風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2017年05月

5月31日(水) ヤコブ書1章

「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」 ヤコブの手紙1章21節

 ヤコブの手紙の著者は、ゼベダイの子ヤコブではなく、主イエスの弟、肉親のヤコブであると考えられています。主の兄弟ヤコブは、主イエスの生前にはクリスチャンではありませんでした。彼が信仰に入ったのは、復活された主イエスに会ったからでしょう(第一コリント書15章7節)。後に、ゼベダイの子ヤコブが殉教した後、選ばれて教会の使徒となりました(使徒言行録12章2,17節)。

 ただ、この手紙は豊かな語彙を持つギリシア語の文体を持っていることから、パレスティナを一歩も出たことがない主の兄弟ヤコブのものとするのは難しいというのが大方の見方で、恐らく日常的にギリシア語を使うパレスティナ外に住むユダヤ人キリスト者の作であろうと考えられます。

 本書は、パウロの信仰義認の考え方を誤解し、信仰による行いが軽んじられ始めた時代に、これを批判するために書かれたと考えられることから、1世紀末から二世紀初め頃に執筆されたと思われます。執筆場所はパレスティナないしその周辺でしょう。

 この手紙は、最初(1章)と最後(5章)に「試練(誘惑)と忍耐」についての教えがあり、これがこの手紙の大きなテーマであることが分かります。

 12節に「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」と記されていますが、この忍耐というのは、じっと我慢の子でいるという感じではありません。13節に「誘惑」という言葉が出てきますが、12節の「試練」と同じ言葉です。そして、神は人を誘惑されない(13節)、人を誘惑するのは、その人自身の欲望である(14節)、欲望が罪を行わせ、そして死に至らせる(15節)と言われています。

 それに対して、神は良いものをくださる(17節)、私たちクリスチャンは真理の言葉によって新しく生まれた者だ(18節)と言われています。つまり、おのが欲に引かれて罪を犯す誘惑に陥り、死に至るのではなく、神の真理の御言葉によって試練に打ち勝ち、約束されている命の冠をいただきなさいというわけです。

 19節で「聞くに早く、話すに遅く」というのは、昔からよくある格言です。箴言19章16節でも「口数が多ければ罪は避け得ない、唇を制すれば成功する」と言われています。

 人はどうも、自分の言いたいことだけ言って、他人の言うことは聞かないという傾向を持っているようです。話す前によく聞きなさい。相手の話をよく聞き、理解しなければ、よい交わりは出来ないということですね。

 ヤコブはこの格言に、「怒るのに遅いようにしなさい」を付け加えました。そして、「人の怒りは神の義を実現しないからです」(20節)と説明しています。ここで「神の義」は「救い」と言い換えてもよいでしょう。人の怒りが神の救いをもたらすことなど、あり得ません。

 ヤコブが「聞くにの早く、話すにの遅く」の格言に「怒るのに遅いように」を付け加えたのは、相手の話をよく聞き、よい交わりを築くことを妨げる最大の要因が、「人の怒り」であると考えているからではないでしょうか。「怒り」はヤコブにとって、冒頭の言葉(21節)で言うとおり「あらゆる汚れやあふれるほどの悪」の現われなのです。

 ヤコブは、怒りによって耳をふさがず、相手との交わりを喜ぶ心を開くために、その悪、つまり「怒り」を素直に捨て去り、そして、「心に植えつけられた御言葉を受け入れなさい」(21節)と教えています。「捨て去れ」とは「脱ぎ捨てなさい」(アポティセーミ)という言葉です。

 「素直に」を、新共同訳は怒りを捨てることと関連させていますが、口語訳は御言葉と関連させて「素直に受け入れなさい」と訳しています。「素直」とは「柔和」(プラウテース)という言葉です。つまり、「怒り」ではなく「柔和」が心を占領するようにせよと解釈することが出来ます。

 相手の話に耳を傾けるには、柔和な心が必要だと言っているわけです。そして、心を柔和にするためには、「心に植えつけられた御言葉を受け入れる」ことです。

 主の兄弟ヤコブは、兄イエスの気が変になったということで、取り押さえに行ったことがあります(マルコ福音書3章21,31節以下)。しかし、そのヤコブが主イエスを信じて新しくされたのです。ヤコブを生まれ変わらせた主イエスの福音は、それを受け入れるすべての人に神の義を実現し、魂を救うことが出来ます。

 自分が話し、また怒る前に、救いと愛を説いて実践された主イエスの御言葉をまず聞きなさい、それがあなたを、怒りに心奪われることなく、あらゆる悪からあなたを解放し、柔和を身に着けて、何を語るべきかを教え、よい交わり、よい人間関係を築くことが出来ると説いているのです。

 朝毎に主の御前に進みましょう。御言葉に耳を傾けましょう。そして、御言葉を行う人になりましょう(22節)。聞くだけで行わない者は、忘れてしまいます(24節)。知恵に欠けた者となるのです(5節)。それは、聞いていないのと同じことなのです。

 主よ、世の中には様々な悲しみ、怒りがあります。それによって感情が害され、よい関係が損なわれてしまいます。まず、あなたの御言葉に耳を傾けることが出来ますように。心が主にある平安な喜びで満たされますように。その恵みを隣人と分かち合う知恵と力を授けてください。 アーメン





5月30日(火) ヘブライ書13章

「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないで下さい。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。」 ヘブライ人への手紙13章15,16節

 新共同訳聖書は13章に「神に喜ばれる奉仕」という小見出しがつけられています。ここには、人に親切にすること、結婚生活を重んじること、貪欲を避け、自分の持っているもので満足することなど、私たちが心して実行すべき生活の指針が羅列されています。

 4節以下に性欲と金銭欲の問題を取り上げています。性と金銭の問題を正しく管理しなければ、神に喜ばれないということです。4節に「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません、神は、淫らな者や姦淫する者を裁かれるのです」と記されていることから、当時の人々の間に、性的な混乱がいかに重大な問題であったかということを知ることが出来ます。

 10章22節に「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています」と語られているように、神の家を支配する偉大な祭司キリスト・イエスの血によって私たちの心と体が清められています。ですから、不品行や姦淫は、たんに夫婦の問題などではなくて、キリストの贖いの業を汚す行為であるということになります。

 だからこそ、「わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません」(10章26節、6章4~8節も参照)と言われるのであり、神の裁きを免れないわけです。神が、夫婦の関係を大切にせよと言われていることに心を留めるべきです。

 金銭欲も、それに負けず劣らずの大きな問題です。5節後半に「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」という言葉が記されています。これは、申命記31章6,8節からの引用です。6節に「主はわたしの助け手、わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」と記されています。これは、ギリシア語訳(70人訳)詩編118編6節からの引用です。

 これらの言葉と「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい」という勧めの御言葉は、どのように結びついているのでしょうか。「決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」という神の約束に信頼する心と、「金銭に執着する生活」が対比されていると考えればよいでしょう。

 つまり、神への信頼に立っていれば、金銭に執着する生活にはならないということです。金銭に執着するということは、自分の生活の基盤を「金銭」に代表される、目に見え、手で触れられる、形あるものの上に据えたいと考えているということです。

 形あるもので生活を保証したいと思うならば、より多くのものを手に入れたいとも思うでしょう。それが、「金銭に執着する」ということになるわけで、だから、「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て」(第一テモテ書6章10節)と言われ、また、「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ書3章5節)と告げられるわけです。

 それに対して、神が私たちの手をしっかり握って放さない、神は私たちを愛していてくださるという約束に信頼を置いているならば、6節の御言葉のとおり、あらゆる不安や恐れから解放されて、「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」と、堂々と語ることが出来るでしょう。

 勿論、私たちは小さい存在です。常に、また完全に主を信頼するというところに立ち切れません。大風が吹けば、足元が揺らぎます。心はすぐに恐れと不安に満たされます。「神様、助けてください」と叫び声を挙げます。

 しかし、私たちが神の手をつかんでいるのではなく、神が私たちの手を握っていてくださいます。怯えて泣いている私たちの傍らにいて、背をさすり、頭をなで、「畏れるな、平安があなたにあるように」と声をかけてくださるのです。その御手に触れ、その御声を聴きながら、日々を歩ませていただいています。

 そして、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(8節)。どんなときでも変わらずに、私たちを愛し、守っていてくださる方であると言われているわけです。

 そして、冒頭の言葉(15,16節)に目を留めてください。「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないで下さい。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです」と記されています。

 神に喜ばれるいけにえのひとつは、「賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実」です。賛美すること、御名をほめ歌うことが求められます。それを「絶えず神に献げましょう」と言います。ポイントは「絶えず」というところです。勿論24時間いつも歌ってばかりはいられないでしょう。それに、歌えない、歌いたくない気分のときもあります。

 以前、お彼岸に仏壇に供える梨を売っているという話を聞きました。「仏様用なし」と書いてあって、他の梨と比べてずいぶん安いので、店の人に尋ねると、全然美味しくないそうです。それでも見た目は変わらないから、仏様に上げようということに。それ、仏様は喜ぶのでしょうか? そういえば、「仏様用なし」は、「仏様、用なし」と読めます。

 私たちの主イエス様には、最もよいものを献げたいと思います。歌えないとき、歌いたくない気分のときも。私たちは気分で神を信じ、気分で礼拝しているわけではありません。神様にそのときどき、歌えないような気分のときにも、歌えないほどの苦しみ、悲しみの中でも、その中で最もよいものを神に献げたいのです。

 だからこそ、「賛美のいけにえ」というのではないかと思います。いけにえとは犠牲です。犠牲を払うのは、痛みを伴うものです。痛みなしの犠牲などありません。痛みがあるから賛美が献げられないというのではなく、痛みの中でも犠牲を払ってその時自分が持っている最高のものを神に献げる、それが「賛美のいけにえ」です。

 もう一つのいけにえが、16節の「善い行いと施し」です。「施し」の原語は「コイノニア」で、「分かち合い、交わり」という言葉です。主イエスが山上の説教(マタイ福音書5~7章)の中で、「人前で善行をしないように注意しなさい」(同6章1節)と教えられましたが。そこで取り上げられた善行の一つが、「施しをする」(2節)ことでした。

 施しをすることは、旧約から一貫して奨励されているところです(申命記10章17節以下、イザヤ書1章17節など)。これが神に喜ばれるいけにえであると言われ、犠牲を払って行いなさいと私たちに命じられていることなのです。

 施しという言葉が、分かち合い、交わりという意味であることを心に留めて、どのような人とも真実に交わることが出来るように、助け合い、支え合うことが出来るようになりたいと思います。その鍵言葉は、相手の立場に立つということです。

 相手の立場に立つことを漢字一文字で「恕(じょ)」と言います。この文字の訓読みは「恕(ゆる)す」です。相手の立場に立って物事を考え、判断する、すべてを許し受け入れる、その精神に生きることが、今ここに求められています。私たちが真実に交わり、助け合い、支え合うことを、神が喜ばれるのです。

 7節に「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」と言われています。この書簡が書かれたのは、紀元80年前後と考えられています。それは、キリスト教徒を最も激しく弾圧迫害したドミティアヌス皇帝が君臨していた時代です。

 パウロやペトロといった指導者から、その後を担う人々も次々と殉教していった時代です。その殉教者の筆頭は、主イエス・キリストです。この「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(8節)。その最期を思い、また主の僕たちの最期を思い、その信仰に倣えと勧められます。

 主なる神は、その信仰の恵みと喜びを味わうように、その信仰に生きるように、私たちを招いておられるのです。主の助けと導きを頂きながら、精一杯、主の喜ばれる奉仕、信仰のいけにえを絶えず御前に献げさせていただきましょう。

 主よ、私たちに御子キリストの命をお与えくださり、永遠の御国に生きる希望と喜びを与えていてくださることを感謝します。御言葉に信頼して歩む私たちの手を取り、導き守ってくださる恵みを感謝します。たえず、唇の実、賛美のいけにえと、施しという善行のいけにえを、御前に献げさせてください。隣人との真実な交わり、助け合い、支え合うことを学ばせてください。御名が崇られますように。 アーメン





5月29日(月) ヘブライ書12章

「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」 ヘブライ人への手紙12章2節


 1節に、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」とあります。「忍耐強く」(ディ・フポモネー)という言葉から、この競争が短距離ではなく、長距離、マラソンのようなものであると想像されます。その際、この競技に参加する者に求められるのは、走り抜くこと、完走することです。

 だれが競争相手かというのではなく、自分自身との戦いといいますか、完走を妨げようとするものとの戦いです。だから、「気力を失い疲れ果ててしまわないように」(3節)というのです。2,3節にも「耐え忍ぶ」(フポメノー)という言葉が繰り返し用いられているということは、様々な困難が完走を妨げ、気力を失わせようとするということです。

 それに対して、その様々な困難が襲ってきたときに、それを、父が子を愛するために行う「鍛錬」(パイデイア)と考えるようにと勧めます。

 7節で「あなたがたは、これを鍛錬として(エイス・パイデイア)忍耐しなさい(フポモネー)。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない(ウー・パイデウオー)子があるでしょうか」と語られているのはそのことです。

 その根拠として5~6節に、「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」という、箴言3章11,12節の御言葉を引用します。

 つまり、競技の途中に襲ってくる困難は、競争を妨げるものというより、私たちが完走出来るように私たちを鍛錬する神の愛の表現と考えて忍耐せよというわけです。「十字架なしに栄冠なし」(17世紀に信教の自由のために戦ったウィリアム・ペン)「逆境に勝る教育なし」(19世紀の英国首相ディズレーリ)という言葉もあります。

 自分に定められた競争で完走するためのポイントは、冒頭の言葉(2節)の「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」というところです。これは、信仰生活の初めから完成まで、主イエスが導いてくださるということです。そして、主イエスこそ「御自分に対する罪人たちの反抗を忍耐された方」で、どんな困難も乗り越えさせてくださるお方なのです(第一コリント10章13節参照)。

 「信仰の創始者」というのですから、信仰生活にスタートがあるのです。そして「完成者」というのですから、ゴールもあるのです。信仰生活のスタートとゴールの間は、めいめいが自分の思い通りに走ってよいということではありません。「イエスを見つめながら」と言われているからです。

 新改訳聖書では「イエスから目を離さないでいなさい」と訳されていました。信仰を始め、完成させてくださる主イエスから目を離してはいけないということです。実際、イエスから目を離させるものが一杯あるわけです。目を離すと、ゴールを見失ってしまうということです。

 これは、ボート競技のようだと思います。エイトと呼ばれる競技には、、漕ぎ手が8人乗ります。漕ぎ手はゴールを背に、後ろ向きに座ります。即ち、彼らはゴールするまで、ずっとスタート地点を見ていることになります。それによって、スタート地点から直線で進んでいるかどうか、分かるわけです。

 けれども、スタートから直線で進んでいるからといって、ゴールを目指していることにはなりません。正しくゴールに向かって進んでいるのでなければ、漕ぎ手がが頑張れば頑張るほど、ゴールから遠ざかってしまいます。

 エイトには、一人ゴールをまっすぐ見ているコックス(操舵手)と呼ばれるリーダーがいます。コックスの指導によって、ゴールを目指すのです。漕ぎ手がスタート地点を見ながら全力で漕ぎ、コックスがそれをゴールに導くわけです。

 私たちの競争で言えば、漕ぎ手は私たちキリスト教会の信徒=クリスチャンであり、コックスは導き手なる主イエスです。主イエスを信じる信仰を通して、主の御言葉により、私たちの信仰は完成へと導かれるわけです。

 ここで必要なのは、導き手に対する信頼です。コックスが信頼できなければ、全力で漕げません。息が乱れれば、ボートはまっすぐに進みません。けれども、息が合って全力でゴールを目指している姿を見るのは感動です。競技者は息が合う快感を味わうために、そのしんどい競技に参加しているのです。

 どんな時にも主イエスに信頼し、主イエスに目を注ぐことが出来るのは、聖霊の導きがあるからです。使徒言行録2章25節に、「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない」とあります。これは、詩編16編8節からの引用です。ダビデが主イエスを見ることが出来たのは、聖霊の助け以外に考えることが出来ません。

 正確には、ダビデが主を見ていたのではなく、ダビデが主から見られていたのです。だから、どんな危機からも救い出されたのです。主がダビデの右にいて、彼が動じないでいられるように、支えておられたのです。それが、「弁護者」(パラクレートス)として傍らにいて慰めを与え、励ましを与えてくださる聖霊の働きなのです。

 どのような競技であれ、完走する体力をつけるためには、常日頃、様々な鍛錬を必要としています。一見、これがなんの役に立つのかと思うようなこともあるかもしれません。「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしい門ではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(12節)というとおりです。

 自分を鍛えるコーチを鬼と思い、「きっと自分のことが嫌いなんだ」と結論することもあるでしょう。けれども、その苦しみが喜びに変わる瞬間が来ると、今まで鬼と思い、憎しみにも似た感情を持っていた相手に、どんなに感謝するでしょうか。その喜びと感謝を味わうために、その日まで、頑張ろうと励ましているのです。

 私たちが主イエスと出会い、救われた原点を絶えず見つめ、主イエスの導きに従い、天の御国目指して、ともに助け合い、励まし合って、信仰の馳せ場を走り抜きましょう。

 主よ、悲しいとしか思えない現実の中に閉じ込められていると思い、主がどこにおられるのかと疑うこともあります。しかし、困難を通して神を見出したとき、その意味を理解することができます。どうか、今その困難の中におられる方々にあなたの慰めと平安、励ましをお与えください。そして、義という平和に満ちた実を結ばせてください。 アーメン






5月28日(日) ヘブライ書11章

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」 ヘブライ人への手紙11章6節

 新共同訳聖書は11章全体を一つの段落として、「信仰」という小見出しをつけています。

 1節に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります。この言葉を聴いて、何を思いますか。私はこれまで、自分の信念をしっかり持てば、望んでいることはなんでも実現すると解釈していました。実現しないのは、自分の信念が弱いから、疑いながら信ずるからだと考えていたわけです。

 確かに、信念をしっかり持って最後まで励むなら、実現出来ないことはないかも知れません。少々問題が起こったくらいで信念が揺らぐようなら、何もなし得ないでしょう。だから、何事でもはっきりと目標を定め、実現した姿を思い描いて積極的に進もう、否定的な言葉は口にすまいということになります。いわゆる積極思考、肯定的思考ということです。

 こうした考え方が間違っているとは思いません。むしろ、この世で何かを成し遂げた人々は、多少なりともこのような考え方を持っておられたことでしょう。ただ、1節の御言葉は、そのような「信念」について語っているのではなく、「信仰」を語っているのです。

 信仰の対象は、私たちが実現を望んでいる「事柄」や、その実現を目にしていない「事実」などではありません。私たちの信仰の対象は、主なる神であり、神の独り子イエス・キリストです。ヨハネ福音書14章1節に「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と主イエスが語られています。

 であれば、「望んでいる事柄」というのは、主ご自身が望んでおられる事柄ということになるのではないでしょうか。すると、その実現を約束された主なる神の御言葉を信じなさい、まだ実現していなくても、時が来れば実現する神の御言葉を信じて祈り待ちなさいということになりますね。

 著者がここで語っている、イエス・キリストを信じる信仰において「望んでいる事柄」、「まだ見ていない事実」というのは、私たちの救いの完成のためにキリストが再臨されることであり(9章28節)、天の故郷に迎え入れられることです(16節)。

 私たちがキリストの再臨を待ち望むのは、それによって私たちの救いが完成されて神の子として御国に迎えられ、主なる神と相見えること、主と親しく交わることが出来るからです。神はそのような信仰を喜ばれます。

 それが、冒頭の言葉(6節)で語られています。神が喜ばれるのは、「神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であること」を信じる信仰です。神は、自分の願望の実現を求める者たちにではなく、神ご自身を求める者たちに報いてくださるお方なのです。

 無論、私たちは自分たちの願いの実現を求めて神に祈ります。願いを適えていただきたいと求めます。そのときに、私たちが実現を疑わずに願うから、真剣に熱心に願うから、それが適えられるということではないのです。繰り返しますが、神が喜ばれるのは、私たちが神ご自身を求めて神に近づくこと、わたしたちに良いものをお与えくださる神を信頼することです。

 主イエスが祈りについて、「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」と語られました(マタイ福音書6章7,8節)。

 だから、祈らなくて良いということではありません。そうではなく、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(同6章33節)ということです。私たちの必要をことごとくご存知の主を信頼して自分の願いや問題を明け渡し、その主との交わりを喜び、楽しむことをまず求めよと言われているのです。

 4節以下に、アベルをはじめ、信仰者として例示される者の名前が列挙されます。その中で、一番大きく扱われているのが、信仰の父アブラハムです。アブラハムは「信仰によって、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」(8節)と言われます。

 そしてアブラハムは、イサクやヤコブ(9節)、サラも含め(11節)、「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」(16節)と言われます。アブラハムが望んでいたのは、カナンの地ではなく、天において神と共に住むことだったので、それで彼は、神の召しの言葉に服従して、行き先も知らずに出発したと言われるわけです。

 神と神の御言葉に信頼していたからです。そのことが、「神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません」(16節)と言われて、それが神の喜ばれる信仰であることを示しています。

 主イエスは、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13章34節ほか)と言われました。そう命じられているのは、主がそれを望んでおられるからであり、それを行うことが、私たちの使命だからです。

 私たちも主を慕い求め、愛そのものであられる主イエスを心に迎えましょう。主との親しい交わりの内にいつも身を置かせていただきましょう。私たちの内におられる聖霊を通して、心に神の愛を注いでいただきましょう。神の御国は、互いに愛し合う愛に満ち溢れているところなのです。

 主よ、絶えずあなたを慕い求め、あなたの教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ幸いな人とならせてください。命の御言葉の流れの側から離れることがありませんように。そこを離れては何をすることも出来ず、風に吹き飛ばされるもみ殻のように、裁きに堪えないからです。そうではなく、御言葉に従って神の愛に生きる者として頂くことができますように。 アーメン





5月28日(日)主日礼拝説教

5月28日(日)主日礼拝に、教会員14名、来賓10名(新来会者1名、子ども3名を含む)がおいでになりました。感謝!
礼拝後、信徒会を行いました。


主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。
説教 「悪魔の誘惑」
聖書 ルカ福音書4章1~13節


教会の公式サイトを更新しました。
①「礼拝説教」に礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」「フォトレポート」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。
URL https://shizuoka-baptist.jimdo.com/


御覧ください。

5月28日(日)主日礼拝案内

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5月28日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、ローマ書から聖書の学びと交わりをしています。

主日礼拝を10時半から行います。
礼拝では、ルカ福音書4章1~13節から「悪魔の誘惑」と題して説教を頂きます。

礼拝後、信徒会を行います。

 

5月27日(土) ヘブライ書10章

「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」 ヘブライ人への手紙10章35,36節

 1節に「律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません」と言います。罪過の償いはできても、罪の性質を取り除き、清めることが出来ないので、毎年、贖いのいけにえが必要になるというのです。

 そこで神は、キリストを罪を贖う供え物とし、この「唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさった」(14節)のです。「聖なる者」とは、神が選んだ者、神のものとされた人という意味であり、イエス・キリストを信じる信仰によって救いの恵みに与った者を指しています。

 キリストの贖いにより、私たちの罪が赦され、神の子とされる恵みに与ったのです。私たちが御子キリストを信じたとき、私たちの心にキリストが入って来られました。それが、「わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思い鬼それを書きつけよう」(16節)という御言葉が示していることです。

 御子イエスは「インマヌエル」(「神は我々と共におられる」の意)と呼ばれるお方です(マタイ福音書1章23節)。だから、いつも私たちは主イエスと交わりを持つことが出来ます。「イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(20節)という言葉は、そのことを言っています。

 イエスが十字架の上で息を引き取られたとき、神殿の至聖所と聖所を隔てていた幕が真二つに裂けました(マルコ福音書15章38節など)。それは、キリストの死によって聖と俗とを隔てていた壁が取り除かれたことを示します。それにより、主イエスを信じる者はだれでも聖所に入り(19節)、神の恵みに与ることが出来るように新しい生きた道が開かれたのです。

 それはまた、神が私たちに近づき、私たちと共にいてくださるという恵みが与えられたということでもあるわけです。私たちが意識して神に近づくときだけでなく、神は私たちと24時間、365日、いつでもどこでも共にいて、私たちを守り導いてくださるということです。
 
 それで、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(22節)、「公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう」(23節)、「互いに愛と善行に励むように心がけ」(24節)ましょうと勧めています。ここに、いつまでも残る偉大な賜物である「信仰・希望・愛」(第一コリント書13章13節)が、具体的な勧告の言葉として表現されています。

 これは、大胆に神に近づいて礼拝することが出来るように、神が信仰、希望、愛の賜物をくださると読むことも出来ます。これが、冒頭の言葉(35,36節)でいう、「この確信には大きな報いがあります」という内容でしょう。

 永遠に残る偉大な賜物が与えられるということは、永遠の命に与るということです。永遠に神との交わりに生きる者とされることです。そして、その交わりの中に、私たちの愛する神の家族、教会の兄弟姉妹もいます。私たち神の家族の交わりも、主イエスにあって永遠のものなのです。

 その交わりの完成のため、救いの完成のために、キリストが再びおいでになります。それまでの間、忠実に信仰に励んでまいりましょう。キリストの再臨よりも、私たちが召されるほうが早いかもしれません。いずれにせよ、「死に至るまで忠実であれ」(ヨハネ黙示録2章10節)ということです。

 私たちが主に忠実に仕えようとするとき、忍耐が必要だと言われます。信仰が試されます。それは、私たちがすぐに見えるもの、身の回りの環境に目を移してしまうからです。しっかりと主に目を留め、主の御言葉に耳を傾け、一歩一歩着実に歩み続けましょう。
 
 主よ、 今日も御言葉の恵みに与り、憐れみ深い御心の一端に触れさせてくださって、有り難うございます。導きのまま憚らず大胆に御前に近づき、聖霊に満たされ、心からの賛美をささげさせてください。御言葉をいただくことを喜びとし、聴き従うことを楽しみとすることが出来ますように。 アーメン




5月26日(金) ヘブライ書9章

「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」 ヘブライ人への手紙9章28節

 1節以下の段落に「地上の聖所と天の聖所」という小見出しがつけられています。前半(1~10節)に地上の聖所とされる旧約の規定が記されています。そして11節以下に、キリストの大祭司なる働きが記されています。

 15節に「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです」とあります。「こういうわけで」とは、「御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた」(12節)ということでしょう。

 16節以下に「遺言」という言葉が出て来ますが、実はこれは、15節の「契約」と同じ「ディアセーケー」という言葉です。文脈から「契約」と「遺言」とを訳し分けているわけです。「遺言」が、遺言者の死によって成立する「契約」であるということです(16節)。

 もしかすると、「ディアセーケー」という言葉の成り立ちから、「遺言」という意味が入ってきたのかもしれません。というのは、「ディア」は「~を通して(through)」、「セーケー」には「墓(grave)」という意味があります。「墓を通して」ということで、死によって効力を発揮するものとして、「契約」また「遺言」という意味になったということなのでしょう。

 いずれにせよ、著者は新しい契約が、キリストの血が流され、死なれることによって正式に締結されたことを、「遺言」という意味を引き合いに出して示しているのです。聖書は、神との契約書(古い契約の書と新しい契約の書からなる)です。

 古い契約は動物の死によって成立したのですが、新しい契約は、神の御子キリストの死によって成立しました。つまり、新しい契約書は、キリストにより、私たちへの遺言として記されているということになります。何が言い遺されているのか、しっかりと読む必要があります。

 特に、「遺言」で連想されるのは、遺産相続です。ヘブライ書では、「受け継ぐ」ものとして、「救いを受け継ぐ」(1章14節)、「約束されたものを受け継ぐ」(6章12,17節)と記しており、そして15節では「既に約束されている永遠の財産」と言われています。

 ということは、キリストが死なれて、その遺産を相続する者に与えられるのは、キリストの血の贖いによる罪の赦しと救い、そして、キリストの持っておられた神の子たる身分や力(ヨハネ福音書1章12節)、そして永遠の命(同3章16節など)だと言ってよいでしょう。

 私たちは、神の相続人となる権利も資格も持っていませんでした。キリストが私たちのために死んでくださったお蔭で、その恵みに与りました。全く一方的な、無条件の恵みです。そのことを思うとき、感謝のほかありません。

 契約の成立に「血」が用いられたことから(20節、出エジプト記24章8節)、すべてのものが血で清められ、血を流すことなしには罪の赦しは有り得ないと(22節)、血の働きを解しています。そこから次の段落へ議論が引き継がれ、展開されて行きます。

 地上のものは「天にあるものの写し」で、動物の血をもって清める必要があることから、天にあるものは、さらにまさったいけにえで清められなければならないと言い(23節)、だから、神の御子キリストが神の御前に現れてくださったのだと説明します(24節)。

 冒頭の言葉(28節)で「キリストも」と言われているのは、27節の「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように」という言葉を受けているからです。キリストが、「多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた」のは、「人間が一度死ぬこと」と「裁きを受けること」が定まっていることと関連しているわけです。

 確かに、人間はだれでも死にます。死なない人間はいません。「ただ一度死ぬことが定まっている」ということは、二度目の人生はないということです。一度限りの人生、大切にしなければなりません。

 死の原因も様々です。勿論、病死が多いのですが、しかし、事故死や自死も、決して少なくありません。死んでおしまいということならば、死んだほうがましということにもなるかもしれませんが、死んでおしまいにならないのであれば、いかに死ぬべきかを考えておくのは、とても大切なことでしょう。それは、いかに生きるべきかをきちんと考えることだからです。

 主イエスの死は、「多くの人の罪を負うために身を献げる」ことでした。4章15節などに「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」と言われるとおり、罪のない方が贖いの供え物としてご自分を献げられたのです。

 それは、罪ある人間に対する神の深い愛、憐れみです。そのように死なれたということは、主イエスの生前の生き方と無関係ではありません。主イエスの生涯は、人を愛し、人のために犠牲を負う生涯であり、最後に文字通り、自らの身をいけにえとして献げられたわけです。

 そして、「二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」と言われています。死後に神の裁きを受ける私たちのため、キリストが死なれ、そして、私たちに救いをもたらすために再び来られるとは、何と念の入った計らいでしょうか。キリストはその死によって救いの道を開き、そして、再臨によって救いを完成してくださるのです。

 罪赦され、そして救いに与ることが出来る保証のため、聖霊で証印を押されました(エフェソ書1章13,14節)。霊は目に見えません。ですから、証印も目には見えません。しかし、私たちが「イエスは主である」と信じていること、そう信じて主の御言葉に従って生きることにより、証印が押されていると確認することが出来ます(第一コリント書12章3節、エフェソ書1章13,14節など)。

 主を信じ、御言葉の導きに従って、自分の走るべき道程をしっかり走り通しましょう。そして、義の冠を被らせていただきましょう。
 
 主よ、私のためにキリストが死なれ、その救いの完成のために再びおいでくださること、その保証として聖霊の恵みに与っていることを、感謝致します。御子キリストが命を懸けて語って下さった遺言ともいうべき御言葉を、しっかりと聴くことが出来きますように。聴いたところに従って歩むことが出来ますように。そうして、主の御業に励むことが出来ますように。 アーメン





5月25日(木) ヘブライ書8章

「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。」 ヘブライ人への手紙8章13節

 8章全体が一つの段落で、新共同訳はここに「新しい、優れた約束の大祭司」という小見出しをつけています。

 8節以下は、旧約聖書エレミヤ書31章31~34節の引用です。8節に「新しい契約を結ぶ時が来る」という言葉があります。そのことを冒頭の言葉(13節)で「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです」と解釈して記しています。

 新しい契約があるということは、古い契約があったわけです。また、新しい契約が結ばれるということは、古い契約が破棄されるということになります。新約聖書は新しい契約が書かれている書物、旧約聖書は古い契約が記されている書物という意味です。ですが、旧約聖書の中に、既に「新しい契約を結ぶ時が来る」と預言されていたわけです。

 「契約を結ぶ」の原語は「カーラト・ブリート」です。「ブリート」が「契約」、「カーラト」が「結ぶ」と訳されています。「カーラト」は「切る」という意味です。それは、契約の際にいけにえの動物を殺し、その血によって契約を結びます。動物が裂かれ、血が流されて契約が結ばれるので、「切る」という言葉が使われるのです(創世記15章9節以下、出エジプト記24章1節以下参照)。

 また、もし契約を破るならば、いけにえの動物が裂かれたようにその身が裂かれて殺されるという罰、神の呪いが、この言葉で表現されているのです。これには、深い意味があります。

 古い契約が破棄されることについて、9節に「彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、わたしも彼らを顧みなかった」と記されています。イスラエルの民が契約を忠実に守らなかったので、神がその契約を無効にされたということです。

 契約の主文は、10節の「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」というものです(エレミヤ書31章33節、出エジプト記19章5,6節も参照)。ですから、彼らは神をおのが神とし、自らを神の民として、神に忠実に仕えることが出来なかったというわけです。

 その結果、イエスラエルの民は、神の加護を失い、バビロンに滅ぼされ、捕囚の憂き目を見なければなりませんでした。約束の地から切り離される罰を受けたのです。

 しかし、神は契約を無効にしたまま、イスラエルを放置されてはおられませんでした。「新しい契約を結ぶ時が来る」(8節)と言われるのは、そのことです。そして確かにイスラエルの民は、バビロンでの捕囚生活、奴隷生活から解放されて約束の地イスラエルの地に戻り、神殿を建て直し、国を築きなおすことが出来ました。そのことを、エズラ記、ネヘミヤ記で学ぶことができます。

 新しい契約が結ばれるためにも、いけにえの血が流されます。新しい契約の血とは、主イエスが十字架で流された血です。第一コリント書11章25節に「また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」と記されています。

 ここに「わたしの血によって立てられる新しい契約」と言われています。罪を犯した私たちの体が裂かれたのではなく、御子キリストが御自分の体をお裂きになり、私たちが血を流したのではなく、主イエスの尊い血潮が流されました。それによって新しい契約が結ばれ、主との新しい交わりが開かれたのです。

 そして、契約の言葉である神の律法を、石の板にではなく、「彼らの思いに置き、彼らの心に書きつけよう」(10節)と言われます。かつて、十戒の言葉は石の板に書かれました、けれども今度は、契約の言葉が思いの中に置かれ、心に書きつけられると言います。それは、文字が頭の中に書きこまれるということではありません。御子キリストが信じる者の心の内に住まれるということです。

 古い契約に基づく律法を行うことによっては、神の国に入ることは出来ませんでした。そこで神は、主イエスを信じる信仰によって、神の国に入る道を開いてくださったのです。主イエスの血によって結ばれた新しい契約は、様々な点で古い契約よりも良いものであることが分かります。

 このことで、ヨハネ福音書2章の「カナでの婚礼」の記事を思い出しました。披露宴が続く中、ぶどう酒がなくなって、それで、主イエスが新しいぶどう酒を用意されるという記事です。しかも、そのぶどう酒は、最初に花婿が用意していたものよりも良いものだったと言われていました。主に問題を打ち明け、主を信頼してその導きに従うとき、主は後から良いものを用意してくださったのです。

 主イエスがその際、召し使いたちに水を汲ませました。その水がめは、ユダヤ人の清めに用いる石の水がめとありました。それは、古い定めに従って手を洗い、体を清めるためのものです。その水がめの水がぶどう酒に変えられました。

 このことをヨハネは、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光をあらわされた」と記しています(ヨハネ福音書2章11節)。しるしとは、神である証拠ということです。確かに、水をぶどう酒に変えるということは、人間には出来ませんから、主イエスが神である証拠ということになります。

 そして、水がぶどう酒になったということは、古い契約を新しい契約に変えたということでもあります。水は古い契約に基づくものであり、そしてぶどう酒は、主の晩餐式で語られるとおり、新しい契約を象徴しているからです。

 さらに、御子キリストは律法や預言者を廃棄するためではなく、完成するために来られたお方であるということも(マタイ福音書5章17節参照)、水がめの縁まで一杯に水を汲ませたということで示しています(ヨハネ福音書2章7節)。

 私たちの人生に、宴会の途中でぶどう酒がなくなるというような計算が狂ってしまう出来事、考えてもいなかったような出来事に遭遇することがあります。近年の大規模災害、原発事故などでその人生に決定的な影響を受けた方がどれほどおられることでしょうか。そして、その理由を説明できる人はいないでしょう。

 けれども、主は後から良いものを出してくださると信じます。苦難は決して良いものではありません。でも、苦しみにあったことは私にとって良いことだった、あの経験をしてよかったと言える日が来るように祈ります。まず被災された方々をはじめ、多くの人々の平安と慰めを祈ります。

 私たちの心の内におられる主は、悲しんでいる人々、苦しんでいる人々の心の呻きを聞いてくださいます。そして、永遠の大祭司として、必ずその呻きに応えてくださると信じます。主なる神は私たちを愛し、万事が益となるよう必ず働いてくださいます。

 主よ、あなたは世界のすべての民に救いの喜びをお与えくださいました。救いの恵みを味わう喜びは、言葉では表現出来ません。信仰によって主が私たちの内にお住まいくださり、その贖いによって罪赦され、神の子となり、命に与った恵みを心から感謝します。いつも、恵みの光のうちを主と共に歩ませてください。 アーメン






5月24日(水) ヘブライ書7章

「そこでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」 ヘブライ人への手紙7章25節

 7章全体が一つの段落で、新共同訳はそれに「メルキゼデクの祭司職」という小見出しをつけています。5章6,10節に記されていたメルキゼデクについて、ここに詳しく説明されています。

 メルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でした(1節)。メルキゼデクとは、正義の王という意味の名前です。そして彼は、サレムの王です。サレムとはエルサレムのことと考えられています。また、サレムはシャロームと同根の言葉で、平和を意味しますので、平和の王という意味であると言われるのです(2節)。

 メルキゼデクは、何の前ぶれもなく、歴史の舞台に突然登場してきました(創世記14章17節以下)。3節で「父もなく、母もなく、系図もなく云々」と言われるのは、メルキゼデクの出自について、創世記の記事では何も分からないということでしょう。

 そして、いと高き神の祭司として、アブラム(=アブラハム)をパンとぶどう酒でもてなし(同18節)、「天地の造り主、いと高き神に、アブラムは祝福されますように。的をあなたの手に渡された、いと高き神がたたえられますように」(同19,20節)といって祝福しました。

 「神の子に似た者であって、永遠に祭司です」(2節)と言われていますが、これは創世記の記事で裏付けることが出来ません。詩編110編4節に「主は誓い、思い返されることはない。『わたしの言葉に従って、あなたはとこしえの祭司メルキゼデク』」という言葉があり、ここから、メルキゼデクが永遠に祭司であるという表現が出てきたのでしょう。

 ただし、これはメルキゼデクが永遠の祭司であると言っているのではありません。メルキゼデクと同じような祭司が立てられて、その職務は永遠に続くという意味です。

 主イエスはダビデの子孫ですから、ユダ部族に連なります(14節)。祭司職は、レビ部族のアロンの子孫に与えられた占有の職務でしたので、制度に変更がなければ、キリストが大祭司となることはあり得ません(11節)。

 しかし、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」(17節)と詩編の作者が記していることは、レビの子孫という血筋によらない祭司が立てられるということを指します(15,16節)。

 かつて、祭司や王がその職務につくとき、頭に任職の油が注がれました。この油は、聖霊を象徴しており、油が注がれた者に神の知恵と力が授けられることを表します。この油が注がれた人のことを、メシアと言います。メシアをギリシア語に訳すと、キリストです。主イエスは、神に油注がれたキリスト、義の王にして平和の王、またいと高き神の祭司なのです。

 もう一つ、メルキゼデクがアブラハムを祝福するために、「ぶどう酒とパンを持って来た」(創世記14章18節)というのも意味深長です。ここに既に、キリストの贖いの業が予め表されているのではないでしょうか。

 冒頭の言葉(25節)で「この方は常に生きていて」とは、キリストが神によって「永遠に祭司」とされたことを指しています(21節、5章6節など)。詩編110編のメシア預言で、「とこしえの祭司メルキゼデク」(110編4節)を、キリスト・イエスのことと解釈したわけです。

 その解釈が生まれたのは、キリストは、死んで葬られた後、3日目に復活され(第一コリント書15章4節)、弟子たちの見ている前で天に上げられ(ルカ福音書24章51節)、神の右の座に着かれた(1章3節、8章1節)という真実に基づいています。

 祭司の務めは、神にいけにえを献げて民のための執り成しをすることです(5章1,2節、4章14,15節)。祭司は、先ず自分の罪のためにいけにえを献げなければなりませんが(5章3節、8章27節)、キリストは神の御子であり、人間となられてあらゆる試練に遭われましたが、罪は犯されなかったので(4章15節、第二コリント書5章21節など)、その必要がありません。

 さらに、キリストが執り成しのために献げられたのは、ご自分の命です。十字架でご自分の肉を裂き、血を流されたのです。この贖いと執り成しの業により、「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(コロサイ書2章13,14節)。

 ですから、キリストは、「ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」と言われているのです。この王であり祭司であられるキリストが、贖いの御業を成し遂げて復活され、今も生きて私たちのために執り成し、万事が益となるように導き、恵みを与えていてくださいます。

 御言葉と祈りを通してはばかることなく大胆に神に近づき、信仰の恵みを豊かに頂きましょう。
 
 主よ、信仰に基づく私たちの歩みを豊かに祝福してください。御言葉の学びと祈りに励み、伝道によって実を結び、感謝と賛美溢れる教会を形成することが出来ますように。私たちを執り成して、絶えず命の道、真理の道に導いてくださる主に感謝します。 アーメン




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