「霊の火を消してはいけません。」 テサロニケの信徒への手紙一5章19節
12節以下は、本書の「結びの言葉」です。最初に「あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい」(12,13節)といってお願いします。つまり、指導者を重んじ、尊敬して欲しいというのです。ここに、教会内の組織化が始まっているようです。
次に、怠けている者たちを戒め、気落ちしている者を励まし、弱い者を助け、すべての人に忍耐強く接するよう勧めます。信徒たちへの相互牧会の勧めです。
続いてパウロは、信仰生活のために大切な三つの勧告を与えます。そこに信仰生活の理想が示されます。その勧告が大切であるというのは、神がテサロニケの信徒たちに望んでおられることだと言われているからです。それは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(16~18節)という勧めです。
次に、怠けている者たちを戒め、気落ちしている者を励まし、弱い者を助け、すべての人に忍耐強く接するよう勧めます。信徒たちへの相互牧会の勧めです。
続いてパウロは、信仰生活のために大切な三つの勧告を与えます。そこに信仰生活の理想が示されます。その勧告が大切であるというのは、神がテサロニケの信徒たちに望んでおられることだと言われているからです。それは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(16~18節)という勧めです。
この勧めの中心は、「絶えず祈りなさい」(17節)です。祈りは、神との対話であると教えられました。対話で大切なことは、正しく向かい合い、相手の話をきちんと聞くことです。自分の言いたいことを言うだけ言って、相手の話を聞かなければ、対話になりません。
私たちの生活は、昔と比べると、科学・技術の発達により、何でも大変便利になりました。洗濯も炊飯も全自動、交通手段の発達で、遠距離の移動も短い時間で出来るようになりました。コンピューター一台あれば、相当量の仕事をこなすことが出来ますし、世界のあらゆる情報を瞬時に手に入れることが出来ます。
ところが便利な機器が登場すればするほど、仕事量が増え、家族団欒の時間はドンドン削られていきます。毎日、家族とどれだけ会話していますか。その会話の中で、家族の話を聞いたという時間はどれくらいありますか。
「風呂・飯・寝る」と3語だけの毎日というほど極端でなくても、会話の殆どが相手に対する要求の言葉で、相手の話にじっくりと耳を傾けるというゆとりのない生活になってしまっています。
そしてそれは、特に祈りにおいて顕著ではないでしょうか。神様に対して、どれほどの時間、祈りますか。今は亡き榎本先生が「壊れやすいのは、祈りの祭壇です」と語られた言葉が耳に残っています。本当にそうだと思います。そして、祈りは神との対話であると言いながら、祈りにおいて神の御声を聴くことがありません。
一日5分、神の御声に耳を傾ける沈黙の祈りをしてみましょう。最初はとても長い時間に感じられるでしょう。そして、どなたの声を聴くことも出来ないかもしれません。けれども、私たちの心には穏やかな静けさが残ります。その心で聖書を読み、導きに従って祈りましょう。
神は、私たちがどのような言葉で祈るかではなく、どのような心で主を仰ぎ、主を求めるかを見ておられるのです。そして、絶えずご自身を求める私たちの心の祈りを待っておられるのです。主イエスが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ福音書6章33節)とおっしゃっておられるのも、そのことでしょう。
祈りを通して、主と深く親しく交わることが出来たとき、私たちの心には喜びと感謝の思いが満ちています。祈りなさいという勧めを、「喜びなさい」、「感謝しなさい」という言葉でサンドイッチしているのは、そういうことでしょう。主と深くつながっているからこそ、いつも喜ぶことが出来、そして、どんなことも感謝に変えられるのです。
そのことを10節でも、「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」と語っていました。眠っているときでさえ主と共に生きるとは、詩編127編2節で「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」と語られていたことを思い起こします。
それは、私たちを愛し、私たちの必要をご存知の主に信頼し、主と共に歩むとき、主は私たちを安心して眠らせてくださる、私たちが眠っている間も、私たちに必要な最善のことを神がしていてくださるということです。
それは、私たちを愛し、私たちの必要をご存知の主に信頼し、主と共に歩むとき、主は私たちを安心して眠らせてくださる、私たちが眠っている間も、私たちに必要な最善のことを神がしていてくださるということです。
冒頭の言葉(19節)でパウロは、「霊の火を消してはいけません」と言いました。私たちが神の望みに応えないことは、霊の火を消すことと読めます。そしてまた、神の望みに応えるには、霊の火が必要だ、御霊の働きが必要だということです。
御霊に満たされ、御霊の力が働くところに、神の御業が進められます。御霊のあるところに自由があり、主の霊の働きにより、私たちは栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていくのです(第二コリント書3章17,18節)。主と同じ姿に造りかえられるとは、私たちの教会がキリストの体として、キリストの教会らしく建て上げられるということです。
絶えざる喜びがあり、感謝があり、祈りがある教会として、建て上げていただきましょう。
主よ、どうかキリストの恵みが絶えず私たちと共にあり、平和の神ご自身の働きを通して、私たちが御前に何一つかけたところのないものとしてくださいますように。そのために、私たちが日々、あなたが望まれているとおり、いつでも、絶えず、どんなことにおいても主を仰ぎ、喜び、感謝して祈ることが出来ますように。 アーメン