「サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。」 使徒言行録9章4節
新共同訳聖書には、9章1節以下の段落に「サウロの回心」という小見出しがつけられています。しかし、ここに記されているのは、サウロの回心というよりも、サウロの召命、神による選びというのが、正確な表現ではないかと思われます。
サウロは、エルサレム教会を荒らしただけでは収まらず、さらに外国にまでその手を伸ばします。そのために、大祭司に許可を求め、ダマスコにあるユダヤ教の諸会堂あての紹介状を受け取ります(1,2節)。サウロの内側に、悪いことをしているという感情は全く見られません。むしろ、律法に背き、神を冒涜しているキリスト教徒を迫害することこそ、神に喜ばれることと信じて、邁進しています。
ところが、ダマスコに近づいたとき、天からの光に打たれ、地に倒れました(3節)。そして、声を聞きます。それが冒頭の「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(4節)という言葉でした。サウロは声の主に向かい、「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねました(5節)。サウロは、声の主が「主」、すなわち神のような存在であることを認識していることが分かります。
サウロは、神に熱心に仕えていると考えていました。ところが、声の主、サウロが「主」と認識した神のようなお方は、「なぜ、わたしを迫害するのか」と語られます。サウロは、それまでの確信が崩されてしまいました。それで、「あなたはどなたですか」と尋ねるのです。
声の主は、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えました。サウロは、主イエスにお会いしたことがあるのでしょうか。ただ、主イエスを実際に迫害したという事実はないと思います。しかし、サウロはこの声に反発していません。主イエスに、「あなたを迫害したことはありません」とは言いません。
サウロは、正確にこの言葉を理解しました。サウロは、主イエスの福音を宣べ伝える信徒たちを、神を冒涜する者たちと断罪し、教会を根絶やしにするため、熱心に働いてきました。もし主イエスが生きておられたら、彼は真っ先に主イエスを亡き者にしようとしたに違いありません。まさに、主イエスの弟子たちにしたことは、主イエスに対してしたことなのです。
主イエスは、マタイ福音書25章40節で「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われました。有力な信徒たちに対する行為がそのように評価されたのではありません。特にだれも顧みることがなさそうな、名前すらおぼえてもらえない、そんな「最も小さい者の一人」を「わたしの兄弟」とよび、その人にしたことをご自分にされたことと評価してくださるのです。
「最も小さい一人」とは、私たちすべての者のことでしょう。だれもが主イエスに「わたしの兄弟」と呼ばれ、私たちが受ける悲しみも喜びも、ご自分になされたことと受け止めてくださっているのです。私たちは断じて、主イエスから見捨てられはしません。主イエスは私たちのことをご自分のこととして、その心と体で受け止めておられるのです。
「最も小さい一人」とは、私たちすべての者のことでしょう。だれもが主イエスに「わたしの兄弟」と呼ばれ、私たちが受ける悲しみも喜びも、ご自分になされたことと受け止めてくださっているのです。私たちは断じて、主イエスから見捨てられはしません。主イエスは私たちのことをご自分のこととして、その心と体で受け止めておられるのです。
その主イエスの愛と憐れみが、迫害者サウロを捉えました。主イエスは、「私をよくも苦しめてくれたな、決して容赦はしないぞ」などと語られたのではありません。「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」と告げられます(6節)。
すなわち、自分の意気込みや大祭司たちの命令などではなく、主イエスによって、新しい使命に生きる者とされるということです。そこに赦しがあり、愛があります。サウロはこの赦しと愛を受けて、新しく生まれ変わるのです。
サウロはその時、目が見えなくなっていて、人に手を引かれてダマスコに行きました(8節)。そして、「サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」(9節)と言われます。目が見えなくなっている中、三日間飲食を断って、サウロは何をしていたのでしょうか。
それは、祈りです。11節に、「ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を尋ねよ。今、彼は祈っている」と記されています。サウロは、「あなたのなすべきことが知らされる」(6節)と言われて、飲食を断って祈りながら、それまでの自分の振る舞いを悔い改め、主なる神が示される「なすべきこと」のために祈り備えていたわけです。
サウロのところに遣わされて来たアナニアが、サウロの上に手を置いて祈ると(17節)、「たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるように」(18節)なりました。「目からうろこ」という諺は、ここから出たものです。
ファリサイ派の一員として教会を迫害するのは、神への熱心を示すものという、いわば身を飾る「うろこ」のようなものでしたが、それが、彼の目を見えなくしていました。その「うろこ」が取り去られたとき、サウロは自分のなすべきことがはっきりと見えたのです。そこで、「食事をして元気を取り戻し」(19節)ました。そして、「すぐあちこちの会堂で、『この人こそ神の子である』と、イエスのことを宣べ伝えた」(20節)のです。
すなわち、自分の意気込みや大祭司たちの命令などではなく、主イエスによって、新しい使命に生きる者とされるということです。そこに赦しがあり、愛があります。サウロはこの赦しと愛を受けて、新しく生まれ変わるのです。
サウロはその時、目が見えなくなっていて、人に手を引かれてダマスコに行きました(8節)。そして、「サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」(9節)と言われます。目が見えなくなっている中、三日間飲食を断って、サウロは何をしていたのでしょうか。
それは、祈りです。11節に、「ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を尋ねよ。今、彼は祈っている」と記されています。サウロは、「あなたのなすべきことが知らされる」(6節)と言われて、飲食を断って祈りながら、それまでの自分の振る舞いを悔い改め、主なる神が示される「なすべきこと」のために祈り備えていたわけです。
サウロのところに遣わされて来たアナニアが、サウロの上に手を置いて祈ると(17節)、「たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるように」(18節)なりました。「目からうろこ」という諺は、ここから出たものです。
ファリサイ派の一員として教会を迫害するのは、神への熱心を示すものという、いわば身を飾る「うろこ」のようなものでしたが、それが、彼の目を見えなくしていました。その「うろこ」が取り去られたとき、サウロは自分のなすべきことがはっきりと見えたのです。そこで、「食事をして元気を取り戻し」(19節)ました。そして、「すぐあちこちの会堂で、『この人こそ神の子である』と、イエスのことを宣べ伝えた」(20節)のです。
教会の迫害者であったサウロが、主イエスの福音を宣べ伝える伝道者となりました。まさに、コペルニクス的転回です。それは、サウロを赦し、愛された主なる神の深い憐れみがあればこそです。
このように迫害者サウロをさえ心にかけ、愛された主は、私たちをも赦し、深い愛と憐れみをもって救いに導いてくださいました。私たちのなすべきことがはっきり分かるために、主の御言葉に耳を傾けましょう。聖霊の導きを求めて祈りましょう。
主よ、サウロの召命にあなたの慈しみを示されます。迫害者サウロが救われたのは、すべての者が救われるというしるしです。私たちが救われたのも、主のご計画に従って、なすべき務めがあるからです。それがどのようなものであるのか、御言葉と聖霊の導きにより、はっきりと知ることができますように。そうして、御心がこの地になるため、私たちを用いてください。 アーメン
このように迫害者サウロをさえ心にかけ、愛された主は、私たちをも赦し、深い愛と憐れみをもって救いに導いてくださいました。私たちのなすべきことがはっきり分かるために、主の御言葉に耳を傾けましょう。聖霊の導きを求めて祈りましょう。
主よ、サウロの召命にあなたの慈しみを示されます。迫害者サウロが救われたのは、すべての者が救われるというしるしです。私たちが救われたのも、主のご計画に従って、なすべき務めがあるからです。それがどのようなものであるのか、御言葉と聖霊の導きにより、はっきりと知ることができますように。そうして、御心がこの地になるため、私たちを用いてください。 アーメン