風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2017年04月

4月30日(日)主日礼拝案内

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4月30日(日)、教会学校小学科・少年少女科(中学生~18歳)は9時半から、成人科(18歳以上)は9時45分から聖書の学びを行います。
 

10時半から主日礼拝です。礼拝では、使徒言行録27章から「元気を出しなさい」と題して説教を頂きます。
 

宜しければ、おいでになりませんか。キリスト教会は初めてという方も歓迎です。








 

4月26日(水) 第一テサロニケ書1章

「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。」 テサロニケの信徒への手紙一1章6,7節

 今日から第一テサロニケ書を読みます。本書は、パウロによって紀元50年頃に記されました(1節)。福音書(紀元70年前後)などよりも早く、新約聖書の中で、最も早く執筆されたと考えられています。

 テサロニケの教会は、フィリピ教会と同様、パウロの第二回伝道旅行のときに、その伝道の働きによって紀元49年頃築かれました(使徒言行録17章)。テサロニケは当時、人口12万を数え、マケドニア州の州都として隆盛期を迎えていました。現在は、40万ほどの人口があるそうです。マケドニアがあれば、カチドニアがあるのかと尋ねるのは、単なるダジャレの世界です。

 使徒言行録の記事によれば、パウロのテサロニケにおける伝道は短期間でしたが、教会の基礎はしっかりと築かれたようです。けれども、そうして教会が築かれると、それを妨害する働きもあらわになります。その活躍を妬んで暴動が起こり、町が混乱に陥りました。パウロたちの身に危険が及んだので、やむなくテサロニケを後にして、次の宣教地ベレアに向かいました。

 しかしながら、テサロニケには生まれたばかりの教会があります。迫害の中に残された信徒たちが心配です。そこで、パウロはアテネからテモテを遣わします(第一テサロニケ書3章1節以下)。彼らが苦難の中でも動揺せず、信仰を守るように励ますためでした。

 アテネとテサロニケは、徒歩で数週間という距離です。テサロニケで活動する時間を考えれば、テモテがアテネからテサロニケに行き、パウロの元に戻ってくるまでには、2ヶ月以上かかったことでしょう。テモテが戻ってくるときには、パウロはコリントに移動していました(使徒言行録18章1,5節参照)。

 戻ってきたテモテの報告を聞いて、パウロは飛び上がるほど嬉しかったことでしょう。それは、彼らの信仰と愛について、「うれしい知らせ」(原文では「福音を告げ知らせる:エウアンゲリゾマイ」という言葉が用いられています)がもたらされたからです(第一テサロニケ書3章6節以下)。それは、彼らがあらゆる困難と苦難に直面しながらも、しっかりと主を信じて歩んでいるというものでした。

 それで、嬉しくなって記したのが、この手紙なのです。ですから、この手紙を読みますと、パウロの喜びと感謝が伝わってきます。この手紙の主題は「感謝」の二文字に尽きると言ってよいかも知れません。

 2節に「神に感謝しています」という言葉が出て来ます。このところを原文で読むと、2節から5節までは一つの文章です。そして「感謝しています」(エウカリステオー)が、長い文章の述語動詞なのです。そして、6節以下も、パウロの感謝の内容が記されていると言ってよく、1章全体が「感謝する」という言葉の内容説明になっているわけです。

 そればかりか、3章9節までこの感謝が続いていると見ることも出来ます。そして、5章18節では、「どんなことにも感謝しなさい」という勧めの言葉が記されています。先ほど、この手紙の主題は「感謝」という二文字であると申し上げたのは、そうした内容だからです。

 パウロは、「祈りの度に、あなたがた」(2節)、即ちテサロニケの人々のことを思い起こしてと記しています。つまり、パウロは、祈りのときに、一人で神の前に立っているわけではないということです。祈りの時に、一緒に立っている信仰の仲間がいたわけです。

 一緒にいる仲間のことをいつも思う、祈りの度に、一人で神の前に立ち、一人で訴えているというのではなくて、祈りの仲間がわんさといる、その仲間の中にテサロニケの人々もいる、彼らのことを思うと、感謝の思いが溢れて来るというのです。

 このパウロの祈りの心を学びたいと思います。祈りの時に、誰と一緒に神の御前に立っているのでしょうか。一人で神の前に立ち、一人で祈っていると考えているのは、まだまだ信仰が序の口ではないかと考えさせられました。信仰の初歩を後にして、成長していくために、祈りについても大切なことを学び、身につけなければならない、それは、祈るとき、私たちは決してひとりではないということです。

 そのような感謝の思いのうちに冒頭の言葉(6,7節)が記されています。「あなたがたは、ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」(6節)というのは、とても不思議な言葉です。ひどい苦しみを受けているのに、喜びをもって御言葉を受け入れているというのです。

 苦しみに遭うのはいやです。信仰に入ったために苦しみを味わうという事態に追い込まれたテサロニケの信徒たちは、そこで信仰を捨てるどころか、むしろ「聖霊による喜び」に満たされました。どういう心境なのでしょうか。よく分かりませんが、それが神が彼らの中で働いているという証拠です。

 4節に「神に愛されている兄弟たち」と言い、そして、「あなたがたが神に選ばれたことを、わたしたちは知っています」と語っています。テサロニケの人々、即ち異邦人を「神に選ばれている」と言っているのです。

 それは、ユダヤ人たちが拒絶したキリストの福音を、ひどい苦しみを受けながらも、聖霊による喜びをもって受け入れたからです。それこそ、神に愛され、選ばれた者であるしるしだと語っているわけです。ということは、ここにいる私たちも、キリストの福音を受け入れることが出来たということは、神に愛され、神に選ばれた者であるということになります。

 テサロニケの人々は、御言葉を受け入れて喜んだでおしまいではありません。彼らは、「パウロに倣う者となり、そして主に倣う者となった」(6節)というのです。「倣う」というのはミメーテースという言葉ですが、ここから、ラテン語のイミタチオ、英語でイミテーションという言葉が出来ました。

 イミテーションと言えば、偽物、まがい物という意味に用いられるところがあります。けれども、なぜイミテーションが造られたのかと考えると、それは、本物は素晴らしい価値をもっているからです。それを何とか再現したい、近づけたいと考えて、造られたわけです。

 パウロが語った福音、イエス・キリストの福音が素晴らしいので、テサロニケの人々はパウロの真似をしようとしたわけです。つまり、彼らはパウロが自分たちに伝えてくれた御言葉をしっかりと覚え、身につけて、今度はそれを、他の人々に対して宣べ伝えるようになっていったのです。

 パウロは、第一コリント書11章1節にも、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と記しています。パウロを手本にすることが、キリストに倣うことなのです。

 それは、完全無欠の立派な生活をするということではありません。立派な生活をしているから、「倣いなさい」と言っているわけではありません。むしろ、欠点だらけの自分をキリストが愛してくださり、使徒として選んでくださった。その神の恵みに感謝して生きている、そのところで自分に倣う者になってほしいと思っています。

 どうすれば、神の恵みに感謝する生活をすることが出来るか、その恵みを回りにいる多くの人々に伝えることが出来るかということをいつも考え、キリストに従って生きようと努力している、そういう生活を真似てほしいとパウロは考えているわけです。ということなら、私たちも同じように、「私に倣いなさい」と言うことが出来ますし、そう言える生活をしなければならないと思います。

 テサロニケの人々は、パウロが語る御言葉を受け入れ、さらに、パウロを真似て神の御言葉を語るようになりました(7,8節参照)。それは、言葉だけによらず、生活を通して、そのような生き方で伝えたのです(8~10節、5節も参照)。

 それで、「主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡った」と言われているわけです(8節)。「響き渡る」とは、山彦、エコーという言葉です。彼らがどのように神を信じるようになったのか、至るところで証ししたのです。そして、その言葉が信徒たちだけでなく、他の人々の口に上るほどの噂になって行ったということです。
 
 日本の至るところで、神の恵みに感謝する声が響き渡るように祈ります。神を賛美する声が響き渡るようにと願います。私たちが日々、御言葉の恵みに与りながら、神の御前に信仰の輩と一緒に祈れる恵みに感謝しながら生活することを通して、信仰が至るところに宣べ伝えられ、主の御言葉が響き渡るように、そのような信仰の生活の模範になることが出来るようにと、祈りつつ励んでまいりましょう。

 主よ、神に愛され、選ばれたテサロニケの人々がパウロに倣い、主に倣う者となって、主の言葉がマケドニア州とアカイア州、ギリシアの国中に響き渡り、彼らの信仰が至るところで語り伝えられたように、私たちも神に愛され、選ばれた者としてパウロに倣い、主に倣うものとしてください。この地域に、そして日本中に福音が響き渡りますように。 アーメン







4月25日(火) コロサイ書4章

「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」 コロサイの信徒への手紙4章2節

 この手紙は、用語法や文法の特徴から、パウロが語った内容を聞き取ったテモテがこの手紙の執筆し(1章1節)、最後にパウロが署名をして(18節)、それをティキコに届けさせたものでしょう(7節)。ティキコはアジア州出身で(使徒言行録20章4節)、エフェソはアジア州の中心都市でした。ここでパウロと出会い、同労者となったわけです。

 ティキコにオネシモが同行します(9節)。オネシモは、フィレモン書で知られる人物で、フィレモンのもとから逃げ出してパウロのもとに身を寄せ、信仰の道に入り、コロサイのフィレモンのもとに送り返されました(フィレモン書12節)。そこから再びパウロのもとに遣わされ、今度はパウロの使者として、ティキコを連れてコロサイに戻るのです。

 10節には、「バルナバのいとこマルコ」の名があります。第2回伝道旅行の際に、マルコのことでパウロとバルナバが衝突したという、いわく付きの人物でしたが(使徒言行録15章38節、13章13節参照)、長い年月を経て、このマルコがパウロにとって有用な協力者になったことを示しています(フィレモン書24節参照)。

 そして、アルキポに、「主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように」(17節)と書き送ります。フィレモン書1,2節の宛名から、アルキポはフィレモンの子ではないかということと、コロサイ教会で伝道者として重要な役割を担っていたのではないかということが窺えます。

 「務めに意を用い、それをよく果たすように」と語るということは、アルキポが意気阻喪しているか、あるいは、その務めを軽んじているという様子を想像させます。それに対して、「主に結ばれた者として」それを行うようにと諭しているのです。

 7節のティキコを「彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕」と紹介し、17節でアルキポに「主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、云々」と語って、7節以下の段落は、最初と最後に「主に結ばれた」(エン・キュリオー)という言葉が出て来て、括弧で括ったような形になっています。

 これは、この二人だけのことでなく、「主を信じる者」(3章18節:エン・キュリオー)すべてが主に結ばれた者であり、各自主に結ばれた者として、委ねられた務めに意を用いよと語られているということです。

 私たちが十字架につけられた主イエスを、私たちの救い主、神の御子であると信じることが出来たのは、聖霊の導きです。聖霊が私たちの内に満たされるというのは、キリストが私たちの内に宿られるということであり、それは、イエスこそ私たちの主であるという信仰に堅く立つことです。

 冒頭の言葉(2節)で「目を覚まして」というのは、聖書では通常、終末との関連で用いられます。「世の終わりが近づいているから気をつけて」という意味になります。「十人のおとめ」のたとえ(マタイ福音書25章1節以下)が、「目を覚ましていなさい」(同13節)という警告で締め括られていました。

 朝が来て陽が上り、明るくなると目が覚めます。私たちの心の目、信仰の目を覚まさせるのは、神の御言葉です。御言葉が開かれ、命の光に照らされると、心の目が開かれて来ます。詩篇119編130節に「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます」と詠われています。

 そして、今がどのようなときなのか、何をすべきなのかを教えてくれるのです。御言葉に耳を傾けず、祈りもしないというのは、それは信仰的に「とき」を弁えていない、霊的に眠り込んでいるということになります。目を覚ますことが祈ること共に語られているのは、ひたすら祈ることが、目を覚まして主を待つ正しい姿勢だからです。

 「ひたすら祈りなさい」というのは、「祈りに専念しなさい、絶えず祈り続けなさい」ということです。「絶えず祈りなさい」(第一テサロニケ書5章17節)という言葉もあります。どうすれば、ひたすら祈れるようになるのでしょうか。24時間365日、不断の祈りが出来るでしょうか。それは、人間には無理なことのように思われます。

 けれども、もしそれが不可能なことであるならば、どうして「ひたすら祈れ」、「絶えず祈れ」と命じているのでしょうか。少なくとも、手紙の著者はそれが出来ると考えているのです。どうすればよいのでしょう。

 一つは、私たち弱い者のために、私たちの内におられる聖霊が、私たちのために執り成しの祈りをしておられることを覚えましょう(ローマ書8章26,27節)。私たちを守る神は「まどろむことなく、眠ることもない」(詩編121編4節)お方ですから、不断の呻きの祈りをささげて、万事が益となるように働いておられるのです。

 さらに、もう一つ。これはバークレイ先生(西南学院大学宗教部長、神学部教授、福岡ベタニヤ村教会協力牧師)から教えていただいたことです。不断の祈りを一人の人間が行うのは無理かもしれませんが、他の人に祈りの応援を頼んだらどうでしょう。一方が眠っている間、他の人が目を覚ましてお互いのために祈るのです。

 パウロも「ひたすら祈りなさい」と言った後に、「わたしたちのためにも祈ってください」(3節)と祈りを要請しています。お互いに祈り合うことを通して、そのような祈りの交流を通して、不断の祈りが神の前にささげられることになるのです。

 神に心を向けて祈ろうとするとき、私たちのために不断に執り成し、万事を益としてくださる聖霊の働きを思い、また、お互いのために祈る信仰の仲間のあることを思うと、心に感謝と賛美が湧き出して来るでしょう。パウロがここに「感謝を込め、ひたすら祈りなさい」というのは、そのことではないでしょうか。

 絶えず主を仰ぎ、御言葉を求めて祈りましょう。そうして感謝と喜びに満たされましょう。主は、求める者に必ず良いものをくださいます(マタイ福音書7章11節)。そう信じるからこそ、目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈るのです。

 主よ、毎日の慌しい生活の中で祈りはしますが、いつの間にかその祈りから、神を慕い求め、喜びをもって御言葉に聴き従う思いが失われています。やがて、祈らずに忙しく走り回っている自分を見出します。御言葉と祈りを通して、いつも目覚めさせてください。主の御心を心とすることが出来ますように。 アーメン



4月24日(月) コロサイ書3章

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」 コロサイの信徒への手紙3章16節

 パウロの手紙には、前半に教理的な事柄、そして、後半は実践的なことが記されるという特徴があります。本章にも、私たちのすべきこと、あるいは、すべきでないことが具体的に出て来ます。たとえば9節に「互いにうそをついてはなりません」とあります。これは、特別な言葉ではありません。ごく一般的な勧めといっても良いでしょう。つまり、言葉の真実が求められているのです。

 子どもに嘘のつき方を教える親はいないでしょう。むしろ、正直であることを願うでしょう。ところが、嘘をついたことのないという人はいません。勿論、今日は上手に嘘をつこうと思って一日を始める人もいないでしょう。それなのに、思わず知らず、真実でないものが口をついて出て来ます。

 主イエスが、「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」(マタイ12章34節)と言われました。心に真実があれば、心から溢れて来る言葉は、真実なものであるはずです。
 
 それはしかし、私たちの努力や精進によって到達出来るものではありません。8節では、「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい」と言われています。これらは、真実な交わりを阻害するもの、壊してしまうものですが、捨てなさいと言われて簡単に捨てることの出来るものでもありません。むしろ不可能でしょう。

 ただ、「無理、そんなこと出来ない」ということは簡単ですが、そういえばすむという話でもありません。パウロはここに、無理なことを要求しているわけではないでしょう。

 そのことで、私たちに心の姿勢の基本を教えているのが、1~4節です。1節に「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」とあり、続く2節にも、「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と言われています。上にあるものを求め、それを心に留める生活をせよというわけです。

 ここで、上とは、単純に真上というようなことではありません。私たちの真上は、裏側のブラジルの人々には真下ということになってしまいます。1節後半に「そこでは、キリストが神の右の座についておられます」と記されています。つまり、上とはキリストが座しておられるところという意味です。

 そこで「上にあるものを求める」とは、キリストの支配、キリストの統治を追い求めるということになります。一度、キリストに従うと言えばそれでよいということではありません。瞬間瞬間、キリストを私の主とするということです。

 主イエスが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ福音書6章33節)と言われました。「神の国」とは「神の支配」を、「神の義」は、「神の救い」を表わします。常にキリストを私の主とするということは、祈りなしには出来ません。だから、神の国と神の義を求めよ、求め続けよ、と命じているのです。

 「心に留める」(フロネオウ)という言葉は、注目する、関心を払う、愛情をもって心に抱くという意味でしょう。神の右に座しておられる主イエスを、私たちの心の中心にお迎えする、私たちの心を主イエスに明け渡し、支配して頂くと言えばよいでしょうか。そうすれば、地上のものに心引かれることはないでしょう。

 冒頭の言葉(16節)に、キリストの言葉を豊かに宿らせよと命じられています。キリストの言葉が豊かに宿るとは、キリストの言葉をたくさん憶えるということではありません。勿論、御言葉を憶えることも大切なことです。箇所と一緒に憶えられるとよいですね。

 ここで、「言葉」(ホ・ロゴス)は単数形で、定冠詞がついています。ヨハネ福音書1章1節以下の「言(ことば)」が「ホ・ロゴス」です。つまり、「キリストの言葉」とは、キリストのご人格そのもの、キリストご自身のことであるということです。

 「豊かに宿るようにしなさい」と言われていますが、キリストは私たちの内にあって、豊かに宿っておられるのでしょうか。それとも、貧しく宿っておられるのでしょうか。それは、主ご自身が豊かなのか、貧しいのかということではありません。私たちが主の働き、臨在を豊かに感じているのか、殆ど感じていないのかということです。

 そしてそれは、感覚の問題ではなく、信仰の問題です。私たちの心がどちらを向いているのか、ということです。キリストの御顔を仰ぎ、御言葉を慕い求めているのでしょうか、それとも、キリストから離れ、「巧みな議論にだまされ」(2章4節)て、自分勝手に「何の価値もなく、肉の要望を満足させるだけ」(同23節)の道を歩んでいるのでしょうか。

 私たちが、キリストに顔を向け、その御顔を拝し、御言葉に耳を傾けることに集中しているならば、私たちの心には、聖霊を通して神の愛が注がれて来るでしょう(ローマ書5章5節)。その愛によって、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け」ることが出来るでしょう(12~14節)。それは、キリストが私たちの内にあって、豊かにお働き下さるからです。

 エフェソ書5章18、19節にもよく似た言葉が記されています。そこでは、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」というところを、「霊に満たされ」るようにしなさいと言っています。聖霊に満たされるとは、キリストが私たちの間で豊かに働かれることであると語っているわけです。

 キリストが豊かに働かれると、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合」うことになります。そこに、キリストの平和があり、忍耐や赦し合いがなされています(13,15節)。また、「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえ」ることになります。

 「感謝して」(カリス)は、恵みという言葉です。冠詞がついていれば、神の恵みという意味になります。写本では、冠詞のついたものとついていないものがあります。現代の日本語訳(口語訳、新改訳、新共同訳)は、冠詞がついていないものを選んだかのように、「感謝して、感謝にあふれて」と訳しています。

 ただ、賛美は神の祝福に対する応答ですし、キリストが豊かに働かれるとは、神の恵みの内を歩ませていただくことであると考えて、「神の恵みにおいて、心から神をほめたたえなさい」と読むことも、とても意味深いことでしょう。岩波訳は、「〔神の〕恵みにあって、あなたがたの心でもって神に向かい歌いなさい」と訳していました。

 主が私たちの内に共にいてくださる恵みを絶えず覚えながら、心から感謝して主を賛美しましょう。

 主よ、私たちの内にあなたの御言葉が生きて働きますように。いつもあなたの御顔を求めます。あなたを賛美する心で、兄弟姉妹が互いに教え、諭し合い、愛し合い、助け合い、祈り合うことが出来ますように。私たちの内に働かれるキリストを通して心から賛美のいけにえ、主の御名をたたえる唇の実を献げさせてください。 アーメン



4月23日(日) コロサイ書2章

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」 コロサイの信徒への手紙2章3節

 1~5節は、1章24~29節で語っていた使徒としての務めを、コロサイの人々に対するものとして描写しています。1章27節で「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内にいるキリスト、栄光の希望です」と、異邦人一般に対するものとして語っています。

 それを「わたしがあなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して戦っているか、分かって欲しい」(1節)と言い、続けて「それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです」(2節)と告げます。

 使徒として世界に福音を宣べ伝えるという務めは、様々な人々との実際的な出会い、多くの困難や苦労、苦痛、苦悩を伴う、しかし、喜び多き務めです。ここに、「あなたがた」というコロサイの信徒たちに並んで「ラオディキアにいる人々」も語られているということは、二つの教会が距離的に近いこともあり、同じような問題に直面しているということなのでしょう。

 パウロは冒頭の言葉(3節)のとおり「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」と語ります。ということは、知恵と知識の宝が欲しい人は、キリストに注目し、キリストに関心を寄せ、その御言葉に耳を傾けなければならないということです。

 「キリストの内に隠れている」ということは、人間が自分でそれを悟ろうとしたり、獲得しようと思っても、出来ないということです。一方、キリストはこの宝を自由に与えることが出来るのです。そして、キリストへの信仰なくして、その宝を受け取ることは出来ません。

 パウロがこのことをここに書き記したのは、コロサイ教会の信徒たちが、「巧みな議論にだまされないようにするため」(4節)です。「巧みな議論」(ピサノロギア)とは、「説得力がある」(ペイソス)と「言葉」(ロゴス)との合成語です。

 コロサイ教会の指導者エパフラスは、危険な異端の教えが教会に侵入してきたとき、それに脅威を感じて、獄に囚われているパウロに指導を仰ぎました。ということは、教会内に、「巧みな議論」の罠に落ちた人が少なくなかったものと考えられます。それによって、彼らはキリストの言葉から離れ、説得力をもった魅力的な指導者の指導に耳を傾けるようになったのでしょう。

 しかし、いかに説得力があり、魅力的であっても、そこに命がなければ、それが真実でなければ、結果は空しいものになります。「巧みな議論」を8節では「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまりむなしいだまし事」と言います。それは人の言い伝えにすぎず、また人が思索を重ねた「哲学」であって、キリストに根ざした真理では有り得ないのです。

 かつて、神の造られた野の生き物のうちで最も賢い蛇が、人を惑わしました(創世記3章1節以下)。女は蛇の語った、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」という言葉に惑わされ(同4,5節)、取って食べるなと命じられていた木の実を食べてしまいました(同6節)。

 その結果、彼らは、「自分たちが裸であることを知り」(同7節)、そのために主なる神の足音を聞いて恐ろしくなり、身を隠すようになりました。それが、「目が開け、神のように善悪を知るものとなること」なのでしょうか。

 パウロは、異端の「巧みな議論」によって神の顔を避け、キリストの御言葉に背いて信仰から離れるような空しい結果にならないように、そうではなく、キリストの内に隠されている知恵と知識の宝を、キリストを信じる信仰により、恵みとしてしっかりと受け取るように、教え諭しているのです。

 そもそも、異邦人であったコロサイの教会の信徒たちが主イエスの福音を信じることが出来たのは、神の愛、キリストの恵み、聖霊の導きの賜物でした。神が私たちにお与えくださるものが、私たちにとって最善の宝物であると信じ、受け止めることの出来る人は、本当に幸いです。

 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」のです(マタイ福音書4章4節)。神の御言葉こそ、私たちに命を与え、力を与える生きたパンなのです。御言葉によって、私たちの必要の一切が創造され、豊かに注ぎ与えられるのです。

 御前に謙り、日ごとに主の御言葉の恵みに与らせていただきましょう。御言葉を通して、主イエスを信じる信仰に、さらに深く進ませていただきましょう。私たちの内におられるキリストこそ、栄光の希望だからです。

 主よ、弱い私たちを憐れんで下さい。御言葉と霊の恵みをもて、日々養ってください。主イエスに堅く結ばれ、御言葉を信じて前進させてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。御心を行うことが出来ますように。 アーメン





4月23日(日)主日礼拝説教

4月23日(日)の礼拝には、教会員15名、来賓8名(子ども3名を含む)がおいでになりました。感謝。

礼拝後、第64回定期総会が開催され、昨年度の活動報告、決算報告、新年度の活動方針、活動計画、予算案が全会一致で承認されました。

礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「恵みの分け前に与る」
聖書 使徒言行録26章12~23節


静岡教会の公式サイトを更新しました。
①「礼拝説教」に礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」「フォトレポ―ト」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。
URL  https://shizuoka-baptist.jimdo.com/


ご覧ください。

 

4月23日(日)主日礼拝案内

024月23日(日)、小学科(小学生)、少年少女科(12~18歳)は9時半から、成人科(18歳以上)は9時45分から、教会学校で聖書の学びをします。


10時半から主日礼拝を行います。
主日礼拝では、使徒言行録26章から〔恵みの分け前に与る〕と題して説教を頂きます。


礼拝後、第64回(2017年度)定期総会を行います。



 

4月22日(土) コロサイ書1章

「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」 コロサイの信徒への手紙1章27節

 今日から、コロサイの信徒への手紙を読み始めます。この手紙は、パウロがエフェソで拘束されているときに執筆されました。この手紙の用語法や文法の特徴から、パウロが語ったままではなく、語った内容を書き取ったテモテにこの手紙の執筆を委任し(1章1節)、それをティキコに届けさせたのではないかと思われます(4章7節)。

 コロサイは、小アジア中西部の小さな町で、近くにラオデキアとヒエラポリスの町があります(4章13節)。著者パウロは、コロサイ教会に行ったことがなかったようです。というのは、「あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました」(7節)と記されているからです。

 コロサイ教会にはフィレモンがいましたし、その奴隷のオネシモもその教会員でした(4章9節)。この手紙は、コロサイ教会に忍び込んできた異端の教えに脅威を感じたエパフラスが、獄中のパウロに助けを請い、それに対して福音の真理を明らかにするため、記されたものです。

 そのような事情を考えると、「揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節)と記されているのは、なるほどと理解できます。どのような境遇にあっても、教会のことを思い、伝道の進展を願って使徒の使命を果たし続けるパウロの姿勢を、ここに見ることが出来ます。

 ここに「福音の希望」と記されていることについて、5節に「あなたがたのために天に蓄えられている希望」という言葉があります。「天に蓄えられている」ということは、その希望の根拠や内容が、人間の側の条件に左右されないこと、また、すべてが神によって準備されたものであることを表しています。

 また、「あなたがたが聞いた福音の希望」というのですから、私たちの望み、願っていることではありません。福音を通して神が私たちに与えようと望んでおられる希望です。

  第一ペトロ書1章4節では、「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産」とあり、それを同5節で、「終わりの時に現されるように準備されている救い」と言い換えています。ということから、「天に蓄えられている希望」とは、「救いの希望」を指していると考えてよいでしょう。

 「天に蓄えられている希望」(5節)、「あなたがたが聞いた福音の希望」(23節)と「希望」(エルピス)を語るパウロは、冒頭の言葉(27節)で「その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」と言います。ここに三つ目「栄光の希望」という言葉があります。

 「その計画」というのは、「秘められた計画」という言葉を受ける関係代名詞を訳したものです。ここで「秘められた計画」というのは、ムステーリオンというギリシャ語で、英語で「ミステリー(mystery)」、日本語では「奥義」などと訳されてきました。

 通常、「奥義」は誰にも分からないように隠してあるものですが、それが異邦人に対して明らかにされました(27節)。その奥義の中身は、キリストが私たちの内におられるということで、このキリストこそ、これまで繰り返し語られて来た「希望」、それも、「栄光の希望」なのだというわけです。

 私たちの内とは、黙示録3章20節との関連で、私たち一人一人の心の中と考えられます。主イエスを信じたとき、私たちは心の扉を開いて、主イエスを心にお迎えしました。それ以来、主イエスは私の内におられるのです。

 しかし、それだけではありません。キリストはあなたの内におられるだけでなく、「あなたがた」、つまり複数です。私の内におられるキリストは、私の隣の人の内にもおられます。そしてさらに、私と隣人との間にもおられるのです。

 ルカ福音書17章21節に、「実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」という御言葉があります。私と隣人との間にキリストがおられ、そこに、神の国が造られているのです。ユダヤ人の間にも、異邦人の間にも、そして、ユダヤ人と異邦人との間にもキリストがおられ、そこに神の国があるということです。

 キリストが内におられて、そこに神の国が造られるとき、「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ書14章17節)という御言葉のとおり、そこには神の義と平和と、そして喜びが聖霊を通して支配する場所となるのです。

 それが、「神の聖なる者たち」、即ちクリスチャンに対して、明らかにされたのです。具体的には、エパフラスの宣べ伝えた福音をコロサイの人々が受け入れたことにより、神の救いの計画が異邦の民にも及んでいること、また、彼らの間で聖霊が働かれていることが、誰の目にも明らかになったわけです。

  これらの希望は、「福音という真理の言葉を通して」与えられたものです(5節)。ということは、福音という真理の言葉を離れて、希望の実現、救いの完成を見ることは出来ないということです。だからこそ、パウロやテモテ、エパフラスは、この福音を宣べ伝えるのです。そのために、労苦しているのです。

 しかしそれは、空しい労苦ではありません。福音を受け入れて、信仰と愛と希望に生きている聖なる者たちの存在により、絶えず喜びと感謝、励ましを与えられているからであり(3節以下)、彼らの内に力強く働くキリストの力によって強められているからです。

 キリストは私たち一人一人の心に住まわれて平安を与え、私たちの間におられて平和を造り出し、そこに神の国の栄光を見せてくださいます。心の平安と兄弟姉妹の間の平和をもって、キリストの福音を証ししてまいりましょう。

 主よ、私たちは御子キリストによって、贖い、即ち罪の赦しを得ました。その十字架の血で平和を打ち立て、万物を御子によって和解させられました。私たちのうちにキリストが共に住まわれ、私たちの間に神の国が作られますように。家庭が、職場が、学び舎が、神の国となりますように。聖霊によって与えられる義と平和と喜びで、絶えず私たちを支配してください。 アーメン







4月21日(金) フィリピ書4章

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」 フィリピの信徒への手紙4章6節

 1節に「わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち」という呼びかけの言葉があります。この言葉を見るだけで、パウロがいかにフィリピの信徒たちを愛していたか、パウロとフィリピの信徒たちの間に親密な関係があったかということが分かります。

 「冠」とは、「義の栄冠」(第二テモテ書4章8節)との関連で、世の終わりに主の前に出るとき、フィリピの信徒たちの存在のゆえに胸を張ることが出来る、つまり、パウロの誇りであるということです(2章16節)。

 呼びかけに続いて、「主によってしっかりと立ちなさい」と命じます。「主によって」は「エン・キュリオー」(in the Lord)、2節の「主において」と同じ言葉です。これには、主に立たせて頂くという意味も、また、主の中で立つという意味も含まれているようです。

 「しっかりと立つ」(ステーコー)という言葉は、1章27節でも用いられていました。そこでは「一つの霊によってしっかり立ち」と、聖霊による一致を勧めています。そしてそれは、「心を合わせて福音の信仰のために共に戦」うことと説明されています。

 戦いのときに、内部に分裂や争いがあるようでは、勝利を望むことは出来ません。その意味で、信仰のための戦いとは、一致を脅かそうとするものに聖霊の力を受けて立ち向かうことであり、どこまでも主を信頼し、主とその御言葉に従っていくという戦いです。

 1章で用いた言葉をあらためて用いているのは、フィリピ教会の内部に問題があるからです。それが、2節の勧めの言葉に示されます。そこに「主において同じ思いを抱きなさい」とあります。そのように勧められているということは、エボディアとシンティケが、パウロと、そしてフィリピの教会の人々と、同じ思いになれない問題があったわけです。

 どのような問題なのか、具体的に記されてはいませんが、もしかすると二人が、3章2節で「あの犬ども」、「よこしまな働き手たち」、「切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」と呼んでいた、割礼を最重要視するグノーシス主義の伝道者たちを教会に招き入れるという働きをしていたのかも知れません。
 
 この二人について、「クレメンスや他の協力者たちと力をあわせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです」と紹介されています(3節)。二人は、フィリピ教会草創のとき、命がけでパウロを助け、働いてくれた大切な存在だったのです。

 そのことで、自分と親しい関係にある同労者に向かって「真実の協力者よ」と呼びかけ、二人の女性のことを心にかけて支えてやって欲しいと依頼しています。「真実の協力者」とは誰のことか、明示されてはいません。誰もが主を畏れ、神を神として同じ思いで働く「真実の協力者」となって欲しいという思いが、そのような呼びかけの言葉になったのではないでしょうか。

 そしてそれは、二人がもう一度「他の協力者たちと力をあわせて、福音のためにわたし(たち=フィリピ教会の人々と)と共に戦って」くれる「真実の協力者」になったくれることを願う思いもこめられているでしょう。

 そのように語る言葉に続けて、「主において常に喜びなさい」(4節)と言います。パウロは、獄中にあっていつ何時殉教することになるかも知れない状況の中で、これまでも喜びを語ってきました。どんなときにも神に愛され、神の御子キリストが最善をなしてくださると言うことを知る喜びを、パウロは身をもって示しているのです。

 主のある喜びの具体的な秘訣が5節以下に示されています。冒頭の言葉(6節)に、祈りの勧めがあります。「何事につけ」は「万事において」(エン・パンティ in everything)という言葉です。あらゆることにおいて、くよくよ考えないで、あれこれ悩まないで、感謝の心で祈り、願いなさいというのです。

 そうすると、「あらゆる人知を超える神の平和があなたがたの心と考えとをキリストイエスによって守るでしょう」(7節)という神の祝福が約束されています。

 だから、パウロの喜びの勧めは、空元気を出して、喜べないときにも無理して笑顔を作れというのではありません。堅実な信仰生活を土台として、真実な神との交わりに生きること、神に愛され、命に招かれた者として、あらゆる隔ての壁を取り除いてくださる神に、感謝を込めて教会、家族、私たちの交わりの信仰による一致を求め、祈るのです。

 その祈りに応えて神が私たちの心に、思いに、平和、平安を授けてくださり、そうして、主において共に同じ平和、平安の思いになり、どんなときに喪主を喜ぶことを可能にしてくださるのです。

 「主はすぐ近くにおられます」(5節)というのは、主が私たちのすぐ傍らにいてくださるということと同時に、主の再臨が近いこと、神の御国の完成のときが近いことを指しています(ヤコブ書5章8,9節)。

 主にあって喜びをもって人々に寛容を示し、思い煩わずに生きるのは、主の再臨と御国の完成が近いからです。主の恵みに生かされている者として、常に主を仰ぎ、感謝をもって主の平和を祈りつつ、日々喜びをもって歩ませて頂きましょう。

 主よ、人間関係で問題を起こすのは私たちの常です。そのため、一致を乱してしまいます。そのときに、一致を乱すものを排除するのではなく、彼らを含めて共に主を仰いで祈りをささげ、喜びなさいというパウロの勧めに、目が開かれる思いがしました。いつも主を見上げ、主の御思いに触れさせてください。福音のために、主と共に働く者とならせてください。 アーメン




4月20日(木) フィリピ書3章

「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」 フィリピの信徒への手紙3章8,9節

 この手紙は「喜びの書簡」とあだ名されるほど、喜びに溢れています。1節にも「主において喜びなさい」と記されています。「主の中で、主に結ばれて」(エン・キュリオー in the Lord)、「喜びなさい」(カイレテ rejoice)と命じられているのです。

 喜びというのは、通常、命じられて出来るものではありませんけれども、パウロがここで「喜びなさい」というのは、これから喜べることが起きるから、喜ぶ理由が与えられるから、喜べということではありません。むしろ、能動的に、積極的に喜ぶのです。

 辛いことがあり、苦しみを味わっても、不幸が襲って来ても、それに対して、喜びをもって打ち勝つことができると語られているのです。そういう喜びを持っているのが、主に結ばれている、主において生きている信徒の基本的な姿勢だと、パウロは考えているわけです。

 2節に「犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」という言葉があります。これは、救いの完成のためには、割礼を受け、律法を遵守することが必要だと説く人々のことを警戒するようにということです。

 彼らを「犬ども」と呼んでいますが、ユダヤ人たちが割礼を受けていない異邦人のことを軽蔑して「犬」と呼んでいました。パウロはそれを逆手にとり、割礼を最重要視している人々こそが、神の救いからほど遠い「犬」に他ならないというのです。

 ユダヤ人でない者が割礼を受けることは、身体に切り傷をつけるだけのことで、それは「入れ墨」と同様、律法で禁止されていることでした(レビ記19章27節、申命記14章1節)。それで、「切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」という訳し方をしているのです。

 本来、割礼は神がイスラエルの民に与えた古い契約のしるしでした。それに対して「わたしたちこそ真の割礼を受けた者です」(3節)と言い、それは、「神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」(3節)と、新しい契約のしるしをそこに示しています。

 パウロにとって、礼拝とは、全生活を通して神に仕えることと言ってもよいと思います。それを、自分の力で、自分の思いによってというのではなく、神の霊によって、神の力、神の働きを通して可能になる新しい生活、それを、たとえば割礼を受けるというようなかたちで、人間の側に何らかの保証を求めようとする考え方を拒絶しているわけです。

 そして、「キリスト・イエスを誇りとする」という言葉は、「肉に頼らない」という言葉に対応する表現です。であれば、神の霊によって礼拝することを、「キリスト・イエスを誇りとする」という言葉で説明していると言ってもよいでしょう。

 「誇りとする」(カウカオマイ)という言葉には、「喜びとする、信頼する」という意味もあります。キリスト・イエスを信頼し、肉を頼りとしない生活は、神の霊の助け、神の霊の働きなしには可能とならないということになります。

 9節の「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」という言葉にパウロの信仰の確信が言い表されています。ここで、「律法から生じる自分の義」と、「キリストへの信仰による義」、「信仰に基づいて神から与えられる義」とが対比されています。

 この対比は、「わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」という3節の言葉で、肉に頼ることと、キリスト・イエスを誇りとすることとの対比で既に示されていました。

 「肉に頼る」というのは、勿論、「肉体」のことではなく、生まれ持った性格や才能、また家柄、財産、あるいは、自分の力で獲得したもの、そのようなものに頼ることを指します。つまり、神の救いに依り頼まず、自分の力で何とかしようと考える、キリストを信じるだけでは不十分で、救いの完成のためには人間的な努力も必要だという生き方をすることです。

 それは、かつてのパウロの生き方でした。しかし、それが復活の主イエスと出会って一変しました。冒頭の言葉(8節)の「あまりの素晴らしさ」は「フペルエコウ」という言葉で、「超越する、凌駕する、権力を持つ、権威ある」という意味を持っています。そこから「あまりの素晴らしさ」、「絶大な価値」(口語訳)、「卓越したすばらしさ」(岩波訳)という訳がつけられるわけです。

 ということで、主イエスを知ることはあまりにも素晴らしいこと、絶大な価値があることだと、パウロは語っているのです。パウロがキリストを知ったとき、それまでの価値観が逆転しました。キリストを知るとは、キリストについて勉強することではなく、キリストを信じることであり、キリストとの出会いと交わりを経験することです。

 神の冒涜者を殲滅するつもりで、真の神の御子キリストを迫害していたことに気づかされたとき、彼はどんなに驚いたことでしょうか。そして、慄いたことでしょうか。

 使徒言行録9章9節に「サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」と記されています。目が見えなくなっていたことも重なり、何も出来ず、神の裁きを待っていたのでしょう。しかし、パウロを待っていたのは裁きではありません。元どおり目が見えるようになり、聖霊で満たされて、主イエスの証人とされたのです。

 迫害者サウロは、異邦人に対する伝道者パウロとなりました。イスラエル王サウルに因んで「サウロ」と名づけられているのに、手紙の中では一度も「サウロ」と名乗らないこと、また「パウロ」とは「小さい」という意味であることから、彼は確かにキリストと出会って、それまで自分が誇りとしていたものを捨てたのです。

 血筋を誇り、律法を守り行う熱心のゆえにキリストの教会を迫害することが誤りだったということは、そのような肉に頼ることが主イエスを信じる信仰を妨げるものだということになります。自分が誇りと考えていたものが、かえってマイナスだったわけです。ですから、それらを、「塵あくたと見なしています」とまで言うのです。

 信仰によって、肉の誇りを失いましたが、それとは比べものにならないものを得ました。それは冒頭の言葉の最後の言葉で、「キリストを得」と記されています。この「得る(ケルダイノウ)」というのは、7節の「有利(ケルデー)」と訳されている言葉の動詞形です。それまで有利と思っていたものを捨てて、キリストを手に入れた、獲得したというのは、言葉遊び以上の面白さです。

 この「キリストを得た」ということを、9節で「キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」と言います。「神から与えられる義」とは、神がお与えくださる救い、神との正しい関係を意味します。人間が自分の働きで神の義を獲得することは出来ません。それは、キリストを信じる信仰によって与えられるのです。

 パウロは、キリストと出会い、キリストを信じる信仰によって、キリストを迫害した罪が赦され、主なる神との関係が正され、救われて、キリストのための使徒、伝道者とされたのです。

 10節で「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら」と言います。キリストを得るとは、キリストと復活の力を知ることであり、そしてそれは、キリストの苦しみと死を知ることでもあります。「苦しみにあずかって」は「苦難のコイノニア」という言葉です。

 主イエスご自身、神の子としての身分、神と等しい者であることに固執されず、かえって自分を無にして、僕の身分になられました(2章6,7節)。そして、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(同8節)。

 パウロはここに、神の栄光を見ることが出来たのです。命の希望を持つことが出来たのです。キリストの十字架によって救われたのです。神の義が与えられたのです。そして、使徒としての使命が与えられました。その使命を果たすことがどれほど苦難に満ちたものであっても、それをパウロは「苦難のコイノニア」と呼び、まるで楽しい交わりであるかのような表現をするのです。

 パウロが持った復活の希望、永遠の命の希望は、長くいつまでも生き続けるというものではありません。自分を救い、使徒として召してくださった主イエスと交わり、主イエスのために働き、そうして主イエスと共に過ごすという希望です。そしてその希望は、儚いものではありません。キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わりに支えられた希望です(2章1節)。

 この希望のゆえに、彼は投獄という苦難の中でも、実際に喜びに溢れることが出来たのです。その喜びがフィリピ教会開拓のとき、獄吏とその家族を救い、そして今、問題に直面しているフィリピ教会を励まし続けているのです。

 主よ、御子キリストを信じる信仰により、罪の赦しと救いに与らせてくださり、有り難うございます。御言葉と祈りを通して、甦られた主イエスと出会い、交わり、主を知る恵みの豊かさを味わわせてください。希望と喜びをもって主に仕え、御業に励ませてください。 アーメン





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