたということは、主イエスの生前の生き方と無関係ではありません。主イエスの生涯は、人を愛し、人のために犠牲を負う生涯であり、最後に文字通り、自らの身をいけにえとして献げられたわけです。

 そして、「二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」と言われています。死後に神の裁きを受ける私たちのため、キリストが死なれ、そして、私たちに救いをもたらすために再び来られるとは、何と念の入った計らいでしょうか。キリストはその死によって救いの道を開き、そして、再臨によって救いを完成してくださるのです。

 罪赦され、そして救いに与ることが出来る保証のため、聖霊で証印を押されました(エフェソ書1章13,14節)。霊は目に見えません。ですから、証印も目には見えません。しかし、私たちが「イエスは主である」と信じていること、そう信じて主の御言葉に従って生きることにより、証印が押されていると確認することが出来ます(第一コリント書12章3節、エフェソ書1章13,14節など)。

 主を信じ、御言葉の導きに従って、自分の走るべき道程をしっかり走り通しましょう。そして、義の冠を被らせていただきましょう。
 
 主よ、私のためにキリストが死なれ、その救いの完成のために再びおいでくださること、その保証として聖霊の恵みに与っていることを、感謝致します。御子キリストが命を懸けて語って下さった遺言ともいうべき御言葉を、しっかりと聴くことが出来きますように。聴いたところに従って歩むことが出来ますように。そうして、主の御業に励むことが出来ますように。 アーメン





5月25日(木) ヘブライ書8章

「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。」 ヘブライ人への手紙8章13節

 8章全体が一つの段落で、新共同訳はここに「新しい、優れた約束の大祭司」という小見出しをつけています。

 8節以下は、旧約聖書エレミヤ書31章31~34節の引用です。8節に「新しい契約を結ぶ時が来る」という言葉があります。そのことを冒頭の言葉(13節)で「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです」と解釈して記しています。

 新しい契約があるということは、古い契約があったわけです。また、新しい契約が結ばれるということは、古い契約が破棄されるということになります。新約聖書は新しい契約が書かれている書物、旧約聖書は古い契約が記されている書物という意味です。ですが、旧約聖書の中に、既に「新しい契約を結ぶ時が来る」と預言されていたわけです。

 「契約を結ぶ」の原語は「カーラト・ブリート」です。「ブリート」が「契約」、「カーラト」が「結ぶ」と訳されています。「カーラト」は「切る」という意味です。それは、契約の際にいけにえの動物を殺し、その血によって契約を結びます。動物が裂かれ、血が流されて契約が結ばれるので、「切る」という言葉が使われるのです(創世記15章9節以下、出エジプト記24章1節以下参照)。

 また、もし契約を破るならば、いけにえの動物が裂かれたようにその身が裂かれて殺されるという罰、神の呪いが、この言葉で表現されているのです。これには、深い意味があります。

 古い契約が破棄されることについて、9節に「彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、わたしも彼らを顧みなかった」と記されています。イスラエルの民が契約を忠実に守らなかったので、神がその契約を無効にされたということです。

 契約の主文は、10節の「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」というものです(エレミヤ書31章33節、出エジプト記19章5,6節も参照)。ですから、彼らは神をおのが神とし、自らを神の民として、神に忠実に仕えることが出来なかったというわけです。

 その結果、イエスラエルの民は、神の加護を失い、バビロンに滅ぼされ、捕囚の憂き目を見なければなりませんでした。約束の地から切り離される罰を受けたのです。

 しかし、神は契約を無効にしたまま、イスラエルを放置されてはおられませんでした。「新しい契約を結ぶ時が来る」(8節)と言われるのは、そのことです。そして確かにイスラエルの民は、バビロンでの捕囚生活、奴隷生活から解放されて約束の地イスラエルの地に戻り、神殿を建て直し、国を築きなおすことが出来ました。そのことを、エズラ記、ネヘミヤ記で学ぶことができます。

 新しい契約が結ばれるためにも、いけにえの血が流されます。新しい契約の血とは、主イエスが十字架で流された血です。第一コリント書11章25節に「また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」と記されています。

 ここに「わたしの血によって立てられる新しい契約」と言われています。罪を犯した私たちの体が裂かれたのではなく、御子キリストが御自分の体をお裂きになり、私たちが血を流したのではなく、主イエスの尊い血潮が流されました。それによって新しい契約が結ばれ、主との新しい交わりが開かれたのです。

 そして、契約の言葉である神の律法を、石の板にではなく、「彼らの思いに置き、彼らの心に書きつけよう」(10節)と言われます。かつて、十戒の言葉は石の板に書かれました、けれども今度は、契約の言葉が思いの中に置かれ、心に書きつけられると言います。それは、文字が頭の中に書きこまれるということではありません。御子キリストが信じる者の心の内に住まれるということです。

 古い契約に基づく律法を行うことによっては、神の国に入ることは出来ませんでした。そこで神は、主イエスを信じる信仰によって、神の国に入る道を開いてくださったのです。主イエスの血によって結ばれた新しい契約は、様々な点で古い契約よりも良いものであることが分かります。

 このことで、ヨハネ福音書2章の「カナでの婚礼」の記事を思い出しました。披露宴が続く中、ぶどう酒がなくなって、それで、主イエスが新しいぶどう酒を用意されるという記事です。しかも、そのぶどう酒は、最初に花婿が用意していたものよりも良いものだったと言われていました。主に問題を打ち明け、主を信頼してその導きに従うとき、主は後から良いものを用意してくださったのです。

 主イエスがその際、召し使いたちに水を汲ませました。その水がめは、ユダヤ人の清めに用いる石の水がめとありました。それは、古い定めに従って手を洗い、体を清めるためのものです。その水がめの水がぶどう酒に変えられました。

 このことをヨハネは、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光をあらわされた」と記しています(ヨハネ福音書2章11節)。しるしとは、神である証拠ということです。確かに、水をぶどう酒に変えるということは、人間には出来ませんから、主イエスが神である証拠ということになります。

 そして、水がぶどう酒になったということは、古い契約を新しい契約に変えたということでもあります。水は古い契約に基づくものであり、そしてぶどう酒は、主の晩餐式で語られるとおり、新しい契約を象徴しているからです。

 さらに、御子キリストは律法や預言者を廃棄するためではなく、完成するために来られたお方であるということも(マタイ福音書5章17節参照)、水がめの縁まで一杯に水を汲ませたということで示しています(ヨハネ福音書2章7節)。

 私たちの人生に、宴会の途中でぶどう酒がなくなるというような計算が狂ってしまう出来事、考えてもいなかったような出来事に遭遇することがあります。近年の大規模災害、原発事故などでその人生に決定的な影響を受けた方がどれほどおられることでしょうか。そして、その理由を説明できる人はいないでしょう。

 けれども、主は後から良いものを出してくださると信じます。苦難は決して良いものではありません。でも、苦しみにあったことは私にとって良いことだった、あの経験をしてよかったと言える日が来るように祈ります。まず被災された方々をはじめ、多くの人々の平安と慰めを祈ります。

 私たちの心の内におられる主は、悲しんでいる人々、苦しんでいる人々の心の呻きを聞いてくださいます。そして、永遠の大祭司として、必ずその呻きに応えてくださると信じます。主なる神は私たちを愛し、万事が益となるよう必ず働いてくださいます。

 主よ、あなたは世界のすべての民に救いの喜びをお与えくださいました。救いの恵みを味わう喜びは、言葉では表現出来ません。信仰によって主が私たちの内にお住まいくださり、その贖いによって罪赦され、神の子となり、命に与った恵みを心から感謝します。いつも、恵みの光のうちを主と共に歩ませてください。 アーメン






5月24日(水) ヘブライ書7章

「そこでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」 ヘブライ人への手紙7章25節

 7章全体が一つの段落で、新共同訳はそれに「メルキゼデクの祭司職」という小見出しをつけています。5章6,10節に記されていたメルキゼデクについて、ここに詳しく説明されています。

 メルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でした(1節)。メルキゼデクとは、正義の王という意味の名前です。そして彼は、サレムの王です。サレムとはエルサレムのことと考えられています。また、サレムはシャロームと同根の言葉で、平和を意味しますので、平和の王という意味であると言われるのです(2節)。

 メルキゼデクは、何の前ぶれもなく、歴史の舞台に突然登場してきました(創世記14章17節以下)。3節で「父もなく、母もなく、系図もなく云々」と言われるのは、メルキゼデクの出自について、創世記の記事では何も分からないということでしょう。

 そして、いと高き神の祭司として、アブラム(=アブラハム)をパンとぶどう酒でもてなし(同18節)、「天地の造り主、いと高き神に、アブラムは祝福されますように。的をあなたの手に渡された、いと高き神がたたえられますように」(同19,20節)といって祝福しました。

 「神の子に似た者であって、永遠に祭司です」(2節)と言われていますが、これは創世記の記事で裏付けることが出来ません。詩編110編4節に「主は誓い、思い返されることはない。『わたしの言葉に従って、あなたはとこしえの祭司メルキゼデク』」という言葉があり、ここから、メルキゼデクが永遠に祭司であるという表現が出てきたのでしょう。

 ただし、これはメルキゼデクが永遠の祭司であると言っているのではありません。メルキゼデクと同じような祭司が立てられて、その職務は永遠に続くという意味です。

 主イエスはダビデの子孫ですから、ユダ部族に連なります(14節)。祭司職は、レビ部族のアロンの子孫に与えられた占有の職務でしたので、制度に変更がなければ、キリストが大祭司となることはあり得ません(11節)。

 しかし、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」(17節)と詩編の作者が記していることは、レビの子孫という血筋によらない祭司が立てられるということを指します(15,16節)。

 かつて、祭司や王がその職務につくとき、頭に任職の油が注がれました。この油は、聖霊を象徴しており、油が注がれた者に神の知恵と力が授けられることを表します。この油が注がれた人のことを、メシアと言います。メシアをギリシア語に訳すと、キリストです。主イエスは、神に油注がれたキリスト、義の王にして平和の王、またいと高き神の祭司なのです。

 もう一つ、メルキゼデクがアブラハムを祝福するために、「ぶどう酒とパンを持って来た」(創世記14章18節)というのも意味深長です。ここに既に、キリストの贖いの業が予め表されているのではないでしょうか。

 冒頭の言葉(25節)で「この方は常に生きていて」とは、キリストが神によって「永遠に祭司」とされたことを指しています(21節、5章6節など)。詩編110編のメシア預言で、「とこしえの祭司メルキゼデク」(110編4節)を、キリスト・イエスのことと解釈したわけです。

 その解釈が生まれたのは、キリストは、死んで葬られた後、3日目に復活され(第一コリント書15章4節)、弟子たちの見ている前で天に上げられ(ルカ福音書24章51節)、神の右の座に着かれた(1章3節、8章1節)という真実に基づいています。

 祭司の務めは、神にいけにえを献げて民のための執り成しをすることです(5章1,2節、4章14,15節)。祭司は、先ず自分の罪のためにいけにえを献げなければなりませんが(5章3節、8章27節)、キリストは神の御子であり、人間となられてあらゆる試練に遭われましたが、罪は犯されなかったので(4章15節、第二コリント書5章21節など)、その必要がありません。

 さらに、キリストが執り成しのために献げられたのは、ご自分の命です。十字架でご自分の肉を裂き、血を流されたのです。この贖いと執り成しの業により、「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(コロサイ書2章13,14節)。

 ですから、キリストは、「ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」と言われているのです。この王であり祭司であられるキリストが、贖いの御業を成し遂げて復活され、今も生きて私たちのために執り成し、万事が益となるように導き、恵みを与えていてくださいます。

 御言葉と祈りを通してはばかることなく大胆に神に近づき、信仰の恵みを豊かに頂きましょう。
 
 主よ、信仰に基づく私たちの歩みを豊かに祝福してください。御言葉の学びと祈りに励み、伝道によって実を結び、感謝と賛美溢れる教会を形成することが出来ますように。私たちを執り成して、絶えず命の道、真理の道に導いてくださる主に感謝します。 アーメン




5月23日(火) ヘブライ書6章

「だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々のバプテスマについての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。」 ヘブライ人への手紙6章1,2節

 5章11節から6章12節までの段落に、「一人前のキリスト者の生活」という小見出しがつけられています。

 冒頭の言葉(1,2節)の最初のところに、「だからわたしたちは」とあります。「だから」とは、前の文章を受けて語られる言葉です。

 前の文章で5章11節以下に「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです」(5章11,12節)と書かれています。

 それを受けて、「だからわたしたちは」(1節)というのです。ここに「死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々のバプテスマについての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教え」と、学ぶべき項目が列挙されています。

 ということは、これらをしっかりと学ぶ必要があります。けれども、「基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」といいます。成熟した信徒となるために、第2段階に進みなさいということです。

 第2段階と言いましたが、それはどのような内容なのでしょうか。先ほど、5章11節を見ました。そこに、「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません」と記されています。「このことについては」とは、その前の段落、即ち、4章14節以下の「偉大な大祭司イエス」についてということでしょう。

 イザヤ書50章10節に「お前たちのうちにいるであろうか、主を恐れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼し、その神を支えとする者が」とあります。順風のときだけでなく、逆境の中にいるとき、闇の中、光のない中を歩くようなときも、主の御言葉に従って歩む者がいるだろうかと、イザヤはここに問うています。

 この信仰について、本当に学ばせて頂きたい、少しずつでも成長させて頂きたいと思います。謙遜して、「いつまでたっても信仰が成長しなくて」と言われる方がありますけれども、実はそれは、謙遜でもなんでもありません。主なる神は、成熟目指して進みなさいと言われているのであり、そのようになろうとしないのは不従順で、それは神に喜ばれないことだということを、心に留めるべきです。

 成熟目指して進まなければ、「堕落した者」(6節)となってしまいます。4節以下に「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神の素晴らしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち返らせることはできません。神の子を自分の手であらためて十字架につけ、侮辱する者だからです」と記されています。

 ここで、「光に照らされ」は、「光を与える」(フォーティゾー)という動詞の受身形の過去分詞が用いられています。これは、10章32節と共に、キリストによる救いの認識だけでなく、バプテスマを受けたことをも表しています(第二コリント書4章6節、第一ペトロ書2章9節参照)。「一度」という言葉も、それを指し示しています。

 バプテスマを受けてキリスト者とされたことで、天来の様々な恵みをいただきながら、「堕落した者」となる、その恵みを無価値なものであるかのように表明する生き方をするならば、それ以上の値の高いものを提供することは出来ず、その人をもう一度方向転換させることは極めて困難です。

 神は私たちを、キリストの贖いによってよい畑にしてくださいました。恵みの雨を受け、御言葉の種が芽を出して大きく成長し、収穫を得るならば、神の祝福を受けます(7節)。けれども、御言葉に聴き従わず、自分の思いに任せて生活をするならば、いつの間にか、茨やアザミが生えてきます(8節)。

 主イエスが「種まきのたとえ」(マルコ福音書4章1節以下)で語られたとおり、茨の中に落ちた種は、茨が延びて覆い塞いでしまうので、実を結ぶことが出来ません(同7節)。そして、茨やあざみだらけの畑は、役に立たないため、呪われ、ついには焼かれてしまうのです(8節)。

 けれども、そうは言いながら、ここで著者が本当に語りたいのは、堕落した者を神が裁かれる、再び悔い改めて神に立ち返ることは出来ない、ということではありません。

 9節に「しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています」と言われます。神は実に憐れみに富み、慰めに満ちたお方です。

 10節に「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません」と記されています。

 マタイ福音書10章42節にも、「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と語られています。神のための労苦、主の僕を励ました水一杯を、神はお忘れにならない、報いから漏れることはないと言われるのです。

 だからこそ、怠け者にならず、恵みの主を信頼して信仰に固く立とう、最後まで希望をもって主に仕えよう、と勧めるのです。パウロも、「主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(第一コリント書15章58節)と語っていました。

 主は完全なお方であられるので、主に従順なすべての人を、信仰の成熟へとお導きくださいます。主に信頼し、御言葉に従って目標めざし、前進しましょう。

 主よ、私たちが信仰の基本を身に着け、信仰の深みへと主と共に漕ぎ出し、その恵みを豊かに味わうことが出来ますように。信仰の導き手であり、完成者であられる主イエスに倣い、成熟を目指して進むことが出来ますように。 アーメン 



5月22日(月) ヘブライ書5章

「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」 ヘブライ人への手紙5章7節

 新共同訳聖書は、4章14節から5章10節までの段落に「偉大な大祭司イエス」という小見出しをつけています。大祭司は、祭司のリーダーとして選び立てられ、神に仕える務めを行います。その際、大祭司に求められるのは、人の弱さに同情出来ることです(4章15節)。そのため、同じように試練に遭い、苦しみを共にするのです。

 自分で大祭司の職につくことは出来ません。神に召されてその任務を受けるのです(4節)。「アロン」(4節)は、エジプトからイスラエルの民を導き出すときに、モーセに代わって語り、執り成すために神から選ばれた最初の祭司で(出エジプト記4章14節以下)、その後、祭司はアロンの家系から選ばれるようになりました(レビ記1章47節以下、3章1節以下など参照)。

 彼らは、「自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです」(2節)。「その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません」(3節)。

 主イエスも自ら大祭司となられたのではありません。神の御子ならば必ず大祭司になるというものでもありません。神が御子イエスを大祭司とされたのです(5節)。そのことを、詩編110編4節を引用しながら「神は他の箇所で、『あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である』と言われています」(6節)と記しています。

 「メルキゼデクと同じような祭司」ということについては、7章に詳しく説明されていますが、神が御子を「永遠に、メルキゼデクと同じような祭司」として選ばれたのです。

 そして、冒頭の言葉(7節)のとおり、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」と言います。

 これは、ゲッセマネの園での祈りに示された主イエスの祈りの姿、態度のことを指しています(マルコ福音書14章32節以下など)。「激しい叫び声をあげ」、「聞き入れられました」という表現は、詩編22編25節から来ています。これは、ゲッセマネの祈りのときだけでなく、生涯を通じての主イエスの祈りの姿だったのではないかと、今日の箇所から教えられます。

 「涙を流しながら」というのは、ベタニア村のマルタとマリアの兄弟ラザロの死に際し、「イエスは涙を流された」(ヨハネ福音書11章35節)と記されています。死を悼むマルタとマリアのために、そして、死ぬべき運命にある私たちのために、人間を深く愛して、涙されたわけです。

 また、十字架にかかられるためにエルサレムに来られたとき、その都のために泣いて、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。しかし今は、それがお前に見えない」(ルカ福音書19章41,42節)と言われました。

 これは、エルサレムがローマによって壊滅させられることを思っての言葉でしょう。平和への道をわきまえず、神の訪れをわきまえないエルサレムのために泣き、そして人のすべての罪を担って十字架にかかってくださったのです。

 「畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」というのは、もちろん杯が取り除けられ、苦難を受けずに済んだということではありません。「御心に適うことが行われますように」という祈りが聞き入れられたということです。どんな苦難があってもそれが御心ならば甘んじて受けるという祈りを、神を畏れ敬う態度だというわけです。

 続く8節で、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」と言います(2章10節も参照)。神の御子として天に留まっておられたならば、苦しみを味わうことはなかったでしょう。

 しかし、御子は神の命に従い、人間となってこの世に来られ、私たちの身代わりに十字架で死なれました。それ以外に、罪深い人間を救う道がなかったからです。本来受ける必要のない、しかも神に呪われて捨てられるという大変な苦しみを、御自分の身に負われました。

 その苦痛にもかかわらず神に従順されました。それが、「苦しみによって従順を学ばれました」という表現になっているわけです。この言葉から、従順というのは、苦しみを通らなければ知ることの出来ない恵みであると教えられます。

 かくて、神を畏れ敬う態度の故に、また苦しみによって従順を学ばれたが故に偉大な大祭司となられた主イエスの執り成しに支えられ、守られていることを思い、その憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づきましょう(4章16節)。

 主よ、御子イエスが私たちの罪の代価を支払うために十字架に死なれただけでなく、天にあって私たちの永遠の大祭司として執り成し、助けをお与えくださることを感謝します。はばからず、大胆に御前に近づきます。常に私たちを命の道に導き、そこから離れることがないように、そして主の使命に応えて生きることが出来るように、守り導いてください。 アーメン





5月21日(日) ヘブライ書4章

「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。」 ヘブライ人への手紙4章2節

 3章7節以下4章13節までの段落に、新共同訳は「神の民の安息」という小見出しをつけています。この段落の冒頭(3章7~11節)に、詩編95編7~11節が引用され、3章7,8節の「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」という言葉が、この段落のテーマとなっています。

 冒頭の言葉(2節)で「彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした」と言われていますが、これは、「神の安息にあずかる約束」(1節)が無駄になったということです。

 イスラエルの民にとって、「神の安息にあずかる約束」とは、約束の地カナンに安住することを意味します(申命記12章9節、詩編95編11節参照)。彼らは、それを嬉しく聞いたと思います。そして、神がその御言葉を実現してくださることを楽しみにしていたと思います。

 しかし、苦難や試練が襲ってきたとき、それに耐え難くなって指導者に向かってつぶやき、自分でそこから逃れようとしてしまったのです。イスラエルの民は、葦の海の奇跡(出エジプト記14章)によってエジプトを脱出した直後から、水がない、パンがない、肉が食べたいなどと不平を言っています(同15章22節以下、16章2節以下、17章1節以下、民数記11章4節以下など)。

 特に、この段落で問題にされている、イスラエルの民が心を頑なにした結果、約束された安息に入れなかった(3章11節、17~19節)というのは、民数記13,14章の記事のことでしょう。

 主の「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい」(民数記13章1節)という言葉に従い、モーセは12部族の長である人々をカナンの地の偵察に遣わします(同3節以下)。

 偵察から戻って来た長たちは、「我々が偵察してきた土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。そこで我々が見たのは皆、巨人だった。そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がイナゴのように見えたし、彼らの目にもそう見えたに違いない」(同32,33節)と言いました。

 ただ一人、ユダ族の長エフネの子カレブだけが、「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます」(同30節)と進言しました。

 その報告を受けて、イスラエルの民は安息の地を与えるという主の約束の言葉やカレブの進言を退け、「どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか」(同14章3節)と不平を言い、「エジプトに引き返したほうがましだ」(同3節)、「さあ、一人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう」(同4節)と言い出しました。

 そのような彼らに対し、これまで忍耐と寛容をもって導いてこられた神が、「わたしの栄光、わたしがエジプトと荒れ野で行ったしるしを見ながら、十度もわたしを試み、わたしの声に聴き従わなかった者はだれ一人として、わたしが彼らの先祖に誓った土地を見ることはない」(同22,23節)と語られました。だから、彼らの聞いた言葉が、彼らと、信仰によって結びつかなかったと言われるのです。

 「結びつく」(シュンケランヌミ)というのは、「一緒に」(シュン)と「混ぜる」(ケランヌミ)の合成語で、単に混ぜ合わせるというのではなく、一種の化学反応によって、質の違うものが出来るという意味合いを持っています。

 この箇所では、神の言葉と、それを聞いた人々とが、信仰という触媒によって結びついていれば、彼らの内に全く違った反応が起こり、約束の安息に入れたということになるわけです。そうならなかったのは、神の言葉と人々を結びつける「信仰」が働かなかったからです。

 これは決して、他人事ではありません。だからこそ、1節のごとく、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょうと警告されているのです。それは、その心配が小さいからではなく、むしろ、だれもがそうなってしまいがちだからです。だれが苦難の前に、不安なく立つことが出来るでしょうか。

 あらためて考えるまでもなく、思うに任せない出来事に出会うと、それがどんなに小さな問題であっても、胃が痛みます。眠れない夜を過ごすこともあります。そんな時、自分の信仰のなさを思い知らされます。お前は何を信じているのか、誰に依り頼んでいるのか、と叱られている思いがします。それなら、お前を安息に入れはしないと言われれば、反論できません。

 「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」(マタイ福音書8章26節)と主がペトロたちを叱責された言葉を思いつつ、「いいえ、怖がりません。主を信じています」と強がるのではなく、ありのまま素直に、「怖いです、助けてください」と主に求めましょう。

 弱いからこそ、しっかりと一人で立てないからこそ、助けを叫び求めるのです。主にすがるのです。御言葉に留まらせてくださいと願うのです。信仰のないペトロを水の中から引き上げ、嵐の海を凪に変えてくださる主に信頼しているからです。

 子どもが親の顔が見えなくて泣くのは、不安で悲しいからですが、しかしそれは、絶望しているのではなく、泣いていれば、きっと助けに来てくれると信じているからでしょう。絶望している者は、泣くことさえしないでしょう。

 泣きさえすればよいとは思いませんが、でも、泣けることも幸せだと思います。私たちの涙を皮袋に蓄え(詩編56編9節)、その一粒一粒の思いをしっかりと受け止めてくださる主がおられることは、本当にありがたい、感謝なことです。

 心を頑なにせず、愛の主の御手の守りと導きを信じ、信仰が強められて主の支えの中で御言葉に立たせていただきましょう。そして、主の約束が成就する恵みに与らせていただきましょう。

 主よ、あなたの福音の御言葉、贖いの御業、恵みの出来事を無益なものとすることがありませんように。たえず、私たちの心を探り、御前にふさわしくない思いがないか探ってください。弱い私たちを顧み、憐れみ、助けてください。御言葉によって正しい道に導いてください。主を信頼する信仰に立つことが出来ますように。 アーメン




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