風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2017年04月

4月30日(日) 第一テサロニケ書5章

「霊の火を消してはいけません。」 テサロニケの信徒への手紙一5章19節

 12節以下は、本書の「結びの言葉」です。最初に「あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい」(12,13節)といってお願いします。つまり、指導者を重んじ、尊敬して欲しいというのです。ここに、教会内の組織化が始まっているようです。

 次に、怠けている者たちを戒め、気落ちしている者を励まし、弱い者を助け、すべての人に忍耐強く接するよう勧めます。信徒たちへの相互牧会の勧めです。

 続いてパウロは、信仰生活のために大切な三つの勧告を与えます。そこに信仰生活の理想が示されます。その勧告が大切であるというのは、神がテサロニケの信徒たちに望んでおられることだと言われているからです。それは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(16~18節)という勧めです。

 この勧めの中心は、「絶えず祈りなさい」(17節)です。祈りは、神との対話であると教えられました。対話で大切なことは、正しく向かい合い、相手の話をきちんと聞くことです。自分の言いたいことを言うだけ言って、相手の話を聞かなければ、対話になりません。

 私たちの生活は、昔と比べると、科学・技術の発達により、何でも大変便利になりました。洗濯も炊飯も全自動、交通手段の発達で、遠距離の移動も短い時間で出来るようになりました。コンピューター一台あれば、相当量の仕事をこなすことが出来ますし、世界のあらゆる情報を瞬時に手に入れることが出来ます。

 ところが便利な機器が登場すればするほど、仕事量が増え、家族団欒の時間はドンドン削られていきます。毎日、家族とどれだけ会話していますか。その会話の中で、家族の話を聞いたという時間はどれくらいありますか。

 「風呂・飯・寝る」と3語だけの毎日というほど極端でなくても、会話の殆どが相手に対する要求の言葉で、相手の話にじっくりと耳を傾けるというゆとりのない生活になってしまっています。

 そしてそれは、特に祈りにおいて顕著ではないでしょうか。神様に対して、どれほどの時間、祈りますか。今は亡き榎本先生が「壊れやすいのは、祈りの祭壇です」と語られた言葉が耳に残っています。本当にそうだと思います。そして、祈りは神との対話であると言いながら、祈りにおいて神の御声を聴くことがありません。

 一日5分、神の御声に耳を傾ける沈黙の祈りをしてみましょう。最初はとても長い時間に感じられるでしょう。そして、どなたの声を聴くことも出来ないかもしれません。けれども、私たちの心には穏やかな静けさが残ります。その心で聖書を読み、導きに従って祈りましょう。

 神は、私たちがどのような言葉で祈るかではなく、どのような心で主を仰ぎ、主を求めるかを見ておられるのです。そして、絶えずご自身を求める私たちの心の祈りを待っておられるのです。主イエスが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ福音書6章33節)とおっしゃっておられるのも、そのことでしょう。

 祈りを通して、主と深く親しく交わることが出来たとき、私たちの心には喜びと感謝の思いが満ちています。祈りなさいという勧めを、「喜びなさい」、「感謝しなさい」という言葉でサンドイッチしているのは、そういうことでしょう。主と深くつながっているからこそ、いつも喜ぶことが出来、そして、どんなことも感謝に変えられるのです。

 そのことを10節でも、「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」と語っていました。眠っているときでさえ主と共に生きるとは、詩編127編2節で「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」と語られていたことを思い起こします。

 それは、私たちを愛し、私たちの必要をご存知の主に信頼し、主と共に歩むとき、主は私たちを安心して眠らせてくださる、私たちが眠っている間も、私たちに必要な最善のことを神がしていてくださるということです。

 冒頭の言葉(19節)でパウロは、「霊の火を消してはいけません」と言いました。私たちが神の望みに応えないことは、霊の火を消すことと読めます。そしてまた、神の望みに応えるには、霊の火が必要だ、御霊の働きが必要だということです。

 御霊に満たされ、御霊の力が働くところに、神の御業が進められます。御霊のあるところに自由があり、主の霊の働きにより、私たちは栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていくのです(第二コリント書3章17,18節)。主と同じ姿に造りかえられるとは、私たちの教会がキリストの体として、キリストの教会らしく建て上げられるということです。

 絶えざる喜びがあり、感謝があり、祈りがある教会として、建て上げていただきましょう。

 主よ、どうかキリストの恵みが絶えず私たちと共にあり、平和の神ご自身の働きを通して、私たちが御前に何一つかけたところのないものとしてくださいますように。そのために、私たちが日々、あなたが望まれているとおり、いつでも、絶えず、どんなことにおいても主を仰ぎ、喜び、感謝して祈ることが出来ますように。 アーメン




4月29日(土) 第一テサロニケ書4章

「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」 テサロニケの信徒への手紙一4章14

 4章から第二部に入り、現在の問題についての勧めが語られます。最初に、「主イエスに結ばれた者としてわたしたちはさらに願い、また勧めます」(1節)と言います。「主イエスに結ばれた者として」は「主イエスにおいて」(エン・キュリオー・イエスー:in the Lord Jesus)という言葉です。

 「神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました」(1節)で「学びました」は「受け入れた」(パラランバノー:receive)という言葉です。パウロも、キリストの福音を使徒たちから受け取りました(第一コリント書15章3節)。それをテサロニケの人々に伝えました。キリストの福音が次々に手渡されていきます。

 「その歩みを今後もさらに続けてください」(1節)は、原文では「あなたがたがもっと豊かになるために」(ヒナ・ペリッセウエーテ・マーロン:so that you should abound more and more)です。主イエスにあって受け入れた福音に歩むのは、神に喜ばれる生活において豊かになるため、神に喜ばれる生活をさらに豊かに歩むためということです。

 神に喜ばれる生活とは、「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働く」(11節)ことです。当時は、労働を悪のように考え、働かずに暮らせる豊かさを持つことが名誉とされるところがありました。それに対して、ストア哲学の影響で他人の労働をあてにせずに自ら働くことを高く評価する気風が一般大衆の間に生まれてきていました。

 パウロはしかし、そのような気風に倣うことなど、人の評判を考えてそのように語っているのではありません。キリストは自ら、仕えられるためではなく仕えるために、愛されるためではなく愛するために、この世に来られました。キリストに従う者は、キリストに倣い、進んで奉仕する者になるべきことを教えているのです。

 「落ち着いた生活」を語った後、13節に「既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」と言います。「眠りにつく」とは亡くなることです。亡くなった者のことで嘆き悲しんで、希望を持たないほかの人のようにならないようにとパウロが願っているわけです。

 勿論、亡くなった者のために嘆き悲しんではならないということではありません。どんなに嘆き悲しんでも、悲しみ過ぎるということはありません。そういう感情を持ってはいけないと言っているわけではないのです。そうではなく、私たちには、死者のことで嘆き悲しみ、希望を失うことがないようにと語っているわけです。

 1章3節に、「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」と記されていました。

 ここに、信仰、愛、希望という、永遠に続く神の賜物が登場してきます。そして、ここに「希望」という賜物が既にテサロニケの人々に与えられていることが明言されています。その希望は、私たちの願望などではありません。イエス・キリストに対する希望です。

 イエス・キリストに対して希望を抱いているテサロニケの人々が、眠りについた人たちのことで、希望を失ってただ嘆き悲しむだけの者となるとは考えられないことです。冒頭の言葉(14節)は、その根拠を示すものです。

 「イエスを信じて眠りについた人たち」のことを語っているのは、まさにここがテサロニケの人々の関心事だったからでしょう。パウロは15節で「主が来られる日まで生き残るわたしたちが」と記しています。主の再臨が間近くて、その日まで自分たちは生き残っていると考えていたわけです。ところが、主の再臨を待たずして召される信仰の友が出て来ました。

 それは迫害による殉教でしょうか。あるいは病気で亡くなるということでしょうか。それ以外の死因もあり得ますけれども、いずれにせよ、信仰を持ちながら亡くなった者たちはどうなるのかということが問題になっているわけです。

 その問いに答えるために、冒頭の言葉(14節)を告げているのです。ここで「イエスを信じて」は「イエスによって」(ディア・トゥー・イエス―)という言葉ですから、「眠りについた」を形容するというより、むしろ、「導き出してくださいます」につけて、「イエスを通して、イエスと一緒に導き出してくださいます」と訳したほうがよいのではないかと思います。

 死んで甦られた主イエスの働きで、共に死から導き出されるということです。「導き出してくださいます」(アクソー)は、「導く」(アゴー)の未来形です。導き出してくださるだろうと推論しているわけです。それで、その根拠を15節に示します。それが、「主の言葉に基づいて」(エン・ロゴー・キュリウー:by word of the Lord)と言われていることです。

 「次のことを伝えます」以下に主の言葉の内容が告げられますが、主イエス再臨後の出来事について、主イエスご自身の言葉は新約聖書中に記録されていません。聖書外の主イエスの語録か、キリスト教預言者の言葉で主イエスによる啓示という可能性が考えられます。岩波訳の注釈などは、後者の可能性が大としています。

 この手紙には、キリストが再びおいでになることについての希望の言葉が、1章10節、2章19節、3章13節、5章23節など、あちこちにちりばめられています。そして4章13節以下の段落では、主の来臨そのものについて語られています。

 再臨について、まず「合図の号令」、「大天使の声」、「神のラッパ」という、さながら凱旋将軍の到来を知らせるような現象が起こり、それから満を持したかの如く、「主御自身が天から降って来られます」(16節)。

 すると、「キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し」ます(16節)。それから、「わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼ら(キリストに結ばれて死んだ人たち)と一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」(17節)。

 パウロが語っているのは、単に私たちの体が復活することに対する希望ではありません。再臨の主と出会い、キリストに結ばれて死んだ人たちと共に天に引き上げられ、そこでいつまでも主と共に過ごすことが出来るという、主との交わりに与り続けることが出来るという希望です。

 「イエスを信じて」(14節)、即ち、死んで甦られた主イエスを通して、主イエスと共に導き出されることが、主との交わりに与り続けることが出来るという尽きない希望となっているのです。

 そのことを覚え、慰め合い、励まし合って、お互いの信仰の向上に心がけて参りましょう。

 主よ、日々の生活で神を喜び、神に感謝する生活、主に信頼し、御言葉に従う生活が求められていること、その中で特に、死んで甦られた主イエスを通して、共に復活の恵みに与り、永遠に主と共にあることが出来る希望を与えられていることを学びました。どうか、落ち着いた生活のうちに、主に深く信頼し、御言葉に従う喜びをさらに深く味わうことが出来ますように。 アーメン





4月28日(金) 第一テサロニケ書3章

「わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。」 テサロニケの信徒への手紙一3章9節

 迫害のゆえにテサロニケを去ったパウロは(使徒言行録17章5節以下、10節)、後に残した教会が心配で、若い伝道者のテモテを派遣しました。使徒言行録では、パウロはシラスとテモテをベレアに残したことになっていますが(同14節)、テモテはそのとき、パウロの命を受けてテサロニケに戻ったのでしょう。

 それは、「あなたがた(テサロニケの信徒たち)を励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするため」(1節)です。テサロニケからコリントまで、当時の交通事情で数週間かかったということですから、往復の時間、そしてテサロニケ滞在期間を考えると、旅は2ヶ月以上になったでしょう。

 当初、パウロはアテネで二人が戻って来るのを待っていましたが(使徒言行録17章16節)、二人が戻って来たのは、パウロがアテネを去ってコリントで伝道を始めてからでした(同18章5節)。だから、パウロは鶴のように、キリンのように首を長くして、テモテたちが戻って来るのを待っていたことでしょう。迫害下のテサロニケ教会の様子を早く知りたかったからです。

 そうした事情がここに記されていることを、少々意地悪な注解者は、テモテの働きはあまりうまくいかなかったんじゃないかと言います。この手紙は、テモテがもたらしたニュースを聞いて喜んだパウロが、さらに教会を励ますために書いたものです。テモテが派遣された理由が、わざわざここに書かれる必要はないでしょう。それが書かれているのは、不首尾だったからだというわけです。

 確かに、人の苦労を慰め、励ますというのは、若者にとって易しいことではないかも知れません。お前に何が分かると言われると、口を閉ざさざるを得ません。神様の慰めがありますようにと語り、祈るというのが精一杯です。それは年をとってもそうですが、苦労を経験している分、同情が出来るというか共感が出来るというものですね。

 パウロがテモテを「わたしの兄弟、キリストのために働く神の協力者」とあらためて紹介しながら、苦難に遭っても誰一人動揺することのないように、彼を派遣したんだと執り成しつつ語っています。

 3節に「わたしたちが苦難を受けるように定められている」という言葉があります。パウロはなぜこのように語っているのでしょうか。クリスチャンは苦しむことになっているという一般論的な表現でしょうか。確かに、主イエスが苦しまれたから、弟子も苦しみを受けるということはあります。しかし、それ以上のことがあると思います。

 パウロは主イエスに、苦しみの伴う使命を受けました。使徒言行録9章16節に「わたし(イエス)の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼(パウロ)に示そう」とあります。パウロが使徒として選ばれたときの、主がパウロへの使者として遣わすアナニアに語った言葉です。パウロが使徒として指名されたとき、それゆえに苦しむことも受け入れたわけです。

 しかし、パウロは受ける苦しみをじっと我慢しているというわけではありません。そこには深い喜びがあります。その苦しみが主イエスの十字架とつながっていると感じられること、そして、その苦しみを通って復活の恵みに直結されていると信じられることです。

 神は確かに、万事を益としてくださいます(ローマ書8章28節)。ゆえにパウロは、苦難をも誇りとすると語ることが出来ました(同5章3節)。

 主イエスも山上の説教(マタイ福音書5~7章)の冒頭で、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」(同5章11,12節)という祝福を語ってくださいました。

 やがて、テモテが戻って来て、嬉しい知らせを伝えました(6節)。それは、彼らが信仰に立ち、しっかりと主に結ばれていたからです(7,8節)。パウロはそのとき、アテネからコリントに伝道の場所を移していました。

 パウロがコリントで伝道を始めたとき、「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(第一コリント書2章3節)。なぜそんな状態になっているのか、具体的な理由は分かりませんが、一つには、テサロニケに遣わしたテモテや、ベレアに残してきたシラスのことが気になっていたのでしょう。そしてまた、コリントの伝道がなかなか困難であったのではないかとも想像されます。

 しかし、シラスとテモテがマケドニア州から到着すると、「パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証し」(使徒言行録18章5節)しました。それは、テモテによってもたらされた「うれしい知らせ」(原文では「福音を告げ知らせる」という言葉が用いられています)がパウロを大いに喜ばせ、励ましたからです。

 アラビアのことわざに、「日光ばかりは砂漠を作る」という言葉があるそうです。私たちは皆、太陽の光を喜びます。晴れていることをよい天気と言い、雨が降ることを天気が悪いという言い方をします。しかし、雨が降らなければ、生命を育むことが出来ません。

 困難が身に及ぶことを好む人はいないでしょう。しかし、私たちの人格、品性は、困難によって練り鍛えられます。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ書5章3,4節)と言われるとおりです。それは、困難にあうとき、人は謙遜にされ、忍耐を学ぶからです。そして、神に助けを求め、傍近くに共におられる主イエスを見出し、御手の業に与るからです。

 パウロはこのとき、自分自身よりもむしろ、テサロニケの信徒たちの困難な状況に心痛めていたのでしょうけれども、彼らの信仰によってかえって励まされるという恵みを味わいました(7節)。彼らに信仰を与えたのは自分だという自負心がなかったとは思いませんが、しかし、彼らが信仰に堅く立っているのは、神の恵みであることを、誰よりもパウロ自身が知っていることです。

 それがどれほどの喜びであったかが、冒頭の言葉(9節)に窺えます。「感謝」(エウカリスティア)は、「恵み」(カリス)に対する応答に他なりません。「ささげる」の原語は「アンタポディドーミ」で、これは、「アンティ」と「アポ」「ディドーミ」の合成語です。

 「アポ」は「~から」という前置詞、「ディドーミ」が「与える」という動詞で、この二つが組み合わさると、「返す、支払う」という意味になります。そして、「アンティ」は「~の代わりに」という前置詞です。合わせると、「代わりに返す、返礼する」という意味になります。恵みを与えられた者として、喜びあふれて感謝の返礼をせずにはおれないということです。

 パウロはテモテの報告を受けて、コリントの伝道に専念し、キリストを力強く証ししました(使徒言行録18章5節)。そこにも神の恵みが働いていることを、あらためて知らされたからでしょう。そして、そうすることこそ、恵みを無駄にしないというパウロの(第一コリント書15章10節)、神への感謝の返礼ということなのです。

 私たちも主の恵みに与っている者として、主イエスを通して賛美のいけにえ、即ち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう(ヘブライ書13章15節)。それを神がお喜びになるからです(同16節)。

 主よ、どうか私たちをお互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように。そして、私たちの主イエスが御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、私たちの心を強め、私たちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように。 アーメン








4月27日(木) 第一テサロニケ書2章

「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」 テサロニケの信徒への手紙一2章13節

 冒頭の言葉(13節)の「このようなわけで、わたしたちは絶えず」という言葉ですが、原文を正確に訳すと、「このようなわけで、わたしたちもまた、絶えず」となります。「わたしたちもまた」とは、テサロニケの人々が神に感謝しているということが言外に言い表されていると考えられますが、1章2節で語った感謝に続いて、もう一度感謝を語っているということもあるでしょう。

 1章3節では、テサロニケの人々が信仰によって働き、愛のために労苦し、希望を持って忍耐していることを感謝すると言っていました。そこに、「信仰」と「愛」と「希望」という三つの言葉が出て来ます。これは、第一コリント書13章13節の「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」という大変大事な言葉を思い出させます。

 信仰、希望、愛、この三つは、聖霊なる神が与える賜物です。そして、その中で最も大いなる賜物は愛であると教えられていました。

 この信仰、希望、愛という賜物が、設立されたばかりでまだ基礎が固まったとも思えなかったテサロニケの教会に既に与えられています。彼らは、その信仰によって働き、愛のために労苦し、そして与えられた希望のゆえに迫害を忍耐しているのです。その様子をテモテから聞かされて、パウロは感謝しているのです。

 その感謝をささげた後、パウロはまた新たな感謝をささげます。その感謝の理由は、テサロニケの人々がパウロの語った福音のメッセージを神の言葉として受け入れたことです。これは、1章6節でも「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」と記しているとおりです。

 テサロニケの人々が御言葉を受け入れたのは、パウロの説教が分かりやすかったとか、上手だったというのではなくて、聖霊なる神の働きです。人々が神の言葉を受け入れ、その御言葉に従って信仰に生きるように導くことが使徒パウロの使命です。そのために命がけで働いているのです。

 しかし、真剣に働きさえすれば、伝道できるというものでもありません。そもそも、第二回伝道旅行でテサロニケに来る予定はありませんでした。彼らはアジア州、ビティニア州を回るつもりでした。ところが、そこでの伝道を聖霊に禁じられたと使徒言行録に記してあります(16章6節以下)。それは、アジア州とビティニア州で伝道がうまくいかなかったということだろうと想像します。

 それで、これからどうしようかと導きを祈っていたら、マケドニアに渡って行けと示されたというところでしょう。その導きに従ってテサロニケにやって来たわけですが、そんなパウロの説教をテサロニケの人々が聞いてくれたということ自体が、聖霊の導きです。そして、その説教で彼らが御言葉を受け入れ、主イエスを信じました。ですから、彼は神に感謝せずにはおれないのです。

 これは、説教者ならば、誰もが経験するところです。イエス様を信じてほしいと思って、一所懸命説教の準備をします。けれども、願いに反して人々の反応は芳しくない、自分でも、自分の説教がうまく語れたとは思えず、落胆して講壇を降りることがあります。そして、そういうことが少なくありません。

 それなのに、主イエスを信じたいという人々が出て来ます。そのたびに、これは神様だ、神様が働かれたんだと思います。そして、そのような拙い説教を神が用いてくださったと思うと、ただ感謝するほかありません。

 パウロはここで、感謝の理由として、驚くべき表現を用いています。それは、彼らがパウロの説教を、「人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」と語った後、「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」と記していることです。

 それは、パウロが語る言葉が、すべて神の言葉であるということではありません。だいいち、パウロは人間です。人間が神の言葉を語るのは、不可能なことです。けれども、テサロニケの人々は、パウロの説教を神の言葉として聞いたのです。

 ここには、パウロ自身の喜びと申しますか、驚きが表現されているのではないかと思います。自分の語る言葉を神の言葉として聴いてくれる、そして、その言葉が彼らの内にあって神の力となって働いていることが分かったというわけです。

 パウロが語っているのは、彼自身が聞いて受け入れた福音です(第一コリント書15章3~5節「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」)。

 パウロが受け入れた福音が彼のうちに働き、彼を使徒として立たせました。つまり、パウロ自身にとっても、聞いたのは人間の言葉ではなく、神の言葉だったのです。それで、パウロはテサロニケで神の福音を宣べ伝えました。そしてテサロニケの人々は、その説教を神の言葉として聞いたというわけです。

 神の言葉には力があり、暗闇に光を生じさせ、病を癒し、悪霊を追放し、嵐を凪に、死者に命を与え、存在していないものを呼び出すことが出来ます。

 テサロニケの人々は、主イエスを見たことがありません。主イエスから教えを受けたこともありません。お会いして教えを聞くことはおろか、見たこともないお方を、彼らは喜びをもって受け入れたのです。そして彼らは、パウロたち一行がベレアへ去ってから後も、迫害の中で信仰を保ち、福音を広めようとしていたのです(14節)。

 彼らが聞いたパウロの説教が、神の言葉として現に彼らの中に働いているとパウロが語っているのは、そのことでしょう。

 パウロの聞いた福音が神の言葉だから、パウロを迫害者から伝道者に作り変えました。そして、パウロの語る福音が神の言葉だから、テサロニケの人々がそれを受け入れ、彼らもパウロに倣い、そして主イエスに倣う者となったのです。

 神の御言葉が語られ、それを神の御言葉として聞かれるところで、福音宣教の連鎖が起きるのです。それは、語られている福音が、事実、力ある神の御言葉だからです。聖霊の導きによって語られる福音のメッセージを、神が、神の言葉として人々の心に届けて下さり、御言葉を通して神の力が働くようにされるというわけです。

 ローマの信徒への手紙10章17節に、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」という言葉がありますが、キリストの言葉が私たちに信仰を与えるということです。すべてを主に委ね、御言葉に従って参りましょう。

 日毎、主なる神のみ顔を慕い求め、御言葉を聴かせてくださいと求めましょう。主を信じ、御言葉を信じましょう。そして、パウロのごとく、テサロニケの教会の人々のごとく、主に従って歩みましょう。福音を宣べ伝えましょう。神の愛を喜びをもって証ししましょう。

 主よ、御言葉を受け入れ、神の力を頂いて御言葉を語るようになった人々の働きにより、私たちも神の御言葉を聞くようになりました。その言葉を神の言葉と信じて受け入れることが出来ました。私たちの中でも御言葉が神の言葉として働いています。聖霊に満たされ、その力を受けてキリストの福音を語り伝える者となることが出来ますように。御名を崇めさせ給え。御国を来たらせ給え。 アーメン





4月26日(水) 第一テサロニケ書1章

「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。」 テサロニケの信徒への手紙一1章6,7節

 今日から第一テサロニケ書を読みます。本書は、パウロによって紀元50年頃に記されました(1節)。福音書(紀元70年前後)などよりも早く、新約聖書の中で、最も早く執筆されたと考えられています。

 テサロニケの教会は、フィリピ教会と同様、パウロの第二回伝道旅行のときに、その伝道の働きによって紀元49年頃築かれました(使徒言行録17章)。テサロニケは当時、人口12万を数え、マケドニア州の州都として隆盛期を迎えていました。現在は、40万ほどの人口があるそうです。マケドニアがあれば、カチドニアがあるのかと尋ねるのは、単なるダジャレの世界です。

 使徒言行録の記事によれば、パウロのテサロニケにおける伝道は短期間でしたが、教会の基礎はしっかりと築かれたようです。けれども、そうして教会が築かれると、それを妨害する働きもあらわになります。その活躍を妬んで暴動が起こり、町が混乱に陥りました。パウロたちの身に危険が及んだので、やむなくテサロニケを後にして、次の宣教地ベレアに向かいました。

 しかしながら、テサロニケには生まれたばかりの教会があります。迫害の中に残された信徒たちが心配です。そこで、パウロはアテネからテモテを遣わします(第一テサロニケ書3章1節以下)。彼らが苦難の中でも動揺せず、信仰を守るように励ますためでした。

 アテネとテサロニケは、徒歩で数週間という距離です。テサロニケで活動する時間を考えれば、テモテがアテネからテサロニケに行き、パウロの元に戻ってくるまでには、2ヶ月以上かかったことでしょう。テモテが戻ってくるときには、パウロはコリントに移動していました(使徒言行録18章1,5節参照)。

 戻ってきたテモテの報告を聞いて、パウロは飛び上がるほど嬉しかったことでしょう。それは、彼らの信仰と愛について、「うれしい知らせ」(原文では「福音を告げ知らせる:エウアンゲリゾマイ」という言葉が用いられています)がもたらされたからです(第一テサロニケ書3章6節以下)。それは、彼らがあらゆる困難と苦難に直面しながらも、しっかりと主を信じて歩んでいるというものでした。

 それで、嬉しくなって記したのが、この手紙なのです。ですから、この手紙を読みますと、パウロの喜びと感謝が伝わってきます。この手紙の主題は「感謝」の二文字に尽きると言ってよいかも知れません。

 2節に「神に感謝しています」という言葉が出て来ます。このところを原文で読むと、2節から5節までは一つの文章です。そして「感謝しています」(エウカリステオー)が、長い文章の述語動詞なのです。そして、6節以下も、パウロの感謝の内容が記されていると言ってよく、1章全体が「感謝する」という言葉の内容説明になっているわけです。

 そればかりか、3章9節までこの感謝が続いていると見ることも出来ます。そして、5章18節では、「どんなことにも感謝しなさい」という勧めの言葉が記されています。この手紙の主題が「感謝」という二文字に尽きるというのは、そうした内容だからです。

 パウロは、「祈りの度に、あなたがた」(2節)、即ちテサロニケの人々のことを思い起こしてと記しています。つまり、パウロは、祈りのときに、一人で神の前に立っているわけではないということです。祈りの時に、一緒に立っている信仰の仲間がいたわけです。

 一緒にいる仲間のことをいつも思う、祈りの度に、一人で神の前に立ち、一人で訴えているというのではなくて、祈りの仲間がわんさといる、その仲間の中にテサロニケの人々もいる、彼らのことを思うと、感謝の思いが溢れて来るというのです。

 このパウロの祈りの心を学びたいと思います。祈りの時に、誰と一緒に神の御前に立っているのでしょうか。一人で神の前に立ち、一人で祈っていると考えているのは、まだまだ信仰が序の口ではないかと考えさせられました。信仰の初歩を後にして、成長していくために、祈りについても大切なことを学び、身につけなければならない、それは、祈るとき、私たちは決してひとりではないということです。

 そのような感謝の思いのうちに冒頭の言葉(6,7節)が記されています。「あなたがたは、ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」(6節)というのは、とても不思議な言葉です。ひどい苦しみを受けているのに、喜びをもって御言葉を受け入れているというのです。

 苦しみに遭うのはいやです。信仰に入ったために苦しみを味わうという事態に追い込まれたテサロニケの信徒たちは、そこで信仰を捨てるどころか、むしろ「聖霊による喜び」に満たされました。どういう心境なのでしょうか。よく分かりませんが、それが神が彼らの中で働いているという証拠です。

 4節に「神に愛されている兄弟たち」と言い、そして、「あなたがたが神に選ばれたことを、わたしたちは知っています」と語っています。テサロニケの人々、即ち異邦人を「神に選ばれている」と言っているのです。

 それは、ユダヤ人たちが拒絶したキリストの福音を、ひどい苦しみを受けながらも、聖霊による喜びをもって受け入れたからです。それこそ、神に愛され、選ばれた者であるしるしだと語っているわけです。ということは、ここにいる私たちも、キリストの福音を受け入れることが出来たということは、神に愛され、神に選ばれた者であるということになります。

 テサロニケの人々は、御言葉を受け入れて喜んだでおしまいではありません。彼らは、「パウロに倣う者となり、そして主に倣う者となった」(6節)というのです。「倣う」というのはミメーテースという言葉ですが、ここから、ラテン語のイミタチオ、英語でイミテーションという言葉が出来ました。

 イミテーションと言えば、偽物、まがい物という意味に用いられるところがあります。けれども、なぜイミテーションが造られたのかと考えると、それは、本物は素晴らしい価値をもっているからです。それを何とか再現したい、近づけたいと考えて、造られたわけです。

 パウロが語った福音、イエス・キリストの福音が素晴らしいので、テサロニケの人々はパウロの真似をしようとしたわけです。つまり、彼らはパウロが自分たちに伝えてくれた御言葉をしっかりと覚え、身につけて、今度はそれを、他の人々に対して宣べ伝えるようになっていったのです。

 パウロは、第一コリント書11章1節にも、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と記しています。パウロを手本にすることが、キリストに倣うことなのです。

 それは、完全無欠の立派な生活をするということではありません。立派な生活をしているから、「倣いなさい」と言っているわけではありません。むしろ、欠点だらけの自分をキリストが愛してくださり、使徒として選んでくださった。その神の恵みに感謝して生きている、そのところで自分に倣う者になってほしいと思っています。

 どうすれば、神の恵みに感謝する生活をすることが出来るか、その恵みを回りにいる多くの人々に伝えることが出来るかということをいつも考え、キリストに従って生きようと努力している、そういう生活を真似てほしいとパウロは考えているわけです。ということなら、私たちも同じように、「私に倣いなさい」と言うことが出来ますし、そう言える生活をしなければならないと思います。

 テサロニケの人々は、パウロが語る御言葉を受け入れ、さらに、パウロを真似て神の御言葉を語るようになりました(7,8節参照)。それは、言葉だけによらず、生活を通して、そのような生き方で伝えたのです(8~10節、5節も参照)。

 それで、「主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡った」と言われているわけです(8節)。「響き渡る」とは、山彦、エコーという言葉です。彼らがどのように神を信じるようになったのか、至るところで証ししたのです。そして、その言葉が信徒たちだけでなく、他の人々の口に上るほどの噂になって行ったということです。
 
 日本の至るところで、神の恵みに感謝する声が響き渡るように祈ります。神を賛美する声が響き渡るようにと願います。私たちが日々、御言葉の恵みに与りながら、神の御前に信仰の輩と一緒に祈れる恵みに感謝しながら生活することを通して、信仰が至るところに宣べ伝えられ、主の御言葉が響き渡るように、そのような信仰の生活の模範になることが出来るようにと、祈りつつ励んでまいりましょう。

 主よ、神に愛され、選ばれたテサロニケの人々がパウロに倣い、主に倣う者となって、主の言葉がマケドニア州とアカイア州、ギリシアの国中に響き渡り、彼らの信仰が至るところで語り伝えられたように、私たちも神に愛され、選ばれた者としてパウロに倣い、主に倣うものとしてください。この地域に、そして日本中に福音が響き渡りますように。 アーメン







4月25日(火) コロサイ書4章

「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」 コロサイの信徒への手紙4章2節

 この手紙は、用語法や文法の特徴から、パウロが語った内容を聞き取ったテモテがこの手紙の執筆し(1章1節)、最後にパウロが署名をして(18節)、それをティキコに届けさせたものでしょう(7節)。ティキコはアジア州出身で(使徒言行録20章4節)、エフェソはアジア州の中心都市でした。ここでパウロと出会い、同労者となったわけです。

 ティキコにオネシモが同行します(9節)。オネシモは、フィレモン書で知られる人物で、フィレモンのもとから逃げ出してパウロのもとに身を寄せ、信仰の道に入り、コロサイのフィレモンのもとに送り返されました(フィレモン書12節)。そこから再びパウロのもとに遣わされ、今度はパウロの使者として、ティキコを連れてコロサイに戻るのです。

 10節には、「バルナバのいとこマルコ」の名があります。第2回伝道旅行の際に、マルコのことでパウロとバルナバが衝突したという、いわく付きの人物でしたが(使徒言行録15章38節、13章13節参照)、長い年月を経て、このマルコがパウロにとって有用な協力者になったことを示しています(フィレモン書24節参照)。

 そして、アルキポに、「主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように」(17節)と書き送ります。フィレモン書1,2節の宛名から、アルキポはフィレモンの子ではないかということと、コロサイ教会で伝道者として重要な役割を担っていたのではないかということが窺えます。

 「務めに意を用い、それをよく果たすように」と語るということは、アルキポが意気阻喪しているか、あるいは、その務めを軽んじているという様子を想像させます。それに対して、「主に結ばれた者として」それを行うようにと諭しているのです。

 7節のティキコを「彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕」と紹介し、17節でアルキポに「主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、云々」と語って、7節以下の段落は、最初と最後に「主に結ばれた」(エン・キュリオー)という言葉が出て来て、括弧で括ったような形になっています。

 これは、この二人だけのことでなく、「主を信じる者」(3章18節:エン・キュリオー)すべてが主に結ばれた者であり、各自主に結ばれた者として、委ねられた務めに意を用いよと語られているということです。

 私たちが十字架につけられた主イエスを、私たちの救い主、神の御子であると信じることが出来たのは、聖霊の導きです。聖霊が私たちの内に満たされるというのは、キリストが私たちの内に宿られるということであり、それは、イエスこそ私たちの主であるという信仰に堅く立つことです。

 冒頭の言葉(2節)で「目を覚まして」というのは、聖書では通常、終末との関連で用いられます。「世の終わりが近づいているから気をつけて」という意味になります。「十人のおとめ」のたとえ(マタイ福音書25章1節以下)が、「目を覚ましていなさい」(同13節)という警告で締め括られていました。

 朝が来て陽が上り、明るくなると目が覚めます。私たちの心の目、信仰の目を覚まさせるのは、神の御言葉です。御言葉が開かれ、命の光に照らされると、心の目が開かれて来ます。詩篇119編130節に「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます」と詠われています。

 そして、今がどのようなときなのか、何をすべきなのかを教えてくれるのです。御言葉に耳を傾けず、祈りもしないというのは、それは信仰的に「とき」を弁えていない、霊的に眠り込んでいるということになります。目を覚ますことが祈ること共に語られているのは、ひたすら祈ることが、目を覚まして主を待つ正しい姿勢だからです。

 「ひたすら祈りなさい」というのは、「祈りに専念しなさい、絶えず祈り続けなさい」ということです。「絶えず祈りなさい」(第一テサロニケ書5章17節)という言葉もあります。どうすれば、ひたすら祈れるようになるのでしょうか。24時間365日、不断の祈りが出来るでしょうか。それは、人間には無理なことのように思われます。

 けれども、もしそれが不可能なことであるならば、どうして「ひたすら祈れ」、「絶えず祈れ」と命じているのでしょうか。少なくとも、手紙の著者はそれが出来ると考えているのです。どうすればよいのでしょう。

 一つは、私たち弱い者のために、私たちの内におられる聖霊が、私たちのために執り成しの祈りをしておられることを覚えましょう(ローマ書8章26,27節)。私たちを守る神は「まどろむことなく、眠ることもない」(詩編121編4節)お方ですから、不断の呻きの祈りをささげて、万事が益となるように働いておられるのです。

 さらに、もう一つ。これはバークレイ先生(西南学院大学宗教部長、神学部教授、福岡ベタニヤ村教会協力牧師)から教えていただいたことです。不断の祈りを一人の人間が行うのは無理かもしれませんが、他の人に祈りの応援を頼んだらどうでしょう。一方が眠っている間、他の人が目を覚ましてお互いのために祈るのです。

 パウロも「ひたすら祈りなさい」と言った後に、「わたしたちのためにも祈ってください」(3節)と祈りを要請しています。お互いに祈り合うことを通して、そのような祈りの交流を通して、不断の祈りが神の前にささげられることになるのです。

 神に心を向けて祈ろうとするとき、私たちのために不断に執り成し、万事を益としてくださる聖霊の働きを思い、また、お互いのために祈る信仰の仲間のあることを思うと、心に感謝と賛美が湧き出して来るでしょう。パウロがここに「感謝を込め、ひたすら祈りなさい」というのは、そのことではないでしょうか。

 絶えず主を仰ぎ、御言葉を求めて祈りましょう。そうして感謝と喜びに満たされましょう。主は、求める者に必ず良いものをくださいます(マタイ福音書7章11節)。そう信じるからこそ、目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈るのです。

 主よ、毎日の慌しい生活の中で祈りはしますが、いつの間にかその祈りから、神を慕い求め、喜びをもって御言葉に聴き従う思いが失われています。やがて、祈らずに忙しく走り回っている自分を見出します。御言葉と祈りを通して、いつも目覚めさせてください。主の御心を心とすることが出来ますように。 アーメン



4月24日(月) コロサイ書3章

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」 コロサイの信徒への手紙3章16節

 パウロの手紙には、前半に教理的な事柄、そして、後半は実践的なことが記されるという特徴があります。本章にも、私たちのすべきこと、あるいは、すべきでないことが具体的に出て来ます。たとえば9節に「互いにうそをついてはなりません」とあります。これは、特別な言葉ではありません。ごく一般的な勧めといっても良いでしょう。つまり、言葉の真実が求められているのです。

 子どもに嘘のつき方を教える親はいないでしょう。むしろ、正直であることを願うでしょう。ところが、嘘をついたことのないという人はいません。勿論、今日は上手に嘘をつこうと思って一日を始める人もいないでしょう。それなのに、思わず知らず、真実でないものが口をついて出て来ます。

 主イエスが、「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」(マタイ12章34節)と言われました。心に真実があれば、心から溢れて来る言葉は、真実なものであるはずです。
 
 それはしかし、私たちの努力や精進によって到達出来るものではありません。8節では、「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい」と言われています。これらは、真実な交わりを阻害するもの、壊してしまうものですが、捨てなさいと言われて簡単に捨てることの出来るものでもありません。むしろ不可能でしょう。

 ただ、「無理、そんなこと出来ない」ということは簡単ですが、そういえばすむという話でもありません。パウロはここに、無理なことを要求しているわけではないでしょう。

 そのことで、私たちに心の姿勢の基本を教えているのが、1~4節です。1節に「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」とあり、続く2節にも、「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と言われています。上にあるものを求め、それを心に留める生活をせよというわけです。

 ここで、上とは、単純に真上というようなことではありません。私たちの真上は、裏側のブラジルの人々には真下ということになってしまいます。1節後半に「そこでは、キリストが神の右の座についておられます」と記されています。つまり、上とはキリストが座しておられるところという意味です。

 そこで「上にあるものを求める」とは、キリストの支配、キリストの統治を追い求めるということになります。一度、キリストに従うと言えばそれでよいということではありません。瞬間瞬間、キリストを私の主とするということです。

 主イエスが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ福音書6章33節)と言われました。「神の国」とは「神の支配」を、「神の義」は、「神の救い」を表わします。常にキリストを私の主とするということは、祈りなしには出来ません。だから、神の国と神の義を求めよ、求め続けよ、と命じているのです。

 「心に留める」(フロネオウ)という言葉は、注目する、関心を払う、愛情をもって心に抱くという意味でしょう。神の右に座しておられる主イエスを、私たちの心の中心にお迎えする、私たちの心を主イエスに明け渡し、支配して頂くと言えばよいでしょうか。そうすれば、地上のものに心引かれることはないでしょう。

 冒頭の言葉(16節)に、キリストの言葉を豊かに宿らせよと命じられています。キリストの言葉が豊かに宿るとは、キリストの言葉をたくさん憶えるということではありません。勿論、御言葉を憶えることも大切なことです。箇所と一緒に憶えられるとよいですね。

 ここで、「言葉」(ホ・ロゴス)は単数形で、定冠詞がついています。ヨハネ福音書1章1節以下の「言(ことば)」が「ホ・ロゴス」です。つまり、「キリストの言葉」とは、キリストのご人格そのもの、キリストご自身のことであるということです。

 「豊かに宿るようにしなさい」と言われていますが、キリストは私たちの内にあって、豊かに宿っておられるのでしょうか。それとも、貧しく宿っておられるのでしょうか。それは、主ご自身が豊かなのか、貧しいのかということではありません。私たちが主の働き、臨在を豊かに感じているのか、殆ど感じていないのかということです。

 そしてそれは、感覚の問題ではなく、信仰の問題です。私たちの心がどちらを向いているのか、ということです。キリストの御顔を仰ぎ、御言葉を慕い求めているのでしょうか、それとも、キリストから離れ、「巧みな議論にだまされ」(2章4節)て、自分勝手に「何の価値もなく、肉の要望を満足させるだけ」(同23節)の道を歩んでいるのでしょうか。

 私たちが、キリストに顔を向け、その御顔を拝し、御言葉に耳を傾けることに集中しているならば、私たちの心には、聖霊を通して神の愛が注がれて来るでしょう(ローマ書5章5節)。その愛によって、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け」ることが出来るでしょう(12~14節)。それは、キリストが私たちの内にあって、豊かにお働き下さるからです。

 エフェソ書5章18、19節にもよく似た言葉が記されています。そこでは、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」というところを、「霊に満たされ」るようにしなさいと言っています。聖霊に満たされるとは、キリストが私たちの間で豊かに働かれることであると語っているわけです。

 キリストが豊かに働かれると、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合」うことになります。そこに、キリストの平和があり、忍耐や赦し合いがなされています(13,15節)。また、「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえ」ることになります。

 「感謝して」(カリス)は、恵みという言葉です。冠詞がついていれば、神の恵みという意味になります。写本では、冠詞のついたものとついていないものがあります。現代の日本語訳(口語訳、新改訳、新共同訳)は、冠詞がついていないものを選んだかのように、「感謝して、感謝にあふれて」と訳しています。

 ただ、賛美は神の祝福に対する応答ですし、キリストが豊かに働かれるとは、神の恵みの内を歩ませていただくことであると考えて、「神の恵みにおいて、心から神をほめたたえなさい」と読むことも、とても意味深いことでしょう。岩波訳は、「〔神の〕恵みにあって、あなたがたの心でもって神に向かい歌いなさい」と訳していました。

 主が私たちの内に共にいてくださる恵みを絶えず覚えながら、心から感謝して主を賛美しましょう。

 主よ、私たちの内にあなたの御言葉が生きて働きますように。いつもあなたの御顔を求めます。あなたを賛美する心で、兄弟姉妹が互いに教え、諭し合い、愛し合い、助け合い、祈り合うことが出来ますように。私たちの内に働かれるキリストを通して心から賛美のいけにえ、主の御名をたたえる唇の実を献げさせてください。 アーメン



4月23日(日) コロサイ書2章

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」 コロサイの信徒への手紙2章3節

 1~5節は、1章24~29節で語っていた使徒としての務めを、コロサイの人々に対するものとして描写しています。1章27節で「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内にいるキリスト、栄光の希望です」と、異邦人一般に対するものとして語っています。

 それを「わたしがあなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して戦っているか、分かって欲しい」(1節)と言い、続けて「それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです」(2節)と告げます。

 使徒として世界に福音を宣べ伝えるという務めは、様々な人々との実際的な出会い、多くの困難や苦労、苦痛、苦悩を伴う、しかし、喜び多き務めです。ここに、「あなたがた」というコロサイの信徒たちに並んで「ラオディキアにいる人々」も語られているということは、二つの教会が距離的に近いこともあり、同じような問題に直面しているということなのでしょう。

 パウロは冒頭の言葉(3節)のとおり「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」と語ります。ということは、知恵と知識の宝が欲しい人は、キリストに注目し、キリストに関心を寄せ、その御言葉に耳を傾けなければならないということです。

 「キリストの内に隠れている」ということは、人間が自分でそれを悟ろうとしたり、獲得しようと思っても、出来ないということです。一方、キリストはこの宝を自由に与えることが出来るのです。そして、キリストへの信仰なくして、その宝を受け取ることは出来ません。

 パウロがこのことをここに書き記したのは、コロサイ教会の信徒たちが、「巧みな議論にだまされないようにするため」(4節)です。「巧みな議論」(ピサノロギア)とは、「説得力がある」(ペイソス)と「言葉」(ロゴス)との合成語です。

 コロサイ教会の指導者エパフラスは、危険な異端の教えが教会に侵入してきたとき、それに脅威を感じて、獄に囚われているパウロに指導を仰ぎました。ということは、教会内に、「巧みな議論」の罠に落ちた人が少なくなかったものと考えられます。それによって、彼らはキリストの言葉から離れ、説得力をもった魅力的な指導者の指導に耳を傾けるようになったのでしょう。

 しかし、いかに説得力があり、魅力的であっても、そこに命がなければ、それが真実でなければ、結果は空しいものになります。「巧みな議論」を8節では「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまりむなしいだまし事」と言います。それは人の言い伝えにすぎず、また人が思索を重ねた「哲学」であって、キリストに根ざした真理では有り得ないのです。

 かつて、神の造られた野の生き物のうちで最も賢い蛇が、人を惑わしました(創世記3章1節以下)。女は蛇の語った、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」という言葉に惑わされ(同4,5節)、取って食べるなと命じられていた木の実を食べてしまいました(同6節)。

 その結果、彼らは、「自分たちが裸であることを知り」(同7節)、そのために主なる神の足音を聞いて恐ろしくなり、身を隠すようになりました。それが、「目が開け、神のように善悪を知るものとなること」なのでしょうか。

 パウロは、異端の「巧みな議論」によって神の顔を避け、キリストの御言葉に背いて信仰から離れるような空しい結果にならないように、そうではなく、キリストの内に隠されている知恵と知識の宝を、キリストを信じる信仰により、恵みとしてしっかりと受け取るように、教え諭しているのです。

 そもそも、異邦人であったコロサイの教会の信徒たちが主イエスの福音を信じることが出来たのは、神の愛、キリストの恵み、聖霊の導きの賜物でした。神が私たちにお与えくださるものが、私たちにとって最善の宝物であると信じ、受け止めることの出来る人は、本当に幸いです。

 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」のです(マタイ福音書4章4節)。神の御言葉こそ、私たちに命を与え、力を与える生きたパンなのです。御言葉によって、私たちの必要の一切が創造され、豊かに注ぎ与えられるのです。

 御前に謙り、日ごとに主の御言葉の恵みに与らせていただきましょう。御言葉を通して、主イエスを信じる信仰に、さらに深く進ませていただきましょう。私たちの内におられるキリストこそ、栄光の希望だからです。

 主よ、弱い私たちを憐れんで下さい。御言葉と霊の恵みをもて、日々養ってください。主イエスに堅く結ばれ、御言葉を信じて前進させてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。御心を行うことが出来ますように。 アーメン





4月23日(日)主日礼拝案内

024月23日(日)、小学科(小学生)、少年少女科(12~18歳)は9時半から、成人科(18歳以上)は9時45分から、教会学校で聖書の学びをします。


10時半から主日礼拝を行います。
主日礼拝では、使徒言行録26章から〔恵みの分け前に与る〕と題して説教を頂きます。


礼拝後、第64回(2017年度)定期総会を行います。



 

4月22日(土) コロサイ書1章

「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」 コロサイの信徒への手紙1章27節

 今日から、コロサイの信徒への手紙を読み始めます。この手紙は、パウロがエフェソで拘束されているときに執筆されました。この手紙の用語法や文法の特徴から、パウロが語ったままではなく、語った内容を書き取ったテモテにこの手紙の執筆を委任し(1章1節)、それをティキコに届けさせたのではないかと思われます(4章7節)。

 コロサイは、小アジア中西部の小さな町で、近くにラオデキアとヒエラポリスの町があります(4章13節)。著者パウロは、コロサイ教会に行ったことがなかったようです。というのは、「あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました」(7節)と記されているからです。

 コロサイ教会にはフィレモンがいましたし、その奴隷のオネシモもその教会員でした(4章9節)。この手紙は、コロサイ教会に忍び込んできた異端の教えに脅威を感じたエパフラスが、獄中のパウロに助けを請い、それに対して福音の真理を明らかにするため、記されたものです。

 そのような事情を考えると、「揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節)と記されているのは、なるほどと理解できます。どのような境遇にあっても、教会のことを思い、伝道の進展を願って使徒の使命を果たし続けるパウロの姿勢を、ここに見ることが出来ます。

 ここに「福音の希望」と記されていることについて、5節に「あなたがたのために天に蓄えられている希望」という言葉があります。「天に蓄えられている」ということは、その希望の根拠や内容が、人間の側の条件に左右されないこと、また、すべてが神によって準備されたものであることを表しています。

 また、「あなたがたが聞いた福音の希望」というのですから、私たちの望み、願っていることではありません。福音を通して神が私たちに与えようと望んでおられる希望です。

  第一ペトロ書1章4節では、「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産」とあり、それを同5節で、「終わりの時に現されるように準備されている救い」と言い換えています。ということから、「天に蓄えられている希望」とは、「救いの希望」を指していると考えてよいでしょう。

 「天に蓄えられている希望」(5節)、「あなたがたが聞いた福音の希望」(23節)と「希望」(エルピス)を語るパウロは、冒頭の言葉(27節)で「その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」と言います。ここに三つ目「栄光の希望」という言葉があります。

 「その計画」というのは、「秘められた計画」という言葉を受ける関係代名詞を訳したものです。ここで「秘められた計画」というのは、ムステーリオンというギリシャ語で、英語で「ミステリー(mystery)」、日本語では「奥義」などと訳されてきました。

 通常、「奥義」は誰にも分からないように隠してあるものですが、それが異邦人に対して明らかにされました(27節)。その奥義の中身は、キリストが私たちの内におられるということで、このキリストこそ、これまで繰り返し語られて来た「希望」、それも、「栄光の希望」なのだというわけです。

 私たちの内とは、黙示録3章20節との関連で、私たち一人一人の心の中と考えられます。主イエスを信じたとき、私たちは心の扉を開いて、主イエスを心にお迎えしました。それ以来、主イエスは私の内におられるのです。

 しかし、それだけではありません。キリストはあなたの内におられるだけでなく、「あなたがた」、つまり複数です。私の内におられるキリストは、私の隣の人の内にもおられます。そしてさらに、私と隣人との間にもおられるのです。

 ルカ福音書17章21節に、「実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」という御言葉があります。私と隣人との間にキリストがおられ、そこに、神の国が造られているのです。ユダヤ人の間にも、異邦人の間にも、そして、ユダヤ人と異邦人との間にもキリストがおられ、そこに神の国があるということです。

 キリストが内におられて、そこに神の国が造られるとき、「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ書14章17節)という御言葉のとおり、そこには神の義と平和と、そして喜びが聖霊を通して支配する場所となるのです。

 それが、「神の聖なる者たち」、即ちクリスチャンに対して、明らかにされたのです。具体的には、エパフラスの宣べ伝えた福音をコロサイの人々が受け入れたことにより、神の救いの計画が異邦の民にも及んでいること、また、彼らの間で聖霊が働かれていることが、誰の目にも明らかになったわけです。

  これらの希望は、「福音という真理の言葉を通して」与えられたものです(5節)。ということは、福音という真理の言葉を離れて、希望の実現、救いの完成を見ることは出来ないということです。だからこそ、パウロやテモテ、エパフラスは、この福音を宣べ伝えるのです。そのために、労苦しているのです。

 しかしそれは、空しい労苦ではありません。福音を受け入れて、信仰と愛と希望に生きている聖なる者たちの存在により、絶えず喜びと感謝、励ましを与えられているからであり(3節以下)、彼らの内に力強く働くキリストの力によって強められているからです。

 キリストは私たち一人一人の心に住まわれて平安を与え、私たちの間におられて平和を造り出し、そこに神の国の栄光を見せてくださいます。心の平安と兄弟姉妹の間の平和をもって、キリストの福音を証ししてまいりましょう。

 主よ、私たちは御子キリストによって、贖い、即ち罪の赦しを得ました。その十字架の血で平和を打ち立て、万物を御子によって和解させられました。私たちのうちにキリストが共に住まわれ、私たちの間に神の国が作られますように。家庭が、職場が、学び舎が、神の国となりますように。聖霊によって与えられる義と平和と喜びで、絶えず私たちを支配してください。 アーメン







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