風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2017年03月

3月31日(金) 第二コリント書8章

「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。即ち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」 コリントの信徒への手紙二8章9節

 1節で「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう」と記した後、パウロは、「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです」と語ります(2節)。

 パウロはここで、マケドニアの諸教会の情報を伝えようとしているのではありません。「知らせる」とは、コリントの人々も神の恵みを体験して欲しい、味わって欲しいということです。恵みといえば、神が私たちにくださる恩恵のことです。しかし、ここで語られている恵みの内容とは、「人に惜しまず施す豊かさ」というものです。

 マケドニア州の諸教会とは、フィリピ(使徒言行録16章11節以下、フィリピの信徒への手紙参照)、テサロニケ(使徒言行録17章1節以下、テサロニケの信徒への手紙参照)、ベレア(使徒言行録17章10節以下参照)などを指しています。

 マケドニア州は、鉱物資源のほか、農林業と交易によって豊かな地域でしたが、ローマの支配によってその富を独占され、マケドニア全体が貧しい状態におかれていたという報告があります。そのうえ、キリスト教徒には迫害(「苦しみによる激しい試練を受けていた」)が加えられたとなれば、「極度の貧しさ」(2節)とパウロが語っているのも、むべなるかな、というところではないでしょうか。

 ところが、そのような境遇にありながら、マケドニアの信徒たちは喜びに満ち満ちて、人に惜しまず施す豊かさという恵みに与っているのです。極貧の生活をしている彼らが、自分たちの持てるものを私しようとは思わず、すべて神のため、隣人のために喜んでささげるということでしょうか。

 恐らくパウロは、彼らの窮状をよく知っていたので、エルサレムのためのの義援金を募らなかったのだと思います。ところが、義援金のことを知ったマケドニアの人々は、ぜひ自分たちにも献金させて欲しいと自ら熱心に願い出て(3,4節)、しかも、パウロを驚かせるような献金を集め、献げたのです(3,5節)。

 パウロは、この募金活動を「神の恵み」(1節)、「慈善の業と奉仕」(4,6,7節)などと呼んでいます。この働きが単なる寄附などではなく、神の恵みが必要な、神と人とを愛し仕える働きであると考えているのです。パウロは、マケドニアの人々を通じて、この働きがまさしく神の恵みによって可能になることを知り、味わったのではないでしょうか。

 ですから、そのような恵みというものを、コリントの人々にも味わって欲しいと願っているわけです。しかし、マケドニアの人々と同じようにしなさいということではありません。恵みの業なのです。神の恵みによって生じる献身の喜び、愛の力を味わって欲しいということです。

 「苦しみによる激しい試練を受けていたのに」(2節)という言葉を、岩波訳では「患難に耐えるという彼らの大いなる確証」(直訳は「患難の大いなる確証」)と訳しています。すなわち、苦しみの中で、彼らのなした物惜しみしない施しによって、彼らの恵みの豊かさが確証されたということでしょう。ここでは、貧しさとか、寄附の額などが問題ではないのです。

 幾つになっても、親の存在はありがたいものです。いつ訪ねて行っても、精一杯のもてなしで迎え、帰るときには土産を持たせ、そして、帰り着いたころを見はからって電話をかけて来て、せっかく来てくれたのに何にもしてやれなくてごめんねなどと言ってくれます。自分は食べなくても、子どもには良いものを与えたいと考えてくれています。

 人が親になるときにそのような思いが出て来るように、神が遺伝子に書き込んでくださったのでしょうか。というのは、神は私たち人間を愛して、独り子をさえ惜しまず与えてくださいました。そして、冒頭の言葉(9節)のように、主イエスも、豊かであられたのに、自ら私たちのために貧しくなられたのです。

 それは、神の子であられるのに、神としての身分と立場に固執しようとなさらず、かえって自分を無にして、僕の身分、人間と同じ者になってくださったということです(フィリピ書2章6,7節)。その上、十字架において、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったのです。私たちは、主イエスを信じるだけで、罪が赦され、神の子どもとされ、永遠の命が与えられるのです。

 そして、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と言われます(ローマ書8章32節)。

 主イエスが語られた「放蕩息子」のたとえ話(ルカ福音書15章11節以下)の中で、父親が兄息子に、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」(同31節)と語るところがありますが、まさしく与えつくす神の愛の表現です。

 このような愛を受けて神の子どもとされた私たちが、それに胡坐をかいているわけには行きません。恵みによって神の子どもとされたのだからといって、不肖の息子、娘でよいということにはならないのです。神の子どもであるということは、この神の愛に生きることです。

 私たちが受けたのは、与えるためなのです。「受けるよりは与えるほうが幸いである」(使徒言行録20章35節)という御言葉がありますが、その言葉によって主イエスは私たちに、与える祝福を授けようとしておられるのです。それは、私たちが主イエスの御心を引き継ぎ、この世に神の御業を進めていくことです。

 逆の見方をすれば、自分を主に明け渡し、イエスが私たちの主人、私たちが主イエスの僕となって主イエスに用いていただくということです。主の御言葉を聴き、徹底的に従う者とならせていただきましょう。
 
 主よ、御子イエスは私たちのためにすべての豊かさを捨てて貧しくなられました。私たちはその犠牲によって豊かな者とされたのです。私たちも、マケドニアの人々が体験し、それによってパウロ自身も教えられた恵みを味わうことが出来ますように。私たちは弱い者です。自分の意志と決断で、神の愛を全うすることが出来ません。主にすべてをお委ねします。御霊の導きに従います。導いてください。用いてください。 アーメン


 

3月30日(木) 第二コリント書7章

「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」 コリントの信徒への手紙二書7章10節


 6章14節から7章1節を括弧に括り、6章13節と7章2節をつなげることが出来ます。そして、7章5節以下は2章13節に接続する内容になっています。

 冒頭の言葉(10節)に「神の御心に適った悲しみ」という言葉があります。悲しみというものは、あまり歓迎されるものではありません。私たちは、悲しむことより、喜ぶことを求めます。望みます。

 しかし、そこに悲しむべき事態が生じていれば、それに目をつぶって、喜んでいるわけにはいきません。それを放置していれば、悲しむべき事態はさらに悪化し、取り返しがつかないことになってしまうでしょう。

 2章4節に、「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」と記されていました。コリント教会にある憂うべき事態に対処する方法をその手紙に書いたのでしょう。「涙ながらに手紙を書きました」というところから、その手紙は「涙の書簡」と呼ばれています。

 「涙の書簡」とは、第一の手紙ではなく、本書10章~13章を指すものであろうと想定されています。2章6節の「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です」という言葉と7章12節の「あなたがたに手紙を送ったのは、不義を行った者のためでも、その被害者のためでもなく云々」とあるように、教会内で行われた不義のために、手紙が書かれたのです。

 その不義の内容は、第二回伝道旅行と第三回伝道旅行の間でなされたパウロのコリント教会訪問(「中間訪問」と言われる)の際、指導的な一教会員が会衆の前で侮辱的な仕方でパウロの使徒としての正当性を否定し、人格を非難するという事件を指していると考えられています。それによって、パウロとコリント教会との交わりが破壊され、教会の交わり自体も大きな傷を受けました。

 そこでパウロは、もう一度コリントを訪ねる計画を立てます。それが、12章14節、13章1節に示されています。それを「涙の書簡」と言われるこの箇所に書き記してテトスに持たせて先にコリントに送りました。

 その際、パウロは多少なりとも後悔していたようです(8節以下参照)。それは、手紙がどのような結果をもたらすか、不安だったからです。彼は、不安の中で、テトスからの報告を待ちわびていました。
 
 2章12節に「わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました」と記されています。

 つまり、小アジアで福音を宣べ伝えながら、トロアスでテトスと落ち合うことにしていたのでしょう。主がその伝道を祝福してくださって、働きが大きく拡大する可能性が示されました。「わたしのために門が開かれた」というのはそのことです。

 しかし、彼はその伝道を中断して、マケドニア州に渡りました。コリントの様子を聞かないうちは不安で、テトスの帰りを待ちきれず、マケドニアまで迎えに行ってしまったというわけです。

 けれども、その不安が喜びに変わりました。コリントから戻ってきたテトスの報告によって、その手紙が良い結果をもたらしたことを知ったからです。それが6節で、「気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました」と記されているところです。パウロが慰められたというのは、涙の書簡が教会を悲しませ、悔い改めを生じさせたことです。

 8節に「あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています」とあり、続いて9節に「今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです」と記されています。

 教会が悲しんだということは、涙の手紙を受け取るまで、悲しむべき事態を放置していたということを示しています。そして、教会が悲しんで悔い改めたということは、彼らがその事態に正しく対処したということを表しています。

 ですから、悔い改めを生じさせるためには、彼らが悲しみの門を通らなければならなかったわけです。それが、10節の「神の御心に適った悲しみ」という言葉で表現されていることです。彼らは、その悲しみを神の前に持って来ました。問題の解決を神に求め、その導きに従ったのです。その結果、彼らは「取り消されることのない救い」に導かれたのです。

 このことで、ヨハネ福音書5章にある記事を思い出しました。38年もの長い間、病気で苦しんでいた人が、主イエスに出会って癒されるというところです。

 主イエスが、「良くなりたいか」と尋ねられましたが、彼は、「はい、良くなりたいです」とは答えませんでした。そうではなくて、誰もが早くよくなろうとして先に行き、自分を助けてくれる者がいないという答えをします。

 彼は、悲しんでいました。それは、病気の悲しみではなく、誰も当てにはならないということを、38年にも亘って思い知らされた悲しみです。病気がよくなったところで、自分のことを顧みようとしない世の中で生きていてなんになるかという気持ちでしょう。そのままならば、悲しみの果て、絶望して死ぬしかありませんでした。パウロが「世の悲しみは死をもたらします」というとおりです。

 けれども、主イエスがその人を見、長い間病気であるのを知って、声をかけられました。彼は、自分に関心を寄せ、声をかけてくれた人物に、誰も当てにはならないという彼の悲しみをぶつけました。彼の一番の問題をそのまま主イエスに差し出したのです。

 そしてそのとき、彼の問題は解決されていました。それは、主イエスこそ、彼が信頼を寄せるに足る神の御子キリスト、救い主だったからです。主イエスが、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われると、彼はすぐに良くなって、歩き出しました。

 信頼すべきお方を見出したとき、彼の病いも癒されたのです。自分の悲しみを主イエスに打ち明けたとき、その悲しみは、死をもたらすものから、取り消されることのない救いに通じる門に変えられます。

 「悔い改め」(メタノイア)とは、向きを変えること、方向転換という意味です。それはコリントの人々が罪から離れたこと以上の、キリストに対する献身を意味しています。

 パウロには、キリストを通して神の使命が授けられていました。それは、彼が受けた神との和解の恵みを宣べ伝えるという使命です(5章18節)。今、コリント教会の人々がパウロの言葉に熱心に従うようになったということは、もう一度神との和解の道をしっかりと歩み始めたということです。そこに、キリストに対する献身を見たパウロは真の慰めを得、喜びを得たのです(6,7,13節)。

 主よ、私たちには悲しいことがあっても、それを持ち出す場所があります。その解決を願って祈ることが出来ます。祈りを聞かれる主が共にいてくださいます。そのとき、あらためて何が問題だったのかを悟ります。そして、正しく神の御顔を拝し、御言葉に聴くことが出来ます。絶えず祈りに導いてください。 アーメン



3月29日(水) 第二コリント書6章

「なぜなら、『恵みのときに、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ救いの日。」 コリントの信徒への手紙二6章2節

 冒頭の言葉(2節)の二重括弧は、旧約聖書・イザヤ書49章8節からの引用です。この箇所は、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放され、祖国に戻り、イスラエルを再興するという預言の言葉が記されているところです。

 引用句の直後に「わたしはあなたを形づくり、あなたを建てて民の契約とし、国を再興して荒廃した嗣業の地を継がせる」(イザヤ書49章8節)と言われており、また同11節には「わたしはすべての山に道を開き、広い道を高く通す」と記されています。

 ここで、「恵みのときに、わたしはあなたの願いを聞き入れた」というのは、イスラエルの願いが聞かれたのは、彼らが神に喜ばれる正しい歩みをしていたからではなく、神が彼らを憐れみ、恵みを与えようと思われたゆえだということです。「救いの日」という言葉で、捕囚からの解放とイスラエルの再興は、神の御業であることが明示されています。

 パウロは1節で「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」と語っていました。岩波訳は直訳的に「むなしく神の恵みを受けることがないように」と訳しています。これは、神の恵みにふさわしい生活をするようにという勧めです。

 恵みを無駄にするということは、神の恵みによらず、人の知恵や力、その業によって救いの完成に至るという、キリストの福音から他の福音に乗り換えるというようなことでしょう(ガラテヤ書1章6節、2章21節参照)。

 パウロはこの勧めを、「神の協力者」(スネルグーンテス)として行います。これは、神と対等の協力者、パートナーなどという意味ではありません。5章19節にあるように、キリストを通して神と和解する恵みを受けた者が、和解のための奉仕する任務を授けられたということでしょう。そして、「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」と語ります(5章20節)。

 これは、未信者に語られている言葉ではありません。コリントの信徒に語られている言葉です。この文脈から、和解の恵みは、信仰を持たない者に与えられるばかりでなく、既に信仰を持っているコリント教会の人々がたえずそれに与り続けなければならないものであり、そうであれば、私たちすべての者が聴くべき言葉であるということが分かります。

 「恵みの時、救いの日」は、人の意思や願いによって起こされるものではなく、神が御自分の意思でお与えになるものであることを表します。そして、イザヤがこの預言を語ったとき、この御言葉を信じた者たちの信仰において、神の救いの御業が始まったのです。

 パウロはイザヤの預言を引用してすぐに、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と語ります。ある説教者は、こういうことがあったといって話するだけではすまないように感じられ、大声を上げて感謝し、その感動を伝えるほかはないと思ったのであるに違いない。だから、ほとんど絶叫するように、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」とパウロは叫んだと語っています。

 キリストと出会って神の恵みを味わい、和解の務めに任じられたパウロは、すべての人が、絶えず神の恵みを味わい、救いの喜びに溢れていることを願い、そのために働いているのです。

 私たちは、神と和解させていただいたこと、救いの恵みに与ったことをどれほど喜び、感謝しているでしょうか。私たちが味わっている神の恵みは、時に何とも貧弱で、困難に出会うとどこかに消え去ってしまいます。自分は神に愛されているのだろうかと疑うことさえあります。

 「天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。山々よ、歓声をあげよ。主はご自分の民を慰め、その貧しい人々を憐れんでくださった」(イザヤ書49章13節)とあるとおり、すべての被造物と共に、主の救いの御業をほめたたえ、感謝しましょう。今こそ、願いが聞き入れられ、神の助けを受ける恵みの時、救いの日なのです!

 主よ、あなたは私たちの弱さをご存じです。あらゆる困難から救ってください。苦しみを取り除いてください。あなたを信じます。御言葉を信じます。今を恵みの時、救いの日としてくださることを信じて、感謝します。恵みに相応しい生活、主に感謝し、御言葉に聴き従う歩みが出来ますように。 アーメン




3月28日(火) 第二コリント書5章

「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」 コリントの信徒への手紙二5章1節

 新共同訳聖書は、4章16節から5章10節までの段落に「信仰に生きる」という小見出しをつけています。

 この段落の最初に、「わたしたちは落胆しません」(4章16節)と記されています。実際には、パウロを失望落胆させる出来事、数々の問題が、コリント教会内部で起きていました。もしも、パウロが派遣したテトスの問題解決のための働きが不首尾で、教会が分裂するようなことになっていれば、「落胆しません」とは言えなかったかも知れません。

 その意味でここに「落胆しません」と記すことが出来たのは、パウロの精神力などではありません。それは、テトスを用い、テトスを通して働かれた神の御霊、聖霊のお蔭です(5節参照)。その聖霊がパウロの内に働いておられるので、それで「いつも心強い」(6節)、「わたしたちは心強い」(8節)と言うのです。

 7節の「目に見えるものによらず」という言葉は、4章18節にも「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」とありました。見えないものに目を注ぐというのは、少々不思議な、矛盾した表現です。どのようにすれば、見えないものに目を注ぐことが出来るのでしょうか。

 「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続する」(4章18節)という表現から、見えるものとはこの地上のこと、見えないものとは、天上のこと、あるいは死後の世界を指していると考えられます。

 4章16節に「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」と言われています。これは、同18節との関連から、「外なる人」を「見えるもの」、「内なる人」を「目に見えないもの」と言っていることになります。そして、「外なる人」が衰えるというのは、高齢で体が弱ったとか病を患ったというようなことではないのです。

 同17節の「わたしたちの一時の軽い艱難」という言葉は、伝道を妨げる迫害などを想像させます。「衰える」(ディアフセイレオー)は、「破壊する、滅ぼす」という意味もあり、主を信じる信仰により、キリストに従うゆえに迫害を受けて外なる人が衰える、滅ぼされるということです。

 ということですから、「内なる人」が日々新たにされるというのは、精神はいつまでも元気とか、勇気が湧いて来るというようなことでもありません。

 17節に「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とあります。つまり、キリストによって新しくされること、再創造されること、甦りの命に与る、その力をいただくことと言ってよいでしょう。

 ということは、「見えるもの」とは、私たちの肉体を含むこの地上の命のこと、そして「見えないもの」とは、主イエスを信じる信仰によっていただいた永遠の命を指していることになります。

 創世記2章6節の記述によれば、人は、土で形作られたところに神が息を吹き込まれて生きる者となりました。即ち、神の霊が私たちの命、私たちを生かすものであるということになります。生きている者は、周囲の人と関係を持ちます。だから、「人が独りでいるのはよくない」(同2章18節)という表現が出てくるわけで、神は共に生きる、互いに助け合う仲間を創造されたのです。

 命ある者は、呼べば答えます。反応します。亡くなると、呼んでも答えなくなります。アダムとエバが善悪の知識の木の実をとって食べたとき(創世記3章6節)、それによって心臓が止まりはしませんでした(同2章17節参照)。それはしかし、神との関係が壊れたことを意味しました。

 背きの罪のゆえに二人はエデンの園を追放されてしまい(同3章23節)、神と顔と顔を合わせて親しく交わることが出来なくなったのです。そのことを、聖書は「死」と表現していたのです(創世記2章17節、3章23節、ローマ書6章23節参照)。

 永遠の命は、神との交わりに生きるために与えられた、神と関係を回復するための、神の子となる命です。神は霊ですから(ヨハネ福音書4章24節)、目には見えません。神は目には見えませんが、イエス・キリストを信じて御子イエスの命、永遠の命をいただいたときに、神がおられるということは確かなことであると知ることが出来るようになります。

 パウロが冒頭の言葉(1節)で説いているのは、私たちの家のこと、建物のことではなく、自分の体、そして命のことです。この地上における体と命を、「地上の住みかである幕屋」と表現しています。

 幕屋とはテントのこと、移動式住居のことです。それは一時的な、仮の宿です。ということは、この「幕屋」という表現は、私たちの地上の命は仮のものであるということを示していることになります。同じ考えが第二ペトロ書1章13節で、「わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させるべきだと考えています」と表現されています。

 この体、そしてこの命が仮の宿であるとすれば、本当の住まいはどれか、どこにあるのかということになります。それは、神によって備えられた建物、人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかと記されています。神が私たちの本当の体、永遠の命を、天に準備しておられるということです。

 パウロは、この「住みかを上に着たい」(2節)と、今度は着物のイメージで語ります。新しい着物を着せていただくために、そのことに望みをかけて、今この地上で苦しみ悶えているというのです。しかし、天における永遠の住みかに行き、新しい体を上に着るというのは、単に早く死んで天国に行きたいということではありません。

 それは4節で、「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません」と語っている言葉で分かります。パウロにとっては、死んだら新しい命をいただくことになるというものではないのです。

 そうではなくて、地上の幕屋を「脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません」(3節)と言い、また、「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たい」(4節)と語っている言葉から、彼にとっての「死」は、永遠の命に飲み込まれることなのです。

 ということは、地上の体を脱いだ裸の魂、裸の命というようなものはありません。今の苦しみは、命に飲み込まれるためのものであって、苦しみから逃れて新しい命を受け取るというのではないのです。

 そのことをパウロは、主イエスの十字架を通して学びました。主イエスは、十字架の苦しみから逃れるために死に、天に昇られたのではありません。そうではなく、十字架の苦しみを通して私たちを贖い、救う道を開かれました。十字架の死に至るまで従順であられた主イエスを、神は高く挙げ、主として、御自分の右に座らせられたのです(フィリピ2章7~10節)。

 私たちが、「イエスは主なり」と告白出来るのは、イエスを信じる信仰が与えられたからであり、それは聖霊の導きによることでした(第一コリント書12章3節)。パウロは、私たちに聖霊の導きが与えられているということが、天から与えられる住みかを上に着る保証であると言いました(5節)。

 ですから、私たちのこの地上の命が終わる日、死ぬべきものが命に飲み込まれるその日まで、イエスこそ全人類の救い主、私たちの主であるということを、周りの人々に、そして地の果てまで、しっかりと証ししていきましょう。

 主よ、私たちは神の国の住民となる資格を持ってはいませんでした。私たちのためにキリストが死んで、真理であり、命である道を開いてくださいました。それにより、主のもとへ行くことができるようになりました。この福音のために命がけ働いたパウロに倣い、私たちも同胞に広く語り伝えることが出来ますように。 アーメン




3月27日(月) 第二コリント書4章

「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」 第二コリント4章7節
 
 冒頭の言葉(7節)に、私たちは土の器の中に宝を持っていて、その宝には並外れて偉大な力があること、それは、その力が私たちから出たものでないことが明らかになるためだとあります。ここから学びます。
 
 先ず、「土の器」です。私たちは土の器であると読むことが出来ます。神は人を土で創られました。人間は土で創られた神の被造物です。土から創られた者ですから、やがて土に帰ります。決して永遠に生きることは出来ません。しかし、人間は、神が意味と目的を持って創り出したものです。何の目的もなく、意味もなく、偶然に出来たものではありません。

 しかし、器も色々です。貴いことに用いられる器もあれば、日常のことに用いられる器もあります。高価な器もあれば、廉価な器もあるでしょう。いずれにしても、器として重要なのは、その器が使う人にとって、使い勝手がよいかどうかということです。

 もし器が、私は価値が高い器だから、そんなことに使われるのはイヤだと言えばどうでしょう。逆に、私は安価な器だから、人前に出るようなことはしたくありませんといえばどうでしょう。選んだ人を困らせ、恥じ入らせ、そして、二度と選ばれなくなる、用いられなくなってしまうでしょう。器の価値は、器が決めるのではなく、器を用いる人が決めるのです。

 パウロは、ローマの信徒への手紙9章21節でも「焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」と言い、さらに「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」(24節)と語っています。
 
 ここには、パウロ自身の経験がにじんでいます。パウロは、ある時、自分は母親の胎内に形作られる前から、異邦人に福音を伝える者として神に選ばれていた、と語ったことがあります(ガラテヤ書1章15節以下)。主イエスの福音を世界中に伝えるように、神によって予め選ばれ、創られたのだというのです。

 しかし彼は、主イエスの福音を伝える者になるどころか、かえって主イエスの弟子たちを迫害し、福音宣教を妨げる者になりました。まさに、神の意に添わない、神の怒りが注がれる怒りの器になっていたのです。

 しかるに神は、そのような者を憐れみをかけてくださいました。「憐れみの器」とは、神の憐れみをいただいた器ということです。そうして、主イエスの福音を世界中に伝えるようになったのです。キリストによる、パウロという土の器の再創造と言ってよいでしょう。

 神がパウロを異邦人に福音を伝道する器として創られた。しかしパウロは、そのように創られた器を自らの手で壊してしまった。キリストは、ご自分と引き替えにして、パウロをもう一度ご自分の福音を伝える者として再創造されたわけです。神は、キリストの十字架の血と聖霊の火を通して、清い霊、新しい心を創ってくださいます。
 
 確かに土の器は壊れやすい。8,9節に「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、うち倒されても滅ぼされない」とありますが、土の器は、圧力をかけると割れてしまいます。壊れてしまいます。途方に暮れて失望します。虐げられると、神は自分を見捨ててしまったのだと考えまるでしょう。うち倒されると、起き上がれません。

 実際、1章8節でパウロは「わたしたちは、耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした」と言っています。

 壊れやすい器、そして壊れたら、自分でもとに戻すことが出来ない土の器が、どうして「四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず」(8節)と言えるのでしょうか。

 器は、ものを入れるものです。器のうちにあるものが重要なのです。パウロは、私たちは宝を納めていると言っています。宝が器の中にあるというのです。この宝に力があるのです。それは半端な力じゃない。「並外れて偉大な力」と書かれています。口語訳では「測り知れない力」と訳しています。

 測ることが出来ない。けた外れな、人間の想像を超えた力があるというのです。それは、「光あれ」と言われると、光が出来る(創世記1章3節)という力。一言で無から有を生み出す力。何もないところに、材料なしで、ものを作り出すことが出来る力です。科学で証明出来ない、超自然の力です。

 6節に「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました」とあります。かつて光を創られた神が、光を失った人間のために、キリストを通してその光を再創造される。その光がキリストの顔の輝き、神の栄光を悟らせると言います。

 信じられなかった主イエスが、信じられるようになります。イエス・キリストを信じた時、イエス・キリストは私たちの心の中に入ってこられました。私たちの内にキリストがおられる、それは永遠の希望を与えます。「あなたがたの内におられるキリスト、(それは)栄光の希望です」(コロサイ1章28節)とあるとおりです。

 また、聖霊の賜物を頂きました。聖霊を通して、わたしたちの心に神の愛が注がれてきます。神の愛は、神の憐れみは測ることが出来ません。神の愛が私たちを生かします。愛は恐れを取り除きます。希望が与えられます。その希望は失望に終わることがありません。また、聖霊は私たちに力を与えます。

 これは理屈ではありません。本当にそのような愛が、希望が必要です。それは、自分の家庭や職場、学校、そして地の果てまで、どこでも、誰に対しても、キリストの証人となるためです。

 そして、この力は、キリストを死者の中から甦らせました。復活の力、再創造の力です。14節に「主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」と記されています。蘇生ではありません。神の子どもとなる霊の体に生まれ変わるのです。

 これらは神の力です。「並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」というのですから、神に期待し、神を信頼して祈るのです。神がその並外れて偉大な力を働かせてくださるように。私たちの考えでは測り知ることが出来ない力を働かせてくださるように。いまだかつてなかったような恵みの御業が起こされるように。
 
 そのために、先ず何よりも、御言葉を読みましょう。信仰は聞くことから、聞くことは、キリストの言葉からです。そして祈りましょう。御言葉がこの身になりますように、お言葉ですからやってみましょうと。そして、結果を主に期待しましょう。

 主よ、欠けだらけの土の器である私たちに霊の賜物を与え、福音宣教の業を託されました。御言葉に立ち、信仰によって前進させてください。私たちの内に光が輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟ることが出来ますように。教会の宣教の御業を通して多くの人が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになりますように。御名が崇められますように。 アーメン




3月26日(日) 第二コリント書3章

「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」 コリントの信徒への手紙二3章18節

  新共同訳は、3章に「新しい契約の奉仕者」という小見出しをつけています。そのことについて、6節に「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました」といいます。この言葉で、新しい契約は霊、そして明確に述べられてはいませんが、古い契約は文字に仕える務めであるとほのめかしています。

 パウロはローマ書7章6節でも、「わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、立法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」と記しています。

 そして、「文字は殺しますが、霊は生かします」と言います。「文字」は、古い契約の記された「契約の書」(出エジプト記24章7節)を示しています。律法は法を遵守する力を与えてはくれないので、律法の下にある者はその裁きを免れません。そのことをパウロはガラテヤ書3章10節でも、申命記27章26節を引用しながら語っています。

 それに対して「霊は生かす」というのは、主イエスの「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(ヨハネ6章63節)と仰った言葉を思い起こします。

 7節以下、モーセの顔の輝きと覆いが話題となります。これは、出エジプト記34章29節以下に記されている出来事です。それによれば、モーセがシナイ山で神と語っている間に、彼の顔が神の栄光を映して光を放っていました。それでモーセは神と語るとき以外は顔に覆いをかけたというのです。

 そのように、旧約の律法に仕える務めでも神の栄光を表すのなら、霊に仕える務め、新約の福音に仕える務めはなおさら栄光に満ち溢れているのだと説明します(8節)。

 このような説明が語られている背景として、ユダヤ教の影響を受けている者がコリントにやってきたか、あるいは教会にユダヤ人キリスト者がいて、神の祝福を得るために、律法を守るべきだと主張していることが考えられます。

 ただ、パウロがここでモーセの顔の輝きと覆いについて説明しているのは、旧約聖書の物語のとおりではありません。彼独特の解釈が施されています。まず、顔の覆いについて、輝きが消え去るのを見られまいとして覆いをかけたと言います(13節)。

 そして、14節で「今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです」というのは、旧約聖書を読み、律法に仕えているとき、そこに主イエスのことが記されていることが分からなかったという、パウロ自身の経験に基づいています。そして、今もキリスト教徒に対する迫害が続いていることが、その明確な証拠だというわけです。

 それに対して、霊によって新しい契約に仕える者は、顔に覆いをかけません(13節)。むしろ、キリストに向き直ることよって覆いが取り去られる(16節)と言います。これも、パウロの体験です。復活の主に出会ったとき、彼の目からうろこのようなものが落ち、はっきり見えるようになりました(使徒言行録9章18節)。それによって、キリストの伝道者、使徒と変えられたのです。

  同様に、コリントの信徒たちは、既に神の栄光を見る者とされているのです。キリストに心を向けるとき、栄光を拝することが出来ます。パウロは、十字架を負って歩まれる主の姿に、信仰によって、神の栄光をはっきりと見出すことが出来たのです。

 私たちも、キリストを信じたとき、心の覆いが取り除かれました。信仰によって主イエスの御顔を仰ぐ者となりました。勿論、主は霊ですから(17節)、肉眼で捉えることはできません。しかし、私たちは信仰によって、主イエスと顔と顔を合わせて語り合っています。御言葉に耳を傾け、思い巡らし、何度も口ずさみ、そして祈りをささげるのは、まことに素晴らしい神との交わりのひとときです。

 夫婦は似てくると言います。また、ペットも飼い主に似ると言います。そんな言い方は不遜かもしれませんが、いつも主を仰ぎ、その御言葉を聴き、交わりに生きる者は、主と似た者に変えられます。自分で変わる努力をするのではありません。努力すれば出来るというものでもありません。主の霊の働きで、主と同じ姿に造りかえられるというのです(18節)。

 毎日少しずつ、段々にということでもないかもしれません。霊の働きは目に見えないからです。しかし、終わりの時、それは完成されます(第一コリント書15章49節、フィリピ書3章21節)。日々主を仰ぎ、御言葉を慕い求めて参りましょう。

 主よ、あなたは私たちに御言葉を通し、聖霊によって、主と親しく交わる恵みをお与えくださいました。主が常に共におられ、私たちを守り導いてくださること、そして、天に召される希望に生かしていてくださることを、感謝します。絶えず主を仰ぎます。御言葉通り、霊の働きによって栄光から栄光へと主と同じ姿に造り変えてください。 アーメン




 

3月26日(日)主日礼拝説教

3月26日(日)主日礼拝には、教会員13名、来賓8名(子ども2名を含む)がお見えになりました。感謝!
礼拝後、信徒会を行い、新年度の主題聖句、讃美歌を選定しました。

礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「神の計画」
聖書 使徒言行録23章1~11節


静岡教会の公式サイトを更新しました。
①「礼拝説教」に礼拝プログラム、説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」「フォトレポート」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。
URL https://shizuoka-baptist.jimdo.com/

ご覧ください。









 

3月26日(日)主日礼拝案内

02

3月26日(日)10時半より、主日礼拝を行います。

礼拝では、使徒言行録23章より「神の計画」と題して説教をいただきます。

礼拝に先立ち、小学生は9時半より、中学生以上は9時45分から、教会学校(聖書の学び)を開きます。

どなたもお気軽にご参加ください。

初めての方も大歓迎です。


 

グーグルストリートビュー屋内版(インドアビュー)

グーグルストリートビューの屋内版(インドアビュー)に静岡教会の礼拝堂が掲載されています。

グーグルマップで「日本バプテスト静岡キリスト教会」を検索すると、左サイドバーに屋内版が表示されます。

そこをクリックすると、画面いっぱいの映像になります。

グーグルストリートビューのように360度回転して、礼拝堂、受付、2階、門の内側から玄関までのアプローチを移動しながら見ることができます。

オープンチャペルをお楽しみください。

グーグルストリートビュー屋内版(インドアビュー)静岡キリスト教会

スマホの方は下のQRコードからご覧ください。

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3月25日(土) 第二コリント書2章

「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」 コリントの信徒への手紙二2章14節

 第三回伝道旅行の途中、パウロはトロアスに行きました(12節)。ここは、第二回伝道旅行のとき、マケドニアに渡って伝道するように、導かれた場所です(使徒言行録16章8節以下)。そして、コリントに教会が作られたのです。

 パウロは、自分がテトスに持たせた「涙の手紙」の結果が知りたかったのですが(4節)、おとなしくトロアスで待っていることが出来ず、せっかく伝道の門戸も開かれていたのに(12節)、マケドニアに出発してしまいました。13節に「兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました」と記されているとおりです。

 その直後に冒頭の言葉(14節)で、「神に感謝します」と述べられています。このつながりがよく分かりません。「神に感謝します」は、直前のパウロの不安な思いとどうつながるのかということになりますが、具体的には、7章5節以下にその内容は述べられます。

 7章5節に「マケドニア州についたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです」とあり、続く6節に「しかし、気落ちした者を力づけて下さる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました」と記されていて、13節は直接そこにつなげると、大変分かり易くなります

 勿論、この手紙を記しているパウロは、よい結果になったことを知って感謝しているわけですから、不安な心を抱いていたけれども、それが神様によって感謝に変えられたというかたちです。

 この感謝の表明に続いて、パウロは「キリストの勝利の行進」ということを語り始めます。勝利の行進といえば、通常、戦いに勝った将軍が多くの戦利品と共に捕虜を引き連れて意気揚々と戻ってくる凱旋の行進を思わせます。そのときには、凱旋将軍を迎えるために香が振りまかれ、沿道は歓呼の声で包まれます。

 ところで、キリストの勝利の行進とはどのようなものでしょうか。馬にまたがり颯爽とという行進ではないでしょう。見栄えのしないロバに乗り、それもまだ力不足の子ロバに乗っての行進ではないでしょうか。あるいは、ローマ兵に引き立てられ、十字架を負ってよろよろと歩む主イエスの姿を思い浮かべます。見るところ、勝利の栄光はありません。

 しかし、それはまさに私たちの罪と死に勝利する行進でした。パウロが「わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ」というのは、自分たちは勝利した軍勢の一兵士として誇らしく行進していると言っているわけではないでしょう。むしろ、鎖につながれ、引き立てられて歩く捕虜として、その行進に連なっているのです。そして、パウロをつないでいるその鎖は、恵みという鎖なのです。

 キレネ人シモンが、主イエスに代わって十字架を担いで歩かされました(ルカ福音書23章26節など)。自ら進んでそうしたのではなく、無理に負わされたのです。人々は彼の不運を思ったでしょう。あるいは、主イエスと共に、忌まわしいものと考えられたかも知れません。

 しかし、この男もその家族も主イエスを信じ、キリストのために働く者となりました(マルコ福音書15章21節、ローマ書16章13節参照)。パウロは、あるいは自分をそのキレネ人に重ねているといっても良いのではないでしょうか。そしてそれは、パウロにとって、この上もない喜びと思われたのです。

 だから、この行進に連なる者となったことを、ここで感謝しているのです。その行進に加わることで被る苦しみ、それによる不安や恐れがあるでしょう。また、誤解も曲解もあるでしょう。それでも、彼から感謝を奪うことは出来ないのです。

  そしてパウロは、使徒の働きを「キリストを知るという知識の香りを漂わせ」ることと語ります。続いて15節でも、「わたしたちはキリストによって神にささげられる良い香りです」と言います。神へのいけにえには、香油が添えられました。その働きがよいものであり、神にささげられたものであることが示されます。

 しかしそれは、決してパウロ自身が良いものであるということではありません。それが良い香りとされるのは「キリストによって」、十字架につけられたキリストの手を通して、神にささげられたものだからです。こうしてパウロは、ここでも自分を、十字架につけられたキリストの福音を述べ伝える使徒とされた者であると、明確に語っているのです。

 「キリストを知る」者とされたこと、キリストの迫害者からキリストの使徒へと変えていただいたことを思うとき、パウロの心はいつでも、感謝で溢れるのです。私たちも、主の恵みによってキリストを知る者とされました。心から感謝を込めて賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の実を絶えず神に献げましょう。 

 主よ、あなたは私たちを選ばれました。あなたは憐れみの神であられ、この選びから漏れる者は一人もいません。心から感謝し、御名を褒め称えます。御心がこの地に行われますように。そのために私たちを聖霊で満たし、あなたの用い易い器とならせてください。 アーメン



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