風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2016年12月

12月22日(木) ルカ福音書14章

「主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。』」 ルカによる福音書14章23節

 14章は、1~14節がルカの独自資料、15~33節がマタイとの共通資料、そして34,35節はマルコ福音書に基づいて記されています。

 15節に、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」という言葉があります。「神の国」とは、Kingdom(キングダム) of(オブ) God(ゴツド)、神が王として支配している国、神の支配が及んでいる場所のことです。普通は、天国のことを指していると考えられます。

 この言葉を語ったのは、ファリサイ派の議員の家の食事に招待された客の一人だということですが(1,7,15節)、その人は、天国の宴会に招かれるのは、大変光栄なことだと言っているわけです。この世の王様に招待を受けることも名誉なことですが、なんといっても、King of Kings,Lord of Lords、王の王、主の主なるお方の招きです。

 となれば、それこそ、天にも昇る思いになるのでしょうね。そこにはどんなご馳走が並ぶでしょうか。そのお方のテーブルで食事をご一緒するというのは、どんなに幸いを感じることでしょうか。

 恐らくその人は、自分がファリサイ派の議員の宴会に招かれているように、天国にも招かれて宴会に臨んでいる様子を思い浮かべていることでしょう。そして、「俺は、神の宴会に招待されて、一緒に食事する栄誉に与った男なんだぞ」と、それをとても誇らしく思っていることでしょう。その気持ちは分らないでもありません。

 主イエスはその言葉を聞いて、大宴会のたとえ話をなさいました。それは少々不思議な話です。16節以下をご覧くださると、そこに「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った」(16~18a節)と記されて、つづけて断りのわけが述べられています。

 まず第一の不思議は、招かれていた人々が次々と断りを言って、だれも宴会に来ようとしないことです。それは、招いた家の主人を軽んずることです。招待に答えるよりも、自分の用件の方が重要なのです。それで、当然のことながら、家の主人は立腹します。彼らはもう二度と招かれないでしょう。

 第二の不思議は、立腹した主人が僕に指示する言葉です。「僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい』」(21節)と記されています。

 その指示に従って宴会の客が招かれますが、それでもまだ席があると聞くと、冒頭の言葉(23節)のとおり、「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言います。いかに、招待を断られて腹を立てたからとはいえ、自分が開く宴会に相応しいとも思えないような人々を招くでしょうか。誰でもいいから無理にでも連れて来て家を満たせというような、そんな主人がいるでしょうか。

 通常ではあり得ないところが、この話の味噌です。この話の中で、宴会を開く主人は父なる神様、招待客を迎えに行く僕は、主イエスご自身です。主イエスは、貧しい人、体の不自由な人、罪人と呼ばれた人など、当時のユダヤ社会では、神の選びから漏れていると考えられて片隅に追いやられていた人々を招き、食事を共にされていました。

 ユダヤの指導者たちは、主イエスが罪人の仲間になられたということで、主イエスを軽んじます。およそ、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」と一緒に食卓に着こうなどとは考えません。そういう人々の仲間と言われるのは、彼らにとってはこの上もなく不名誉なことだったわけです。だから、宴会に出席するのを、口実を設けて断るわけです。

 一方、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」は、自分たちは神の宴会に招かれる資格があるなどとは、思ってもみなかったことでしょう。ただ、招かれたので来たということです。さらには、「無理にでも連れて来い」と言われる人々がいます。ここに、この家の主人の強い意思が示されます。つまり、神はご自分の家を、その宴席を人々で満たしたいのです。

 自分には資格があると思っていた人々は、神の恵みを軽んじました。資格があると思わなかった人々、元来、招かれていなかった人々がその恵みに与ることになりました。勿論、無理矢理に連れて来られた人の中には、宴会に出席することをよしとせず、家に帰ってしまい、その恵みを受け損ねてしまったかも知れませんね。

 「ふうけもん」という映画があります。中村雅俊が主演で、浅野ゆう子、中村玉緒、哀川翔なども出演します。監督は、釣りバカ日誌を撮っている栗山富雄監督。「ふうけもん」は、便利屋さんの元祖でクリスチャンの右近勝吉さんをモデルにした映画です。

 右近さんは、高校生時分、やくざの鉄砲玉をしていましたが、マカルパイン宣教師と出会って生活が変わります。1956年の冬、宣教師に誘われて出席した集会の講師ダビデ・マーチン先生が、説教中に千円札を取り出して、「これを欲しい人にあげましょう」と言いました。

 右近さんは、余りの気前の良さにびっくりしてしまいました。それは、当時の一般サラリーマンの月給が1万5千円程度ですから、当時の千円は今なら2万円にもなるものだったからです。

 皆があっけにとられている中、一人の女子学生が「はい」と手を上げ、千円札を講師から貰いました。講師は、「信仰とは、出されたものを素直に受け取ることなのです」と言われました。

 それを聞いて右近さんは、出されたものを有り難く頂戴する、それが信仰ってヤツなら、俺にだってできるじゃねぇかって、その晩、マカルパイン宣教師が信じているイエス・キリストを受け入れたのです。というのも、マカルパイン宣教師が、自分のようなヤサグレものを分け隔てせずに笑顔で受け入れてくれていたからっていうのです。

 私たちが救われて神の国の民となることが出来るのは、実にこの神の恵みなのです。私たちが何者なのかが問題ではなく、宴会の席に座る恵みに与るためには、神が遣わされた主イエスに「はい」と従順について行き、出されたものを素直に受け取ることだけなのです。

 子どものように素直に神の国を受け取ろうとする皆様に、神様の恵みと導きが常に豊かにありますよう、祝福をお祈り致します。ご一緒にお祈りしましょう。

 天の父なる神様、御名を崇め、感謝と賛美をおささげ致します。私たちを御国の宴会にお招きくださり、感謝致します。あなたのくださる恵みをそのまま素直に受け取ります。絶えず、主の御声に聴き従わせてください。私たちの上に、主の恵みと慈しみが常に豊かにありますように、そして、いよいよ主の御名が崇められますように。 アーメン


 

12月21日(水) ルカ福音書13章

 「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」 ルカによる福音書13章3,5節

 13章は、1~17節がルカの独自資料、20節以下は、マタイとの共通資料に基づいて記述されています。18,19節はマルコ福音書に基づく記述です。

 1節以下に「悔い改めなければ滅びる」と小見出しのつけられた段落があります。これは、前段の「訴える人と仲直りする」(12章57~59節)に続けて語られています。仲直りすることが悔い改めるということと見ることができそうです。

 1節に、「何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた」と記されています。いけにえは当時、エルサレムの神殿でしかささげることが出来なかったので、これは、エルサレムでの話です。ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたということは、エルサレムを巡礼していたガリラヤ人を総督ピラトが殺害したということです。

 これがどのような事件か、詳しいことは分りませんが、バークレーの注解書には、エルサレムの水事情が悪いので、ピラトが神殿に入るお金の一部を用いて水道を造ることにしたこと、事柄自体はよいことと受けとめられますが、しかし、神への献げ物を水道事業に流用することについて反対運動が起こり、それをピラトが兵士を使って制圧する際、多くのガリラヤ人の血が流される事態となったと記されています。

 なぜ、この事件の情報が主イエスにもたらされたのかということも明らかにされてはいませんが、この事件に対する主イエスの対応を巡って何らかの言質をとり、捕縛するきっかけにでもしようということだったのかも知れません。

 また、主イエスの弟子たちの中に「熱心党と呼ばれたシモン」がいます。熱心党というのは、神に対する熱心により、律法に背く者を排除することを目的に、ローマの圧政と暴虐に反抗して、自由と独立を獲得しようとする活動を展開していた人々です。主イエスの返答次第では、弟子の中にいる熱心党のメンバーが反乱を起こすことを期待したのかも知れません。
 
 4節の、「シロアムの塔が倒れて死んだあの18人」というのも、どのような事故だったのか明確ではありませんが、バークレーは、水道工事のときに誤って塔を倒してしまい、工事を請け負っていた人が災難にあったという解釈を示しています。

 主イエスは、もたらされた事件の情報に対し、そして、シロアムの塔の事故のことを語りながら、「ほかのどの人々よりも罪深い者だったと思うのか」(2,4節)と問われ、それに対して、冒頭の言葉(3,5節)のとおり、「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と仰っています。

 ということは、ファリサイ派の人々をはじめ、周囲の人々は、ピラトに殺されたガリラヤ人やシロアムの塔の下敷きになった者たちが、神に背いた結果、その罪の罰を受けたと考えていることになります。

 この問答の背景には、人々が災難にあったとき、それをその人が犯していた罪の罰と考える、因果応報的な考え方があります。ヨブ記で、ヨブの三人の友らがヨブを諫めるとき、ヨブの災難の原因が彼の罪にあるとして悔い改めを迫ったのは、まさにこの因果応報的な考え方に従っているのです。

 これは、ヨハネ福音書9章2節で主イエスの弟子たちが生まれつき目の見えない人を見て、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と尋ねた言葉にも示されています。

 主イエスはここでそれを否定されているわけではありません。しかし、災難にあった人と、それを罪のゆえと批判する人、いずれも神の前に悔い改めなければ、皆滅びると言われました。つまり、主イエスは、人を批判している人も罪と無縁ではないと仰っているのです。

 時代劇で、主人公が悪役に向かい、「天に代って悪を討つ。正義の刃、受けてみよ」などと語りますが、私たちが他者を罪に定めるとき、自分が神の座についているわけで、そのとき、神を見てはいないのです。悔い改めるとは、180度方向転換することです。神の方を向くことなのです。

 このことで、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者になりなさい。人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」(6章37,38節)と語られた主イエスの御言葉を思い出します。

 主イエスは私たちが、神の座について人を裁く者となるのではなく、主イエスの御言葉に従って憐れみ深い者となること、人を裁かず、罪に定めず、むしろその罪を赦す者となることを期待されているのです。

 主イエスはそれを、実を結ばないイチジクの木は切り倒してしまえという6節以下の譬えで語られました。ぶどうやイチジクは、神のお与えになる恵みの豊かさを示しています。パレスティナでは、ぶどうの枝を支えるために、イチジクを一緒に植えることがあったそうです。しかし、実を結ばないイチジクのために、ぶどうの生育が妨げられることにならないよう、実を結ばないようなイチジクは切り倒せということになるのです。

 土地の主人は、「もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ」と言います。何年待っても、実がなっていない。いつも期待はずれだ。もう待てない、無駄に土地をふさいでおくなというわけです。

 かくて、神の恵みを知っていながら、恵みを豊かに受けていながら、良い実を結ばないイチジクは、切り倒される運命にあります。そのことについて、私たちは今、実を結んでいますと、主の御前に胸を張ることが出来るでしょうか。そうありたいものですね。

 ところが、切り倒せという主人の言葉に対して、園丁は、「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言います(8,9節)。

 主イエスは、イチジクが切り倒される運命にあることを承知しておられます。園丁として、イチジクが実を結んでいないことに胸を痛めておられたのではないでしょうか。だから、切り倒せという命令に、すぐに「はい、分りました」とは仰いません。「今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と仰って下さいました。

 それは、何とかして実を結ばせようという主イエスの思いであり、しかも、それが最終手段であることが示されます。「もしそれでもだめなら、切り倒してください」(9節)と言われているからです。

 してみると、この箇所は、主イエスの公生涯のお働きを示していると考えることも出来ます。主イエスは、3年余り、公の生涯を歩まれました。神の御国について教え、大いなる御業によって神のご愛を示されました。けれども、人々は主イエスを受け入れようとはしませんでした。良い実を結ぶことが出来なかったのです。かえってイエスを捕らえ、亡き者にしようとします。

 そこで、主イエスは最後の手段として、十字架の道に進まれます。私たちが実を結べるよう十字架の上で執り成し、切り倒されてしまわないように御自身が贖いの供え物となって下さいました。この十字架の贖いによって罪赦され、救いに与り、神の子とされ、実をつけられなかった者が良い実を結ぶことの出来る者へと造り替えられ、こうして、はっきりと神に立ち帰り、全き悔い改めに至る機会が与えられるのです。

 自分で自分を正しいとする道、それによって、他者を裁き、罪に定める道を離れ、主イエスの進まれる十字架への道、神の憐れみを受けて、その恵みに生かされ、他者を赦し、愛し合う道へ進みましょう。

 主よ、心静かに御言葉に耳を傾け、その導きに素直に従う私たちに、主の恵みと慈しみを豊かに注いでください。絶えず目を覚まして主なる神を仰ぎ、御言葉に耳を傾ける者とならせてください。導きに従って歩み、主の御心を行って、良い実を結ぶことが出来ますように。 アーメン



12月20日(火) ルカ福音書12章

「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。」 ルカによる福音書12章6節

 12章は、マルコ福音書から離れ、ルカの独自資料とマタイとの共通資料に基づいて記述されています。ここには、主として弟子たちに対する主イエスの教えが宣べられています。それは、主イエスに仕えるために必要な心がけや態度を教えるものです。

 2番目に、「恐るべき者」という小見出しがつけられた段落(4~7節)があります。その初めに、「友人であるあなたがた」という言葉があります。主イエスがここで、弟子たちのことを「友人」と呼んでおられます。これは、主イエスと弟子たちとが、師弟関係を超えた親しい交わりを持っていることを言い表しています。

 ヨハネ福音書15章15節にも、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」と語られています。

 私たちは、主イエスが私たちを友と呼ばれ、すべてのことを知らせたと言われる言葉をどのように聴いているでしょうか。本当に親しい関係にあると感じていれば、その言葉を疎かにすることはないでしょう。もし主イエスと親しくなりたければ、その言葉に真剣に耳を傾け、その導きに従って歩むことです。

 冒頭の言葉(6節)に目を留めてください。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」と告げられています。

 この段落の平衡箇所のマタイ10章29節には、「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか」と記されています。「アサリオン」というのはローマの通貨で、1アサリオンは1デナリオンの十六分の一です。1デナリオンは、当時の労働者の一日の賃金と言われます。1デナリオンを5000円と仮定すると、十六分の一はおよそ300円になります。そうすると、雀一羽の値段は150円ですね。

 ところで、マタイが「2羽の雀が一アサリオンで売られている」と言い、ルカは「五羽の雀が二アサリオンで売られている」と言います。つまり、ルカはマタイを2倍して、4羽で2アサリオン払うと1羽おまけ、5番目の雀おまけ、ただで貰えるというのです。

 主イエスは、そのような無価値ともいうべき雀の「一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」と言われるのです。マタイには、「その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」と記されていました。

 30年前、ある牧師がこの箇所について、神は雀の管制官で、いつ飛び立つか、どこの空をどのように飛び、いつ、どの木の枝に降りるかなど、それらすべてを完璧に把握し、指示を出しておられるということだと説かれたことを、はっきりと覚えています。

 世界中の航空機の数よりもはるかに多い鳥のことを、神は一羽一羽覚えて、守っておられるのです。その配慮は、今ここで、人に捕らえられ、売られていく雀、4羽買うと1羽オマケでついてくるその5番目の雀にも及んでいると言われているのです。

 ということは、「友人」と呼ぶ弟子たちのことをほっておかれるはずがない、必ず守ってくださるということを言われているわけです。その守りは、私たちの髪の毛一本一本にさえも及んでいると仰っておられます(7節)。私たちの髪の毛の数は、日に日に変化します。少々大げさな言い方ですが、私たちから決して目を離されることはなく、それほど大切に見守っていてくださるということです。

 先に申し上げたとおり、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われた主イエスは、まさしく私たちを愛し、命を捨ててまで、私たちを守っていてくださいます。

 もちろん、その守りは私たちを完全にガードして、まったく苦しみなど味わわせないということではありません。4節に、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」と記されています。これは、主イエスの弟子ということで殺されることさえあるということです。けれども、恐れる必要はないというのです。

 それは、死によって、神と私たちの関係が損なわれることはないからです。それどころか、神の国の栄光へと迎え入れられるのです。私たちは、「神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」(ローマ書8章17節)とパウロが記しているとおりです。

 それによって、神はその死をさえも、私たちを守り、恵みを与える通路とされるということが分ります。神が信頼出来なければ、死を恐れるでしょう。そして、死をもたらすものを恐れます。けれども、そんな臆病な私たちに向かって「恐れることはない」と仰ってくださる神がおられます。そして、恐れから解放するために聖霊を通して平安と自由をお与えくださると信じています。

 12節に「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」と記されており、そこに「聖霊」という言葉があります。聖霊は、神の霊、真理の霊、キリストの霊、イエスの御霊などと表現されるように、父なる神、子なるキリストと同質の、三位一体なる神の第三位の神です(第二コリント書3章17節、ヨハネ福音書4章24節など)。

 ヨハネは、「弁護者」(パラクレートス)という表現を用いて、その役割を説明しています(ヨハネ14章16,17節)。その際、「別の弁護者」として、真理の霊が紹介されていますが、「別の弁護者」が派遣される前の弁護者とは主イエスのことですから(第一ヨハネ2章1節参照)、主イエスと真理の霊は、「弁護者」という部分で同じ働きを担うことが示されています。

 イエス・キリストにおいて表された神の愛を、私たちが信じ、受け入れることが出来たのは、聖霊の働きです。誰も、聖霊によらなければ、「イエスは私の主です」と告白することは出来ません(第一コリント12章3節参照)。聖霊は、キリストの語られた御言葉や行われた御業を思い起こさせ、神の御心が何であるかを教えてくださいます(同2章10~12節)。

 聖霊に満たされるという体験でもっとも嬉しいこと、あるいは大切なことは、神の御言葉は真実だという信仰に導かれることです。神の御言葉に対する信仰を持てることほど心強く、平安で、嬉しいことはないでしょう。

 エフェソ書5章18節で、「聖霊に満たされなさい」と命じられています。また、ルカ11章9,13節には、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。・・天の父は、求める者に聖霊を与えて下さる」と約束されています。

 私たちは「5番目の雀」、取るに足りない無価値な存在かも知れませんが、聖霊がいつも私たちと共にいて、私たちを助けてくださることを信じ感謝しつつ、御霊の力を頂いて、主の福音宣教の業に用いて頂きましょう。神に愛され、救いの恵みに与ったことに絶えず喜びと感謝をもって、委ねられているキリストの福音を家族や友人に証ししましょう。

 主よ、私たちを友と呼び、常に見守っていてくださることを、心から感謝致します。それは、私たちが友に相応しい者だからではありません。一方的に注ぎ与えられた驚くべき恵みです。その恵みが無駄にならないよう、御言葉の約束の通りに聖霊を私たちの内にお遣わしください。常に私たちの内に、私たちと共にいてくださり、私たちを日々栄光から栄光へと主と同じ姿に造り変え、主の証人として整え用いてください。委ねられた使命に励むことが出来ますように。 アーメン




12月19日(月) ルカ福音書11章

「そこで、イエスは言われた。『祈るときには、こう言いなさい。「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。」』」 ルカによる福音書11章2節

 マルタに対して、主イエスの御言葉を聞くことの大切さを教えられた後(10章38節以下)、祈りについて、弟子たちに教えられます(1~13節)。ここには、「主の祈り」(1~4節、マタイ6章5~15節)、「執拗に願うこと」(5~8節)、「求めれば与えられる」(9~13節、マタイ7章7~11節)と、三つの記事がまとめられています。

 ルカは、主イエスがよく祈られる方であったことを、折々に伝えています(3章21節、5章16節、6章12節、9章18節、28節など)。主イエスは、祈りを通して神の御心を尋ね、また、御心を行う力と助けを求めておられたのでしょう。そこに、主イエスと父なる神との親密な交わりを見ることが出来ます。

 神の御子だから、神の御心など先刻承知で、祈る必要などないということではありませんでした。むしろ、御心を知っておられるからこそ、それを正しく実践するために、祈りを通して神と交わることを必要としておられたということでしょう。

 そのような主イエスの祈りを聞き、その姿勢にしばしば接して来た弟子たちは、「ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と願いました(1節)。しかしそれは、個人的な祈りではありません。集団の祈り、教会の祈りというべきものを求めたのです。洗礼者ヨハネの弟子集団にもそのような祈りの言葉があったわけです。

 主イエスはその願いに応えて、祈りの言葉を教えてくださいました。それが、2~4節に記されている祈りです。「主の祈り」とは、主イエスが教えてくださった祈りなので、そのように呼ばれるのですが、主イエスがいつも祈っておられた祈りを、弟子たちに分けてくださったものでもあります。主の祈りを通して、主イエスにつながり、そして、教会を形成する信徒を一つに結ぶのです。

 冒頭の言葉(2節)は、主の祈りの第一、第二の祈りです。祈りの言葉に先立って、呼びかけの言葉が記されています。主イエスは、神に対して、「父よ」と呼びかけられました。

 ギリシア語原文では、「パーテル」と記されていますが、主イエスの口から出たのは、アラム語の「アッバ」という言葉でしょう(マルコ福音書14章36節、ローマ書8章15節など)。「アッバ」とは、ユダヤ人の家庭で幼児が父親に向かって呼びかける、「父ちゃん」とでもいうような言葉です。

 私たちが神に向かってそのような言い方をするのはあまりにも不謹慎、なれなれし過ぎるなどと批判を受けそうですが、しかし、主イエスがそのように祈れと命じられていること、その心をまず受け止めるべきでしょう。主イエスは私たちを神の子どもとするために、ご自分が犠牲となられたのです。

 そして、「御名が崇められますように」という第一の祈りです。この祈りは、誰が誰の御名を崇めるのかということが重要なポイントであろうと思います。「御」とは、原文では「あなたの」という言葉ですが、邦語では、神に対して「あなた」という表現を用いることを避けて、「御」と訳されています。あなたと呼びかけた相手は、祈りを聞いてくださる神なのですから、「神の名が崇められるように」という祈りです。

 そして、「崇められるように」という訳語は、すべての人々から神が崇められるようにと解釈されてのものと考えられます。原語は、「聖とする、清くする」(ハギアゾウ)という意味の動詞(アオリスト[不定過去]、受動態、命令形)で、岩波訳では、「あなたの名が聖なるものとされますように」と訳しています。

 「名を聖なるものとする」ということについて、エゼキエル書36章22,23節を見てみましょう。

 「それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる」。

 ここに、「彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする」と言われています。イスラエルの民が汚した神の名を聖なるものとする、清めるということですが、このとき、誰が神の名を清くする、聖別するというのでしょうか。そうです、主語は「わたし」、主なる神ご自身です。主がご自分の名を清め、聖なるものとされるというのです。

 つまり、私たちに崇めさせてくださいというのでも、世界中の人が崇めるようにというのでもないのです。「あなたの名前が聖とされますように」。誰によって、それは、ご自身によって。ご自分でご自分の名前を清く保ってくださるように。誰かに汚されることがあれば、ご自分で清めてくださるようにと祈っているのです。

 誰かに汚されることがあればと言いましたけれども、いったい誰が神の名を汚すのでしょうか。勿論、神がご自分の名を汚すはずがありません。それは、神によって造られた人間、私たちです。私たちが神の名前を汚した。どのようにして汚したのでしょうか。神を神としない、神の御言葉に耳を傾けない、その言葉に従わないことをによって汚しました。それこそ、神を神として崇めないということでしょう。

 神が汚れを取り除こうとするときに、何が起こるのか。それは、御名を汚した者の責任を問い、その罪を罰するということです。つまり、御名を汚した者の罪を罰して、神が神としての権威、威光を周囲に表されるということです。神にその責任を問われ、罰せられるとは、恐るべきことです。

 神がご自分の権威、威光を表され、御名を聖とされるために、どのようになさったのでしょうか。私たちが汚した神の御名を清めるため、私たちの罪を罰するために取られた手段は、私たちの身代わりにイエス・キリストを十字架に磔にして殺し、その罪を裁くということでした。

 主イエスが十字架について死んでくださったということが、神が神として、この上もないほどに最も神様らしく振る舞ってくださり、神の権威、威光を表してくださる御業だということです。そう考えると、「御名を崇めさせたまえ」とは、私たちを罪から救ってくださいということです。そのために、神の御子が贖いの御業をなさってくださいと祈っているわけです。

 神が神として、この上もなく高くあられる、清くあられることは、私たちを厳しく裁くことでありながら、それは私たちを深く愛して、罪人の私たちを救ってやまないものでもあるということです。主イエスを信じる私たちが、神の民としてしっかり立つことが出来なければ、神はご自分をいと高く清く立てることがおできにならない。主イエスは、そのように私たちの父なる神を示し、教えてくださっているのです。

 主の祈りを唱えつつ、日々主に感謝し、御旨に歩む者とならせていただきましょう。 

 天のお父様、私たちに祈りを与えてくださり、感謝致します。今日も、お父様の御名が崇められますように。御子イエスの贖いの御業のゆえに私は神の子とされました。お父様から頂いた愛の広さ、長さ、高さ、深さのいくらかでも理解することが出来、感謝と喜びにあふれる日々を過ごすことが出来ますように。 アーメン




12月18日(日) ルカ福音書10章

「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリヤは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 ルカによる福音書10章42節

 9章51節に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と記されていて、それまでのガリラヤでの宣教を終えて、これから、エルサレムに向けての旅路を進まれることになります。

 10章は、ルカの独自資料やマタイとの共通資料に基づく記事で、マルコからは離れています。独自資料には、72人を任命して宣教に遣わす話(1~12節)、その報告(17~20節)、「善いサマリア人」のたとえ話(25~37節)、そして、「マルタとマリア」(38~42節)の記事があります。

 72人の宣教については、先に12人の任命(6章12節以下)と、派遣(9章1節以下)の記事がありました。12人の働きが豊かな実りとなり、72人を選任するほどに、弟子の群れが大きくなったわけです。そして、72人が派遣されることで、さらに多くの収穫を見ることになるでしょう(2節参照)。

 ここで、「72人」について、新改訳は「70人」としています。その背景に、創世記10章に基づき、世界の非ユダヤ民族が70、あるいはまた72あるという伝承の存在があります。つまり、12人がイスラエル全部族を象徴しているように、70ないし72人は全世界の民を象徴しているということになります。

 ルカは、主イエスに従う者たちの中に、身の回りの世話する女性たちがいたことを報告していました(8章2,3節)。そのような女性たちの仲間だったのかどうかは分かりませんが、ある村でマルタとマリアという姉妹の家に迎えられました。ヨハネは、この村をベタニアと紹介しています(ヨハネ福音書11章1節)。ベタニアは、エルサレムの南東約3㎞のオリーブ山東麓に位置しています。

 そうであれば、ペトロが信仰を言い表したフィリポ・カイサリア(9章18節以下、マルコ福音書8章27節以下)からエルサレムのそばのベタニアまでおよそ150㎞の距離を、ずいぶん速いテンポでおいでになったことになります。

 17章11節に、「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」とあり、再びベタニアからガリラヤ方面に戻っておられるので、ルカはヨハネ同様、公生涯の間に何度かエルサレムに上られたと考えているのかもしれません。

 主イエスがエルサレムに上られるのは、祭のときと考えられます。そこで、家の女主人であるマルタは、祭の客をもてなすため、腕によりをかけて忙しく立ち働いています(40節)。ところが、妹のマリアは主イエスの足もとに座って話に聞き入っており(39節)、姉を手伝おうとはしません。もしかすると、マリアだけが主イエスを信じる弟子になっていたのでしょうか。

 マルタは、自分を手伝わず、客の話に耳を傾けている妹マリアに腹を立て、なんと客の主イエスに、私一人だけが忙しくしているのをなんとも思わないのか、自分を手伝うように言ってくれと告げます(40節)。彼女の立場や状況を考えれば、それももっともなことだろうと思われます。

 けれども、主イエスはマルタの要求どおりにはなさいませんでした。そうではなく、マルタに対して、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」(41節)と言われ、続けて、冒頭の言葉(42節)で、「しかし、必要なことはただ一つだけである」と仰っています。つまり、マルタが忙しく立ち振る舞っているのは、真に必要なこと以外の、それほど重要ではない多くのことに追われているからだというのです。

 一方、妹のマリアについては、冒頭の言葉(42節)の後半で、「マリアはよい方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われました。即ち、マリアは本当に重要なものについて知っていて、それを選んだというのです。それが、主イエスの足もとに座って、その話に聞き入っていたという行動です。

 主イエスの言葉を、マルタはどのように聞いたのでしょう。「マリアはよい方を選んだ」ということは、自分は悪い方を選ばされたのだと考えて、ふてくされたでしょうか。あるいは、分かりましたといって、そこに座り、妹と一緒に主イエスの言葉に耳を傾けたでしょうか。

 それとも、たとえば、誰が食事の用意をするのですか、どうやってご一行をもてなすための準備を整えたらいいと言われるのですか、結局は私がしなければいけないんでしょうなどと、主イエスに噛みついたでしょうか。ここには、マルタの反応は記されてはいません。どう考えたらよいでしょうか。

 実際の反応は分かりませんが、マルタも、妹のマリア同様、そこに座って主イエスの話を聞くべきでしょう。それが、必要なただ一つのことと言われているからです。主イエスは、仕えられるためではなく、仕えるために来たと言われ、それは、私たちの身代わりにご自分の命を献げられることでした(マルコ福音書10章45節)。

 マリアのように主イエスの足もとに座って御言葉を聞くことが、主イエスの奉仕を受け入れることであり、その命の恵みに与ることなのです。そして、私たちは、パンだけで生きる者ではありません(4章4節)。「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」のです(マタイ福音書4章4節)。これは、パンと神の言葉、両方が必要だということではありません。パンも、そのほかの必要も、神の口から出る御言葉で与えられるという信仰の表明です。

 つまり、そのとき、ベタニアの家の真の主人は主イエスで、マルタもマリアも、主イエスの命のもてなしを受けるべきときだということです。「今日」を逃してしまえば、マルタがその恵みに与ることはできなくなるのです。時を逃さず、主の御言葉に耳を傾けましょう。その恵みをしっかりと受け取りましょう。御心をわきまえ、主に支えられて御業に励むものとなりましょう。

 主よ、私たちはあなたの奉仕を受けて生かされています。
絶えず私たちの心を恵みの光で照らしてください。それによって、必要なただ一つのことを選び取らせてください。主の恵みを頂くからこそ、日々の務めに勤しむことが出来ます。思い煩うことから解放されます。今日もその導きに与らせてくださり、感謝致します。 アーメン






12月17日(土) ルカ福音書9章

「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。」 ルカによる福音書9章6節

 9章1節から50節まで、マルコの資料に従って編集されています。1節以下、「12人を派遣する」という見出しのつけられた段落で、主イエスは、使徒としてお選びになった十二人を、御もとに呼び集められ(1節、6章13節)、彼らに悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を授け(1節)、神の国の福音を宣べ伝え、病人をいやすために派遣されます(2節)。

 マタイ、マルコには、「神の国を宣べ伝え」(2節)という言葉はありません。ルカの、福音宣教への思いが強く表れているところでしょう。12人は主イエスの代理人として、「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」(4章43節)と仰っておられた主イエスの宣教を、その言葉と業において共に担うために遣わされるのです。

 福音書の記事によれば、使徒たちは主イエスの御心を本当に弁えていたとは言えません。むしろ、理解出来ずに叱られていました(マルコ福音書4章13節、40,41節、6章51,52節、8章17節など)。そもそも、主イエスが彼らを選ばれたのは、弟子として素質があり、相応しい教養などを身につけているからというのではありません。

 また、彼らを一からみっちり仕込み、使徒としてどこに出しても恥ずかしくないよう十分に鍛えてから、派遣するということでもありません。彼らは未熟なまま、欠点だらけ、弱点だらけのまま遣わされます。

 そこに、福音宣教の緊急性といいますか、重大さが示されているように思われます。私たちの側の条件が整っているから伝道するというのではなく、伝道する必要があるから、神の国の福音が宣べ伝えられるのを待っている人々がいるから、伝道するのです。

 また、伝道は自分の知識や経験、力によってするものではなく、主の導きと助けをいただいて行うものなのです。そのことを実地で学ばせるために、「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持って行ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」(3節)と言われています。全く軽装で遣わされました。

 そのとき、彼らが頼ることの出来たものはただ一つ、彼らに授けられた主イエスの力と権能だけでした(1節)。彼らはその力と権能を携えて、出かけて行きました。知恵も力も経験も、全く不十分であることは、承知の上です。どれほどのことも出来ないかも知れません。それでも、ただ主イエスの力に依り頼み、主イエスから託された神の国の福音を宣べ伝えたのです。

 すると、主の力が彼らと共に働いて、福音を告げ知らせることができ、また、病気が癒されるという成果をもたらしました。主イエスの御言葉に従って出て行き、御言葉に従って語り、御言葉に従って病気を癒したのです(6節)。

 それは、十二人がしたことですが、しかし勿論、彼らの力ではありません。神の力です。神の力が、彼らの弱さを通して働いたのです(第二コリント書12章9,10節)。彼らは、全く未熟な主イエスの僕です。欠けた土の器に過ぎません。けれども、その器の中に本物の宝があったのです(同4章7節)。

 パウロがテモテに対して、「わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃え立たせるように勧めます。神はおくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」(第二テモテ書1章6,7節)と記しています。つまり、テモテが福音宣教に対して、臆病風に吹かれているようなところがあったのではないでしょうか。

 「神の賜物を、再び燃え立たせなさい」ということは、かつて、よく燃えていたように、もう一度燃え上がらせることを求めています。これは、テモテが福音宣教の使命を果たすために、新しい賜物が必要なのではなく、既に与えられている、否、初めから与えられていた神の賜物を、十分に活用するようにと求めているわけです。

 そのうえでパウロは、自分の殉教のときが迫って来ていると告げつつ(第二テモテ書4章6節以下)、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(同4章2節)と命じています。確かに、手紙を書き送ったパウロにとって、「折の悪いとき」かもしれません。しかしながら、それで口をつぐもうというのではなく、むしろ、福音宣教に励もうというのです。

 昔はよく街頭でのビラ配り、提灯などを持って路傍伝道、車にスピーカーを積んで集会の宣伝、塀や電柱にたくさんの看板やポスターを張り出し、道に横断幕を張ったりして、町の人々に集会の案内をしたものです。一週間連続伝道集会ということもありました。でも今はそういう時代じゃない、そういう声を聞きます。

 確かにそうかもしれませんけれども、時代があらたまって、伝道する方法や手段は変わっても、神の国の福音を宣べ伝えよという主のご命令に変更はありません。伝道しようというその情熱、人々に救いを伝えようという熱い思いも変わりません。

 私たちを選んでくださった主イエスの御言葉に従い、家族に、知人友人に、御言葉を伝えましょう。そのために、先ず祈りましょう。上からの知恵を頂きましょう。聖霊の力に与らせて頂きましょう。

 主よ、私たちは欠けた土の器に過ぎません。自分のうちになんら誇るものはありません。しかし、この私たちの中に、私たちを神の宮として、真の宝であられる主イエスがお住いくださっています。主が共におられるという平安と喜びを感じています。私たちにも福音を告げ知らせることが出来ますように、聖霊の力を与えてください。家族、知人友人を救いに導かせてください。 アーメン





12月16日(金) ルカ福音書8章

「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」 ルカによる福音書8章39節

 1~3節は、7章36節から続くルカの独自資料で、ガリラヤにおける主イエスの働きを総括しています。主イエスは、町や村を巡りながら、神の国の福音を告げ知らせておられました(1節)。そこに、「十二人」(1節、6章13節参照)も共にいました。

 また、複数の女性たちも同行し(2節)、自分の持ち物を出し合って一行に奉仕していました(3節)。当時、ユダヤにおいては、女性や子どもはものの数に入れられませんでしたが、神の国においては、「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」(ガラテヤ書3章28節)。キリストにあって、同じ一人の神の子として召し出されたのです。

 4節以下9章50節までは、マルコ福音書に基づく記事となります。4節から18節までは、マルコ4章1~25節のとおりにたとえ話が語られます。その後に、主イエスの母と兄弟たちが主イエスに会おうとしてやって来たという記事があります。

 これは、マルコとは違う位置、順序に置かれていますが(マルコ3章31節以下)、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(21節)という主イエスの言葉で、主イエスとの交わりにおいて豊かな実を結ぶのは、御言葉を聞いてよく守る者たちだという15節の言葉を例証したかたちになっています。

 その後、突風に悩まされたガリラヤ湖を向こう岸へと渡り(22節以下)、ゲラサ人の地に行かれました(26節)。ゲラサの地は、ガリラヤ湖の南方およそ60㎞に位置しています。マルコ福音書5章20節によれば、それはデカポリス地方、即ち、ガリラヤ湖の南東、ヨルダン川東部地域にあった、ヘレニズム時代の自由都市連合(デカポリスは、「10都市」という意味)地域にありました。

 しかし、それではガリラヤ湖から遠すぎて、「向こう岸にあるゲラサの地」という表記に合わないと考えて、「ゲラサ」をガリラヤ湖の南東およそ10㎞の「ガダラ」、あるいはまた、ガリラヤ湖東岸の「ゲルゲサ」としている有力な写本があります。誤りを修正しようと考えて書き換えが起こったということであれば、もともとは、やはり「ゲラサ」と記されていたのでしょう。

 ゲラサ人の地には、一人の男性がいました。主イエスがガリラヤ湖を渡られたのは、この男性にお会いになるためでした。この男性について、27節に「この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやってきた。この男は長い間、衣服を身につけず、家に住まないで墓場を住まいとしていた」と記されています。

 墓場は、死者を葬った場所です。ユダヤでは、死者に触れると「汚れる」と考えられていました(レビ記21章1,4,11節参照)。墓場を住まいとしていたということは、自らそこに住みたかったというよりも、そこにいるしかなかったということでしょう。

 彼は悪霊に取りつかれていて、鎖でつながれたり足枷をはめられたりしていたのに、それを引きちぎったとも記されています(29節)。町の人々は、そのような人物を、町の中に住まわせるわけにはいかなかったのです。

 衣服を身に着けていないということは、彼を守るものが何もないというしるしです。孤独でただ一人、苦しみの中に置き去りにされて暴れていました。様々な束縛を力ずく引きちぎって自由を求めますが、それは、却って自分を傷つける行為だったことでしょう。彼自身、自分が何をしているのか分からなかったのかも知れません。

 主イエスが汚れた霊に出て行くように命じると(29節)、悪霊どもは、底なしの淵に行けと命ぜられることを恐れ(31節)、豚の中に入る許しを請います。それをお許しになると(32節)、悪霊どもはその人から出て豚の中に入り、豚の群れは湖になだれ込み、溺れ死んでしまいました(33節)。

 悪霊を追い出してもらった人は、正気になり、服を着て、イエスの足もとに座りました(35節)。服を着たということは、彼を守るものがあるということです。主イエスの足もとに座っているということから、その服をお与えくださった方、つまり、彼を守る方は、主イエスであるということが明らかになります。

 悪霊を追い出すという神の御業を行われた主イエスに対して、二つの反応が示されます。一つは、主イエスを恐れて、「自分たちのところから出て行ってもらいたい」という反応です(37節)。ルカは、「彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである」の説明しています。何ものをもってしても縛りつけておけなかった男より、さらに強力な力を持った人物の存在は、恐怖そのものだったのかもしれません。

 それにしても、「恐れに取りつかれていた」というのは、まるで、男性から出て行った悪霊が、町の人々に取りついたかのような表現です。マルコの並行記事(マルコ福音書5章1節以下)によれば、主イエスに出て行くように願った理由が、悪霊を追い出してもらった一人の人物と豚2千匹を天秤にかけて、損失の大きさに驚いてのことだったようです。

 それは、本当に正気なのかということでしょう。そういえば、悪霊に取りつかれていた男性も、はじめは主イエスに向かって、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と言っていました(28節)。即ち、悪霊にとって主イエスの存在は、自分たちを苦しめるもの、近づきたくないものなのです。

 悪霊を追い出した主イエスに対するもう一つの反応は、癒された男が示した、「お供したい」という反応です(38節)。彼は、自分を墓場に追いやった町の人々、そして今、主イエスに出て行ってほしいと願った町の人々とは一緒にいたくなかったということもあるでしょう。しかし、それ以上に、素晴らしい恵みをお与えくださった主に、心からお仕えしたいと思っていたことでしょう。

 主イエスは、町の人々の願いに応じて、町を離れられます(37節)。しかし、癒された男性の願いは許されず、冒頭の言葉(39節)を語られました。男性にとって、それは残念で、ある意味で辛いことだったかもしれません。

 けれども、主イエスが彼に家に帰ることを命じ、町の人々に主イエスのなさった神の御業を語り聞かせるようにと、派遣されたのです。それが、この男性に与えられた、主イエスに仕えることだったのです。

 そして、この男性は、その通りにしました。自分になされた主イエスの御業を町中に言い広めたのです(39節)。神の御言葉を聞いて行うこと、それが主イエスにつながる神の家族となることだからです。

 そのとき、彼は主イエスに着せられた服に示された、主イエスの守り、キリストの霊の導きを豊かに味わったことでしょう。真理に従う者には力が与えられるからです(第二コリント書13章8節)。

 主よ、私たちは主イエスと出会うまで、人生の目標が墓場、死であることにおびえ、平安がありませんでした。しかし今、主イエスを知り、心に平安と希望を与えられています。この恵み、喜びを町中に言い広めることができますように。町中の人々がこの平安と希望を心に頂くことができますように。 アーメン




第31回清水・市民クリスマスコンサート

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12月16日(金)午後7時より、清水・市民クリスマスコンサートが清水文化会館マリナート大ホールで開かれます(開場午後6時半)。
今回のゲストは「奇跡のテノール歌手ベー・チェチョル」です。
入場チケット(1000円:全席自由)が必要です。
詳細は、日本基督教団清水教会・高橋様にお尋ねください(電話054-366-6333)。



12月15日(木) ルカ福音書7章

「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」 ルカによる福音書7章13節

 1節以下の段落に、「百人隊長の僕をいやす」という小見出しがつけられています。部下の癒しを願い出た異邦人百人隊長の信仰を、主イエスは「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(9節)と評されました。

 主イエスを驚嘆させたのは、百人隊長の権威に対する畏れ、特にそれは、神への畏れに連なるものと考えられます。部下が自分の命令に忠実に従うことから、神の御子の権威をもって「ひと言」(7節)賜れば、部下はそのとおりになるというのです。そして、その部下は元気になりました(10節)。

 11節以下の段落には、「やもめの息子を生き返らせる」という小見出しがつけられています。11節に、「ナインという町」と記されています。これは、ナザレの町から南東9kmほどのところにある小さな丘のふもとの町で、「愛らしい、楽しい」という意味の名前です。

 しかし、そこで主イエスが出会ったのは、ピクニックに出かけようという若者たちの列ではありません。死亡した一人息子を葬るために棺を担いで墓地に向かう、やもめとその町の人々という葬列でした。「やもめ」というのですから、既に夫を失っておられる女性です。そして今、「一人息子」(12節)を失いました。

 この女性をどのように慰め、励ますことが出来るでしょうか。否、むしろ他人の慰めや励ましを拒否して、ただ嘆いていたい、泣いていたいという心境ではないかと想像します。そのような事情をよく知る町の大勢の人々が付き添っています。黙々とということでしょうか。あるいは一緒に涙し、声を出して泣きながらということでしょうか。

 確かに、誰でも死を迎えます。私たちにも、やがて召される日が来ます。驚くようなことでもありません。しかしながら、先に夫を亡くし、今また一人息子を失って、一人ぼっちになってしまったその女性に、こういうことは世の常だ、やがて皆死ぬんだなどと、無神経に言うことは出来ません。彼女自身、自分も死んでしまいたいと思っているのではないでしょうか。

 その葬列に主イエスが目を留められました。12節に「ちょうど」と記されていますが、原文は「見よ」(イドゥー)という言葉が用いられています。それは、たまたま、偶然、そこに行き会わせたということではありません。それこそ、「ちょうど」kの葬列が町の門を出て来るところに合わせて主イエスが町に近づかれたのです。

 冒頭の言葉(13節)をご覧ください。そこに、「憐れに思い」と記されています。原文には、「スプランクニゾマイ」という動詞のアオリスト(不定過去)形が用いられています。内臓を「スプランクナ」といい、「スプランクニゾマイ」は、「内臓が痛む」という意味の言葉です。日本語でも、「断腸の思い」という言葉があります。はらわたがちぎれるほどの悲しみ、苦しみを表す表現です。

 この女性を同情する思いは、主イエスの内臓を傷めるほどのものであったという表現です。主イエスが前々からこの女性のことをよく知っていたとは思われませんが、主イエスは、ご自分の内臓が痛むほどに彼女の心に寄り添われたわけです。

 冒頭の言葉を原文で読むと、「彼女を見たとき、イエスは彼女を深く憐れみ、そして、彼女に『泣くな』と言われた」と記されています。即ち、「彼女」(アウテー)が3度出て来るのです。「彼女」を何度も繰り返して語るのは、日本語の文章としておかしいので、冒頭の言葉のように訳されているわけです。ルカがそのように記したのは、主イエスがそれほどにこの女性に目を留め、心を注ぎ、集中しているということではないかと思われます。

 そして、「泣くな」と言われました。それは、「泣いてはいけない」、「泣くのは可笑しい」ということではないでしょう。主イエスは6章21節で、「今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる」と言われました。これは、泣くことが幸いと言われているのではなくて、神によって慰められ、涙を笑いに変えていただくことことができるということです。

 主イエスが女性に「泣くな」と言われたのは、それこそ、泣くこと以外に自分の心を向けることができない女性の心に、主イエスが寄り添ってくださるということです。そして、一人息子の死を悼んでいる彼女を慰め、その涙をぬぐい、悲しみを喜びの笑いに変えようと仰っているということです。

 私たちが葬儀のときに、ご遺族に対して、「神様の慰めがありますように」、「主イエスの慰めと平安がありますように」と語るのは、ここで主イエスが、泣いている女性に、「もう泣かなくともよい」と声をかけてくださっていること、そして、本当に彼女の涙をぬぐってくださったことに基づいているのです。

 この後、洗礼者ヨハネの使者に対して、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(22節)と主イエスが仰いました。

 に驚くべき奇跡が列挙されていますが、最後の、「貧しい人は福音を告げ知らされている」というのは、前の五つとは異なっています。しかし、実はこれが一番重要なところです。というのは、前の五つは素晴らしい奇跡ではありますが、すべてこの地上のことです。どんな奇跡を味わっても、人生の終わりがやって来ます。

 しかし、福音はこの世と神の国をつなぎます。福音がなければ、誰も神の国に行くことが出来ません。死んだらお仕舞いということになってしまいます。 ここにいう「貧しい人」とは、物質的なことに留まりません。自分の内に、自分を支え、生かす大切なもの、頼りになる確かなものが欠乏していることです。

 私たちはそれを、だれも自分のものとすることが出来ないのです。それは、私たちが被造物、神によって土から作られたものであり、有限の存在だからです。生まれて育ち、そして年老い、死にます。どんなに健康でも、どんなに富んでいても、どんな権力を手にしていても、有限の存在であることに変わりはありません。

 けれども、福音を信じた者たちには、この世で終わらない新しい命、永遠の命が与えられます。その最も大切な福音を、主イエスを通して聴くことが出来る、その命の恵みに与ることが出来るのです。女性が死亡した一人息子を生き返らせて頂いたのは、実に神の恵み、ただ主イエスの憐れみによることでした。女性に出来たのは、感謝して息子を受け取ること、そして、神を畏れ、賛美することです。

 このクリスマスを、主イエスの福音を告げ知らせる絶好の時として活かし用いることが出来るよう、聖霊の力と導きを祈り求めましょう。

 主よ、あなたは私たちのことを本当によくご存知です。確かに、髪の毛の数も数えておられるほどに常に私たちに目を留め、、痒いところに手が届くという取り扱いをしてくださいます。私たちも主イエスの福音に与らせて頂きました。その恵みに感謝し、主を賛美しつつ、主の福音を告げ広める務めに勤しむ者としてください。クリスマスの喜び、キリストの平和が私たちの町に、全世界に豊かにありますように。 アーメン





12月14日(水) ルカ福音書6章

「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。」 ルカによる福音書6章47節

 1節以下に、安息日についての論争(1~5節)が記されます。それは、これまでの論争の延長線上でなされたものです。さらに、安息日を守ることと隣人愛に基づく善をなすこととの関係について、律法学者たちに問われました(6節以下、9節)。 主イエスは、「人の子は安息日の主である」(5節)と宣言され、人々を主の安息に招き入れるため、安息日に善をなさるのです(10節)。

 それから主イエスは山に登られ、夜を徹して祈られた後(12節)、弟子たちを呼び寄せ、12人を選んで使徒とされました(13節)。使徒とは、キリストの使者という意味で、主イエスの代理として全権を付与された者たちのことです。 12人はイスラエル12部族を象徴するもので、彼らは全イスラエルのため、主イエスと共に働くのです。

 17節以下には、マタイ福音書5~7章の、「山上の説教」とよく似た話が集められています。ルカ福音書版「山上の説教」というところですが、17節に「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らなところにお立ちになった」と記されていることから、「平地の説教」という言い方をします。
 
 これは、ただ単に、主イエスが山と平地、別々の場所で説教されたということではありません。古来、山は神と出会う場所です。マタイは、山上の説教において神と出会うことが出来ると考えているわけです。一方、平地は人々が生活している場所です。ルカは、世の人々が生活の場でこの説教を神の御言葉として聞き、それに従うことを求めていると考えられます。

 46節以下のたとえ話は、平地の説教の結びとして語られています。それは、よく似たたとえ話が、山上の説教の結びとして語られているのと同様です(マタイ7章24節以下)。このたとえ話が語られた目的は、明らかです。それは、主イエスの言葉を聞き、それを行う者となることです。そうするのが主イエスの真の弟子なのです。

 ただ、岩の上に土台を置いて家を建てたのか、或いは土台なしで地面に家を建てたのかということについて、一見してそれを判別するのは易しくありません。どちらも立派に建ててあるように見えます。これは、主イエスの御言葉を聞いて行う人と、聞いても行わない人とは、外見では判別出来ないということを示しています。

 そして、それを判別しなさいと言われているわけでもありません。むしろ、先走って裁いたりするなと教えています(マタイ13章24節以下)。ただ、自分のことは分かるでしょう。御言葉を聞いて行っていますか、それとも聞いただけで行っていないでしょうか。胸に手をあてて考えるまでもないでしょう。言うまでもなく、主イエスは聞いて行うことを求めておられます。行わない者であってはならないのです。

 ところで、主イエスの御言葉を聞いて行いなさいということであれば、たとえ話にしなくても、直接そのように語ればよいと思います。なぜ、主イエスはたとえ話をなさったのでしょうか。そのことについて、このたとえ話から二つのことを考えましょう。

 まず、「地面を深く掘り下げ」(48節)と言われていることです。この言葉で示されているのは、家の土台となる岩は土の中に隠れているということです。岩が見えていないのです。ですから、土を深く掘って、その岩を見つけなければなりません。

 これは、聖書の文字面を追い、そこに書かれている通りにすればよいというのではない、と教えられます。むしろ、文字の奥に隠されている主イエスの御心を探れ、と語っているのです。それには、どうすればよいのでしょうか。それは、主に尋ねることです。祈るということです。そこに交わりがあります。

 交わりは、一朝一夕で出来るものではありません。相手を深く理解するためには、時間がかかります。互いに挨拶を交わし、言葉を交わし、そして行動を共にするうちに親しくなり、深く交わるようになります。

 聖書を通して神の御心を悟り、それを行うというのも、同様でしょう。最初は、挨拶のようなもの。読んでそこに書かれていることを理解します。理解出来ないところは調べます。御言葉を理解しても、それで神の御心を悟ったということにはなりませんが、しかし、それは御心を悟る助けとなります。言葉が理解できなければ、親しく交わることが出来ないからです。

 たとえ話で教えられるもう一つのことは、家の土台が試され、明らかにされるときが来るということです。48,49節に、「洪水になって川の水がその家に押し寄せる」と語られています。そのとき、岩の上に土台を据えて建てられた家は揺り動かされず(48節)、土台なしで建てられた家はたちまち倒れて、その壊れ方はひどいと言われます(49節)。問題は家の建て方などではなく、その土台だというわけです。

 土台が岩であれば、どんな自然災害に対しても家は大丈夫、万事OKというようなものではありません。実際、どんな家の建て方をしているかも問題になります。その意味で、このたとえ話が語っているのは、自然災害に強い家の建て方というようなことではありません。「家」で象徴されているのは、私たちの人生です。洪水は日常のストレスとか試練などではありません。私たちの人生を裁く神の裁きです。

 洪水が起こらないのなら、洪水に備える必要はありません。地震や津波がないのでしたら、それを心配しなくてもよいのです。しかし、私たちは、そのような災害が起こることを知っています。だから、様々な備えをします。

 私たちの人生も、様々な出来事によって大きく揺さぶられ、流されそうになることがあります。だからこそ、備えるのです。岩の上に家を築こうとするのです。その上で主イエスが問いかけられておられるのは、あなたは、最後の裁きの前に備えが出来ていますか、その土台で大丈夫ですかということです。

 神の試練に合格できると胸を張れる人は、どれほどあるでしょうか。私には、その自信はありません。ただ、主の試練は、単に私の土台を試すだけのものではないでしょう。私たちの人生が深く御言葉に根ざしたものとなるように、主が愛をもって私たちを試し、訓練してくださるのです。

 愛の主の御言葉に絶えず耳を傾け、その導きに従って一歩一歩、しっかりと歩ませて頂きましょう。 

 天のお父様、自然災害に負けないような立派な人生を建て上げたいと思っています。しかし、立派な家を建てることはできても、岩を作ることはできません。昨日も今日も永久に変わらない主の御言葉に土台を据えることができますように。それも文字面でなく、そこに込められている主の御心を深く受け止めさせて頂くことが出来ますように。 アーメン



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