「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。即ち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」 コリントの信徒への手紙二8章9節
1節で「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう」と記した後、パウロは、「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです」と語ります(2節)。
パウロはここで、マケドニアの諸教会の情報を伝えようとしているのではありません。「知らせる」とは、コリントの人々も神の恵みを体験して欲しい、味わって欲しいということです。恵みといえば、神が私たちにくださる恩恵のことです。しかし、ここで語られている恵みの内容とは、「人に惜しまず施す豊かさ」というものです。
パウロはここで、マケドニアの諸教会の情報を伝えようとしているのではありません。「知らせる」とは、コリントの人々も神の恵みを体験して欲しい、味わって欲しいということです。恵みといえば、神が私たちにくださる恩恵のことです。しかし、ここで語られている恵みの内容とは、「人に惜しまず施す豊かさ」というものです。
マケドニア州の諸教会とは、フィリピ(使徒言行録16章11節以下、フィリピの信徒への手紙参照)、テサロニケ(使徒言行録17章1節以下、テサロニケの信徒への手紙参照)、ベレア(使徒言行録17章10節以下参照)などを指しています。
マケドニア州は、鉱物資源のほか、農林業と交易によって豊かな地域でしたが、ローマの支配によってその富を独占され、マケドニア全体が貧しい状態におかれていたという報告があります。そのうえ、キリスト教徒には迫害(「苦しみによる激しい試練を受けていた」)が加えられたとなれば、「極度の貧しさ」(2節)とパウロが語っているのも、むべなるかな、というところではないでしょうか。
ところが、そのような境遇にありながら、マケドニアの信徒たちは喜びに満ち満ちて、人に惜しまず施す豊かさという恵みに与っているのです。極貧の生活をしている彼らが、自分たちの持てるものを私しようとは思わず、すべて神のため、隣人のために喜んでささげるということでしょうか。
恐らくパウロは、彼らの窮状をよく知っていたので、エルサレムのためのの義援金を募らなかったのだと思います。ところが、義援金のことを知ったマケドニアの人々は、ぜひ自分たちにも献金させて欲しいと自ら熱心に願い出て(3,4節)、しかも、パウロを驚かせるような献金を集め、献げたのです(3,5節)。
パウロは、この募金活動を「神の恵み」(1節)、「慈善の業と奉仕」(4,6,7節)などと呼んでいます。この働きが単なる寄附などではなく、神の恵みが必要な、神と人とを愛し仕える働きであると考えているのです。パウロは、マケドニアの人々を通じて、この働きがまさしく神の恵みによって可能になることを知り、味わったのではないでしょうか。
ですから、そのような恵みというものを、コリントの人々にも味わって欲しいと願っているわけです。しかし、マケドニアの人々と同じようにしなさいということではありません。恵みの業なのです。神の恵みによって生じる献身の喜び、愛の力を味わって欲しいということです。
「苦しみによる激しい試練を受けていたのに」(2節)という言葉を、岩波訳では「患難に耐えるという彼らの大いなる確証」(直訳は「患難の大いなる確証」)と訳しています。すなわち、苦しみの中で、彼らのなした物惜しみしない施しによって、彼らの恵みの豊かさが確証されたということでしょう。ここでは、貧しさとか、寄附の額などが問題ではないのです。
幾つになっても、親の存在はありがたいものです。いつ訪ねて行っても、精一杯のもてなしで迎え、帰るときには土産を持たせ、そして、帰り着いたころを見はからって電話をかけて来て、せっかく来てくれたのに何にもしてやれなくてごめんねなどと言ってくれます。自分は食べなくても、子どもには良いものを与えたいと考えてくれています。
人が親になるときにそのような思いが出て来るように、神が遺伝子に書き込んでくださったのでしょうか。というのは、神は私たち人間を愛して、独り子をさえ惜しまず与えてくださいました。そして、冒頭の言葉(9節)のように、主イエスも、豊かであられたのに、自ら私たちのために貧しくなられたのです。
それは、神の子であられるのに、神としての身分と立場に固執しようとなさらず、かえって自分を無にして、僕の身分、人間と同じ者になってくださったということです(フィリピ書2章6,7節)。その上、十字架において、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったのです。私たちは、主イエスを信じるだけで、罪が赦され、神の子どもとされ、永遠の命が与えられるのです。
そして、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と言われます(ローマ書8章32節)。
主イエスが語られた「放蕩息子」のたとえ話(ルカ福音書15章11節以下)の中で、父親が兄息子に、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」(同31節)と語るところがありますが、まさしく与えつくす神の愛の表現です。
このような愛を受けて神の子どもとされた私たちが、それに胡坐をかいているわけには行きません。恵みによって神の子どもとされたのだからといって、不肖の息子、娘でよいということにはならないのです。神の子どもであるということは、この神の愛に生きることです。
私たちが受けたのは、与えるためなのです。「受けるよりは与えるほうが幸いである」(使徒言行録20章35節)という御言葉がありますが、その言葉によって主イエスは私たちに、与える祝福を授けようとしておられるのです。それは、私たちが主イエスの御心を引き継ぎ、この世に神の御業を進めていくことです。
逆の見方をすれば、自分を主に明け渡し、イエスが私たちの主人、私たちが主イエスの僕となって主イエスに用いていただくということです。主の御言葉を聴き、徹底的に従う者とならせていただきましょう。
主よ、御子イエスは私たちのためにすべての豊かさを捨てて貧しくなられました。私たちはその犠牲によって豊かな者とされたのです。私たちも、マケドニアの人々が体験し、それによってパウロ自身も教えられた恵みを味わうことが出来ますように。私たちは弱い者です。自分の意志と決断で、神の愛を全うすることが出来ません。主にすべてをお委ねします。御霊の導きに従います。導いてください。用いてください。 アーメン