「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」 フィリピの信徒への手紙4章6節
1節に「わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち」という呼びかけの言葉があります。この言葉を見るだけで、パウロがいかにフィリピの信徒たちを愛していたか、パウロとフィリピの信徒たちの間に親密な関係があったかということが分かります。
「冠」とは、「義の栄冠」(第二テモテ書4章8節)との関連で、世の終わりに主の前に出るとき、フィリピの信徒たちの存在のゆえに胸を張ることが出来る、つまり、パウロの誇りであるということです(2章16節)。
「冠」とは、「義の栄冠」(第二テモテ書4章8節)との関連で、世の終わりに主の前に出るとき、フィリピの信徒たちの存在のゆえに胸を張ることが出来る、つまり、パウロの誇りであるということです(2章16節)。
呼びかけに続いて、「主によってしっかりと立ちなさい」と命じます。「主によって」は「エン・キュリオー」(in the Lord)、2節の「主において」と同じ言葉です。これには、主に立たせて頂くという意味も、また、主の中で立つという意味も含まれているようです。
「しっかりと立つ」(ステーコー)という言葉は、1章27節でも用いられていました。そこでは「一つの霊によってしっかり立ち」と、聖霊による一致を勧めています。そしてそれは、「心を合わせて福音の信仰のために共に戦」うことと説明されています。
戦いのときに、内部に分裂や争いがあるようでは、勝利を望むことは出来ません。その意味で、信仰のための戦いとは、一致を脅かそうとするものに聖霊の力を受けて立ち向かうことであり、どこまでも主を信頼し、主とその御言葉に従っていくという戦いです。
1章で用いた言葉をあらためて用いているのは、フィリピ教会の内部に問題があるからです。それが、2節の勧めの言葉に示されます。そこに「主において同じ思いを抱きなさい」とあります。そのように勧められているということは、エボディアとシンティケが、パウロと、そしてフィリピの教会の人々と、同じ思いになれない問題があったわけです。
どのような問題なのか、具体的に記されてはいませんが、もしかすると二人が、3章2節で「あの犬ども」、「よこしまな働き手たち」、「切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」と呼んでいた、割礼を最重要視するグノーシス主義の伝道者たちを教会に招き入れるという働きをしていたのかも知れません。
この二人について、「クレメンスや他の協力者たちと力をあわせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです」と紹介されています(3節)。二人は、フィリピ教会草創のとき、命がけでパウロを助け、働いてくれた大切な存在だったのです。
そのことで、自分と親しい関係にある同労者に向かって「真実の協力者よ」と呼びかけ、二人の女性のことを心にかけて支えてやって欲しいと依頼しています。「真実の協力者」とは誰のことか、明示されてはいません。誰もが主を畏れ、神を神として同じ思いで働く「真実の協力者」となって欲しいという思いが、そのような呼びかけの言葉になったのではないでしょうか。
そしてそれは、二人がもう一度「他の協力者たちと力をあわせて、福音のためにわたし(たち=フィリピ教会の人々と)と共に戦って」くれる「真実の協力者」になったくれることを願う思いもこめられているでしょう。
そのことで、自分と親しい関係にある同労者に向かって「真実の協力者よ」と呼びかけ、二人の女性のことを心にかけて支えてやって欲しいと依頼しています。「真実の協力者」とは誰のことか、明示されてはいません。誰もが主を畏れ、神を神として同じ思いで働く「真実の協力者」となって欲しいという思いが、そのような呼びかけの言葉になったのではないでしょうか。
そしてそれは、二人がもう一度「他の協力者たちと力をあわせて、福音のためにわたし(たち=フィリピ教会の人々と)と共に戦って」くれる「真実の協力者」になったくれることを願う思いもこめられているでしょう。
そのように語る言葉に続けて、「主において常に喜びなさい」(4節)と言います。パウロは、獄中にあっていつ何時殉教することになるかも知れない状況の中で、これまでも喜びを語ってきました。どんなときにも神に愛され、神の御子キリストが最善をなしてくださると言うことを知る喜びを、パウロは身をもって示しているのです。
主のある喜びの具体的な秘訣が5節以下に示されています。冒頭の言葉(6節)に、祈りの勧めがあります。「何事につけ」は「万事において」(エン・パンティ in everything)という言葉です。あらゆることにおいて、くよくよ考えないで、あれこれ悩まないで、感謝の心で祈り、願いなさいというのです。
そうすると、「あらゆる人知を超える神の平和があなたがたの心と考えとをキリストイエスによって守るでしょう」(7節)という神の祝福が約束されています。
だから、パウロの喜びの勧めは、空元気を出して、喜べないときにも無理して笑顔を作れというのではありません。堅実な信仰生活を土台として、真実な神との交わりに生きること、神に愛され、命に招かれた者として、あらゆる隔ての壁を取り除いてくださる神に、感謝を込めて教会、家族、私たちの交わりの信仰による一致を求め、祈るのです。
その祈りに応えて神が私たちの心に、思いに、平和、平安を授けてくださり、そうして、主において共に同じ平和、平安の思いになり、どんなときに喪主を喜ぶことを可能にしてくださるのです。
「主はすぐ近くにおられます」(5節)というのは、主が私たちのすぐ傍らにいてくださるということと同時に、主の再臨が近いこと、神の御国の完成のときが近いことを指しています(ヤコブ書5章8,9節)。
主にあって喜びをもって人々に寛容を示し、思い煩わずに生きるのは、主の再臨と御国の完成が近いからです。主の恵みに生かされている者として、常に主を仰ぎ、感謝をもって主の平和を祈りつつ、日々喜びをもって歩ませて頂きましょう。
主よ、人間関係で問題を起こすのは私たちの常です。そのため、一致を乱してしまいます。そのときに、一致を乱すものを排除するのではなく、彼らを含めて共に主を仰いで祈りをささげ、喜びなさいというパウロの勧めに、目が開かれる思いがしました。いつも主を見上げ、主の御思いに触れさせてください。福音のために、主と共に働く者とならせてください。 アーメン