風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2016年12月

12月31日(土) ルカ福音書23章

「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』人々はくじを引いて,イエスの服を分け合った。」 ルカによる福音書23章34節

 23章には、受難週の6日目、金曜日の出来事が記されています。最初に、総督ピラトの法廷の様子が描かれ(1~25節)、民衆の声に押されて十字架刑を決定し、引き渡します。「されこうべ」と呼ばれる場所で十字架につけられ(26節以下、33節)、午後3時ごろ(44節)、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(46節)と叫んで息を引き取られ、アリマタヤ出身の議員ヨセフの所有する墓に葬られました(50節以下、53節)。

 冒頭の言葉(34節)は、主イエスが十字架の上で語られた、とても大切な言葉です。ここに、「彼ら」という言葉があります。彼らとは、だれのことでしょうか。直接には、主イエスを十字架につけた人々のことでしょう。彼らは今、くじを引いて主イエスの服を分け合っています(34節)。

 マルコ福音書15章24節によれば、イエスを十字架につけ服を分け合ったのは、ローマの兵士たちでした(マタイ27章35節,ヨハネ19章23節)。ルカの表現では、祭司長たちに動員された民衆が、それを行ったように見えます。ローマ兵であれ、民衆であれ、彼らが主イエスを十字架につけたいと考えたわけではありません。彼らは、祭司長たちに動員され、あるいは、総督ピラトに命じられて、その役割を忠実に果たしているだけです。

 ピラトは、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言いました(4節)。そして、ユダヤの宗教事情による訴えだと理解して、判断をガリラヤの領主ヘロデに託そうとしました(6節以下)。再度取り調べて、犯罪は見つからないので、鞭で懲らしめて釈放しよう、と提案します(13節以下、15節)。

 無罪なのに鞭打ちの刑というのは、納得のいかない話ですが、ピラトが考える無罪放免と、宗教家たちの訴える死罪との中間を取ったという妥協策でしょう。しかし、無罪の者を鞭打つという妥協を図ったからこそ、十字架につけよという民衆の声に抗し切れなくなります。

 人々は、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と要求します(18節)。バラバについて、マタイ福音書27章16節に、「バラバ・イエスという評判の囚人」と記されています。メシアのイエスではなく、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバというイエスを釈放しろと要求したのです。

 なんとか、主イエスを釈放しようと呼びかけますが(20,22節)、人々の「十字架につけろ」という叫びに(21,23節)、結局、彼らの要求を入れる決定を下し(24節)、バラバを釈放し、イエスは彼らに引き渡してしまったのです(25節)。

 ピラトの態度は問題なしとはされませんが、しかし、主イエスを十字架につけよと訴える声がなければ、主イエスは釈放されたでしょう。イエスをピラトのもとに引き出し、死刑を要求したのは、祭司長や律法学者たちです。その訴えに基づいてピラトが取り調べたけれども、それにあたる事実を見出せなかったというのですから、それこそ、あることないこと訴え出て、何が何でも死刑にしてもらおうと、なりふりかまわず行動しているわけです。

 ところで、「彼ら」が主イエスの祈りの言葉を聴いたら、心が刺されるでしょうか。赦しを祈ってくれていると喜ぶでしょうか。むしろ、犯罪者が何を言っているかと思うことでしょう。ピラトは、あるいはホッとするかもしれませんが、しかし、自分には責任がないと思っていることでしょう。

 そして、祭司長や律法学者たちは、自分たちの宗教的な立場に基づき、主イエスを冒とく罪で訴えているわけで、十字架でそれを罰するのが当然と考えて、赦しを必要としているのは主イエス自身だろうと思うことでしょう。こうして、「彼ら」自身は、主イエスのこの祈りを、自分のための祈りとは考えないと思われます。

 主イエスは、「何をしているのか知らないのです」と祈られました。つまり、悪いことをしたとは思っていないのだから、赦してほしいと祈られているわけです。この祈りは、私たちの常識を超えています。彼らは悪いことをしましたが、悔い改めていますから、赦してやってくださいと仰っているのではないのです。

 考えてみれば、私たちが悪事を働くとき、私は今悪いことをしているという自覚を持ってはいないでしょう。罪が指摘されるとき、「魔が差したのです」というのは、単なる言い訳ではないと思います。勿論、それで罪が軽くなるわけではありません。だから、赦されると言いたいのでもありません。いずれにせよ、主イエスが言われたとおり、まさしく、自分で何をしているのか知らないという状態で罪を犯すのです。

 ですから、主イエスが祈られたこの祈りは、主イエスを実際に十字架につけた人々のためのみならず、今この御言葉を読んでいる私たちのための祈りなのです。今回、そのことを強く思いました。それは、冒頭の「言われた」と訳されているのが、「言う」(レゴー)の未完了形「エレゲン」という言葉だったからです。つまり、繰り返しそう言われていて、完了していないということです。

 主イエスを裏切ったユダ、主イエスを捨てて逃げ出した弟子たち、三度知らないと否んだペトロ、そして、冒涜の罪で極刑を決めたサンヒドリンの議員たち、無責任に主イエスの十字架刑を許可してピラト、刑を執行するローマ兵、嘲笑する群衆などに対して、そのように繰り返し祈っておられたということです。そして、今、この言葉を読んでいる私たちのためにも、そう祈ってくださっているのです。

 この一年を振り返って、どれほど主を悲しませ、そのお心を痛ませたことでしょう。私たちはこの祈りをいつも必要としている罪人であることを自覚し、主の十字架による贖いを感謝しつつ、新しい年も主と共に歩ませていただきましょう。

 主よ、主イエスの執り成しの祈りを感謝します。主イエスの贖いのゆえに感謝します。常に主を仰ぎ、その御言葉に耳を傾けます。いつも感謝と喜びを心に満たしてください。新しい年を、希望をもって歩み出させてください。主に委ねられた福音宣教の使命を果たすべく、恵みに与ることの出来る喜びを、多くの人々と分かち合うことが出来ますように。 アーメン




12月30日(金) ルカ福音書22章

「食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である』。」 ルカによる福音書22章20節

 22章には、最後の晩餐の記事(14~23節)を中心として、初めに「イエスを殺す計略」(1~6節)、食事の後、オリーブ山に赴かれ(30節以下)、弟子のユダに裏切られて捕縛され(47節以下)、大祭司の家に連行されて(54節以下)、最高法院の裁判を受ける(66節以下)という記事が記されています。

 上述のとおり、14節以下の「主の晩餐」という小見出しのつけられた段落に、最後の晩餐の様子が描かれています。共観福音書といわれるマタイ、マルコ、ルカの福音書に、それぞれ、「主の晩餐」が記されていますが、ルカ福音書の「主の晩餐」は、マルコやマタイとは少し違ったプログラムになっています。

 マルコやマタイでは、パンと杯が一回ずつ出てきます。パウロの記した第一コリント書11章でも、パンと杯が一回ずつです。それに対してルカでは、最初に杯があり(17節)、それからパン(19節)、そして杯(20節)と、杯が二度登場します。主の晩餐式の形式も、教会によって様々なバリエーションがあったのかもしれません。ここで、「杯」とは、ぶどうの実から作ったもの(18節)で、ぶどう酒のことです。

 もともと、過越の食事では、第一の杯、苦菜とパン、過越の由来を説明、第二の杯、詩編113,114編の歌、苦菜とパンと小羊の肉、第三の杯、第四の杯、詩編115~118編の歌というプログラムになっています。この過越の食事に最も近い形という意味で、ルカ版主の晩餐式がプロトタイプなのかも知れません。

 冒頭の「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」という言葉(20節)は、ご承知のように、主イエスが語られた言葉です。19節でパンが取り上げられたとき、主イエスは、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」と仰っていました。

 この表現との比較で言えば、「杯」は主イエスの血を象徴するものと考えられているわけですから、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血である」と言われるのが普通ではないでしょうか。あるいは、そう言われていると思い込んでいたかもしれません。

 けれども、聖書では、「わたしの血による新しい契約である」と言われています。つまり、主イエスの血は、私たちと神との間に結ばれる新しい契約のために流されたのだから、杯は主イエスの血を象徴し、そしてそれは、新しい契約のためなのだということを明らかにしようとしたのでしょう。

 この表現は、旧い契約が神とイスラエルの民との間で交わされたとき、モーセが、「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」(出エジプト記24章8節)と宣言したのを模したものです。旧い契約のとき、和解の献げ物としてささげられた雄牛の血が用いられました。けれども、新しい契約に用いられたのは、神の独り子キリスト・イエスの血です。神が独り子を犠牲として、和解の契約を結ばれたのです。

 「新しい契約」という言葉を最初に用いたのは、旧約の預言者エレミヤです(エレミヤ書31章31節)。「新しい契約」が締結されるということは、旧い契約が破棄されたということです。同32節に、「この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる」と告げられています。

 契約の内容は、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(同33,34節)というものです。

 旧い契約では、十戒をはじめ教えと戒めが石の板に刻まれ(出エジプト記24章12節)、契約の箱に納められました(同25章16節,40章30節)。新しい契約では、それが胸の中に授けられ、心に記されると言われます。主イエスの血によって新しい契約が結ばれると、神の言(ロゴス)なる主イエスご自身が私たちの心のうちに住まわれ、私たちと共にいてくださるのです。

 私たちが、主を私たちの神としたというのではありません。主ご自身が、お前たちの神になってあげようと仰ってくださったのです(ヨハネ福音書15章16節参照)。私たちが主を私たちの神と呼ぶこと、そしてまた、主が私たちの神と呼ばれることを喜んでくださっています。

 わが日本バプテスト静岡キリスト教会では、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(19節)と主イエスが命じられた「主の晩餐式」を、毎月第一日曜日(主の日)の礼拝の中で執り行っています。「主の晩餐」に与るたびに思いを新たにして、主に従い、福音宣教の業に励んでいきたいと思います。

 主よ、私たちと契約を結ぶために独り子をお遣わしくださり、罪の贖いの供え物としてくださったことを感謝します。いつも心に刻まれた主イエスの十字架を仰ぎ、御顔を拝しつつ、歩みたいと思います。絶えず信仰に目覚めさせてください。耳を開いて主イエスの御声を聴くことが出来ますように。 アーメン






12月29日(木) ルカ福音書21章

「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」 ルカ福音書21章19節

 21章には、宗教指導者たちとの対立に関する記述(20章1節~21章4節)に続いて、神殿崩壊の予告とその前兆を提示する教えなど、終末論的な物語(5~38節)が、マルコに基づいて記されています。

 主イエスが神殿の崩壊を予告されたとき(5,6節)、それを聞いた人々は、いつそれが起こるのか、それが起こる前兆はどのようなものか尋ねました(7節)。何か不安なことがあるとき、早く結果が知りたい、不安を解消するために直ぐにも手を打ちたいと考えます。新型インフルエンザが流行すると言われると、たちまちマスクが売り切れるということも、そのような心理の表れでしょう。

 そこで、偽メシアの出現(8節)、戦争や暴動の噂(9節)、民族、国家の対立(10節)、地震や疫病などの大災害(11節)が、終末の前兆現象として告げられます。

 しかし、それらに先立って教会に対する迫害が起きると語られ(12節)、王や総督たちの迫害が、キリスト者たちにとって、証しの機会となると告げられます(13節)。ここは、当にルカたちが直面していた事態であり、キリスト者たちを励ましたいと考えていた状況でしょう。

 そこに、冒頭の言葉(19節)のとおり、忍耐によって命をかち取りなさいという勧めが語られています。新約聖書中、「忍耐」(フポモネー)という言葉は32回用いられています。そのうち、福音書には2回、いずれもルカが用いています(8章15節、21章19節)。つまり、他の福音書において、主イエスが「忍耐」を口にされることはなかったということです。

 「忍耐」の原語「フポモネー」は、「下に」(フポ)と「留まる、住まう」(モネー)の合成語です。わたしたちは、苦難が押し寄せ、危機が臨むと、慌てふためきます。およそじっとしていることが出来ず、右往左往し始めます。何があっても、そこを動かない、じっとそこにいるということで、「忍耐」の意味をよく表している言葉だと思います。 

 教会の迫害を「証し」、福音宣教の機会と捉え、続けて「忍耐」が語られているのは、迫害の苦難に遭わない努力をすることやそこから逃げ出すことではなく、その場に留まって自分の使命をしっかりと果たすべきであるということが教えられているのです。
 
 1922年、幼児教育専門家、宣教師としてゲルトルード・キュックリッヒがドイツ福音教会から派遣され、フレーベルの愛の保育の精神で日本の子どもたちのために働き始めました。来日一年後の1923年9月1日、関東大震災に見舞われました。地震にあとには火事が起こり、死者、行方不明者は東京だけでも6万人、神奈川、千葉、静岡で亡くなられた方を合わせると、14万人にもなるそうです。
 
 キュックリッヒが働いていた向島の教会は何とか無事で、地震と火事で家を失った人々の避難所になっていました。キュックリッヒは彼らの食事の世話を手伝い、また、放り出されている子どもたちの面倒を見ました。そのとき、ドイツの父親から帰国を促す電報が届きますが、彼女は生涯日本に留まって、日本のために出来るだけのことをしようと決心していました。

 キュックリッヒが8歳の時、母親が世を去りました。父親は牧師として忙しい日々を送っていて、落ち着いた生活が出来ませんでした。彼女は無口になり、沈んだ少女になっていきました。父親は、家庭や子どもたちのことを考えて、新しい奥さんを迎えました。しかし、初めはお互いになじめず、気まずい冷たいものが流れ、しばらく辛く苦しい思いをしました。

 ある日、彼女はヨハネ福音書5章の箇所を読んでいました。7節に、「病人は答えた。『主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです』」という言葉があります。これは、38年も病気で弱っている人がイエスさまによって癒されるという話です。

 「わたしを池の中に入れてくれる人がいない」、この言葉が彼女の心に刺さりました。自分は、この不幸な病人を池に入れて上げる人になりたい、病人だけでなく、幼子、赤ん坊、恵まれない子どもたちやこの世で悩み苦しんでいる人々を助けるために働く人になりたい、そう思ったのです。彼女は父親と相談して、ベルリンのペスタロッチ・フレーベル・ハウスに入学し、世界で初めて幼稚園を造ったフレーベルの精神を修得しました。
 
 その後、南ドイツの国立大学付属女子高等師範・幼児専門部に入って勉強しました。卒業して、児童保護施設で働いていたとき、福音教会の世界宣教本部から、ゲルトルード・キュックリッヒを日本に派遣するよう指名して来ました。ある夜、自分は日本に行くべきだという考えが起こり、真剣に神に祈っているうちに、どうしても日本に行くことが自分の使命と感じられ、日本行きを決意したのです。

 大震災の翌年、キュックリッヒは東京・目白に東京保育学院を設立しました。これは現在、東洋英和女学院大学の保育子ども専攻の学部になっています。また、キリスト教保育連盟を造り上げ、生涯この働きに貢献しました。そのお蔭で昭和初期に幼稚園はめざましい発展を遂げました。

 キュックリッヒは、第二次世界大戦中も日本に留まり、幼稚園、教会のために忙しく働きました。欧米の宣教師が退去を余儀なくさせられたり、強制収容所送りにさせられる中、彼女は、同盟国ドイツからの派遣宣教師であったため、働き続けることが出来たわけです。

 けれども、東京空襲ですべてが灰となり、事業は解散状態になりました。この苦難の中でキュックリッヒは、「どんなことになっても、祈る力と、笑う力と、正確な判断力だけは失うことがないようにしてください」と常に祈っていました。神様はこの祈りを聞き届け、どんなに苦しくても、祈りを通して平安を、明るい希望を取り戻すことが出来、また、時に応じて正しい判断をすることが出来ました。
 
 大戦後、埼玉に戦災孤児の施設「愛泉寮」、働く女性のために保育所「愛泉幼児院」を設立しました。その後、県の要請を受けて乳児預かり施設「愛泉乳児園」を開きます。それから、養護老人ホームを造り、施設全体の「愛の泉」理事長に就任します。
 
 誰に対しても、母親のような愛情をもって、わが子に対すると同じように世話をし、面倒を見、信仰に導いていったので、キュックリッヒに影響されて信仰に入り、施設で働こうと決心する人がたくさん出ました。

 また、色々な悩み、難しい問題の相談を受けると、彼らに適切な忠告や暖かい慰めを与えたあとで、「お祈りするとき私たちは、『神様、どうして私ばかりこんなに苦しまなければならないのでしょうか』と文句を言いたい。でもね、その時、神様は何の目的のためにそうなさるのかと尋ね求めることよ。きっと力が与えられます」と、人々を諭していたそうです。

 困難にぶつかるたび、問題に出会うたびに、キュックリッヒはそこに留まり、神の御心を尋ね求める祈りをささげながら、その解決の糸口を見出してきたのです。彼女こそ、忍耐によって命をかち取った人ではないでしょうか。

   「友よ歌おう」というゴスペルフォーク歌集に、「試みはだれにでも」(詞・曲:山内修一)という歌が収録されています。「♪ 1.試みはだれにでも来るもの、真実はそのとき分るのさ。どんなに雨や風が吹いても、太陽はその上で輝く。だから涙を拭いてイェス様に祈ろう、やがて喜びの日が来るだろう ♪」と歌います。

 常に共にいてくださる主イエスに目を留め、その御言葉に耳を傾け、自分の使命を自覚しましょう。そのとき、どんな境遇でも忍耐する力を上から受けることでしょう。  

 主よ、私たちは弱い者です。自分の力で困難に立ち向かい、その下に留まり続けることなど出来るものではありません。どんなときにも祈る力、喜び、感謝する心を与えてください。そして、神の御心を知り、委ねられている責任をしっかりと果たすことが出来ますように。御言葉と聖霊の助け、導きを与えてください。 アーメン




12月28日(水) ルカ福音書20章

「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」 ルカによる福音書20章44節

 20章はすべて、マルコに基づいて記述されています。この箇所には、ユダヤの指導者たちとの問答や彼らに当てつけたたとえ話など、主イエスと指導者たちとがいかに対立していたかということを示す記事が集められています。それは、19章47節に「祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが」とあって、どのように謀っていたのか、説明するかたちになっているわけです。 

  最初は、祭司長、律法学者たちによる「権威についての問答」(1~8節)、次いで、彼らの回し者による「皇帝への税金」への対応(20~26節)、そして、サドカイ派の人々による「復活についての問答」(27~40節)と続き、その後、主イエスが彼らに、「ダビデの子」についての質問をされました。

 41節に「イエスは彼らに言われた。『どうして人々は、「メシアはダビデの子だ」と言うのか』」と記されています。「ダビデの子」というのは、ダビデの子孫、ダビデの家系という表現と考えればよいでしょうし、また、「ダビデのような」能力、性質を帯びた、特に政治的、軍事的な能力を期待する表現でもあります。
 
 人々が、「メシアはダビデの子だ」と考えたというのは、たとえば、サムエル記下7章5節以下に記されている主なる神の言葉の中に、「あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」(同12節)とあります。

 また、詩篇132編11,12節に、「あなたのもうけた子らの中から王座を継ぐ者を定める。あなたの子らがわたしの契約とわたしが教える定めを守るなら、彼らの子らも、永遠にあなたの王座につく者となる」と詠われています。

 このような御言葉に基づいて、ユダヤの人々は、ダビデの子孫の中からメシアが誕生することを待望して来ました。ダビデという人物は、イスラエルを400年間治めたダビデ王朝の創始者です。この王朝が倒され、列強諸国によるパレスティナ支配が続いている中で、独立と自由を勝ち取るメシアの到来を強く望んでいたのです。

 エルサレムに入城される主イエスに向かって、「ダビデの子にホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように」(マタイ21章9節)と歓呼の声を上げたということは、主イエスをダビデの子、メシアであると人々が考えている、そう宣言しているということですね。
 
 主イエスは、御自身のことを「神からのメシアである」(9章20節)とペトロが語ったとき、その言葉を喜ばれました。また、エリコのそばで盲人が「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(18章38節)と呼び求めたとき、その声に応えておられます。
 
 ですから、ここで主イエスに向かって「ダビデの子」、「メシア」と呼ぶのは、決して間違っているとは考えられません。ですが、主イエスの方から、「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と問いかけられて、そのことが問題になっているわけです。

 主イエスはここでご自分が「ダビデの子」と呼ばれることを反対なさっているというわけではありません。「メシアがダビデの子だ」と言われることを全面的に否定されているのでもないでしょう。
 
 問題になさっているのは、「メシアはダビデの子だ」という言葉の意味、その内容です。少なくとも、ダビデの子孫からメシアが生まれるということは、聖書が新旧約問わず告げていることであり、先に記したとおり、主イエス御自身が否定されず、受け入れておられるところです。

 主イエスが問題にしているのは、「メシアはダビデのような、政治的、軍事的指導者だ。ダビデは、私たちの国で最も偉大な王、指導者であった。理想的な国家を築いてくれた。だから、ダビデの子孫として登場して来るメシアは、必ずローマの支配を排除し、理想的な国を建て上げ、民族の誇りを取り戻してくれるはずだ」という人々の考え方、期待の仕方です。

 当時、メシアと呼ばれる人が何人も現れました。有名なのは、バル・コクバという人物です。紀元130年に第3次ユダヤ・ローマ戦争が起こりました。当時、ユダヤ教最大の指導者で律法学者のラビ・アキバという人物が、バル・コクバを指して、彼こそ真のメシアだと、民に紹介しました。

 バル・コクバはダビデ家の出身でも何でもありませんでしたが、彼は、イスラエルの尊厳を回復するため、ローマに対して反乱を起こしたのです。この人物こそメシアだと、ラビ・アキバは考えたわけです。そして彼を支援しました。結果はどうなったかというと、反乱は鎮圧され、バル・コクバも彼を支援したラビ・アキバも、同じように処刑されました。

 この事件をとおして、イスラエルの民にとって、「ダビデの子」という尊称、「メシア」という称号がどういう意味を持っているものであるかということが、よく分かります。そのような期待、そのような考え方に対して主イエスは、聖書の言葉をとって問われるのです。

 42節に「ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主はわたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」と』」とあります。これは、詩篇110編1節(「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」)を引用されたものです。

 この言葉で、ダビデはメシアのことを「わが主」と呼び、神を「主」と呼んでいます。つまり、ダビデの主メシアに対して主なる神が、「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座っていなさい」とお告げになっているというのです。

 そうして、冒頭の言葉(44節)のとおり、「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と、改めて問われます。

 ここで、「主」という字は、非常に興味深いものです。第一画は、炎、火を表しています。第2画以下「王」という形は、ランプ台をかたどっているのです。つまり、「主」という字は「ランプ」を表していると考えれば良いわけです。

 ランブが家の真ん中にあって家全体を照らしているところから、「主」は「中心」という意味を持ち、一家の中心人物として、「主人」という言葉が生まれて来るわけです。だから、主人、指導者と呼ばれる人は、家全体、組織全体を照らす明るい人でなければいけない。ネクラではいけないというところがあるわけです。

 扇谷正造という人の書いた『トップの条件』という書物には、その条件として、花がなければならないという項目がありました。人に喜びを与え、光を与える、そういう器でなければならない、その人が入ってくれば、暗雲漂う、皆の顔が曇る、それでは駄目なのです。器、度量が大きいということも、その大切な条件の一つですね。どんなものもどんと受け止め、安心を与え、勇気を与える器。そういう器になりたいものだと思います。
 
 主イエスこそ、この世に来てすべての人を照らすまことの光です(ヨハネ福音書1章9節)。そして、神はメシアに対して、「わたしの右の座に着きなさい」、と言われました。「あなたの敵をあなたの足台にする」ということは、すべてのものの上に君臨する主だということです。

 つまり、ダビデのようなイスラエルの支配者ではなくて、イスラエルのみならず、ローマもエジプトも、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるようになるということです(フィリピ2章10,11節)。そのように、ダビデがメシアを主と呼んでいるのに、なぜメシアをダビデのような支配者として期待しているのかというわけですね。

 ところが、主イエスはダビデの子孫としてこの世にお生まれになりましたが、貧しい生涯を歩まれました(第二コリント8章9節、フィリピ2章6,7節)。王として崇められることもなく、むしろ、「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マタイ福音書20章28節)と言われたとおり、すべての者の僕として、その命を生かすために来られたのです。

 主イエス様にとって「メシア=キリスト」という称号は、自分を天よりも高く上げて人から誉めてもらおうというようなことではなくて、本当の救い主メシアは、自らを低くして人々にお仕えをする。下僕として、奴隷として人々に仕えるということだったわけです。そのことを多くの人々は理解出来ませんでした。

 今、私たちも、神の御子イエスを主と呼んで、その信仰を言い表しています。私たちのために最も低くなって私たちに仕えてくださったイエスを主と呼ぶということは、主イエスがその生き様を通して私たちに生きる道、命の道を示してくださった、私たちもそのように歩むと言っていることなのです。

 信仰により、神の御言葉を通して主イエスと出会い、私たちのために贖いの供え物となってくださったということの意味をしっかりと受け止めさせて頂きましょう。初めからおられ、神と共におられ、ご自身神であられる「言(ことば:ロゴス)」なる主イエスの力ある主の御言葉に耳を傾け、心を留めましょう。

 主よ、今日も御言葉に与ることができて感謝いたします。御言葉を通して主イエスを知ることが出来ることは、パウロが、それまで持っていた一切のものを無価値な、糞土のようにさえ思っているというほどに、価値のある豊かな恵みです。常に主イエスを仰ぎ、その御言葉に耳を傾け、さらに主に近づかせて頂くことが出来ますように。聖霊が私たちのうちに住まわれ、私たちに御言葉の真理を悟らせてくださることを感謝します。祈りと御言葉により、さらに深く聖書と神の力を味わわせてください。 アーメン





12月27日(火) ルカ福音書19章

「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。」 ルカによる福音書19章22節

 18章31節以下、三度目の受難予告からエルサレム入城直前の出来事が記されます。19章1節からマルコを離れ、1~10節はルカの独自資料、11~27節はマタイとの共通資料に基づいて語られています。

 そして、28節以下20章44節まで、マルコに基づくエルサレムでの主イエスの宣教が物語られます。そのうち、28~48節はエルサレム入城と、それに続いて行われた「宮清め」と言われる神殿から商人たちを追い出すパフォーマンスの記事になっています。

 今日は、11節以下、「『ムナ』のたとえ」という小見出しがつけられた段落を学びます。ムナは、ギリシアの銀貨の単位で、1ムナはローマのデナリオン銀貨100枚分、100デナリオンに相当します。1デナリオンは労務者一人一日の賃金と言われますから、1ムナ=100デナリオンは100日分、およそ4か月分の賃金ということになります。

 主イエスのエルサレムへの旅は、エルサレムの北東約27㎞、ヨルダン河畔のエリコに達しました(1,11節)。このたとえ話は、そこで語られました。「人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたから」(11節)というのが、このたとえ話が語られた理由でした。

 そのたとえ話は、立派な家柄の人が王位を受けるために遠くに旅立つことになり(12節)、10人の僕に1ムナずつ渡して、「わたしが帰ってくるまで、これで商売をしなさい」(13節)と言います。その後、彼は王位を受けて家に戻り、僕たちを呼んで清算させるという展開です(15節)。

 この話は、当時あった実際の出来事にヒントを得たものでしょう。ヘロデ大王の息子アルケラオが父の遺言に従って紀元4年にユダヤの君主になりましたが、その承認を受けるためにローマに赴きました。その時、ユダヤ人たちは、イドマヤ人であるヘロデ家の支配を排して、ローマの直轄地にしてくれるように嘆願しました(14節)。そのためか、アルケラオは王にはなれず領主の地位を与えられましたが、事実上それは王と同じ権力でした。

 しかしながら、アルケラオの圧政に対する度重なる苦情のゆえに、10年後、ローマ皇帝により、地位と領土を取り上げられ、追放されてしまいます。

 そのことについて、ここでは主イエスが、彼を嫌う宗教指導者たちによって十字架の刑に処せられるけれども、天に昇られ、父なる神の全権をもってこの世に再びおいでになり、排斥した者たちを裁かれる話として語られていると解釈できそうです。

 15節以下、金を預けた者たちを呼び集めて清算をするという段になると(15節)、最初の者は10ムナ儲けたと言い(16節)、二人目は5ムナ儲けたと言って(18節)、主人を喜ばせ、「十の町の支配権」(17節)、「五つの町の統治」(19節)という褒美、新たな使命が与えられました。

 すべての僕が主イエスから同等の責任をもって福音宣教の働きが委ねられたこと、しかしながら、すべての者に同じ業績、同じ収益が要求されてはいないことを示しています。それぞれ、自分の力に応じて、委ねられたものを用いて精一杯働くことが求められ、それに真実と完全な献身をもって応えた者たちを喜び評価されているのです。 

 ところが、三番目の者が、「これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました」(20節)と、預けられていた銀貨を差し出しました。彼がそうしたのは、主人が厳しい人だと知っていたので、失敗を恐れたのだというのです(21節)。それを聞いた主人は、彼らからそれを取り上げて、10ムナを持っている者に与えます(24節)。

 冒頭の言葉(22節)は、このたとえ話の鍵になる言葉です。ここに、「その言葉のゆえにお前を裁こう」(エク・トゥー・ストマトス・スー・クリノー・セ:out of your mouth I judge you)と言われています。

 一つは、文字通りの言葉遣いで裁かれるということが考えられます。同じ事態を表現するのに、「1ムナしかない」というのと、「1ムナもある」というのでは、ずいぶん違った印象になり、そこから生まれる行動も、全く違ったものになるでしょう。積極的な言葉を使えば、積極的な行動が生まれ、そしてよい評価を受けることが出来る。一方、消極的な言葉を使えば、行動も消極的になり、よい評価を受けることが出来ないということになります。

 また、その言葉遣いを聞けば、その人の思いが分かるというものです。主人が厳しい人だと知っていたので、恐ろしかったという僕は、「商売をしなさい」という言葉を無視してしまいました。彼は主人の命令に従うことよりも、それによって蒙るかもしれない処罰のほうが気になったのです。

 彼は、主人の意図を誤解しました。主人が僕たちを信頼してその管理を委ねた1ムナというお金を、主人の処罰が恐ろしいという理由で使わなかったのです。あるいは、主人は初めから自分たちを懲らしめるために、こんな無理難題を押しつけていると、その僕は考えていたのかもしれません。

 一方、商売で利益を上げた二人の僕は、主人についてどう考えていたのでしょうか。そのことは何も記されてはいませんが、このたとえ話は、徴税人ザアカイの物語に続けて語られていることから(7,11節)、ザアカイが、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)と主イエスに向かって語ったことを受けていると考えられます。

 そのようにすれば貧しくなってしまうでしょう。財産を全部失ってしまうかもしれません。けれども、彼は、主イエスを自宅に迎えて救いに与ったのです。財産を使い果たして救われたのではなく、救いに与ったとき、彼は財産よりも大切なものを知ったのです。そして、そのように財産を使うことが主に喜ばれること、主に従うアブラハムの子としての使命であると考えることができたわけです(16章9節、18章22節参照)。

 徴税人ザアカイは、その言葉によって、彼が主イエスを信頼する者であること、主に従うことを喜びとするものであることを示し、そして、主イエスは彼の言葉によって、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」と喜びの言葉、祝福の言葉を語られたのです(9節)。

 主を信じる者として、その言葉に従って歩むことを喜びとし、肯定的、積極的にその思いを言い表しましょう。その最適な表現が賛美でしょう。「イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神にささげましょう。善い行いと施しを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです」(ヘブライ書13章15,16節)と言われるとおりです。 

 主よ、今日の御言葉を通して、どのような境遇にあっても主を信頼し、その御言葉に従うことが出来るかどうかが問われていると示されました。私たちはすぐに不平や愚痴を口にします。どうか憐れんでください。助けてください。信仰の心を授け、導いてください。そうして、主イエスの再臨の日まで、委ねられた賜物を用いて主に委ねられた業に励むことが出来ますように。 アーメン





12月26日(月) ルカ福音書18章

「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」 ルカによる福音書18章8節

 ルカは、17章11節に「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」と記して、9章51節から始まったエルサレムへの旅路にあることを読者に確認させ、それが十字架への道行きであることを、18章31節以下、「イエス、三度死と復活を予告する」の段落で明示するのです。そのようにして、弟子たちをはじめ、福音書の読者たちにも、主イエスに従う姿勢、心構えを教え、その意志を問うているわけです。

 あらためて、18章はルカの独自資料に基づいて二つのたとえ話(1~8節、9~14節)を記した後、18節以下はマルコ福音書に従う記事になっています。そこに、上述の「イエス、三度死と復活を予告する」段落があり、「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く」(31節)と、いよいよエルサレムが近づいたことを告げます。

 今日は、最初の「やもめと裁判官」のたとえが語られている段落から学びます。最初に、「イエスは、気を落とさず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」(1節)と言います。信仰を持つということは、神に祈るということといってもよいでしょう。

 そして、キリスト教の祈りの特徴のひとつは、皆で祈るというものです。聖書に、「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」(マルコ福音書11章17節)と記されています。祈る場所があって、そこで共に祈り、また、お互いのために祈り合うのです。

 祈りは、ときに、直ぐには答えられないことがあります。祈っても、事態が思うように動かなかった、むしろ、悪くなってしまったという経験をすることもあります。だから、気落ちせず、絶えず祈るべきことを、主イエスが教えてくださったのです。

 そのたとえ話とは、神を畏れず人を人と思わない悪徳裁判官の下に、一人のやもめがしつこく訴え出て裁判を開いてくれるように頼むと、そのあまりのうるささに、裁判官がやもめの訴えを取り上げてやるというものです。一文の得にもならないやもめの裁判を引き受けるような人物ではないのに、それをするようにしたのは、やもめのうるささ、しつこさということでしょう。

 5節に、「ひっきりなしにやってきて、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」と言っていますが、ここで、「さんざんな目に遭わす」というのは、「目の下を打ってあざを作る」(フポウピアゾウ)という意味の言葉が用いられています。 そうなれば、仕事にも差し支えるようになるということを恐れて、女性の望む裁判をしてやろうというのです。

 主イエスは、私たちの祈りを聞かれる神がこの悪徳裁判官のような方であると仰っておられるのではありません。また、どんな願い事でも、しつこく願いさえすれば、泣く子と地頭には勝てないといって、神が私たちの言うことを聞いてくださると教えておられるわけでもないでしょう。

 7節で、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」と言われています。選ばれた人たちが昼も夜も叫び求めているのは、神が公正な裁きを行ってくださることです。つまりそれは、神が義を行われることです。

 「昼も夜も叫び求めている」ということは、地上に神の義が行われていない、神の義の支配を見ることが出来ないということでしょう。あるいは、もしかすると、裁判にすら、神の義を見ることができないということを暗示しているのかもしれません。

 主イエスは、大祭司カイアファの邸で、そして、ローマ総督ピラトの官邸で裁判を受けられましたが、その裁判に正義はありませんでした。ピラトは主イエスの無罪を確信しながら(23章4,14,15,22節)、十字架で処刑することを要求する声に負けて(5,18,21,23節)に同意してしまいました(同24,25節)。

 「選ばれた人たち」(7節)とは、主イエスを信じる人々ということです。主イエスを信じた人々は、自分が主イエスを選び信じたのではなく、主イエスから選ばれたのだと教えられています(ヨハネ福音書15章16節)。主イエスを信じる人々が昼も夜も叫び求めているもう一つの理由は、神が必ず祈りに応えてっくださると信じているからです。

 この話の最後に、冒頭の言葉(8節)のとおり、「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と主イエスが言われました。これは、ある意味では疑いの表現です。神の裁きをもたらすために再臨してみたら、忍耐強く信じて待っている者が一人もいないのではないかと、主イエスが疑っておられる言葉とも読めます。

 その質問に、「私なら大丈夫です。他の皆が信仰を失っても、自分は決して信仰を失いません」と応えることができる人がいるでしょうか。そのように応えてはいけないとは申しませんし、それは嘘だとも申しませんが、主イエスは私たちの心をご存知です。正直に、「信仰を見いだすだろうか」と問うておられるのだと思います。

 そして、主イエスが来られるのは、選ばれた人々が叫び求めている神の義を実現するためなのですから、その時まで、信じて祈り続けてほしいと仰っておられるのです。そのことのために、義の神に信頼しつつ、どのようなときにも気を落とさずに絶えず祈るようにと願っておられるのです。

  考えてみると、パウロも、落胆せず、主を信じて祈るべきことを、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(第一テサロニケ5章16~18節)と教えているわけです。自分の祈りの姿勢を正すために、先ずここに語られている主の御言葉に心を留めましょう。

 天のお父様、あなたが地上に神の義をもたらすために、御子をお遣わしくださいました。私たち人間は愚かにも御子を十字架につけて殺してしまいました。しかし主はご自分の命をもって私たちの罪を贖い、私たちに救いの道、命の道を開いてくださいました。そして、救いの完成のために、神の義の到来のために祈りを要請されました。どうか私たちを祈りにも忠実な者とならせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン






12月25日(日) ルカ福音書17章

「主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう。』」 ルカによる福音書17章6節

 1節以下の段落には、主イエスと弟子たちとの会話が記されています。そのテーマは、罪と信仰というものでしょう。聖書が語っている「罪」とは、刑法に触れる犯罪とイコールではありません。勿論、犯罪も罪です。しかし、自分は犯罪を犯したことがないといって、それで罪人でないわけではありません。聖書がいう罪とは、関係を壊し、背くことを言います。

 詩編14編1節に、「神を知らぬ者は心に言う、『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない」という言葉があります。「神などない」と心で考えただけで、その人は腐敗している、善を行っていないというわけです。

 1節に、「つまずきは避けられない」とありますが、これは、誰もが罪を犯す、犯さない者はいないということです。私たちが誰かに腹を立て、悪口を言うとき、自分も同じ罪人だと考えてはいないでしょう。悪口を言う私自身はその時、正しい人です。自分のことは正しい人だと考えています。だから、間違ったことをする者に腹を立て、馬鹿だ、愚かだというのです。

 けれども、本当にあなたは正しい人か、賢い人かと突っ込まれると、答えに窮します。人を非難しているとき、自分自身のことは棚に上げているだけだからです。

 勿論、罪を犯すことは非難されるべきことです。罪を無視することをよしとはしません。だからといって、私たちに罪を裁く権限はありません。神が私たちに求めておられるのは、罪の裁きではなく、罪の悔い改め、方向転換です。関係を損ねる行為、その行為を産み出す考えを変えることです。3節に、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」と記されているとおりです。
 
 人に忠告を与えるというのは、なかなか難しいですね。一所懸命に言葉を選び、相手のことを考えて話しても、かえって逆恨みされることもあります。そうなるくらいなら黙っておこうと思ってしまいます。けれども、それでは相手との関係を真に良くすることは出来ません。

 難しいといえば、罪を赦すことほど難しいことはないのかも知れません。3節に、「悔い改めれば、赦してやりなさい」とあり、続く4節で、「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と命じられています。

 確かに、本当に悔い改めて来れば、赦してやれるかも知れません。けれども、一日に七回罪を犯し、七回、「悔い改めます」と言って来るというと、それは、本当に悔い改めていることにはならないだろう、本当は悔い改める気などないんじゃないか、それなら、到底赦してやることなど出来ないと思ってしまいます。

 イエス様は、そのような私たちのことをよくよくご存じです。つまり、赦してやりなさいという主イエスの御命令を、私たちはなかなか守れないのです。一日に何度、主イエスの御命令に背くことでしょうか。そして何度、「悔い改めます」と赦しを請うでしょうか。否、「悔い改めます」と言わないことも多々あります。もし神が、それなら赦してやることなど出来ないと言われれば、どうしましょう。

 弟子たちは、そのような赦しの信仰に生きるためには、強い信仰、大きな信仰が必要だと考えたのでしょう。5節に、「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言った」と記されています。信仰の巨人になれば、そして、心に神の愛が充満していれば、他者の罪を戒め、あるいは赦してやることが出来るようになると思っていたわけです。

 それに対して主イエスは、冒頭の言葉(6節)のとおり、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と言われました。「からし種一粒ほどの信仰」とは、これ以上小さくは出来ないという最小の信仰といった表現です。つまり、信仰の量、大きさは問題ではなく、信仰があるかないかが問われるということです。

 あらためて言うまでもないことですが、桑の木が動き出して海の中に根を下ろすことなど、あり得ないことです。誰が桑の木にそのように命じることが出来るでしょうか。特別な能力を授けられた人ならば、あるいは出来るかも知れないけれども、私のような凡人には、到底不可能という話でしょう。

 桑の木が言うことを聞くとすれば、それは、神が命じられるときです。主イエスはここで、信仰とは、全知全能の神を信頼することであると教えておられるのではないでしょうか。人には出来ないことでも、神に出来ないことはないのです。18章27節に、「人間にはできないことも、神にはできる」と記されています。

 私たちは、不可能を可能とし、死者に命を与え、存在していない者を呼び出して存在させるお方を神と呼び、信頼しているのです(ローマ書4章17節)。

 神は、私たちの罪を赦すため、独り子イエスをこの世に送り、贖いの供え物となさいました(第一ヨハネ4章10節)。それは、私たちが悔い改めたからではありません。私たちがまだ罪人であったとき、神に敵対していたときに、御子の死によって、和解の道を開かれたのです。神様が罪人の私たちと和解することを望まれ、その道を切り開いてくださいました。全くもってあり得ないことを、神が自ら行ってくださったのです。
 
 神は、動くはずのない桑の木に命じて、抜け出して海の中に根を下ろすという奇跡を行うことが出来ます。桑の木が神の言葉に聴き従うのです。そうであれば、私たち主イエスを信じる者が「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」(3節)と言われる主イエスの御言葉に聴き従うのは当然です。

 桑の木が自分で動けたのではありません。神の御言葉が桑の木を動かしたのです。神は私たちに、兄弟の罪を赦せるような寛大さ、包容力を求めておられるのではありません。神の御言葉に聴き従うことを求めておられるのです。

 だから10節で、「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」と言われているのです。

 私たちが神の御言葉に聴き従うのは、私たちが立派だからではありませんし、そうすれば褒めてもらえるということでもありません。それは、神の僕として、しなければならないことをするだけのことなのです。つまり、御言葉に従おうとして、出来ないことはないのです。

 かくて、「からし種一粒ほどの信仰があれば」というのは、私たちが主を信じ、御言葉に従うのが、信仰の第一歩だということです。そして、私たちが主イエスの御言葉に耳を傾け、導きに従ってそれを実行していくならば、私たちの信仰は大きく成長することになるのです。主は、少事に忠実な者に、より多くのものを委ねられるお方だからです(マタイ25章21節など)。

 そして、主が開いてくださる恵みの世界、赦しの道、和解の道、平和の道を歩むことがどんなに豊かなものであるかということを、主の御言葉に従って歩む者は、味わうことが出来ると教えてくださっているのです。

 それでも、主の御前に悔い改めようとせず、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」という御言葉に従うことが出来ないならば、それを不信仰というのです。信じない者にならないで、信じる者になりましょう。人間には出来ないことも、神には出来るのです。

 永遠の御国へと到る主の道、真理の道、命の道を、主の御言葉に聴き従いながら、歩ませて頂きましょう。御言葉に従う者に与えられる恵みは無限大なのです。

 主よ、信仰の醍醐味を味わうために日々主の御言葉を正しく聴き、その導きに素直に従うことが出来ますように。「御言葉ですからやってみましょう」と語らせて頂きながら、主が私たちに与えられた救いの恵み、永遠の御国の喜びを真に味わい知る者となることが出来ますように。まことに主を畏れ、謙って、霊と真実をもって主を礼拝する者とならせてください。主の恵みが私たちの上に常に豊かでありますように。 アーメン


クリスマスは教会へ!

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日本バプテスト静岡キリスト教会では、12月24日(土)19時よりキャンドルサービス(燭火礼拝)、25日(日)10時半よりクリスマス礼拝を開催します。
ご一緒に、神の御子イエス・キリストの誕生をお祝いしましょう。
どなたでも、ご来会大歓迎です。

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12月24日(土)キャンドルサービス
ルカ2章1~7節 「世界で初めのクリスマス」

12月25日(日)クリスマス礼拝
マタイ2章1~12節 「御言葉に従って」









 

12月24日(土) ルカ福音書16章

「そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」 ルカによる福音書16章26節

 16章には、富の所有、管理に関するたとえ話が、「律法と神の国」というマタイとの共通資料に基づく記事を挟んで二つ(「不正な管理人」のたとえ:1~13節、「金持ちとラザロ」:19~31節)、物語られています。

 その中で、16~18節は、「律法と預言者」即ち旧約聖書のこと、また、離縁についての文言が取り上げられていて、前後の文脈にそぐわないように見えます。ただ、申命記24章には、離縁についての規定と、経済的な問題を含む人道的な規定が並べられており、そこで、律法なる神の教えをどう読むかが問われているのです。

 その点から、14,15節は19節以下のたとえ話の前半(19~26節)の導入、16~18節は、たとえ話の後半(27~31節)の導入として語られているものと考えられます。

 今回は、主イエスが語られた「金持ちとラザロ」(19~31節)というたとえ話について考えたいと思います。このたとえ話の特徴は、主イエスが語られたたとえ話の中で、唯一、固有名詞が登場することです。即ち、ラザロとアブラハムです。他だし、金持ちと言われる人物の名は記されていません。金持ちは贅沢に遊び暮らし(19節)、ラザロは金持ちの家の門前に横たわり、食卓の残り物で腹を満たしたいと思っていました(21節)。

 ある写本では、満たそうと思ったけれども、「何も与えてくれなかった」となっているものがあり、ヴルガタ訳と呼ばれるラテン語聖書はそれを採用しています。そうすると、金持ちはラザロに対して全く無慈悲だったということになります。けれども、日本語の聖書はそれを採用しませんでした。別のことを考えるようにと示されているように思います。

 やがて、ラザロは亡くなって、天使たちによりアブラハムのもとへ連れて行かれました。また、金持ちも死んで葬られました(22節)。そして、金持ちは陰府でさいなまれており、ラザロは宴席でアブラハムの傍らにいます(23節)。

 金持ちはアブラハムに大声で、「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください」(24節)と呼びかけました。ここで、ラザロも金持ちもユダヤ人として物語られているようです。というのは、金持ちが「父アブラハム」と呼びかけていますし、ラザロは、アブラハムの傍らにいるからです。

 金持ちは、憐れみのしるしとして、ラザロを遣わして、指先を水に浸し、その水で自分の舌を冷やさせてくださいと願いました(24節)。生前、門前に横たわっていたラザロは全身できもので覆われ、それを犬がなめるという悲惨な有様でした(21節)。金持ちは、ラザロの手が触れたものを、どれほど汚らわしく思っていたことでしょう。しかし今、陰府の炎の中で苦しめられて、ラザロの指先の水で舌を冷やしたいと願うのです。

 その願いに対してアブラハムは、「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」(25節)と言いました。

 即ち、生前と現在とで、ラザロと金持ちの立場が全く入れ替わったというわけです。さらに、冒頭の言葉(26節)が語られます。願いをかなえてやりたくても、陰府、即ち地獄と、アブラハムのいる宴席、即ち天国との間には、大きな淵が横たわっていて、渡って行くことができないというのです。

 単純に考えれば、天国と地獄を往来出来るはずがないということになりますが、「大きな淵」は、生前の金持ちとラザロの間に横たわっていた深い溝を示しています。最初に記したように、金持ちがラザロのために何もしてやらなかったということではないと思います。残り物を与えることもあったと思います。

 そうでなくても、水を恵むほどのことはしたでしょう。ラザロの指先の水をねだるとき、生前自分のしてやったことを思えば、その程度のことはしてもらえるのではないかという考えがあるように思われます。

 けれども、アブラハムからきっぱりと断られました。渡れない大きな淵にしたのは、あなたなのだ、そしてそのことを、まだ理解していないと言われているかのようです。どういうことでしょうか。

 それは、金持ちが生前、溝を渡ってラザロの傍らに座すこと、彼を理解し、友となろうとすることがなかったと言っているのです。彼に何を上げたか、どれだけ上げたかということが問われているのではなく、彼を憐れみ、彼を理解しようとしたかと問われているのです。その溝が天と陰府とを隔てる淵のようになってしまったわけです。

 そうなってなお、真に悔い改めることができないまま、ラザロを召使のように、その指先の水を届けるため、陰府にまで遣わして欲しいと願っているので、なおさら、金持ちとラザロの溝が深くなってしまいました。金持ちはラザロを、「アブラハムの子」、自分と共に神の祝福を受けるべき者と見ることができなかったのです。

 私たちの目も、この金持ちと同じです。自分の思いで周りの者を裁き、こんな人を神が祝福するはずがないと、勝手に決めてしまいます。そうです。自分と違う者を受け入れることが出来ません。優しくなれません。私たちは自分の行い、態度、心持ちで神の国に入ることが出来るような立派な者ではないのです。

 その意味では、神の目から見て、私たちは神の前に何ら功績を差し出すことの出来ない貧しく乏しい者ラザロなのです。どうすればよいでしょうか。赦していただくしかありません。憐れんでいただくしかありません。そして、主なる神は、豊かな恵みと愛によって私たちを深く憐れみ、赦してくださることでしょう。

 神の憐れみを受け、豊かな恵みに与って、隣人に対して互いに優しい者にならせていただきましょう。

 主よ、私たちを憐れんでください。その弱さ、愚かさ、罪を赦してください。信仰の目をもって主を仰ぎ、また隣人を見ることが出来ますように。理解することが出来ますように。自分のように隣人を愛する者とならせていただくために、私たちの心に、生活の中においでください。クリスマスの喜びと平和が私たちの上に常に豊かにありますように。 アーメン



12月23日(金) ルカ福音書15章

「ここを立ち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。』」 ルカによる福音書15章19節

 15章には、三つのたとえ話が記されています。一つ目は「見失った羊」のたとえ(1~7節)、二つ目は「無くした銀貨」のたとえ(8~14節)、三つ目は「放蕩息子」のたとえ(15節以下)です。これらはいずれも、なくしたものを見出した喜びについて語っています。

 この観点で言えば、「見失った羊」は、羊を見つけた羊飼いの話、「無くした銀貨」は「銀貨を見出した女性の話、「放蕩息子」は息子を失った父親の話ということになります。

 7節の「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」という言葉と、14節の「このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の手したちの間に喜びがある」という言葉は、「放蕩息子」のたとえを語る備えを与えていて、三つのたとえ話で一つの話になっています。

 以前、一人の壮年男性と出会いました。彼は町でクリスチャン女性と会い、連れられて教会に来ました。以後、毎週のように礼拝に出席し、やがて祈祷会にも出席するようになりました。秋の伝道集会でクリスチャンになる決心をし、クリスマスにバプテスマを受けられました。

 彼は、親の財産を食いつぶし、家に帰ることが出来なくなってホームレス生活をしていました。彼がクリスチャンになろうと決心出来たのは、熱心なクリスチャン女性の励ましがあったからですが、伝道集会の講師が語られた「放蕩息子」の話に、自分を重ね合わせたからでした。

 自分のしたことは、この放蕩息子以上の大きな罪だと言いました。そして、罪を告白するといって、ノート1ページにびっしりと、それまでに犯したということを書いて持って来られました。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(第一ヨハネ書1章9節)とあるように、その男性の罪を神が赦してくださったと信じます。

 そして、バプテスマを受けるとき、「今はホームレスをしているけれども、バプテスマを受けて生まれ変わり、一日も早くもとの生活に戻りたい。それが私の本当の悔い改めだと思っている。できれば、仕事をして蓄えを作り、住まいを確保して、他のホームレスを助けられるようになりたい」と語ってくれました。

 バプテスマを受けてから、数ヵ月後には、導かれて仕事が与えられ、それに伴って住まいも備えられました。この男性と同じような境遇の人が、すべて同じように導かれるわけではありません。むしろ、人々の善意に甘えて寸借を繰り返し、返済しないままおいでにならなくなるといったケースのほうが多いだろうと思います。

 思えば、教会が提供できるのは、お金や仕事などではなく、信仰と祈りです。それ以外のことはしないということでもありませんが、それが、最も必要な助けではないかと思います。

 かの男性が、「元の生活の戻ること、それが自分の真の悔い改めだ」と語り得たのは、私たちが何かを与えたからではありません。むしろ、何も差し上げませんでした。ただ一緒に聖書を学び、祈っただけでした。そして、御言葉を通して、放蕩の罪を赦してくださる神と出会ったのです。

 聖書の中の放蕩息子は、危機的状況の中で家を思い出し、帰る決断をします。そこにしか、自分の生きる道を見つけることが出来なかったのです。17節に、「彼は我に返って」とありますが、それこそ、しばらく我を忘れていた放蕩息子が、すべてを失い、危機に直面することで、我を取り戻したのです。

 しかし、財産の生前分与を受けて家を出るという親不孝をしたこの息子には(12,13節)、帰る「家」はありません。自分の罪を自覚した息子は、父親にその罪を侘び、そして、息子としてではなく、雇い人の一人にしてくれるように頼もうと考えました。それが冒頭の言葉(18,19節)です。その願いが聞かれるという自信もなかったでしょう。けれども、前述の通り、彼にはそれしか考えられなかったのです。

 ところが、家に帰った彼を待っていたのは、そんな彼の思いをはるかに超える父親の愛でした。雇い人にしてもらえれば恩の字だったのに、父親は息子にその言葉を言わせないで、すぐに最上の着物を着せ、靴を履かせ、家族のしるしの指輪を与えます(22節)。そして、肥えた子牛を屠らせ、祝宴の準備をさせました(23節)。そこに、父親の息子に対する深い愛が示されています。

 私たちの天の神は、この父親のようなお方なのだと、主イエスが教えてくださっています。そして、だれもが、天における大きな喜びの中に、この父なる神との交わりへと、絶えず招かれています。外で見物している必要はないのです。招きに応じて、喜びの輪に加わればよいのです。

 御言葉と祈りを通して、その恵みの世界に共に進ませていただきましょう。

 主よ、あなたのご愛を忘れ、見失って右往左往している愚かな僕を赦してください。いつもあなたの慈愛の御手のもとに留まらせてください。絶えずその恵みを豊かに味わわせてください。今、悩み苦しみの内におられる方々に主の恵み、喜び、平安が開き与えられますように。クリスマスがその善きときとなりますように。 アーメン




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